言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'09.25.Wed
男か女かわかんない感じだけどおっぱいの話もするよ。
「メアリー!ちゃんとおっちんして」
「やー」
「やーじゃないの」
すぐに机から離れて行ってしまう娘に溜息をつき、アルミンは立ち上がって迎えに行く。抱き上げるとはしゃいだ声を上げる娘に毒気はなくて、つい許してしまいそうになるがそれとこれとは別の話だ。
机に戻って膝の上に座らせて、食事のトレイを引き寄せる。
「遊ぶのはご飯食べてからね。メアリーの好きなお魚さんだよー」
口元にスプーンを持って行けば口は開く。しかしメアリーの視線はあちこちといろんなものに注がれていて、職に興味を持つのはまださきだなぁ、と苦笑した。
「うー」
「これ?スプーン。おもちゃじゃないよー」
「あー」
「ああ」
スプーンを取られてしまい、諦めて皿を確認する。これだけ食べていればもう十分か、と思うことにして、スプーンを舐めているメアリーを見た。
「スプーン、おいしい?お母さんはご飯を食べてほしいんだけどなぁ」
新しいおもちゃをメアリーは気に入ったようで、あまり喉の奥に入れないようにだけ気をつけて見ながら好きにさせた。すぐに飽きてしまうことはもうよくわかっている。
「ただいま!」
「あ、メアリー、パパが帰ってきたよ」
玄関の音に、スプーンをくわえたままメアリーはそちらを見る。仕事を終えたジャンが帰ってきた。もうそんな時間なのか、と少し焦った。ジャンの夕食はまだ完成していない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「いい子にしてたか?」
荷物を置くのももどかしく、ジャンは可愛い娘の額を撫でる。隣のアルミンにも額を寄せて、そんな些細なことに日々の幸せを確認できる自分は簡単なのかもしれない。
「ごめん、お鍋火をつけてくれる?もうちょっと煮込めばできるから」
「わかった」
台所にジャンが向かい、アルミンも机を片づけ始めた。子どもの食事は気をつけていても散らかってしまう。
「メアリー、スプーンちょうだい。ちょーだい」
手のひらを向けるとメアリーは空いてる手でそれを叩いた。これではお手だ。笑って彼女の手からスプーンを取ると顔をしかめて泣きそうになる。とはいえ彼女は最近泣くふりを覚えたので、かわいらしい唸り声がするだけだ。
「メアリー」
ぷわん、と気の抜けた音がする。振り返るとジャンが黄色の鮮やかな小さなラッパを手にしていた。彼の大きな手とは不釣り合いなそれを彼が吹くと、メアリーは目を輝かせてアルミンの膝を降りていく。おしめで膨らんだお尻を揺らし、ぽたぽたと父親の元に向かっていく姿に思わず顔を緩めた。
「ジャン、もうおもちゃ増やすのやめてよ」
「小さいのだからいいだろ」
ジャンがメアリーにそれを渡すと、はしゃいだ彼女はラッパを吹かずに振り回した。使い方が違う、と笑うジャンにもっと厳しく言いたいところだが、結局ほだされてしまいいつもアルミンの言葉は力を持たない。娘がかわいいのはアルミンも同じことで、何よりもジャンが娘に向けるあの優しいまなざしが好きだった。
この間に食事の用意をしようとトレイを持って立ち上がる。メアリーの残した食事はそのまま食べてしまい、食器を置いて鍋をかき交ぜた。味見をして火を止める。ジャンがメアリーと遊んでいる間に食事をテーブルに並べ、用意ができてから交代しにそばへ寄った。
「ジャン、ご飯食べて」
「お前は?」
「メアリーと一緒に食べたよ。メアリー、お風呂いこっか」
「えー、オレ行きたい」
「じゃあご飯食べちゃって」
「はいよ」
ひょいとジャンは立ち上がって机に向かった。それを笑って、メアリーがすでに飽きて手放しているラッパを取る。滑らかな子ども向けのおもちゃはそれだけでかわいらしいが、きっとそう思うのは大人だけだ。
「メアリーいいねえ、ラッパだよー。吹いてご覧」
「うぶ」
「うーん、どうやら取っ手の方が美味しいみたい」
「ははっ」
抱き上げてジャンの向かいに一緒に座る。メアリーが皿に手を伸ばそうとするのでジャンが慌てて引き寄せた。
「あー!」
「怒ったー」
「あー、これやる、これ」
ジャンがすぐに小鉢を平らげて、メアリーに渡す。厚めの焼き物だから大丈夫だろうと思ったが、振り上げてテーブルに叩きつけようとするので慌ててアルミンが取り上げた。
「やー!」
途端に顔をくしゃくしゃにして泣き出すメアリーに、ジャンも悲しい顔をした。それにアルミンは笑ってしまう。もう一度ラッパを渡してみるが、すぐに床に投げてしまった。
「駄目だって。お風呂行くね」
「クソ、行ってらっしゃい」
「メアリーお風呂行こう!あひるさんと遊ぼうねー」
メアリーの手を取り、ジャンに向けて振ると悔しそうな顔をする。仕事の都合ですれ違いの多いジャンだが、それでも子どもができてから随分と努力して早く帰ってきてくれるようになった。その気持ちだけで十分だ。
