言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.27.Fri
『東京駅なう』
そんな書き込みを何気なく目に留めた。自分がリンクしているメンバーの残したログのひとつだ。東京駅に用事のある人間が思いつかない。メンバー名を探し、健二の手は止まった。
『カズマ』
自分の目を疑っても、表示は変わらなかった。
「えっ?どういうこと?」
自室にひとりでいるにも関わらず、思わず言葉を口に出す。書き込まれた時間はわずか5分前だ。冗談なのか事実なのか、わからないまま携帯を取り出すうちにそのメッセージにサクマからのレスポンスが入る。
『ガチで?』
『ガチで八重洲口』
「ええええー!?」
まさか本当に東京にいるのだろうか。名古屋にいるはずの『キング・カズマ』――池沢佳主馬は。
一生忘れられないひと夏の経験をした長野で知り合った少年は、OZ内ではもはや誰もが知ってるであろう人物だった。ウサギ型の戦士の正体は謎に包まれているが、その『中の人』が13歳の少年だと知るものは皆無に等しい。あんな事件がなければ自分だって信じていないかもしれない。
――キング・カズマ。OMCのチャンピオンで、OZを混乱に陥れたAIとまともに渡り合った『ヒーロー』。それがどうして、今東京にいるのだろう。今日は8月30日、学生の夏休みはもはや終わりを告げているも同然だ。
健二の動揺とは裏腹に、親友の佐久間はのんきなものである。何しにきたの?と軽いノリで返している。あの雲の上の存在だった、キング・カズマにタメ口で。
『ねぇ、山の手って結局どっちに乗っても着くんだよね』
『着くけどググれwww』
『キングカズマどこいくのー?』
『キング・カズマなら今俺の隣で寝てるけど』
『目的地によっては山の手は遠回り』
『今から東京駅行くわ』
『安価で目的地決めようかな』
『池袋!』
『OZカフェ行った?』
『そんなことより野球しようぜ!』
『サクマのここ、あいてますよ』
『何それ気持ち悪い』
『俺今原宿』
『八重洲にいるよ!』
『横浜まではこない?』
『今北』
『俺も東京駅着いたお!』
『アキバなう!キングもこいよ』
『凸待ち?』
キング・カズマを見つけたアバターが一気に集まってくる。ちゃっかり隣を陣取っている猿も、キング・カズマの姿もあっと言う間に吹き出しに隠された。まだまだ増える書き込みを呆然と眺める。これは……本当、なのだろうか。
携帯電話が着信を告げ、手の中で振動するそれにびくりとする。ディスプレイに浮かぶのは佐久間のアバターだ。取り落としそうになりながらもそれに飛びつく。
「もしもしっ」
『お前今ログインしてるよな、キングが来てるけど』
「今見てる!何これ」
『あ、そうなの。今メールしたらさ、ガチで迷ってんだって。行かない?』
「ほっ、ほんとに来てんの!?」
『証拠の写真来たぜ』
パソコンがメールを受信する。佐久間からのメールを開くと、駅の看板と日焼けした手が写っている。Vサインだ。
『行こうぜ。俺本人には直接会ってないしさ!』
「迷ってるって、どこに行きたいの?」
『だから、どこに行こうか迷ってるんだって』
*
「久しぶり。……でもないか」
ちっちゃい、隣で小さくつぶやいた佐久間を慌ててど突く。見覚えのあるハーフパンツ、それと赤いTシャツ。イメージカラーは赤のままで変わりそうにない。パーカーを引っかけたショルダーバッグに手にしていたゲームをしまう。彼がOZを利用するのに使っていたのがパソコンだと思い出した。そういえばOZでリンクしただけで、他の連絡先は聞いていない。――携帯電話は、持っていないのだろうか。そうか、中学生だもんな。ゲーム機でもOZが利用できる今、携帯を持っていなくても珍しくはない。さっきの写真もあれで撮ったのだろう。汚れたサンダルに日焼けした肌。改めて見るとどこからどう見ても中学生だ。
「か……佳主馬くん、ひとりで来たの?」
「そうだよ」
「キング!初めまして、も変だけど、佐久間です」
「どうも、その節はお世話になりました」
「堅いなぁ」
「でもひとりでも欠けたらあいつは倒せなかった。僕をキング・カズマと信じて助けてくれた。感謝してます」
「ははっ、まぁ信じざるを得ないよね、あの状況じゃ。……うん、俺も、たかがバイトの高校生なのに、信用してくれてありがとう」
真摯な佳主馬の言葉に佐久間もまじめに応える。栄の葬儀の後に別れてから約ひと月、OZ内ではよく会っていたからあまり久しぶりという感覚はない。……と思っていたが、『キング・カズマ』ではなく『池沢佳主馬』を見るとやはり色々な感情がこみ上げる。
世界を救った。そんな実感はない。それでも、目の前の少年と共に戦ったのは事実だ。
「佳主馬くん、ほんとにひとりで来たの?」
「……あのねお兄さん、僕中学生だから。つーか、名古屋から東京なんて新幹線に乗れば着くから小学生でもひとりで来れる」
「そうだけど……何しにきたの?」
「……こないだ契約解除してきた何社かがまたオファーしてきたんだ。それでちょっと、お小遣い入ったから」
「あ、そうなんだ!スポンサー!」
「まあ全部じゃないけど」
「でもよかったね!だって今はまだチャンピオン不在のままじゃん。それでもスポンサーになってくれるってことは、チャンピオンじゃなくてキング・カズマを認めてくれたってことでしょ!」
「……ああ」
そういうことか、とわずかに目を見開いた佳主馬の表情は年相応に幼い。自分が13歳のときより遙かに大人びて見えるが、それでも中学生に違いはない。世界を救ったヒーローだって、人生経験は13年分しかないのだ。
「来るなら先に連絡してくれればよかったのに」
「するつもりだったんだけど、新幹線の中でずっと打ち合わせしてたから連絡できなくて。あ、エキシビジョンやるんだ。バトルフィールド壊されちゃったから、リニューアル後のお披露目。日付未定だけど、決まったらチケット送るよ」
「マジ!?うわー、絶対見る!OMCだけ復旧遅れてたもんなぁ」
「佐久間さんはOMC登録してるの?」
「してない。俺のアバター見たらわかるだろ。見るのは好きだよ」
「ペラペラだもんね。僕あんなアバ初めて見た。あんなの作れるんだ」
「あれOZが試用期間だったときのアバだよ。先輩に貰ったんだ」
「へぇ」
「まあ立ち話もなんだし、どっか行こうか。……東京駅からは離れた方がいい気がするし」
「間違ってウサギで書き込んじゃったんだよね」
OZを見た健二は苦笑する。そこではキング・カズマに続く『東京駅なう』が絶えず書き込まれていた。3人を見てこの中にキング・カズマがいるなどと誰も思わないだろうが、居心地が悪い。佐久間の誘導で歩き出す。
「キングは複アカ持ってんの?」
「初めにスポンサーつくことになったときOZが用意してくれたんだ。キング・カズマのアカウントは誰にも教えてなかったけど、中学に上がったらアカウントないのも不自然だろ。……スポンサーの都合もあるからさ」
「まあなー、ミステリアスなキングの正体が13歳なんて、荒れそうだし。じゃあ普段は複アカ使ってんの?」
「うん。まあそっちも親戚とクラスのやつぐらいしかリンクしてないけど」
「健二も?」
「うん、教えてもらった」
「じゃあ俺も知りたい」
「いいよ。お兄さんのところから飛んでよ。イケザワで探して。アバターはカスタムしてないからすぐわかると思う」
「イケザワなんだ」
「前はカズマにしてたけど、ログイン間違えるんだ」
「ははっ、なるほど。さて、どこに行く?」
「……部室見たい」
「高校の?」
「うん」
*
「小磯ぉ、どうした私服で」
「あっ、こんちは!ちょっと緊急で部室に用があって」
へらへら笑って担任教師をかわす。数学教師であることもあり、日本一は逃したとはいえ数学オリンピックに手を挙げた健二に甘い。この夏の騒ぎも知っているが、他の教師に隠れて諸手を挙げて喜んでいた。数オタの同士、と言った方がいいのかもしれない。
「またバイトかぁ?」
「そうなんですよ。末端の末端の末端とはいえ、家のノートじゃスペック足りなくて」
「稼ぐなぁ。他の先生に見つかんないよう気をつけろよ、今日高木先生来てるから」
「あはは……ご忠告ありがとうございます」
風紀に厳しい教師の名前にどきりとする。私服よりも何よりも、もっとやばいことがある。苦笑いをしたまま、買い出しのコンビニ袋を揺らして部室へ戻った。
「田中先生に見つかっちゃった」
「マジで?大丈夫だろ、田中なら」
「でも今日高木先生来てるって」
「うへぇ、帰り気をつけないとな、部外者が一番まずい」
扇風機の前に陣取っている佐久間もさっきの健二と同じような苦笑を見せた。お帰り、と小さく聞こえた声に佳主馬を見れば、パソコンに向かったままこっちは見ていない。ブラウザにはキング・カズマがいて、佳主馬はキーボードを叩いていた。
「どう?」
「やっぱりスペック全然違う!買おうかな……」
「さすがのキングでも自腹じゃ無理な額だと思うけど」
「このパソコンも前の部長があちこち口説き落として手に入れたんだよね」
「太助おじさんに相談してみよう。今すぐじゃなくてもいつか欲しい」
「部活は……って、中学じゃ大したもん使ってないか」
「どのみち学校じゃカズマは使えないよ」
「ああ、そっか」
「僕この高校入ろうかな」
「そりゃいいや、その頃には健二が田中先生口説いて更にいいのになってるかもよ」
けたけた笑う佐久間に緊張感はない。健二が買ってきたものから自分の注文を選び出し、佳主馬にも飲み物を差し出す。体ごとこっちへ向けてそれを受け取った佳主馬は、座る場所を探す健二を見た。目が合ったが何も言わない。椅子に積み上げてあったものを適当に避けて机に寄る。
「東京まで出てくるの?」
「いや、適当に言っただけだから」
「陣内家の人は家族といた方がいいよ」
「……だから」
「ね」
「……だから、冗談で言っただけでしょ。出てくるわけないじゃん、ひとり暮らししながら仕事できるなんて思ってない」
照れくさそうに顔を背けて佳主馬はパックジュースを開ける。あの日感情に任せて走った佳主馬が、新しい家族を疎ましいと思うはずがない。
時計を見て佳主馬が視線を落とす。
「佐久間さんはここで、戦ってたんだ」
「そうだよ〜このあっつい部屋でひとりで飯食って」
「……ねえ、お兄さんたちは将来どうするの」
「将来!?将来って……」
驚いて顔を上げると佳主馬は真剣だ。思わず佐久間と顔を見合わせる。
「……俺はOZのバイト続けながら適当な大学行って、大卒資格だけ引っさげてOZに就職するつもり」
「OZに?」
「そう。怪我の功名っつーか、ラブマのお陰で末端の末端の末端から末端の末端ぐらいには上がれそうだし」
「OZと関わっていくんだ」
「俺はOZを愛しちゃってるからね。健二は東大行くんだろ」
「うん、目指してる。やっぱり僕には数学しかないし」
「でもお兄さん、OZからスカウト来たって言ってなかった?」
「ええ〜?スカウトっていうほどのものじゃ……僕は解けるけど自分で作るのはできないから。頭かたいし」
「そうでもないと思うけど……」
「おっと電話だ、失礼」
佐久間が携帯を手にして顔をしかめた。嫌な予感がする、と一瞬健二へ向けた画面には、バイト先の上司のアバター。
「もしもっし。はい、はい、できます。a、j、f、5……」
キーボードを引き寄せた佐久間が届いたメールを素早くページを開く。佳主馬が場所を譲った。電話で指定された場所へ向かい、アバターを確認して携帯を下ろす。
「ごめんキング、急用」
「どうしたの?」
「鯖落ちかなぁ、まだわかんないけど」
「いいよ僕は」
ちらりと視線が健二へ向く。はっとして、僕は?と口にすると佐久間が笑った。
「キングの接待はお前に任せるよ。どっか行ってきたら?」
「どっか……」
佳主馬と目を合わせる。出る?と素っ気ない言葉が返ってきた。邪魔になりそうだし。振り回されているのを自覚しながら立ち上がった。
*
目的もなく、駅へ向かう。どうする?と聞いてみるが頼りない返事があるだけだ。
