言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.25.Wed
「意外だね、作法委員がクリスマスパーティーしないなんて」
伊助に言われて兵太夫は思わず溜息をついた。そうなのだ。兵太夫の所属する作法委員は前委員長がイベント事には積極的で、去年は終業式の後に委員会でクリスマスパーティーをしたのだ。その余興用に兵太夫はびっくり箱を作ったのだが、今年は出番がなさそうだ。
「今年は立花先輩と綾部先輩、ふたりでデートなんだって」
「ふーん。まぁ綾部先輩が率先してパーティー開くとは思えないもんね」
「だよねぇ。伊助は?」
「今年は僕が委員会でクリスマスパーティー」
「……さっさと告白して、三郎次と一緒に過ごせばいいのに」
「僕のペースでやるからいいんですー」
「あっそ。じゃーね、良い年を」
「じゃあね、また来年。よいお年を」
教室を出ていく伊助はあからさまに浮かれた様子を見せてはいなかったが、楽しみではあるのだろう。ほとんどの生徒が帰ってしまった教室で、兵太夫は特に何をするでもなく時間を持て余す。今日は三治郎と遊びに行く約束にしてはいたが、都合が悪くなってしまったのだ。早く帰っても得にすることがない、と言って、残っていてもすることがない。
昨日作ったびっくり箱を取り出した。漫画のようにお約束通りのびっくり箱で、ふたを開けるとばねの仕掛けでサンタクロースの人形が飛び出す仕掛けだ。ただしその下には本当のプレゼントを入れることができるようになっている。
折角だから誰かにあげればよかった、と思い教室を見渡した。もう生徒は半分以上帰ってしまっている。
「せーのっ!」
教室の後ろに集まっていた男子の一団が、一斉に開いているのは通知表だ。男子ってどうしてあんなに馬鹿なんだろう、と兵太夫は顔をしかめる。
「団蔵、お前体育以外絶望的じゃん」
「団蔵のは字が読めないせいじゃねえの?」
「俺先生が読めないところ聞きに来てたから大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろそれ」
輪の中心で笑う団蔵を見て、兵太夫は更に眉間のしわを深くした。
――思いだしてしまったのだ。渡せるはずのないクリスマスプレゼントを買ってしまったことを。
団蔵を意識し出したのは正確にはいつか覚えていない。しかし少なくとも去年のこの時期には団蔵のことが好きだった。季節が巡っても自分は意地を張ることしかできなくて、きっと団蔵にとっては自分はかわいくない女だろう。
何気なく買い物をしていたときに、ふと思い立って買ってしまったプレゼント。どうしてあの時は、渡せるなんて思ったのだろう。
しかめっ面にも疲れて力を抜き、溜息をつく。することもないから帰ろうか、と荷物をまとめかけ、びっくり箱を手にして考えた。
*
兵太夫がケーキの生クリームを泡立てていると、呼び鈴が鳴った。予定がなくなったので家でクリスマスを過ごすとわかると父親がそわそわし始めたので、娘をかわいがる父のためにケーキを焼いたところだったのだ。家人は手が塞がっており、兵太夫は生クリームを置いて玄関へ向かった。
せっかちな客人がもう一度チャイムを鳴らし、慌ててドアに飛びつく。父親への急ぎの用かもしれない。そう思った兵太夫がドアを開けると、――そこに立っていたのは団蔵だった。
硬直する兵太夫に気づいているのかいないのか、団蔵はいつも通りの明るい笑顔でこちらを見る。
「どーも!加藤運送です!」
差し出されたものにはっとして受け取ると、それは父親宛ての宅配便だ。そこでやっと、団蔵が家業の手伝いで兵太夫のうちに来たのだと思いつく。
――少し考えればわかることだ。団蔵が、兵太夫に用があるはずがないのに。
「兵太夫?」
「……何でも。今日、忙しいの?」
「まぁなー、結構宅配でプレゼント送る人いるんだ」
「ふうん。サインどこ?」
「あ、こちらにお願いしまーっす」
団蔵が伝票を指差した、その手を見て兵太夫は息を飲んだ。団蔵が手袋をしている。それは、兵太夫が目に焼きつくほど眺めたことのあるものだ。
手が震えていないか意識しながらどうにかサインをする。団蔵の顔を見ることができずに、俯いたまま荷物を受け取った。
「あとこれ、メリークリスマス」
箱の上にぽんと置かれたものは、リボンのかかったプレゼントだ。兵太夫が顔を上げると、団蔵はやはりいつも通りの笑顔を返す。
「なんかいい匂いする」
「え、あ、ケーキ焼いてた」
「マジ?いいな〜俺いつ飯食えるんだろ。あ、庄ちゃんとみんなで初詣行こうって言ってたんだ。兵太夫も行ける?」
「い、行けると思う」
「じゃあまた連絡するな。毎度、ありがとうございやしたーっ」
ふざけた調子で仕事を終えて、団蔵は丁寧にドアを閉めていく。メリークリスマスひとつ言えなかった兵太夫は、ただ玄関で立ち尽くした。
帰る前に、びっくり箱を団蔵の下駄箱に押し込んだ。その中に、プレゼントのつもりで買った手袋を仕込んで。名前も書かないプレゼント、見つけてもらえるかもわからなかったプレゼント。それでもきっと、あんな子どもじみたことをするのは兵太夫ぐらいだと、団蔵ならわかってくれるんじゃないかと――
じわり、と遅れて顔が熱くなる。
男の子はずるい。いつも馬鹿なところしか見せないくせに。
伊助に言われて兵太夫は思わず溜息をついた。そうなのだ。兵太夫の所属する作法委員は前委員長がイベント事には積極的で、去年は終業式の後に委員会でクリスマスパーティーをしたのだ。その余興用に兵太夫はびっくり箱を作ったのだが、今年は出番がなさそうだ。
「今年は立花先輩と綾部先輩、ふたりでデートなんだって」
「ふーん。まぁ綾部先輩が率先してパーティー開くとは思えないもんね」
「だよねぇ。伊助は?」
「今年は僕が委員会でクリスマスパーティー」
「……さっさと告白して、三郎次と一緒に過ごせばいいのに」
「僕のペースでやるからいいんですー」
「あっそ。じゃーね、良い年を」
「じゃあね、また来年。よいお年を」
教室を出ていく伊助はあからさまに浮かれた様子を見せてはいなかったが、楽しみではあるのだろう。ほとんどの生徒が帰ってしまった教室で、兵太夫は特に何をするでもなく時間を持て余す。今日は三治郎と遊びに行く約束にしてはいたが、都合が悪くなってしまったのだ。早く帰っても得にすることがない、と言って、残っていてもすることがない。
昨日作ったびっくり箱を取り出した。漫画のようにお約束通りのびっくり箱で、ふたを開けるとばねの仕掛けでサンタクロースの人形が飛び出す仕掛けだ。ただしその下には本当のプレゼントを入れることができるようになっている。
折角だから誰かにあげればよかった、と思い教室を見渡した。もう生徒は半分以上帰ってしまっている。
「せーのっ!」
教室の後ろに集まっていた男子の一団が、一斉に開いているのは通知表だ。男子ってどうしてあんなに馬鹿なんだろう、と兵太夫は顔をしかめる。
「団蔵、お前体育以外絶望的じゃん」
「団蔵のは字が読めないせいじゃねえの?」
「俺先生が読めないところ聞きに来てたから大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろそれ」
輪の中心で笑う団蔵を見て、兵太夫は更に眉間のしわを深くした。
――思いだしてしまったのだ。渡せるはずのないクリスマスプレゼントを買ってしまったことを。
団蔵を意識し出したのは正確にはいつか覚えていない。しかし少なくとも去年のこの時期には団蔵のことが好きだった。季節が巡っても自分は意地を張ることしかできなくて、きっと団蔵にとっては自分はかわいくない女だろう。
何気なく買い物をしていたときに、ふと思い立って買ってしまったプレゼント。どうしてあの時は、渡せるなんて思ったのだろう。
しかめっ面にも疲れて力を抜き、溜息をつく。することもないから帰ろうか、と荷物をまとめかけ、びっくり箱を手にして考えた。
*
兵太夫がケーキの生クリームを泡立てていると、呼び鈴が鳴った。予定がなくなったので家でクリスマスを過ごすとわかると父親がそわそわし始めたので、娘をかわいがる父のためにケーキを焼いたところだったのだ。家人は手が塞がっており、兵太夫は生クリームを置いて玄関へ向かった。