アルミンが笑っているとどう思ったのか、ジャンは不機嫌そうに何だよ、と聞いてくる。
「好きだなぁと思って」
「ばっ……馬鹿じゃねえの、早くいけよ!」
「はーい」
可愛い旦那様に手を振って、アルミンはメアリーと浴室に向かった。
*
珍しくメアリーが夜泣きをした。生まれたばかりの頃でもほとんど夜泣きをしなかったメアリーだが、今日は何がどう違うのか、一度起きてしまってからずっとぐずっている。火がついたような大泣きではないが、子どもの高い声に心配している間にジャンも起きてしまった。泣きじゃくるメアリーを抱いて、アルミンはベッドを降りる。
「ごめん、ジャンは寝てて」
「ん……大丈夫か?」
「うん、多分おっぱいあげたら落ち着くから」
寝ぼけ眼のジャンの額にキスを残して、アルミンはそっと寝室を出た。もうほとんど乳離れは済んだのであまり出ないが、こういう時には落ち着いてくれるのでありがたい。
リビングのソファーでパジャマを寛げ、乳首をくわえさせるとやはり落ち着いてくれる。昼寝もいつも通りしたのになぁ、と考えていると、ジャンが起きてきて隣に座った。
「寝てていいのに」
「目が覚めた」
「ごめん」
「メアリーだって泣きたい夜ぐらいあるよな」
「何言ってんの」
娘の頬をつつくジャンに思わず笑ってしまう。眠そうに欠伸を噛み殺しながら、何を言っているのだろう。
娘の滑らかな肌を撫でていた指先が、不意にアルミンの胸に触れて飛び上がる。
「ちょっと!」
「短かったなーおっぱいのある生活……」
「……悪かったね」
ジャンの手を払いのけて睨んでやるが、少し覚醒したらしいジャンは意地悪だ。アルミンの腿をするりと撫でて、首元に顔を寄せてくる。
「ふたり目ができりゃ、また堪能できんのかな」
「馬鹿!」
「メアリー!ちゃんとおっちんして」
「やー」
「やーじゃないの」
すぐに机から離れて行ってしまう娘に溜息をつき、アルミンは立ち上がって迎えに行く。抱き上げるとはしゃいだ声を上げる娘に毒気はなくて、つい許してしまいそうになるがそれとこれとは別の話だ。
机に戻って膝の上に座らせて、食事のトレイを引き寄せる。
「遊ぶのはご飯食べてからね。メアリーの好きなお魚さんだよー」
口元にスプーンを持って行けば口は開く。しかしメアリーの視線はあちこちといろんなものに注がれていて、職に興味を持つのはまださきだなぁ、と苦笑した。
「うー」
「これ?スプーン。おもちゃじゃないよー」
「あー」
「ああ」
スプーンを取られてしまい、諦めて皿を確認する。これだけ食べていればもう十分か、と思うことにして、スプーンを舐めているメアリーを見た。
「スプーン、おいしい?お母さんはご飯を食べてほしいんだけどなぁ」
新しいおもちゃをメアリーは気に入ったようで、あまり喉の奥に入れないようにだけ気をつけて見ながら好きにさせた。すぐに飽きてしまうことはもうよくわかっている。
「ただいま!」
「あ、メアリー、パパが帰ってきたよ」
玄関の音に、スプーンをくわえたままメアリーはそちらを見る。仕事を終えたジャンが帰ってきた。もうそんな時間なのか、と少し焦った。ジャンの夕食はまだ完成していない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「いい子にしてたか?」
荷物を置くのももどかしく、ジャンは可愛い娘の額を撫でる。隣のアルミンにも額を寄せて、そんな些細なことに日々の幸せを確認できる自分は簡単なのかもしれない。
「ごめん、お鍋火をつけてくれる?もうちょっと煮込めばできるから」
「わかった」
台所にジャンが向かい、アルミンも机を片づけ始めた。子どもの食事は気をつけていても散らかってしまう。
「メアリー、スプーンちょうだい。ちょーだい」
手のひらを向けるとメアリーは空いてる手でそれを叩いた。これではお手だ。笑って彼女の手からスプーンを取ると顔をしかめて泣きそうになる。とはいえ彼女は最近泣くふりを覚えたので、かわいらしい唸り声がするだけだ。
「メアリー」
ぷわん、と気の抜けた音がする。振り返るとジャンが黄色の鮮やかな小さなラッパを手にしていた。彼の大きな手とは不釣り合いなそれを彼が吹くと、メアリーは目を輝かせてアルミンの膝を降りていく。おしめで膨らんだお尻を揺らし、ぽたぽたと父親の元に向かっていく姿に思わず顔を緩めた。
「ジャン、もうおもちゃ増やすのやめてよ」
「小さいのだからいいだろ」
ジャンがメアリーにそれを渡すと、はしゃいだ彼女はラッパを吹かずに振り回した。使い方が違う、と笑うジャンにもっと厳しく言いたいところだが、結局ほだされてしまいいつもアルミンの言葉は力を持たない。娘がかわいいのはアルミンも同じことで、何よりもジャンが娘に向けるあの優しいまなざしが好きだった。
