言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2014'01.08.Wed
「幾ら土地が十分あるからって言っても、もうちょっと本社の近くでいいんじゃないかなぁ……」
新しくできた工場の真新しい外観を眺めて、アルミンは深く溜息をついた。製品を運ぶために十分な道路に広大な土地、更に工場を運用するに十分な従業員の確保。諸々の条件が一致した上でこの山の奥に工場が新設されたことはアルミンも十分すぎるほどわかってはいるが、個人的な感情としては喜んで来たい場所ではない。背の高い木に囲まれた道は道路が舗装されていることだけが唯一現代を感じられるところで、信号もなければガードレールもなく、ただひたすら山の中を抜けて行った先に、まるで木々に隠されているかのように巨大な工場が姿を現す。そうでなくても車の運転は得意とは言えないアルミンがひとりでここまでくるのは、やや神経をすり減らすことでもあった。とはいえ、企画から関わったアルミンが、完成した工場を見に行かないわけにはいかない。
できればもう二度と来たくないものだ、と思いながら、責任者と別れて車に乗った。これからまた時間をかけたドライブをして本社に戻らなければならないのかと思うと気が重い。一本道がありがたいと思えたのは道半ばまでだ。カーナビでは道なき道を走っていることになってしまう山中は、それだけ刺激がなく、注意力が散漫になる。カーナビのラジオもテレビも入らず、会社の車には好きなCDも積んでいない。時間は倍に感じられ、極端な急カーブなどはなかったが、どうにも不安になるのだった。
「こんな場所、二度と来ないんだから!」
賃金格差が悪いのだ、生産過程にあれほどスペースが必要だろうか、とぐだぐだ思考しながら山を降りていく。考えることしか時間を埋める術がない。行けども行けども、道の両側に立派な木が立ち並ぶ風景は代わり映えしなかった。
こういうものは大抵行きよりも帰りの方が早く感じるものだ。しかしアルミンの感覚を裏切るように、道はどこまでも続いている。
永遠に続くのではなかろうか、とうんざりした頃、ようやく道の向こうで木の並びが途切れているのが見えた。やっと麓まできたか、と車を進め、フロントガラスいっぱいに広がった光景に、アルミンは思わず急ブレーキを踏んだ。がくんと大きく車体を揺らし、強引に止めた車のサイドブレーキを引いてアルミンは運転席から飛び出す。
――そこは、スタート地点であったはずの工場だった。
我が目を疑うアルミンは何度も目をこすったが、どう誤魔化そうとも、その門に掲げられたのは自社の看板に間違いない。アルミンはしばらく呆然と立ち尽くし、鳥の声にはっとさせられてすぐに車に戻った。車のエンジンを一旦切り、カーナビをのぞきこむ。そうしてから、自社の新設工場はまだ地図に反映されていないことを思い出し、ディスプレイに浮かぶ山中をさまよう図に頭を垂れた。
――一本道のはずだった。出発前にカーナビで検索して困っていたアルミンに、山に入れば真っ直ぐだからと教えてくれたのは直属の上司で、何より、来るときにそのことは自分で確認した。間違いなく、分かれ道のない道だった。
ふと頭をよぎるのは、地元に伝わる昔話。この辺りを地元の人間は「狐峠」などと呼ぶ。弧狸に化かされたという話がいくつも残っており、工事の際も不可解なことがあったのだという。それは大して支障のでるものではなかったので誰かのうっかりだろうと言うことになったが、もしかしたら狐に化かされたのかもしれないな、などと笑い話をしたらしい。
アルミンはゆっくり深呼吸をする。動揺で少し乱れた心拍が落ち着くのを待って、カーナビの電源も一度切った。改めて起動したカーナビに目的地を設定し直し、再びエンジンをかける。
――馬鹿馬鹿しい。
先ほどと同じように車を走らせる。代わり映えのない景色に目を走らせ、確かに山を下っていることを確認しながら。
カーナビに表示される目的地までかかる時間も確実に減っていて、相変わらず道なき道を突き進んではいるが問題なく動いている。
またしても永遠に道が続くのではないか、と心が折れそうになった頃、やっと道が開けた。緊張するアルミンの視界に映るのは、山の入り口にあった小さな喫茶店だ。感嘆の声を上げてアクセルを踏み、アルミンはやや強引に駐車場に滑り込む。カーナビにはやっと道が表示され、アルミンは肩を落として深く溜息をついた。
――そうだ、あるはずがない。きっとうつらうつらとしてしまったのだろう。この先は他の車も通るようになる。コーヒーでも飲んで休もうと、アルミンは車を降りて喫茶店に入った。
「いらっしゃい」
無愛想な声が飛んだが、アルミンは気にしなかった。カウンターから背の高い女が立ち上がり、エプロンも何もしていなかったが店員であるらしい。窓側の席にアルミンが座ると彼女は黙って水を持ってきた。アルミンもメニューを見ずにコーヒーを頼む。普段であれば気になるところだが、復唱も声かけもせずテーブルを離れた女に安堵した。改めて、アルミンは俯いて腹の底から溜息をついた。動揺も不安も吐き出してしまいたい。
女はやはり黙ってコーヒーを持ってきた。そばかすの浮いた化粧っけのない女は目つきも悪く、アルミンを睨むようだったが、今は田舎の人間の親しさに触れたくなかったアルミンには丁度よかった。
――もう二度と、こんなところに来るものか。
流し込んだ熱いコーヒーは思っていたよりもおいしかった。近所であればまた来てもいいと思えただろう。
――そんなことを考えたせいだろうか、二度目は二週間後だった。あの不可解なことをようやく忘れた頃、また行ってほしいと上司から呼び出しがかかったのだ。想定していたほどスムーズに作業が進まず、流れ作業の行程や作業場の位置を見直すことになるかもしれない、とのことだった。なぜ自分が、と言えるのならば、どれほどよかったか。自分が手がけたものを、これほど恨んだことはない。
しかし考えようによっては自業自得だ。従来の流れを基準にするだけではなく、もっと製品の特徴を考える必要があった。ミスとも言える。反省で自分を誤魔化して、アルミンは再びあの山の中の工事へ出発した。帰りにあのコーヒーを飲んで帰ろう、そう自分に言い聞かせた。
いざ行ってみると、生産の非効率は人の問題だった。今回の件で昇格した責任者が期待や仕事、慣れない環境に振り回されていたようである。休憩室で泣きじゃくる後輩に、これはもう何度か来ることになりそうだと、アルミンは窓の外の自然を複雑な気持ちで眺めていた。
ああ、コンクリートジャングルが恋しい。生まれも育ちも都会とは言えないが、大学入学と同時に家を出て上京したアルミンには田舎暮らしは考えられなかった。
どうにか立ち直りを見せた彼にプライベートの連絡先も教えておいた。こんな田舎まで再び来ることを考えれば、休日に電話がかかってくることなど些細なことだ。
彼のため、会社のため、そして何より自分の為に、アルミンは誠心誠意彼に応え、工場を出た。
車に乗り込み、エンジンをかける一瞬にためらう。しかし見送りのため後輩がそこで待っていて、発進しないわけには行かない。諦めてエンジンをかけ、窓の外に手を振ってアルミンはアクセルを踏んだ。
そしてまた、山を下る。来るときは何ともなかった道だ、帰りだって異変があるはずがない。今日は自宅から適当にCDを持ってきて、家族のものだが気晴らしにもなった。わからないなりに口ずさんだりガムを噛んだりして誤魔化していれば、やがてあの喫茶店が見えてくる。来たときよりもずっと早く感じる道に、ほっと息を吐いた。やはりあの日は疲れていただけに違いない。
先日よりは落ち着いて車を駐車場に止めた。今日は穏やかな気分でコーヒーを堪能することができるだろう。ドアを開けると、アルミンの耳に飛び込んだのは記憶よりもずっと明るい声だった。
「いらっしゃい!」
アルミンを振り返ったのは、笑顔のさわやかな青年だった。少し戸惑ったものの、田舎の喫茶店だって従業員ぐらいいるだろう、と考え直す。もしかしたらこちらが店長なのかもしれない。いかにも接客向きの笑顔だ。
他に客の姿はなく、アルミンはまた窓側の席に着いた。店員が近づく前に、コーヒーを、と声をかける。気持ちよく応じた彼はそのままカウンターに向かった。
今日は帰ったらゆっくり風呂に入ろう。疲れを取ることも仕事のうちだ。そんな当たり障りのないことを考えていると、コーヒーが運ばれてきた。カップから立ち上る湯気がいい匂いを広げている。
「どうぞ」
「ありがとう」
涼しげな目元はそばで見ると印象より鋭い。しかし榛の瞳は柔らかく、アルミンの視線に気づいた彼はにこりと笑う。どこか枯れ草にも似た髪の色は、しかしあたたかそうだ。すらりと背が高く、こんな田舎にいるには勿体ない。
さぞかしモテるのだろうな、とテーブルを離れる後ろ姿を何となしに目で追って、アルミンはぎょっとして目を見開いた。彼の薄い尻を隠すかのように、黄金色のたっぷりとした尻尾が揺れている。しかしそう見えたのは一瞬で、まばたきをした後にはもうデニムをはきこなした尻しか見えなかった。
――早く帰ろう。
誰にでもなく頷いて、アルミンはコーヒーカップを手に取った。波打つ液体は深い色でアルミンを落ち着かせる。カップに口を付け、――次の瞬間吐き出した。口の中に広がる泥臭さにどこか呆然とコーヒーカップを見下ろせば、そこに沈むのはどう見ても泥水だ。縁の欠けたカップを見て呆然とするアルミンのそばで、弾けるような笑い声が響く。ぎょっとして顔を上げ、アルミンは更に目を疑った。
視界いっぱいに立派な木が連立している。尻の下には冷たい石、そこには喫茶店など影も形もなく、男もいない。
「あんた、何してんの?」
「わあっ!」
声をかけられて飛び上がった。慌てて振り返ると、車のそばに、前に喫茶店で見たそばかすの女性が眉をひそめて立っている。アルミンははっとして汚れたカップと彼女を見比べた。その様子に、彼女は呆れた様子で溜息をつく。
「久しぶりに見たよ、狐に化かされたやつ」
助手席に乗せた彼女はユミルと名乗った。ユミルが言うには、狐に化かされる話は昔話ばかりではないらしい。ユミル自身は経験したことはないのでよく知らないが、とからかわれるように付け加えられ、アルミンはハンドルを握りながらまだ土臭さの残る唇を噛む。
アルミンが最低限認めなければならないのは、自分は喫茶店など何もない道の途中で車を止め、汚れたコーヒーカップて泥水を飲もうとしていたといえ現実だった。
「山売るときに随分ジジババに言われたぜ、狐に祟られるとか何とか」
「……山、とは、あの工場ですか」
「そう。ま、狐じゃ飯は食えないからな」
ちなみにユミルは薪を取りに行った帰りだという。この間は気づかなかったが、あの喫茶店には暖炉があるらしい。
――つまり、彼女がこの山の地主であるらしい。土地交渉は代理人と行ったので知らなかった。あの喫茶店は暇潰しだという。
間もなく、件の喫茶店が見えてきた。今度は間違いないだろうか、と疑うアルミンの隣でユミルが笑う。
「生まれてからずっとここにいるけど、狐に化かされたことなんかないよ。ありがとな、乗せてくれて。口直しにコーヒー入れてやるよ」
ありがたくいただくことにして、アルミンも車を降りた。トランクから下ろした薪を手に、ユミルが喫茶店のドアを開ける。
「ただいま!ジャン、コーヒー落としてくれ」
「お帰りユミル」
