言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.21.Sat
何か……そういう話とは多分違うんじゃねえかとは思うんだよ。……聞きてえってんなら話すけどよ。
うちのババァはやたらこだわることが多いんだ。やれ小麦粉はどこの、紅茶はどこの、ってさ。そんなんだからオレはやたらお使いに行かされてた。ひとりで乗合馬車に乗れるようになったのも、ババァがお使いさせるために教えたからだ。
だから、もう慣れたことだった。紅茶だか花だか……なんだか知らねえけど、どこそこに買いに行けって使いだ。行ったことのある店だったし、オレはオレでお釣りの駄賃目当てにその日もお使いを頼まれた。
その日の乗合馬車に、オレ以外で乗っていたのはひとりの女だった。ちょっと目を引くぐらいの美人で、おまけにこんな乗合馬車に釣り合わないような、いい着物を着た女だった。まぁ、ガキの目でそう見えてたんだから相当だったんだろうな。
オレは女の向かいに座った。女は膝に宝石箱を乗せていた。……とにかく、細かく細工された箱だった。ガキのオレには宝石箱と言う表現しかできなかったんだよ。
馬車が動き出すときには手を添えて、愛おしそうにそれを撫でるんだ。手袋をした華奢な手だ。始めは見ないようにしてたけど、目的の場所までは子どものオレにとっては結構長い時間で、結局手持無沙汰でオレはその女を見ていた。女もすぐに気づいて、オレに笑いかけた。
瞬きをすると星が零れるような美人だった。
何か、そんな感じなんだよ!でもただの美人じゃなかった。ぞっと、鳥肌が立ったんだ。
女は宝石箱を開けた。中から何かを摘まみだして、それを口に入れたんだ。食べ物が入ってるような箱には見えなかったけど、オレにはそう見えていただけなのか、金持ちの趣味なのかはわかんねえ。
口の中で何かが砕かれる小さな音に、オレも小腹がすいていることを思い出した。それに好奇心が加わって、女に聞いたんだ。何を食べてるのかって。
それまで微笑をたたえていた女は少し驚いた顔をして、でもまたすぐに笑った。だけどそれはさっきまでとは違っていて、なんつうのか、目が笑ってない感じだった。オレでもまずいことを聞いたのかとわかるぐらいだった。
「内緒」、と、女はささやくように言った。すごく小さな声だったけどなぜか耳元で聞こえたような気がしてぞっとした。
女はまたひとつつまみだして口に運んだ。でも改めて意識すると、変なんだ。噛む音が、なんというのか……ものすごくかたいものが砕けるような、バキ!ゴリ!っていう、とても美しい女がさせていい音じゃなかった。それでも女は涼しい顔で、それをかみ砕き続けた。
居心地が悪くなってきて、怒られてもいいからお使いも放棄して帰ろうかと思い始めたオレに、今度は女が話しかけた。どこに行くの、って聞かれて、素直に行き先を答えた。女はあまり興味がなさそうだったけど、ひとりで行くと危ないとか、なんかそんなことを言った。
ああ、思いだした。そう。
「ひとりで行くと死んでしまうわ」
ああいうのを、鈴が転がすような、っていうのかな。とにかく声はものすごくきれいなんだ。歌うような調子で口にした言葉は物騒だったけどよ。
オレは多分慣れてるから大丈夫だとかなんとか答えた。でもその時はっとした。
もうそろそろ、ついていてもおかしくない時間だった。馬車は一度も止まらないまま、一定の速度で走っている。だけど普段ならそんなことはないんだ、オレが使っている乗合馬車は、誰もが適当なところで引き留めて乗ってくる。
乗る馬車間違えたかな、とか、乗り過ごしたかな、とか、オレは少し不安になった。
それを知ってか知らずか、女はまた口を開いた。
「これからパーティに行かない?」
多分女はそんなことを言った。
意味わかんねえし、ちょっと怖くなってきてたし、オレは首を振った。女は笑って、また宝石箱の中身を食べた。相変わらず、ワイルドな音をさせて。
それをすっかり飲み込んだ後、女はまたオレを見た。何を食べているか教えてやろうか、って言うから、首を振ろうとしたけど、好奇心に負けて頷いた。
「骨よ」
オレは耳を疑った。聞き間違いじゃないかと考えていたけど、一体どんな言葉と聞き間違えたのか全く思いつかなかった。女はその時だけ楽しそうに笑い、また「骨」をひとつ、口に運んだ。だけど今度はさっきのようなかたい音はしなくて、もう少し脆いものが砕けた音がした。女は顔をしかめて、ハンカチを口に当ててそれを吐き出したようだった。
それから間もなく馬車が止まって、オレはとにかくこれ以上この女と一緒にいるのはよくないような気がしていたから、すぐに飛び降りる気でいた。
でも、オレより早く女が立ち上がった。ドアに手をかけて、大きく開く。女の肩越しに見えたのは、墓地だった。勿論、オレがいつも乗る馬車は墓地になんていかないし、そもそもここらの墓地は馬車が入れるような場所にはない。
女がまたオレをパーティに誘ったけど、オレは必死で首を振った。女は変わらず口元だけで笑い、馬車を降りて行った。
しばらくすると、オレひとりになった馬車はまた動き出した。
そこからどうやって帰ったのか覚えてないけど、とにかくものすごく疲れていたことは覚えてる。なんせ帰るなり、ババァの説教を聞く間もなくぶっ倒れて二日ほど寝込んでいたぐらいだ。熱が出て、妙な発疹が出てたらしい。
それから、後で知ったことだけど、オレのシャツのポケットにお守りの石が隠されてたらしいんだ。オレは全く知らなかったけど、何かそういうものがあるらしい。
オレの熱が引いてから、ババァが何があったのかって妙に神妙な顔で聞くから話したら、そのお守りの石が粉々に砕けてたって教えてくれた。
だからさ、多分、あの女が最後に噛み砕いたのは、その石だったんじゃねえかな。
うちのババァはやたらこだわることが多いんだ。やれ小麦粉はどこの、紅茶はどこの、ってさ。そんなんだからオレはやたらお使いに行かされてた。ひとりで乗合馬車に乗れるようになったのも、ババァがお使いさせるために教えたからだ。
だから、もう慣れたことだった。紅茶だか花だか……なんだか知らねえけど、どこそこに買いに行けって使いだ。行ったことのある店だったし、オレはオレでお釣りの駄賃目当てにその日もお使いを頼まれた。
その日の乗合馬車に、オレ以外で乗っていたのはひとりの女だった。ちょっと目を引くぐらいの美人で、おまけにこんな乗合馬車に釣り合わないような、いい着物を着た女だった。まぁ、ガキの目でそう見えてたんだから相当だったんだろうな。
オレは女の向かいに座った。女は膝に宝石箱を乗せていた。……とにかく、細かく細工された箱だった。ガキのオレには宝石箱と言う表現しかできなかったんだよ。
馬車が動き出すときには手を添えて、愛おしそうにそれを撫でるんだ。手袋をした華奢な手だ。始めは見ないようにしてたけど、目的の場所までは子どものオレにとっては結構長い時間で、結局手持無沙汰でオレはその女を見ていた。女もすぐに気づいて、オレに笑いかけた。
瞬きをすると星が零れるような美人だった。
何か、そんな感じなんだよ!でもただの美人じゃなかった。ぞっと、鳥肌が立ったんだ。
女は宝石箱を開けた。中から何かを摘まみだして、それを口に入れたんだ。食べ物が入ってるような箱には見えなかったけど、オレにはそう見えていただけなのか、金持ちの趣味なのかはわかんねえ。