この間に食事の用意をしようとトレイを持って立ち上がる。メアリーの残した食事はそのまま食べてしまい、食器を置いて鍋をかき交ぜた。味見をして火を止める。ジャンがメアリーと遊んでいる間に食事をテーブルに並べ、用意ができてから交代しにそばへ寄った。
「ジャン、ご飯食べて」
「お前は?」
「メアリーと一緒に食べたよ。メアリー、お風呂いこっか」
「えー、オレ行きたい」
「じゃあご飯食べちゃって」
「はいよ」
ひょいとジャンは立ち上がって机に向かった。それを笑って、メアリーがすでに飽きて手放しているラッパを取る。滑らかな子ども向けのおもちゃはそれだけでかわいらしいが、きっとそう思うのは大人だけだ。
「メアリーいいねえ、ラッパだよー。吹いてご覧」
「うぶ」
「うーん、どうやら取っ手の方が美味しいみたい」
「ははっ」
抱き上げてジャンの向かいに一緒に座る。メアリーが皿に手を伸ばそうとするのでジャンが慌てて引き寄せた。
「あー!」
「怒ったー」
「あー、これやる、これ」
ジャンがすぐに小鉢を平らげて、メアリーに渡す。厚めの焼き物だから大丈夫だろうと思ったが、振り上げてテーブルに叩きつけようとするので慌ててアルミンが取り上げた。
「やー!」
途端に顔をくしゃくしゃにして泣き出すメアリーに、ジャンも悲しい顔をした。それにアルミンは笑ってしまう。もう一度ラッパを渡してみるが、すぐに床に投げてしまった。
「駄目だって。お風呂行くね」
「クソ、行ってらっしゃい」
「メアリーお風呂行こう!あひるさんと遊ぼうねー」
メアリーの手を取り、ジャンに向けて振ると悔しそうな顔をする。仕事の都合ですれ違いの多いジャンだが、それでも子どもができてから随分と努力して早く帰ってきてくれるようになった。その気持ちだけで十分だ。
アルミンが笑っているとどう思ったのか、ジャンは不機嫌そうに何だよ、と聞いてくる。
「好きだなぁと思って」
「ばっ……馬鹿じゃねえの、早くいけよ!」
「はーい」
可愛い旦那様に手を振って、アルミンはメアリーと浴室に向かった。
*
珍しくメアリーが夜泣きをした。生まれたばかりの頃でもほとんど夜泣きをしなかったメアリーだが、今日は何がどう違うのか、一度起きてしまってからずっとぐずっている。火がついたような大泣きではないが、子どもの高い声に心配している間にジャンも起きてしまった。泣きじゃくるメアリーを抱いて、アルミンはベッドを降りる。
「ごめん、ジャンは寝てて」
「ん……大丈夫か?」
「うん、多分おっぱいあげたら落ち着くから」
寝ぼけ眼のジャンの額にキスを残して、アルミンはそっと寝室を出た。もうほとんど乳離れは済んだのであまり出ないが、こういう時には落ち着いてくれるのでありがたい。
リビングのソファーでパジャマを寛げ、乳首をくわえさせるとやはり落ち着いてくれる。昼寝もいつも通りしたのになぁ、と考えていると、ジャンが起きてきて隣に座った。
「寝てていいのに」
「目が覚めた」
「ごめん」
「メアリーだって泣きたい夜ぐらいあるよな」
「何言ってんの」
娘の頬をつつくジャンに思わず笑ってしまう。眠そうに欠伸を噛み殺しながら、何を言っているのだろう。
娘の滑らかな肌を撫でていた指先が、不意にアルミンの胸に触れて飛び上がる。
「ちょっと!」
「短かったなーおっぱいのある生活……」
「……悪かったね」
ジャンの手を払いのけて睨んでやるが、少し覚醒したらしいジャンは意地悪だ。アルミンの腿をするりと撫でて、首元に顔を寄せてくる。
「ふたり目ができりゃ、また堪能できんのかな」
「馬鹿!」
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2013'09.22.Sun
「もうやだ」
「……やだって言われても」
「もう嫌だ。無理です。耐えられない。笠井くんが優しく抱きしめて頑張って下さいって言ってくれないと俺はもうキーボードを叩けない」
「じゃあ諦めて単位落とすんですね」
「鬼かッ」
背後でだらだらしている笠井を睨みつければ、きょとんとしたあと、にっこりと笑う。
「かわいい恋人になんてことを。レポートが終わらなくてデートドタキャンされて、それでもレポートが終わるまで健気に待ってくれてるなんて、俺なら絶対手放しませんよ」
「……すみませんでした」
「いいえ、慣れてますから」
澄まして麦茶を飲む笠井を見て、三上は肩を落とす。そう言われてしまえばその通りなのだ。確かに昨日中に終わらせておく予定だったレポートを今日まで引きずっているのは自分のせいで、揚句徹夜で早朝まで続けていたらいつの間にか眠っており、笠井には何も連絡をしていなかった。待ち合わせしていた時間になっても現れない三上を待つことはせず、すぐに三上のアパートにやってきた笠井はもったいないほどよくできた恋人である。
「ほら、もう1時ですよ。メール提出とはいえ2時までなんでしょ」
「ぐうう……」
「もー、どうせほとんどできてるんでしょ?あと一息じゃないですか」