「……どこか、行きたいところがあるんじゃないの?」
再び時計を見ていた佳主馬に問う。しばしの沈黙の後、佳主馬は足を止めて健二を振り返った。
「お兄さん、僕はまだ子どもかな」
「……年齢は、関係ないと思うよ」
「会いたい人がいるんだ。会えるかわからないけど、僕が今東京にいることは知ってると思う」
「うん」
「でもその人は、キング・カズマはよく知ってるけど池沢佳主馬のことはよく知らない」
珍しく饒舌だ。彼らしくない遠回しな言い方に、どんな意味があるのか聞き漏らさないよう、耳を澄ませる。
「あの人が僕に会ったときどういうリアクションをするか、想像ができない。ほんとを言うと、怖いんだ」
「……一緒に行くよ」
「……ありがとう」
*
メールを送って佳主馬がノートパソコンを閉じる。緊張した面もちの佳主馬を初めて見た。ラブマシーンに果たし状を出したあの勝負の前でも落ち着いていた彼は、今何を考えているのだろう。
オフィスビルの並ぶこの辺りでは健二と佳主馬のふたりは浮いている。目の前を通り過ぎる背筋の伸びた女性も、暑そうにスーツを脱いでワイシャツの袖を捲っている男性も、OZのアカウントを持っているのだろうか。そうだとしたら、同じだ。子どもも大人も関係ない。世界を救ったヒーローは仮想現実の中にいて、あの日の自分たちが一瞬でも抱えた絶望感を知らない。佳主馬の涙を思い出す。
パソコンを鞄にしまった佳主馬は手持ち無沙汰に手のひらを合わせている。なんとなしにそれを見ているとその手が遠慮がちに健二の手に触れた。小指をつまみ、爪を撫でる。小指を握り、手放された瞬間に捕まえた。
「……暑いよ」
「おまじないか何か?」
「は?……ああ」
体温が離れた。癖。小さな声をどうにか聞き取る。体温よりも感触が残っていた。
目の前のビルから慌てた様子で男性が飛び出してくる。きょろきょろと辺りを見回す様子を見ていると、隣の佳主馬が体を緊張させた。健二がもう一度男性を見た頃には彼はこちらへ気づき、背広を翻して走ってくる。
「池沢くんっ!」
「……大野さんこんにちは」
「こんにちは……って、いきなりどうしてっ……」
「……会いたくて」
感情に揺れる声。男性が目を見開く。肩で息をしていたのに一瞬息を詰め、少しのフリーズのあとその場にしゃがみこむ。
「はは……びっくりしたよ。キングが東京来てるってつぶやくから仕事手に着かないしさ」
「すみません」
「いいんだ。こっちも謝りたかったから」
佳主馬がはっとして、ぷるぷると首を振る。幼い仕草に健二は思わず頬をゆるませた。どこか入る?の言葉に佳主馬は首を振る。
「ごめんね。一方的にスポンサー解約したくせに再契約までお願いして」
「……大野さんが、最後だったんです。再契約は一番早かった」
「あ〜……解約しろって上から言われてたの、散々渋ってたから。まぁ、抵抗しきれなかったんだけどさ」
「ラブマシーンとの再戦のときも、花札のときも見てくれてた」
「えっ、なんで!?」
「大野さんのアバター見つけたから」
「ああ……はは、俺、ほんとにキング・カズマのファンなんだ」
「……今日も突然来てごめんなさい。でも直接お礼を言いたくて」
「お礼?」
「最後まで信じてくれてありがとう」
早口で言い切った後、佳主馬はうつむいてしまった。目元は前髪で隠されて、横にいる健二には表情が見えない。正面にしゃがむ彼には、日焼けした頬がわずかに赤くなっているのが見えているのだろうか。
「……初めて君に会ったときは驚いた。あのチャンピオンがこんな少年だなんて誰が思うだろうね」
「っ……」
「だけど話をしていくうちにわかった。君が確かにキング・カズマだ。池沢くん、俺はね」
大人の手が佳主馬の手を取る。体を強ばらせた少年は強く、そして脆い。そのことを知っているかのような優しい手だ。
「キング・カズマのファンじゃない。君のファンなんだ、池沢佳主馬くん」
*
そんな書き込みを何気なく目に留めた。自分がリンクしているメンバーの残したログのひとつだ。東京駅に用事のある人間が思いつかない。メンバー名を探し、健二の手は止まった。
『カズマ』
自分の目を疑っても、表示は変わらなかった。
「えっ?どういうこと?」
自室にひとりでいるにも関わらず、思わず言葉を口に出す。書き込まれた時間はわずか5分前だ。冗談なのか事実なのか、わからないまま携帯を取り出すうちにそのメッセージにサクマからのレスポンスが入る。
『ガチで?』
『ガチで八重洲口』
「ええええー!?」
まさか本当に東京にいるのだろうか。名古屋にいるはずの『キング・カズマ』――池沢佳主馬は。
一生忘れられないひと夏の経験をした長野で知り合った少年は、OZ内ではもはや誰もが知ってるであろう人物だった。ウサギ型の戦士の正体は謎に包まれているが、その『中の人』が13歳の少年だと知るものは皆無に等しい。あんな事件がなければ自分だって信じていないかもしれない。
――キング・カズマ。OMCのチャンピオンで、OZを混乱に陥れたAIとまともに渡り合った『ヒーロー』。それがどうして、今東京にいるのだろう。今日は8月30日、学生の夏休みはもはや終わりを告げているも同然だ。
健二の動揺とは裏腹に、親友の佐久間はのんきなものである。何しにきたの?と軽いノリで返している。あの雲の上の存在だった、キング・カズマにタメ口で。
『ねぇ、山の手って結局どっちに乗っても着くんだよね』
『着くけどググれwww』
『キングカズマどこいくのー?』
『キング・カズマなら今俺の隣で寝てるけど』
『目的地によっては山の手は遠回り』
『今から東京駅行くわ』
『安価で目的地決めようかな』
『池袋!』
『OZカフェ行った?』
『そんなことより野球しようぜ!』
『サクマのここ、あいてますよ』
『何それ気持ち悪い』
『俺今原宿』
『八重洲にいるよ!』
『横浜まではこない?』
『今北』
『俺も東京駅着いたお!』
『アキバなう!キングもこいよ』
『凸待ち?』
キング・カズマを見つけたアバターが一気に集まってくる。ちゃっかり隣を陣取っている猿も、キング・カズマの姿もあっと言う間に吹き出しに隠された。まだまだ増える書き込みを呆然と眺める。これは……本当、なのだろうか。
携帯電話が着信を告げ、手の中で振動するそれにびくりとする。ディスプレイに浮かぶのは佐久間のアバターだ。取り落としそうになりながらもそれに飛びつく。
「もしもしっ」
『お前今ログインしてるよな、キングが来てるけど』
「今見てる!何これ」
『あ、そうなの。今メールしたらさ、ガチで迷ってんだって。行かない?』
「ほっ、ほんとに来てんの!?」
『証拠の写真来たぜ』
パソコンがメールを受信する。佐久間からのメールを開くと、駅の看板と日焼けした手が写っている。Vサインだ。
『行こうぜ。俺本人には直接会ってないしさ!』
「迷ってるって、どこに行きたいの?」
『だから、どこに行こうか迷ってるんだって』
*
「久しぶり。……でもないか」
ちっちゃい、隣で小さくつぶやいた佐久間を慌ててど突く。見覚えのあるハーフパンツ、それと赤いTシャツ。イメージカラーは赤のままで変わりそうにない。パーカーを引っかけたショルダーバッグに手にしていたゲームをしまう。彼がOZを利用するのに使っていたのがパソコンだと思い出した。そういえばOZでリンクしただけで、他の連絡先は聞いていない。――携帯電話は、持っていないのだろうか。そうか、中学生だもんな。ゲーム機でもOZが利用できる今、携帯を持っていなくても珍しくはない。さっきの写真もあれで撮ったのだろう。汚れたサンダルに日焼けした肌。改めて見るとどこからどう見ても中学生だ。
「か……佳主馬くん、ひとりで来たの?」
「そうだよ」
「キング!初めまして、も変だけど、佐久間です」
「どうも、その節はお世話になりました」
「堅いなぁ」
「でもひとりでも欠けたらあいつは倒せなかった。僕をキング・カズマと信じて助けてくれた。感謝してます」
「ははっ、まぁ信じざるを得ないよね、あの状況じゃ。……うん、俺も、たかがバイトの高校生なのに、信用してくれてありがとう」
真摯な佳主馬の言葉に佐久間もまじめに応える。栄の葬儀の後に別れてから約ひと月、OZ内ではよく会っていたからあまり久しぶりという感覚はない。……と思っていたが、『キング・カズマ』ではなく『池沢佳主馬』を見るとやはり色々な感情がこみ上げる。
世界を救った。そんな実感はない。それでも、目の前の少年と共に戦ったのは事実だ。
「佳主馬くん、ほんとにひとりで来たの?」
「……あのねお兄さん、僕中学生だから。つーか、名古屋から東京なんて新幹線に乗れば着くから小学生でもひとりで来れる」
「そうだけど……何しにきたの?」
「……こないだ契約解除してきた何社かがまたオファーしてきたんだ。それでちょっと、お小遣い入ったから」
「あ、そうなんだ!スポンサー!」
「まあ全部じゃないけど」
「でもよかったね!だって今はまだチャンピオン不在のままじゃん。それでもスポンサーになってくれるってことは、チャンピオンじゃなくてキング・カズマを認めてくれたってことでしょ!」
「……ああ」
そういうことか、とわずかに目を見開いた佳主馬の表情は年相応に幼い。自分が13歳のときより遙かに大人びて見えるが、それでも中学生に違いはない。世界を救ったヒーローだって、人生経験は13年分しかないのだ。
「来るなら先に連絡してくれればよかったのに」
「するつもりだったんだけど、新幹線の中でずっと打ち合わせしてたから連絡できなくて。あ、エキシビジョンやるんだ。バトルフィールド壊されちゃったから、リニューアル後のお披露目。日付未定だけど、決まったらチケット送るよ」
「マジ!?うわー、絶対見る!OMCだけ復旧遅れてたもんなぁ」
「佐久間さんはOMC登録してるの?」
「してない。俺のアバター見たらわかるだろ。見るのは好きだよ」
「ペラペラだもんね。僕あんなアバ初めて見た。あんなの作れるんだ」
「あれOZが試用期間だったときのアバだよ。先輩に貰ったんだ」
「へぇ」
「まあ立ち話もなんだし、どっか行こうか。……東京駅からは離れた方がいい気がするし」
「間違ってウサギで書き込んじゃったんだよね」
OZを見た健二は苦笑する。そこではキング・カズマに続く『東京駅なう』が絶えず書き込まれていた。3人を見てこの中にキング・カズマがいるなどと誰も思わないだろうが、居心地が悪い。佐久間の誘導で歩き出す。
「キングは複アカ持ってんの?」
「初めにスポンサーつくことになったときOZが用意してくれたんだ。キング・カズマのアカウントは誰にも教えてなかったけど、中学に上がったらアカウントないのも不自然だろ。……スポンサーの都合もあるからさ」
「まあなー、ミステリアスなキングの正体が13歳なんて、荒れそうだし。じゃあ普段は複アカ使ってんの?」
「うん。まあそっちも親戚とクラスのやつぐらいしかリンクしてないけど」
「健二も?」
「うん、教えてもらった」
「じゃあ俺も知りたい」
「いいよ。お兄さんのところから飛んでよ。イケザワで探して。アバターはカスタムしてないからすぐわかると思う」
「イケザワなんだ」
「前はカズマにしてたけど、ログイン間違えるんだ」
「ははっ、なるほど。さて、どこに行く?」
「……部室見たい」
「高校の?」
「うん」
*
「小磯ぉ、どうした私服で」
「あっ、こんちは!ちょっと緊急で部室に用があって」
へらへら笑って担任教師をかわす。数学教師であることもあり、日本一は逃したとはいえ数学オリンピックに手を挙げた健二に甘い。この夏の騒ぎも知っているが、他の教師に隠れて諸手を挙げて喜んでいた。数オタの同士、と言った方がいいのかもしれない。
「またバイトかぁ?」
「そうなんですよ。末端の末端の末端とはいえ、家のノートじゃスペック足りなくて」
「稼ぐなぁ。他の先生に見つかんないよう気をつけろよ、今日高木先生来てるから」
「あはは……ご忠告ありがとうございます」
