言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.04.Wed
「俺実は宇宙人なんじゃ」
「へえ」
仁王の言葉に丸井は顔も上げなかった。ベッドにうつぶせで携帯を睨んだまま、ゲームに集中しているふりをする。なんじゃつまらん、と言葉では言うが、特に気にした様子もなく仁王はまた手元に意識を戻した。仁王はさっきから、ひとりで懐かしいゲームをしている。小さなピースを互い違いに積み上げて、それを抜いて行って更に重ねていく、ジェンガと言うパーティゲームだ。それはひとりでするものではないが、誘われた丸井が断ると仁王はあっさりと引き下がり、さっきから機嫌よくひとりで遊んでいる。尤も、――
がらがらがら。
机の上でピースの搭が倒れ、プラスチックの音が響く、仁王はけらけらと笑い声をあげた。
――この、酔っぱらいが。
丸井の舌打ちにも気づかずに、仁王はまたそれを元のように積み上げ始めた。
もうすぐ日付が変わる。夜には来るよ、と言っていた仁王は約束通りに夜までに一人暮らしの丸井の部屋にやってきたが、来た時にはもう完全に出来上がっていた。大学の友人たちと飲み会だと聞いてはいたが、こんなに酔っぱらった仁王は見たことがない。
「うーん、ブンちゃん、詰んで」
「はぁ?」
「落ちていく」
「どんだけ酔ってんだよ!」
けらけら笑う仁王に頭を抱えたくなる。ピースを摘まむ指先にも力が入らないのか、いくつか積んでも狙いを外すのか、まっすぐ詰めずにバランスが崩れていくらしい。
しばらく無視していたが、なぁなぁと甘える仕草で袖を引かれ、鬱陶しくなって携帯を手放し隣に座る。仁王はいつになく上機嫌だ。顔色は何も変わっていない分たちが悪い。
わざとらしく深く溜息をついて仁王の手からジェンガを奪って積んでいく。仁王は何か鼻歌まで歌っていているようで、彼の上機嫌に合わせて自分の機嫌が悪くなっていくのがわかった。
いつだって、仁王が丸井を第一にしてくれるわけではない。それは自分も同じことだし、いざそうべったりされると鬱陶しく思うのだろう。だからこれはただの自分のわがままだ。それでも不満が隠せない。
明日は仁王の誕生日で、丸井が仁王を部屋に呼んだ理由だってわからないはずがない。
「ほらよ!」
いくつかピースは足りなさそうだが、目につく分は全部積み上げてやる。仁王はへらへら笑い、笑いながら丸井の腰を抱いて抱きついてきた。大きな犬にでものしかかられているような気分だ。ただしこの犬は酒臭い。
「重いんだけど!」
「ブンちゃん優しいから好き〜」
「あーそう!知ってるよ!」
声を荒げると仁王はくつくつ肩を揺らした。その振動が伝わってくる。その楽しげな様子に、拗ねている自分が馬鹿らしくなってきた。もう二十歳も越えれば誕生日ぐらいで浮かれるようなこともない。自分の誕生日でもないのに、自分が浮かれていただけだ。
「ブンちゃん」
「何……何?」
重さから逃げるように体を傾ければ、ずるずるとそのまま床に倒される。そのまま伸し掛かられて、首筋に唇が触れた。
「おい、」
「時計見て」
「は?」
「言うことあるじゃろ?」
丸井の目の前に、仁王が自分の携帯をかざした。並ぶ数字が四つ揃って、日付が変わったことを知らせている。しかし丸井はそれよりも、声色を変えたこの男が気に食わない。そうしている間に仁王の携帯は震え、着信ランプが光る。
「今なら一番乗りなんじゃけど?」
「……ぜってー言わねー」
「聞かせてよ」
ちゅ、ちゅ、と繰り返される触れるだけの唇は首から顎、そのまま丸井の唇に重なる。離れたと思えば仰向けに倒されて、仁王が室内灯を背負ってまっすぐ丸井を覗き込んだ。
「言ってくれないならちゅーしていい?」
「今勝手にしたじゃねえか」
「じゃあちゅーして」
「……お前ほんっと嫌い」
溜息をついてみせ、ついと軽くキスをした。やや不満げに唇を尖らせてくる仁王に笑いが込み上げ、もうしばらく拗ねたふりをしておきたかったのについ頬を緩めてしまった。
「もうほんっと、めんどくせー彼氏だな」
首に手を伸ばして引き寄せて、改めてキスをやり直す。温かい手がするりと後頭部を撫で、酒を飲んでいるのは本当であるらしい。
「……誕生日おめでとう」
「ありがと」
「で、何で脱がす?」
「え?プレゼントじゃろ?」
「宇宙人に抱かれる趣味はねーんだけど」
「大丈夫、今のキスで人間になったから」
「もう好きにしろよ」
くつくつ笑ってしまうと仁王も笑い、丸井の服に改めて手をかけた。
「終わったらケーキな」
「……頑張って今から消費するわ」
「へえ」
仁王の言葉に丸井は顔も上げなかった。ベッドにうつぶせで携帯を睨んだまま、ゲームに集中しているふりをする。なんじゃつまらん、と言葉では言うが、特に気にした様子もなく仁王はまた手元に意識を戻した。仁王はさっきから、ひとりで懐かしいゲームをしている。小さなピースを互い違いに積み上げて、それを抜いて行って更に重ねていく、ジェンガと言うパーティゲームだ。それはひとりでするものではないが、誘われた丸井が断ると仁王はあっさりと引き下がり、さっきから機嫌よくひとりで遊んでいる。尤も、――
がらがらがら。
机の上でピースの搭が倒れ、プラスチックの音が響く、仁王はけらけらと笑い声をあげた。
――この、酔っぱらいが。
丸井の舌打ちにも気づかずに、仁王はまたそれを元のように積み上げ始めた。
もうすぐ日付が変わる。夜には来るよ、と言っていた仁王は約束通りに夜までに一人暮らしの丸井の部屋にやってきたが、来た時にはもう完全に出来上がっていた。大学の友人たちと飲み会だと聞いてはいたが、こんなに酔っぱらった仁王は見たことがない。
「うーん、ブンちゃん、詰んで」
「はぁ?」
「落ちていく」
「どんだけ酔ってんだよ!」
けらけら笑う仁王に頭を抱えたくなる。ピースを摘まむ指先にも力が入らないのか、いくつか積んでも狙いを外すのか、まっすぐ詰めずにバランスが崩れていくらしい。
しばらく無視していたが、なぁなぁと甘える仕草で袖を引かれ、鬱陶しくなって携帯を手放し隣に座る。仁王はいつになく上機嫌だ。顔色は何も変わっていない分たちが悪い。
わざとらしく深く溜息をついて仁王の手からジェンガを奪って積んでいく。仁王は何か鼻歌まで歌っていているようで、彼の上機嫌に合わせて自分の機嫌が悪くなっていくのがわかった。
いつだって、仁王が丸井を第一にしてくれるわけではない。それは自分も同じことだし、いざそうべったりされると鬱陶しく思うのだろう。だからこれはただの自分のわがままだ。それでも不満が隠せない。
明日は仁王の誕生日で、丸井が仁王を部屋に呼んだ理由だってわからないはずがない。
「ほらよ!」
いくつかピースは足りなさそうだが、目につく分は全部積み上げてやる。仁王はへらへら笑い、笑いながら丸井の腰を抱いて抱きついてきた。大きな犬にでものしかかられているような気分だ。ただしこの犬は酒臭い。
「重いんだけど!」
「ブンちゃん優しいから好き〜」
「あーそう!知ってるよ!」
声を荒げると仁王はくつくつ肩を揺らした。その振動が伝わってくる。その楽しげな様子に、拗ねている自分が馬鹿らしくなってきた。もう二十歳も越えれば誕生日ぐらいで浮かれるようなこともない。自分の誕生日でもないのに、自分が浮かれていただけだ。
「ブンちゃん」
「何……何?」
重さから逃げるように体を傾ければ、ずるずるとそのまま床に倒される。そのまま伸し掛かられて、首筋に唇が触れた。
「おい、」
「時計見て」
「は?」
「言うことあるじゃろ?」
丸井の目の前に、仁王が自分の携帯をかざした。並ぶ数字が四つ揃って、日付が変わったことを知らせている。しかし丸井はそれよりも、声色を変えたこの男が気に食わない。そうしている間に仁王の携帯は震え、着信ランプが光る。
「今なら一番乗りなんじゃけど?」
「……ぜってー言わねー」
「聞かせてよ」
ちゅ、ちゅ、と繰り返される触れるだけの唇は首から顎、そのまま丸井の唇に重なる。離れたと思えば仰向けに倒されて、仁王が室内灯を背負ってまっすぐ丸井を覗き込んだ。
「言ってくれないならちゅーしていい?」
「今勝手にしたじゃねえか」
「じゃあちゅーして」
「……お前ほんっと嫌い」
溜息をついてみせ、ついと軽くキスをした。やや不満げに唇を尖らせてくる仁王に笑いが込み上げ、もうしばらく拗ねたふりをしておきたかったのについ頬を緩めてしまった。
「もうほんっと、めんどくせー彼氏だな」
首に手を伸ばして引き寄せて、改めてキスをやり直す。温かい手がするりと後頭部を撫で、酒を飲んでいるのは本当であるらしい。
「……誕生日おめでとう」
「ありがと」
「で、何で脱がす?」
「え?プレゼントじゃろ?」
「宇宙人に抱かれる趣味はねーんだけど」
「大丈夫、今のキスで人間になったから」
「もう好きにしろよ」
くつくつ笑ってしまうと仁王も笑い、丸井の服に改めて手をかけた。
「終わったらケーキな」
「……頑張って今から消費するわ」
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2013'12.03.Tue
「ほんッと腹立つ!」
どうにかジャンから引きはがしたエレンを引っ張って昇降口に向かう。遅いから迎えに行こうと言ったミカサを置いてきて正解だった。教室の中からはまだマルコに宥められているジャンの憤る声が聞こえていて、それに反応して引き返そうとするエレンを慌てて捕まえる。
エレンとジャンはどうにも相容れないらしい。つまらないことで喧嘩をしてはぶつかっているが、アルミンはこっそり、彼らがそれをどこか楽しんでいるのではないかと思っている。エレンもジャンも、同じことを繰り返すような馬鹿ではない。