せっかちな客人がもう一度チャイムを鳴らし、慌ててドアに飛びつく。父親への急ぎの用かもしれない。そう思った兵太夫がドアを開けると、――そこに立っていたのは団蔵だった。
硬直する兵太夫に気づいているのかいないのか、団蔵はいつも通りの明るい笑顔でこちらを見る。
「どーも!加藤運送です!」
差し出されたものにはっとして受け取ると、それは父親宛ての宅配便だ。そこでやっと、団蔵が家業の手伝いで兵太夫のうちに来たのだと思いつく。
――少し考えればわかることだ。団蔵が、兵太夫に用があるはずがないのに。
「兵太夫?」
「……何でも。今日、忙しいの?」
「まぁなー、結構宅配でプレゼント送る人いるんだ」
「ふうん。サインどこ?」
「あ、こちらにお願いしまーっす」
団蔵が伝票を指差した、その手を見て兵太夫は息を飲んだ。団蔵が手袋をしている。それは、兵太夫が目に焼きつくほど眺めたことのあるものだ。
手が震えていないか意識しながらどうにかサインをする。団蔵の顔を見ることができずに、俯いたまま荷物を受け取った。
「あとこれ、メリークリスマス」
箱の上にぽんと置かれたものは、リボンのかかったプレゼントだ。兵太夫が顔を上げると、団蔵はやはりいつも通りの笑顔を返す。
「なんかいい匂いする」
「え、あ、ケーキ焼いてた」
「マジ?いいな〜俺いつ飯食えるんだろ。あ、庄ちゃんとみんなで初詣行こうって言ってたんだ。兵太夫も行ける?」
「い、行けると思う」
「じゃあまた連絡するな。毎度、ありがとうございやしたーっ」
ふざけた調子で仕事を終えて、団蔵は丁寧にドアを閉めていく。メリークリスマスひとつ言えなかった兵太夫は、ただ玄関で立ち尽くした。
帰る前に、びっくり箱を団蔵の下駄箱に押し込んだ。その中に、プレゼントのつもりで買った手袋を仕込んで。名前も書かないプレゼント、見つけてもらえるかもわからなかったプレゼント。それでもきっと、あんな子どもじみたことをするのは兵太夫ぐらいだと、団蔵ならわかってくれるんじゃないかと――
じわり、と遅れて顔が熱くなる。
男の子はずるい。いつも馬鹿なところしか見せないくせに。
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2013'12.24.Tue
「あ、保健室に財布忘れてきた、左近ごめん、先に行って校門で待っといて。伊作先輩たちも来ると思うから」
高等部一年、一つ年上の三反田数馬の言葉にうなずいて、左近は先にひとりで昇降口に向かった。今日は終業式、二学期も終わったが、中高生の長期休みはそれなりに忙しい。まず初めの行事として、クリスマスパーティーをしなければ!と言い出したのは委員長代理の数馬だった。他の委員会がクリスマスパーティーをすると耳にして、保健委員もしなければならないと思ったらしい。何てことはない、集まって騒ぎたいだけの話だ。
その数馬の話に便乗したのが、卒業したはずの善法寺伊作、その彼氏である不審人物だった。大人の財力を見せつけて、当初はどこかレストランを貸し切ってあげようか、などととんでもない提案をしてきたので、譲歩してカラオケのパーティールームを予約してもらったのだ。左近はあまり乗り気ではないことだが、委員会で集まるのに自分だけ行かないというわけにもいかない。根が真面目なので断れないのだ。
昇降口を出て、思わず寒いと口に出す。雪が降ってホワイトクリスマス、と言うことはなさそうだが、寒いことに変わりはない。天気だけはいい青い空を見上げながら、左近は手袋をしながら校門へと向かっていく。卒業生の伊作たちが迎えに来てくれるはずになっていた。
校門の前に用務員の小松田が立っていた。彼も寒さには弱いようで、これでもかとばかりに着ぶくれをした後ろ姿は数馬の言葉を借りるなら「つついて転がしたくなるかわいさ」だ。実際転がっていきそうなほど丸くなっている。ぐるぐる巻いたマフラーに顔を半分うずめ、かわいらしい耳当てもして万全装備だ。冬場は外の掃除をしている姿が減る彼が何をしているのかと思えば、その手にはバインダーがある。来客があったのだろうか。客からサインをもらうことは彼が何よりも大事にしている仕事だ。
「小松田さん、寒いですね」
「ああ〜、左近くん、寒いねぇ。女の子は寒そうだなぁ」
「ほんとに。タイツもうこれより分厚いのないんですよ」
「風邪ひかないようにね」
「はい、小松田さんも。よいお年を」
「さようなら、よいお年を」
鼻の頭を真っ赤にした小松田は鼻をすすり、左近に手を振った。せめて寒さを少しでも忘れるようできるだけ元気よく挨拶をして、左近は校門を出る。
――そして、足を止めた。
校門を出てすぐ、目が合ったのはコートの男性。左近を見つけて、寒さにすくめていた肩を気まずげに降ろした。左近は横切って帰りかけたが、数馬を待たねばならないことを思い出す。
彼は高坂陣内左ヱ門。伊作がおつき合いしている男性は少し地位のある立派な男で、高坂はその部下である。女子高生とつき合っている自由な上司に翻弄されている気の毒な人物でもあるが、左近は同情する気にもなれなかった。きっと今日も、その上司の指示でそこで待たされているのだろう。
左近は仕方なく、距離を取って校門を出たところで数馬を待った。時々高坂に目をやると、彼も左近からは視線を外している。黒のコートの下は恐らくいつものスーツだろう。男の人のスーツは寒いのだろうか。足元から冷えてきて、左近は太腿をぴたりと寄せる。
手袋をした手でも指は冷えてきて、指先を揉みながら、考えたくないことが頭に浮かんでくるのを拭えなかった。
――ハメられた、のではなかろうか。
もう一度高坂に視線を向けると、今度は彼と目が合った。彼も何か言いたげに、しかしお互い口をつぐんで目をそらす。
絶対に、保健委員や彼の上司にしてやられた。
彼らはどうしてだか人の恋愛に首を突っ込みたがるたちで、目下のところ手を出さずにいられないのが左近と高坂のふたりであるらしい。機会を見つけてはふたりきりにされ、そうされたところで左近としては彼と話したいとも思わないのだ。正直わずらわしくて仕方がない。
こんな放課後に校門に向かってくる影があると思えば、同じ学年の池田三郎次と後輩の二郭伊助だった。そもそも数馬がクリスマスパーティーを言い出したのは、彼らの所属する委員会の先輩が企画を言い出したせいでもある。逆恨みもいいところだが思わず彼らに向ける視線は剣呑なものになってしまった。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
呆れた顔で三郎次は手にしていた温かい飲み物の入ったペットボトルを差し出した。ありがたくそれを受け取ったが、もう冷めてるようですぐにがっかりする。軽く会釈をした伊助と三郎次が校門を通っていった。左近を高坂を見て呆れただろうふたりに憤る。あいつらもずっと一緒にいる癖に、お互い告白もしないままなのだ、とやかく言われる筋合いはないので何も言わせない。
恋心は、ある。
もう彼と出会って一年以上、まだ足掻くつもりはない。きっと自分は彼に惹かれているのだろう。高坂が左近をどう思っているのかはわからないが、自分の気持ちは確かだ。
それでも認めることができないのは、少しややこしい事情があって、誰にも相談できずにいるからだ。
左近には前世の記憶がある。とは言えその一生を全て覚えているわけではなく、とても半端な記憶だ。その中に高坂はいない。いないが、知っている、とは思う。
過去の記憶にいない人の存在が気になるだけなのか、ただ単に今を生きている左近が彼のことを好きになったのか、それをわかりかねている。
それがわかったところで、結局恋は恋なのだろうと思う。左近がすっきりしないだけだ。
元より、高坂のような常識のある男が左近のような中学生を好きになるとは思わない。だから自分は思うだけでいいのだ。
「左近くーん」
背後から呼ばれて飛び上がりそうになる。慌てて振り返れば小松田で、眉間に皺を寄せていた。まだいたのか、と思ってから、その手のバインダーを見て合点がいく。
「あの人、入るのかな、入らないのかな」
「あ〜……入らない、と思います……」
「待ってたのになぁ……」