口の中で何かが砕かれる小さな音に、オレも小腹がすいていることを思い出した。それに好奇心が加わって、女に聞いたんだ。何を食べてるのかって。
それまで微笑をたたえていた女は少し驚いた顔をして、でもまたすぐに笑った。だけどそれはさっきまでとは違っていて、なんつうのか、目が笑ってない感じだった。オレでもまずいことを聞いたのかとわかるぐらいだった。
「内緒」、と、女はささやくように言った。すごく小さな声だったけどなぜか耳元で聞こえたような気がしてぞっとした。
女はまたひとつつまみだして口に運んだ。でも改めて意識すると、変なんだ。噛む音が、なんというのか……ものすごくかたいものが砕けるような、バキ!ゴリ!っていう、とても美しい女がさせていい音じゃなかった。それでも女は涼しい顔で、それをかみ砕き続けた。
居心地が悪くなってきて、怒られてもいいからお使いも放棄して帰ろうかと思い始めたオレに、今度は女が話しかけた。どこに行くの、って聞かれて、素直に行き先を答えた。女はあまり興味がなさそうだったけど、ひとりで行くと危ないとか、なんかそんなことを言った。
ああ、思いだした。そう。
「ひとりで行くと死んでしまうわ」
ああいうのを、鈴が転がすような、っていうのかな。とにかく声はものすごくきれいなんだ。歌うような調子で口にした言葉は物騒だったけどよ。
オレは多分慣れてるから大丈夫だとかなんとか答えた。でもその時はっとした。
もうそろそろ、ついていてもおかしくない時間だった。馬車は一度も止まらないまま、一定の速度で走っている。だけど普段ならそんなことはないんだ、オレが使っている乗合馬車は、誰もが適当なところで引き留めて乗ってくる。
乗る馬車間違えたかな、とか、乗り過ごしたかな、とか、オレは少し不安になった。
それを知ってか知らずか、女はまた口を開いた。
「これからパーティに行かない?」
多分女はそんなことを言った。
意味わかんねえし、ちょっと怖くなってきてたし、オレは首を振った。女は笑って、また宝石箱の中身を食べた。相変わらず、ワイルドな音をさせて。
それをすっかり飲み込んだ後、女はまたオレを見た。何を食べているか教えてやろうか、って言うから、首を振ろうとしたけど、好奇心に負けて頷いた。
「骨よ」
オレは耳を疑った。聞き間違いじゃないかと考えていたけど、一体どんな言葉と聞き間違えたのか全く思いつかなかった。女はその時だけ楽しそうに笑い、また「骨」をひとつ、口に運んだ。だけど今度はさっきのようなかたい音はしなくて、もう少し脆いものが砕けた音がした。女は顔をしかめて、ハンカチを口に当ててそれを吐き出したようだった。
それから間もなく馬車が止まって、オレはとにかくこれ以上この女と一緒にいるのはよくないような気がしていたから、すぐに飛び降りる気でいた。
でも、オレより早く女が立ち上がった。ドアに手をかけて、大きく開く。女の肩越しに見えたのは、墓地だった。勿論、オレがいつも乗る馬車は墓地になんていかないし、そもそもここらの墓地は馬車が入れるような場所にはない。
女がまたオレをパーティに誘ったけど、オレは必死で首を振った。女は変わらず口元だけで笑い、馬車を降りて行った。
しばらくすると、オレひとりになった馬車はまた動き出した。
そこからどうやって帰ったのか覚えてないけど、とにかくものすごく疲れていたことは覚えてる。なんせ帰るなり、ババァの説教を聞く間もなくぶっ倒れて二日ほど寝込んでいたぐらいだ。熱が出て、妙な発疹が出てたらしい。
それから、後で知ったことだけど、オレのシャツのポケットにお守りの石が隠されてたらしいんだ。オレは全く知らなかったけど、何かそういうものがあるらしい。
オレの熱が引いてから、ババァが何があったのかって妙に神妙な顔で聞くから話したら、そのお守りの石が粉々に砕けてたって教えてくれた。
だからさ、多分、あの女が最後に噛み砕いたのは、その石だったんじゃねえかな。
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2013'12.20.Fri
あ〜……他のとこではどうだか知らねえけど、オレらの村では、誰かとすれ違うときは必ず挨拶をしろって躾けられてた。特に夜は、誰かとすれ違うときは必ず挨拶をしろって、耳にタコができるぐらい言われてた。言われなかったか?
オレらの村では子どもも労働力だった。暗くなってからでも畑に野菜を取りに行くなんてざらにあることで、母ちゃんたちも遠慮なく子どももこき使ってたんだ。
どこの家もそうだし、オレだって、そりゃめんどくせぇなぁと思うことはあるけど、言いつけサボるとすぐに飯抜きだもんな。
その日も、晩飯の支度してる母ちゃんの代わりに畑に野菜取りに行ったんだ。途中で近所のオッサンに会って、いいものが取れたからって野菜を取りに来るように言われた。何だったか忘れたけど。かぼちゃかなんかじゃねぇかな。まぁそれはどうでもいい。
だからさ、自分ちの畑に行って、一回帰るのめんどくせぇから、そのままオッサンちに行って、それから家に向かう頃には随分暗くなっていた。
多分その日は月もなかったんだ。辺りは本当に真っ暗で、慣れた道じゃないと歩けないぐらいだった。まあそんなに遠い距離でもなかったし、夜が怖いなんて思ったこともなかったし、何も気にせず野菜を抱えて家に向かった。
歩いてると、誰かの気配がした。前の方に誰かがいる。月はなかったけど、星明りでそれぐらいはわかった。
だからこんばんは、って挨拶したんだ。声を聞けば誰だかわかるから。
そうしたら、返事がなかった。
村の人間なら、必ず挨拶を返すはずなんだ。今まで返されなかったことなんてなかったし、村には偏屈なやつもいなかったから。
それが誰だかわからないけど、とにかくすっげぇヤバい気がした。第六感ってーの?ぞくっと鳥肌が立って、オレはその誰かさんのそばを走り抜けた。隣を通るときに捕まるんじゃないかって思いで頭がいっぱいでめちゃくちゃ怖かったけど、その時は大丈夫だった。
その時は、な。
通り過ぎて、ほっと息を吐こうとした瞬間だった。
生臭い匂いが漂って、背後で荒い息が聞こえた。
やばい、やばい、やばい!ってオレは焦って、必死で足を動かした。多分その間に手に持ってた野菜なんて投げ捨ててたんだと思う。もうめちゃくちゃに走って、もしかしたら何か叫んでたかもしれないけど、近所から誰かが出てくることはなかった。
後から考えたら、これもおかしいんだよ。まだ日も落ちたばかりだからどこの家も寝てるはずがないから、家には明かりがついているはずなのに、そんなものは何も見えなかったんだ。
ただ、自分ちの明かりは見えた。
まだ背後から何かが迫ってくる気配はある。まっすぐ家に飛び込んで、その気配を絶対に中に入れないようにドアを叩きつけて閉めて、勢いのまま弟を探して捕まえた。弟はビビッて泣き出したけど、多分オレもその時もう泣いてたと思う。弟を捕まえて母ちゃんに抱きついて、驚いてる父ちゃんにも必死で訴えた。多分何も伝わってなかったと思うけど、オレも何を言おうとしてたのか覚えてない。
――ドンドンドン!
ぼろいドアが外れるんじゃないかってぐらいの勢いで、ドアが叩かれた。オレは飛び上がって、ドアに向かおうとする父ちゃんを必死で引き留めた。
――ドンドンドン!
――ドンドンドン!