「もう、今日のはエレンが悪いよ」
「知るか」
「ほんっと懲りないんだから。いい、ミカサには何も言わないでよ、余計こじれるんだから」
「言わねえよ」
ふん、とエレンは鼻を鳴らすが、この態度を見ればミカサも何が起きていたのか察してしまうだろう。今度はあの美しい幼馴染をどう宥めるか考えて、アルミンは静かに息を吐く。
高校に入学してから見慣れた光景ではあった。エレンとジャンが小競り合いをして、それを見咎めたミカサが眉を吊り上げる。いつも宥めるのはアルミンの仕事で、ジャンを止めるのは彼の親友のマルコだった。
案の定、昇降口で待たせていたミカサはエレンの表情を見て、またジャンと揉めていたということを察したのだろう。その美しい眉を潜め、聞き取れないほどの早口で何かを口にする。その呪いにも似た言葉をジャンが直接聞かないことがせめてもの救いだろうか。
まだ制服のブレザーも馴染まない頃から、衣替えをした夏、再び冬服に戻った頃になっても彼らのやり取りは変わらない。エレンはジャンが嫌いで、ジャンはエレンが嫌い。エレンを好きなミカサはエレンの味方で、ジャンはミカサにこっそり憧れていて、アルミンは幼馴染のエレンの味方。
だから、変わったのはアルミンだけだ。いつの頃からか、ジャンと自分を飾らずにぶつかりあえるエレンを羨ましいと思っていた。
きっとジャンの目にはアルミンの存在など映っていないだろう。いつもジャンが声をかけるのは、天敵とも言えるようなエレンと、向ける笑みもぎこちなくなるミカサばかりだ。時々アルミンと目が合ったとしてもぷいと背けられて、まともに話をしたことなどない。
真っ直ぐ、自分の言葉で語る彼を、好きだと思った。鼓膜をくすぐる声で名前を呼ばれたら、と思い、慌てて首を振る。
自分には、それさえも高望みだとしか思えなかった。
*
「あのさぁ、いい加減にしたら?」
「うるせぇ……」
校門に向かうエレンたち3人を教室の窓から目で追い、ジャンは窓に額を押しつけた。秋の空気はガラスを冷やし、じわりと体温を奪われる。背後からマルコが深い溜息をついたのが聞こえたが、溜息をつきたいのはこっちだった。どうして、名前を呼ぶ、というただそれだけが、できないのだろう。
「いつまでもエレンと喧嘩してたって、アルミンはジャンに振り向いてくれないと思うけど?」
「わかってるっつってんだろ……」
ああ、あんな笑顔を向けられるエレンが羨ましいなどと、どうしてミカサを吹っ切った今でも思わなければならないのだろう。
入学式でミカサを見て、ひと目で恋に落ちた。凛とした佇まいに風に遊ばれる髪の先まで意識されたようで、ジャンの心をかっさらっていくには彼女は美しすぎた。その次の瞬間彼女の隣に現れたエレンの立ち振る舞いは彼女を全く尊重しないもので、憤りのままに彼にいらぬちょっかいを出したのももう随分前のことのように思える。
エレンと敵対している限りミカサが自分を振り向いてくれないだろうということはすぐにわかった。否、それ以前に、ミカサがエレン以外を見る気がないということもすぐにわかった。それは隠しようもなく、誰もがわかる事実だった。
しばらくはエレンとぶつかっては己の存在を主張していたジャンだったが、彼女に向けられる鋭い視線は辛いものだった。
ジャンがアルミンを意識したのは、いつだっただろうか。
ミカサがジャンからエレンを引きはがして行ったあと、苛立ち任せに頭をかいていたジャンをおずおずとアルミンが覗き込んだ。
「あの、ごめんね」
それをその瞬間に理解することはできなかった。すぐにアルミンはエレンに呼ばれ、慌ててジャンに背を向けて走っていく。それを鋭い目のまま見送った後、妙に気が抜けて肩を落とした。なぜアルミンが謝るのだろう。悪いのはエレンで、ジャンだ。自分でそれはわかっている。
そういえば3人でつるんでいたな、と思いだしてから、アルミンを意識するまではすぐだった。エレンとジャンが喧嘩をしていると慌てて止めに来て、時にはエレンに突き飛ばされてよろけながらもミカサの手を借りて喧嘩を止めている。ジャンがむきになる分エレンがヒートアップすることに気づいて、アルミンが駆け寄ってきてからは少し手を緩めるようになった。それはジャンを止める側だったマルコにはすぐに見抜かれて、あっという間に自分が気づいていなかった感情を引っ張り出された。
「なんでアルミンのやつ、あんなにエレンに付きまとってるんだよ」
「僕に聞かれても。自分で聞いてみれば?」
「聞けるかよ……」
「ほら、うだうだしてないで帰るよ」
もうアルミンたちはとっくに校門を出てしまった。マルコに引っ張られて、ジャンはしぶしぶ窓から離れる。
この間までミカサが好きで、今はアルミンが好きだなんて、そんな無節操なことを簡単に認めることはできなかった。
それでも、今はミカサに世話を焼かれるエレンよりも、アルミンの気遣いに気づかないエレンに腹が立つ。
*
いつもは3人で帰るアルミンたちだったが、今日はエレンもミカサも委員会の活動があるのでアルミンは先に変えることになった。図書室辺りで待っていてもいいと言ったのだが、以前同じように委員会の活動があったとき予想外に時間がかかったことを気にして、帰るように言われてしまったのだ。アルミンはどうせ帰ったとしても課題を済ませて本を読む程度の予定しかないのでどこにいても大差ないのだが、ふたりがしきりに気にするので素直に帰ることにしたのだ。
入学してから、ほぼ毎日登下校は3人だったので少し違和感がある。昇降口を抜けて駅に向かう途中の道さえすこし新鮮に見えた。思えば、いつもは話をして帰るのでエレンとミカサの顔ばかり見ているのだ。
いつの間にか木々は鮮やかに紅葉している。風も随分冷たくなって、冬に向かっているのだと実感させた。
ふと、角を曲がったアルミンは足を止めた。視界の先に、ジャンがいる。いつもはマルコと帰る彼も、今日はひとりであるようだった。そういえば、マルコは生徒会の役員だ。きっとエレンたちと同じく何か活動があるのだろう。
暇を持て余すように、何か音楽を聴いているらしいイヤホンが見える。自分より、エレンよりも背の高い後ろ姿。すでに少しくたびれたように見えるスクールバッグはファスナーの開いたままジャンの肩で揺れていた。
アルミンを追い抜いて行った人が振り返り、それにはっとしてアルミンもゆっくり歩き出す。視線はジャンから離せない。
――今、追いかけたら。
自分の隣にも、彼の隣にも誰もいない。ならば隣を歩くこともできるはずだ。
どきりと心臓が鳴って、ブレザーのネクタイごと胸元を掴む。脈が早いのがわかるほど心臓がうるさい。
途中の乗り換え駅までは、一緒に帰れるはずだ。追いかけて、ぽんと肩を叩いて、一緒に帰ろう、と言うだけだ。少し罪悪感はあるけれど、エレンを出汁にすればきっと話も続く。
それでも、アルミンの歩みはそれ以上早くならなかった。やがて駅についた頃には人も増えてジャンを見失ってしまって、自分の意気地のなさに肩を落とす。もしかしたらもう二度とないチャンスだったのかもしれないのに、と思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「はぁ……」
少し、泣きそうだ。
*
ひとりでの帰り道は久しぶりだ。行きはひとりなので愛用にしている音楽プレイヤーを引っ張り出して駅に向かう。真面目な親友様は今日は文化祭の準備のための会議があるらしい。これからしばらく、当日までこういう日が続くのかもしれない。
どこぞの三人組のようにべったり張りついていなければ心細いなんてことはないが、腹が減ってもつき合ってくれる相手がいないのは寂しいものだった。ひとりで行くのも味気ないので結局まっすぐ帰ることにして、それでも少しは何か腹に入れたくて駅のコンビニに立ち寄って菓子パンを買う。少々お行儀は悪いが空腹には耐えかねた。
パンをくわえながらICカードを改札にかざし、ホームへ上がる。同じ高校の生徒だけではなく近くに大学もあるので人は多い。少しでも人の少ない方に、とホームの奥へ向かう途中、ジャンはふと足を止めた。一番後ろの車両の辺り、文庫本を開いて次の電車を待っているのはアルミンだ。周りにいつも付きまとっている幼馴染の姿がない。そういやあいつらも何か委員会に入っていたか、と思いだし、ジャンははっとして食べかけのパンをスクールバッグにねじ込んだ。なぜだか無性に恥ずかしい。
風に煽られて髪を乱され、アルミンが少し顔を上げる。肩にかけたスクールバッグを直し、少し邪魔くさそうに髪を耳にかけてまた視線は本に戻った。誰の目があるわけでもないのにきれいに背筋を伸ばし、ページを押さえる指先まで意識されたように無駄がなく見える。
――今、近づいて。
肩を叩いて、よう、でもお疲れ、でも何でもいい。何か声をかけて、何を読んでいるのか、でもいい。話題が続かなければ、嫌な顔をするかもしれないが、エレンの悪口でも言えば何かは返ってくるだろう。話をするのは苦手じゃない。きっとしゃべり出せばどうにでもなる。
それでも、ジャンは勇気が出なかった。アルミンがジャンをどんな目で見ているのか、いつも目をそらしていたから知らないのだ。
ジャンがミカサを好きだったときはその態度をすぐに周りに見抜かれて、一体自分のどんな仕草がそれを露わにしたのかまだわからない。実際アルミンを意識し始めたこともはマルコにはすぐに見抜かれた。だからもしアルミンにも同じことをしてしまったら、アルミンはどう思うのだろう。そう思うと怖くなり、まともに目を合わせたこともない。