ユミルに続いたアルミンは、店内から帰ってきた声に息を飲んだ。ぎこちなく首を回し、ユミルを迎えて出てきたその人を見る。榛色の瞳が、アルミンを見つめた。
「お客さん?いらっしゃい」
笑う彼に、泥の味を思い出した。硬直するアルミンをユミルが怪訝な顔で振り返り、慌てて平静を装う。
窓側のテーブルでアルミンが待っていると、ユミルの代わりにコーヒーを持ってきたのは彼だった。目の前に置かれたカップを見つめるアルミンに、彼は笑って顔を寄せる。
「今度はちゃんとうまいぜ」
顔を上げたアルミンの視界の端に、狐色の尻尾が踊った。
新しくできた工場の真新しい外観を眺めて、アルミンは深く溜息をついた。製品を運ぶために十分な道路に広大な土地、更に工場を運用するに十分な従業員の確保。諸々の条件が一致した上でこの山の奥に工場が新設されたことはアルミンも十分すぎるほどわかってはいるが、個人的な感情としては喜んで来たい場所ではない。背の高い木に囲まれた道は道路が舗装されていることだけが唯一現代を感じられるところで、信号もなければガードレールもなく、ただひたすら山の中を抜けて行った先に、まるで木々に隠されているかのように巨大な工場が姿を現す。そうでなくても車の運転は得意とは言えないアルミンがひとりでここまでくるのは、やや神経をすり減らすことでもあった。とはいえ、企画から関わったアルミンが、完成した工場を見に行かないわけにはいかない。
できればもう二度と来たくないものだ、と思いながら、責任者と別れて車に乗った。これからまた時間をかけたドライブをして本社に戻らなければならないのかと思うと気が重い。一本道がありがたいと思えたのは道半ばまでだ。カーナビでは道なき道を走っていることになってしまう山中は、それだけ刺激がなく、注意力が散漫になる。カーナビのラジオもテレビも入らず、会社の車には好きなCDも積んでいない。時間は倍に感じられ、極端な急カーブなどはなかったが、どうにも不安になるのだった。
「こんな場所、二度と来ないんだから!」
賃金格差が悪いのだ、生産過程にあれほどスペースが必要だろうか、とぐだぐだ思考しながら山を降りていく。考えることしか時間を埋める術がない。行けども行けども、道の両側に立派な木が立ち並ぶ風景は代わり映えしなかった。
こういうものは大抵行きよりも帰りの方が早く感じるものだ。しかしアルミンの感覚を裏切るように、道はどこまでも続いている。
永遠に続くのではなかろうか、とうんざりした頃、ようやく道の向こうで木の並びが途切れているのが見えた。やっと麓まできたか、と車を進め、フロントガラスいっぱいに広がった光景に、アルミンは思わず急ブレーキを踏んだ。がくんと大きく車体を揺らし、強引に止めた車のサイドブレーキを引いてアルミンは運転席から飛び出す。
――そこは、スタート地点であったはずの工場だった。
我が目を疑うアルミンは何度も目をこすったが、どう誤魔化そうとも、その門に掲げられたのは自社の看板に間違いない。アルミンはしばらく呆然と立ち尽くし、鳥の声にはっとさせられてすぐに車に戻った。車のエンジンを一旦切り、カーナビをのぞきこむ。そうしてから、自社の新設工場はまだ地図に反映されていないことを思い出し、ディスプレイに浮かぶ山中をさまよう図に頭を垂れた。
――一本道のはずだった。出発前にカーナビで検索して困っていたアルミンに、山に入れば真っ直ぐだからと教えてくれたのは直属の上司で、何より、来るときにそのことは自分で確認した。間違いなく、分かれ道のない道だった。
ふと頭をよぎるのは、地元に伝わる昔話。この辺りを地元の人間は「狐峠」などと呼ぶ。弧狸に化かされたという話がいくつも残っており、工事の際も不可解なことがあったのだという。それは大して支障のでるものではなかったので誰かのうっかりだろうと言うことになったが、もしかしたら狐に化かされたのかもしれないな、などと笑い話をしたらしい。
アルミンはゆっくり深呼吸をする。動揺で少し乱れた心拍が落ち着くのを待って、カーナビの電源も一度切った。改めて起動したカーナビに目的地を設定し直し、再びエンジンをかける。
――馬鹿馬鹿しい。
先ほどと同じように車を走らせる。代わり映えのない景色に目を走らせ、確かに山を下っていることを確認しながら。
カーナビに表示される目的地までかかる時間も確実に減っていて、相変わらず道なき道を突き進んではいるが問題なく動いている。
またしても永遠に道が続くのではないか、と心が折れそうになった頃、やっと道が開けた。緊張するアルミンの視界に映るのは、山の入り口にあった小さな喫茶店だ。感嘆の声を上げてアクセルを踏み、アルミンはやや強引に駐車場に滑り込む。カーナビにはやっと道が表示され、アルミンは肩を落として深く溜息をついた。
――そうだ、あるはずがない。きっとうつらうつらとしてしまったのだろう。この先は他の車も通るようになる。コーヒーでも飲んで休もうと、アルミンは車を降りて喫茶店に入った。
「いらっしゃい」
無愛想な声が飛んだが、アルミンは気にしなかった。カウンターから背の高い女が立ち上がり、エプロンも何もしていなかったが店員であるらしい。窓側の席にアルミンが座ると彼女は黙って水を持ってきた。アルミンもメニューを見ずにコーヒーを頼む。普段であれば気になるところだが、復唱も声かけもせずテーブルを離れた女に安堵した。改めて、アルミンは俯いて腹の底から溜息をついた。動揺も不安も吐き出してしまいたい。
女はやはり黙ってコーヒーを持ってきた。そばかすの浮いた化粧っけのない女は目つきも悪く、アルミンを睨むようだったが、今は田舎の人間の親しさに触れたくなかったアルミンには丁度よかった。
――もう二度と、こんなところに来るものか。
流し込んだ熱いコーヒーは思っていたよりもおいしかった。近所であればまた来てもいいと思えただろう。
――そんなことを考えたせいだろうか、二度目は二週間後だった。あの不可解なことをようやく忘れた頃、また行ってほしいと上司から呼び出しがかかったのだ。想定していたほどスムーズに作業が進まず、流れ作業の行程や作業場の位置を見直すことになるかもしれない、とのことだった。なぜ自分が、と言えるのならば、どれほどよかったか。自分が手がけたものを、これほど恨んだことはない。
しかし考えようによっては自業自得だ。従来の流れを基準にするだけではなく、もっと製品の特徴を考える必要があった。ミスとも言える。反省で自分を誤魔化して、アルミンは再びあの山の中の工事へ出発した。帰りにあのコーヒーを飲んで帰ろう、そう自分に言い聞かせた。
いざ行ってみると、生産の非効率は人の問題だった。今回の件で昇格した責任者が期待や仕事、慣れない環境に振り回されていたようである。休憩室で泣きじゃくる後輩に、これはもう何度か来ることになりそうだと、アルミンは窓の外の自然を複雑な気持ちで眺めていた。
ああ、コンクリートジャングルが恋しい。生まれも育ちも都会とは言えないが、大学入学と同時に家を出て上京したアルミンには田舎暮らしは考えられなかった。
どうにか立ち直りを見せた彼にプライベートの連絡先も教えておいた。こんな田舎まで再び来ることを考えれば、休日に電話がかかってくることなど些細なことだ。
彼のため、会社のため、そして何より自分の為に、アルミンは誠心誠意彼に応え、工場を出た。
車に乗り込み、エンジンをかける一瞬にためらう。しかし見送りのため後輩がそこで待っていて、発進しないわけには行かない。諦めてエンジンをかけ、窓の外に手を振ってアルミンはアクセルを踏んだ。
そしてまた、山を下る。来るときは何ともなかった道だ、帰りだって異変があるはずがない。今日は自宅から適当にCDを持ってきて、家族のものだが気晴らしにもなった。わからないなりに口ずさんだりガムを噛んだりして誤魔化していれば、やがてあの喫茶店が見えてくる。来たときよりもずっと早く感じる道に、ほっと息を吐いた。やはりあの日は疲れていただけに違いない。
先日よりは落ち着いて車を駐車場に止めた。今日は穏やかな気分でコーヒーを堪能することができるだろう。ドアを開けると、アルミンの耳に飛び込んだのは記憶よりもずっと明るい声だった。
「いらっしゃい!」
アルミンを振り返ったのは、笑顔のさわやかな青年だった。少し戸惑ったものの、田舎の喫茶店だって従業員ぐらいいるだろう、と考え直す。もしかしたらこちらが店長なのかもしれない。いかにも接客向きの笑顔だ。
他に客の姿はなく、アルミンはまた窓側の席に着いた。店員が近づく前に、コーヒーを、と声をかける。気持ちよく応じた彼はそのままカウンターに向かった。
今日は帰ったらゆっくり風呂に入ろう。疲れを取ることも仕事のうちだ。そんな当たり障りのないことを考えていると、コーヒーが運ばれてきた。カップから立ち上る湯気がいい匂いを広げている。
「どうぞ」
「ありがとう」
涼しげな目元はそばで見ると印象より鋭い。しかし榛の瞳は柔らかく、アルミンの視線に気づいた彼はにこりと笑う。どこか枯れ草にも似た髪の色は、しかしあたたかそうだ。すらりと背が高く、こんな田舎にいるには勿体ない。
さぞかしモテるのだろうな、とテーブルを離れる後ろ姿を何となしに目で追って、アルミンはぎょっとして目を見開いた。彼の薄い尻を隠すかのように、黄金色のたっぷりとした尻尾が揺れている。しかしそう見えたのは一瞬で、まばたきをした後にはもうデニムをはきこなした尻しか見えなかった。
――早く帰ろう。
誰にでもなく頷いて、アルミンはコーヒーカップを手に取った。波打つ液体は深い色でアルミンを落ち着かせる。カップに口を付け、――次の瞬間吐き出した。口の中に広がる泥臭さにどこか呆然とコーヒーカップを見下ろせば、そこに沈むのはどう見ても泥水だ。縁の欠けたカップを見て呆然とするアルミンのそばで、弾けるような笑い声が響く。ぎょっとして顔を上げ、アルミンは更に目を疑った。
視界いっぱいに立派な木が連立している。尻の下には冷たい石、そこには喫茶店など影も形もなく、男もいない。
「あんた、何してんの?」
「わあっ!」
声をかけられて飛び上がった。慌てて振り返ると、車のそばに、前に喫茶店で見たそばかすの女性が眉をひそめて立っている。アルミンははっとして汚れたカップと彼女を見比べた。その様子に、彼女は呆れた様子で溜息をつく。
「久しぶりに見たよ、狐に化かされたやつ」
助手席に乗せた彼女はユミルと名乗った。ユミルが言うには、狐に化かされる話は昔話ばかりではないらしい。ユミル自身は経験したことはないのでよく知らないが、とからかわれるように付け加えられ、アルミンはハンドルを握りながらまだ土臭さの残る唇を噛む。
アルミンが最低限認めなければならないのは、自分は喫茶店など何もない道の途中で車を止め、汚れたコーヒーカップて泥水を飲もうとしていたといえ現実だった。
「山売るときに随分ジジババに言われたぜ、狐に祟られるとか何とか」
「……山、とは、あの工場ですか」
「そう。ま、狐じゃ飯は食えないからな」
ちなみにユミルは薪を取りに行った帰りだという。この間は気づかなかったが、あの喫茶店には暖炉があるらしい。
――つまり、彼女がこの山の地主であるらしい。土地交渉は代理人と行ったので知らなかった。あの喫茶店は暇潰しだという。
間もなく、件の喫茶店が見えてきた。今度は間違いないだろうか、と疑うアルミンの隣でユミルが笑う。
「生まれてからずっとここにいるけど、狐に化かされたことなんかないよ。ありがとな、乗せてくれて。口直しにコーヒー入れてやるよ」