始めは村の誰かだと思っていた父ちゃんも、すぐにおかしいということに気がついたのか、オレを抱いて母ちゃんたちと一緒に丸くなった。
だって、村では誰もドアに鍵なんてかけないんだよ。そもそもオレの家にはなかったし。
だから、もし何か緊急事態だとしても、こんなにノックを繰り返す必要はないんだ。
どれぐらいかわからないけれど、オレも弟もとにかく泣きじゃくっていた。母ちゃんや父ちゃんが身動きするのも怖くて、次の日見たら手のひらに爪の跡がくっきり残ってた。
ずっと続いていたノックが止まり、それでもオレたちはまだひと塊になっていた。誰も何も言わないままだった。
それでも、あの怖いものは去ったんじゃないか、と油断した頃、今度は家ごと大きく揺れた。何の音かわからないけど、とにかくでかい音だった。
家がボールみたいに跳ねてるんじゃないかってぐらいに大きく軋んで揺れ続け、オレたちはまた泣き叫んだ。
それは多分一晩中続いてた。もうぜってぇ家ぶっ壊れて、オレら全員食われちまうんだって思ってたけど、家は無事だったしオレたちはひとりも食われなかった。
家が揺れなくなって、窓の外がすっかり明るくなってから、母ちゃんがオレらを抱きしめて、父ちゃんがドアを開けに行った。恐る恐る、オレたちは息を飲んでドアの外を見たけど、そこはいつも通りの風景が続いているだけだった。
そこでようやく、父ちゃんに何があったのかを聞かれて、オレも何があったのかを思い出した。すれ違った誰かの話をして、父ちゃんとオレで畑までの道を一緒に戻ってみることにした。
あの変な気配に会ったのは多分この辺りだ、と思ったところに、動物の死体があった。
それが、変なんだよ。大きさはイタチぐらいだったんだけど、イタチじゃねえし、とにかく、オレらが知ってるどの動物とも違った。
オレと父ちゃんはその動物をちゃんと葬った。あいつがオレらに何をしたかったのかはわからないけれど、自然のものなら自然に返すのはいいからな。
あれから同じものに会ったことはない。違うものにも会ってない。しばらくは夜ひとりで出歩くのは怖かったし母ちゃんたちは無理強いしなかったけど、兄弟が増えてくるとそういうわけにもいかないしな。
オレはずっと、暗闇で会った人には挨拶をすることを続けている。声さえ聞けば、それが誰かわかるからな。
オレらの村では子どもも労働力だった。暗くなってからでも畑に野菜を取りに行くなんてざらにあることで、母ちゃんたちも遠慮なく子どももこき使ってたんだ。
どこの家もそうだし、オレだって、そりゃめんどくせぇなぁと思うことはあるけど、言いつけサボるとすぐに飯抜きだもんな。
その日も、晩飯の支度してる母ちゃんの代わりに畑に野菜取りに行ったんだ。途中で近所のオッサンに会って、いいものが取れたからって野菜を取りに来るように言われた。何だったか忘れたけど。かぼちゃかなんかじゃねぇかな。まぁそれはどうでもいい。
だからさ、自分ちの畑に行って、一回帰るのめんどくせぇから、そのままオッサンちに行って、それから家に向かう頃には随分暗くなっていた。
多分その日は月もなかったんだ。辺りは本当に真っ暗で、慣れた道じゃないと歩けないぐらいだった。まあそんなに遠い距離でもなかったし、夜が怖いなんて思ったこともなかったし、何も気にせず野菜を抱えて家に向かった。
歩いてると、誰かの気配がした。前の方に誰かがいる。月はなかったけど、星明りでそれぐらいはわかった。
だからこんばんは、って挨拶したんだ。声を聞けば誰だかわかるから。
そうしたら、返事がなかった。
村の人間なら、必ず挨拶を返すはずなんだ。今まで返されなかったことなんてなかったし、村には偏屈なやつもいなかったから。
それが誰だかわからないけど、とにかくすっげぇヤバい気がした。第六感ってーの?ぞくっと鳥肌が立って、オレはその誰かさんのそばを走り抜けた。隣を通るときに捕まるんじゃないかって思いで頭がいっぱいでめちゃくちゃ怖かったけど、その時は大丈夫だった。
その時は、な。
通り過ぎて、ほっと息を吐こうとした瞬間だった。
生臭い匂いが漂って、背後で荒い息が聞こえた。
やばい、やばい、やばい!ってオレは焦って、必死で足を動かした。多分その間に手に持ってた野菜なんて投げ捨ててたんだと思う。もうめちゃくちゃに走って、もしかしたら何か叫んでたかもしれないけど、近所から誰かが出てくることはなかった。
後から考えたら、これもおかしいんだよ。まだ日も落ちたばかりだからどこの家も寝てるはずがないから、家には明かりがついているはずなのに、そんなものは何も見えなかったんだ。
ただ、自分ちの明かりは見えた。
まだ背後から何かが迫ってくる気配はある。まっすぐ家に飛び込んで、その気配を絶対に中に入れないようにドアを叩きつけて閉めて、勢いのまま弟を探して捕まえた。弟はビビッて泣き出したけど、多分オレもその時もう泣いてたと思う。弟を捕まえて母ちゃんに抱きついて、驚いてる父ちゃんにも必死で訴えた。多分何も伝わってなかったと思うけど、オレも何を言おうとしてたのか覚えてない。
――ドンドンドン!
ぼろいドアが外れるんじゃないかってぐらいの勢いで、ドアが叩かれた。オレは飛び上がって、ドアに向かおうとする父ちゃんを必死で引き留めた。
――ドンドンドン!
――ドンドンドン!
始めは村の誰かだと思っていた父ちゃんも、すぐにおかしいということに気がついたのか、オレを抱いて母ちゃんたちと一緒に丸くなった。
だって、村では誰もドアに鍵なんてかけないんだよ。そもそもオレの家にはなかったし。
だから、もし何か緊急事態だとしても、こんなにノックを繰り返す必要はないんだ。
どれぐらいかわからないけれど、オレも弟もとにかく泣きじゃくっていた。母ちゃんや父ちゃんが身動きするのも怖くて、次の日見たら手のひらに爪の跡がくっきり残ってた。
ずっと続いていたノックが止まり、それでもオレたちはまだひと塊になっていた。誰も何も言わないままだった。
それでも、あの怖いものは去ったんじゃないか、と油断した頃、今度は家ごと大きく揺れた。何の音かわからないけど、とにかくでかい音だった。
家がボールみたいに跳ねてるんじゃないかってぐらいに大きく軋んで揺れ続け、オレたちはまた泣き叫んだ。
それは多分一晩中続いてた。もうぜってぇ家ぶっ壊れて、オレら全員食われちまうんだって思ってたけど、家は無事だったしオレたちはひとりも食われなかった。
家が揺れなくなって、窓の外がすっかり明るくなってから、母ちゃんがオレらを抱きしめて、父ちゃんがドアを開けに行った。恐る恐る、オレたちは息を飲んでドアの外を見たけど、そこはいつも通りの風景が続いているだけだった。
そこでようやく、父ちゃんに何があったのかを聞かれて、オレも何があったのかを思い出した。すれ違った誰かの話をして、父ちゃんとオレで畑までの道を一緒に戻ってみることにした。
あの変な気配に会ったのは多分この辺りだ、と思ったところに、動物の死体があった。
それが、変なんだよ。大きさはイタチぐらいだったんだけど、イタチじゃねえし、とにかく、オレらが知ってるどの動物とも違った。
オレと父ちゃんはその動物をちゃんと葬った。あいつがオレらに何をしたかったのかはわからないけれど、自然のものなら自然に返すのはいいからな。
あれから同じものに会ったことはない。違うものにも会ってない。しばらくは夜ひとりで出歩くのは怖かったし母ちゃんたちは無理強いしなかったけど、兄弟が増えてくるとそういうわけにもいかないしな。
オレはずっと、暗闇で会った人には挨拶をすることを続けている。声さえ聞けば、それが誰かわかるからな。
2013'12.20.Fri
小さい頃、母が寝込んだことがあった。
私の母は風邪ひとつひかない強い人で、私や父が寝込んでいるような時でも看病と家事に走り回って、病人から風邪をもらうこともない人だった。
その母がベッドから起き上がってこないということは、幼い私にとってはそれだけでとても不安なことだった。母はうつるからとそばに行かせてくれなくて、起きたときと寝る前に挨拶を許されていただけだった。
そう……それは、少しおかしいぐらい長く続いた。父も不安になるほど、母の容体はいつまでもよくならなかった。それでも、グリシャ先生が見て下さっても症状はただの風邪でしかなくて、みんなで首を傾げていた。
母が部屋の中に入れてくれないので、私は窓の外から母の様子を見ることにした。寝室の外から窓を叩けば、起きていた母は驚いてこちらを見た。長く寝込んでいるせいで少しやつれていて、私はとても悲しかったことを覚えている。精一杯平然と振る舞ったけれど、母は泣きそうになっていたからきっと私も悲しい顔をしていたのだろう。