まだ踏ん切りがつかない間に電車が来てしまい、ジャンはアルミンが電車に乗り込むのを見ながら、隣の車両に乗り込んだ。
アルミンはいつもエレンとミカサと一緒に帰る。否、登校時も同じだ。幼馴染で家も近いのだから当然と言えば当然なのかもしれない。
文化祭当日まで、アルミンがひとりで帰る日はあるのだろうか。マルコは忙しいらしいと先輩に聞かされていたようだが、普通の委員会ではどうなのだろうか。もしかしたら、もう二度とないかもしれない。
がたん、と電車に揺らされながら、ジャンはぐっとこぶしを握った。
途中の乗換駅までは、アルミンも同じはずだ。
次の駅でジャンはホームに飛び出して、アルミンがいるはずの車両に乗り直す。ドアに寄り掛かって相変わらず本を開いていたアルミンはすぐに見つかった。
どくどくと心臓がうるさい。こんなに緊張したことはここ最近ではなかった。さっきまでは何とでもいえると思っていたのに、いざアルミンを前にすると頭が真っ白になる。それでも電車が動き出し、時間は有限であるとジャンに知らしめた。別れるはずの駅まではふた駅ほどしかない。
深く息を吸って、アルミンの前に向かう。気配を感じたのか、顔を上げたアルミンはジャンを見て目を丸くした。そこに拒絶がないことだけが救いだ。
「……よう」
「あ……うん」
驚いているアルミンに後悔する。やっぱりいつもと違うことはするものではない。それでも一度始めてしまったのだから引き返すわけにもいかず、ジャンは必死で頭を巡らせる。
「あー、あいつは?エレン」
「委員会だって。もうすぐ文化祭だから」
「ああ、マルコもだ」
「ジャンは委員会、入ってないんだっけ」
「ああ」
「そう、僕も」
「……」
「……」
アルミンが本を閉じた。それにはっと気がついて、ジャンは慌てて耳からイヤホンを引き抜く。それはいつの間にか再生が終わってしまっていた。もう何を聞いていたのかもよく思いだせない。
「本、酔わねえ?」
「ううん、大丈夫」
「ふーん」
「……」
「……」
これはまずい。何も会話続かない。アルミンは困ったように視線を泳がせていて、なぜか少し頬が赤いように見えてジャンも直視できなくなる。決して容姿に惚れたわけではないと言いたいが、可愛く見えて仕方がない。
「え、えーと、ジャンは、乗り換え?」
「あ、ああ。地下鉄」
「僕とは別だね」
「ああ」
「……」
「……」
やばい。めっちゃアルミンが頑張ってくれてる。頭を抱えそうになるのをどうにか抑え、ジャンも必死で頭を働かそうとするが、何を話してもベストであるとは思えなかった。
「……本、好きなのか」
「あ、うん」
「何読んでたんだ?」
「……知らないと思う」
「……そうか」
「……」
「……」
これは拒絶されたのか?オレには話したくなかったか?普段のアルミンがどのように会話をしていたのか全く思いだせない。確かにジャンとは話をすることはほとんどないが、マルコとは仲がいいはずだ。そのそばで会話を聞いていたことは何度もあったはずなのに。
電車が少し傾き、アルミンがよろけて窓に手をつく。これ今の支えてやればドラマみたいに決まったんじゃねえのかな、とつまらない妄想ばかりが頭をかすめる。
「ジャン、は」
「な、何?」
「何聞いてたの?」
「えっ」
「それ」
「あ、ああ……いや、これも、知らないと思う。インディーズの、知ってるやつ会ったことねえし」
「そう……」
「……」
「……」
また電車が止まる。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。もうあとひと駅だ。
「……僕」
アルミンが何か言ったような気がしたしかし電車のアナウンスとかぶって聞き取れない。聞き返すと大きな目でジャンを見上げ、慌てたように何でもないと首を振った。
「何だよ、言えよ」
あ、やばい、きつすぎたか?自分の話し方まで気を使う。もう全部がもどかしい。アルミンに好かれたくて必死だった。しかし実際はきっとそれ以前で、好かれるどころか友達とも言えないのだ。
「えっと……」
言いよどむアルミンの言葉を待っている。緊張で手に汗をかき、こっそりボトムで手のひらを拭った。何を言われるのだろう。
次にアルミンが口を開きかけたとき、ジャンの腹の虫が鳴った。全く空気の読まないそれは、少なくとも目の前のアルミンには聞こえるほど派手に響く。途端にかっと頭まで熱くなり、ジャンは耐え切れずに顔をそむけてドアに寄り掛かった。
「……ふふっ」
柔らかい笑い声に、もう死にたい、という思いが頭を占める。しかしどういう顔で笑ってるのかどうしても見たくなってしまい、横目でアルミンに視線を遣った。いつも幼馴染たちに向けているような微笑みに、心臓が射抜かれたように痛くなる。
「あのね、ずっとジャンと話したいと思ってたんだ」
「え」
「何か食べに行く?」
結婚しよ。
ジャンの反応がないことを不安になったアルミンが眉を下げるまで、ジャンはアルミンの笑みに見とれて硬直していた。
どうにかジャンから引きはがしたエレンを引っ張って昇降口に向かう。遅いから迎えに行こうと言ったミカサを置いてきて正解だった。教室の中からはまだマルコに宥められているジャンの憤る声が聞こえていて、それに反応して引き返そうとするエレンを慌てて捕まえる。
エレンとジャンはどうにも相容れないらしい。つまらないことで喧嘩をしてはぶつかっているが、アルミンはこっそり、彼らがそれをどこか楽しんでいるのではないかと思っている。エレンもジャンも、同じことを繰り返すような馬鹿ではない。
「もう、今日のはエレンが悪いよ」
「知るか」
「ほんっと懲りないんだから。いい、ミカサには何も言わないでよ、余計こじれるんだから」
「言わねえよ」
ふん、とエレンは鼻を鳴らすが、この態度を見ればミカサも何が起きていたのか察してしまうだろう。今度はあの美しい幼馴染をどう宥めるか考えて、アルミンは静かに息を吐く。
高校に入学してから見慣れた光景ではあった。エレンとジャンが小競り合いをして、それを見咎めたミカサが眉を吊り上げる。いつも宥めるのはアルミンの仕事で、ジャンを止めるのは彼の親友のマルコだった。
案の定、昇降口で待たせていたミカサはエレンの表情を見て、またジャンと揉めていたということを察したのだろう。その美しい眉を潜め、聞き取れないほどの早口で何かを口にする。その呪いにも似た言葉をジャンが直接聞かないことがせめてもの救いだろうか。
まだ制服のブレザーも馴染まない頃から、衣替えをした夏、再び冬服に戻った頃になっても彼らのやり取りは変わらない。エレンはジャンが嫌いで、ジャンはエレンが嫌い。エレンを好きなミカサはエレンの味方で、ジャンはミカサにこっそり憧れていて、アルミンは幼馴染のエレンの味方。
だから、変わったのはアルミンだけだ。いつの頃からか、ジャンと自分を飾らずにぶつかりあえるエレンを羨ましいと思っていた。
きっとジャンの目にはアルミンの存在など映っていないだろう。いつもジャンが声をかけるのは、天敵とも言えるようなエレンと、向ける笑みもぎこちなくなるミカサばかりだ。時々アルミンと目が合ったとしてもぷいと背けられて、まともに話をしたことなどない。
真っ直ぐ、自分の言葉で語る彼を、好きだと思った。鼓膜をくすぐる声で名前を呼ばれたら、と思い、慌てて首を振る。
自分には、それさえも高望みだとしか思えなかった。
*
「あのさぁ、いい加減にしたら?」
「うるせぇ……」
校門に向かうエレンたち3人を教室の窓から目で追い、ジャンは窓に額を押しつけた。秋の空気はガラスを冷やし、じわりと体温を奪われる。背後からマルコが深い溜息をついたのが聞こえたが、溜息をつきたいのはこっちだった。どうして、名前を呼ぶ、というただそれだけが、できないのだろう。
「いつまでもエレンと喧嘩してたって、アルミンはジャンに振り向いてくれないと思うけど?」
「わかってるっつってんだろ……」
ああ、あんな笑顔を向けられるエレンが羨ましいなどと、どうしてミカサを吹っ切った今でも思わなければならないのだろう。
入学式でミカサを見て、ひと目で恋に落ちた。凛とした佇まいに風に遊ばれる髪の先まで意識されたようで、ジャンの心をかっさらっていくには彼女は美しすぎた。その次の瞬間彼女の隣に現れたエレンの立ち振る舞いは彼女を全く尊重しないもので、憤りのままに彼にいらぬちょっかいを出したのももう随分前のことのように思える。
エレンと敵対している限りミカサが自分を振り向いてくれないだろうということはすぐにわかった。否、それ以前に、ミカサがエレン以外を見る気がないということもすぐにわかった。それは隠しようもなく、誰もがわかる事実だった。
しばらくはエレンとぶつかっては己の存在を主張していたジャンだったが、彼女に向けられる鋭い視線は辛いものだった。
ジャンがアルミンを意識したのは、いつだっただろうか。
ミカサがジャンからエレンを引きはがして行ったあと、苛立ち任せに頭をかいていたジャンをおずおずとアルミンが覗き込んだ。
「あの、ごめんね」
それをその瞬間に理解することはできなかった。すぐにアルミンはエレンに呼ばれ、慌ててジャンに背を向けて走っていく。それを鋭い目のまま見送った後、妙に気が抜けて肩を落とした。なぜアルミンが謝るのだろう。悪いのはエレンで、ジャンだ。自分でそれはわかっている。