風紀に厳しい教師の名前にどきりとする。私服よりも何よりも、もっとやばいことがある。苦笑いをしたまま、買い出しのコンビニ袋を揺らして部室へ戻った。
「田中先生に見つかっちゃった」
「マジで?大丈夫だろ、田中なら」
「でも今日高木先生来てるって」
「うへぇ、帰り気をつけないとな、部外者が一番まずい」
扇風機の前に陣取っている佐久間もさっきの健二と同じような苦笑を見せた。お帰り、と小さく聞こえた声に佳主馬を見れば、パソコンに向かったままこっちは見ていない。ブラウザにはキング・カズマがいて、佳主馬はキーボードを叩いていた。
「どう?」
「やっぱりスペック全然違う!買おうかな……」
「さすがのキングでも自腹じゃ無理な額だと思うけど」
「このパソコンも前の部長があちこち口説き落として手に入れたんだよね」
「太助おじさんに相談してみよう。今すぐじゃなくてもいつか欲しい」
「部活は……って、中学じゃ大したもん使ってないか」
「どのみち学校じゃカズマは使えないよ」
「ああ、そっか」
「僕この高校入ろうかな」
「そりゃいいや、その頃には健二が田中先生口説いて更にいいのになってるかもよ」
けたけた笑う佐久間に緊張感はない。健二が買ってきたものから自分の注文を選び出し、佳主馬にも飲み物を差し出す。体ごとこっちへ向けてそれを受け取った佳主馬は、座る場所を探す健二を見た。目が合ったが何も言わない。椅子に積み上げてあったものを適当に避けて机に寄る。
「東京まで出てくるの?」
「いや、適当に言っただけだから」
「陣内家の人は家族といた方がいいよ」
「……だから」
「ね」
「……だから、冗談で言っただけでしょ。出てくるわけないじゃん、ひとり暮らししながら仕事できるなんて思ってない」
照れくさそうに顔を背けて佳主馬はパックジュースを開ける。あの日感情に任せて走った佳主馬が、新しい家族を疎ましいと思うはずがない。
時計を見て佳主馬が視線を落とす。
「佐久間さんはここで、戦ってたんだ」
「そうだよ〜このあっつい部屋でひとりで飯食って」
「……ねえ、お兄さんたちは将来どうするの」
「将来!?将来って……」
驚いて顔を上げると佳主馬は真剣だ。思わず佐久間と顔を見合わせる。
「……俺はOZのバイト続けながら適当な大学行って、大卒資格だけ引っさげてOZに就職するつもり」
「OZに?」
「そう。怪我の功名っつーか、ラブマのお陰で末端の末端の末端から末端の末端ぐらいには上がれそうだし」
「OZと関わっていくんだ」
「俺はOZを愛しちゃってるからね。健二は東大行くんだろ」
「うん、目指してる。やっぱり僕には数学しかないし」
「でもお兄さん、OZからスカウト来たって言ってなかった?」
「ええ〜?スカウトっていうほどのものじゃ……僕は解けるけど自分で作るのはできないから。頭かたいし」
「そうでもないと思うけど……」
「おっと電話だ、失礼」
佐久間が携帯を手にして顔をしかめた。嫌な予感がする、と一瞬健二へ向けた画面には、バイト先の上司のアバター。
「もしもっし。はい、はい、できます。a、j、f、5……」
キーボードを引き寄せた佐久間が届いたメールを素早くページを開く。佳主馬が場所を譲った。電話で指定された場所へ向かい、アバターを確認して携帯を下ろす。
「ごめんキング、急用」
「どうしたの?」
「鯖落ちかなぁ、まだわかんないけど」
「いいよ僕は」
ちらりと視線が健二へ向く。はっとして、僕は?と口にすると佐久間が笑った。
「キングの接待はお前に任せるよ。どっか行ってきたら?」
「どっか……」
佳主馬と目を合わせる。出る?と素っ気ない言葉が返ってきた。邪魔になりそうだし。振り回されているのを自覚しながら立ち上がった。
*
目的もなく、駅へ向かう。どうする?と聞いてみるが頼りない返事があるだけだ。
「……どこか、行きたいところがあるんじゃないの?」
再び時計を見ていた佳主馬に問う。しばしの沈黙の後、佳主馬は足を止めて健二を振り返った。
「お兄さん、僕はまだ子どもかな」
「……年齢は、関係ないと思うよ」
「会いたい人がいるんだ。会えるかわからないけど、僕が今東京にいることは知ってると思う」
「うん」
「でもその人は、キング・カズマはよく知ってるけど池沢佳主馬のことはよく知らない」
珍しく饒舌だ。彼らしくない遠回しな言い方に、どんな意味があるのか聞き漏らさないよう、耳を澄ませる。
「あの人が僕に会ったときどういうリアクションをするか、想像ができない。ほんとを言うと、怖いんだ」
「……一緒に行くよ」
「……ありがとう」
*
メールを送って佳主馬がノートパソコンを閉じる。緊張した面もちの佳主馬を初めて見た。ラブマシーンに果たし状を出したあの勝負の前でも落ち着いていた彼は、今何を考えているのだろう。
オフィスビルの並ぶこの辺りでは健二と佳主馬のふたりは浮いている。目の前を通り過ぎる背筋の伸びた女性も、暑そうにスーツを脱いでワイシャツの袖を捲っている男性も、OZのアカウントを持っているのだろうか。そうだとしたら、同じだ。子どもも大人も関係ない。世界を救ったヒーローは仮想現実の中にいて、あの日の自分たちが一瞬でも抱えた絶望感を知らない。佳主馬の涙を思い出す。
パソコンを鞄にしまった佳主馬は手持ち無沙汰に手のひらを合わせている。なんとなしにそれを見ているとその手が遠慮がちに健二の手に触れた。小指をつまみ、爪を撫でる。小指を握り、手放された瞬間に捕まえた。
「……暑いよ」
「おまじないか何か?」
「は?……ああ」
体温が離れた。癖。小さな声をどうにか聞き取る。体温よりも感触が残っていた。
目の前のビルから慌てた様子で男性が飛び出してくる。きょろきょろと辺りを見回す様子を見ていると、隣の佳主馬が体を緊張させた。健二がもう一度男性を見た頃には彼はこちらへ気づき、背広を翻して走ってくる。
「池沢くんっ!」
「……大野さんこんにちは」
「こんにちは……って、いきなりどうしてっ……」
「……会いたくて」
感情に揺れる声。男性が目を見開く。肩で息をしていたのに一瞬息を詰め、少しのフリーズのあとその場にしゃがみこむ。
「はは……びっくりしたよ。キングが東京来てるってつぶやくから仕事手に着かないしさ」
「すみません」
「いいんだ。こっちも謝りたかったから」
佳主馬がはっとして、ぷるぷると首を振る。幼い仕草に健二は思わず頬をゆるませた。どこか入る?の言葉に佳主馬は首を振る。
「ごめんね。一方的にスポンサー解約したくせに再契約までお願いして」
「……大野さんが、最後だったんです。再契約は一番早かった」
「あ〜……解約しろって上から言われてたの、散々渋ってたから。まぁ、抵抗しきれなかったんだけどさ」
「ラブマシーンとの再戦のときも、花札のときも見てくれてた」
「えっ、なんで!?」
「大野さんのアバター見つけたから」
「ああ……はは、俺、ほんとにキング・カズマのファンなんだ」
「……今日も突然来てごめんなさい。でも直接お礼を言いたくて」
「お礼?」
「最後まで信じてくれてありがとう」
早口で言い切った後、佳主馬はうつむいてしまった。目元は前髪で隠されて、横にいる健二には表情が見えない。正面にしゃがむ彼には、日焼けした頬がわずかに赤くなっているのが見えているのだろうか。
「……初めて君に会ったときは驚いた。あのチャンピオンがこんな少年だなんて誰が思うだろうね」
「っ……」
「だけど話をしていくうちにわかった。君が確かにキング・カズマだ。池沢くん、俺はね」
大人の手が佳主馬の手を取る。体を強ばらせた少年は強く、そして脆い。そのことを知っているかのような優しい手だ。
「キング・カズマのファンじゃない。君のファンなんだ、池沢佳主馬くん」
*
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2013'12.27.Fri
悪趣味なことだ。
高坂のような無頓着な男でさえそうとわかる高級な調度品に囲まれた部屋は、きっとそれ専用の檻なのだ。甘い花の香りが漂い、レースやフリルの繊細なもので飾られたここは、場所が違うだけで動物園と同じなのだろう。見せ物は可憐な少女たち。ここは貴族の間で流行している、『観用少女』の専門店だ。
プライベートであれば高坂には一生縁のない店だが、新しいもの好きの主人がほしがらないはずもない。職人の最高傑作が入ったと聞けばせっせと通っているが、未だ手にすることはなかった。それは決して主人が選り好みしているから、というわけではない。
「おおっ、これはまた、美しい」
「『伝七』と呼ばれています」
「……しかし、目を開けんのう」
「美しい瞳をしているのですが、お見せできなくて残念です」
店主は眉を下げ、オーバーなほど嘆いて見せた。当の主人の方はもう慣れてしまったのか、いつものように店の少女たちの顔を覗いて歩く。誰かひとりぐらい気の変わったものはいないかと期待しての行動だが、今日も無駄足のようだ。
『観用少女』はパートナーを選ぶ。パートナーに応えて微笑み、決めたパートナーにだけ寄り添う、わがままなおもちゃだ。しかしそれが、貴族たちにとってはある種のステータスとなるらしい。
主人はどうも相性が悪いのか、どんな『観用少女』も微笑むことがなかった。金に任せて強引に手に入れることもできるが、それでは『観用少女』は枯れてしまうだけだという。確かに少女たちは一様に美しいが、高坂にはこんな手間のかかるものの何が楽しいのかわからなかった。
「おや、見慣れないのがあるな」
「ああ、そちらはちょっと訳アリで」
「訳アリ?」
「中古品、とすればいいのか、何せ主人が4回変わっていまして」
「何?それはまた不運な」
「さて、不運は一体どちらでしょう」
主人は意味深に微笑む店主を振り返った。高坂はふと好奇心を出しその『観用少女』を見る。
『観用少女』は高額である。しかしそれだけに一旦人の手に渡ると価値は下がる一方で、つい衝動で買ってしまった者が返品を望んでも買値はぐんと低くなるため、手放すにも覚悟がいる代物だ。それが4度もあったとなると、一体どんないわくがあるのだろうか。
その『観用少女』は濡れたような黒い髪を垂らし、髪が隠す頬は桃のように色づいている。まぶしいほど華やかな着物を纏い、大きすぎる椅子に行儀よく収まる姿はまさに人形だ。高坂が見ているうちに、短いまつげが縁取るまぶたが花が綻ぶように開いた。宝石をはめ込んだような瞳が高坂を見据える。
「最初の主人はとある大富豪でした。この子を自慢にしていてパーティーや集会など人の集まる場所には必ず連れていき、見せびらかして賞賛の言葉をもらうのを楽しんでいたようです。あるパーティーの晩、男はいつものように少女を自慢している最中に商売敵に毒を盛られ、そのまま帰らぬ人となりました」
つるりとした瞳には何を映しているのか、己の過去に憂いも見せない。すうとまぶたが閉じると思えば、また高坂を見ている。
「ふたり目は優秀なルポライターの女性。この子を連れて世界中を飛び回りあらゆるものを見せました。きっとこの子の見ていない世界を探す方が困難でしょう。しかし彼女は若さ故に無鉄砲と勇気をはき違えていたようです。ある国の内戦の様子を取材に行き、その花を散らせることとなりました」
高坂はそれと目が合っていることに気がついた。こんな人形が一体何を見て人を選ぶと言うのだろう。高坂が顔を背けるとその視線を追うように顔を傾ける。その先に何もないことに気づいてか再び高坂を見た。
「3人目は女の子でした。彼女は体が弱く、なかなか学校にも通えなかった為に、ご両親が友達として与えたのです。女の子はお揃いのドレスを着て、いつどんなときでも一緒でした。女の子は徐々に体も強くなり、学校にも通えることになりました。学校に行くようになっても女の子の一番の友達は変わりませんでした。毎日帰ってきては1日の報告をしている様子は大変微笑ましいものでしたが、学校にも慣れた頃、女の子は帰り道で車にはねられてしまいました。幸い命は取り留めましたが、少女と遊ぶことはできなくなってしまったそうです」