それでも毎日、私は窓の外から母を見舞った。ベッドから体を起こすこともできない母は窓を開けてくれることもなかったけれど、母のかすれた声をガラス越しに聞くことは悲しかったけれど。
それがどれほど続いたのか、幼かった私はあまりはっきりと覚えていない。
その日、いつも通り私は窓の外から母の様子を伺った。その日は花をつんで行ったことを覚えている。鮮やかな花を窓辺に置けば、母の気持ちも少しは晴れるのではないかと思ったから。今思えば、きっと母は笑顔を見せることも辛かったのだろうと思う。思えば私はただ母が休む邪魔をしていただけなのだろうけど……とにかく、その日はいつもと違った。
寝室を覗いて、ガラスをノックしようとして、私は驚いた。もしかしたらノックをした後だったかもしれない。母がこちらを見たから。
しかし私は母を見ることができなかった。別のものに、視線が引き寄せられていた。
母のベッドの側に、「何か」がいた。
「何か」……としか、私には言えない。それがどんな姿をしていたのか、どんな色をしていたのか、覚えていないのではなく、……「何もいなかった」というのが、きっと一番近いのだと思う。
そこには何もない。ただ部屋の壁が見えるだけ。
そうだというのに、私には母のベッドの側に「何か」がいるのはわかった。よくわからない「何か」が母のそばにいた。
私は無我夢中で家の中に飛び込み、真っ直ぐに寝室を目指した。丁度父は仕事に出ていて誰に止められることもなく、私は乱暴にドアを開けて母のベッドに駆け寄った。驚く母の体に覆いかぶさって、咎める母の声も聞かずにそうしていた。
母を守らなければならないと思った。
だって、あの母がこんなに苦しむはずはない。きっと、何か悪いものが母を苦しめているのだ。
これ以上母を苦しめるのなら、私が守らなければならないと思った。
ベッドの側、私の背後には「何か」の気配があった。母が私を何度も呼んだけれど、私は何も言わずずっと母に縋りついていた。
そのときふっと、お香の匂いがした。
お香と言うのは……役割としてはポプリのようなもの。母の国のもので、母は特別な日やお祝いごとの日にお香を焚く。……火をつけて使うものなので、母は日常的には使ってはいなかった。それでもお香を焚いた日は服や髪に匂いが移って、私もとても好きだった。
そのお香の匂いがした。それと同時に、ぽっと背中が温かくなった。「何か」がいる方から、じんわりと。
途端に何か間違えているような気がしたけれど、私はやはり怖くて母から離れることはできなかった。
そうしているうちに私は眠ってしまっていたようで、起きたときには私はひとりで母のベッドに寝かされていた。すぐに跳ね起きて寝室を出ると、母親が元気に夕食の支度をしていた。ここしばらくのことが夢であったように、しゃんと背を伸ばして立ち、てきぱきと行き来している。
私が母を呼ぶと笑顔をこちらに向けて、その頬がこけていて、夢ではなかったのだとわかった。それでも、母が元気になったことは間違いない。
ほっとした私は母に縋りついて、……これは母に聞いた話だけれど、私は骨が折れそうなほど強く母を抱きしめて、獣のような大声で泣きわめいた。私は全く覚えていないので聞いた話。
私が泣き止むと母は熱いお茶を入れてくれた。ふと「何か」の気配がもうすっかりなかったことを思い出し、私は母にお香を焚いたか聞いた。確かにあの匂いは、母の香の匂いだった。
母は首を傾げて私に聞き返した。私は母に「何か」がベッドのそばにいたこと、母を守らなければならないと思ったこと、そしてお香の匂いがしたことを話した。
母は私の話を始めは笑顔で聞いていた。しかし次第に眉を寄せ、私が話し終えると泣き始めた。
私はまだ母は具合が悪いのではないかと思い慌てると、母はそうではない、と泣きながら私に笑いかけた。
母の好きなあのお香は、母の母が好んでいたものであるのだと教えてくれた。
私の母は風邪ひとつひかない強い人で、私や父が寝込んでいるような時でも看病と家事に走り回って、病人から風邪をもらうこともない人だった。
その母がベッドから起き上がってこないということは、幼い私にとってはそれだけでとても不安なことだった。母はうつるからとそばに行かせてくれなくて、起きたときと寝る前に挨拶を許されていただけだった。
そう……それは、少しおかしいぐらい長く続いた。父も不安になるほど、母の容体はいつまでもよくならなかった。それでも、グリシャ先生が見て下さっても症状はただの風邪でしかなくて、みんなで首を傾げていた。
母が部屋の中に入れてくれないので、私は窓の外から母の様子を見ることにした。寝室の外から窓を叩けば、起きていた母は驚いてこちらを見た。長く寝込んでいるせいで少しやつれていて、私はとても悲しかったことを覚えている。精一杯平然と振る舞ったけれど、母は泣きそうになっていたからきっと私も悲しい顔をしていたのだろう。
それでも毎日、私は窓の外から母を見舞った。ベッドから体を起こすこともできない母は窓を開けてくれることもなかったけれど、母のかすれた声をガラス越しに聞くことは悲しかったけれど。
それがどれほど続いたのか、幼かった私はあまりはっきりと覚えていない。
その日、いつも通り私は窓の外から母の様子を伺った。その日は花をつんで行ったことを覚えている。鮮やかな花を窓辺に置けば、母の気持ちも少しは晴れるのではないかと思ったから。今思えば、きっと母は笑顔を見せることも辛かったのだろうと思う。思えば私はただ母が休む邪魔をしていただけなのだろうけど……とにかく、その日はいつもと違った。
寝室を覗いて、ガラスをノックしようとして、私は驚いた。もしかしたらノックをした後だったかもしれない。母がこちらを見たから。
しかし私は母を見ることができなかった。別のものに、視線が引き寄せられていた。
母のベッドの側に、「何か」がいた。
「何か」……としか、私には言えない。それがどんな姿をしていたのか、どんな色をしていたのか、覚えていないのではなく、……「何もいなかった」というのが、きっと一番近いのだと思う。
そこには何もない。ただ部屋の壁が見えるだけ。
そうだというのに、私には母のベッドの側に「何か」がいるのはわかった。よくわからない「何か」が母のそばにいた。
私は無我夢中で家の中に飛び込み、真っ直ぐに寝室を目指した。丁度父は仕事に出ていて誰に止められることもなく、私は乱暴にドアを開けて母のベッドに駆け寄った。驚く母の体に覆いかぶさって、咎める母の声も聞かずにそうしていた。
母を守らなければならないと思った。
だって、あの母がこんなに苦しむはずはない。きっと、何か悪いものが母を苦しめているのだ。
これ以上母を苦しめるのなら、私が守らなければならないと思った。
ベッドの側、私の背後には「何か」の気配があった。母が私を何度も呼んだけれど、私は何も言わずずっと母に縋りついていた。
そのときふっと、お香の匂いがした。
お香と言うのは……役割としてはポプリのようなもの。母の国のもので、母は特別な日やお祝いごとの日にお香を焚く。……火をつけて使うものなので、母は日常的には使ってはいなかった。それでもお香を焚いた日は服や髪に匂いが移って、私もとても好きだった。
そのお香の匂いがした。それと同時に、ぽっと背中が温かくなった。「何か」がいる方から、じんわりと。
途端に何か間違えているような気がしたけれど、私はやはり怖くて母から離れることはできなかった。
そうしているうちに私は眠ってしまっていたようで、起きたときには私はひとりで母のベッドに寝かされていた。すぐに跳ね起きて寝室を出ると、母親が元気に夕食の支度をしていた。ここしばらくのことが夢であったように、しゃんと背を伸ばして立ち、てきぱきと行き来している。
私が母を呼ぶと笑顔をこちらに向けて、その頬がこけていて、夢ではなかったのだとわかった。それでも、母が元気になったことは間違いない。
ほっとした私は母に縋りついて、……これは母に聞いた話だけれど、私は骨が折れそうなほど強く母を抱きしめて、獣のような大声で泣きわめいた。私は全く覚えていないので聞いた話。
私が泣き止むと母は熱いお茶を入れてくれた。ふと「何か」の気配がもうすっかりなかったことを思い出し、私は母にお香を焚いたか聞いた。確かにあの匂いは、母の香の匂いだった。
母は首を傾げて私に聞き返した。私は母に「何か」がベッドのそばにいたこと、母を守らなければならないと思ったこと、そしてお香の匂いがしたことを話した。
母は私の話を始めは笑顔で聞いていた。しかし次第に眉を寄せ、私が話し終えると泣き始めた。
私はまだ母は具合が悪いのではないかと思い慌てると、母はそうではない、と泣きながら私に笑いかけた。
母の好きなあのお香は、母の母が好んでいたものであるのだと教えてくれた。
2013'12.20.Fri
僕の瞳のほんとうの色を知ってる?