寒そうに身を抱いて、小松田は背を丸めて校舎の方に向かっていった。何が彼をそこまで駆り立てるのだろう。サインひとつがどれほど彼にとって重要なのか、左近にはわからない。
左近は溜息をひとつつき、諦めて高坂の方に近づいていく。
「高坂さんこんにちは」
「……こんにちは」
「先に行きましょう。……というか、多分僕らが最後です」
「……そうだね」
「高坂さん、クリスマスなのに一緒に過ごす人もいないんですか」
「君だって」
「僕はまだ中学生だからいいんですー」
「途端におじさん扱いするなぁ……」
困った顔で笑う人を、好きだと思う。
高等部一年、一つ年上の三反田数馬の言葉にうなずいて、左近は先にひとりで昇降口に向かった。今日は終業式、二学期も終わったが、中高生の長期休みはそれなりに忙しい。まず初めの行事として、クリスマスパーティーをしなければ!と言い出したのは委員長代理の数馬だった。他の委員会がクリスマスパーティーをすると耳にして、保健委員もしなければならないと思ったらしい。何てことはない、集まって騒ぎたいだけの話だ。
その数馬の話に便乗したのが、卒業したはずの善法寺伊作、その彼氏である不審人物だった。大人の財力を見せつけて、当初はどこかレストランを貸し切ってあげようか、などととんでもない提案をしてきたので、譲歩してカラオケのパーティールームを予約してもらったのだ。左近はあまり乗り気ではないことだが、委員会で集まるのに自分だけ行かないというわけにもいかない。根が真面目なので断れないのだ。
昇降口を出て、思わず寒いと口に出す。雪が降ってホワイトクリスマス、と言うことはなさそうだが、寒いことに変わりはない。天気だけはいい青い空を見上げながら、左近は手袋をしながら校門へと向かっていく。卒業生の伊作たちが迎えに来てくれるはずになっていた。
校門の前に用務員の小松田が立っていた。彼も寒さには弱いようで、これでもかとばかりに着ぶくれをした後ろ姿は数馬の言葉を借りるなら「つついて転がしたくなるかわいさ」だ。実際転がっていきそうなほど丸くなっている。ぐるぐる巻いたマフラーに顔を半分うずめ、かわいらしい耳当てもして万全装備だ。冬場は外の掃除をしている姿が減る彼が何をしているのかと思えば、その手にはバインダーがある。来客があったのだろうか。客からサインをもらうことは彼が何よりも大事にしている仕事だ。
「小松田さん、寒いですね」
「ああ〜、左近くん、寒いねぇ。女の子は寒そうだなぁ」
「ほんとに。タイツもうこれより分厚いのないんですよ」
「風邪ひかないようにね」
「はい、小松田さんも。よいお年を」
「さようなら、よいお年を」
鼻の頭を真っ赤にした小松田は鼻をすすり、左近に手を振った。せめて寒さを少しでも忘れるようできるだけ元気よく挨拶をして、左近は校門を出る。
――そして、足を止めた。
校門を出てすぐ、目が合ったのはコートの男性。左近を見つけて、寒さにすくめていた肩を気まずげに降ろした。左近は横切って帰りかけたが、数馬を待たねばならないことを思い出す。
彼は高坂陣内左ヱ門。伊作がおつき合いしている男性は少し地位のある立派な男で、高坂はその部下である。女子高生とつき合っている自由な上司に翻弄されている気の毒な人物でもあるが、左近は同情する気にもなれなかった。きっと今日も、その上司の指示でそこで待たされているのだろう。
左近は仕方なく、距離を取って校門を出たところで数馬を待った。時々高坂に目をやると、彼も左近からは視線を外している。黒のコートの下は恐らくいつものスーツだろう。男の人のスーツは寒いのだろうか。足元から冷えてきて、左近は太腿をぴたりと寄せる。
手袋をした手でも指は冷えてきて、指先を揉みながら、考えたくないことが頭に浮かんでくるのを拭えなかった。
――ハメられた、のではなかろうか。
もう一度高坂に視線を向けると、今度は彼と目が合った。彼も何か言いたげに、しかしお互い口をつぐんで目をそらす。
絶対に、保健委員や彼の上司にしてやられた。
彼らはどうしてだか人の恋愛に首を突っ込みたがるたちで、目下のところ手を出さずにいられないのが左近と高坂のふたりであるらしい。機会を見つけてはふたりきりにされ、そうされたところで左近としては彼と話したいとも思わないのだ。正直わずらわしくて仕方がない。
こんな放課後に校門に向かってくる影があると思えば、同じ学年の池田三郎次と後輩の二郭伊助だった。そもそも数馬がクリスマスパーティーを言い出したのは、彼らの所属する委員会の先輩が企画を言い出したせいでもある。逆恨みもいいところだが思わず彼らに向ける視線は剣呑なものになってしまった。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
呆れた顔で三郎次は手にしていた温かい飲み物の入ったペットボトルを差し出した。ありがたくそれを受け取ったが、もう冷めてるようですぐにがっかりする。軽く会釈をした伊助と三郎次が校門を通っていった。左近を高坂を見て呆れただろうふたりに憤る。あいつらもずっと一緒にいる癖に、お互い告白もしないままなのだ、とやかく言われる筋合いはないので何も言わせない。
恋心は、ある。
もう彼と出会って一年以上、まだ足掻くつもりはない。きっと自分は彼に惹かれているのだろう。高坂が左近をどう思っているのかはわからないが、自分の気持ちは確かだ。
それでも認めることができないのは、少しややこしい事情があって、誰にも相談できずにいるからだ。
左近には前世の記憶がある。とは言えその一生を全て覚えているわけではなく、とても半端な記憶だ。その中に高坂はいない。いないが、知っている、とは思う。
過去の記憶にいない人の存在が気になるだけなのか、ただ単に今を生きている左近が彼のことを好きになったのか、それをわかりかねている。
それがわかったところで、結局恋は恋なのだろうと思う。左近がすっきりしないだけだ。
元より、高坂のような常識のある男が左近のような中学生を好きになるとは思わない。だから自分は思うだけでいいのだ。
「左近くーん」
背後から呼ばれて飛び上がりそうになる。慌てて振り返れば小松田で、眉間に皺を寄せていた。まだいたのか、と思ってから、その手のバインダーを見て合点がいく。
「あの人、入るのかな、入らないのかな」
「あ〜……入らない、と思います……」
「待ってたのになぁ……」
寒そうに身を抱いて、小松田は背を丸めて校舎の方に向かっていった。何が彼をそこまで駆り立てるのだろう。サインひとつがどれほど彼にとって重要なのか、左近にはわからない。
左近は溜息をひとつつき、諦めて高坂の方に近づいていく。
「高坂さんこんにちは」
「……こんにちは」
「先に行きましょう。……というか、多分僕らが最後です」
「……そうだね」
「高坂さん、クリスマスなのに一緒に過ごす人もいないんですか」
「君だって」
「僕はまだ中学生だからいいんですー」
「途端におじさん扱いするなぁ……」
困った顔で笑う人を、好きだと思う。
2013'12.24.Tue
「委員会でクリスマスパーティーしようよ!」
そう言ったのは当然、高等部二年の斉藤タカ丸だった。最上級生で委員長でもある久々知兵助が今までそんなことを言い出したことはなく、それを率先して行うような人ではないことも、今までのつき合いの中で十分理解している。
学期末の委員会は大忙して、特に扱うものがものである火薬委員会は棚卸に翻弄されている。そんな中で相変わらず危機感のないタカ丸がそんなことを言い出したので、三郎次が怒鳴りそうになったのを、伊助は慌てて遮った。中等部二年池田三郎次の怒りもわからなくはない。何よりも、自分たちの仕事はのんびりしたタカ丸の好意と言う邪魔によって遅々とした進行であったからだ。
「それじゃあ僕、クリスマスケーキ作ってきます!」
「はぁ?」
「ね、タカ丸さん!だからクリスマスまでに、絶対棚卸終わらせましょうね!ね、久々知先輩!」
「……ああ、そうだな。じゃあタカ丸さん、棚卸が終わればクリスマスパーティーをしましょう」
「え〜?終わらなかったら?」
「終わらせるんです!冬休みも来るなんてごめんですからね!」
「よーし!頑張ろうね!」