ありがたくいただくことにして、アルミンも車を降りた。トランクから下ろした薪を手に、ユミルが喫茶店のドアを開ける。
「ただいま!ジャン、コーヒー落としてくれ」
「お帰りユミル」
ユミルに続いたアルミンは、店内から帰ってきた声に息を飲んだ。ぎこちなく首を回し、ユミルを迎えて出てきたその人を見る。榛色の瞳が、アルミンを見つめた。
「お客さん?いらっしゃい」
笑う彼に、泥の味を思い出した。硬直するアルミンをユミルが怪訝な顔で振り返り、慌てて平静を装う。
窓側のテーブルでアルミンが待っていると、ユミルの代わりにコーヒーを持ってきたのは彼だった。目の前に置かれたカップを見つめるアルミンに、彼は笑って顔を寄せる。
「今度はちゃんとうまいぜ」
顔を上げたアルミンの視界の端に、狐色の尻尾が踊った。
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2013'12.27.Fri
「っは〜……だっる……」
もう若くねえなぁ、と思わずこぼし、山崎は崩れ落ちそうな体を引きずってどうにか自室に帰りついた。布団を敷いたまま出かけたのは正解だったと自分を褒める。例え布団や畳が傷もうとも、帰宅してそのまま眠れるのならそれも些細なことだった。明かりをつける間も惜しんで汚れた服を脱ぎ捨てて、さっさと着替えて布団に潜り込む。寒さには強い方だが、さすがに堪える季節になった。身を委ねるのをためらうほど布団はひやりとしている。布団の中で身震いするが、一刻でも早く眠りたくて体を抱いた。
しかし思っていたよりも、布団はほんのりと温かい気がする。それとも自分がそれほど冷えているのだろうか。
――ああ、嫌な季節だ。
もう二度と気温が下がることはないのではないかと危惧するほど暑かった夏は、じりじりと粘っていた割にはあっさりと役目を譲っていった。堪え性のない秋は、早くも冬に押されてろくに楽しませてもくれない。
尤も、山崎には季節を楽しむ余裕など一切なかった。ろくな家財のない貧乏長屋でひと月近くの張り込みは、向かいの家の瓦を数え続ける日々でもあった。
血と汗のにおいが鼻につき、帰ったら湯を浴びようと考えていたことを思い出す。しかし山崎はもう両目も伏せて、脳がどれほど信号を送っても、体に届く気がしない。気にしないと決めた山崎の鼻は、また別のにおいをかぎつけた。何だろうか、と考えているうちに睡魔が思考を奪っていく。
ああ、これは、干した布団のにおいだ。
翌朝、悲しいかな、怒鳴られるまで眠ってやろうと思っていた山崎の眠りは、耐えがたいほどの空腹で体を起こした。寝起きだというのにぐるぐると唸る腹の虫に顔をしかめて布団から這い出る。昨日散々走り回った体はまだ疲労を残していたが、起きたからには回復のためにも何か腹に詰め込みたい。屯所の気配を伺うとまだ早い時間のようだ。目が覚めたことを惜しむが仕方ない。山崎はあくびをかみ殺しながら着物を直し、部屋を出て食事に向かう。
「はぁ〜」
吐く息が白い。冷たい廊下を歩いていると、向かいからイヤホンを振り回しながら沖田がやってくる。
「ヨォ山崎、生きてたか」
「お帰りなさい。そっちも片づきましたか」
「多分」
「多分?」
「終わりそうだから帰ってきた」
「……また、副長に怒られますよ」
「知るか。……お前、くせぇな」
「はは、臭いますか」
「くせぇ。それで飯食いにきたらたたっ切るからな」
「ええ〜、俺腹の虫に起こされたのに〜」
しかしいつものポーカーフェイスをわずかにしかめた沖田は、問答無用で有言実行するだろう。しぶしぶ先に体を流すことにして部屋へ引き返す。朝の空気は身に刺すようで、まあ先に体をあたためるのも悪くない、と前向きに考えることにした。
部屋に戻ってまず目についたのは、昨日脱ぎ散らかした着物だった。なぜ起きたときに気づかなかったのか不思議なほど、強烈なにおいを発している。
あれだけ汗をかき、血を被れば当然といえば当然だ。とても他のものとは一緒に洗えない。せめて湯に浸けておこう、と着替えと一緒に掴み、風呂場へ向かう。
「おはよー」
「あっ、山崎さんおはようございます、お帰りなさい!風呂ですか?」
風呂場の前で会った後輩はどこか急いでいて、山崎を見てほっと息を吐いたようだった。どうしたのかと口を開きかけたところで、彼が山崎の腕にすがりつく。
「山崎さん!お願いがあります!」
「えっ、嫌」
「手が回ってないんで風呂掃除お願いします!」
「はぁ!?」
山崎が捕まえるより早く彼は素早く逃げ出した。あっという間に消えてしまった後輩を恨むも、そもそも自分に威厳がないせいだろうか、とすぐに諦めた。何か面倒な仕事でも押しつけられたのだろう。簡単に風呂掃除といっても屯所の風呂は一般家庭の広さとは違う。おまけに男ばかりが使うので、決してきれいとは言いがたい。まめな数人が頑張った程度ではいつでもきれいにとはいかなかった。普段なら山崎も気をつけるが、今日は手早く済ませると決めて、さっさと掃除に取りかかる。何も悪いことばかりではない。大手を振って一番風呂に入ることができるのだ。
――そして掃除が終わった頃に、幹部が風呂場に入ってくるのはよくあることだった。山崎が一番風呂に入ることができたのは数えるほどだ。とはいえ、いつもは快活な近藤が疲労を見せてやってきては、山崎でなくとも何も言えまい。
「局長お疲れ様です!」
「おー、山崎戻ってたか。張り込みご苦労だったな」
「いえ。どうぞ、ちょうど湧いたところですからごゆっくり」
「山崎はいいのか?」
「先に食事もらいますんで」
今回の捕り物は人数が多く流石に近藤も疲れたようだ。すまんなぁ、と謝る近藤に笑って見せて、近藤が休めるように風呂場を出る。もう沖田も食事を終えただろうから、今行っても追い出されることはないだろう。大体あの人は鼻がよすぎるのだ、とぼやきながら食事に向かう。
「あ、山崎さん!」
食堂に入るなり、袖を引かれて嫌な予感がする。振り返らずに中へ向かおうとするのに、逆にしっかりと腕を掴まれた。
「台所足りないんです!」
「俺だって腹ペコだよ!」
「さっきで全員帰ってきてみんなして食堂になだれ込んできてるんですよ!」
「もうやだ〜!」
結局台所に立たされた山崎は食欲旺盛な男たちの食事をどっさり作った後、自分の口に入らないまま台所を出た。他の隊士に謝られ、彼が今コンビニに山崎の分を買いに走ってくれている。
すっかりふてくされた山崎は、この際だからこのまま働いてやろうと、庭にたらいを持ち出して昨日汚れた服を洗っている。泥と血にまみれたそれは何度水を変えてもなかなかきれいにならない。
「……山崎!」
「はい?」
縁側から叫ばれて振り返れば、なぜか土方がこちらを全力で睨みつけている。何かしただろうか、と必死で振り返る。報告はまだだがそれはいつものことで、何より土方も随分疲れている様子だ。それほど手を焼く相手だったのだろうか。
殴られる準備をして山崎が身構えているが何もなく、ただ土方の深い溜息が聞こえる。恐る恐るそちらを見れば、顔にジャケットが投げられた。
「わっ」
「それも洗っとけ!」
「えー!ジャケットはクリーニング、うっわぁ、血でぼとぼと……」
土方を見れば忌々しげに顔をしかめ、煙草を咥えて火をつける。
「オメーは屯所の中でも隠れんぼか。どこ行ってもいやしねぇ」
「え?」
「なんでもねぇ」
「山崎さ〜ん、朝飯買ってきました〜」
コンビニの袋をぶら下げて後輩が帰ってきた。待ってました、と山崎はジャケットをたらいに投げて手を洗う。土方に気づいた後輩が慌てて挨拶をした。
「あ、そういえば、山崎さん昨日はよく寝れましたか?副長に頼まれて布団干しておいたんです」
屈託のない後輩の笑みに、土方の口から煙草が落ちた。山崎がそちらを見ると顔をそらされる。それに気づかずに後輩は他の買い出しと一緒に台所に戻っていった。あの鈍感さでは少なくとも監察に来ることはないだろう。
「副長」
「……何だ」
「俺、これから飯食って風呂入るんですけど、それからお部屋に伺ってもいいですか」
「たりめーだ、報告聞かなきゃなんねえからな」
「あ、ハイ……」
ですよね、と肩を落とすが、またどうしようもなく笑いがこみあげた。
世界はまだまだ生臭い。それでも、山崎はこの人がいるから笑えるのだ。
もう若くねえなぁ、と思わずこぼし、山崎は崩れ落ちそうな体を引きずってどうにか自室に帰りついた。布団を敷いたまま出かけたのは正解だったと自分を褒める。例え布団や畳が傷もうとも、帰宅してそのまま眠れるのならそれも些細なことだった。明かりをつける間も惜しんで汚れた服を脱ぎ捨てて、さっさと着替えて布団に潜り込む。寒さには強い方だが、さすがに堪える季節になった。身を委ねるのをためらうほど布団はひやりとしている。布団の中で身震いするが、一刻でも早く眠りたくて体を抱いた。
しかし思っていたよりも、布団はほんのりと温かい気がする。それとも自分がそれほど冷えているのだろうか。
――ああ、嫌な季節だ。
もう二度と気温が下がることはないのではないかと危惧するほど暑かった夏は、じりじりと粘っていた割にはあっさりと役目を譲っていった。堪え性のない秋は、早くも冬に押されてろくに楽しませてもくれない。
尤も、山崎には季節を楽しむ余裕など一切なかった。ろくな家財のない貧乏長屋でひと月近くの張り込みは、向かいの家の瓦を数え続ける日々でもあった。
血と汗のにおいが鼻につき、帰ったら湯を浴びようと考えていたことを思い出す。しかし山崎はもう両目も伏せて、脳がどれほど信号を送っても、体に届く気がしない。気にしないと決めた山崎の鼻は、また別のにおいをかぎつけた。何だろうか、と考えているうちに睡魔が思考を奪っていく。
ああ、これは、干した布団のにおいだ。
翌朝、悲しいかな、怒鳴られるまで眠ってやろうと思っていた山崎の眠りは、耐えがたいほどの空腹で体を起こした。寝起きだというのにぐるぐると唸る腹の虫に顔をしかめて布団から這い出る。昨日散々走り回った体はまだ疲労を残していたが、起きたからには回復のためにも何か腹に詰め込みたい。屯所の気配を伺うとまだ早い時間のようだ。目が覚めたことを惜しむが仕方ない。山崎はあくびをかみ殺しながら着物を直し、部屋を出て食事に向かう。
「はぁ〜」
吐く息が白い。冷たい廊下を歩いていると、向かいからイヤホンを振り回しながら沖田がやってくる。
「ヨォ山崎、生きてたか」
「お帰りなさい。そっちも片づきましたか」
「多分」
「多分?」
「終わりそうだから帰ってきた」
「……また、副長に怒られますよ」
「知るか。……お前、くせぇな」
「はは、臭いますか」
「くせぇ。それで飯食いにきたらたたっ切るからな」
「ええ〜、俺腹の虫に起こされたのに〜」
しかしいつものポーカーフェイスをわずかにしかめた沖田は、問答無用で有言実行するだろう。しぶしぶ先に体を流すことにして部屋へ引き返す。朝の空気は身に刺すようで、まあ先に体をあたためるのも悪くない、と前向きに考えることにした。
部屋に戻ってまず目についたのは、昨日脱ぎ散らかした着物だった。なぜ起きたときに気づかなかったのか不思議なほど、強烈なにおいを発している。
あれだけ汗をかき、血を被れば当然といえば当然だ。とても他のものとは一緒に洗えない。せめて湯に浸けておこう、と着替えと一緒に掴み、風呂場へ向かう。
「おはよー」
「あっ、山崎さんおはようございます、お帰りなさい!風呂ですか?」