僕は鏡を見ないから、自分の目が何色なのか知らないんだ。
どういうことだと思うかもしれないけれど、僕がこの目を得たのは、あれはまだシガンシナに住んでた頃、もっと小さい頃のことだった。
まだエレンとも知り合う前のことだ。僕は近所に友達もいなくて、おじいちゃんが本を読んでくれるのが毎日の楽しみだった。だけどその頃はまだおじいちゃんも働きに出ていたから、そういつもいつも一緒にいてくれるわけじゃない。
僕は家を出ることは禁止されていなかったから、いつも暇つぶしに街に出ていた。文字を覚えかけたばかりの頃で、店の看板を読むだけでも楽しかったんだ。
え?うーん、ひとりで危ないって言われたことはなかったなぁ。シガンシナは平和だったし、川辺には近づかなかったから。遠くへ行ってはいけない、って言うのは強く言われていたけどね。
だからその日もいつものように、ひとりで街を歩いていた。顔見知りの人に挨拶をして、みんな親切だったからひとりで遊ぶ僕を厭うこともなく声をかけてくれたよ。
毎日のようにそんなことをしていたから、僕はすっかり近所のことを覚えていた。どこの家は何人家族で、あそこのお店に行けば何が買えて、この家には犬がいて、……そんなことばかりだけど。
だから、いつもはそこにないものを見つけることも得意だった。どこの花壇の花が咲いたとか、そこの店の看板娘が髪を切ったとか……。
でもその日見つけたものは、そんな些細なものじゃなかった。
もうそろそろ日が暮れてきて、家に帰ろうとしていたときだった。少し遠くまで行きすぎたせいか、自分が思っていたよりも早く辺りが暗くなってきて、少し怖かったけれど人気がない近道を選んだんだ。家と家の間の路地裏で、きっと今の僕が行けば怖くもなんともないような場所なんだろうけれど、その頃の僕には人気も明かりもない道をひとりで通るのはとても勇気のいることだったんだ。
そう……そこは背の高い家が並んでいるから、一日のどの時間でも、暗く影のかかっているところだった。
その路地の前まで来て、僕はまた迷い出した。少し遅くなっても、人のいる道を通って帰ろうかしら。お母さんには帰りが遅くなったことを怒られてしまうかもしれないけれど、怖い思いをするのとどちらがいいだろう。
そんなことを考えながら路地を覗いて、僕は多分、えっ、と声を出した。とにかくとても驚いた。
真っ暗であるはずの路地の奥に、ぽつんと明かりが灯っているのが見えたんだ。
もしかして周りの家の人が、この路地のあまりの暗さに火を入れるようにしてくれたのかもしれない。そこは普段昼間でもあまり近寄らなかったから、僕が見逃していただけかもしれない。
とにかく僕はほっと息を吐いた。人気はないが明るいのならまだ心強い。それまでの怖がっていた気持ちはぽんと捨ててしまって、僕は勇ましく路地に足を踏み入れた。
きっと、そんなに長い路地ではなかったんだと思う。せいぜい四、五軒分ぐらいだっただろうけど、子どもの足では長く感じてた。
段々明かりに近づいて、僕はそこで初めて、その明かりが路地に設置されたものではないと気がついた。
それは、人が持つランプだった。
フードつきの長いローブを羽織った人がランプを下げていたんだ。顔はほとんど見えなかったけれど、人見知りをしない僕は構わず近づいて行った。もしかしたら、お願いしたら、路地の向こうまでランプを持って一緒に来てくれるかもしれない、なんて期待しながら。
その人に近づいて、僕は「こんばんは」と挨拶をした。少し身動きをしてその人は僕を見た。半分フードに隠れた口元は切り結ばれていたが、僕に気がつくとにこりと弧を描いた。きゅうっと、耳から耳まで。
その人も「こんばんは」と挨拶を返した。その時、僕はその手にあるのがランプだけではないと気がついた。ローブと同じようなどこか薄汚れた布が巻かれたそれは真四角で、その人の腕の中にすっぽりと収まるほどの大きさだった。
ねえ君、と呼ばれて、僕は名前を名乗った。暗いから僕が誰なのかわからないのかもしれないと思ったんだ。そこにはランプがあるのにね。
唇は弓の形のまま割れて、僕の名前を繰り返した。それから、箱の中身を知っているかい、と問うた。
僕は時には疎ましがられるほど知りたがりの子どもで、そう聞かれると途端にその箱が気になって仕方なくなる。もうこの箱の中身を知らないままでは帰ることができないほど引きつけられて、首が取れてしまうのではないかと思うほど首を振った。
見たいかい、と声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、と声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
見せてあげよう、と言われるのを待って、僕の視線はもうその人の腕の中のものを見ていた。ずるりとローブが揺れて、枯れ枝のような腕が――その人はとても細かったんだ。まるで木の枝のように痩せ細った腕をしていて、僕は一瞬それに驚いた。しかしその人は僕の動揺を気にしないまま、はらりと布をはがしていく。僕の意識は途端にそれに引き戻された。
はらり、はらりと布が取られる。
その下に現れたのは、何の変哲もない木の箱だった。ただ、ふたつ、こちらを向いて丸い穴が開いている。ぽっかりと空いた黒い穴は、そう、両目が並んでいるようだった。
見たいかい、声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
僕の目の高さに木箱が降ろされた。その木箱に見つめられているような感覚に、その時の僕にはわくわくしていた。中には一体何があるのだろう。
僕はふたつの穴に目を当てた。初めは真っ暗に思えたが、よく目を凝らすとそれは夜空に星が瞬くように小さな光りがちかちかとしている暗さだった。光りがちらつくのは、よく見えないが、何かが動いているからであるようだ。それがなんなのか確かめようと僕は更に箱に顔を押しつける。
――ずる、と。
眼球に何かが触れた。
その瞬間初めて恐怖を感じ、僕は叫んで体を引いた。慌てて目をこすると濡れた感触がして、違和感がある。瞬きを繰り返していると、ずるりと、
――目が落ちた。
地面に転がるふたつの目玉が僕を見上げ、その恐怖に悲鳴を上げる。
――僕の記憶はそこまでで、気がつくと自分のベッドで寝ていた。路地の家の人が何もないところで倒れている僕を見つけて、家まで連れて行ってくれたらしい。家族にたっぷり心配されて事情を聞かれたけれど、いくら説明をしても信じてもらえなかった。そんなはずはない、と僕は母の鏡を借りて自分の顔を覗きこんだ。
目の中で、黒い影がうごめいていた。
あれから僕はまともに鏡を見ていない。結局僕は貧血か何かで倒れて奇妙な夢でも見たのだろうということにされたけれど、僕はまだ、自分の目が落ちるのではないかと言う恐怖に襲われることがある。あの感覚は、一生忘れようにも忘れることができないものだった。
ねえ、誰か、僕の瞳の色が何色か、確かめてくれないかな。ついでに、その中に、黒い影がいないか探しておくれ。
僕は鏡を見ないから、自分の目が何色なのか知らないんだ。
どういうことだと思うかもしれないけれど、僕がこの目を得たのは、あれはまだシガンシナに住んでた頃、もっと小さい頃のことだった。
まだエレンとも知り合う前のことだ。僕は近所に友達もいなくて、おじいちゃんが本を読んでくれるのが毎日の楽しみだった。だけどその頃はまだおじいちゃんも働きに出ていたから、そういつもいつも一緒にいてくれるわけじゃない。
僕は家を出ることは禁止されていなかったから、いつも暇つぶしに街に出ていた。文字を覚えかけたばかりの頃で、店の看板を読むだけでも楽しかったんだ。
え?うーん、ひとりで危ないって言われたことはなかったなぁ。シガンシナは平和だったし、川辺には近づかなかったから。遠くへ行ってはいけない、って言うのは強く言われていたけどね。