「まとまんねえんだよ」
「行き当たりばったり」
「うるせえ」
「……ははっ」
「何だよ」
「三上先輩、いっつも変わんないね」
「はぁ?」
「何してるときでも、一回投げ出そうとしますよね」
「……そうか?」
「諦めるでしょ」
「……」
「でも、諦めてからやる気に火が着くの。違います?」
笠井はひどく楽しげだ。改めて言葉にされると何と返せばいいのかわからない。それは自分でもうすうす感じていたことで、要するに負けず嫌いなのだろうと思う。しかしわかった風の笠井は気に食わない。
三上が再びパソコン向き直ると笠井は大人しくなった。さっき三上のスマートフォンを奪っていったのでゲームでもしているのだろう。本人は未だに古い携帯で粘っている。
頭の中に浮かんでいた結論をどうにか言葉にまとめ、後は数度確認した。字数を勘違いしていないことを確認し、最後に忘れてはいけないひと仕事。教授へのメールにレポートのファイルがちゃんと添付されているかを確認した後、送信ボタンを押した。ぱっと画面が切り替わり、メールが正しく送信されたことを知らせる。メール提出と言う素晴らしい仕組みを作り上げた文明に感謝して、大きくガッツポーズを決めた。
どうだ、とばかりに笠井を振り返れば、いつの間にか床に転がって丸くなっている。顔を隠すように小さくなってしまっているが、これは完全に寝入ってしまっているだろう。そっと腕をどけてみると、予想通り気持ちよさそうに眠る笠井に溜息をついた。悪いのは自分だ。わかっていても、少々不満は残る。頬をつついたり肩を叩いたりしてみるが起きそうにもない。
諦めて、一息つこうと立ち上がる。ずっとクーラーをかけていた室内では夏であることも忘れていたが、窓越しに蝉の鳴き声が聞こえてくる。麦茶を入れて部屋に戻り、笠井の側にしゃがんでむき出しの足に触れた。クーラーですっかり冷えてしまって冷たくなっていて、タオルケットを引っ張って下半身にかけてやる。
開いたままのパソコンで、笠井が見たいと言っていた、今日見に行く予定だった映画の時間を調べた。レイトショーもあることを確認する。辺りを探し、笠井が持ったままであることを思い出してその手からスマートフォンを取り返した。
身動きひとつせず眠る姿は昔から変わらない。レイトショーに間に合う頃に起こせばいいだろう。手放していた間の着信などを確認しながら、三上も隣に横になる。
これから夏が始まる。友人たちとはバイトの合間の遊びの予定をいろいろたてたが、笠井とは何の約束もしていない。笠井からも特に何も言ってくることはなく、改めてどこかにと思っても、今更特別笠井と行きたいと思うような場所もなかった。なんだかんだとつき合いは長く、ネタが尽きた、とでもいうのかもしれない。
きっとこの夏も季節など関係なく、どちらかの家でこうしてだらけていることがほとんどになるような気がした。
それとも、言わないだけで笠井は何か思っているのだろうか。言葉の足りない男だと知ってはいるが、三上はいつも見逃してしまう。
何か夏らしいことに誘おうか。
特に何も思いつかないまま、三上もゆっくりと眠りに落ちていった。
「……やだって言われても」
「もう嫌だ。無理です。耐えられない。笠井くんが優しく抱きしめて頑張って下さいって言ってくれないと俺はもうキーボードを叩けない」
「じゃあ諦めて単位落とすんですね」
「鬼かッ」
背後でだらだらしている笠井を睨みつければ、きょとんとしたあと、にっこりと笑う。
「かわいい恋人になんてことを。レポートが終わらなくてデートドタキャンされて、それでもレポートが終わるまで健気に待ってくれてるなんて、俺なら絶対手放しませんよ」
「……すみませんでした」
「いいえ、慣れてますから」
澄まして麦茶を飲む笠井を見て、三上は肩を落とす。そう言われてしまえばその通りなのだ。確かに昨日中に終わらせておく予定だったレポートを今日まで引きずっているのは自分のせいで、揚句徹夜で早朝まで続けていたらいつの間にか眠っており、笠井には何も連絡をしていなかった。待ち合わせしていた時間になっても現れない三上を待つことはせず、すぐに三上のアパートにやってきた笠井はもったいないほどよくできた恋人である。
「ほら、もう1時ですよ。メール提出とはいえ2時までなんでしょ」
「ぐうう……」
「もー、どうせほとんどできてるんでしょ?あと一息じゃないですか」
「まとまんねえんだよ」
「行き当たりばったり」
「うるせえ」
「……ははっ」
「何だよ」
「三上先輩、いっつも変わんないね」
「はぁ?」
「何してるときでも、一回投げ出そうとしますよね」
「……そうか?」
「諦めるでしょ」
「……」
「でも、諦めてからやる気に火が着くの。違います?」
笠井はひどく楽しげだ。改めて言葉にされると何と返せばいいのかわからない。それは自分でもうすうす感じていたことで、要するに負けず嫌いなのだろうと思う。しかしわかった風の笠井は気に食わない。