風呂場の前で会った後輩はどこか急いでいて、山崎を見てほっと息を吐いたようだった。どうしたのかと口を開きかけたところで、彼が山崎の腕にすがりつく。
「山崎さん!お願いがあります!」
「えっ、嫌」
「手が回ってないんで風呂掃除お願いします!」
「はぁ!?」
山崎が捕まえるより早く彼は素早く逃げ出した。あっという間に消えてしまった後輩を恨むも、そもそも自分に威厳がないせいだろうか、とすぐに諦めた。何か面倒な仕事でも押しつけられたのだろう。簡単に風呂掃除といっても屯所の風呂は一般家庭の広さとは違う。おまけに男ばかりが使うので、決してきれいとは言いがたい。まめな数人が頑張った程度ではいつでもきれいにとはいかなかった。普段なら山崎も気をつけるが、今日は手早く済ませると決めて、さっさと掃除に取りかかる。何も悪いことばかりではない。大手を振って一番風呂に入ることができるのだ。
――そして掃除が終わった頃に、幹部が風呂場に入ってくるのはよくあることだった。山崎が一番風呂に入ることができたのは数えるほどだ。とはいえ、いつもは快活な近藤が疲労を見せてやってきては、山崎でなくとも何も言えまい。
「局長お疲れ様です!」
「おー、山崎戻ってたか。張り込みご苦労だったな」
「いえ。どうぞ、ちょうど湧いたところですからごゆっくり」
「山崎はいいのか?」
「先に食事もらいますんで」
今回の捕り物は人数が多く流石に近藤も疲れたようだ。すまんなぁ、と謝る近藤に笑って見せて、近藤が休めるように風呂場を出る。もう沖田も食事を終えただろうから、今行っても追い出されることはないだろう。大体あの人は鼻がよすぎるのだ、とぼやきながら食事に向かう。
「あ、山崎さん!」
食堂に入るなり、袖を引かれて嫌な予感がする。振り返らずに中へ向かおうとするのに、逆にしっかりと腕を掴まれた。
「台所足りないんです!」
「俺だって腹ペコだよ!」
「さっきで全員帰ってきてみんなして食堂になだれ込んできてるんですよ!」
「もうやだ〜!」
結局台所に立たされた山崎は食欲旺盛な男たちの食事をどっさり作った後、自分の口に入らないまま台所を出た。他の隊士に謝られ、彼が今コンビニに山崎の分を買いに走ってくれている。
すっかりふてくされた山崎は、この際だからこのまま働いてやろうと、庭にたらいを持ち出して昨日汚れた服を洗っている。泥と血にまみれたそれは何度水を変えてもなかなかきれいにならない。
「……山崎!」
「はい?」
縁側から叫ばれて振り返れば、なぜか土方がこちらを全力で睨みつけている。何かしただろうか、と必死で振り返る。報告はまだだがそれはいつものことで、何より土方も随分疲れている様子だ。それほど手を焼く相手だったのだろうか。
殴られる準備をして山崎が身構えているが何もなく、ただ土方の深い溜息が聞こえる。恐る恐るそちらを見れば、顔にジャケットが投げられた。
「わっ」
「それも洗っとけ!」
「えー!ジャケットはクリーニング、うっわぁ、血でぼとぼと……」
土方を見れば忌々しげに顔をしかめ、煙草を咥えて火をつける。
「オメーは屯所の中でも隠れんぼか。どこ行ってもいやしねぇ」
「え?」
「なんでもねぇ」
「山崎さ〜ん、朝飯買ってきました〜」
コンビニの袋をぶら下げて後輩が帰ってきた。待ってました、と山崎はジャケットをたらいに投げて手を洗う。土方に気づいた後輩が慌てて挨拶をした。
「あ、そういえば、山崎さん昨日はよく寝れましたか?副長に頼まれて布団干しておいたんです」
屈託のない後輩の笑みに、土方の口から煙草が落ちた。山崎がそちらを見ると顔をそらされる。それに気づかずに後輩は他の買い出しと一緒に台所に戻っていった。あの鈍感さでは少なくとも監察に来ることはないだろう。
「副長」
「……何だ」
「俺、これから飯食って風呂入るんですけど、それからお部屋に伺ってもいいですか」
「たりめーだ、報告聞かなきゃなんねえからな」
「あ、ハイ……」
ですよね、と肩を落とすが、またどうしようもなく笑いがこみあげた。
世界はまだまだ生臭い。それでも、山崎はこの人がいるから笑えるのだ。
2013'12.27.Fri
「あ、お父さん」
車を降りた左近の第一声に、高坂は焦って窓の外を見た。左近の家の前に車が止まり、そこからひとりの男性が降りてきたところだ。中肉中背、特に目立つところもない優しそうな男性だ。左近の父親となると黙って帰るわけにはいかない。高坂が車を降りようとすると、左近が慌てて止めた。
「でも、挨拶ぐらい」
「やめた方がいいです、絶対!」
「いずれご挨拶に伺うつもりなんだ。今日逃げるように帰って印象を悪くしたくないしね」
「変わらないと思いますけどぉ〜……」
気の進まない様子の左近を伴って道を渡る。家の前の父親は途中でふたりに気づいて待っていた。左近の父親、ということは、川西総合病院の院長だ。少し緊張しながら高坂は姿勢を正す。近づいていくと男はまず左近に顔を向けた。
「お帰り左近」
「ただいま。お父さん今日早かったんだね」
「予定が延期になってね。そちらは?」
「え〜っと」
「初めまして、高坂陣内左衛門と言います」
「家内から話だけは。失礼ですが、お勤めはどちらに?」
「お父さん!」
「失礼しました。私、人材派遣の株式会社タソガレドキ、人事部に在籍しております」
名刺を出して差し出せば彼はそれを受け取り、社名を確かめる。かと思えば携帯を取り出し耳に当てた。だから言ったのに、左近のつぶやきに首を傾げる。
「……ああ、内藤くん?派遣のさ、そう。タソガレドキから来てる子みんなお断りしておいてくれる?うん、今日限りで」
「えっ!?」
「何か言われたら私に回して。じゃあよろしく」
「ちょっ、あの」
「今まで証拠がなかったんだけど、これで忍者絡みの会社だと確定したからね」
携帯をしまった川西は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「に、忍者とは?」
「左近とお付き合いしてるんだから忍者だろう?」
「あ……あの……」
「左近を送ってくれてありがとう。左近、きちんとお礼を言うんだよ」
「はぁーい」
家に入っていく父親を見送る左近は演技がかった返事をした。玄関のドアがしまり、呆然と立ち尽くす高坂を見上げる。
「だからやめた方がいいって言ったのに」
「……今……何が……」
「痛くもない腹を探られるのは不愉快なんですって。わざと一度中に入れてから判断するのがお父さんの趣味みたいなもので、お陰で人の入れ替わりが多くて病院大変ですよ」
「……今……えっ!?契約切られた!?」
「はい。容赦なく」
「なっ……なんでこうなると教えてくれなかったんだ!」
「お父さんの前で言えるわけないじゃないですか」
「ちょっ、ヤバい!」
高坂はばたばたと携帯を取り出し、焦る手つきで上司に電話をかける。その横で左近があ、と声を上げ、指で示されるままに振り返ると、――レッカー車。
「えっ、早っ!?え!?」
『高坂、どうした。今日は休みだろう』
「や、山本さん、今あの」
「車行っちゃいますよ」
「ま、待って」
『高坂?』
「レッカー車って初めて見ました。すごーい」
「あっ、あー!」
――後日、あんなに取り乱した高坂さんを見たのは初めてでした、と、左近は楽しげに言ったのだった。
*
「たいっへん申し訳ございません」
高坂は床に額を押しつけて、心の底から謝罪した。さすがの雑渡もいつものようにふざけることはなく、電話の相手に謝罪をしている。ひと段落ついて受話器を置いてから床に這いつくばるような高坂を見て、雑渡は深い溜息をついた。
「お前、何したの」
「名乗っただけです」
「元々試されてたわけね。まあなったものは仕方ない、あとで川西総合病院に直接行くからついておいで」
「申し訳ございません!」
「本人が出てくれるといいけど」
「申し訳ございません……」
床に伏せたまま、高坂はこのまま消えてしまいたかった。自分が消えてどうにかなるのならそれでいい。しかし事態はそう簡単ではなかった。
「山本」
「はい。資料を用意しておきます」
「そうして。全部話していくしかないだろうからねぇ。あそこの病院には後ろめたいことは何にもないから、切られちゃうと会社として困っちゃうよねぇ」
「重ね重ね、申し訳ごさまいません!」
「いいから這いつくばってないで電話の1本でも出て」
「はいっ!」
突然の契約解除にあちこちからクレームがきている。朝から鳴りやまない電話の中には関係のないいたずら電話もある。この大失態の責任をどうとればいいのかわからず、会社に駆けつけてから謝り続けている。左近にどうにかならないかと助言を求めたが、父の仕事の話ですから、とばっさり切り捨てられた。放心する高坂と別れてからさすがに心配はしてくれたのか、メールが届いたがどう返したか記憶が定かではない。
「陣左」
「はっ!」
立ち上がると雑渡の用意はできている。山本からいくつか必要な物を受け取り、ぎゅっと鞄を握った。
「……は〜、やだな〜、私仲人だってしたくないのに、何が悲しくて義理の親子の橋渡しを」
「くっ、組頭!」
「違うの?」
「あ……う……」
そうなるのだろうか。昨日見た左近の父親を思い出す。終始浮かべていた笑顔は、少なくとも怒っているようには見えなかった。まるで雑渡が飲み会を断るかのような気軽さにしか思えなかったが、あれはかわいい娘についた悪い虫への憤りを隠していたのだろうか。高坂は姉妹もなく、娘を持つ親の気持ちはわからない。しかしあれほどかわいい娘がいれば、そんな気持ちになるかもしれなかった。
川西総合病院まで足取りは重く、とはいえ、文明の利器である自動車は高坂の足取りに左右されずにアクセスを踏んだ分だけ道路を走る。いつもより速度を5キロほど落とした程度で、車は川を流れるように高坂たちを運んだ。
車を降りた左近の第一声に、高坂は焦って窓の外を見た。左近の家の前に車が止まり、そこからひとりの男性が降りてきたところだ。中肉中背、特に目立つところもない優しそうな男性だ。左近の父親となると黙って帰るわけにはいかない。高坂が車を降りようとすると、左近が慌てて止めた。
「でも、挨拶ぐらい」
「やめた方がいいです、絶対!」
「いずれご挨拶に伺うつもりなんだ。今日逃げるように帰って印象を悪くしたくないしね」
「変わらないと思いますけどぉ〜……」
気の進まない様子の左近を伴って道を渡る。家の前の父親は途中でふたりに気づいて待っていた。左近の父親、ということは、川西総合病院の院長だ。少し緊張しながら高坂は姿勢を正す。近づいていくと男はまず左近に顔を向けた。
「お帰り左近」
「ただいま。お父さん今日早かったんだね」
「予定が延期になってね。そちらは?」
「え〜っと」
「初めまして、高坂陣内左衛門と言います」
「家内から話だけは。失礼ですが、お勤めはどちらに?」
「お父さん!」
「失礼しました。私、人材派遣の株式会社タソガレドキ、人事部に在籍しております」
名刺を出して差し出せば彼はそれを受け取り、社名を確かめる。かと思えば携帯を取り出し耳に当てた。だから言ったのに、左近のつぶやきに首を傾げる。
「……ああ、内藤くん?派遣のさ、そう。タソガレドキから来てる子みんなお断りしておいてくれる?うん、今日限りで」
「えっ!?」
「何か言われたら私に回して。じゃあよろしく」
「ちょっ、あの」
「今まで証拠がなかったんだけど、これで忍者絡みの会社だと確定したからね」
携帯をしまった川西は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「に、忍者とは?」