そういえば3人でつるんでいたな、と思いだしてから、アルミンを意識するまではすぐだった。エレンとジャンが喧嘩をしていると慌てて止めに来て、時にはエレンに突き飛ばされてよろけながらもミカサの手を借りて喧嘩を止めている。ジャンがむきになる分エレンがヒートアップすることに気づいて、アルミンが駆け寄ってきてからは少し手を緩めるようになった。それはジャンを止める側だったマルコにはすぐに見抜かれて、あっという間に自分が気づいていなかった感情を引っ張り出された。
「なんでアルミンのやつ、あんなにエレンに付きまとってるんだよ」
「僕に聞かれても。自分で聞いてみれば?」
「聞けるかよ……」
「ほら、うだうだしてないで帰るよ」
もうアルミンたちはとっくに校門を出てしまった。マルコに引っ張られて、ジャンはしぶしぶ窓から離れる。
この間までミカサが好きで、今はアルミンが好きだなんて、そんな無節操なことを簡単に認めることはできなかった。
それでも、今はミカサに世話を焼かれるエレンよりも、アルミンの気遣いに気づかないエレンに腹が立つ。
*
いつもは3人で帰るアルミンたちだったが、今日はエレンもミカサも委員会の活動があるのでアルミンは先に変えることになった。図書室辺りで待っていてもいいと言ったのだが、以前同じように委員会の活動があったとき予想外に時間がかかったことを気にして、帰るように言われてしまったのだ。アルミンはどうせ帰ったとしても課題を済ませて本を読む程度の予定しかないのでどこにいても大差ないのだが、ふたりがしきりに気にするので素直に帰ることにしたのだ。
入学してから、ほぼ毎日登下校は3人だったので少し違和感がある。昇降口を抜けて駅に向かう途中の道さえすこし新鮮に見えた。思えば、いつもは話をして帰るのでエレンとミカサの顔ばかり見ているのだ。
いつの間にか木々は鮮やかに紅葉している。風も随分冷たくなって、冬に向かっているのだと実感させた。
ふと、角を曲がったアルミンは足を止めた。視界の先に、ジャンがいる。いつもはマルコと帰る彼も、今日はひとりであるようだった。そういえば、マルコは生徒会の役員だ。きっとエレンたちと同じく何か活動があるのだろう。
暇を持て余すように、何か音楽を聴いているらしいイヤホンが見える。自分より、エレンよりも背の高い後ろ姿。すでに少しくたびれたように見えるスクールバッグはファスナーの開いたままジャンの肩で揺れていた。
アルミンを追い抜いて行った人が振り返り、それにはっとしてアルミンもゆっくり歩き出す。視線はジャンから離せない。
――今、追いかけたら。
自分の隣にも、彼の隣にも誰もいない。ならば隣を歩くこともできるはずだ。
どきりと心臓が鳴って、ブレザーのネクタイごと胸元を掴む。脈が早いのがわかるほど心臓がうるさい。
途中の乗り換え駅までは、一緒に帰れるはずだ。追いかけて、ぽんと肩を叩いて、一緒に帰ろう、と言うだけだ。少し罪悪感はあるけれど、エレンを出汁にすればきっと話も続く。
それでも、アルミンの歩みはそれ以上早くならなかった。やがて駅についた頃には人も増えてジャンを見失ってしまって、自分の意気地のなさに肩を落とす。もしかしたらもう二度とないチャンスだったのかもしれないのに、と思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「はぁ……」
少し、泣きそうだ。
*
ひとりでの帰り道は久しぶりだ。行きはひとりなので愛用にしている音楽プレイヤーを引っ張り出して駅に向かう。真面目な親友様は今日は文化祭の準備のための会議があるらしい。これからしばらく、当日までこういう日が続くのかもしれない。
どこぞの三人組のようにべったり張りついていなければ心細いなんてことはないが、腹が減ってもつき合ってくれる相手がいないのは寂しいものだった。ひとりで行くのも味気ないので結局まっすぐ帰ることにして、それでも少しは何か腹に入れたくて駅のコンビニに立ち寄って菓子パンを買う。少々お行儀は悪いが空腹には耐えかねた。
パンをくわえながらICカードを改札にかざし、ホームへ上がる。同じ高校の生徒だけではなく近くに大学もあるので人は多い。少しでも人の少ない方に、とホームの奥へ向かう途中、ジャンはふと足を止めた。一番後ろの車両の辺り、文庫本を開いて次の電車を待っているのはアルミンだ。周りにいつも付きまとっている幼馴染の姿がない。そういやあいつらも何か委員会に入っていたか、と思いだし、ジャンははっとして食べかけのパンをスクールバッグにねじ込んだ。なぜだか無性に恥ずかしい。
風に煽られて髪を乱され、アルミンが少し顔を上げる。肩にかけたスクールバッグを直し、少し邪魔くさそうに髪を耳にかけてまた視線は本に戻った。誰の目があるわけでもないのにきれいに背筋を伸ばし、ページを押さえる指先まで意識されたように無駄がなく見える。
――今、近づいて。
肩を叩いて、よう、でもお疲れ、でも何でもいい。何か声をかけて、何を読んでいるのか、でもいい。話題が続かなければ、嫌な顔をするかもしれないが、エレンの悪口でも言えば何かは返ってくるだろう。話をするのは苦手じゃない。きっとしゃべり出せばどうにでもなる。
それでも、ジャンは勇気が出なかった。アルミンがジャンをどんな目で見ているのか、いつも目をそらしていたから知らないのだ。
ジャンがミカサを好きだったときはその態度をすぐに周りに見抜かれて、一体自分のどんな仕草がそれを露わにしたのかまだわからない。実際アルミンを意識し始めたこともはマルコにはすぐに見抜かれた。だからもしアルミンにも同じことをしてしまったら、アルミンはどう思うのだろう。そう思うと怖くなり、まともに目を合わせたこともない。
まだ踏ん切りがつかない間に電車が来てしまい、ジャンはアルミンが電車に乗り込むのを見ながら、隣の車両に乗り込んだ。
アルミンはいつもエレンとミカサと一緒に帰る。否、登校時も同じだ。幼馴染で家も近いのだから当然と言えば当然なのかもしれない。
文化祭当日まで、アルミンがひとりで帰る日はあるのだろうか。マルコは忙しいらしいと先輩に聞かされていたようだが、普通の委員会ではどうなのだろうか。もしかしたら、もう二度とないかもしれない。
がたん、と電車に揺らされながら、ジャンはぐっとこぶしを握った。
途中の乗換駅までは、アルミンも同じはずだ。
次の駅でジャンはホームに飛び出して、アルミンがいるはずの車両に乗り直す。ドアに寄り掛かって相変わらず本を開いていたアルミンはすぐに見つかった。
どくどくと心臓がうるさい。こんなに緊張したことはここ最近ではなかった。さっきまでは何とでもいえると思っていたのに、いざアルミンを前にすると頭が真っ白になる。それでも電車が動き出し、時間は有限であるとジャンに知らしめた。別れるはずの駅まではふた駅ほどしかない。
深く息を吸って、アルミンの前に向かう。気配を感じたのか、顔を上げたアルミンはジャンを見て目を丸くした。そこに拒絶がないことだけが救いだ。
「……よう」
「あ……うん」
驚いているアルミンに後悔する。やっぱりいつもと違うことはするものではない。それでも一度始めてしまったのだから引き返すわけにもいかず、ジャンは必死で頭を巡らせる。
「あー、あいつは?エレン」
「委員会だって。もうすぐ文化祭だから」
「ああ、マルコもだ」
「ジャンは委員会、入ってないんだっけ」
「ああ」
「そう、僕も」
「……」
「……」
アルミンが本を閉じた。それにはっと気がついて、ジャンは慌てて耳からイヤホンを引き抜く。それはいつの間にか再生が終わってしまっていた。もう何を聞いていたのかもよく思いだせない。
「本、酔わねえ?」
「ううん、大丈夫」
「ふーん」
「……」
「……」
これはまずい。何も会話続かない。アルミンは困ったように視線を泳がせていて、なぜか少し頬が赤いように見えてジャンも直視できなくなる。決して容姿に惚れたわけではないと言いたいが、可愛く見えて仕方がない。
「え、えーと、ジャンは、乗り換え?」
「あ、ああ。地下鉄」
「僕とは別だね」
「ああ」
「……」
「……」
やばい。めっちゃアルミンが頑張ってくれてる。頭を抱えそうになるのをどうにか抑え、ジャンも必死で頭を働かそうとするが、何を話してもベストであるとは思えなかった。
「……本、好きなのか」
「あ、うん」
「何読んでたんだ?」
「……知らないと思う」
「……そうか」
「……」
「……」
これは拒絶されたのか?オレには話したくなかったか?普段のアルミンがどのように会話をしていたのか全く思いだせない。確かにジャンとは話をすることはほとんどないが、マルコとは仲がいいはずだ。そのそばで会話を聞いていたことは何度もあったはずなのに。
電車が少し傾き、アルミンがよろけて窓に手をつく。これ今の支えてやればドラマみたいに決まったんじゃねえのかな、とつまらない妄想ばかりが頭をかすめる。
「ジャン、は」
「な、何?」
「何聞いてたの?」
「えっ」
「それ」
「あ、ああ……いや、これも、知らないと思う。インディーズの、知ってるやつ会ったことねえし」
「そう……」
「……」
「……」
また電車が止まる。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。もうあとひと駅だ。
「……僕」
アルミンが何か言ったような気がしたしかし電車のアナウンスとかぶって聞き取れない。聞き返すと大きな目でジャンを見上げ、慌てたように何でもないと首を振った。
「何だよ、言えよ」
あ、やばい、きつすぎたか?自分の話し方まで気を使う。もう全部がもどかしい。アルミンに好かれたくて必死だった。しかし実際はきっとそれ以前で、好かれるどころか友達とも言えないのだ。
「えっと……」