三郎次の怒る様子も軽く流して、タカ丸は作業に戻っていった。三郎次の行き場のない憤りを、久々知がこっそり抑えている。伊助はほっと息を吐いた。
「伊助、ありがとう。目標があればタカ丸さんももう少し効率が上がるだろう」
「いえ、誰かさんがうるさくなるのが嫌だったので」
「それは俺か?」
「さぁ誰でしょう」
突っかかってくる三郎次に背を向けて、伊助も作業に戻った。火薬委員唯一の女子である伊助の受け持ちは軽い物ばかりではあるが、多いことに変わりはない。
それは結果的にタカ丸のやる気に火をつけて、順調に終業式までにするべきことを終えることができた。
三郎次は忘れていてくれないだろうかと思っていたらしいが、楽しいことが好きなタカ丸がそんな約束を忘れるはずがない。
昨日のうちに作っておいたケーキは朝のうちに用務員の小松田に預かってもらって冷蔵庫に入れてある。その他の買い出しを、伊助と三郎次で行くことになった。
「雪は降りそうにないですねぇ」
「降ってほしいのか、寒いだけじゃねえか」
肩をすくませてマフラーに顔をうずめた三郎次を横目に、伊助は笑いを隠した。あまり口にはしないが三郎次は寒さに弱いらしく、その制服の下に随分と着込んでいることを知っている。水泳部である三郎次は完全な夏男なのかもしれない。
買い出しと行ってもコンビニに飲み物とお菓子を少し買いに行くだけだ。学校ではタカ丸たちが飾りつけをしているだろう。タカ丸がどこからともなくクリスマスツリーを見つけ出してきたのだ。
ふたつに分けて持ったビニール袋を提げて、ふたりで学園に戻っていく。
「あったかくなると、久々知先輩も卒業ですね」
「……タカ丸さんが委員長になるのか」
「……」
はぁ、と溜息をついたのはほぼ同時だった。タカ丸は決して悪気があるわけではないが、いかんせん、彼の性格がリーダーには向いていない。
「まぁ、きっと後輩も入りますよ。頑張りましょうね」
「久々知先輩留年しないかな」
「そんな不穏なこと言ってると怒られますよ……そうでなくとも久々知先輩受験生なのに……」
「ピリピリしてたのはなくなったけどな」
「開き直ったみたいですよ」
「大丈夫なのかそれ」
自分の分だけ温かい飲み物を買った三郎次はそれをカイロ代わりに握りしめていた。確かに今日はよく冷え込み、寒さが苦手でなくとも喜んで外に出たくはないだろう。
学園が近づき、校門のそばに人影があるのに気がついた。見知ったその顔に、三郎次と少し顔を見合わせる。
保健委員の川西左近と、保健委員によく現れる部外者の高坂と言う男だ。一メートルほど離れた場所で、距離を保って並んでいる。
同じ学年の三郎次が左近に声をかけると、寒さに鼻を赤くして顔を上げた。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
冷めかけた飲み物を三郎次が渡せば、左近は素直に受け取った。高坂の方は何か言いたげに左近を見たが、左近はそちらに視線を送りもしない。左近と別れて校門を過ぎてから、伊助は声を潜めて三郎次に話しかける。
「あれ、絶対仕組まれてますよね」
「わかってるだろ、あいつらも」
左近と高坂がお互い意識しているだろうことは、近くにいれば何となく察しのつくことであった。立場や年齢やと何かと言い訳をしているらしいが、見ている側からすればまどろっこしいのでさっさとくっついてほしいところだろう。そんな周囲が彼らを二人っきりにしたのあろうが、あれでは効果があるのかわからない。
――尤も、伊助たちも人のことを言えた口ではないのだ。
お互い思いは口にしないまま、それでももうわかっている。たったのひと言を言葉にすれば、ふたりの関係ははっきりと言い表せるものになるだろう。
時々少しもどかしく、しかしこれが心地よいときもある。三郎次はどう思っているのだろう。
「……帰り」
「はい?」
「帰り、どうせ遅くなるだろうから送ってやる」
「別にいいですよ、タカ丸さんと帰りますから」
「先輩に片づけさせられないだろ」
「そーですねー」
素直じゃないこの人が、嫌いじゃない。
笑う伊助に三郎次は嫌な顔をしたが、もう見慣れた顔だった。
そう言ったのは当然、高等部二年の斉藤タカ丸だった。最上級生で委員長でもある久々知兵助が今までそんなことを言い出したことはなく、それを率先して行うような人ではないことも、今までのつき合いの中で十分理解している。
学期末の委員会は大忙して、特に扱うものがものである火薬委員会は棚卸に翻弄されている。そんな中で相変わらず危機感のないタカ丸がそんなことを言い出したので、三郎次が怒鳴りそうになったのを、伊助は慌てて遮った。中等部二年池田三郎次の怒りもわからなくはない。何よりも、自分たちの仕事はのんびりしたタカ丸の好意と言う邪魔によって遅々とした進行であったからだ。
「それじゃあ僕、クリスマスケーキ作ってきます!」
「はぁ?」
「ね、タカ丸さん!だからクリスマスまでに、絶対棚卸終わらせましょうね!ね、久々知先輩!」
「……ああ、そうだな。じゃあタカ丸さん、棚卸が終わればクリスマスパーティーをしましょう」
「え〜?終わらなかったら?」
「終わらせるんです!冬休みも来るなんてごめんですからね!」
「よーし!頑張ろうね!」
三郎次の怒る様子も軽く流して、タカ丸は作業に戻っていった。三郎次の行き場のない憤りを、久々知がこっそり抑えている。伊助はほっと息を吐いた。
「伊助、ありがとう。目標があればタカ丸さんももう少し効率が上がるだろう」
「いえ、誰かさんがうるさくなるのが嫌だったので」
「それは俺か?」
「さぁ誰でしょう」
突っかかってくる三郎次に背を向けて、伊助も作業に戻った。火薬委員唯一の女子である伊助の受け持ちは軽い物ばかりではあるが、多いことに変わりはない。
それは結果的にタカ丸のやる気に火をつけて、順調に終業式までにするべきことを終えることができた。
三郎次は忘れていてくれないだろうかと思っていたらしいが、楽しいことが好きなタカ丸がそんな約束を忘れるはずがない。
昨日のうちに作っておいたケーキは朝のうちに用務員の小松田に預かってもらって冷蔵庫に入れてある。その他の買い出しを、伊助と三郎次で行くことになった。
「雪は降りそうにないですねぇ」
「降ってほしいのか、寒いだけじゃねえか」
肩をすくませてマフラーに顔をうずめた三郎次を横目に、伊助は笑いを隠した。あまり口にはしないが三郎次は寒さに弱いらしく、その制服の下に随分と着込んでいることを知っている。水泳部である三郎次は完全な夏男なのかもしれない。
買い出しと行ってもコンビニに飲み物とお菓子を少し買いに行くだけだ。学校ではタカ丸たちが飾りつけをしているだろう。タカ丸がどこからともなくクリスマスツリーを見つけ出してきたのだ。
ふたつに分けて持ったビニール袋を提げて、ふたりで学園に戻っていく。
「あったかくなると、久々知先輩も卒業ですね」
「……タカ丸さんが委員長になるのか」
「……」
はぁ、と溜息をついたのはほぼ同時だった。タカ丸は決して悪気があるわけではないが、いかんせん、彼の性格がリーダーには向いていない。
「まぁ、きっと後輩も入りますよ。頑張りましょうね」
「久々知先輩留年しないかな」
「そんな不穏なこと言ってると怒られますよ……そうでなくとも久々知先輩受験生なのに……」
「ピリピリしてたのはなくなったけどな」
「開き直ったみたいですよ」
「大丈夫なのかそれ」
自分の分だけ温かい飲み物を買った三郎次はそれをカイロ代わりに握りしめていた。確かに今日はよく冷え込み、寒さが苦手でなくとも喜んで外に出たくはないだろう。
学園が近づき、校門のそばに人影があるのに気がついた。見知ったその顔に、三郎次と少し顔を見合わせる。
保健委員の川西左近と、保健委員によく現れる部外者の高坂と言う男だ。一メートルほど離れた場所で、距離を保って並んでいる。
同じ学年の三郎次が左近に声をかけると、寒さに鼻を赤くして顔を上げた。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
冷めかけた飲み物を三郎次が渡せば、左近は素直に受け取った。高坂の方は何か言いたげに左近を見たが、左近はそちらに視線を送りもしない。左近と別れて校門を過ぎてから、伊助は声を潜めて三郎次に話しかける。