ゆっくりと瞬きをした人形は、高坂から視線を外さない。意志は感じられないのに射るような力のある瞳。高坂は知らずに唾を飲む。――不運、なのは、人形ではなく。
「4人目は?」
主人が店主に促した。高坂もそちらを見る。どこか困ったような顔で渋って見せた後、店主は決めたように笑みを浮かべる。
「4人目の主人は、ある日突然いなくなってしまいました。残ったものは『観用少女』だけ、真実は永遠に闇の中」
――『観用少女』の唇が、弧を描く。
「おや、『左近』に気に入られたようですね」
店主の笑みも、まるで人形のようであった。
*
「華やかになりましたね〜」
「冗談じゃない!」
感情のままに怒鳴りつけたが尊奈門は怯みもしなかった。適応力の高い後輩は、人形の座る椅子の前にしゃがみ込む。
「初めまして、私は諸泉尊奈門です。よろしくね、左近ちゃん」
「尊、お前引き取れ」
「無理ですね」
その人形が尊奈門を見ていたのはわずかな間で、視線はすぐに引き寄せられるように高坂に向かう。その目は高坂を苛つかせ、我ながらつまらないことをしていると思いながらも人形に背を向けた。
――あの店で、『左近』と呼ばれる『観用少女』は高坂に微笑みかけた。そうかと思えば椅子から立ち上がり、そっと近づいて高坂のスーツの裾を小さな手で掴み、じっと高坂を見上げる。何が起きているのかわからなかった高坂に、店主は嬉しそうに言ったのだ。
「今度は最後のパートナーになるといいね」
とっさに幼い手を振り払おうとしたのを止めたのは、主人の歓喜の声だった。
どんな『観用少女』の笑みも得られない主人は、とにかく相性が悪いのだろう。どうやら半ばあきらめていたようだが、運転手として着いてきただけの高坂に白羽の矢が立った。この際手元に置けるのならいいと結論を出したらしく、高坂の了承を得ないまま商談は始まり、その間『観用少女』はずっと高坂を見上げて笑っていた。
そして、その日のうちに高坂の部屋に『観用少女』のためのあれやこれが運び込まれた。要人の運転手兼ボディーガードであった高坂にとって、降って沸いた「人形の世話」とあう仕事は不本意なものでしかない。
『観用少女』の世話は簡単なもので、一日三度のミルクを与える他は、愛情を注ぐだけだ。しかしその愛情が、高坂にとっては厄介だった。餌をやるだけならまだしも、大の大人が風呂だ着替えだと人形に振り回されるなど我慢ができない。
「いいじゃないですか、給料倍になるんでしょ?」
「金をもらっても人形遊びなんてしたくない!」
「ま、殿のご命令だから仕方ないね。いいじゃない、かわいいよ」
高坂がはっとして振り返ると、いつの間にか尊敬する上司がやってきている。雑渡は無造作に抱えていたくまのぬいぐるみを左近の膝に置いた。左近は不思議そうに雑渡を見上げたが、笑みを見せることはない。
「ふうん、殿のおっしゃる通りだ。陣左、ちょっと呼んでみてよ」
「……左近」
言われるままに高坂が名を呼べば、左近はぱっとこちらに笑顔を向ける。無垢な笑みはより高坂を苛つかせるのだが、そんなことに気づくほど賢くはないようだ。雑渡は感心したように左近の頭を撫でる。
「愛してくれない男を選んでしまうなんて、今度は君が不運のようだね。」
雑渡はこの生き人形にまつわる不運の話も聞いたようだ。社交界で見せびらかすにはもってこいな話題であることには違いない。――まるで、『観用少女』自身が不運をもたらしていたかのような過去だ。
尊奈門の方は初耳だったのか、雑渡に説明を求めている。その間に左近を見れば、くまのぬいぐるみを膝から転がり落としていた。主人からのいただきものを粗末に扱うことはできない。拾い上げて改めて渡すと、きょとんと高坂を見上げる。
「大事にしなさい」
高坂の言葉を聞いて、左近はようやくぬいぐるみを抱きしめる。その笑顔を見るに、気に入らなかったわけではないらしい。
「ほう。陣左を介せばいいんだね」
「でも高坂さん近いうちに『観用少女』の呪いで死ぬんじゃないですか?」
「ばかばかしい」
「ま、何にせよしっかりお世話するんだよ」
改めて左近を見て、高坂は深く溜息をついた。
*
あたたかい。傍らのぬくもりに手を伸ばす。甘い香りに誘われて眠りから覚めた高坂の視界は、左近がほとんどを占めていた。高坂が起きたことがわかるとご機嫌ですり寄ってくる。
「はぁ……左近、毎日起こしにこなくていいんだよ……」
左近のベッドは別にある。毎晩そこで眠るのを見ているが、朝にはこうして高坂のベッドに潜り込んでいた。どう言っても左近はこの習慣をやめてくれないので、高坂はいつか寝ぼけて傷つけやしないかと気が気でない。
左近は高坂のものではない。毎日のミルクにドレス、バス用品に至るまで全て所有者は高坂の主人だ。
高坂がベッドを降りると左近も跳ね起きる。まずは左近の着替えからだ。きれいなドレスに着替えさせた後はミルクの用意。これは『観用少女』用の高級品は毎朝新鮮なものが届けられる。高坂が仕事に行っている間はメイドに任せているが、それをわからせるまでが一苦労だった。慣れるまではメイドがどんなになだめすかしても差し出したミルクに手をつけず、高坂が帰るまで1日中椅子に座って身動きすらせずにメイドを困らせていたのだ。高坂が帰るとぱっと立ち上がり、高坂が差し出してようやくミルクを口にする。そんな頃から考えれば、高坂を待たずに食事をしてくれるようになっただけで大きな進歩だ。飲まないなら好きにしておけ、というわけにもいかず、徐々に色つやの衰えていく姿に随分焦らされた。
ドアがノックされ、高坂は自分の身支度を整えながら応える。入ってきたのは、そのメイドだ。いつものように、左近のミルクと高坂の朝食を運んできた。
「高坂さんおはようございます」
「おはよう三反田さん」
「左近もおはよう」
メイドの三反田が笑いかけると左近も笑みを見せた。高坂以外に初めて笑いかけた相手は三反田だった。時間はかかったが心を開いてくれて随分と助かっている。
「パーティー、今夜ですよね」
「ああ、夕方には迎えにくるよ」
「ではそれまでに支度しておきます。左近、今夜はパーティーだからうんとおめかししようね」
大人しくテーブルについた左近にミルクを渡し、三反田は笑いかけた。くん、とミルクの匂いに鼻を近づける左近は幼く愛らしい。
高坂のような無頓着な男でさえそうとわかる高級な調度品に囲まれた部屋は、きっとそれ専用の檻なのだ。甘い花の香りが漂い、レースやフリルの繊細なもので飾られたここは、場所が違うだけで動物園と同じなのだろう。見せ物は可憐な少女たち。ここは貴族の間で流行している、『観用少女』の専門店だ。
プライベートであれば高坂には一生縁のない店だが、新しいもの好きの主人がほしがらないはずもない。職人の最高傑作が入ったと聞けばせっせと通っているが、未だ手にすることはなかった。それは決して主人が選り好みしているから、というわけではない。
「おおっ、これはまた、美しい」
「『伝七』と呼ばれています」
「……しかし、目を開けんのう」
「美しい瞳をしているのですが、お見せできなくて残念です」
店主は眉を下げ、オーバーなほど嘆いて見せた。当の主人の方はもう慣れてしまったのか、いつものように店の少女たちの顔を覗いて歩く。誰かひとりぐらい気の変わったものはいないかと期待しての行動だが、今日も無駄足のようだ。
『観用少女』はパートナーを選ぶ。パートナーに応えて微笑み、決めたパートナーにだけ寄り添う、わがままなおもちゃだ。しかしそれが、貴族たちにとってはある種のステータスとなるらしい。
主人はどうも相性が悪いのか、どんな『観用少女』も微笑むことがなかった。金に任せて強引に手に入れることもできるが、それでは『観用少女』は枯れてしまうだけだという。確かに少女たちは一様に美しいが、高坂にはこんな手間のかかるものの何が楽しいのかわからなかった。
「おや、見慣れないのがあるな」
「ああ、そちらはちょっと訳アリで」
「訳アリ?」
「中古品、とすればいいのか、何せ主人が4回変わっていまして」
「何?それはまた不運な」
「さて、不運は一体どちらでしょう」
主人は意味深に微笑む店主を振り返った。高坂はふと好奇心を出しその『観用少女』を見る。
『観用少女』は高額である。しかしそれだけに一旦人の手に渡ると価値は下がる一方で、つい衝動で買ってしまった者が返品を望んでも買値はぐんと低くなるため、手放すにも覚悟がいる代物だ。それが4度もあったとなると、一体どんないわくがあるのだろうか。
その『観用少女』は濡れたような黒い髪を垂らし、髪が隠す頬は桃のように色づいている。まぶしいほど華やかな着物を纏い、大きすぎる椅子に行儀よく収まる姿はまさに人形だ。高坂が見ているうちに、短いまつげが縁取るまぶたが花が綻ぶように開いた。宝石をはめ込んだような瞳が高坂を見据える。
「最初の主人はとある大富豪でした。この子を自慢にしていてパーティーや集会など人の集まる場所には必ず連れていき、見せびらかして賞賛の言葉をもらうのを楽しんでいたようです。あるパーティーの晩、男はいつものように少女を自慢している最中に商売敵に毒を盛られ、そのまま帰らぬ人となりました」
つるりとした瞳には何を映しているのか、己の過去に憂いも見せない。すうとまぶたが閉じると思えば、また高坂を見ている。
「ふたり目は優秀なルポライターの女性。この子を連れて世界中を飛び回りあらゆるものを見せました。きっとこの子の見ていない世界を探す方が困難でしょう。しかし彼女は若さ故に無鉄砲と勇気をはき違えていたようです。ある国の内戦の様子を取材に行き、その花を散らせることとなりました」
高坂はそれと目が合っていることに気がついた。こんな人形が一体何を見て人を選ぶと言うのだろう。高坂が顔を背けるとその視線を追うように顔を傾ける。その先に何もないことに気づいてか再び高坂を見た。
「3人目は女の子でした。彼女は体が弱く、なかなか学校にも通えなかった為に、ご両親が友達として与えたのです。女の子はお揃いのドレスを着て、いつどんなときでも一緒でした。女の子は徐々に体も強くなり、学校にも通えることになりました。学校に行くようになっても女の子の一番の友達は変わりませんでした。毎日帰ってきては1日の報告をしている様子は大変微笑ましいものでしたが、学校にも慣れた頃、女の子は帰り道で車にはねられてしまいました。幸い命は取り留めましたが、少女と遊ぶことはできなくなってしまったそうです」
ゆっくりと瞬きをした人形は、高坂から視線を外さない。意志は感じられないのに射るような力のある瞳。高坂は知らずに唾を飲む。――不運、なのは、人形ではなく。
「4人目は?」
主人が店主に促した。高坂もそちらを見る。どこか困ったような顔で渋って見せた後、店主は決めたように笑みを浮かべる。
「4人目の主人は、ある日突然いなくなってしまいました。残ったものは『観用少女』だけ、真実は永遠に闇の中」
――『観用少女』の唇が、弧を描く。
「おや、『左近』に気に入られたようですね」
店主の笑みも、まるで人形のようであった。
*
「華やかになりましたね〜」
「冗談じゃない!」
感情のままに怒鳴りつけたが尊奈門は怯みもしなかった。適応力の高い後輩は、人形の座る椅子の前にしゃがみ込む。
「初めまして、私は諸泉尊奈門です。よろしくね、左近ちゃん」
「尊、お前引き取れ」
「無理ですね」
その人形が尊奈門を見ていたのはわずかな間で、視線はすぐに引き寄せられるように高坂に向かう。その目は高坂を苛つかせ、我ながらつまらないことをしていると思いながらも人形に背を向けた。
――あの店で、『左近』と呼ばれる『観用少女』は高坂に微笑みかけた。そうかと思えば椅子から立ち上がり、そっと近づいて高坂のスーツの裾を小さな手で掴み、じっと高坂を見上げる。何が起きているのかわからなかった高坂に、店主は嬉しそうに言ったのだ。
「今度は最後のパートナーになるといいね」
とっさに幼い手を振り払おうとしたのを止めたのは、主人の歓喜の声だった。