三上が再びパソコン向き直ると笠井は大人しくなった。さっき三上のスマートフォンを奪っていったのでゲームでもしているのだろう。本人は未だに古い携帯で粘っている。
頭の中に浮かんでいた結論をどうにか言葉にまとめ、後は数度確認した。字数を勘違いしていないことを確認し、最後に忘れてはいけないひと仕事。教授へのメールにレポートのファイルがちゃんと添付されているかを確認した後、送信ボタンを押した。ぱっと画面が切り替わり、メールが正しく送信されたことを知らせる。メール提出と言う素晴らしい仕組みを作り上げた文明に感謝して、大きくガッツポーズを決めた。
どうだ、とばかりに笠井を振り返れば、いつの間にか床に転がって丸くなっている。顔を隠すように小さくなってしまっているが、これは完全に寝入ってしまっているだろう。そっと腕をどけてみると、予想通り気持ちよさそうに眠る笠井に溜息をついた。悪いのは自分だ。わかっていても、少々不満は残る。頬をつついたり肩を叩いたりしてみるが起きそうにもない。
諦めて、一息つこうと立ち上がる。ずっとクーラーをかけていた室内では夏であることも忘れていたが、窓越しに蝉の鳴き声が聞こえてくる。麦茶を入れて部屋に戻り、笠井の側にしゃがんでむき出しの足に触れた。クーラーですっかり冷えてしまって冷たくなっていて、タオルケットを引っ張って下半身にかけてやる。
開いたままのパソコンで、笠井が見たいと言っていた、今日見に行く予定だった映画の時間を調べた。レイトショーもあることを確認する。辺りを探し、笠井が持ったままであることを思い出してその手からスマートフォンを取り返した。
身動きひとつせず眠る姿は昔から変わらない。レイトショーに間に合う頃に起こせばいいだろう。手放していた間の着信などを確認しながら、三上も隣に横になる。
これから夏が始まる。友人たちとはバイトの合間の遊びの予定をいろいろたてたが、笠井とは何の約束もしていない。笠井からも特に何も言ってくることはなく、改めてどこかにと思っても、今更特別笠井と行きたいと思うような場所もなかった。なんだかんだとつき合いは長く、ネタが尽きた、とでもいうのかもしれない。
きっとこの夏も季節など関係なく、どちらかの家でこうしてだらけていることがほとんどになるような気がした。
それとも、言わないだけで笠井は何か思っているのだろうか。言葉の足りない男だと知ってはいるが、三上はいつも見逃してしまう。
何か夏らしいことに誘おうか。
特に何も思いつかないまま、三上もゆっくりと眠りに落ちていった。
2013'09.21.Sat
「あれ、メアリー、くっくどこやったの?」
「あー」
「君はお靴嫌いだねえ」
散歩から帰ってきた娘を抱き上げて、その小さな足の裏を払う。この間掴まり立ちをしたと思えばあっという間に歩き始めた。運動神経がいいのは父親譲りだろうかと微笑ましく思ったのも束の間、どうも窮屈なのか、よく自分で靴を脱いでしまう。メアリーの後ろからついてきたジャンが、娘の靴を手にしていた。ジャンの手におさまってしまうほどのそれは、まるでままごとのおもちゃのようだ。きっとすぐに大きくなってはけなくなってしまうのだろうが、それも愛おしい。
「器用だなぁお前、こんなちっちゃい手で」
「メアリー、くっく嫌?かわいいのにー」
「ぶー」
「嫌のー。でもお靴ははいててほしいなぁ。掃除はしてるけど」
額を合わせるとはしゃいで笑う。汗をかいた幼い子と笑っていると、ジャンが娘を取り上げた。
「昼寝させてくる。遊び回ったからよく寝るだろ」
「ありがとう」
娘の手にキスを落として見送って、アルミンは家事に戻った。洗濯物を取り込んだから畳まなければ。小さな服を畳むたびに幸せをかみしめる。生まれたばかりに着ていた産着はもっと小さかった。すぐに着られなくなってしまったが、そんな当たり前のことも新鮮で、毎日が楽しくて仕方ない。
畳み終えた洗濯物を片づけていき、最後に寝室に向かう。そっとドアを開けると、ベッドで眠る愛しい姿があった。横になったジャンの腕を枕に、幼い娘はぐっすり眠っている。見ればジャンも一緒に寝てしまったようで、静かに寝息をたてていた。ジャンの腹にもタオルケットをかけてやり、屈んで見下ろすとどうにも頬が緩んでしまう。
「僕の特等席だったんだけどなぁ。何年後かでいいから、いつか返してね」
娘の頬にキスを落とした。そのアルミンの頭を大きな手が撫で、ゆっくり顔を上げると寝ぼけ眼のジャンがこちらを見ていた。
「反対側なら空いてっけど」
「……だめ。ご飯作らなきゃ」
身を乗り出してジャンの額にキスを落とす。小さく唸るジャンを笑い、頬を撫でて体を起こした。名残惜しいが、メアリーが寝ている間にしたいこともある。ジャンの額を撫でると目を閉じたので、アルミンはそのまま寝室を出た。