「あれ、絶対仕組まれてますよね」
「わかってるだろ、あいつらも」
左近と高坂がお互い意識しているだろうことは、近くにいれば何となく察しのつくことであった。立場や年齢やと何かと言い訳をしているらしいが、見ている側からすればまどろっこしいのでさっさとくっついてほしいところだろう。そんな周囲が彼らを二人っきりにしたのあろうが、あれでは効果があるのかわからない。
――尤も、伊助たちも人のことを言えた口ではないのだ。
お互い思いは口にしないまま、それでももうわかっている。たったのひと言を言葉にすれば、ふたりの関係ははっきりと言い表せるものになるだろう。
時々少しもどかしく、しかしこれが心地よいときもある。三郎次はどう思っているのだろう。
「……帰り」
「はい?」
「帰り、どうせ遅くなるだろうから送ってやる」
「別にいいですよ、タカ丸さんと帰りますから」
「先輩に片づけさせられないだろ」
「そーですねー」
素直じゃないこの人が、嫌いじゃない。
笑う伊助に三郎次は嫌な顔をしたが、もう見慣れた顔だった。
2013'12.24.Tue
「うわぁっ!」
「わっ」
アルミンが叫び声と共に布団を跳ね上げて飛び起きて、隣で携帯を見ていたジャンは驚いて体をのけぞらせた。息を乱したアルミンはきょろきょろと辺りを見回し、ジャンも体を起こして腕を取れば、こちらを見てほっとしたように息を吐く。
「どうした?」
「……変な夢見てた」
アルミンは顔を強張らせ、怖い夢だったのだろうと肩を抱き寄せる。そのまま撫でてやれば、甘えるように頭を預けてきた。
「パンケーキを見せびらかされる夢……」
「何だそりゃ」
ジャンが肩を揺らして笑うと、アルミンもようやく落ち着いたらしい。そうだよね、と頬を緩ませ、ジャンを見上げる。
「おはよう、ジャン」
「おはよう」
斜め下から顎に触れた唇がくすぐったい。お返しにこめかみに唇を返した。
「腹減ったな」
「うん。パンケーキ食べに行こうよ。夢に出てきたせいですっごく食べたい」
見えないパンケーキを睨むようなアルミンの視線を笑い、寝癖のついた頭を撫で回す。まずは身支度を整えなければならない。気づいたアルミンが慌てて髪を撫でつける。
「夢に見るほど食べたいならさっさと支度しろよ」
「そんなんじゃないよ!」
拗ねたように唇を尖らせるアルミンにちょっかいを出したくなるが、今は空腹感の方が勝る。ひとり暮らしのジャンの部屋に洗面所は当然一つしかなく、寝癖直しに占拠される前にベッドから降りた。
ジャンの住むアパートの近くにある喫茶店はパンケーキが美味しい店としても有名だ。ジャンはそれよりもしっかり食べたいので頼んだことはないが、アルミンが時々注文する。
シンプルなパンケーキとサラダのセットを前に、アルミンはいただきます、と頬を緩ませてナイフを通す。ざっくりと大きく切ったひと口を口に運んで、満足げに咀嚼した。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「なんだかすごく我慢させられた気がするせいかも」
「ははっ、しかしすげえ夢だな」
食事が運ばれてくる間、アルミンの夢の詳細を聞いたが、アルミンも明確に覚えているわけではなかった。しかし断片を聞く限りでもなかなか不思議な夢だ。
食べ始めてからのアルミンは食事に集中してしまい、言葉もなく食べ続けている。よく考えれば昨夜、ジャンの部屋を訪れたアルミンの文句も聞かず、彼をベッドに引きずり込んだのはジャンだ。夕食もまだだったはずだ、と思いだし、少しばつが悪くなる。食べ物の夢を見たのはそのせいなのかもしれない。
「あぁ、アルミン、オレ旅行からだから」
「あ、うん。いいなぁ〜一週間ヨーロッパ旅行!優雅だなぁ」
「旅行じゃねえよ」
「仕事でも羨ましいなぁ」
「やだよ、何時間かかると思ってんだ、めんどくせえ。オレが一週間いないからって泣くなよ」
「泣きませーん。浮気はするかもしれないけど」
「してみろ」
「ははっ、知らないよ〜?そんなこと言って」
軽口を叩いて笑いあう。もうつき合いもそこそこ長く、こんな冗談も慣れたものだった。
次の日からジャンは海外へ旅立った。時差の関係もありアルミンとはほとんど連絡を取ることはできなかったが、元々メールや電話をまめにするようなつき合いではない。予定が合わなければ一週間会わないことなどもあるので、口で言うほど大したことではない。
それでも海外で過ごす時間にジャンも疲労が溜まり、帰国するとすぐにアルミンの顔が見たくなって連絡を取った。しかし電話の向こうのアルミンの声はどこか乗り気ではなさそうだ。都合が悪いのかと聞けば否定する。首を傾げつつもその様子が心配で、半ば強引に会う予定を取りつけた。
夜になってジャンの部屋にやってきたアルミンはいつも通りで、特に変わったことはなさそうだった。ただひとつだけ、気になることはあった。
「飯は?」
「あ、食べてきた。ジャンまだだった?ごめん」
「あー、軽く食うから待っててくれるか」
「お茶だけもらうね」
ひとり分なら手間をかけることもない。袋ラーメンをゆで始めたジャンの隣で冷蔵庫を開けるアルミンを盗み見る。丸みを帯びた頬は柔らかそうだ。
「……プリン入ってるし食っていいぞ」
「あ、……ううん、大丈夫。お腹いっぱい」
「ふーん」
ぱっと飲み物だけ取って先にテレビの前に戻るアルミンを少しだけ目で追い、ジャンは鍋に視線を戻した。
――太ったような気がする。
元々もう少し太ってもいいほどの体つきであったが、それにしても一週間で見た目にわかるほど太るだろうか。それともジャンの勘違いだろうか。
具も入れないままのラーメンを丼に移し、ジャンも部屋に向かう。手持無沙汰にさして興味のなさそうなバラエティ番組を見ているアルミンをまじまじと見るが、彼は気づいていないのか振り返りもしない。
結局ジャンが確信したのは、ふたりでベッドに入った時だった。
「アルミン、お前、太った?」
腕の中に抱きしめた体が強張った。怒るか、と思い、少し体を離してアルミンを見るが、動揺したように瞬きを繰り返しているだけだ。安心してアルミンの服に手をかけると、アルミンからは逆に不安げな声が降ってきた。
「……わ、わかる?」
「なんかやらけーんだけど。別に抱き心地いいから構わねえけどさ」
「……ちょっと、最近食べ過ぎちゃって。すぐ戻るよ」
「いいよ別に」
アルミンの柔らかい頬に口づけて、更に体を引き寄せる。美味しそうな弾力だ。どこか甘い匂いさえする気がして、ジャンは首筋に顔をうずめて匂いを吸い込む。
「……ん?お前なんかつけてる?」
「え?」
「甘い匂いがする」
この匂いを知っている。これは、とジャンが口を開こうとした瞬間、ジャンを見たアルミンがぼろぼろと泣き始めた。
「えっ、ちょ」
「ジャン、僕おかしいんだ」
「どうした?」
「もうバターもミルクもメープルもお腹いっぱいなのに!」
「あ、そう、それだ」
とろりと甘い、メープルシロップの匂い。アルミンが涙を零すたび、更に甘い匂いが広がる気がした。甘えるように、ジャン、と縋るアルミンはもっと幼い子どものようだ。
「なぁ、泣いてちゃわかんねえよ」
「笑わないで聞いてくれる?」
「ああ、そんなに泣いてるお前を笑えねえよ」
アルミンは落ち着こうと深く息を吐き、鼻をすすってジャンの胸に額を当てる。その背を子どもをあやすように叩いてやると少し力が抜けたようだ。
「あのね」
「うん」
「……パンケーキの夢の話、したでしょ」
「あ?……ああ、オレが行く前か」
「うん。あの日から……僕、おかしくて」
アルミンは身を震わせて両腕を抱いた。なぜ夢の話が出てくるのかわからないが、水を差すのはやめてジャンも体を抱いてやる。
「パンケーキが、食べたくて仕方がなくて」
「……別に、食べたらいいんじゃねえの?」
「違うんだ!」
がばりと顔を上げたアルミンにの頭に顎をぶつけそうになり、慌てて体を引く。ジャンを見上げるアルミンの目には涙が浮かび、いたって真剣であるようだ。
「は、初めはそれで済んだんだ。だけど、日が経つにつれて、……パンケーキしか食べられなくなって」
「……は?」
「本当なんだ。他のものには食欲がわかなくて、無理に食べても吐き気がして……」