どんな『観用少女』の笑みも得られない主人は、とにかく相性が悪いのだろう。どうやら半ばあきらめていたようだが、運転手として着いてきただけの高坂に白羽の矢が立った。この際手元に置けるのならいいと結論を出したらしく、高坂の了承を得ないまま商談は始まり、その間『観用少女』はずっと高坂を見上げて笑っていた。
そして、その日のうちに高坂の部屋に『観用少女』のためのあれやこれが運び込まれた。要人の運転手兼ボディーガードであった高坂にとって、降って沸いた「人形の世話」とあう仕事は不本意なものでしかない。
『観用少女』の世話は簡単なもので、一日三度のミルクを与える他は、愛情を注ぐだけだ。しかしその愛情が、高坂にとっては厄介だった。餌をやるだけならまだしも、大の大人が風呂だ着替えだと人形に振り回されるなど我慢ができない。
「いいじゃないですか、給料倍になるんでしょ?」
「金をもらっても人形遊びなんてしたくない!」
「ま、殿のご命令だから仕方ないね。いいじゃない、かわいいよ」
高坂がはっとして振り返ると、いつの間にか尊敬する上司がやってきている。雑渡は無造作に抱えていたくまのぬいぐるみを左近の膝に置いた。左近は不思議そうに雑渡を見上げたが、笑みを見せることはない。
「ふうん、殿のおっしゃる通りだ。陣左、ちょっと呼んでみてよ」
「……左近」
言われるままに高坂が名を呼べば、左近はぱっとこちらに笑顔を向ける。無垢な笑みはより高坂を苛つかせるのだが、そんなことに気づくほど賢くはないようだ。雑渡は感心したように左近の頭を撫でる。
「愛してくれない男を選んでしまうなんて、今度は君が不運のようだね。」
雑渡はこの生き人形にまつわる不運の話も聞いたようだ。社交界で見せびらかすにはもってこいな話題であることには違いない。――まるで、『観用少女』自身が不運をもたらしていたかのような過去だ。
尊奈門の方は初耳だったのか、雑渡に説明を求めている。その間に左近を見れば、くまのぬいぐるみを膝から転がり落としていた。主人からのいただきものを粗末に扱うことはできない。拾い上げて改めて渡すと、きょとんと高坂を見上げる。
「大事にしなさい」
高坂の言葉を聞いて、左近はようやくぬいぐるみを抱きしめる。その笑顔を見るに、気に入らなかったわけではないらしい。
「ほう。陣左を介せばいいんだね」
「でも高坂さん近いうちに『観用少女』の呪いで死ぬんじゃないですか?」
「ばかばかしい」
「ま、何にせよしっかりお世話するんだよ」
改めて左近を見て、高坂は深く溜息をついた。
*
あたたかい。傍らのぬくもりに手を伸ばす。甘い香りに誘われて眠りから覚めた高坂の視界は、左近がほとんどを占めていた。高坂が起きたことがわかるとご機嫌ですり寄ってくる。
「はぁ……左近、毎日起こしにこなくていいんだよ……」
左近のベッドは別にある。毎晩そこで眠るのを見ているが、朝にはこうして高坂のベッドに潜り込んでいた。どう言っても左近はこの習慣をやめてくれないので、高坂はいつか寝ぼけて傷つけやしないかと気が気でない。
左近は高坂のものではない。毎日のミルクにドレス、バス用品に至るまで全て所有者は高坂の主人だ。
高坂がベッドを降りると左近も跳ね起きる。まずは左近の着替えからだ。きれいなドレスに着替えさせた後はミルクの用意。これは『観用少女』用の高級品は毎朝新鮮なものが届けられる。高坂が仕事に行っている間はメイドに任せているが、それをわからせるまでが一苦労だった。慣れるまではメイドがどんなになだめすかしても差し出したミルクに手をつけず、高坂が帰るまで1日中椅子に座って身動きすらせずにメイドを困らせていたのだ。高坂が帰るとぱっと立ち上がり、高坂が差し出してようやくミルクを口にする。そんな頃から考えれば、高坂を待たずに食事をしてくれるようになっただけで大きな進歩だ。飲まないなら好きにしておけ、というわけにもいかず、徐々に色つやの衰えていく姿に随分焦らされた。
ドアがノックされ、高坂は自分の身支度を整えながら応える。入ってきたのは、そのメイドだ。いつものように、左近のミルクと高坂の朝食を運んできた。
「高坂さんおはようございます」
「おはよう三反田さん」
「左近もおはよう」
メイドの三反田が笑いかけると左近も笑みを見せた。高坂以外に初めて笑いかけた相手は三反田だった。時間はかかったが心を開いてくれて随分と助かっている。
「パーティー、今夜ですよね」
「ああ、夕方には迎えにくるよ」
「ではそれまでに支度しておきます。左近、今夜はパーティーだからうんとおめかししようね」
大人しくテーブルについた左近にミルクを渡し、三反田は笑いかけた。くん、とミルクの匂いに鼻を近づける左近は幼く愛らしい。
2013'12.27.Fri
えー、ばかばかしいお話を一席。いやぁ今日はね、紋付きなんて仕立ててもらっちまいまして、全く親ばかなんですから。今着てるこれなんですけどね、皆様よぉっく見といて下さい。明日には質屋に並んでます。へへっ、ドケチにゃもったいなくて持っていられませんからね。
ドケチといやぁ、昔こんなことがありました。私の友人に喜三太というナメクジが大好きなやつがおりまして、それはもう目に入れても痛くないとばかりにかわいがっていましてね。ナメ壷なんてぇ壷でナメクジを飼って毎日持ち歩いていたのでございます。ナメクジには1匹ずつ名前があったんですが、さてどんな名だったか忘れましたが、仮にナメ吉としましょうか。ある日ナメクジたちを散歩させていた喜三太はナメ吉がいないことに気がついた。こうなると喜三太はもう気が気じゃなく、飯を食っても風呂に入ってもそればかり。しまいには泣き出したもんだから、仕方なく友人たちで探してやることにしたんです。もちろん私も「お礼は出るかいっ」てな具合でひと口のっかりました。友情だろうが愛情だろうが、無償じゃおまんま食えませんからね。みんなで一匹のナメクジを探すってのはまた、おかしな光景ですよ。床下やら草むらやらを見てますから、はて犬か猫でも迷い込んだのかと人が聞けば、みんな「ナメクジさんやーい!」「ナメ吉やーい!」なんてやっててね。「やい、ナメクジなんか探してどうすんねや」「へえ、焼いて食います」なんてふざけて喜三太に怒られもしましたが、結局その日ナメ吉を見つけたのは私でした。というのも、へへ、軒下に小銭を見つけたんです。おっ、こりゃ儲けたなと思って手を伸ばせば、ぐにょっとしている。銭の上にナメ吉がいたんですな。ナメクジってのは、ありゃ触りたいもんじゃないですね、手のひらで遊ばせてる喜三太は一体どんな神経をしてるんだか。引きはがすのも嫌で小銭ごとナメ吉を持ってった。喜三太は大喜びで、もういなくなっちゃだめだよ、なんて言いながら壷を差し出す。私は返してやろうとナメ吉を差し出したんですが、手から小銭が離れない……いや、小銭からナメクジが離れない。どうにか壷の上でナメクジを落とそうとするんですが、あいつらは張りつくのが生業みたいなもんですからしつこいんです。遂に腕を振ったら小銭が指からすっぽ抜け、ナメクジと一緒にナメ壷に入ってしまった。ドケチが手にした銭を手離したなんてもうこれはドケチ失格です。挽回のためぱっとナメ壷に手を突っ込むと喜三太が悲鳴をあげましたが、そんなことに構っちゃいられません。ナメ壷の中はなんと言いますか、ぬるっと、べたっと、ぬとっと、ぐちゃっと、まあご想像にお任せしますが、とある方は女に似てるなんて言っちゃって、一体どういうことなんでしょうね。さて、そのナメ壷はさほど深くはないので小銭はすぐに見つけかりましたが、底をすくううちに、もう一枚小銭を見つけた。それどころか二枚三枚と底に貼りついている。きっと喜三太が知らずに落としたものだろうとは思いましたが、触れてしまったからにはドケチのものだ。そろって手のひらに握りしめて、壷から腕を抜こうとしたが、抜けない。ま、賢い方はおわかりでしょうが、こうして握ってるもんだから、壷の口より拳の方が大きいんですな。しかし一度握った小銭を残すなんてことをすればドケチの名が泣きます。最終的に仲間内で一番賢い庄左ヱ門が、指に小銭を挟んで指を伸ばして引き抜け、と言いまして、私の手は無事ナメ壷から解放されたのでありましたが、もらえた小銭は外で拾った一枚だけでありました。
私のドケチに関する話はご存じの方は幾つかご存じでしょうが、私は基本的には小銭稼ぎをしております。でかい仕事はしないんですな。一度に大金を持つと、持ち歩けなくなる。何を隠そう、私は全財産を身につけて持ち歩いているのです。この懐に。もし私がこんな安上がりの舞台でだらだらとくだらない話をするだけののんきな商売をしている間に、金を取られてしまっては元も子もございませんからな。
えー、私にはドケチの師匠が何人かおりますが、一番始めに師事したのは長屋の隣に住んでいた西念というインチキ坊主でございました。ぼろっちい身なりであっちへ行っては「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、こっちへ行っては「なんみょうほうれんげ」、そっちへ行ったら「アーメン」ってな具合でちまちまと稼いでおったわけですな。あるときその西念が煩いまして、医者を呼んで薬でも飲めば治ったのかもわかりませんが、ドケチというのはとにかく金を使うのが嫌いです。そんなことに金を使うぐらいなら、自然に治るのを待ってうずくまってた方がましだってんで、ずっと食うものも食わず臥せっていた。あまりにも姿を見かけないもんで、さすがに心配になって私も様子を見に行ったんです。
「やーい、西念さん、加減はどうだい」「何持ってきたぁ」「死にそうな声で何ほざいてやがる。あれあれ、元々細いのに骨と皮じゃないか。直に骨だけになっちまうぜ」「なんだきり丸か」
見舞いにきたってのになんだはねえだろ、つれねぇな。ちゃんと食ってんのかい?だめだよ飯は食わねえと。体は資本ってぇんだから。何か買ってきてやろうか、食べたいもの、何かあるだろ。え、言ってみな。今日だけ特別にタダで頼まれてやるからよ。何?……あんころ餅だぁ?具合が悪いってのにンな喉につまりそうなもんが食いてぇとは変わった坊主だ。まあいいや、買ってきてやるよ。ほれ。……ほれ、金出せよ。あ?あったり前じゃねえかドケチが金出せるかよ。……何、見舞いに来た方が出すのが道理だ?ったく余計なこと言っちまったぜ、しょうがねぇなぁ。どれぐらい欲しいんでぃ……何?ひと山?そんなに食うのかい?しんべヱ並の食欲じゃねえか!なんぼ何でもそれは聞けねえ頼みだな、と西念の部屋から逃げ出したものの、棺桶に片足つっこんでる病人の望みを無視するのはさすがのドケチでも少々後味が悪い。なんと言っても、何かの間違いで元気になって、恨み節でも聞かされちゃたまらない。こうなった手前手ぶらで西念のところに戻るわけにも行かないってんで、仕方なく餅屋まで行ったはいいものの、握りしめた拳からは小銭は離れてくれず、結局俺は餅屋の亭主に値切りに値切って餅をひと山手に入れた。
「ほら西念さん、お望みの餅だよ。ひと山だよ!ったく、ドケチが大枚叩いたんだからこれで元気になってくれなきゃ丸損だよ」「おお、ありがとよ」「ほら食いなよ。身を切る思いで買ってきたんだからよ、これ食って元気になってもらわなきゃやってらんねぇぜ」「ありがたくいただくよ」「おう、食いねぇ」「いただくよ」「たんと食え」「そうするよ」
なんて言いながら、西念はこちらを気にしてるだけで餅に手を出そうとしない。……何してんだよ、食いなよ。何?食べるところを見られたくないだぁ?何を女々しいことを言ってんだい、こちとら金出して見舞ってんだ、ちゃぁんとこの目の前で食べてくれなきゃ丸損だ。ほれ、あいたッ!なんだよ、叩くこたァねぇだろ。ったく、病人の癖にいじきたねぇ奴だぜ。それなら俺ァ帰るからよ、ちゃんと食って寝ろよ!ったく何考えてやがんだ。ほんとにちゃんと食ってんだろうな?まさか俺に買わせたものを売っぱらって儲ける気じゃあるめえな!