ジャンはときどき、口にはしないが嫉妬を見せる。アルミンが娘にかまいきりなのも、娘が母親の方が好きなのも、どちらもわかるがやや不満らしい。子どもがほしいと言っていたのはジャンなのに、と思うと笑いがこみ上げてくるが、もう少しふたりきりの生活を楽しみたかったな、と思うことはある。どれも全部、贅沢な悩みだ。
ジャンにはああ言ったが、今日はジャンが家にいてくれたおかげで思ったより早く片づいた。少し余裕ができ、アルミンはソファーに座って読みかけの本を開く。夕食の支度を始める時間までには読み終えるだろう。静かな午後は穏やかで、開け放した窓でカーテンがふわりと広がる。アルミンはゆっくりページをめくった。
*
頬を優しく撫でられて、ふっと意識が浮上する。しかし体はまだ起きてくれないのか、目も開けられずにいると体にブランケットがかけられたのがわかった。
「あう」
「しー。メアリー、あっちで遊ぼう」
「あ」
「ママは寝んねしてるから静かにな」
「あー」
小さな手がアルミンの頬を叩き、ジャンが慌てた気配に思わず吹き出してしまった。目を開けるとメアリーがいて、その後ろでジャンが申し訳なさそうにしている。
「メアリー起きたの」
「悪い、起こしたな」
「ううん、元々寝るつもりなかったから」
体を起こしてメアリーを撫でる。膝に上がってくる娘に手を貸して抱き上げた。
「今日はかぼちゃだよーメアリー。この間はよく食べてくれたけど今日はどうかな」
ジャンが隣に座り、じっとこちらを見る。何かと聞けば黙って首を振った。
メアリーの言葉にならない声をそのまま繰り返す。意味はない遊びだが、娘は楽しげに繰り返した。
「大きくなったら、いっぱい遊びに行こうね」
「うー」
それがまるで返事をしたようで、ジャンと視線を合わせて笑いあった。
「あー」
「君はお靴嫌いだねえ」
散歩から帰ってきた娘を抱き上げて、その小さな足の裏を払う。この間掴まり立ちをしたと思えばあっという間に歩き始めた。運動神経がいいのは父親譲りだろうかと微笑ましく思ったのも束の間、どうも窮屈なのか、よく自分で靴を脱いでしまう。メアリーの後ろからついてきたジャンが、娘の靴を手にしていた。ジャンの手におさまってしまうほどのそれは、まるでままごとのおもちゃのようだ。きっとすぐに大きくなってはけなくなってしまうのだろうが、それも愛おしい。
「器用だなぁお前、こんなちっちゃい手で」
「メアリー、くっく嫌?かわいいのにー」
「ぶー」
「嫌のー。でもお靴ははいててほしいなぁ。掃除はしてるけど」
額を合わせるとはしゃいで笑う。汗をかいた幼い子と笑っていると、ジャンが娘を取り上げた。
「昼寝させてくる。遊び回ったからよく寝るだろ」
「ありがとう」
娘の手にキスを落として見送って、アルミンは家事に戻った。洗濯物を取り込んだから畳まなければ。小さな服を畳むたびに幸せをかみしめる。生まれたばかりに着ていた産着はもっと小さかった。すぐに着られなくなってしまったが、そんな当たり前のことも新鮮で、毎日が楽しくて仕方ない。
畳み終えた洗濯物を片づけていき、最後に寝室に向かう。そっとドアを開けると、ベッドで眠る愛しい姿があった。横になったジャンの腕を枕に、幼い娘はぐっすり眠っている。見ればジャンも一緒に寝てしまったようで、静かに寝息をたてていた。ジャンの腹にもタオルケットをかけてやり、屈んで見下ろすとどうにも頬が緩んでしまう。
「僕の特等席だったんだけどなぁ。何年後かでいいから、いつか返してね」
娘の頬にキスを落とした。そのアルミンの頭を大きな手が撫で、ゆっくり顔を上げると寝ぼけ眼のジャンがこちらを見ていた。
「反対側なら空いてっけど」
「……だめ。ご飯作らなきゃ」
身を乗り出してジャンの額にキスを落とす。小さく唸るジャンを笑い、頬を撫でて体を起こした。名残惜しいが、メアリーが寝ている間にしたいこともある。ジャンの額を撫でると目を閉じたので、アルミンはそのまま寝室を出た。
ジャンはときどき、口にはしないが嫉妬を見せる。アルミンが娘にかまいきりなのも、娘が母親の方が好きなのも、どちらもわかるがやや不満らしい。子どもがほしいと言っていたのはジャンなのに、と思うと笑いがこみ上げてくるが、もう少しふたりきりの生活を楽しみたかったな、と思うことはある。どれも全部、贅沢な悩みだ。
ジャンにはああ言ったが、今日はジャンが家にいてくれたおかげで思ったより早く片づいた。少し余裕ができ、アルミンはソファーに座って読みかけの本を開く。夕食の支度を始める時間までには読み終えるだろう。静かな午後は穏やかで、開け放した窓でカーテンがふわりと広がる。アルミンはゆっくりページをめくった。
*
頬を優しく撫でられて、ふっと意識が浮上する。しかし体はまだ起きてくれないのか、目も開けられずにいると体にブランケットがかけられたのがわかった。
「あう」
「しー。メアリー、あっちで遊ぼう」
「あ」
「ママは寝んねしてるから静かにな」
「あー」