「左近とお付き合いしてるんだから忍者だろう?」
「あ……あの……」
「左近を送ってくれてありがとう。左近、きちんとお礼を言うんだよ」
「はぁーい」
家に入っていく父親を見送る左近は演技がかった返事をした。玄関のドアがしまり、呆然と立ち尽くす高坂を見上げる。
「だからやめた方がいいって言ったのに」
「……今……何が……」
「痛くもない腹を探られるのは不愉快なんですって。わざと一度中に入れてから判断するのがお父さんの趣味みたいなもので、お陰で人の入れ替わりが多くて病院大変ですよ」
「……今……えっ!?契約切られた!?」
「はい。容赦なく」
「なっ……なんでこうなると教えてくれなかったんだ!」
「お父さんの前で言えるわけないじゃないですか」
「ちょっ、ヤバい!」
高坂はばたばたと携帯を取り出し、焦る手つきで上司に電話をかける。その横で左近があ、と声を上げ、指で示されるままに振り返ると、――レッカー車。
「えっ、早っ!?え!?」
『高坂、どうした。今日は休みだろう』
「や、山本さん、今あの」
「車行っちゃいますよ」
「ま、待って」
『高坂?』
「レッカー車って初めて見ました。すごーい」
「あっ、あー!」
――後日、あんなに取り乱した高坂さんを見たのは初めてでした、と、左近は楽しげに言ったのだった。
*
「たいっへん申し訳ございません」
高坂は床に額を押しつけて、心の底から謝罪した。さすがの雑渡もいつものようにふざけることはなく、電話の相手に謝罪をしている。ひと段落ついて受話器を置いてから床に這いつくばるような高坂を見て、雑渡は深い溜息をついた。
「お前、何したの」
「名乗っただけです」
「元々試されてたわけね。まあなったものは仕方ない、あとで川西総合病院に直接行くからついておいで」
「申し訳ございません!」
「本人が出てくれるといいけど」
「申し訳ございません……」
床に伏せたまま、高坂はこのまま消えてしまいたかった。自分が消えてどうにかなるのならそれでいい。しかし事態はそう簡単ではなかった。
「山本」
「はい。資料を用意しておきます」
「そうして。全部話していくしかないだろうからねぇ。あそこの病院には後ろめたいことは何にもないから、切られちゃうと会社として困っちゃうよねぇ」
「重ね重ね、申し訳ごさまいません!」
「いいから這いつくばってないで電話の1本でも出て」
「はいっ!」
突然の契約解除にあちこちからクレームがきている。朝から鳴りやまない電話の中には関係のないいたずら電話もある。この大失態の責任をどうとればいいのかわからず、会社に駆けつけてから謝り続けている。左近にどうにかならないかと助言を求めたが、父の仕事の話ですから、とばっさり切り捨てられた。放心する高坂と別れてからさすがに心配はしてくれたのか、メールが届いたがどう返したか記憶が定かではない。
「陣左」
「はっ!」
立ち上がると雑渡の用意はできている。山本からいくつか必要な物を受け取り、ぎゅっと鞄を握った。
「……は〜、やだな〜、私仲人だってしたくないのに、何が悲しくて義理の親子の橋渡しを」
「くっ、組頭!」
「違うの?」
「あ……う……」
そうなるのだろうか。昨日見た左近の父親を思い出す。終始浮かべていた笑顔は、少なくとも怒っているようには見えなかった。まるで雑渡が飲み会を断るかのような気軽さにしか思えなかったが、あれはかわいい娘についた悪い虫への憤りを隠していたのだろうか。高坂は姉妹もなく、娘を持つ親の気持ちはわからない。しかしあれほどかわいい娘がいれば、そんな気持ちになるかもしれなかった。
川西総合病院まで足取りは重く、とはいえ、文明の利器である自動車は高坂の足取りに左右されずにアクセスを踏んだ分だけ道路を走る。いつもより速度を5キロほど落とした程度で、車は川を流れるように高坂たちを運んだ。
2013'12.27.Fri
「大あくび」
指摘されて左近は慌てて口を塞いだ。笑いながら隣に座った待ち合わせの相手は、そんな左近の様子を喜んでいるかのようである。
「男の前でそんなに気を抜いて大丈夫?こわぁいダーリンがいるじゃない」
「男?どこに?」
「……」
待ち合わせ相手、山崎は己を見る。清潔なブラウスにジャケット、深くスリットの入ったタイトスカート。化粧は少しきつめだが乱れはない。左近の言葉を受け、ずず、と音を立ててコーヒーをすする姿は、ひどく不満げである。
「……君の関係者で、三十路を迎えてもなお女装を強いられる気の毒な人はいるかい」
「いませんね」
「俺どう思うっ!?」
「普段よりそっちの方がいいですよ」
「……そう……」
がくりと肩を落としながらも、山崎は足を組む。ガラスの向こうを歩くサラリーマンが一瞬こちらを注視した。コーヒーショップの、窓に沿ったカウンター。こんな格好で来ると知っていれば、窓側に座らなかったのに、と左近は後悔していた。
ちょっと許して、とハイヒールを脱いで落とす彼は、馴染みのある仕事相手だ。敵か味方かを問われれば「敵ではない」、と答える他ない関係だが、彼に限らず関わるのはいつもそんな相手ばかりだった。いつ誰が敵に回るのかわからないのがこの業界である。もっとも、山崎たちが敵に回ったことはない。敵視はされども、迷惑をかけたこともないのだ。
「それより珍しいね、時間変えてくれなんて。おまけに大あくび」
「友達と遊んでたらなりゆきでオールになって」
「まぁあの人ねちっこそうだよね」
「……」
「激しいってよりしつこいでしょ?絶対むっつりスケベだよ。なぁに?朝まで離してくれなかァッイター!」
反射的に脚を蹴ると、山崎はほとんど椅子から落ちそうになる。大声で視線を集めたことに慌てて座り直すが、キッと左近を睨んだ。
「ちょっと!何すんの!」
「セクハラ!」
「はぁ?」
「山崎さんおっさん臭くなったね!」
「え?臭う?」
「そうじゃなくて!」
「あのねぇ、いつから君の相手してると思ってんの。鼻垂らしが飛ぶようにレディになるまでの時間で、俺はゆっくりおっさんになってるんだよ」
「訂正。初めて会ったときからおっさんだった」
「で?」
「何?」
「無事に高坂さんのものになったってのろけにきたわけじゃないでしょーが」
「……おっさんだよ」
左近は鞄から小さな包みを出した。ラッピングされてはいるがそれはただのフェイクで、中身はそんなにいいものではない。山崎は笑ってそれを受け取り、中を改める。確認が終われば、確かに、とジャケットの内ポケットにしまった。代わりに違うものを取り出し、左近に差し出す。それは予定にないもので、左近は首を傾げた。
「優しいおじちゃんからのお誕生日プレゼントだよ〜」
「えっ」
「あげる。きれいになったから、きっと似合うよ」
「……きしょい」
「こら!かっこよかったでしょ!」
「でももらえるものはもらっておいてあげます」
素直にそれを受け取った。包装もされていないそれは、広告を見かけて少し気になっていたグロスだ。学生が手を出すにはややためらうようなブランドだったが、くれると言うのだから断る理由はない。山崎は交換条件で何かを要求するような男ではないし、何かあったとしてそれを飲むつもりもなかった。
「それねぇ!発色めっちゃいいよ!保ちもいいし。自分の探しに行ってたんだけどこれ絶対左近さんに似合うなと思ってさぁ!超オススメ!」
「……山崎さん」
「……あ」
「もう女になっちゃえば?」
「うう……おっさん化が進むにつれ女子力も上がっていく……」
「目は肥えますからねえ」
「そーなんだよねぇ。女の子見かけても最近じゃ乳だの尻だのより先に化粧とか服に目が行っちゃって。結婚できるかなぁ」
「ホモが何言ってんだか」
「……」
「しかもドM」
「ドMじゃないよ!今度こそ別れる!あの人とは清く正しい上司と部下の関係に戻るんだからっ!」
「オフィス街ってわかっててその言い回し?」
「一緒にいても仕事!仕事!仕事!アタシと仕事とどっちが大切なのよ!」
「仕事なんでしょ」
「アタシはあの人のおもちゃじゃないのよ!」
「……」
「……はぁ」
「……気が済みました?」
「伊作くんなら乗ってくれるのにぃ」
「あいにくぼくは川西左近なので」
用事は済んだ。受け取った物を確かに鞄にしまい、左近は立ち上がる。飲みかけのカフェオレを手にすると山崎もパンプスを履き直した。ぴんと背を伸ばすと顔つきまで変わり、どこから見てもキャリアウーマンだ。その徹底的な様子に左近は顔をひきつらせる。伝子さんと気が合いそうだな、と思う。
「それではまた、ご贔屓に」
「どーも、DV彼氏さんにもよろしくお伝え下さい」
「こちらこそ、……と、こっちは不要かな」
山崎が窓の外に視線をやってにやりと笑う。それをたどれば、山崎が見ているのは黒いスーツの男性だ。ひくり、と左近は顔を引きつらせる。出かける先は伝えていなかったのに。
「であ左近さん、楽しい蜜月を!」
指摘されて左近は慌てて口を塞いだ。笑いながら隣に座った待ち合わせの相手は、そんな左近の様子を喜んでいるかのようである。
「男の前でそんなに気を抜いて大丈夫?こわぁいダーリンがいるじゃない」
「男?どこに?」
「……」
待ち合わせ相手、山崎は己を見る。清潔なブラウスにジャケット、深くスリットの入ったタイトスカート。化粧は少しきつめだが乱れはない。左近の言葉を受け、ずず、と音を立ててコーヒーをすする姿は、ひどく不満げである。
「……君の関係者で、三十路を迎えてもなお女装を強いられる気の毒な人はいるかい」
「いませんね」
「俺どう思うっ!?」
「普段よりそっちの方がいいですよ」
「……そう……」
がくりと肩を落としながらも、山崎は足を組む。ガラスの向こうを歩くサラリーマンが一瞬こちらを注視した。コーヒーショップの、窓に沿ったカウンター。こんな格好で来ると知っていれば、窓側に座らなかったのに、と左近は後悔していた。
ちょっと許して、とハイヒールを脱いで落とす彼は、馴染みのある仕事相手だ。敵か味方かを問われれば「敵ではない」、と答える他ない関係だが、彼に限らず関わるのはいつもそんな相手ばかりだった。いつ誰が敵に回るのかわからないのがこの業界である。もっとも、山崎たちが敵に回ったことはない。敵視はされども、迷惑をかけたこともないのだ。
「それより珍しいね、時間変えてくれなんて。おまけに大あくび」
「友達と遊んでたらなりゆきでオールになって」
「まぁあの人ねちっこそうだよね」
「……」
「激しいってよりしつこいでしょ?絶対むっつりスケベだよ。なぁに?朝まで離してくれなかァッイター!」
反射的に脚を蹴ると、山崎はほとんど椅子から落ちそうになる。大声で視線を集めたことに慌てて座り直すが、キッと左近を睨んだ。
「ちょっと!何すんの!」
「セクハラ!」
「はぁ?」
「山崎さんおっさん臭くなったね!」
「え?臭う?」
「そうじゃなくて!」
「あのねぇ、いつから君の相手してると思ってんの。鼻垂らしが飛ぶようにレディになるまでの時間で、俺はゆっくりおっさんになってるんだよ」
「訂正。初めて会ったときからおっさんだった」
「で?」
「何?」
「無事に高坂さんのものになったってのろけにきたわけじゃないでしょーが」
「……おっさんだよ」
左近は鞄から小さな包みを出した。ラッピングされてはいるがそれはただのフェイクで、中身はそんなにいいものではない。山崎は笑ってそれを受け取り、中を改める。確認が終われば、確かに、とジャケットの内ポケットにしまった。代わりに違うものを取り出し、左近に差し出す。それは予定にないもので、左近は首を傾げた。