出てきたものの気になってしょうがないもんで、ボロっちい長屋の壁が隙間だらけなのをいいことに隣の部屋を覗きました。ったく、ほんとにドケチな坊主だぜ。食うとこ見てるぐらいで減りゃしないってんだ。ようやく起きあがってやがらぁ、背中ばっかりでよく見えねえな。もそもそと何かやってやがる。ありゃあ……なんだ?やっこさん、あんこと餅を分けてやがる。
ドケチといやぁ、昔こんなことがありました。私の友人に喜三太というナメクジが大好きなやつがおりまして、それはもう目に入れても痛くないとばかりにかわいがっていましてね。ナメ壷なんてぇ壷でナメクジを飼って毎日持ち歩いていたのでございます。ナメクジには1匹ずつ名前があったんですが、さてどんな名だったか忘れましたが、仮にナメ吉としましょうか。ある日ナメクジたちを散歩させていた喜三太はナメ吉がいないことに気がついた。こうなると喜三太はもう気が気じゃなく、飯を食っても風呂に入ってもそればかり。しまいには泣き出したもんだから、仕方なく友人たちで探してやることにしたんです。もちろん私も「お礼は出るかいっ」てな具合でひと口のっかりました。友情だろうが愛情だろうが、無償じゃおまんま食えませんからね。みんなで一匹のナメクジを探すってのはまた、おかしな光景ですよ。床下やら草むらやらを見てますから、はて犬か猫でも迷い込んだのかと人が聞けば、みんな「ナメクジさんやーい!」「ナメ吉やーい!」なんてやっててね。「やい、ナメクジなんか探してどうすんねや」「へえ、焼いて食います」なんてふざけて喜三太に怒られもしましたが、結局その日ナメ吉を見つけたのは私でした。というのも、へへ、軒下に小銭を見つけたんです。おっ、こりゃ儲けたなと思って手を伸ばせば、ぐにょっとしている。銭の上にナメ吉がいたんですな。ナメクジってのは、ありゃ触りたいもんじゃないですね、手のひらで遊ばせてる喜三太は一体どんな神経をしてるんだか。引きはがすのも嫌で小銭ごとナメ吉を持ってった。喜三太は大喜びで、もういなくなっちゃだめだよ、なんて言いながら壷を差し出す。私は返してやろうとナメ吉を差し出したんですが、手から小銭が離れない……いや、小銭からナメクジが離れない。どうにか壷の上でナメクジを落とそうとするんですが、あいつらは張りつくのが生業みたいなもんですからしつこいんです。遂に腕を振ったら小銭が指からすっぽ抜け、ナメクジと一緒にナメ壷に入ってしまった。ドケチが手にした銭を手離したなんてもうこれはドケチ失格です。挽回のためぱっとナメ壷に手を突っ込むと喜三太が悲鳴をあげましたが、そんなことに構っちゃいられません。ナメ壷の中はなんと言いますか、ぬるっと、べたっと、ぬとっと、ぐちゃっと、まあご想像にお任せしますが、とある方は女に似てるなんて言っちゃって、一体どういうことなんでしょうね。さて、そのナメ壷はさほど深くはないので小銭はすぐに見つけかりましたが、底をすくううちに、もう一枚小銭を見つけた。それどころか二枚三枚と底に貼りついている。きっと喜三太が知らずに落としたものだろうとは思いましたが、触れてしまったからにはドケチのものだ。そろって手のひらに握りしめて、壷から腕を抜こうとしたが、抜けない。ま、賢い方はおわかりでしょうが、こうして握ってるもんだから、壷の口より拳の方が大きいんですな。しかし一度握った小銭を残すなんてことをすればドケチの名が泣きます。最終的に仲間内で一番賢い庄左ヱ門が、指に小銭を挟んで指を伸ばして引き抜け、と言いまして、私の手は無事ナメ壷から解放されたのでありましたが、もらえた小銭は外で拾った一枚だけでありました。
私のドケチに関する話はご存じの方は幾つかご存じでしょうが、私は基本的には小銭稼ぎをしております。でかい仕事はしないんですな。一度に大金を持つと、持ち歩けなくなる。何を隠そう、私は全財産を身につけて持ち歩いているのです。この懐に。もし私がこんな安上がりの舞台でだらだらとくだらない話をするだけののんきな商売をしている間に、金を取られてしまっては元も子もございませんからな。
えー、私にはドケチの師匠が何人かおりますが、一番始めに師事したのは長屋の隣に住んでいた西念というインチキ坊主でございました。ぼろっちい身なりであっちへ行っては「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、こっちへ行っては「なんみょうほうれんげ」、そっちへ行ったら「アーメン」ってな具合でちまちまと稼いでおったわけですな。あるときその西念が煩いまして、医者を呼んで薬でも飲めば治ったのかもわかりませんが、ドケチというのはとにかく金を使うのが嫌いです。そんなことに金を使うぐらいなら、自然に治るのを待ってうずくまってた方がましだってんで、ずっと食うものも食わず臥せっていた。あまりにも姿を見かけないもんで、さすがに心配になって私も様子を見に行ったんです。
「やーい、西念さん、加減はどうだい」「何持ってきたぁ」「死にそうな声で何ほざいてやがる。あれあれ、元々細いのに骨と皮じゃないか。直に骨だけになっちまうぜ」「なんだきり丸か」
見舞いにきたってのになんだはねえだろ、つれねぇな。ちゃんと食ってんのかい?だめだよ飯は食わねえと。体は資本ってぇんだから。何か買ってきてやろうか、食べたいもの、何かあるだろ。え、言ってみな。今日だけ特別にタダで頼まれてやるからよ。何?……あんころ餅だぁ?具合が悪いってのにンな喉につまりそうなもんが食いてぇとは変わった坊主だ。まあいいや、買ってきてやるよ。ほれ。……ほれ、金出せよ。あ?あったり前じゃねえかドケチが金出せるかよ。……何、見舞いに来た方が出すのが道理だ?ったく余計なこと言っちまったぜ、しょうがねぇなぁ。どれぐらい欲しいんでぃ……何?ひと山?そんなに食うのかい?しんべヱ並の食欲じゃねえか!なんぼ何でもそれは聞けねえ頼みだな、と西念の部屋から逃げ出したものの、棺桶に片足つっこんでる病人の望みを無視するのはさすがのドケチでも少々後味が悪い。なんと言っても、何かの間違いで元気になって、恨み節でも聞かされちゃたまらない。こうなった手前手ぶらで西念のところに戻るわけにも行かないってんで、仕方なく餅屋まで行ったはいいものの、握りしめた拳からは小銭は離れてくれず、結局俺は餅屋の亭主に値切りに値切って餅をひと山手に入れた。
「ほら西念さん、お望みの餅だよ。ひと山だよ!ったく、ドケチが大枚叩いたんだからこれで元気になってくれなきゃ丸損だよ」「おお、ありがとよ」「ほら食いなよ。身を切る思いで買ってきたんだからよ、これ食って元気になってもらわなきゃやってらんねぇぜ」「ありがたくいただくよ」「おう、食いねぇ」「いただくよ」「たんと食え」「そうするよ」
なんて言いながら、西念はこちらを気にしてるだけで餅に手を出そうとしない。……何してんだよ、食いなよ。何?食べるところを見られたくないだぁ?何を女々しいことを言ってんだい、こちとら金出して見舞ってんだ、ちゃぁんとこの目の前で食べてくれなきゃ丸損だ。ほれ、あいたッ!なんだよ、叩くこたァねぇだろ。ったく、病人の癖にいじきたねぇ奴だぜ。それなら俺ァ帰るからよ、ちゃんと食って寝ろよ!ったく何考えてやがんだ。ほんとにちゃんと食ってんだろうな?まさか俺に買わせたものを売っぱらって儲ける気じゃあるめえな!
出てきたものの気になってしょうがないもんで、ボロっちい長屋の壁が隙間だらけなのをいいことに隣の部屋を覗きました。ったく、ほんとにドケチな坊主だぜ。食うとこ見てるぐらいで減りゃしないってんだ。ようやく起きあがってやがらぁ、背中ばっかりでよく見えねえな。もそもそと何かやってやがる。ありゃあ……なんだ?やっこさん、あんこと餅を分けてやがる。
2013'12.27.Fri
「数馬、藤内、左門と三之助見なかったか?」
部屋に顔を出した作兵衛に、三年は組のふたりは首を振った。そうか、と答えた作兵衛には、いつもの切羽詰まった様子がない。
作兵衛と同じクラスに、神崎左門と次屋三之助というふたりの厄介な方向音痴がいる。どちらも帰巣本能はあるのか、時間はかかるがいずれ帰っては来る。来るのだが、それが夕方なのか明日になるのか、はたまた数日かかるのかわからないという有様だ。無自覚である次屋はさておき、自分の方向音痴を自覚している左門にはもう少し自制してほしいところだが、そんなことは思いつきもしないらしい。
必然的にふたりの迷子の手綱を握っているのは富松の役割となっていたが、富松とて自分のするべきことがあり、いつもふたりを見張っているわけにはいかなかった。そして迷子を探すたびに大騒ぎをするのである。
しかし今日の富松には、いつもの狼狽した様子は見られなかった。
「焦らなくていいの?」
数馬の問いに、富松は庭に視線を遣る。何の変哲もない庭の隅で、ぱっと目を引く赤い花が咲いていた。
「あいつらなぜか、彼岸花が咲いてる時期はちゃんと帰ってくるんだ」
炎のような、或いは指をいっぱいに広げた手のような、天を向くそれは。
*
「うーむ、これは迷ったか」
迷い込んだ山の中で、左門は腕を組んで胸を張る。じっと何かを考えている様子だが、その実何も考えていない。カッと目を見開いて、直感で行き先を選ぶ。
「こっちだ!」
ざっと足元を鳴らして走り出した。幸いにも健脚であるので、多少の迷い道は苦ではない。ざくざくと威勢よく走る左門の視界の端に、ぱっと赤が散った。反射的に足を止め、左門は自分が目指していた方角と、きれいに並んで咲き誇る、彼岸花を見比べる。
今年ももう、彼岸花の咲く季節か。
どうやらまたしても自分の勘は間違っていたようである。左門は素直に進行方向を変え、彼岸花を辿って走り出した。
彼岸花が咲く先には、いつも富松の姿があった。
同じ頃、やはり山中で迷っていた次屋も彼岸花を見つけていた。
体育委員会の活動中にはぐれたらしい。らしいというのは自覚がないからである。次屋にしてみれば先輩について行っていたのだが、気づけば先輩が視界から消えていたのだ。ちゃんと後輩を射ておいてくれないと、と勝手なことを考えて溜息をついた先に、まぶしい赤が咲いていた。線の細い華奢な姿と見せかけて案外丈夫な茎を撫で、どうしたものかと考える。
先輩たちを追うべきか、待つべきか。どのみちいつも勝手な行動をするなと滝夜叉丸に怒られるのだから、どう振る舞っても結果は同じだろう。
そういえば、と思い、彼岸花を見下ろす。
富松は彼岸花が好きであるらしい。いつもこの季節は機嫌がよくて、彼岸花を見かけては手をかざす。土産に摘んで帰ろうか、とも思ったが、学園が火事になっては問題だ。次屋は迷信を信じるような子どもではないが、後輩を怖がらせてはいけないからな、と理由づける。
そういえば、保健委員の数馬にも彼岸花には触らない方がいいと怒られた。この燃えるような花は毒を持つ証拠であるらしい。
なおもどうするかと考えている間に滝夜叉丸の声が聞こえた。声を返すと、先輩の声は近づいてくる。
*
彼岸花の季節は短い。田畑を照らすような赤々とした鮮やかさは次第に色褪せて枯れていく。
その姿は死人花と呼ばれるのもわかるような気がするもので、あまりあの花を好まない人が多いのも納得できる気がした。学園の庭の隅に咲いていた彼岸花もほとんどその色をなくしてしまっている。
「
作兵衛まだかなー」
数馬が入れてくれたお茶をすすりながら次屋が呟くと、そうだねえ、と数馬が返す。三年は組のふたりの部屋に来てから、もうずいぶん待っているような気がした。
富松が委員会の後輩においしいお団子のお店ができた、と聞いて、みんなの分を買いに行ってくれている。始めは左門と次屋も行くと言っていたのだが、それはさりげなく委員会の先輩がフォローしてくれて、彼らに行けない理由を与えてくれたのだ。会計委員に呼ばれた左門も間もなく戻るだろう。
「うーん、ねえ、ろ組はどこまで進んだ?」
「どれ?」
部屋の中でうんうんうなっていた藤内が、遂に音をあげた。次屋が彼の開いていた帳面を覗き込む。
「あー、ここまだだ。孫兵に聞けば?」
「どんどん予習が大変になるなぁ」
「藤内は自分で大変にしてるんだよ」
「こらこら、三之助」
言葉を選ばない友人をたしなめる数馬だが、藤内はまたすぐに予習に集中していて聞いていなかったようだ。
「おおっ、ついた!」
「あ、左門お帰り、お疲れ様」
左門が件の孫兵とじゅんこを伴ってやってきた。どうやら彼に連れてきてもらったらしい。学園の中は彼岸花が咲いていないから迷うのだという。
「みんな揃ってどうしたの?作兵衛は?」
「作兵衛は団子を買いに行ったよ」
「……団子?」
孫兵が眉をひそめ、残りの三年生は各々顔を見合わせた。どうした、と左門が代表して聞けば、孫兵は困ったように口を開く。
「それ、もしかしてしんべヱが言ってた店?」
「そう言ってたけど」
「今、そこ、先輩たちが調べてる。どこかの忍者が関わってるみたいで、竹谷先輩に近づくなって言われたんだけど……」
孫兵が言い切るより早く、ざっと左門と次屋が立ち上がる。飛び出そうとするのを慌てて孫兵と藤内がそれぞれを捕まえた。
「行ってどうするの、まだ何もわからないのに」
「そうだとしてもひとりで歩かせるよりはましだろ」
「もー、救急箱用意するからちょっと待って」
「ぼくもじゅんこを預けてくる」
「外出届もらってくるよ。早く出たいなら、左門と三之助はここから動かないでね!」
それぞれが部屋を飛び出していく。残された左門たちは一瞬ぽかんとし、しかしすぐに座り心地が悪そうにそわそわと尻を動かした。