ほろほろと涙を零すアルミンはとても嘘をついているようには思えない。しかしはいそうですかと信じることができる内容でもなく、ジャンは困惑したままアルミンを見る。落ち着かせようと背を撫でるが、アルミンはジャンが信じていないと思ったのか、きっと涙目でジャンを睨みつけた。
「ジャンがいなくなってからパンケーキしか食べてないんだ。と言うよりも四六時中パンケーキを食べている。仕事中も食べたくて仕方なくて支障が出るほどで実はずっと仕事を休んでいる。
その間は一度行った店には行き辛くて調べてあちこちのお店に食べ歩き、きっと今ならパンケーキ店紹介本が今すぐ書ける。お店も開いてないような深夜にも食べたくなって我慢できなくなるから、ここ数日で僕はパンケーキを焼くのがものすごくうまくなった。自分の納得が行くまで研究しておいしいパンケーキを作れるようになったから今なら完璧なレシピ本が出せると思う。自分で言うのもなんだけど沢山食べ歩いた中でも僕が作るパンケーキがきっと一番おいしい。実はこうしてジャンと抱き合っている今でもパンケーキが食べたくて仕方がない」
「わ、わかったから!」
「……怖いんだ。考えたくないけど自分がおかしくなったとしか思えないし、こんなことで病院に行くわけにもいかないし……ジャン、僕どうしたらいいの?」
濡れた瞳で縋られて、アルミンは真剣だとわかるのにジャンの理性とは別のところで体が反応してしまう。それを察したアルミンが、きっとジャンを睨みつけた。
「僕は真剣なんだ!」
「わ、悪かった!嘘だとは思ってねぇよ!」
「あ〜もうだめだ!我慢できない!」
ぱっとアルミンが立ち上がったかと思えば、服も乱れたままで台所に向かっていった。本気で起こさせたのかと思いきや、アルミンは自分のバッグを引き寄せてそこから何かを取り出す。ぞくぞくと出てくるのは、――白い粉、だ。
アルミンの行動について行けずにジャンがただ瞬きを繰り返す間に、アルミンはてきぱきと調理器具を取り出して何かを作り始める。アルミンの言葉通りなら、恐らくパンケーキを。
こちらを振り返ることなく作業を進めるアルミンに何も言えず、ジャンは硬直したままそれを見守る。気づいた頃には自分の息子も萎えてしまっていた。
バターのいい匂いが漂ってきた。額に汗してアルミンが焼き上げた一枚を皿に移した。ことりと音をさせてテーブルに置き、ジャンの家にはなかったはずのメープルシロップとバターを並べる。フォークとナイフを持つ手は少し急いていた。
「いただきます!」
表面はきれいに均一にきつね色に染まり、空気を含んでふわりと焼き上がった生地にとろりと褐色のみつが垂らされる。弧を描くそれは音を立てるように生地に沈み、アルミンがのどを鳴らしたのがジャンの位置からもわかった。
少しくすんだ銀のナイフとフォーク。そっと乗せられたフォークの先に沿うようにナイフが滑り、パンケーキの表面を軽く押す。メープルシロップで皿に柔らかくなった生地は崩れるようにナイフを受け、ざっくりと切られたそれに、アルミンは待ちきれないように口で迎えに行く。
大きく見えた破片はあっさりとアルミンの口に収まり、途端にアルミンは相好を崩した。ほのかに頬を染め、唇を緩ませて、笑うのを堪えているようにも見えた。じっくりと味わって咀嚼され、上下する喉に視線が誘われる。
はぁ、と、どこかうっとりとパンケーキを見つめるアルミンの表情は、見たことがないほど扇情的なものだった。
「……うまいか?」
「うん、おいしい」
それがジャンの声とも認識していないかもしれない。アルミンはパンケーキから視線を外さないまま、再びフォークとナイフを添える。
――なんだ、これは。
ジャンがベッドを降りて近づいても、アルミンは気づきもしていないようだ。ふた口目も堪能している様をじっと見て、ジャンはアルミンの手を掴む。驚いたアルミンからナイフとフォークを奪い、テーブルごとパンケーキを押しやった。何を、と言いかけたアルミンは勢いのまま床に押し倒して繋ぎ止める。
「ジャン、何を」
「エッロい顔しやがった。馬鹿にしてんのか?」
「だ……だから、違うんだって」
「オレなんかに構ってるより、パンケーキの方がいいってか?」
抵抗しようとするアルミンもジャンから逃れると言うよりもパンケーキを気にしているようで、更にジャンの機嫌を損ねていることに気づいていない。強引にズボンを下着ごと引き下げて、半端に脱がしたまま足を担ぎ上げる。
「あっ、ジャン、嫌だ」
「別れてえってならもっとうまい言い訳考えろよ」
「違う、ジャン!」
カッとなったジャンはもう止まれなかった。アルミンの抵抗も、泣く声も、ジャンを止めることはできなかったのだ。
「わっ」
アルミンが叫び声と共に布団を跳ね上げて飛び起きて、隣で携帯を見ていたジャンは驚いて体をのけぞらせた。息を乱したアルミンはきょろきょろと辺りを見回し、ジャンも体を起こして腕を取れば、こちらを見てほっとしたように息を吐く。
「どうした?」
「……変な夢見てた」
アルミンは顔を強張らせ、怖い夢だったのだろうと肩を抱き寄せる。そのまま撫でてやれば、甘えるように頭を預けてきた。
「パンケーキを見せびらかされる夢……」
「何だそりゃ」
ジャンが肩を揺らして笑うと、アルミンもようやく落ち着いたらしい。そうだよね、と頬を緩ませ、ジャンを見上げる。
「おはよう、ジャン」
「おはよう」
斜め下から顎に触れた唇がくすぐったい。お返しにこめかみに唇を返した。
「腹減ったな」
「うん。パンケーキ食べに行こうよ。夢に出てきたせいですっごく食べたい」
見えないパンケーキを睨むようなアルミンの視線を笑い、寝癖のついた頭を撫で回す。まずは身支度を整えなければならない。気づいたアルミンが慌てて髪を撫でつける。
「夢に見るほど食べたいならさっさと支度しろよ」
「そんなんじゃないよ!」
拗ねたように唇を尖らせるアルミンにちょっかいを出したくなるが、今は空腹感の方が勝る。ひとり暮らしのジャンの部屋に洗面所は当然一つしかなく、寝癖直しに占拠される前にベッドから降りた。
ジャンの住むアパートの近くにある喫茶店はパンケーキが美味しい店としても有名だ。ジャンはそれよりもしっかり食べたいので頼んだことはないが、アルミンが時々注文する。
シンプルなパンケーキとサラダのセットを前に、アルミンはいただきます、と頬を緩ませてナイフを通す。ざっくりと大きく切ったひと口を口に運んで、満足げに咀嚼した。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「なんだかすごく我慢させられた気がするせいかも」
「ははっ、しかしすげえ夢だな」
食事が運ばれてくる間、アルミンの夢の詳細を聞いたが、アルミンも明確に覚えているわけではなかった。しかし断片を聞く限りでもなかなか不思議な夢だ。
食べ始めてからのアルミンは食事に集中してしまい、言葉もなく食べ続けている。よく考えれば昨夜、ジャンの部屋を訪れたアルミンの文句も聞かず、彼をベッドに引きずり込んだのはジャンだ。夕食もまだだったはずだ、と思いだし、少しばつが悪くなる。食べ物の夢を見たのはそのせいなのかもしれない。
「あぁ、アルミン、オレ旅行からだから」
「あ、うん。いいなぁ〜一週間ヨーロッパ旅行!優雅だなぁ」
「旅行じゃねえよ」
「仕事でも羨ましいなぁ」
「やだよ、何時間かかると思ってんだ、めんどくせえ。オレが一週間いないからって泣くなよ」
「泣きませーん。浮気はするかもしれないけど」
「してみろ」
「ははっ、知らないよ〜?そんなこと言って」
軽口を叩いて笑いあう。もうつき合いもそこそこ長く、こんな冗談も慣れたものだった。
次の日からジャンは海外へ旅立った。時差の関係もありアルミンとはほとんど連絡を取ることはできなかったが、元々メールや電話をまめにするようなつき合いではない。予定が合わなければ一週間会わないことなどもあるので、口で言うほど大したことではない。
それでも海外で過ごす時間にジャンも疲労が溜まり、帰国するとすぐにアルミンの顔が見たくなって連絡を取った。しかし電話の向こうのアルミンの声はどこか乗り気ではなさそうだ。都合が悪いのかと聞けば否定する。首を傾げつつもその様子が心配で、半ば強引に会う予定を取りつけた。