だからその日もいつものように、ひとりで街を歩いていた。顔見知りの人に挨拶をして、みんな親切だったからひとりで遊ぶ僕を厭うこともなく声をかけてくれたよ。
毎日のようにそんなことをしていたから、僕はすっかり近所のことを覚えていた。どこの家は何人家族で、あそこのお店に行けば何が買えて、この家には犬がいて、……そんなことばかりだけど。
だから、いつもはそこにないものを見つけることも得意だった。どこの花壇の花が咲いたとか、そこの店の看板娘が髪を切ったとか……。
でもその日見つけたものは、そんな些細なものじゃなかった。
もうそろそろ日が暮れてきて、家に帰ろうとしていたときだった。少し遠くまで行きすぎたせいか、自分が思っていたよりも早く辺りが暗くなってきて、少し怖かったけれど人気がない近道を選んだんだ。家と家の間の路地裏で、きっと今の僕が行けば怖くもなんともないような場所なんだろうけれど、その頃の僕には人気も明かりもない道をひとりで通るのはとても勇気のいることだったんだ。
そう……そこは背の高い家が並んでいるから、一日のどの時間でも、暗く影のかかっているところだった。
その路地の前まで来て、僕はまた迷い出した。少し遅くなっても、人のいる道を通って帰ろうかしら。お母さんには帰りが遅くなったことを怒られてしまうかもしれないけれど、怖い思いをするのとどちらがいいだろう。
そんなことを考えながら路地を覗いて、僕は多分、えっ、と声を出した。とにかくとても驚いた。
真っ暗であるはずの路地の奥に、ぽつんと明かりが灯っているのが見えたんだ。
もしかして周りの家の人が、この路地のあまりの暗さに火を入れるようにしてくれたのかもしれない。そこは普段昼間でもあまり近寄らなかったから、僕が見逃していただけかもしれない。
とにかく僕はほっと息を吐いた。人気はないが明るいのならまだ心強い。それまでの怖がっていた気持ちはぽんと捨ててしまって、僕は勇ましく路地に足を踏み入れた。
きっと、そんなに長い路地ではなかったんだと思う。せいぜい四、五軒分ぐらいだっただろうけど、子どもの足では長く感じてた。
段々明かりに近づいて、僕はそこで初めて、その明かりが路地に設置されたものではないと気がついた。
それは、人が持つランプだった。
フードつきの長いローブを羽織った人がランプを下げていたんだ。顔はほとんど見えなかったけれど、人見知りをしない僕は構わず近づいて行った。もしかしたら、お願いしたら、路地の向こうまでランプを持って一緒に来てくれるかもしれない、なんて期待しながら。
その人に近づいて、僕は「こんばんは」と挨拶をした。少し身動きをしてその人は僕を見た。半分フードに隠れた口元は切り結ばれていたが、僕に気がつくとにこりと弧を描いた。きゅうっと、耳から耳まで。
その人も「こんばんは」と挨拶を返した。その時、僕はその手にあるのがランプだけではないと気がついた。ローブと同じようなどこか薄汚れた布が巻かれたそれは真四角で、その人の腕の中にすっぽりと収まるほどの大きさだった。
ねえ君、と呼ばれて、僕は名前を名乗った。暗いから僕が誰なのかわからないのかもしれないと思ったんだ。そこにはランプがあるのにね。
唇は弓の形のまま割れて、僕の名前を繰り返した。それから、箱の中身を知っているかい、と問うた。
僕は時には疎ましがられるほど知りたがりの子どもで、そう聞かれると途端にその箱が気になって仕方なくなる。もうこの箱の中身を知らないままでは帰ることができないほど引きつけられて、首が取れてしまうのではないかと思うほど首を振った。
見たいかい、と声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、と声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
見せてあげよう、と言われるのを待って、僕の視線はもうその人の腕の中のものを見ていた。ずるりとローブが揺れて、枯れ枝のような腕が――その人はとても細かったんだ。まるで木の枝のように痩せ細った腕をしていて、僕は一瞬それに驚いた。しかしその人は僕の動揺を気にしないまま、はらりと布をはがしていく。僕の意識は途端にそれに引き戻された。
はらり、はらりと布が取られる。
その下に現れたのは、何の変哲もない木の箱だった。ただ、ふたつ、こちらを向いて丸い穴が開いている。ぽっかりと空いた黒い穴は、そう、両目が並んでいるようだった。
見たいかい、声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
僕の目の高さに木箱が降ろされた。その木箱に見つめられているような感覚に、その時の僕にはわくわくしていた。中には一体何があるのだろう。
僕はふたつの穴に目を当てた。初めは真っ暗に思えたが、よく目を凝らすとそれは夜空に星が瞬くように小さな光りがちかちかとしている暗さだった。光りがちらつくのは、よく見えないが、何かが動いているからであるようだ。それがなんなのか確かめようと僕は更に箱に顔を押しつける。
――ずる、と。
眼球に何かが触れた。
その瞬間初めて恐怖を感じ、僕は叫んで体を引いた。慌てて目をこすると濡れた感触がして、違和感がある。瞬きを繰り返していると、ずるりと、
――目が落ちた。
地面に転がるふたつの目玉が僕を見上げ、その恐怖に悲鳴を上げる。
――僕の記憶はそこまでで、気がつくと自分のベッドで寝ていた。路地の家の人が何もないところで倒れている僕を見つけて、家まで連れて行ってくれたらしい。家族にたっぷり心配されて事情を聞かれたけれど、いくら説明をしても信じてもらえなかった。そんなはずはない、と僕は母の鏡を借りて自分の顔を覗きこんだ。
目の中で、黒い影がうごめいていた。
あれから僕はまともに鏡を見ていない。結局僕は貧血か何かで倒れて奇妙な夢でも見たのだろうということにされたけれど、僕はまだ、自分の目が落ちるのではないかと言う恐怖に襲われることがある。あの感覚は、一生忘れようにも忘れることができないものだった。
ねえ、誰か、僕の瞳の色が何色か、確かめてくれないかな。ついでに、その中に、黒い影がいないか探しておくれ。
2013'12.06.Fri
「『忍術学園の歴史』……」
手にした本のタイトルを読み上げて、その胡散臭さに久作は眉を潜めた。書庫の蔵書整理をしていた最中にナンバリングのされていない本を見つけ、手に取ってみれば時代錯誤な和綴じの本。しかし多少よれてはいるが紙自体はそう古いものではなさそうで、誰かが作ったものだろうか、と表紙を見ればこのタイトルだ。こんな悪趣味なものを作るのは誰だろうか。
――ここ、大川学園は中高一貫の私立校だ。文武両道をモットーに掲げるに見合う優秀な教師が教鞭を執り、学ぶ意志のある生徒が集う。毎年レベルの高い大学へ何人も進学し、世界レベルのアスリートも多く輩出していた。
――それはあくまで表向きの話だ。その輝かしい表舞台の裏側に、それを支える存在がある。『委員会』と称して秘密裏に活動しているのは、『忍者』と呼ばれる者たちだ。厳密にはその大半は忍者のたまご、忍たまと呼ばれている。とはいえ立派に仕事をこなす、優秀な忍びたちだ。彼らの忍びとしての鍛錬の延長に、表に出る輝かしい功績がある。
この平成の世に、時代錯誤な存在だとは思う。久作とて、自分が忍者でなければ信じることはなかっただろう。久作の所属する図書委員会は、日常の図書室の解放や貸し出しなどを行いながらも、その実体は『データ』を中心に扱う忍者の集まりだ。言い方を変えれば、情報屋、とでも言うのかもしれない。
しかしその忍者としての活動は、それ以外の教師や生徒には一切隠されていることだ。こんなに堂々と、忍者だの忍術だのと並べていいものではない。一体何が書かれているのだろうか。
「久作」
開きかけた本を閉じて振り返る。書庫に入ってきた三郎次はめざとくそれを見つけ、素早く近づいてきた。隠す間もなかったが、この三郎次も同じ忍者のひとりだ。