言いよどむアルミンの言葉を待っている。緊張で手に汗をかき、こっそりボトムで手のひらを拭った。何を言われるのだろう。
次にアルミンが口を開きかけたとき、ジャンの腹の虫が鳴った。全く空気の読まないそれは、少なくとも目の前のアルミンには聞こえるほど派手に響く。途端にかっと頭まで熱くなり、ジャンは耐え切れずに顔をそむけてドアに寄り掛かった。
「……ふふっ」
柔らかい笑い声に、もう死にたい、という思いが頭を占める。しかしどういう顔で笑ってるのかどうしても見たくなってしまい、横目でアルミンに視線を遣った。いつも幼馴染たちに向けているような微笑みに、心臓が射抜かれたように痛くなる。
「あのね、ずっとジャンと話したいと思ってたんだ」
「え」
「何か食べに行く?」
結婚しよ。
ジャンの反応がないことを不安になったアルミンが眉を下げるまで、ジャンはアルミンの笑みに見とれて硬直していた。
2013'11.25.Mon
金木犀が教えてくれる、と言われた通り、地図を片手に向かった場所は金木犀の甘い匂いが漂っていた。今日からジャンの家になるその寄宿舎は決して新しくはないが、由緒正しいという言葉がふさわしい歴史ある建物だ。創立者が芸術を志していたということもあり、門扉にしても細かな細工が施されている。なるほど、金の有り余った者の道楽で作るには持って来いなものであっただろう。ジャンがたどり着いたのは裏口のようだったがそれでもジャンの見たことがないような立派な門だ。堅牢に立ちふさがるようにも見えてジャンは少しためらうが、ここより他に行く場所はない。
冷たい鉄の門を押すと、それは意外にもすんなりとジャンを受け入れた。一歩足を踏み入れると金木犀の香りが強くなる。視線を巡らせた先に見つけたその木の根本に、うずくまる人影を見つけてぎょっとした。恐る恐る近づくと丸まった背はかすかに上下していて、ほっと息を吐く。具合でも悪いのだろうかと肩を軽く叩いてみるが、反応はない。呼吸は規則正しく繰り返されているので、眠っているだけのようだ。
頭の丸みに沿って流れる金の髪を金木犀の小さな花が飾り、どこか甘そうにも見えるその色に手を伸ばす。ジャンの指先に応えるように花が落ち、それを視線で追うと、そこに見つけたサファイアの瞳に息を飲んだ。
丁寧にまばたきをして、彼はジャンを見上げた。腕に顔を半分埋めたまま、濡れた瞳でこちらを見つめている。
「……ジャン・キルシャタイン?」
透き通った声に名前を呼ばれ、ジャンは背筋を伸ばしてややのけぞった。ゆっくり顔を上げてジャンを見たのは、人間ではないように見えるほど、不思議な存在に思える。しかし次の瞬間彼はにこりと笑い、気さくにジャンに手を差し出した。
「ようこそ寄宿舎へ。僕はアルミン・アルレルト。君と同室なんだ、よろしく」
「よっ、よろしく」
「待ってる間に寝ちゃった」
ぱっと立ち上がった彼、アルミンはしゃがんだまたのジャンにも手を差し出した。立ち上がると彼の頭に残る金木犀の花が目についたので、払ってやるとアルミンは驚いて目を丸くする。しかし金木犀に気づき、その花と同じぐらい可憐に笑った。胸が高鳴るのがわかる。新しいルームメイトとは、仲良くできるだろうか。
アルミンは成績優秀な学生だった。クラスの誰もが彼に羨望の眼差しを向け、少々運動が不得手なところもまた愛嬌があった。アルミンがルームメイトであると紹介してくれたお陰で、ジャンはクラスにもすぐ馴染むことができた。
幸い学力も差がつくほどではなく、ジャンはどちらかといえば成績は上位に入った。アルミンとは違いジャンは運動神経もよく、どんなスポーツでも活躍することができた。
アルミンはそれを僻むようなこともなく、ふたりがお互いの不足を補うようになるのは自然な流れだった。いつの間にか、まるで旧知の仲のように息のあったやりとりをするふたりになっていた。ジャンはアルミンに気を許して、何でも相談できる相手だった。
――それでも、アルミンはそうだとは限らなかった。
「アルミン、灯落とすぞ」
「うん」
アルミンはジャンの言葉に素直に頷き、読んでいた本を閉じる。アルミンがベッドに潜り込んだのを確認し、ジャンはランプの小さな炎を消した。訪れる闇の中でジャンは手探りでベッドに戻り、柔らかいシーツに体を預ける。始めのうちはホームシックにもなったが、そのたびアルミンが勇気づけてくれたので、ひとりのベッドも今は寂しくない。
やがて衣擦れの音も聞こえなくなり、静かになった部屋には何の音もしなくなった。ジャンは息を殺し、じっと待つ。
今日は週末だ。いつもの通りなら――小さく、木の軋む音。
やはりいつものように、アルミンがベッドを抜け出した。ジャンを起こさないよう物音を立てず、静かに靴を履いて寝間着のままこっそりと部屋を出ていく。ドアが閉まってかすかな足音も消えてから、ジャンは体を起こした。アルミンが出ていってしまったドアを見て溜息をつく。
週末の夜、アルミンはいつもこうして部屋を抜け出している。初めはトイレにでも行っているのかと思っていたが、しばらく待ってもアルミンは帰ってこなかった。一度追いかけようとしたが、ジャンが部屋を抜け出した頃にはアルミンの姿はどこにもなく、結局朝方までアルミンは戻ってこなかったのだ。今夜もきっと、そうなのだろう。
どこに行っているのか一度問い詰めたことがある。それでも、柔らかい物腰でどこにも行かないと言い張った。あまつさえ、ジャンが夢を見たことにされてしまったのだ。
今日もアルミンは朝まで帰ってこなかった。布団に潜っていたジャンが体を起こすと、さも今起きたばかりだという体でジャンに挨拶をする。もうそれがいつものやりとりになっていた。
「ジャン、今日の予定は?」
「……勉強する」
「僕もそうしようかな。自習室?」
「ああ」
朝食を食べてからふたりで自習室に向かった。寮に作られた自習室は昔は書斎だったのだろう、作りつけの本棚には今でも沢山の本が並べられている。読書家のアルミンのお気に入りの場所だ。他にも生徒がいる中で、ふたりは並んで座った。
「ジャン、ここわかる?」
「どれ」
アルミンが身を乗り出してジャンにもノートを向けた。ふと寄った体から、ふわりと甘い香りがする。それが何か考えてすぐに思い当たった。金木犀だ。
「……アルミン」
「何?」
「……何でもない」
確かに彼から香るのは金木犀だった。
次の週末もやはりアルミンは深夜に部屋を抜け出した。遅れてベッドを出たジャンも、気づかれないようこっそり部屋を出る。
普段は気にならない小さな廊下の軋みが妙に耳につき、それに誘われるように胸が脈打った。アルミンの姿はやはりないが、見当はついている。
――金木犀。
この近くでその匂いを感じることができるのは、この辺りには一ヶ所しかない。
ジャンは慎重に寮を抜け出した。裏口の鍵は開いていて確信する。風の冷たい夜に紛れて裏門に向かった。足音を殺し、建物に隠れてそっと門の方をのぞき込む。
月明かりにシルエットが浮かんでいる。かき乱される金の髪、溶け合うように絡む腕。ひとつになっていた影がゆっくりと離れ、恍惚に満ちたアルミンの表情が影の肩越しに見えた。アルミンの体を抱くその相手は影になって、様子がわからない。
それでも、金木犀の木のそばで微笑むのは、アルミンに間違いなかった。うっとりと目を細め、日に焼けない腕は柔らかく影を抱く。すっかりアルミンを隠してしまうほどの影は優しくアルミンを撫で、その手の中でアルミンは体をよじらせた。
ジャンは指先さえ動かすことができないまま立ち尽くした。そこにある愉悦も快楽も、ジャンは知らない。あんな表情のアルミンを見たことがない。
何かの間違いであれと願うジャンの思いとは裏腹に、小さく漏れた笑い声は、いつも耳にするアルミンの声で間違いなかった。
そのあとどうやって部屋まで戻ったのか、ジャンはよく覚えていない。ただ誰にも咎められなかったので、見つかることなく部屋に戻ったことは確かだろう。
布団に潜ってからも目はさえて、アルミンの顔が浮かんで離れない。その夜は朝まで、アルミンが戻ってくるまで眠ることができなかった。
「おはよう、ジャン。……ジャン?」
「……おはよう」
頭まで布団を被ったまま答えるとアルミンは笑った。どうしたの、今日はお寝坊さんだね。ジャンをからかいながら布団をはぎ、アルミンはジャンの顔を見て驚いた。一睡もしていないジャンは、どんなひどい顔をしているのだろう。
「またホームシックかい?じゃあ今夜は僕が一緒に寝てあげるよ」
優しく母のようにジャンの髪を撫でつけたアルミンからは、金木犀の匂いがした。
その夜、アルミンは宣言通りジャンと共にベッドに入った。睡眠不足とアルミンのことで一日中ぼんやりしていたジャンをいたわって、布団を被ってからもぽんぽんと腹を叩いてくれた。それでもジャンは不安になって、アルミンにねだって手をつないで寝てもらった。笑いながらアルミンが重ねた手はあたたかく、この手が誰かを抱いたなんて嘘のようだった。
次の夜もジャンはアルミンの心配に甘えて一緒に眠った。その次の週末まで、ずっとアルミンの手を握って眠った。甘えっこだね、と笑いながら、アルミンは毎晩ジャンの手を包むようにして眠りについた。
それでも、週末はやはりベッドを抜け出した。ジャンの指を一本ずつゆっくり離し、いつもより殊更慎重にベッドを降りる。アルミンが静かにドアを閉める音を聞きながら、ジャンは悔しさに唇を噛んだ。どんなに優しくても、アルミンは決して自分を選ばない。
自分で傷を抉るように、ジャンもベッドを降りて寮を出た。先日同様にアルミンは金木犀の下で誰かを愛しげに抱いていた。