夜になってジャンの部屋にやってきたアルミンはいつも通りで、特に変わったことはなさそうだった。ただひとつだけ、気になることはあった。
「飯は?」
「あ、食べてきた。ジャンまだだった?ごめん」
「あー、軽く食うから待っててくれるか」
「お茶だけもらうね」
ひとり分なら手間をかけることもない。袋ラーメンをゆで始めたジャンの隣で冷蔵庫を開けるアルミンを盗み見る。丸みを帯びた頬は柔らかそうだ。
「……プリン入ってるし食っていいぞ」
「あ、……ううん、大丈夫。お腹いっぱい」
「ふーん」
ぱっと飲み物だけ取って先にテレビの前に戻るアルミンを少しだけ目で追い、ジャンは鍋に視線を戻した。
――太ったような気がする。
元々もう少し太ってもいいほどの体つきであったが、それにしても一週間で見た目にわかるほど太るだろうか。それともジャンの勘違いだろうか。
具も入れないままのラーメンを丼に移し、ジャンも部屋に向かう。手持無沙汰にさして興味のなさそうなバラエティ番組を見ているアルミンをまじまじと見るが、彼は気づいていないのか振り返りもしない。
結局ジャンが確信したのは、ふたりでベッドに入った時だった。
「アルミン、お前、太った?」
腕の中に抱きしめた体が強張った。怒るか、と思い、少し体を離してアルミンを見るが、動揺したように瞬きを繰り返しているだけだ。安心してアルミンの服に手をかけると、アルミンからは逆に不安げな声が降ってきた。
「……わ、わかる?」
「なんかやらけーんだけど。別に抱き心地いいから構わねえけどさ」
「……ちょっと、最近食べ過ぎちゃって。すぐ戻るよ」
「いいよ別に」
アルミンの柔らかい頬に口づけて、更に体を引き寄せる。美味しそうな弾力だ。どこか甘い匂いさえする気がして、ジャンは首筋に顔をうずめて匂いを吸い込む。
「……ん?お前なんかつけてる?」
「え?」
「甘い匂いがする」
この匂いを知っている。これは、とジャンが口を開こうとした瞬間、ジャンを見たアルミンがぼろぼろと泣き始めた。
「えっ、ちょ」
「ジャン、僕おかしいんだ」
「どうした?」
「もうバターもミルクもメープルもお腹いっぱいなのに!」
「あ、そう、それだ」
とろりと甘い、メープルシロップの匂い。アルミンが涙を零すたび、更に甘い匂いが広がる気がした。甘えるように、ジャン、と縋るアルミンはもっと幼い子どものようだ。
「なぁ、泣いてちゃわかんねえよ」
「笑わないで聞いてくれる?」
「ああ、そんなに泣いてるお前を笑えねえよ」
アルミンは落ち着こうと深く息を吐き、鼻をすすってジャンの胸に額を当てる。その背を子どもをあやすように叩いてやると少し力が抜けたようだ。
「あのね」
「うん」
「……パンケーキの夢の話、したでしょ」
「あ?……ああ、オレが行く前か」
「うん。あの日から……僕、おかしくて」
アルミンは身を震わせて両腕を抱いた。なぜ夢の話が出てくるのかわからないが、水を差すのはやめてジャンも体を抱いてやる。
「パンケーキが、食べたくて仕方がなくて」
「……別に、食べたらいいんじゃねえの?」
「違うんだ!」
がばりと顔を上げたアルミンにの頭に顎をぶつけそうになり、慌てて体を引く。ジャンを見上げるアルミンの目には涙が浮かび、いたって真剣であるようだ。
「は、初めはそれで済んだんだ。だけど、日が経つにつれて、……パンケーキしか食べられなくなって」
「……は?」
「本当なんだ。他のものには食欲がわかなくて、無理に食べても吐き気がして……」
ほろほろと涙を零すアルミンはとても嘘をついているようには思えない。しかしはいそうですかと信じることができる内容でもなく、ジャンは困惑したままアルミンを見る。落ち着かせようと背を撫でるが、アルミンはジャンが信じていないと思ったのか、きっと涙目でジャンを睨みつけた。
「ジャンがいなくなってからパンケーキしか食べてないんだ。と言うよりも四六時中パンケーキを食べている。仕事中も食べたくて仕方なくて支障が出るほどで実はずっと仕事を休んでいる。
その間は一度行った店には行き辛くて調べてあちこちのお店に食べ歩き、きっと今ならパンケーキ店紹介本が今すぐ書ける。お店も開いてないような深夜にも食べたくなって我慢できなくなるから、ここ数日で僕はパンケーキを焼くのがものすごくうまくなった。自分の納得が行くまで研究しておいしいパンケーキを作れるようになったから今なら完璧なレシピ本が出せると思う。自分で言うのもなんだけど沢山食べ歩いた中でも僕が作るパンケーキがきっと一番おいしい。実はこうしてジャンと抱き合っている今でもパンケーキが食べたくて仕方がない」
「わ、わかったから!」
「……怖いんだ。考えたくないけど自分がおかしくなったとしか思えないし、こんなことで病院に行くわけにもいかないし……ジャン、僕どうしたらいいの?」
濡れた瞳で縋られて、アルミンは真剣だとわかるのにジャンの理性とは別のところで体が反応してしまう。それを察したアルミンが、きっとジャンを睨みつけた。
「僕は真剣なんだ!」
「わ、悪かった!嘘だとは思ってねぇよ!」
「あ〜もうだめだ!我慢できない!」
ぱっとアルミンが立ち上がったかと思えば、服も乱れたままで台所に向かっていった。本気で起こさせたのかと思いきや、アルミンは自分のバッグを引き寄せてそこから何かを取り出す。ぞくぞくと出てくるのは、――白い粉、だ。
アルミンの行動について行けずにジャンがただ瞬きを繰り返す間に、アルミンはてきぱきと調理器具を取り出して何かを作り始める。アルミンの言葉通りなら、恐らくパンケーキを。
こちらを振り返ることなく作業を進めるアルミンに何も言えず、ジャンは硬直したままそれを見守る。気づいた頃には自分の息子も萎えてしまっていた。
バターのいい匂いが漂ってきた。額に汗してアルミンが焼き上げた一枚を皿に移した。ことりと音をさせてテーブルに置き、ジャンの家にはなかったはずのメープルシロップとバターを並べる。フォークとナイフを持つ手は少し急いていた。
「いただきます!」
表面はきれいに均一にきつね色に染まり、空気を含んでふわりと焼き上がった生地にとろりと褐色のみつが垂らされる。弧を描くそれは音を立てるように生地に沈み、アルミンがのどを鳴らしたのがジャンの位置からもわかった。
少しくすんだ銀のナイフとフォーク。そっと乗せられたフォークの先に沿うようにナイフが滑り、パンケーキの表面を軽く押す。メープルシロップで皿に柔らかくなった生地は崩れるようにナイフを受け、ざっくりと切られたそれに、アルミンは待ちきれないように口で迎えに行く。
大きく見えた破片はあっさりとアルミンの口に収まり、途端にアルミンは相好を崩した。ほのかに頬を染め、唇を緩ませて、笑うのを堪えているようにも見えた。じっくりと味わって咀嚼され、上下する喉に視線が誘われる。
はぁ、と、どこかうっとりとパンケーキを見つめるアルミンの表情は、見たことがないほど扇情的なものだった。
「……うまいか?」
「うん、おいしい」
それがジャンの声とも認識していないかもしれない。アルミンはパンケーキから視線を外さないまま、再びフォークとナイフを添える。
――なんだ、これは。
ジャンがベッドを降りて近づいても、アルミンは気づきもしていないようだ。ふた口目も堪能している様をじっと見て、ジャンはアルミンの手を掴む。驚いたアルミンからナイフとフォークを奪い、テーブルごとパンケーキを押しやった。何を、と言いかけたアルミンは勢いのまま床に押し倒して繋ぎ止める。
「ジャン、何を」
「エッロい顔しやがった。馬鹿にしてんのか?」
「だ……だから、違うんだって」
「オレなんかに構ってるより、パンケーキの方がいいってか?」
抵抗しようとするアルミンもジャンから逃れると言うよりもパンケーキを気にしているようで、更にジャンの機嫌を損ねていることに気づいていない。強引にズボンを下着ごと引き下げて、半端に脱がしたまま足を担ぎ上げる。
「あっ、ジャン、嫌だ」
「別れてえってならもっとうまい言い訳考えろよ」
「違う、ジャン!」
カッとなったジャンはもう止まれなかった。アルミンの抵抗も、泣く声も、ジャンを止めることはできなかったのだ。
2013'12.21.Sat
「どうしたら早く泳げるか、かぁ……」