「優しいおじちゃんからのお誕生日プレゼントだよ〜」
「えっ」
「あげる。きれいになったから、きっと似合うよ」
「……きしょい」
「こら!かっこよかったでしょ!」
「でももらえるものはもらっておいてあげます」
素直にそれを受け取った。包装もされていないそれは、広告を見かけて少し気になっていたグロスだ。学生が手を出すにはややためらうようなブランドだったが、くれると言うのだから断る理由はない。山崎は交換条件で何かを要求するような男ではないし、何かあったとしてそれを飲むつもりもなかった。
「それねぇ!発色めっちゃいいよ!保ちもいいし。自分の探しに行ってたんだけどこれ絶対左近さんに似合うなと思ってさぁ!超オススメ!」
「……山崎さん」
「……あ」
「もう女になっちゃえば?」
「うう……おっさん化が進むにつれ女子力も上がっていく……」
「目は肥えますからねえ」
「そーなんだよねぇ。女の子見かけても最近じゃ乳だの尻だのより先に化粧とか服に目が行っちゃって。結婚できるかなぁ」
「ホモが何言ってんだか」
「……」
「しかもドM」
「ドMじゃないよ!今度こそ別れる!あの人とは清く正しい上司と部下の関係に戻るんだからっ!」
「オフィス街ってわかっててその言い回し?」
「一緒にいても仕事!仕事!仕事!アタシと仕事とどっちが大切なのよ!」
「仕事なんでしょ」
「アタシはあの人のおもちゃじゃないのよ!」
「……」
「……はぁ」
「……気が済みました?」
「伊作くんなら乗ってくれるのにぃ」
「あいにくぼくは川西左近なので」
用事は済んだ。受け取った物を確かに鞄にしまい、左近は立ち上がる。飲みかけのカフェオレを手にすると山崎もパンプスを履き直した。ぴんと背を伸ばすと顔つきまで変わり、どこから見てもキャリアウーマンだ。その徹底的な様子に左近は顔をひきつらせる。伝子さんと気が合いそうだな、と思う。
「それではまた、ご贔屓に」
「どーも、DV彼氏さんにもよろしくお伝え下さい」
「こちらこそ、……と、こっちは不要かな」
山崎が窓の外に視線をやってにやりと笑う。それをたどれば、山崎が見ているのは黒いスーツの男性だ。ひくり、と左近は顔を引きつらせる。出かける先は伝えていなかったのに。
「であ左近さん、楽しい蜜月を!」
2013'12.27.Fri
さてと。
コーヒーショップを出た斉藤タカ丸は大きく伸びをする。チラシの入った紙袋を揺らして歩き出した。気持ちのいい快晴だ、今日はいい出会いがある気がする。タカ丸の父は美容師だ。カリスマと呼ばれる父の元で、中学を卒業してからずっと美容師の修行を続けている。今はまだ資格もないので客を取ることはできない。今自分にできることは少なかった。だからこそ、できることは積極的に。店のチラシを手に街へ出るのはほとんど日課となっていた。
適度な風が心地よく、誘われるように風上に目をやった。その瞬間、タカ丸の目は彼女たちに釘づけになる。――きっとそれは運命だ。
雑踏の中を歩くその3人は、それぞれ三様に美しい。可憐で、しかしその瞳に宿した意志の強さはまるでよけいなものを拒絶するかのように外界を睨んでいた。あれを、知っている。タカ丸はこちらへ向かって歩いてくる彼女たちを見つめて立ち尽くした。
「滝夜叉丸、クレープ食べたい」
「喜八郎……お前さっきまでアルションのケーキって言ってただろう」
「さっきの人見たら食べたくなった」
「滝夜叉丸がこの間言ってた、新しくできたお店は?」
「クリスピードーナツ?」
「違う、ヨーグルトだっけ」
「ああ……あそこはまだ若干並んでるぞ。喜八郎がいないときに行こう」
「何それ」
「喜八郎は大人しく待てないだろ」
「いいもん、立花先輩と行くから。今日はクレープ!クレープにしよう!」
「わかったから……三木ヱ門もそれでいいか?」
「いいよ。どこの?」
「あっちのクレープリーか、ちょっと歩いたところにココリコもある」
「ゲーセンの近くにもなかった?」
「あそこはいまいちだ」
「さっすが、食い道楽委員」
「違う!」
「滝夜叉丸のおすすめは?」
「店内で食べたいならクレープリーだな。食べ歩きか?」
「潮江先輩に見つかったら怒られる」
「じゃああっちに」
「あのっ!」
無視を覚悟で声をかけた瞬間、3人はぴたりと足を止めた。ばっと振り返ったのは両側のふたりで、タカ丸を認めて口角を上げた。
「この美しい私に何かご用ですか?」
「この可憐な私に何かご用ですか?」
「……え、と……」
見事なユニゾンに、どちらがどちらのセリフを言ったのかわからなかった。セリフが被ったことがわかった瞬間彼女たちは互いを睨み、彼は私に声をかけたのだ、いいや私だと言い合いを始める。真ん中の彼女だけが冷静にふたりの間を抜け、何か、と訪ねてきた。しばしその無感情な瞳に見とれた後はっとして、慌ててチラシを差し出した。
「あの!カットモデルやりませんか!」
「間に合ってます」
ためらいもせずに断られ、しかしタカ丸とて今回ばかりは引けなかった。彼女たちを逃がしてはいけない。タカ丸の魂が叫ぶ。
しかし彼女の柔らかそうな髪を見て、これ以上どう引き留めればいいのか考える。ふわりと空気を含んだ髪は丁寧に手入れをされていることがよくわかる。化粧っけはないが肌もきれいだ。これほど完璧なら、カットモデルなどして他人の手を入れられたくはないだろう。睨み合っていたふたりもカットモデルと聞いたとたん興味をなくしたのか、ひとりだけがまあ私の髪は美しいから触りたくなるのも無理はない、などとぐだぐだ続けている。
「いやでも、」
「私たち写真が残るようなことはできないんです」
「へ?」
トパーズの髪を揺らしてひとりが割り込んだ。くるりと上がったまつげが美しい。よく見ればつけまつげだとわかるが、かなり巧みに馴染ませてある。
「あ、タレントさんか何かですか」
「いえ、学生です」
「だ、大丈夫だよ!写真は記録のために残すかもしれないけど、許可なく掲載したりはしないし!」
「だめなんです。ごめんなさい」
「わかった、じゃあ写真は撮らない!1回だけでも、ううん、もう切らないし、うちの美容院に来てくれるだけでもいいから!」
「カットモデルを探しているんでしょう?私たちは無理ですが、そこまで必要なら友人を紹介しますよ」
誰も相手にしないので口上をやめた彼女も加わってきた。黒髪が美しい。アイシャドウのグラデーションも自然で、きっと手間のかかっているだろう、陶器のような美しい肌だ。
「違うんだ、他の人じゃだめなんだ。僕は君たちが」
「あ」
真ん中の子がくるりと目の色を変えた。まじまじとタカ丸を見つめてきて、どきりと胸が鳴る。無遠慮なほど近いのに嫌な気がしない。それどころか懐かしさすら感じた。これは何だろうか。
「どうした喜八郎」
「好みか?行ってくるか?」
「三木と一緒にしないでくれる。……会ったこと、あります?」
「えっ!?あ、いや、初めて……だと思う。でも、会ったことあるような気がするんだ」
「ふぅん……そっか。つまんないや」
そう言いながら彼女はタカ丸の手からチラシを引き抜く。それを鞄にねじ込み、両側ふたりの手を取った。
「ふたりとも行こう、スコーン」
「だからクレープだろ?」
「じゃあ明日!」
「明日は委員会」
「私もだ」
「あー、でもコールドストーンも行きたい。アイスもいいなぁ」
「喜八郎、決めてくれ」
「あっ、あのぅ!」
ぱっと喜八郎と呼ばれた子が振り返る。姿はすぐに雑踏に消えたが、その前にタカ丸の耳には確かにその声が届いていた。
『またね』
それは、どういう意味だろうか。チラシを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。しかしタカ丸も、これを最後にする気はなかった。絶対に見逃してはいけない出会いだと、頭の中で鳴り響く。きっとこの日タカ丸の運命は大きく変わるのだ。ぐっと顔を上げ、店へ走り出す。――手がかりは、あの制服。白いスカーフのセーラー服、学生鞄は指定がなさそうだった。よく見かける制服だから、遠くではないだろう。地理にも詳しそうだった。
「ただいまっ!」
「あ〜ん、タカ丸くんお帰りなさいっ」
父親の助手がタカ丸の腕に絡みついてくる。たまたま店には客がいない。今日は父親が休みなので予約が少ないのだ。ユミさん、その手を振り払って向かい合う。
「この辺りでセーラー服の制服の学校ってどこがある!?」
「何?いい子いた?」
「スカーフは白だったんだけど」
「ああ、じゃあ大川学園だね」
掃除をしていた美容師が近づいてきた。走って乱れたタカ丸の髪を直しながら、ほら、あそこの私立の、と続ける。
「でかい学校だよ。惚れたの?あそこの子、1度断られたら絶対受けてくれないよ。厳しいおうちの子多いみたい」
「大川学園……」
タカ丸でも名前を知っている。常連客の中にも大川学園の生徒がいたはずだ。中高一貫校で、敷地の広さはけた違いだと聞いたことがある。彼女たちはおそらく高等部の生徒だろう。美しい少女たちを思い、ぐっと拳を握る。これまでにない感覚だった。――知りたい。彼女たちのことを知りたい。あの中に自分のポジションがあるのだと、なぜか疑わなかった。
「……ユミさん!俺明日休みにして!他の日出るから!」
「え?いいけど、どうしたの?休みの日でも出てくる君が」
「……見つけないと、後悔する気がするんだ」
*
絶対に彼女たちを見つけてみせる。――そう決意して次の日、タカ丸は大川学園の校門前で立ち尽くしていた。そこには生徒の姿はない。ああ、身に付いたサービス業。――今日は土曜日じゃないか。まばらに生徒の姿があるにはあるが、おそらく部活動の生徒だろう。がっくりと肩を落として帰りかけ、顔を上げた。昨日彼女たちは、委員会がある、と言っていなかっただろうか。委員会と言えば学校の中の所属だ。ならば学園内にいるはずだ。生徒の姿が途切れたのを見計らい、こっそりと校門をくぐる。見つかったら間違いなく不審者だ。今までどんなきれいな髪の子を見かけても、こんなことをしたことがない。自分の中から湧き上がる衝動がなんなのかわからないが、じっとしていられなかった。せめて、と持ったお土産を手に、できるだけ堂々と校舎へ向かう。タカ丸が通っていた公立中学とはかけ離れた立派な建物に後込みしながらも、昇降口まで着いたその瞬間。
「サインを!」
「うひゃあっ」
背後から肩を叩かれて飛び上がった。慌てて言い訳を頭の中に連ね、振り返ると若い男がノートを突き出している。
「入門表にサイン下さぁい!」
「へ?」
「校門脇に書いてたでしょ、校内に入る方は入門表にサインして下さいって」
「あの……」
「ほら」
「はぁ……」
無理やりペンを持たされ、タカ丸は仕方なく名前の欄にサインをする。備考欄が隣にあるが、タカ丸以前の記入もそこは空欄のままだ。
「はい、確かに」
「あの……理由なんかは?」
「理由?いつも特に聞いてませんから結構ですよ」
「はぁ……」
そんなものなのだろうか。先生ですか、と訪ねると、ただの用務員です、とノートを小脇に抱える。危機感のない用務員はどこか親しみがあり、憎めない。いや、――まただ。自分はこの人を知っている。
「ではごゆっくり。あ、帰りもサインして下さいね!」
「あっ、あのっ!」
「何か?」
「きょ……今日、活動してる委員会ってありますか?」
「委員会ですか?そうですねぇ、さっき裏庭で体育委員会と生物委員会が戦ってたけど」