「何それ」
「見つけたんだ。図書館の本じゃないみたいだけど」
「何が書いてあるんだ?」
面白がった三郎次が無造作にそれを開く。久作も本に視線を落としたが、何も言えずに首を傾げた。
それは本と言うよりも、ノートと言うべきなのかもしれない。罫線はなく、文は縦書きで並んでいるが、それはどう見ても手書きの文字だった。おまけに、途中でペンどころか筆跡が変わっている。ページをめくって先を見れば、最後の方はまだ白紙であった。三郎次はページを始めに戻す。
「『人里離れた山中に忍術学園なる学び舎がある。その名の通り忍者になる修行をすべく、齢は十から、忍者のたまごが津々浦々より集まっている。彼らを率いる学園長は、かつて一世を風靡した天才忍者、大川へいじうずまさその人だ』……って、これ、学園長の名前か?」
三郎次が読み上げた冒頭を綴るのは活字のように美しい書体であった。そこに挙げられた名前は、この大川学園の学園長のもので間違いない。
「また学園長の悪ふざけだろ」
「ああ……」
三郎次はすぐに興味をなくし、それを久作の手に返した。それよりも、と手にしていたノートを広げる。課題のための資料を探しに来たらしい。
「これに使うんだ。昔の地図ある?」
「ちょっと待って」
ついさっき整理していた棚で見た覚えがある。手にしていたものを一旦置き、久作はふたつほど棚を戻った。その間に別の声が聞こえる。左近も同じ課題の資料探しに来たらしい。久作が戻ると彼女も『忍術学園の歴史』を手に取り、どこか青い顔をしながらそれを読みふけっている。久作に気づくとはっとして本を閉じてこちらを見た。
「久作、これどうしたの?」
「本棚で見つけた。リストにないし、誰かの私物みたいだから忘れ物として預かる」
「そう……」
「どうかしたか?」
「……読んだ?」
「頭だけ……左近のだった?」
「違うけど、読まない方がいいと思っただけ」
どこか早口で言い切って左近はそれを手放した。
三郎次たちと書庫の外に出ると、図書委員の先輩の不破雷蔵が来たところだった。久作たちに気づくと残りの作業を変わってくれると言うので、久作も一緒に課題に取り組むことにする。
――本来なら、久作も先輩に仕事をおしつけるようなことはしたくない。しかし、この課題は「忍たま」に課せられたものだった。これ以外にも、通常の生徒と同じ予習復習をしなければならない。同じく忍たまである不破は先輩としてその大変さを知っているのだ。
久作は自分が忍者になるための勉強をしているという自覚はない。ただ、普通では学べないことを覚えるのは楽しかった。将来忍者を続けようと思っているわけではなかったが、そんな忍たまも多く、教師もさして気にしていないようであった。
忍者は情報を扱うものだ。それは生きていくための術でもある。そう言ったのは誰だったのか、思い出すことができないほど古い記憶だった。
*
「あっ、しまった」
家に帰ってから、件の和綴じの本を持って帰ってきてしまったことに気がついた。不破に作業を引き継ぐときに伝えればよかったのに、手元の資料と一緒になってすっかり忘れていた。明日は忘れずに、と鞄にしまいかけ、少し気になってまた取り出す。タイトルの『忍術学園』に、学園長の名前。大川学園と無縁だとは思えない。
ページをめくると次々と知った名前が現れる。舞台は戦乱の室町時代。先輩、後輩、教師たち、クラスメイトの名もそこにはあった。共通するのは、それが忍者である生徒だということだ。書き連ねられているのは彼らの学園生活から外部と関わった事件まで、様々なエピソードであった。違う書体で付け足されたり、時間が飛んだりとめちゃくちゃだ。お世辞にもうまいとはいえない字もあるし、何を伝えたいのかわからない文章も多い。それでも、書体の上の忍たまたちは生き生きと忍術を学び、関わり、成長していく。
まるで見てきたかのように脳裏に浮かぶ光景に戸惑いながらも止まらなくなり、気づけばすっかり夜中まで読みふけってしまった。左近に忠告されていたことを途中で思い出したが、ここまできてはどこまで読んでも同じだ。
「あ」
自分の名前にどきりとする。能勢久作、と漢字も違わず自分の名だ。一緒に連ねられているのは、不破雷蔵、摂津のきり丸、二ノ坪怪子丸。それは、久作と同じ図書委員の名前だ。
「幻術……興業?手伝い……」
それは「能勢久作」の口上から始まる。
「東西東西……さてこれより取りかかりますのは、幻術師・里芋行者千番に一番のかねあい、美女瞬間移動の術でございます……」
なぞる言葉は妙に口に馴染んだ。覚えていると言うようなものではないが、知っている気がする。時代劇か何かで聞いた言い回しだろうか。それにしては、この口上に合わせて行われる演目も覚えがあるように思えて、何かが引っかかる。しかしその正体はわからない。
どこかもどかしさを抱えたまま、久作は文字を追っていく。小説とは違う、事務的とも言えるただ事実を連ねたような文章だ。楽しませる読み物でもなければ論を述べるものでもない。言うなれば日記に近いものだ。
――そう、まるで何かを記録するかのような。
流れるように書かれていた文章が途切れた。残りは白いページのままだ。
白紙を撫でて息を吐く。
とてつもなく、長い時間を過ごした気がした。
言葉の足りない文章は久作の中で補完されて渦巻いている。書かれている以上のことを知り得るはずがないのに、まるで自分の目で見たかのように鮮やかに浮かぶ話ばかりであった。
これが一体どういうことなのかはわからない。ただ、文章を綴る文体に、見慣れたものが混ざっていた。
*
「おっ、おはようございます」
久作の挨拶に、中在家は黙って頷いた。授業開始前の図書館の解放はいつも図書委員長の中在家が行っている。当番制にと不破が持ちかけたこともあったが、結局が彼がやりたくてやっていることだということで話が流れたのだ。
図書館にはまだ誰もいない。というよりも、滅多に朝から人が来ることはなかった。
「あ、あの」
無口な中在家は何も言わないが、カウンターの内側で黙って久作を見上げる。
「これ、……書庫で、見つけてたんです」
『忍術学園の歴史』を中在家に差し出した。無言でそれを見た中在家は立ち上がり、本を受け取る。彼は背が高く体格もしっかりしているので、並ぶと見下ろされる形になって威圧感があった。
緊張している久作を知ってか知らずか、それを受け取った中在家は大きな手で久作の頭を撫でた。
――そんなことは、今までされたことがない。それでもその温もりを、知っている気がする。
顔を上げると中在家が何かつぶやいた。彼が口の中だけでこぼす言葉はいつもなかなか聞き取ることができない。今も何を言ったのかわからなくて、しかし聞き返すのもはばかられて口元で迷った。
どうしてだろうか。この人の言葉を聞き取れたはずだ、と思うのは。
もしかしたら、これを見せたら、中在家は何か教えてくれるのではないかと思っていた。ページを埋める字のほとんどは、彼の書くものであったからだ。
しかし彼は何も言わなかった。ただ静かに久作を見て、笑った気がした。
手にした本のタイトルを読み上げて、その胡散臭さに久作は眉を潜めた。書庫の蔵書整理をしていた最中にナンバリングのされていない本を見つけ、手に取ってみれば時代錯誤な和綴じの本。しかし多少よれてはいるが紙自体はそう古いものではなさそうで、誰かが作ったものだろうか、と表紙を見ればこのタイトルだ。こんな悪趣味なものを作るのは誰だろうか。
――ここ、大川学園は中高一貫の私立校だ。文武両道をモットーに掲げるに見合う優秀な教師が教鞭を執り、学ぶ意志のある生徒が集う。毎年レベルの高い大学へ何人も進学し、世界レベルのアスリートも多く輩出していた。
――それはあくまで表向きの話だ。その輝かしい表舞台の裏側に、それを支える存在がある。『委員会』と称して秘密裏に活動しているのは、『忍者』と呼ばれる者たちだ。厳密にはその大半は忍者のたまご、忍たまと呼ばれている。とはいえ立派に仕事をこなす、優秀な忍びたちだ。彼らの忍びとしての鍛錬の延長に、表に出る輝かしい功績がある。