支度のできたみんなで揃って、五人で学園を飛び出した。始めはおおよその場所を聞いていた孫兵が先導する。何もないならそれでいい。みんなで揃って帰ればいいだけだ。
道端の彼岸花がぞっとするほどの鮮やかさで揺れている。
山に入るとより鮮やかに咲き誇り、孫兵は戸惑って足を止めた。もうほとんど山の彼岸花も枯れ花ばかりであったように思うのに。
「あっちだ!」
指を差すなり方向を変えた左門を藤内が慌てて捕まえたが、その側を次屋が走り抜ける。戸惑う彼らが顔を向けたその先は、彼岸花がぞろりと並んでいる。
「何、これ」
「彼岸花の先には作兵衛がいる」
ぐずぐずしているうちに次屋を見失いそうで、左門に引っ張られるように走り出す。
導くように並ぶ彼岸花をなぞる。それはやがて真っ赤な線になり、更に集まって太くなる。こんな群生を見たことがない。
「……これ」
青い顔で藤内がつぶやく。
「集まってる」
土を埋め尽くすように溢れる彼岸花を、前を行く次屋と左門が蹴散らした。言葉のない背中が早くと急かす。早く、早く。
「うおっ」
ズッ、と足元を滑らせた左門を慌てて次屋が捕まえた。一緒に滑って転がったその先は、崩れ落ちて崖になっている。彼岸花はその下へとまだ向かっていて、追いついた孫兵が顔を出して息を飲んだ。
一面に赤い、池のような。
溢れ帰る真っ赤な彼岸花の中に、倒れこむ富松を見つける。まるで血の池に飲み込まれるような光景に足が震えた。
「作兵衛!」
体勢を直した左門が迷わず飛び出した。そう高さはなかったらしいが、ぎょっと驚く友人をよそに次屋もためらわずに飛び降りる。
「ッ、行こう」
孫兵たちも揃って後に続いた。赤い花を散らして倒れた富松を左門が抱き起こし、次屋が辺りの花を蹴っている。
「作兵衛!怪我は?」
「大丈夫そうだ。起きないけど」
「見せて」
数馬が富松に駆け寄った。彼岸花を見て溜息をつく次屋に、孫兵が近づく。
「先輩呼ぼうか」
「大丈夫。多分そのうち散る」
「何なの、これ。こんなのどう予習したらいいんだよ」
「しなくていいよ。藤内は彼岸花に襲われないだろうし」
「まぁ、藤内は大丈夫だろうなぁ」
「何それ、孫兵まで」
「……好かれる人、ってのは、いるんだよ」
孫兵が振り返ると、富松が小さく呻いた。彼のまぶたがゆっくり上がる、それと同時に、ざっと赤い花が引いて行った。そこに何も咲いていなかったかのように、音もなく姿を消してしまう。
「作兵衛、大丈夫?」
「ん……?」
体を起こした富松は状況が掴めずにきょろきょろしている。
「おーい!何してる!」
耳に慣れた声に崖の上にを振り返ると、先輩の姿がそこにあった。注意したはずだ、と言いたげな竹谷の顔に、孫兵はそっと顔をそらす。
「おい、作兵衛か?」
身軽に降りてきたのは富松の委員会の先輩だった。続いて保健委員の伊作も降りて駆け寄っていく。竹谷から隠れようと藤内を盾にした孫兵も、友人越しに小突かれた。
「花に好かれてるのは富松か?」
「そうみたいです。ぼくも初めて知りました」
「……来年から気をつけてやれ。あと、孫兵はちゃんとじゅんこ連れてこい」
「そうします」
「え〜、生物委員って怖いですね」
「おれは作法委員の方が怖い」
藤内の言葉に竹谷は笑う。富松が立ち上がって怪我もない様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
*
「彼岸花、すっかり枯れちまったなー」
溜息をつく富松に、お茶をすすっていた数馬はやや不満げな顔をする。あんなに咲き誇る彼岸花を見たのは初めてで、できれはもう思い出したくもない。だというのに、当の富松は何も見ていないのだという。
「あれ便利なんだよなぁ、あいつら探し回らなくていいからさ」
色の抜けて灰のような枯れ花が学園の隅で立ち尽くしている。あれは一体どこからやってくるのだろう。風に乗って飛ぶ種ではないはずなのに、何もないところから突然咲き始める赤い花を、もう素直に愛でることはできないように思えた。
部屋に顔を出した作兵衛に、三年は組のふたりは首を振った。そうか、と答えた作兵衛には、いつもの切羽詰まった様子がない。
作兵衛と同じクラスに、神崎左門と次屋三之助というふたりの厄介な方向音痴がいる。どちらも帰巣本能はあるのか、時間はかかるがいずれ帰っては来る。来るのだが、それが夕方なのか明日になるのか、はたまた数日かかるのかわからないという有様だ。無自覚である次屋はさておき、自分の方向音痴を自覚している左門にはもう少し自制してほしいところだが、そんなことは思いつきもしないらしい。
必然的にふたりの迷子の手綱を握っているのは富松の役割となっていたが、富松とて自分のするべきことがあり、いつもふたりを見張っているわけにはいかなかった。そして迷子を探すたびに大騒ぎをするのである。
しかし今日の富松には、いつもの狼狽した様子は見られなかった。
「焦らなくていいの?」
数馬の問いに、富松は庭に視線を遣る。何の変哲もない庭の隅で、ぱっと目を引く赤い花が咲いていた。
「あいつらなぜか、彼岸花が咲いてる時期はちゃんと帰ってくるんだ」
炎のような、或いは指をいっぱいに広げた手のような、天を向くそれは。
*
「うーむ、これは迷ったか」
迷い込んだ山の中で、左門は腕を組んで胸を張る。じっと何かを考えている様子だが、その実何も考えていない。カッと目を見開いて、直感で行き先を選ぶ。
「こっちだ!」
ざっと足元を鳴らして走り出した。幸いにも健脚であるので、多少の迷い道は苦ではない。ざくざくと威勢よく走る左門の視界の端に、ぱっと赤が散った。反射的に足を止め、左門は自分が目指していた方角と、きれいに並んで咲き誇る、彼岸花を見比べる。
今年ももう、彼岸花の咲く季節か。
どうやらまたしても自分の勘は間違っていたようである。左門は素直に進行方向を変え、彼岸花を辿って走り出した。
彼岸花が咲く先には、いつも富松の姿があった。
同じ頃、やはり山中で迷っていた次屋も彼岸花を見つけていた。
体育委員会の活動中にはぐれたらしい。らしいというのは自覚がないからである。次屋にしてみれば先輩について行っていたのだが、気づけば先輩が視界から消えていたのだ。ちゃんと後輩を射ておいてくれないと、と勝手なことを考えて溜息をついた先に、まぶしい赤が咲いていた。線の細い華奢な姿と見せかけて案外丈夫な茎を撫で、どうしたものかと考える。
先輩たちを追うべきか、待つべきか。どのみちいつも勝手な行動をするなと滝夜叉丸に怒られるのだから、どう振る舞っても結果は同じだろう。
そういえば、と思い、彼岸花を見下ろす。
富松は彼岸花が好きであるらしい。いつもこの季節は機嫌がよくて、彼岸花を見かけては手をかざす。土産に摘んで帰ろうか、とも思ったが、学園が火事になっては問題だ。次屋は迷信を信じるような子どもではないが、後輩を怖がらせてはいけないからな、と理由づける。
そういえば、保健委員の数馬にも彼岸花には触らない方がいいと怒られた。この燃えるような花は毒を持つ証拠であるらしい。
なおもどうするかと考えている間に滝夜叉丸の声が聞こえた。声を返すと、先輩の声は近づいてくる。
*
彼岸花の季節は短い。田畑を照らすような赤々とした鮮やかさは次第に色褪せて枯れていく。
その姿は死人花と呼ばれるのもわかるような気がするもので、あまりあの花を好まない人が多いのも納得できる気がした。学園の庭の隅に咲いていた彼岸花もほとんどその色をなくしてしまっている。
「
作兵衛まだかなー」
数馬が入れてくれたお茶をすすりながら次屋が呟くと、そうだねえ、と数馬が返す。三年は組のふたりの部屋に来てから、もうずいぶん待っているような気がした。
富松が委員会の後輩においしいお団子のお店ができた、と聞いて、みんなの分を買いに行ってくれている。始めは左門と次屋も行くと言っていたのだが、それはさりげなく委員会の先輩がフォローしてくれて、彼らに行けない理由を与えてくれたのだ。会計委員に呼ばれた左門も間もなく戻るだろう。
「うーん、ねえ、ろ組はどこまで進んだ?」
「どれ?」
部屋の中でうんうんうなっていた藤内が、遂に音をあげた。次屋が彼の開いていた帳面を覗き込む。
「あー、ここまだだ。孫兵に聞けば?」
「どんどん予習が大変になるなぁ」
「藤内は自分で大変にしてるんだよ」
「こらこら、三之助」
言葉を選ばない友人をたしなめる数馬だが、藤内はまたすぐに予習に集中していて聞いていなかったようだ。
「おおっ、ついた!」
「あ、左門お帰り、お疲れ様」
左門が件の孫兵とじゅんこを伴ってやってきた。どうやら彼に連れてきてもらったらしい。学園の中は彼岸花が咲いていないから迷うのだという。
「みんな揃ってどうしたの?作兵衛は?」
「作兵衛は団子を買いに行ったよ」
「……団子?」
孫兵が眉をひそめ、残りの三年生は各々顔を見合わせた。どうした、と左門が代表して聞けば、孫兵は困ったように口を開く。
「それ、もしかしてしんべヱが言ってた店?」
「そう言ってたけど」
「今、そこ、先輩たちが調べてる。どこかの忍者が関わってるみたいで、竹谷先輩に近づくなって言われたんだけど……」
孫兵が言い切るより早く、ざっと左門と次屋が立ち上がる。飛び出そうとするのを慌てて孫兵と藤内がそれぞれを捕まえた。
「行ってどうするの、まだ何もわからないのに」
「そうだとしてもひとりで歩かせるよりはましだろ」
「もー、救急箱用意するからちょっと待って」
「ぼくもじゅんこを預けてくる」
「外出届もらってくるよ。早く出たいなら、左門と三之助はここから動かないでね!」
それぞれが部屋を飛び出していく。残された左門たちは一瞬ぽかんとし、しかしすぐに座り心地が悪そうにそわそわと尻を動かした。
支度のできたみんなで揃って、五人で学園を飛び出した。始めはおおよその場所を聞いていた孫兵が先導する。何もないならそれでいい。みんなで揃って帰ればいいだけだ。
道端の彼岸花がぞっとするほどの鮮やかさで揺れている。
山に入るとより鮮やかに咲き誇り、孫兵は戸惑って足を止めた。もうほとんど山の彼岸花も枯れ花ばかりであったように思うのに。
「あっちだ!」
指を差すなり方向を変えた左門を藤内が慌てて捕まえたが、その側を次屋が走り抜ける。戸惑う彼らが顔を向けたその先は、彼岸花がぞろりと並んでいる。
「何、これ」
「彼岸花の先には作兵衛がいる」
ぐずぐずしているうちに次屋を見失いそうで、左門に引っ張られるように走り出す。
導くように並ぶ彼岸花をなぞる。それはやがて真っ赤な線になり、更に集まって太くなる。こんな群生を見たことがない。
「……これ」
青い顔で藤内がつぶやく。
「集まってる」
土を埋め尽くすように溢れる彼岸花を、前を行く次屋と左門が蹴散らした。言葉のない背中が早くと急かす。早く、早く。
「うおっ」
ズッ、と足元を滑らせた左門を慌てて次屋が捕まえた。一緒に滑って転がったその先は、崩れ落ちて崖になっている。彼岸花はその下へとまだ向かっていて、追いついた孫兵が顔を出して息を飲んだ。
一面に赤い、池のような。
溢れ帰る真っ赤な彼岸花の中に、倒れこむ富松を見つける。まるで血の池に飲み込まれるような光景に足が震えた。
「作兵衛!」
体勢を直した左門が迷わず飛び出した。そう高さはなかったらしいが、ぎょっと驚く友人をよそに次屋もためらわずに飛び降りる。
「ッ、行こう」
孫兵たちも揃って後に続いた。赤い花を散らして倒れた富松を左門が抱き起こし、次屋が辺りの花を蹴っている。
「作兵衛!怪我は?」
「大丈夫そうだ。起きないけど」
「見せて」
数馬が富松に駆け寄った。彼岸花を見て溜息をつく次屋に、孫兵が近づく。
「先輩呼ぼうか」
「大丈夫。多分そのうち散る」
「何なの、これ。こんなのどう予習したらいいんだよ」
「しなくていいよ。藤内は彼岸花に襲われないだろうし」
「まぁ、藤内は大丈夫だろうなぁ」
「何それ、孫兵まで」
「……好かれる人、ってのは、いるんだよ」
孫兵が振り返ると、富松が小さく呻いた。彼のまぶたがゆっくり上がる、それと同時に、ざっと赤い花が引いて行った。そこに何も咲いていなかったかのように、音もなく姿を消してしまう。
「作兵衛、大丈夫?」
「ん……?」
体を起こした富松は状況が掴めずにきょろきょろしている。
「おーい!何してる!」
耳に慣れた声に崖の上にを振り返ると、先輩の姿がそこにあった。注意したはずだ、と言いたげな竹谷の顔に、孫兵はそっと顔をそらす。
「おい、作兵衛か?」
身軽に降りてきたのは富松の委員会の先輩だった。続いて保健委員の伊作も降りて駆け寄っていく。竹谷から隠れようと藤内を盾にした孫兵も、友人越しに小突かれた。
「花に好かれてるのは富松か?」
「そうみたいです。ぼくも初めて知りました」
「……来年から気をつけてやれ。あと、孫兵はちゃんとじゅんこ連れてこい」
「そうします」
「え〜、生物委員って怖いですね」
「おれは作法委員の方が怖い」
藤内の言葉に竹谷は笑う。富松が立ち上がって怪我もない様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
*
「彼岸花、すっかり枯れちまったなー」
溜息をつく富松に、お茶をすすっていた数馬はやや不満げな顔をする。あんなに咲き誇る彼岸花を見たのは初めてで、できれはもう思い出したくもない。だというのに、当の富松は何も見ていないのだという。
「あれ便利なんだよなぁ、あいつら探し回らなくていいからさ」