「たたか……!?」
「あ、ということは保健委員会も待機してるんじゃないかなぁ」
裏庭ならあっちから回るといいですよ、指で示された方を見る。校舎の脇から回り込んで行けるのだろう。人影もなく静かだが、なぜかぞくりと鳥肌が立つ。行くなら気をつけて下さいね、不穏な言葉を残して用務員は立ち去った。
――あそこを曲がると、何があるのだろう。手にかいた汗をパンツで拭う。この血がざわめくような感覚。引きずるように足を動かす。砂の鳴る音が妙に耳に残った。後悔はしないか?それでもタカ丸は拳を握り、校舎の向こう側へ回り込む。その途端視界は木々であふれた。さっきまでとは別世界の視界に、ここは森か山かとたたらを踏む。振り返ると確かに学校だ。こんなところで委員会活動?さっきの間抜けそうな用務員は何か勘違いをしているのではないだろうか。戻ろうとしたとき、生徒らしい数人の人影が目に映る。
「てぇい!」
「ほい」
「ックソ!」
キィン、と高い金属音。何かをはじき返した少年は次の瞬間にはその場にいない。その向こうにいた男は舌打ちをして一歩引く。焦ったように振り返った先にはセーラー服の少女がいて、笑顔を浮かべて上の方を指さした。
「竹谷先輩、あれ切って下さい」
「……三治郎、隠れててくれ」
「だって守られてるだけだなんてルールじゃないでしょ?」
「……怪我人出さないでくれよ〜」
近くの木を足場に男は飛びながら、手の中のものを振り切った。何が起きたのかわからなかったが、奥の方で悲鳴が聞こえる。
「金吾が落ちたっ」
「次屋が突き飛ばしたんだろうがっ!あっ、七松先輩!」
「竹谷ァ!」
「ぎゃああああ!」
奥から飛び出してきた塊が一瞬にして竹谷を捕らえる。転がるように視界から消えていき、はらはらするタカ丸の目には別の少女が映る。ポニーテールの髪がふわりと風に揺れた。のんびりとしているようにも見える無表情、但し口元はきりりと結んでいる。身軽に地を蹴って三治郎へ向かっていき、焦って逃げ出した彼女との間にまた別の男が割り込む。止まりかけた少女の腕を捕まえて、反動をそのままに投げ飛ばした。少女の体は軽く飛ばされ、――タカ丸の方へ向かってくる。
「わっ!」
「えっ?」
声に驚いた彼女がタカ丸に気づいたときにはもう遅く、着地点を失った彼女はタカ丸の上へ落ちてきた。受け止めきれずにその場にひっくり返り、頭に衝撃が走る。――そこでタカ丸の意識は途切れた。
*
強く、投げ飛ばされた記憶が戻ってきた。受け身をとる間もない早さで地面に叩きつけられ、あのときは確かあばらを折ったはずだ。すう、とすくい上げられるように意識が浮上し、目を開けたタカ丸ははっとして体を起こす。見下ろした両腕は傷ひとつなく、指も問題なく動く。ほっと息を吐いて胸をなで下ろした。
「起きた」
「え?」
ようやく周りに意識を向ければ、タカ丸のそばにはセーラー服の少女が立っていた。それは昨日調べた、大川学園のもので間違いない。体を屈めてタカ丸の額に手を当てる彼女の、ポニーテールがさらりと落ちた。どうやら自分はベッドの上にいるらしい、と初めて気づく。少し意地悪そうにとがった唇が、相変わらずだな、と小さく零した。
「え?」
「どこか痛いところはありますか?」
「え、えーと」
「目覚めたか」
カーテンの向こうから男性が顔を出した。その見覚えのある顔に、タカ丸は安心して力を抜いた。
「土井先生」
つぶやいてからはっとすた。――誰だ?混乱する頭を抱えて自問する。改めて見れば彼は知らない男性だ。似た人も知らないし、常連客なら覚えている。タカ丸の様子に彼らは顔を見合わせ、少女はそっと水を差し出した。ゆっくり飲んで、の言葉に従い、コップを受け取ってよく冷えた水を口に含む。体まですうっと冷えるようで、少し頭が軽くなった。
「落ち着いた?」
「はい……」
「よかった。すまなかったね、うちの生徒の活動に巻き込んでしまったようで。見た限り怪我はないようだが、痛いところはあるかい」
「いえ、大丈夫です……多分」
「まあ受け身は取れてたみたいだから」
「はぁ……」
「何か用があって来たのかな?」
男の笑顔にまた考え込む。やはり、……知っている。この笑顔を、声を。タカ丸の様子に彼も困ったように笑って、無理に考えなくていい、と優しく言った。
「左近、他の子は?」
「しろべえはテンパってたので次屋先輩が連れていきました。生物はみんな帰りました。というか帰しました」
「わかった。君、名前は?」
「あ……斎藤タカ丸です……」
「私は土井、ここの教師だ。今日は送るから帰りなさい」
「はぁ……」
納得がいかないまま生返事をする。そのときカーテンの向こうが騒がしくなり、誰かが制止を振りきったらしい。ジャッと大きくカーテンが開かれ、そこには顔を土で汚した少女が立っていた。保健室にシャベル持ち込まないで下さいよ!左近が彼女を睨む。Tシャツにジャージ、髪は適当にまとめられているが、昨日出会った少女に間違いない。「またね」と言った、あの少女。はっとしたタカ丸に近づいてきて、じっと顔をのぞき込んでくる。その丸い瞳に見つめられていると視界がちかちかした。くらりとよろけたタカ丸を彼女が支える。
「綾部」
「だってもう思い出しかけてますよ。かさぶたってはがしたくなりません?」
「やめなさい」
たしなめる土井の声が遠くなる。頭を抱えたタカ丸の脳裏には自分が知らないはずの、知っている光景が次々と浮かんでは消えていった。誰かの髷を結う自分、幼い少年に手を貸されて立ち上がり、雨の中を走る。目の前で繰り広げられる戦い。目が回る。呆れた顔の友人たち、それは、忍装束だった。
「あやべくん」
口をついて出た言葉に自分で驚く。しかし自分はやはり、知っているのだ。彼女――否、『彼』を。
「綾部喜八郎くん」
名を呼ばれた『彼』は瞬きをして、ほらごらんなさい、と土井を振り返る。土井は大きく溜息をつき、頭を抱えた。
「綾部くん」
「なんですか、タカ丸さん」
「ッ……」
ぎゅうっと胸が苦しくなり、視界が一気に涙に沈む。泣き出したタカ丸を、綾部は黙って抱きしめた。やわらかい感触は知らないものだったが、この体温には覚えがある。
「綾部くん」
「はいはい、綾部きはちろーですよ」
何も言葉にならない。一気によみがえる記憶はタカ丸の全身を巡り、それは痛みにも近い感覚でタカ丸を襲う。優しいぬくもりに包まれて、止まらない涙をこぼし続けた。――どうして忘れていたのだろう。こんなに大切な人たちなのに。
「滝夜叉丸も三木ヱ門も、みんないるんだよ。また4人で遊べるね」
*
「落ち着いたかい」
「はい……すみません」
左近の入れてくれたお茶をすすりながら、タカ丸は笑ってみせる。ぎこちないものだっただろうが、土井も苦笑を返した。ほどよく冷房の効いたこの部屋は、大川学園の保健室だ。――大川。今ならその名も思い出せる。大川平次渦正。それはかつて自分が学んだ、忍術学園の学園長の名だ。
コーヒーショップを出た斉藤タカ丸は大きく伸びをする。チラシの入った紙袋を揺らして歩き出した。気持ちのいい快晴だ、今日はいい出会いがある気がする。タカ丸の父は美容師だ。カリスマと呼ばれる父の元で、中学を卒業してからずっと美容師の修行を続けている。今はまだ資格もないので客を取ることはできない。今自分にできることは少なかった。だからこそ、できることは積極的に。店のチラシを手に街へ出るのはほとんど日課となっていた。
適度な風が心地よく、誘われるように風上に目をやった。その瞬間、タカ丸の目は彼女たちに釘づけになる。――きっとそれは運命だ。
雑踏の中を歩くその3人は、それぞれ三様に美しい。可憐で、しかしその瞳に宿した意志の強さはまるでよけいなものを拒絶するかのように外界を睨んでいた。あれを、知っている。タカ丸はこちらへ向かって歩いてくる彼女たちを見つめて立ち尽くした。
「滝夜叉丸、クレープ食べたい」
「喜八郎……お前さっきまでアルションのケーキって言ってただろう」
「さっきの人見たら食べたくなった」
「滝夜叉丸がこの間言ってた、新しくできたお店は?」
「クリスピードーナツ?」
「違う、ヨーグルトだっけ」
「ああ……あそこはまだ若干並んでるぞ。喜八郎がいないときに行こう」
「何それ」
「喜八郎は大人しく待てないだろ」
「いいもん、立花先輩と行くから。今日はクレープ!クレープにしよう!」
「わかったから……三木ヱ門もそれでいいか?」
「いいよ。どこの?」
「あっちのクレープリーか、ちょっと歩いたところにココリコもある」
「ゲーセンの近くにもなかった?」
「あそこはいまいちだ」
「さっすが、食い道楽委員」
「違う!」
「滝夜叉丸のおすすめは?」
「店内で食べたいならクレープリーだな。食べ歩きか?」
「潮江先輩に見つかったら怒られる」
「じゃああっちに」
「あのっ!」
無視を覚悟で声をかけた瞬間、3人はぴたりと足を止めた。ばっと振り返ったのは両側のふたりで、タカ丸を認めて口角を上げた。
「この美しい私に何かご用ですか?」
「この可憐な私に何かご用ですか?」
「……え、と……」
見事なユニゾンに、どちらがどちらのセリフを言ったのかわからなかった。セリフが被ったことがわかった瞬間彼女たちは互いを睨み、彼は私に声をかけたのだ、いいや私だと言い合いを始める。真ん中の彼女だけが冷静にふたりの間を抜け、何か、と訪ねてきた。しばしその無感情な瞳に見とれた後はっとして、慌ててチラシを差し出した。
「あの!カットモデルやりませんか!」
「間に合ってます」
ためらいもせずに断られ、しかしタカ丸とて今回ばかりは引けなかった。彼女たちを逃がしてはいけない。タカ丸の魂が叫ぶ。
しかし彼女の柔らかそうな髪を見て、これ以上どう引き留めればいいのか考える。ふわりと空気を含んだ髪は丁寧に手入れをされていることがよくわかる。化粧っけはないが肌もきれいだ。これほど完璧なら、カットモデルなどして他人の手を入れられたくはないだろう。睨み合っていたふたりもカットモデルと聞いたとたん興味をなくしたのか、ひとりだけがまあ私の髪は美しいから触りたくなるのも無理はない、などとぐだぐだ続けている。
「いやでも、」
「私たち写真が残るようなことはできないんです」
「へ?」
トパーズの髪を揺らしてひとりが割り込んだ。くるりと上がったまつげが美しい。よく見ればつけまつげだとわかるが、かなり巧みに馴染ませてある。
「あ、タレントさんか何かですか」
「いえ、学生です」
「だ、大丈夫だよ!写真は記録のために残すかもしれないけど、許可なく掲載したりはしないし!」
「だめなんです。ごめんなさい」
「わかった、じゃあ写真は撮らない!1回だけでも、ううん、もう切らないし、うちの美容院に来てくれるだけでもいいから!」
「カットモデルを探しているんでしょう?私たちは無理ですが、そこまで必要なら友人を紹介しますよ」
誰も相手にしないので口上をやめた彼女も加わってきた。黒髪が美しい。アイシャドウのグラデーションも自然で、きっと手間のかかっているだろう、陶器のような美しい肌だ。
「違うんだ、他の人じゃだめなんだ。僕は君たちが」
「あ」
真ん中の子がくるりと目の色を変えた。まじまじとタカ丸を見つめてきて、どきりと胸が鳴る。無遠慮なほど近いのに嫌な気がしない。それどころか懐かしさすら感じた。これは何だろうか。
「どうした喜八郎」
「好みか?行ってくるか?」
「三木と一緒にしないでくれる。……会ったこと、あります?」
「えっ!?あ、いや、初めて……だと思う。でも、会ったことあるような気がするんだ」