首を傾げる渚に、怜は少し苛立って先を促した。自分たちには時間がない。水泳は練習する場所も時間も限られていて、登下校がてらに体を鍛えているだけでは不十分だ。それを補おうと怜が正直に渚に教えを乞うも、彼はいつも通りのふんわりとした態度で、のれんに腕押しとはこのことだ。
水泳部のほかのメンバーとは大きな差がある怜にとっては、駅で電車を待つこの時間さえも惜しい。渚と並んでベンチに座って、マスコットキャラクターの怖い噂を聞くことよりはまだましだと思ったのだが、さほど違いはなかったかもしれない。
「では聞き方を変えます。君はどうやって泳ぎの練習をしたのですか?」
「え〜?え〜っとねぇ、水泳を始めたのはスクールに入ってからだから、多分教えてもらったんだろうけど……うーん、でも僕たちみんな、順調に選手コースに入ってたからなぁ」
「選手コース?」
「うん。スイミングスクールね、始めに入ったときはみんな一緒だけど、定期的にテストがあって進級していくんだ。級に合格するとバッチがもらえるんだよ〜!あれがひとつずつ増えていくの、すごく嬉しかったな〜」
「……ご褒美があるから頑張った、と言うことですか……」
幾らなりふり構っていられないとはいえ、彼を頼ろうとしたのは間違いだったようだ。思わず溜息をつけば、隣の渚は焦ったように手を振った。
夏の炎天下でも、彼はいつでも笑顔を絶やさない。時には暑いとしかめっ面で愚痴をこぼすこともあるが、次の瞬間には笑顔でこちらを振り返る。
「そればっかりじゃないよ!だって選手コースは級なんてないから、何もご褒美はなかったもん」
「君のことだから、練習の後のアイスでも楽しみにしてたんじゃないですか?」
「そんっ……な、こと……も、あった、かな?えへへ」
「はぁ……」
電車はまだ来そうにない。夏の夕方の風はまだ生ぬるく、今までならば一駅ほど走って帰っていた。それも水泳を始めた今はやめてしまった。体を休めるという名目で。
水の中で動く、と言うことは、思っていた以上に体力のいることだった。自分が今までこの身で切っていた風はどれほど抵抗がなかったのかと思うほどに、水は重く、体にまとわりつく。
「あ、そうだ!思いだした!」
「何ですか」
「僕、始めは水に顔をつけるのも嫌いだったんだよ」
「あなたがですか?」
「そう、お母さんが見えなくなっちゃうからすごく怖かったの」
「はぁ」
それは何となく、容易に想像がつく。むしろ彼が甘えん坊でなければ驚くほどだ。
「でもね、水泳を始めたばかりの時、多分お母さんは水が怖くて僕が嫌がってるんだって思ったんだろうね。優しく撫でてくれながら、教えてくれたんだ。こーやって!」
ぐい、と渚に強引に引っ張られた。咄嗟にことにバランスを崩し、慌てる怜の頭を渚は自分の膝に預ける。まだ少し湿った髪を撫で、優しい声を耳に落とした。
「『まだなぎちゃんが今よりもぉっと小さくて、お母さんのお腹の中にいた頃、なぎちゃんはお母さんのお腹の中で泳いでたんだよ』」
「……お腹の中、ですか」
「そうだよ。生まれたばかりの赤ちゃんって、泳げるんだって。ほら、赤ちゃんの周りは羊水でしょ?」
「ああ……」
「だからね、怜ちゃんもお母さんのお腹の中ではすいすい泳いでたんだよー」
まるで自分が怜の母だと言わんばかりに、渚は優しく額を撫でる。髪は渇き切っていないのだから制服が濡れるだろうと思うのに、妙に心地よくて言い出せない。呼ばれた気がしてすいと顔を上げると、渚が視線を合わせてにこりと笑う。
「それに、僕らは誰よりも早く泳いで、一番になったことがあるはずだよ」
「一番……って、それ、もしかして下ネタですか」
「うふっ」
渚の手が顎を撫でた。そうかと思った瞬間には彼はぐっと状態を倒し、怜の頭を抱え込むようにして額にキスを落とす。慌てて振り払うとベンチから落ちて尻餅をついた。渚はけらけらと笑い声をあげる。
「何をするんですか!」
「お母さんがしてくれたおまじない。怜ちゃんにもパワーをあげようと思って」
「……あなたは僕の母ですか」
「違うよ?大好きな人に有効なおまじない!!」
首を傾げる渚に、怜は少し苛立って先を促した。自分たちには時間がない。水泳は練習する場所も時間も限られていて、登下校がてらに体を鍛えているだけでは不十分だ。それを補おうと怜が正直に渚に教えを乞うも、彼はいつも通りのふんわりとした態度で、のれんに腕押しとはこのことだ。
水泳部のほかのメンバーとは大きな差がある怜にとっては、駅で電車を待つこの時間さえも惜しい。渚と並んでベンチに座って、マスコットキャラクターの怖い噂を聞くことよりはまだましだと思ったのだが、さほど違いはなかったかもしれない。
「では聞き方を変えます。君はどうやって泳ぎの練習をしたのですか?」
「え〜?え〜っとねぇ、水泳を始めたのはスクールに入ってからだから、多分教えてもらったんだろうけど……うーん、でも僕たちみんな、順調に選手コースに入ってたからなぁ」
「選手コース?」
「うん。スイミングスクールね、始めに入ったときはみんな一緒だけど、定期的にテストがあって進級していくんだ。級に合格するとバッチがもらえるんだよ〜!あれがひとつずつ増えていくの、すごく嬉しかったな〜」
「……ご褒美があるから頑張った、と言うことですか……」
幾らなりふり構っていられないとはいえ、彼を頼ろうとしたのは間違いだったようだ。思わず溜息をつけば、隣の渚は焦ったように手を振った。
夏の炎天下でも、彼はいつでも笑顔を絶やさない。時には暑いとしかめっ面で愚痴をこぼすこともあるが、次の瞬間には笑顔でこちらを振り返る。
「そればっかりじゃないよ!だって選手コースは級なんてないから、何もご褒美はなかったもん」
「君のことだから、練習の後のアイスでも楽しみにしてたんじゃないですか?」
「そんっ……な、こと……も、あった、かな?えへへ」
「はぁ……」
電車はまだ来そうにない。夏の夕方の風はまだ生ぬるく、今までならば一駅ほど走って帰っていた。それも水泳を始めた今はやめてしまった。体を休めるという名目で。
水の中で動く、と言うことは、思っていた以上に体力のいることだった。自分が今までこの身で切っていた風はどれほど抵抗がなかったのかと思うほどに、水は重く、体にまとわりつく。
「あ、そうだ!思いだした!」
「何ですか」
「僕、始めは水に顔をつけるのも嫌いだったんだよ」
「あなたがですか?」
「そう、お母さんが見えなくなっちゃうからすごく怖かったの」
「はぁ」
それは何となく、容易に想像がつく。むしろ彼が甘えん坊でなければ驚くほどだ。
「でもね、水泳を始めたばかりの時、多分お母さんは水が怖くて僕が嫌がってるんだって思ったんだろうね。優しく撫でてくれながら、教えてくれたんだ。こーやって!」
ぐい、と渚に強引に引っ張られた。咄嗟にことにバランスを崩し、慌てる怜の頭を渚は自分の膝に預ける。まだ少し湿った髪を撫で、優しい声を耳に落とした。
「『まだなぎちゃんが今よりもぉっと小さくて、お母さんのお腹の中にいた頃、なぎちゃんはお母さんのお腹の中で泳いでたんだよ』」
「……お腹の中、ですか」
「そうだよ。生まれたばかりの赤ちゃんって、泳げるんだって。ほら、赤ちゃんの周りは羊水でしょ?」
「ああ……」
「だからね、怜ちゃんもお母さんのお腹の中ではすいすい泳いでたんだよー」
まるで自分が怜の母だと言わんばかりに、渚は優しく額を撫でる。髪は渇き切っていないのだから制服が濡れるだろうと思うのに、妙に心地よくて言い出せない。呼ばれた気がしてすいと顔を上げると、渚が視線を合わせてにこりと笑う。
「それに、僕らは誰よりも早く泳いで、一番になったことがあるはずだよ」
「一番……って、それ、もしかして下ネタですか」
「うふっ」
渚の手が顎を撫でた。そうかと思った瞬間には彼はぐっと状態を倒し、怜の頭を抱え込むようにして額にキスを落とす。慌てて振り払うとベンチから落ちて尻餅をついた。渚はけらけらと笑い声をあげる。
「何をするんですか!」
「お母さんがしてくれたおまじない。怜ちゃんにもパワーをあげようと思って」
「……あなたは僕の母ですか」
「違うよ?大好きな人に有効なおまじない!!」
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