色の抜けて灰のような枯れ花が学園の隅で立ち尽くしている。あれは一体どこからやってくるのだろう。風に乗って飛ぶ種ではないはずなのに、何もないところから突然咲き始める赤い花を、もう素直に愛でることはできないように思えた。
2013'12.26.Thu
「捻挫?」
――見られた。
それでも平静を装って、仁王は声に背を向けたままテーピングを続ける。あからさまな拒絶も気にせずに、ドーナツを食べながら丸井が覗き込んできた。
「こうした方が走りやすいだけじゃ。今日は真田とじゃけ、ちったぁ真面目にやろうかと思っての」
「へー!仁王って真面目にテニスできるんだ!」
「失礼なやつじゃのう……それ、どうしたん?」
甘い匂いを振りまいて丸井は笑い、手元の箱を開けて見せる。よくもまぁ、ドーナツ程度でそこまで幸せそうにできるものだ。
「昼間っからドーナツ食いたくてさー、さっきちょっとだけ抜けて買ってきたんだよね。お前もいる?」
「いらん。俺は丸井と違って、そんなもん食った後に走れんのじゃ」
「いちいち嫌味なやつだな、頼まれたってやらねーよ!」
靴下を上げて靴を履く。ずきりと走る痛みから目をそむけ、ラケットを手にして立ち上がった。
二年の冬、まだ幸村たちに追いつけない。化け物とまで呼ばれているのを聞いたことがある彼らに勝つことは、容易ではないのだろう。既にそこにいない真田のロッカーを見て、ラケットを握った。
「お前細いなー、ちゃんと飯食ってんの?」
「自分基準にせんといてよ」
「俺が太ってるって言いたいのかよ!」
「自覚あるんか」
「太ってねーし!」
勝手に怒って勝手に拗ねて、丸井は部室を出ていく。騒がしいやつだと溜息をついた。そうかと思えば再び丸井が顔を出す。まだ何か言い足りないのだろうか。
「病院行けよ」
「は?」
「駅裏の林さんち、けっこー時間の融通聞くから帰りにでも寄ってみろ」
「何の話じゃ」
「あと、部長呼んでる。早くしろって」
言うだけ言うと顔を引っ込めて、仁王はまた残された。ずきり、と足首の痛みが増した気がする。
――ただの馬鹿だと思っていた。
少しだけ認識を改めて、ガットを触りながら部室を出た。
真田と試合をするのは一年の時以来だ。本気を出せば勝ちはしなくともそれなりにいい試合ができる自信がある。いつまでも入学当時のままではない。しかし本気を出す気はなかった。自分の手の内を誰にも見せる気はない。今はレギュラーの座よりも、他人の観察をしやすい位置にいたかった。
それに今日は、足の怪我のこともある。昨夜ランニングをしていたら無灯の自転車と接触し、軽くひねってしまった。手でなくてよかったとその時は思ったが、平静を装うには気力がいると今身を持って実感している。
枷を引きずるつもりでコートに向かうと既に真田の準備はできている。早くしろ、と審判役の部長に急かされて、軽く会釈してコートに入った。真田は不機嫌そうに仁王を睨んでいる。あんなに真面目で疲れないのだろうか。
コートの脇に丸井の姿が見えた。ドーナツの箱を抱えて、別コートで行われている幸村と柳の試合を見ている。
――少しだけ、それが胸に引っ掛かる。
すぐに頭を振り、試合が始まるとそれも忘れた。
*
思えば他人に興味を持ったことがあまりない。テニスの技術を盗むためと言うのならまた別の問題だが、特定の人物について知りたいと思ったことは初めてだった
丸井ブン太。
教室の真ん中で、友人に囲まれて大笑いしている彼は、先日髪を赤く染めた。真っ赤ではなく茶まじりのそれを中途半端だと友人にからかわれていたようだが、自分に似合うものを彼はよく知っている。
笑い過ぎて椅子から落ちそうになるほどのけ反っている姿をぼんやりと見て、何が面白いのか考えたが、聞こえていたはずなのに思いだせなかった。
丸井しか、見ていない。
これは少しまずいと自分で思いながら、視線を逸らせない。
恋を、してしまった。
あまり笑えない。恋程度で動揺してやるつもりはないが、欲しいと思ってしまったものを諦めるのも性に合わなかった。が、面倒なことは御免だった。
隠していることを見抜かれてしまった程度で恋に落ちるとは我ながらいささか単純ではある。しかしそれまで特に気にも留めていなかった男が意外と鋭いのだと知ると、向ける視線も変わってしまった。
最近一日が早い。あっという間に放課後になる。
日誌を書いていると、日直の相方が覗き込んできた。それなりに親しい相手と一緒でなければ、適当に押しつけて教室を飛び出していただろう。丸井のいない教室に用はない。今日は顧問の都合上ミーティングだけで部活は終わる予定だったから、仁王が行く頃には終わっているかもしれなかった。
「仁王くん、意外ときれいな字だね」
「意外とは失礼じゃのー」
向かいに座る女子を何気なく見る。ボタンを外したシャツの隙間が目についた。白く柔らかそうな肌に丸井を思い出す。彼の頬はもしかしたら同じぐらい柔らかいかもしれない。
「なぁ」
「何?」
「何カップ?」
「……聞く?それ」
日誌を書く手は止めずに様子を伺うと、彼女は嫌そうにはしていない。笑いながら考えている。
「だって、誘われてるんかなーと思って」
「うわー、モテると思って調子に乗ってる」
「いやいやオトコの好奇心ですよ」
「えー、誰にも言わないなら教えてもいいけど」
「言わんよ」
C、とささやく声に驚いた。あっさり口にしたことも、これぐらいが、と言うことも、仁王にとっては面白い。
「そうなんや、姉貴よりはあるなぁとは思ったけど」
「お姉さんのサイズ知ってんの?」
「そら洗濯物取り入れる手伝いぐらいはするけん」
「えっ!仁王くんが手伝いとか!」
「失礼じゃのー、こんなにええ子やのに」
「見えない。全然見えない」
くすくす笑う彼女に同じように笑い返す。特にあからさまに媚びる態度を見せるわけではないがいわゆる「女子力」の高いタイプだろう。丸井もこんなタイプが好きだろうか。丸井も彼女と仲がいい。仁王から見れば特に他意もなく他のクラスメイトと変わらないつき合いをしているようにみえる。
「じゃ、日誌出してそのまま部活行くわ。窓閉めとってな」
「はーい。じゃあね」
「おー」
日誌を手に立ち上がり、鞄を肩に引っ掛ける。
職員室に向かって階段を下りているとしたから派手な足音が聞こえてくる。そういえばミーティングは終わってしまっただろうか。
踊り場で体を返したとき、下から駆けあがってきた生徒とぶつかった。バッグに振り回されてよろけた仁王を掴んだのは丸井だった。
「お、悪いな仁王」
「おー」
「足大丈夫か?」
一瞬何のことか考え、捻挫のことを思い出した。仁王の様子を見て勝手に納得したのか、丸井は笑う。
「お前わかりにくいからなー」
「そんなに俺のこと知りたい?」
「チームメイト程度にはな」
くつくつ笑う丸井に仁王も思わず笑い返した。どんなにかわいく笑える女の子より、この屈託のない笑顔がいい。
きっとこれからまだ彼のことを知っていくのだろう。
――見られた。
それでも平静を装って、仁王は声に背を向けたままテーピングを続ける。あからさまな拒絶も気にせずに、ドーナツを食べながら丸井が覗き込んできた。
「こうした方が走りやすいだけじゃ。今日は真田とじゃけ、ちったぁ真面目にやろうかと思っての」
「へー!仁王って真面目にテニスできるんだ!」
「失礼なやつじゃのう……それ、どうしたん?」
甘い匂いを振りまいて丸井は笑い、手元の箱を開けて見せる。よくもまぁ、ドーナツ程度でそこまで幸せそうにできるものだ。
「昼間っからドーナツ食いたくてさー、さっきちょっとだけ抜けて買ってきたんだよね。お前もいる?」
「いらん。俺は丸井と違って、そんなもん食った後に走れんのじゃ」
「いちいち嫌味なやつだな、頼まれたってやらねーよ!」
靴下を上げて靴を履く。ずきりと走る痛みから目をそむけ、ラケットを手にして立ち上がった。
二年の冬、まだ幸村たちに追いつけない。化け物とまで呼ばれているのを聞いたことがある彼らに勝つことは、容易ではないのだろう。既にそこにいない真田のロッカーを見て、ラケットを握った。
「お前細いなー、ちゃんと飯食ってんの?」
「自分基準にせんといてよ」
「俺が太ってるって言いたいのかよ!」
「自覚あるんか」
「太ってねーし!」
勝手に怒って勝手に拗ねて、丸井は部室を出ていく。騒がしいやつだと溜息をついた。そうかと思えば再び丸井が顔を出す。まだ何か言い足りないのだろうか。
「病院行けよ」
「は?」
「駅裏の林さんち、けっこー時間の融通聞くから帰りにでも寄ってみろ」
「何の話じゃ」
「あと、部長呼んでる。早くしろって」
言うだけ言うと顔を引っ込めて、仁王はまた残された。ずきり、と足首の痛みが増した気がする。
――ただの馬鹿だと思っていた。
少しだけ認識を改めて、ガットを触りながら部室を出た。
真田と試合をするのは一年の時以来だ。本気を出せば勝ちはしなくともそれなりにいい試合ができる自信がある。いつまでも入学当時のままではない。しかし本気を出す気はなかった。自分の手の内を誰にも見せる気はない。今はレギュラーの座よりも、他人の観察をしやすい位置にいたかった。
それに今日は、足の怪我のこともある。昨夜ランニングをしていたら無灯の自転車と接触し、軽くひねってしまった。手でなくてよかったとその時は思ったが、平静を装うには気力がいると今身を持って実感している。
枷を引きずるつもりでコートに向かうと既に真田の準備はできている。早くしろ、と審判役の部長に急かされて、軽く会釈してコートに入った。真田は不機嫌そうに仁王を睨んでいる。あんなに真面目で疲れないのだろうか。
コートの脇に丸井の姿が見えた。ドーナツの箱を抱えて、別コートで行われている幸村と柳の試合を見ている。
――少しだけ、それが胸に引っ掛かる。
すぐに頭を振り、試合が始まるとそれも忘れた。
*
思えば他人に興味を持ったことがあまりない。テニスの技術を盗むためと言うのならまた別の問題だが、特定の人物について知りたいと思ったことは初めてだった
丸井ブン太。
教室の真ん中で、友人に囲まれて大笑いしている彼は、先日髪を赤く染めた。真っ赤ではなく茶まじりのそれを中途半端だと友人にからかわれていたようだが、自分に似合うものを彼はよく知っている。
笑い過ぎて椅子から落ちそうになるほどのけ反っている姿をぼんやりと見て、何が面白いのか考えたが、聞こえていたはずなのに思いだせなかった。
丸井しか、見ていない。
これは少しまずいと自分で思いながら、視線を逸らせない。
恋を、してしまった。
あまり笑えない。恋程度で動揺してやるつもりはないが、欲しいと思ってしまったものを諦めるのも性に合わなかった。が、面倒なことは御免だった。
隠していることを見抜かれてしまった程度で恋に落ちるとは我ながらいささか単純ではある。しかしそれまで特に気にも留めていなかった男が意外と鋭いのだと知ると、向ける視線も変わってしまった。
最近一日が早い。あっという間に放課後になる。
日誌を書いていると、日直の相方が覗き込んできた。それなりに親しい相手と一緒でなければ、適当に押しつけて教室を飛び出していただろう。丸井のいない教室に用はない。今日は顧問の都合上ミーティングだけで部活は終わる予定だったから、仁王が行く頃には終わっているかもしれなかった。
「仁王くん、意外ときれいな字だね」
「意外とは失礼じゃのー」
向かいに座る女子を何気なく見る。ボタンを外したシャツの隙間が目についた。白く柔らかそうな肌に丸井を思い出す。彼の頬はもしかしたら同じぐらい柔らかいかもしれない。
「なぁ」
「何?」
「何カップ?」
「……聞く?それ」
日誌を書く手は止めずに様子を伺うと、彼女は嫌そうにはしていない。笑いながら考えている。
「だって、誘われてるんかなーと思って」
「うわー、モテると思って調子に乗ってる」
「いやいやオトコの好奇心ですよ」
「えー、誰にも言わないなら教えてもいいけど」
「言わんよ」
C、とささやく声に驚いた。あっさり口にしたことも、これぐらいが、と言うことも、仁王にとっては面白い。
「そうなんや、姉貴よりはあるなぁとは思ったけど」
「お姉さんのサイズ知ってんの?」
「そら洗濯物取り入れる手伝いぐらいはするけん」
「えっ!仁王くんが手伝いとか!」
「失礼じゃのー、こんなにええ子やのに」
「見えない。全然見えない」
くすくす笑う彼女に同じように笑い返す。特にあからさまに媚びる態度を見せるわけではないがいわゆる「女子力」の高いタイプだろう。丸井もこんなタイプが好きだろうか。丸井も彼女と仲がいい。仁王から見れば特に他意もなく他のクラスメイトと変わらないつき合いをしているようにみえる。
「じゃ、日誌出してそのまま部活行くわ。窓閉めとってな」
「はーい。じゃあね」
「おー」
日誌を手に立ち上がり、鞄を肩に引っ掛ける。
職員室に向かって階段を下りているとしたから派手な足音が聞こえてくる。そういえばミーティングは終わってしまっただろうか。
踊り場で体を返したとき、下から駆けあがってきた生徒とぶつかった。バッグに振り回されてよろけた仁王を掴んだのは丸井だった。
「お、悪いな仁王」
「おー」
「足大丈夫か?」
一瞬何のことか考え、捻挫のことを思い出した。仁王の様子を見て勝手に納得したのか、丸井は笑う。
「お前わかりにくいからなー」
「そんなに俺のこと知りたい?」
「チームメイト程度にはな」
くつくつ笑う丸井に仁王も思わず笑い返した。どんなにかわいく笑える女の子より、この屈託のない笑顔がいい。
きっとこれからまだ彼のことを知っていくのだろう。
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