小さな手がアルミンの頬を叩き、ジャンが慌てた気配に思わず吹き出してしまった。目を開けるとメアリーがいて、その後ろでジャンが申し訳なさそうにしている。
「メアリー起きたの」
「悪い、起こしたな」
「ううん、元々寝るつもりなかったから」
体を起こしてメアリーを撫でる。膝に上がってくる娘に手を貸して抱き上げた。
「今日はかぼちゃだよーメアリー。この間はよく食べてくれたけど今日はどうかな」
ジャンが隣に座り、じっとこちらを見る。何かと聞けば黙って首を振った。
メアリーの言葉にならない声をそのまま繰り返す。意味はない遊びだが、娘は楽しげに繰り返した。
「大きくなったら、いっぱい遊びに行こうね」
「うー」
それがまるで返事をしたようで、ジャンと視線を合わせて笑いあった。
2013'09.21.Sat
随分と日が長くなった。こんな季節は忍者の時間も短い。忍術学園事務員、小松田秀作はふと掃除の手を止めた。ようやくひぐらしの鳴き始めたまだ明るい空を仰ぐ。
もうすぐ夏休みだ。生徒たちの大半は帰省し、学園はいつもより静かになる。その間はいつも忙しい教師たちも多少は手が空くので、小松田の忍者の特訓を見てくれることがあった。それだけでも忍者を目指す自分にとっては、かなり幸運なことだろう。しかしその前に、帰省前の配布物の用意など、事務員は忙しくなる。また沢山怒られるんだろうなぁ、と思ったあと、今も早く掃除を終わらせなくてはならないことを思い出した。箒を握り直して門前の掃除を再開する。
ふと気配を感じて小松田が顔を上げると、道の向こうから笠を被った女性がこちらに向かってくる姿を見つけた。ひぐらしの声が大きくなる。女性は重力を感じさせないほど軽い足取りで、小松田が何かを思考する間もなく目前に近づいていた。
「忍術学園はこちらですか?」
「はい。お客さんですね?入門表にサインをお願いします!」
来客からサインを貰う、それも小松田の大切な仕事のひとつだ。いつもの調子で入門表と筆を差し出せば、女性は笠の影で困惑した様子を見せた。忍術学園を訪ねる者の中には稀だが、しかし文字の読み書きができない者は決して少なくない。お名前聞かせていただければ代筆しますよ、と笑いかけたが、女性はうつむいてしまった。名前を書けないのではなく、身分を隠したいのか。その事情は何であれ、サインを貰わなければ中へ入って貰うことはできない。小松田は困りましたねぇ、と腕を組む。女性はしばらく思案した後、小松田に背を向けて来た道を戻って行った。一体なんだったんだろう。首を傾げていると今度は後方から賑やかな声がやってくる。裏山に出かけていた生物委員の面々と、街へ出かけていたはずの私服姿の神崎左門だ。方向音痴の彼は今日は生物委員に見つけてもらえたらしい。
「すごくきれいな蛇だったのに」
「あのなー、うちじゃこれ以上お前のペットは飼えないの!」
すねた様子の伊賀崎孫兵に、生物委員委員長の竹谷八左ヱ門が苦笑して頭をかく。それを一年生たちが笑って見ていた。相変わらず仲のいい委員会だ。
「お帰り〜!」
「あっ、小松田さん!」
「ただいま戻りました!」
元気よく返事をした左門が勢いのまま通り過ぎそうになり、慌てて足の速い夢前三治郎が捕まえる。ひとりずつ順に入門表に名前を書いてもらい、門を開けた。竹谷が受け取ったとき、やや躊躇いを見せて顔を上げる。
「小松田さん、誰か来ました?」
「今日は忍術学園の人しか出入りしてないよ。あ、今来た女の人がいたけど、何も言わず帰っちゃった」
「そうですか、ならいいです」
「どうしたんだろうね」
首を傾げる小松田と竹谷の間に三治郎が顔を出す。
「小松田さんがいじめたんじゃない?」
「そんなことしてないよ!失礼だなぁ」
「こわ〜い顔で入門表を押しつけたんじゃないの〜?」
「してません〜!」
「こらこら、お前たちが小松田さんをいじめてどうする」
ごめんなさいと言いながらもけらけら笑い、一年生たちは門をくぐった。その後を孫兵が続くが、浮かない様子だ。心配になって視線で追えば、竹谷が大丈夫ですと笑う。
「裏山で珍しい蛇を見つけて持って帰りたがっていたんですが、止めたので拗ねてるんです」
「あ〜、それはやめてもらわないと」
「はは。はい、入門表みんな書けました」
「確かに!」
入門表を受け取って竹谷の背を見送る。入れ替わるように小松田の教育をしてくれている用具主任の吉野がやってきた。だまし絵のような顔をしているので小松田はいつか逆さまから見てみたいと思っているが、その機会はなかなか訪れない。
「みんな帰ってきましたか?」
「はい、今日出かけた人はみんな」
「来客も全て帰っていますか?」
「はい。利吉さんに出門表のサイン貰うの大変でしたよ〜」
吉野は小松田の苦労話を聞く気はないようで、そうですか、と頷くだけだ。それもいつものことなので、小松田は特に気にしない。
「ならもう掃除はいいですよ。夕食にでも行ってきなさい」
「はーい!」
子どものようにはしゃいで小松田が門をくぐるのを見て吉野は思わず溜息をつく。誰もいなくなった門の外を見て、吉野は錠を下ろした。