その次の夜からアルミンを抱いて眠った。初めは戸惑ったアルミンもすぐにジャンにほだされた。そんなに優しく振る舞っても、アルミンはジャンに何も言わなかった。
周囲から親友と呼ばれながらアルミンと過ごす日々はジャンにとって苦痛であった。アルミンは親しげにジャンの名を呼び、アルミンを探す人はジャンに尋ねる。ジャンがどんなに愛しさを込めて名を呼んでも、アルミンがどこにいて何をしているのかわかっても、アルミンにとってジャンは決して特別ではなかった。
週末。
アルミンが抱き締めるジャンの腕から抜け出して、ジャンは泣いた。ジャンがどんなに強く抱いても、アルミンはその柔らかな腕を回してくれることはなかった。
離れた体温を追うようにシーツを握って枕を濡らし、やがてジャンは顔を上げた。布団をはね飛ばすと冷えた空気が体を包む。身震いしながら部屋を出た。
アルミンは何を思いながらこの軋む廊下を歩くのだろう。
いつものように建物の影から金木犀の木に視線を向ける。辺りに漂う甘い匂い。その木の下に、月を溶かしたような金髪を風に遊ばせ、アルミンがしゃがみ込んでいる。その髪を砂糖菓子のような金木犀の花が飾っていた。
ジャンは鼻をすすって、アルミンの元に歩み寄る。海を閉じ込めたような濡れた瞳がジャンを見上げた。そばに膝をついて冷えた手を取っても、アルミンは何も言わない。
金木犀もほとんど散った。新しい季節がくるはずなのに、アルミンはジャンを見ようとはしなかった。
冷たい鉄の門を押すと、それは意外にもすんなりとジャンを受け入れた。一歩足を踏み入れると金木犀の香りが強くなる。視線を巡らせた先に見つけたその木の根本に、うずくまる人影を見つけてぎょっとした。恐る恐る近づくと丸まった背はかすかに上下していて、ほっと息を吐く。具合でも悪いのだろうかと肩を軽く叩いてみるが、反応はない。呼吸は規則正しく繰り返されているので、眠っているだけのようだ。
頭の丸みに沿って流れる金の髪を金木犀の小さな花が飾り、どこか甘そうにも見えるその色に手を伸ばす。ジャンの指先に応えるように花が落ち、それを視線で追うと、そこに見つけたサファイアの瞳に息を飲んだ。
丁寧にまばたきをして、彼はジャンを見上げた。腕に顔を半分埋めたまま、濡れた瞳でこちらを見つめている。
「……ジャン・キルシャタイン?」
透き通った声に名前を呼ばれ、ジャンは背筋を伸ばしてややのけぞった。ゆっくり顔を上げてジャンを見たのは、人間ではないように見えるほど、不思議な存在に思える。しかし次の瞬間彼はにこりと笑い、気さくにジャンに手を差し出した。
「ようこそ寄宿舎へ。僕はアルミン・アルレルト。君と同室なんだ、よろしく」
「よっ、よろしく」
「待ってる間に寝ちゃった」
ぱっと立ち上がった彼、アルミンはしゃがんだまたのジャンにも手を差し出した。立ち上がると彼の頭に残る金木犀の花が目についたので、払ってやるとアルミンは驚いて目を丸くする。しかし金木犀に気づき、その花と同じぐらい可憐に笑った。胸が高鳴るのがわかる。新しいルームメイトとは、仲良くできるだろうか。
アルミンは成績優秀な学生だった。クラスの誰もが彼に羨望の眼差しを向け、少々運動が不得手なところもまた愛嬌があった。アルミンがルームメイトであると紹介してくれたお陰で、ジャンはクラスにもすぐ馴染むことができた。
幸い学力も差がつくほどではなく、ジャンはどちらかといえば成績は上位に入った。アルミンとは違いジャンは運動神経もよく、どんなスポーツでも活躍することができた。
アルミンはそれを僻むようなこともなく、ふたりがお互いの不足を補うようになるのは自然な流れだった。いつの間にか、まるで旧知の仲のように息のあったやりとりをするふたりになっていた。ジャンはアルミンに気を許して、何でも相談できる相手だった。
――それでも、アルミンはそうだとは限らなかった。
「アルミン、灯落とすぞ」
「うん」
アルミンはジャンの言葉に素直に頷き、読んでいた本を閉じる。アルミンがベッドに潜り込んだのを確認し、ジャンはランプの小さな炎を消した。訪れる闇の中でジャンは手探りでベッドに戻り、柔らかいシーツに体を預ける。始めのうちはホームシックにもなったが、そのたびアルミンが勇気づけてくれたので、ひとりのベッドも今は寂しくない。
やがて衣擦れの音も聞こえなくなり、静かになった部屋には何の音もしなくなった。ジャンは息を殺し、じっと待つ。
今日は週末だ。いつもの通りなら――小さく、木の軋む音。
やはりいつものように、アルミンがベッドを抜け出した。ジャンを起こさないよう物音を立てず、静かに靴を履いて寝間着のままこっそりと部屋を出ていく。ドアが閉まってかすかな足音も消えてから、ジャンは体を起こした。アルミンが出ていってしまったドアを見て溜息をつく。
週末の夜、アルミンはいつもこうして部屋を抜け出している。初めはトイレにでも行っているのかと思っていたが、しばらく待ってもアルミンは帰ってこなかった。一度追いかけようとしたが、ジャンが部屋を抜け出した頃にはアルミンの姿はどこにもなく、結局朝方までアルミンは戻ってこなかったのだ。今夜もきっと、そうなのだろう。
どこに行っているのか一度問い詰めたことがある。それでも、柔らかい物腰でどこにも行かないと言い張った。あまつさえ、ジャンが夢を見たことにされてしまったのだ。
今日もアルミンは朝まで帰ってこなかった。布団に潜っていたジャンが体を起こすと、さも今起きたばかりだという体でジャンに挨拶をする。もうそれがいつものやりとりになっていた。
「ジャン、今日の予定は?」
「……勉強する」
「僕もそうしようかな。自習室?」
「ああ」
朝食を食べてからふたりで自習室に向かった。寮に作られた自習室は昔は書斎だったのだろう、作りつけの本棚には今でも沢山の本が並べられている。読書家のアルミンのお気に入りの場所だ。他にも生徒がいる中で、ふたりは並んで座った。
「ジャン、ここわかる?」
「どれ」
アルミンが身を乗り出してジャンにもノートを向けた。ふと寄った体から、ふわりと甘い香りがする。それが何か考えてすぐに思い当たった。金木犀だ。
「……アルミン」
「何?」
「……何でもない」
確かに彼から香るのは金木犀だった。
次の週末もやはりアルミンは深夜に部屋を抜け出した。遅れてベッドを出たジャンも、気づかれないようこっそり部屋を出る。
普段は気にならない小さな廊下の軋みが妙に耳につき、それに誘われるように胸が脈打った。アルミンの姿はやはりないが、見当はついている。
――金木犀。
この近くでその匂いを感じることができるのは、この辺りには一ヶ所しかない。
ジャンは慎重に寮を抜け出した。裏口の鍵は開いていて確信する。風の冷たい夜に紛れて裏門に向かった。足音を殺し、建物に隠れてそっと門の方をのぞき込む。
月明かりにシルエットが浮かんでいる。かき乱される金の髪、溶け合うように絡む腕。ひとつになっていた影がゆっくりと離れ、恍惚に満ちたアルミンの表情が影の肩越しに見えた。アルミンの体を抱くその相手は影になって、様子がわからない。
それでも、金木犀の木のそばで微笑むのは、アルミンに間違いなかった。うっとりと目を細め、日に焼けない腕は柔らかく影を抱く。すっかりアルミンを隠してしまうほどの影は優しくアルミンを撫で、その手の中でアルミンは体をよじらせた。
ジャンは指先さえ動かすことができないまま立ち尽くした。そこにある愉悦も快楽も、ジャンは知らない。あんな表情のアルミンを見たことがない。
何かの間違いであれと願うジャンの思いとは裏腹に、小さく漏れた笑い声は、いつも耳にするアルミンの声で間違いなかった。
そのあとどうやって部屋まで戻ったのか、ジャンはよく覚えていない。ただ誰にも咎められなかったので、見つかることなく部屋に戻ったことは確かだろう。
布団に潜ってからも目はさえて、アルミンの顔が浮かんで離れない。その夜は朝まで、アルミンが戻ってくるまで眠ることができなかった。
「おはよう、ジャン。……ジャン?」
「……おはよう」
頭まで布団を被ったまま答えるとアルミンは笑った。どうしたの、今日はお寝坊さんだね。ジャンをからかいながら布団をはぎ、アルミンはジャンの顔を見て驚いた。一睡もしていないジャンは、どんなひどい顔をしているのだろう。
「またホームシックかい?じゃあ今夜は僕が一緒に寝てあげるよ」
優しく母のようにジャンの髪を撫でつけたアルミンからは、金木犀の匂いがした。
その夜、アルミンは宣言通りジャンと共にベッドに入った。睡眠不足とアルミンのことで一日中ぼんやりしていたジャンをいたわって、布団を被ってからもぽんぽんと腹を叩いてくれた。それでもジャンは不安になって、アルミンにねだって手をつないで寝てもらった。笑いながらアルミンが重ねた手はあたたかく、この手が誰かを抱いたなんて嘘のようだった。
次の夜もジャンはアルミンの心配に甘えて一緒に眠った。その次の週末まで、ずっとアルミンの手を握って眠った。甘えっこだね、と笑いながら、アルミンは毎晩ジャンの手を包むようにして眠りについた。
それでも、週末はやはりベッドを抜け出した。ジャンの指を一本ずつゆっくり離し、いつもより殊更慎重にベッドを降りる。アルミンが静かにドアを閉める音を聞きながら、ジャンは悔しさに唇を噛んだ。どんなに優しくても、アルミンは決して自分を選ばない。
自分で傷を抉るように、ジャンもベッドを降りて寮を出た。先日同様にアルミンは金木犀の下で誰かを愛しげに抱いていた。
その次の夜からアルミンを抱いて眠った。初めは戸惑ったアルミンもすぐにジャンにほだされた。そんなに優しく振る舞っても、アルミンはジャンに何も言わなかった。