この平成の世に、時代錯誤な存在だとは思う。久作とて、自分が忍者でなければ信じることはなかっただろう。久作の所属する図書委員会は、日常の図書室の解放や貸し出しなどを行いながらも、その実体は『データ』を中心に扱う忍者の集まりだ。言い方を変えれば、情報屋、とでも言うのかもしれない。
しかしその忍者としての活動は、それ以外の教師や生徒には一切隠されていることだ。こんなに堂々と、忍者だの忍術だのと並べていいものではない。一体何が書かれているのだろうか。
「久作」
開きかけた本を閉じて振り返る。書庫に入ってきた三郎次はめざとくそれを見つけ、素早く近づいてきた。隠す間もなかったが、この三郎次も同じ忍者のひとりだ。
「何それ」
「見つけたんだ。図書館の本じゃないみたいだけど」
「何が書いてあるんだ?」
面白がった三郎次が無造作にそれを開く。久作も本に視線を落としたが、何も言えずに首を傾げた。
それは本と言うよりも、ノートと言うべきなのかもしれない。罫線はなく、文は縦書きで並んでいるが、それはどう見ても手書きの文字だった。おまけに、途中でペンどころか筆跡が変わっている。ページをめくって先を見れば、最後の方はまだ白紙であった。三郎次はページを始めに戻す。
「『人里離れた山中に忍術学園なる学び舎がある。その名の通り忍者になる修行をすべく、齢は十から、忍者のたまごが津々浦々より集まっている。彼らを率いる学園長は、かつて一世を風靡した天才忍者、大川へいじうずまさその人だ』……って、これ、学園長の名前か?」
三郎次が読み上げた冒頭を綴るのは活字のように美しい書体であった。そこに挙げられた名前は、この大川学園の学園長のもので間違いない。
「また学園長の悪ふざけだろ」
「ああ……」
三郎次はすぐに興味をなくし、それを久作の手に返した。それよりも、と手にしていたノートを広げる。課題のための資料を探しに来たらしい。
「これに使うんだ。昔の地図ある?」
「ちょっと待って」
ついさっき整理していた棚で見た覚えがある。手にしていたものを一旦置き、久作はふたつほど棚を戻った。その間に別の声が聞こえる。左近も同じ課題の資料探しに来たらしい。久作が戻ると彼女も『忍術学園の歴史』を手に取り、どこか青い顔をしながらそれを読みふけっている。久作に気づくとはっとして本を閉じてこちらを見た。
「久作、これどうしたの?」
「本棚で見つけた。リストにないし、誰かの私物みたいだから忘れ物として預かる」
「そう……」
「どうかしたか?」
「……読んだ?」
「頭だけ……左近のだった?」
「違うけど、読まない方がいいと思っただけ」
どこか早口で言い切って左近はそれを手放した。
三郎次たちと書庫の外に出ると、図書委員の先輩の不破雷蔵が来たところだった。久作たちに気づくと残りの作業を変わってくれると言うので、久作も一緒に課題に取り組むことにする。
――本来なら、久作も先輩に仕事をおしつけるようなことはしたくない。しかし、この課題は「忍たま」に課せられたものだった。これ以外にも、通常の生徒と同じ予習復習をしなければならない。同じく忍たまである不破は先輩としてその大変さを知っているのだ。
久作は自分が忍者になるための勉強をしているという自覚はない。ただ、普通では学べないことを覚えるのは楽しかった。将来忍者を続けようと思っているわけではなかったが、そんな忍たまも多く、教師もさして気にしていないようであった。
忍者は情報を扱うものだ。それは生きていくための術でもある。そう言ったのは誰だったのか、思い出すことができないほど古い記憶だった。
*
「あっ、しまった」
家に帰ってから、件の和綴じの本を持って帰ってきてしまったことに気がついた。不破に作業を引き継ぐときに伝えればよかったのに、手元の資料と一緒になってすっかり忘れていた。明日は忘れずに、と鞄にしまいかけ、少し気になってまた取り出す。タイトルの『忍術学園』に、学園長の名前。大川学園と無縁だとは思えない。
ページをめくると次々と知った名前が現れる。舞台は戦乱の室町時代。先輩、後輩、教師たち、クラスメイトの名もそこにはあった。共通するのは、それが忍者である生徒だということだ。書き連ねられているのは彼らの学園生活から外部と関わった事件まで、様々なエピソードであった。違う書体で付け足されたり、時間が飛んだりとめちゃくちゃだ。お世辞にもうまいとはいえない字もあるし、何を伝えたいのかわからない文章も多い。それでも、書体の上の忍たまたちは生き生きと忍術を学び、関わり、成長していく。
まるで見てきたかのように脳裏に浮かぶ光景に戸惑いながらも止まらなくなり、気づけばすっかり夜中まで読みふけってしまった。左近に忠告されていたことを途中で思い出したが、ここまできてはどこまで読んでも同じだ。
「あ」
自分の名前にどきりとする。能勢久作、と漢字も違わず自分の名だ。一緒に連ねられているのは、不破雷蔵、摂津のきり丸、二ノ坪怪子丸。それは、久作と同じ図書委員の名前だ。
「幻術……興業?手伝い……」
それは「能勢久作」の口上から始まる。
「東西東西……さてこれより取りかかりますのは、幻術師・里芋行者千番に一番のかねあい、美女瞬間移動の術でございます……」
なぞる言葉は妙に口に馴染んだ。覚えていると言うようなものではないが、知っている気がする。時代劇か何かで聞いた言い回しだろうか。それにしては、この口上に合わせて行われる演目も覚えがあるように思えて、何かが引っかかる。しかしその正体はわからない。
どこかもどかしさを抱えたまま、久作は文字を追っていく。小説とは違う、事務的とも言えるただ事実を連ねたような文章だ。楽しませる読み物でもなければ論を述べるものでもない。言うなれば日記に近いものだ。
――そう、まるで何かを記録するかのような。
流れるように書かれていた文章が途切れた。残りは白いページのままだ。
白紙を撫でて息を吐く。
とてつもなく、長い時間を過ごした気がした。
言葉の足りない文章は久作の中で補完されて渦巻いている。書かれている以上のことを知り得るはずがないのに、まるで自分の目で見たかのように鮮やかに浮かぶ話ばかりであった。
これが一体どういうことなのかはわからない。ただ、文章を綴る文体に、見慣れたものが混ざっていた。
*
「おっ、おはようございます」
久作の挨拶に、中在家は黙って頷いた。授業開始前の図書館の解放はいつも図書委員長の中在家が行っている。当番制にと不破が持ちかけたこともあったが、結局が彼がやりたくてやっていることだということで話が流れたのだ。
図書館にはまだ誰もいない。というよりも、滅多に朝から人が来ることはなかった。
「あ、あの」
無口な中在家は何も言わないが、カウンターの内側で黙って久作を見上げる。
「これ、……書庫で、見つけてたんです」
『忍術学園の歴史』を中在家に差し出した。無言でそれを見た中在家は立ち上がり、本を受け取る。彼は背が高く体格もしっかりしているので、並ぶと見下ろされる形になって威圧感があった。
緊張している久作を知ってか知らずか、それを受け取った中在家は大きな手で久作の頭を撫でた。
――そんなことは、今までされたことがない。それでもその温もりを、知っている気がする。
顔を上げると中在家が何かつぶやいた。彼が口の中だけでこぼす言葉はいつもなかなか聞き取ることができない。今も何を言ったのかわからなくて、しかし聞き返すのもはばかられて口元で迷った。
どうしてだろうか。この人の言葉を聞き取れたはずだ、と思うのは。
もしかしたら、これを見せたら、中在家は何か教えてくれるのではないかと思っていた。ページを埋める字のほとんどは、彼の書くものであったからだ。
しかし彼は何も言わなかった。ただ静かに久作を見て、笑った気がした。
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