「ふぅん……そっか。つまんないや」
そう言いながら彼女はタカ丸の手からチラシを引き抜く。それを鞄にねじ込み、両側ふたりの手を取った。
「ふたりとも行こう、スコーン」
「だからクレープだろ?」
「じゃあ明日!」
「明日は委員会」
「私もだ」
「あー、でもコールドストーンも行きたい。アイスもいいなぁ」
「喜八郎、決めてくれ」
「あっ、あのぅ!」
ぱっと喜八郎と呼ばれた子が振り返る。姿はすぐに雑踏に消えたが、その前にタカ丸の耳には確かにその声が届いていた。
『またね』
それは、どういう意味だろうか。チラシを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。しかしタカ丸も、これを最後にする気はなかった。絶対に見逃してはいけない出会いだと、頭の中で鳴り響く。きっとこの日タカ丸の運命は大きく変わるのだ。ぐっと顔を上げ、店へ走り出す。――手がかりは、あの制服。白いスカーフのセーラー服、学生鞄は指定がなさそうだった。よく見かける制服だから、遠くではないだろう。地理にも詳しそうだった。
「ただいまっ!」
「あ〜ん、タカ丸くんお帰りなさいっ」
父親の助手がタカ丸の腕に絡みついてくる。たまたま店には客がいない。今日は父親が休みなので予約が少ないのだ。ユミさん、その手を振り払って向かい合う。
「この辺りでセーラー服の制服の学校ってどこがある!?」
「何?いい子いた?」
「スカーフは白だったんだけど」
「ああ、じゃあ大川学園だね」
掃除をしていた美容師が近づいてきた。走って乱れたタカ丸の髪を直しながら、ほら、あそこの私立の、と続ける。
「でかい学校だよ。惚れたの?あそこの子、1度断られたら絶対受けてくれないよ。厳しいおうちの子多いみたい」
「大川学園……」
タカ丸でも名前を知っている。常連客の中にも大川学園の生徒がいたはずだ。中高一貫校で、敷地の広さはけた違いだと聞いたことがある。彼女たちはおそらく高等部の生徒だろう。美しい少女たちを思い、ぐっと拳を握る。これまでにない感覚だった。――知りたい。彼女たちのことを知りたい。あの中に自分のポジションがあるのだと、なぜか疑わなかった。
「……ユミさん!俺明日休みにして!他の日出るから!」
「え?いいけど、どうしたの?休みの日でも出てくる君が」
「……見つけないと、後悔する気がするんだ」
*
絶対に彼女たちを見つけてみせる。――そう決意して次の日、タカ丸は大川学園の校門前で立ち尽くしていた。そこには生徒の姿はない。ああ、身に付いたサービス業。――今日は土曜日じゃないか。まばらに生徒の姿があるにはあるが、おそらく部活動の生徒だろう。がっくりと肩を落として帰りかけ、顔を上げた。昨日彼女たちは、委員会がある、と言っていなかっただろうか。委員会と言えば学校の中の所属だ。ならば学園内にいるはずだ。生徒の姿が途切れたのを見計らい、こっそりと校門をくぐる。見つかったら間違いなく不審者だ。今までどんなきれいな髪の子を見かけても、こんなことをしたことがない。自分の中から湧き上がる衝動がなんなのかわからないが、じっとしていられなかった。せめて、と持ったお土産を手に、できるだけ堂々と校舎へ向かう。タカ丸が通っていた公立中学とはかけ離れた立派な建物に後込みしながらも、昇降口まで着いたその瞬間。
「サインを!」
「うひゃあっ」
背後から肩を叩かれて飛び上がった。慌てて言い訳を頭の中に連ね、振り返ると若い男がノートを突き出している。
「入門表にサイン下さぁい!」
「へ?」
「校門脇に書いてたでしょ、校内に入る方は入門表にサインして下さいって」
「あの……」
「ほら」
「はぁ……」
無理やりペンを持たされ、タカ丸は仕方なく名前の欄にサインをする。備考欄が隣にあるが、タカ丸以前の記入もそこは空欄のままだ。
「はい、確かに」
「あの……理由なんかは?」
「理由?いつも特に聞いてませんから結構ですよ」
「はぁ……」
そんなものなのだろうか。先生ですか、と訪ねると、ただの用務員です、とノートを小脇に抱える。危機感のない用務員はどこか親しみがあり、憎めない。いや、――まただ。自分はこの人を知っている。
「ではごゆっくり。あ、帰りもサインして下さいね!」
「あっ、あのっ!」
「何か?」
「きょ……今日、活動してる委員会ってありますか?」
「委員会ですか?そうですねぇ、さっき裏庭で体育委員会と生物委員会が戦ってたけど」
「たたか……!?」
「あ、ということは保健委員会も待機してるんじゃないかなぁ」
裏庭ならあっちから回るといいですよ、指で示された方を見る。校舎の脇から回り込んで行けるのだろう。人影もなく静かだが、なぜかぞくりと鳥肌が立つ。行くなら気をつけて下さいね、不穏な言葉を残して用務員は立ち去った。
――あそこを曲がると、何があるのだろう。手にかいた汗をパンツで拭う。この血がざわめくような感覚。引きずるように足を動かす。砂の鳴る音が妙に耳に残った。後悔はしないか?それでもタカ丸は拳を握り、校舎の向こう側へ回り込む。その途端視界は木々であふれた。さっきまでとは別世界の視界に、ここは森か山かとたたらを踏む。振り返ると確かに学校だ。こんなところで委員会活動?さっきの間抜けそうな用務員は何か勘違いをしているのではないだろうか。戻ろうとしたとき、生徒らしい数人の人影が目に映る。
「てぇい!」
「ほい」
「ックソ!」
キィン、と高い金属音。何かをはじき返した少年は次の瞬間にはその場にいない。その向こうにいた男は舌打ちをして一歩引く。焦ったように振り返った先にはセーラー服の少女がいて、笑顔を浮かべて上の方を指さした。
「竹谷先輩、あれ切って下さい」
「……三治郎、隠れててくれ」
「だって守られてるだけだなんてルールじゃないでしょ?」
「……怪我人出さないでくれよ〜」
近くの木を足場に男は飛びながら、手の中のものを振り切った。何が起きたのかわからなかったが、奥の方で悲鳴が聞こえる。
「金吾が落ちたっ」
「次屋が突き飛ばしたんだろうがっ!あっ、七松先輩!」
「竹谷ァ!」
「ぎゃああああ!」
奥から飛び出してきた塊が一瞬にして竹谷を捕らえる。転がるように視界から消えていき、はらはらするタカ丸の目には別の少女が映る。ポニーテールの髪がふわりと風に揺れた。のんびりとしているようにも見える無表情、但し口元はきりりと結んでいる。身軽に地を蹴って三治郎へ向かっていき、焦って逃げ出した彼女との間にまた別の男が割り込む。止まりかけた少女の腕を捕まえて、反動をそのままに投げ飛ばした。少女の体は軽く飛ばされ、――タカ丸の方へ向かってくる。
「わっ!」
「えっ?」
声に驚いた彼女がタカ丸に気づいたときにはもう遅く、着地点を失った彼女はタカ丸の上へ落ちてきた。受け止めきれずにその場にひっくり返り、頭に衝撃が走る。――そこでタカ丸の意識は途切れた。
*
強く、投げ飛ばされた記憶が戻ってきた。受け身をとる間もない早さで地面に叩きつけられ、あのときは確かあばらを折ったはずだ。すう、とすくい上げられるように意識が浮上し、目を開けたタカ丸ははっとして体を起こす。見下ろした両腕は傷ひとつなく、指も問題なく動く。ほっと息を吐いて胸をなで下ろした。
「起きた」
「え?」
ようやく周りに意識を向ければ、タカ丸のそばにはセーラー服の少女が立っていた。それは昨日調べた、大川学園のもので間違いない。体を屈めてタカ丸の額に手を当てる彼女の、ポニーテールがさらりと落ちた。どうやら自分はベッドの上にいるらしい、と初めて気づく。少し意地悪そうにとがった唇が、相変わらずだな、と小さく零した。
「え?」
「どこか痛いところはありますか?」
「え、えーと」
「目覚めたか」
カーテンの向こうから男性が顔を出した。その見覚えのある顔に、タカ丸は安心して力を抜いた。
「土井先生」
つぶやいてからはっとすた。――誰だ?混乱する頭を抱えて自問する。改めて見れば彼は知らない男性だ。似た人も知らないし、常連客なら覚えている。タカ丸の様子に彼らは顔を見合わせ、少女はそっと水を差し出した。ゆっくり飲んで、の言葉に従い、コップを受け取ってよく冷えた水を口に含む。体まですうっと冷えるようで、少し頭が軽くなった。
「落ち着いた?」
「はい……」
「よかった。すまなかったね、うちの生徒の活動に巻き込んでしまったようで。見た限り怪我はないようだが、痛いところはあるかい」
「いえ、大丈夫です……多分」
「まあ受け身は取れてたみたいだから」
「はぁ……」
「何か用があって来たのかな?」
男の笑顔にまた考え込む。やはり、……知っている。この笑顔を、声を。タカ丸の様子に彼も困ったように笑って、無理に考えなくていい、と優しく言った。
「左近、他の子は?」
「しろべえはテンパってたので次屋先輩が連れていきました。生物はみんな帰りました。というか帰しました」
「わかった。君、名前は?」
「あ……斎藤タカ丸です……」
「私は土井、ここの教師だ。今日は送るから帰りなさい」
「はぁ……」
納得がいかないまま生返事をする。そのときカーテンの向こうが騒がしくなり、誰かが制止を振りきったらしい。ジャッと大きくカーテンが開かれ、そこには顔を土で汚した少女が立っていた。保健室にシャベル持ち込まないで下さいよ!左近が彼女を睨む。Tシャツにジャージ、髪は適当にまとめられているが、昨日出会った少女に間違いない。「またね」と言った、あの少女。はっとしたタカ丸に近づいてきて、じっと顔をのぞき込んでくる。その丸い瞳に見つめられていると視界がちかちかした。くらりとよろけたタカ丸を彼女が支える。
「綾部」
「だってもう思い出しかけてますよ。かさぶたってはがしたくなりません?」
「やめなさい」
たしなめる土井の声が遠くなる。頭を抱えたタカ丸の脳裏には自分が知らないはずの、知っている光景が次々と浮かんでは消えていった。誰かの髷を結う自分、幼い少年に手を貸されて立ち上がり、雨の中を走る。目の前で繰り広げられる戦い。目が回る。呆れた顔の友人たち、それは、忍装束だった。
「あやべくん」
口をついて出た言葉に自分で驚く。しかし自分はやはり、知っているのだ。彼女――否、『彼』を。
「綾部喜八郎くん」
名を呼ばれた『彼』は瞬きをして、ほらごらんなさい、と土井を振り返る。土井は大きく溜息をつき、頭を抱えた。
「綾部くん」
「なんですか、タカ丸さん」
「ッ……」
ぎゅうっと胸が苦しくなり、視界が一気に涙に沈む。泣き出したタカ丸を、綾部は黙って抱きしめた。やわらかい感触は知らないものだったが、この体温には覚えがある。
「綾部くん」
「はいはい、綾部きはちろーですよ」
何も言葉にならない。一気によみがえる記憶はタカ丸の全身を巡り、それは痛みにも近い感覚でタカ丸を襲う。優しいぬくもりに包まれて、止まらない涙をこぼし続けた。――どうして忘れていたのだろう。こんなに大切な人たちなのに。
「滝夜叉丸も三木ヱ門も、みんないるんだよ。また4人で遊べるね」
*
「落ち着いたかい」
「はい……すみません」
左近の入れてくれたお茶をすすりながら、タカ丸は笑ってみせる。ぎこちないものだっただろうが、土井も苦笑を返した。ほどよく冷房の効いたこの部屋は、大川学園の保健室だ。――大川。今ならその名も思い出せる。大川平次渦正。それはかつて自分が学んだ、忍術学園の学園長の名だ。
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