周囲から親友と呼ばれながらアルミンと過ごす日々はジャンにとって苦痛であった。アルミンは親しげにジャンの名を呼び、アルミンを探す人はジャンに尋ねる。ジャンがどんなに愛しさを込めて名を呼んでも、アルミンがどこにいて何をしているのかわかっても、アルミンにとってジャンは決して特別ではなかった。
週末。
アルミンが抱き締めるジャンの腕から抜け出して、ジャンは泣いた。ジャンがどんなに強く抱いても、アルミンはその柔らかな腕を回してくれることはなかった。
離れた体温を追うようにシーツを握って枕を濡らし、やがてジャンは顔を上げた。布団をはね飛ばすと冷えた空気が体を包む。身震いしながら部屋を出た。
アルミンは何を思いながらこの軋む廊下を歩くのだろう。
いつものように建物の影から金木犀の木に視線を向ける。辺りに漂う甘い匂い。その木の下に、月を溶かしたような金髪を風に遊ばせ、アルミンがしゃがみ込んでいる。その髪を砂糖菓子のような金木犀の花が飾っていた。
ジャンは鼻をすすって、アルミンの元に歩み寄る。海を閉じ込めたような濡れた瞳がジャンを見上げた。そばに膝をついて冷えた手を取っても、アルミンは何も言わない。
金木犀もほとんど散った。新しい季節がくるはずなのに、アルミンはジャンを見ようとはしなかった。
2013'11.22.Fri
命拾いをした、とはまさにこのことだろう。
もはや何が起きたのか、誰も正確につなぎあわせることはできていないかもしれない。ひどく時間のかかった悪夢だった。
「ジャン、どこ行くの?まだ怪我が」
「墓参りだ」
端的なジャンのいらえにアルミンは黙り込んだ。身支度を整えて立ち上がり、ジャンはアルミンを振り返る。
「一緒に行くか?」
女型の巨人が暴れた後の街は悲観に暮れていた。制服を着ていなくともジャンたちは兵士に見えるらしく、ときおり避難めいた視線が向けられる。今背を曲げずに歩けるようなやつは頭がおかしいのかもしれない。
封筒の差出人の住所を見ながら、ジャンはそこに向かっていく。アルミンは黙ってついてきていた。
町の外れは被害もなかったようで、辛気くささはあるものの、町自体に損害はないようだった。スラムとまではいかないが、決して裕福とは言えない辺りだ。見つけ出した小さな家のドアを叩く。少し待って、鮮やかなドレスの女性が顔を出した。家の質素さとは不釣り合いなほど美しいが、ひと目で商売女とわかるそれだった。
なんと名乗るべきか迷ううちに彼女がジャンの手にした封筒に気づき、みるみるうちに涙を浮かべてジャンを抱きしめる。いつか抱いたような女の柔らかさを受け止めて、ジャンもむきだしのその背を撫でた。
「よかった。色々なことがあったから、あんたも壁の外に行ったのかと」
「行きました。でも帰りました」
「そう、喜ぶわ」
女は墓を教えてくれた。それは身内がない者の共同墓地だ。ひとり分の墓ぐらい作ってやれたかもしれない、と思うが、こんな女がいったいどれほどいるのだろう。きりのない話だ。
これから仕事なのだという女と別れ、ジャンは墓地に向かう。
「……誰のお墓?」
「女。お前も見たろ、馬小屋の前で」
アたとルミンが息を飲んだのがわかった。少し考え、慌てて振り返る。
「作戦は関係ない。病気だ」
「……親しかった人、なの」
「ま、墓参りに行ってもいい程度にはな」
「……手ぶらで行く気?」
アルミンに言われて始めて気づいた。野暮な男だと女が笑ったような気がする。途中で花を買いに寄ってから墓地に向かった。急に用意した花束はたかがしれていて、これなら女が笑った方がよほど美しかった。
それは質素なものだった。形ばかりの墓の周りを、どこかで雇われたらしい老婆が掃除している。ジャンたちを見ると愛想笑いもせず姿を消した。
どこの誰ともしれない者と共に眠る女は、どんな夢を見ているのだろう。
柄にもなくそんなことを思うのは、アルミンが長い間手を合わせていたからかもしれなかった。膝をついて、祈るような姿をした横顔を、ジャンはずっと見ていた。まるで壁を守る女神のようだった。疲れのせいか少しくまがある。色づいた唇はかたく閉じられ、まつげだけがかすかに震えた。日に焼けたな、などと、なんと平和なことだろう。
「商売女だ」
ジャンの言葉にアルミンはゆっくりとまぶたを上げた。ジャンを見つめる瞳はいつだって美しい色をたたえ、いつだって心の中を見せなかった。
「でも、幸せになるはずだった女だ。男は調査兵団で、壁の外で死んだらしい。あんなにきれいな体だったのに、知らないままだったんだと」
「抱いたの」
「ああ」
「悲しい?」
「……さあ、どうだろうな」
顔を覆って深く息を吐く。悲しみがこみ上げるほど、あの女のことを知らない。ただ、親友を亡くしたときの絶望を思い出す。あの女がひとりで死んだのかどうか、聞いてみればよかっただろうかと思ったが、それを知ろうとするのはただのジャンのエゴだ。
周りに死が満ちている。もはや何がなんなのか、ジャンには整理ができない。ずっと仲間だと思っていた相手は敵で、そうなると誰を疑ってもきりがない。
もう一度深く息を吐き、アルミンを見る。
「オレは」
その青い瞳はいつも正解を探している。だからつい委ねそうになるのかもしれない。
「お前が調査兵団で、俺も調査兵団でよかった」
「……どうして?」
「死に目にあえる可能性が高くなるだろ」
「馬鹿」
「もう、知らないところで死なれるのはこりごりだ」
「……死にかけたのは、君の方だ」
女は壁の外で死にたかったのだろうか。死期を悟った上で見た景色には、何が見えたのだろう。
「ぼくは」
アルミンは墓を睨んだ。
「また死んだ人に嫉妬している」
小さく名を呼ぶと声はかすれていた。アルミンは黙ってジャンを見る。涼しげに見えて、その青は強い意志でできている。
「ジャン」
その先を、聞く勇気がない。
男が女を抱かなかったのは、きっと
もはや何が起きたのか、誰も正確につなぎあわせることはできていないかもしれない。ひどく時間のかかった悪夢だった。
「ジャン、どこ行くの?まだ怪我が」
「墓参りだ」
端的なジャンのいらえにアルミンは黙り込んだ。身支度を整えて立ち上がり、ジャンはアルミンを振り返る。
「一緒に行くか?」
女型の巨人が暴れた後の街は悲観に暮れていた。制服を着ていなくともジャンたちは兵士に見えるらしく、ときおり避難めいた視線が向けられる。今背を曲げずに歩けるようなやつは頭がおかしいのかもしれない。
封筒の差出人の住所を見ながら、ジャンはそこに向かっていく。アルミンは黙ってついてきていた。
町の外れは被害もなかったようで、辛気くささはあるものの、町自体に損害はないようだった。スラムとまではいかないが、決して裕福とは言えない辺りだ。見つけ出した小さな家のドアを叩く。少し待って、鮮やかなドレスの女性が顔を出した。家の質素さとは不釣り合いなほど美しいが、ひと目で商売女とわかるそれだった。
なんと名乗るべきか迷ううちに彼女がジャンの手にした封筒に気づき、みるみるうちに涙を浮かべてジャンを抱きしめる。いつか抱いたような女の柔らかさを受け止めて、ジャンもむきだしのその背を撫でた。
「よかった。色々なことがあったから、あんたも壁の外に行ったのかと」
「行きました。でも帰りました」
「そう、喜ぶわ」
女は墓を教えてくれた。それは身内がない者の共同墓地だ。ひとり分の墓ぐらい作ってやれたかもしれない、と思うが、こんな女がいったいどれほどいるのだろう。きりのない話だ。
これから仕事なのだという女と別れ、ジャンは墓地に向かう。
「……誰のお墓?」
「女。お前も見たろ、馬小屋の前で」
アたとルミンが息を飲んだのがわかった。少し考え、慌てて振り返る。
「作戦は関係ない。病気だ」
「……親しかった人、なの」
「ま、墓参りに行ってもいい程度にはな」
「……手ぶらで行く気?」
アルミンに言われて始めて気づいた。野暮な男だと女が笑ったような気がする。途中で花を買いに寄ってから墓地に向かった。急に用意した花束はたかがしれていて、これなら女が笑った方がよほど美しかった。
それは質素なものだった。形ばかりの墓の周りを、どこかで雇われたらしい老婆が掃除している。ジャンたちを見ると愛想笑いもせず姿を消した。
どこの誰ともしれない者と共に眠る女は、どんな夢を見ているのだろう。
柄にもなくそんなことを思うのは、アルミンが長い間手を合わせていたからかもしれなかった。膝をついて、祈るような姿をした横顔を、ジャンはずっと見ていた。まるで壁を守る女神のようだった。疲れのせいか少しくまがある。色づいた唇はかたく閉じられ、まつげだけがかすかに震えた。日に焼けたな、などと、なんと平和なことだろう。
「商売女だ」
ジャンの言葉にアルミンはゆっくりとまぶたを上げた。ジャンを見つめる瞳はいつだって美しい色をたたえ、いつだって心の中を見せなかった。
「でも、幸せになるはずだった女だ。男は調査兵団で、壁の外で死んだらしい。あんなにきれいな体だったのに、知らないままだったんだと」
「抱いたの」
「ああ」
「悲しい?」
「……さあ、どうだろうな」
顔を覆って深く息を吐く。悲しみがこみ上げるほど、あの女のことを知らない。ただ、親友を亡くしたときの絶望を思い出す。あの女がひとりで死んだのかどうか、聞いてみればよかっただろうかと思ったが、それを知ろうとするのはただのジャンのエゴだ。
周りに死が満ちている。もはや何がなんなのか、ジャンには整理ができない。ずっと仲間だと思っていた相手は敵で、そうなると誰を疑ってもきりがない。
もう一度深く息を吐き、アルミンを見る。
「オレは」
その青い瞳はいつも正解を探している。だからつい委ねそうになるのかもしれない。
「お前が調査兵団で、俺も調査兵団でよかった」
「……どうして?」
「死に目にあえる可能性が高くなるだろ」
「馬鹿」
「もう、知らないところで死なれるのはこりごりだ」
「……死にかけたのは、君の方だ」
女は壁の外で死にたかったのだろうか。死期を悟った上で見た景色には、何が見えたのだろう。
「ぼくは」
アルミンは墓を睨んだ。
「また死んだ人に嫉妬している」
小さく名を呼ぶと声はかすれていた。アルミンは黙ってジャンを見る。涼しげに見えて、その青は強い意志でできている。
「ジャン」
その先を、聞く勇気がない。
男が女を抱かなかったのは、きっと
2013'11.21.Thu
「メアリー出るぞー」
「はぁい」
浴室からの声に片づけの手を止めて、アルミンは立ち上がった。アルミンが向かうより早くびしょ濡れのまま飛び出してきた娘に、慌ててバスタオルを広げて元気な体を捕まえる。じっとしていられない小さな娘はけらけら笑い声をあげて、アルミンの手から抜け出そうと身をよじらせた。
しかしアルミンも逃がしてやるわけにはいかなかった。濡れた足で走り出した彼女が、滑ってころんでたんこぶをこさえたことはまだ記憶に新しい。
「待って、メアリー。また頭ごっちんするよ」
「やぁー」
「もう、ちょっと!」
翻弄される母親の様子に、浴室から笑い声がする。笑い事じゃないんですけど、とドアを見るが、加工されたガラスの向こうをいくら睨んでも仕方ない。
「あっ!」
油断した隙に娘が裸のまま走り出した。足の裏は拭いたが、テンションの上がった彼女を自由にさせるわけにはいかない。すぐに追いかけ、柔らかい体を抱き上げる。どうにか服を着せてるうちにジャンも風呂から上がってきたようだ。
「お先!」
「はーい、ありがとう。メアリー!もうちょっと待って!」
逃げ出した娘にオムツは履かせたがズボンがまだだ。ジャンが笑いながら捕まえて、その間にアルミンがじたばたしている足を押さえて無事にパジャマを着せた。
アルミンと違ってジャンは風呂の間もよく遊んでくれるので、ジャンが入れたときはいつもこうなる。パジャマを着てもなお暴れているメアリーをくすぐっているジャンもまだ上半身は裸のままだ。
「風邪ひくよ」
「遊んでたらのぼせた」
「ちょっと、せっかくお風呂入ったのに汗かいちゃう」
「ママはうるさいなー」
「何それ」
いちゃいちゃしてる父子に呆れ、アルミンはテーブルの片づけに戻った。メアリーの食事のあとは壮絶だ。
泣くことが仕事だった頃から考えると、メアリーは随分人らしくなった。自分の手足で動き回れるようになってからはそれが顕著に現れ、好き嫌いも見せるようになっている。
「あーあ、いつまで一緒に風呂なんか入れんのかな」
「あっという間かもね、女の子だし」
「やだなー」
「気が早いよ」
「わかんねぇよ、幼稚園なんか行くようになったらすぐに好きな子ができてさぁ、紹介されたらオレ泣く自信あるわ」
「早いって。……まあ、誰かさんみたいな意地悪な子にいじめられることはあるかもしれないけどね?」
「メアリーは誰かさんみたいな泣き虫でもないし鈍くさくもないから大丈夫だ」
「もう!」
アルミンが怒ってみせるとジャンは笑い、一緒にメアリーもけらけらわらった。
ジャンとアルミンは幼稚園からのつき合いだ。とはいえアルミンにはジャンにいじめられていた記憶が何よりも濃く、どうして彼を好きになったのか、結婚した今でもわからなくなることがある。ジャンの方はといえば、成人してしばらく経つまでアルミンを女として見ていなかった。
「アルミンも行ってこいよ」
「うん」
ジャンが見てくれている間にアルミンもお風呂に向かう。ゆっくり湯船につかり、深く息を吐いた。メアリーと一緒だと忙しなく、なかなかじっくり湯に浸かることができないのだ。
部屋からメアリーの声が聞こえなくなった。はしゃぎ疲れたのだろう。
子どもは日に日に成長する。ジャンではないが、きっとあっという間に大きくなるのだろう。
「アルミン」
「何?」
ガラスがノックされたかと思えば、すぐにドアが開けられた。アルミンがぎょっとしたのはそれだけではなく、ドアを開けたジャンが裸だったからだ。
「ちょっと!」
「しっ!寝たから!ちょっとだけ!」
「何がちょっと!?」
アルミンの制止も聞かずに浴室に入ってきたジャンは、アルミンの背を押してそそくさとバスタブに侵入する。逃げようとしたアルミンはすぐに長い腕に絡めとられ、結局ジャンの足の間に座らされた。背中側から抱き締めてくるジャンの唇がうなじに触れ、太股をつねって抵抗する。
「いいだろたまには」
「あのねぇ……」
「何のための広い風呂なをだよ」
「体を伸ばすためだよ」
そっけなく答えるがジャンは気にした様子もなく、アルミンの膝を撫でた。
「……何もしないからね」
「わかってるよ」
言いながら胸をまさぐってくるジャンの手を引きはがす。ただのいたずらとばかりに無邪気に笑うジャンを睨むがあまり効果はなさそうだ。わざと大きく溜息をつく。
どきどきしていることを悟られぬよう、アルミンは精一杯振る舞っていた。
「はぁい」
浴室からの声に片づけの手を止めて、アルミンは立ち上がった。アルミンが向かうより早くびしょ濡れのまま飛び出してきた娘に、慌ててバスタオルを広げて元気な体を捕まえる。じっとしていられない小さな娘はけらけら笑い声をあげて、アルミンの手から抜け出そうと身をよじらせた。
しかしアルミンも逃がしてやるわけにはいかなかった。濡れた足で走り出した彼女が、滑ってころんでたんこぶをこさえたことはまだ記憶に新しい。
「待って、メアリー。また頭ごっちんするよ」
「やぁー」
「もう、ちょっと!」
翻弄される母親の様子に、浴室から笑い声がする。笑い事じゃないんですけど、とドアを見るが、加工されたガラスの向こうをいくら睨んでも仕方ない。
「あっ!」
油断した隙に娘が裸のまま走り出した。足の裏は拭いたが、テンションの上がった彼女を自由にさせるわけにはいかない。すぐに追いかけ、柔らかい体を抱き上げる。どうにか服を着せてるうちにジャンも風呂から上がってきたようだ。
「お先!」
「はーい、ありがとう。メアリー!もうちょっと待って!」
逃げ出した娘にオムツは履かせたがズボンがまだだ。ジャンが笑いながら捕まえて、その間にアルミンがじたばたしている足を押さえて無事にパジャマを着せた。
アルミンと違ってジャンは風呂の間もよく遊んでくれるので、ジャンが入れたときはいつもこうなる。パジャマを着てもなお暴れているメアリーをくすぐっているジャンもまだ上半身は裸のままだ。
「風邪ひくよ」
「遊んでたらのぼせた」
「ちょっと、せっかくお風呂入ったのに汗かいちゃう」
「ママはうるさいなー」
「何それ」
いちゃいちゃしてる父子に呆れ、アルミンはテーブルの片づけに戻った。メアリーの食事のあとは壮絶だ。
泣くことが仕事だった頃から考えると、メアリーは随分人らしくなった。自分の手足で動き回れるようになってからはそれが顕著に現れ、好き嫌いも見せるようになっている。
「あーあ、いつまで一緒に風呂なんか入れんのかな」
「あっという間かもね、女の子だし」
「やだなー」
「気が早いよ」
「わかんねぇよ、幼稚園なんか行くようになったらすぐに好きな子ができてさぁ、紹介されたらオレ泣く自信あるわ」
「早いって。……まあ、誰かさんみたいな意地悪な子にいじめられることはあるかもしれないけどね?」
「メアリーは誰かさんみたいな泣き虫でもないし鈍くさくもないから大丈夫だ」
「もう!」
アルミンが怒ってみせるとジャンは笑い、一緒にメアリーもけらけらわらった。
ジャンとアルミンは幼稚園からのつき合いだ。とはいえアルミンにはジャンにいじめられていた記憶が何よりも濃く、どうして彼を好きになったのか、結婚した今でもわからなくなることがある。ジャンの方はといえば、成人してしばらく経つまでアルミンを女として見ていなかった。
「アルミンも行ってこいよ」
「うん」
ジャンが見てくれている間にアルミンもお風呂に向かう。ゆっくり湯船につかり、深く息を吐いた。メアリーと一緒だと忙しなく、なかなかじっくり湯に浸かることができないのだ。
部屋からメアリーの声が聞こえなくなった。はしゃぎ疲れたのだろう。
子どもは日に日に成長する。ジャンではないが、きっとあっという間に大きくなるのだろう。
「アルミン」
「何?」
ガラスがノックされたかと思えば、すぐにドアが開けられた。アルミンがぎょっとしたのはそれだけではなく、ドアを開けたジャンが裸だったからだ。
「ちょっと!」
「しっ!寝たから!ちょっとだけ!」
「何がちょっと!?」
アルミンの制止も聞かずに浴室に入ってきたジャンは、アルミンの背を押してそそくさとバスタブに侵入する。逃げようとしたアルミンはすぐに長い腕に絡めとられ、結局ジャンの足の間に座らされた。背中側から抱き締めてくるジャンの唇がうなじに触れ、太股をつねって抵抗する。
「いいだろたまには」
「あのねぇ……」
「何のための広い風呂なをだよ」
「体を伸ばすためだよ」
そっけなく答えるがジャンは気にした様子もなく、アルミンの膝を撫でた。
「……何もしないからね」
「わかってるよ」
言いながら胸をまさぐってくるジャンの手を引きはがす。ただのいたずらとばかりに無邪気に笑うジャンを睨むがあまり効果はなさそうだ。わざと大きく溜息をつく。
どきどきしていることを悟られぬよう、アルミンは精一杯振る舞っていた。
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