――異常なし。
今日も学園は平和だった。
「竹谷先輩!」
次の日竹谷は町で実習だった。実習から帰ってきたときはいつも門前が混雑する。小松田がしっかりと見張っているせいだ。大勢で出たときにもひとりずつ書かせるので時間がかかる。
特に疲れてもいなかったのでのんびり待っていると、委員会の後輩たちが駆け寄ってきた。彼らの焦った様子に何かが起きたのだと知る。
「どうした?」
「孫兵先輩が朝からいないんです!」
「しかもじゅんこを残して!」
孫兵の相方ともいえる存在のじゅんこは今一平の首に巻き付いている。昨日の孫兵の様子を思い出し、竹谷は思わず舌打ちをした。
――あの蛇だ。
「お前ら出門表は?」
「書きました!」
「よしっ、行くぞ!」
近くのクラスメイトに断って、竹谷は一年を連れて裏山へ急いだ。どうして昨日の間に気がつかなかったのだろう。
昨日回った場所を中心に虱潰しに孫兵の姿を探す。そう遠くはないはすだ。全員四散せず少し離れるだけに留める代わりに、四方に目を配って茂る森を見渡した。夏の盛りで緑が濃い。様々な生き物も活発になる季節だ。昨日後輩に指導がてらに見回りをしたのだが、もっとしっかり注意しておくべきだった。
「いました!」
少し先に行っていた三治郎が戻ってくる。じゅんこを連れた一平を呼んで竹谷は一瞬にそちらへ向かった。藪を抜けた先、小さな池のそばで、孫兵が笠を目深に被った女に寄り添っている姿が視界に飛び込んだ。水面が反射して目を細める。
「じゅんこ!」
一平が手を伸ばすとそこからマムシのじゅんこが跳んだ。彼女はまっすぐ女に向かい、笠を払うように顔に飛びかかる。女はそれから逃げようと身をよじったが、そこに竹谷が飛びかかって池に突き飛ばした。派手な水しぶきが上がり、その影に紛れて孫次郎と虎若が孫兵を引き寄せる。
「孫兵!大丈夫か!」
「先輩!」
「孫兵先輩!」
後輩に囲まれて、孫兵ははっと身をかたくした。湖面に浮かぶ笠を見て、彼らしくなく舌を打つ。
竹谷は孫兵が正気を取り戻したのを確認し、波立つ水面に構えた。
水かがぬっと割れるように、長い髪ですっかり顔の隠れてしまった女が水中から現れる。
「竹谷先輩、これっ……」
「目ェ覚めたか!こいつがお前の見てたかわいこちゃんの正体だ!」
「そんなっ……」
孫兵は顔を青くして口元を覆った。よろける彼を後輩たちが支える。
「美しい蛇だと思っていたのに!」
「そこですかぁ?」
呆れた後輩たちは思わず笑う。自分のペースを崩さない孫兵に竹谷も苦笑して、気が抜けて池に向けていた構えを解いた。
「お前も相手が悪かったな」
女は困惑したように水に使ったままきょろきょろと辺りを見回すが、ここに彼女の味方はいない。それがわかると彼女は顔を覆ってさめざめと泣き始めた。
「あーっ、竹谷先輩が泣かしたぁ!」
「えっ!」
三次郎の声に今度は竹谷が慌てる。すすり泣きを聞いて後輩たちが一斉はやし立てた。孫兵はぼくにはお前だけだ、などと調子よくじゅんこを抱きしめている。
「あっ、いや、その、泣かせるつもりじゃ」
「竹谷先輩ひどーい!」
「だからモテないんですよ〜」
「どっちかってぇと泣かせたの孫兵だろ!?ああ、ええと、その……ちょっと、学園の中には、お前たちは入れないんだ。孫兵と一緒でも入れないよ。あそこは人の世だ。わかるか?」
しとしと泣きくれる女が頷いた、ような気がして、理解してくれたものと信じることにする。
「竹谷先輩」
孫次郎に袖を引かれて振り返る。彼は影に隠れるようにしながらも、池の方を見つめていた。
「学園の外で仲良くするなら、大丈夫ですか?」
「え?」
竹谷が振り返ると、一年生たちが揃って竹谷を見ている。その目の輝きは、竹谷に否と答えることを許さない。竹谷は孫兵を見る。彼だけはすでにこちらに関心がない。
「ま、孫兵は?」
「自然の摂理に反したものに興味はありません」
「一番好かれるのお前なんだけどなぁ……」
一年生を見てから池の女に視線を戻す。長い髪の合間から目のようなものが覗き、一年生と同じ目で竹谷を見た。竹谷は深く、溜息をつく。
「ひとつ!必ず先輩か先生と一緒に会うこと!」
竹谷の宣言に、一年生たちはぱっと顔を明るくしてお互いを見た。甘いと言われても、どうも後輩たちの視線に勝てない。
「ひとつ!学園には絶対入れない!ひとつ!名前はつけない!わかったな!?」
「「はーい!」」
一年生たちが声をそろえた。
*
小松田が蝉の声を聞きながら門の外を掃除していると、笠を目深に被った女性が近づいてくる。入門表を取り出すと、学園内から竹谷が顔を出した。
「小松田さん、出門表を」
「あ、はぁい」
中から生物委員がぞろぞろと出てきた。順番に出門表に名前を書き、女性のそばに寄っていく。
「今日中には戻ります」
「はいはーい。それにしても、あの女の人が人間じゃないなんて、びっくりだな〜」
「……小松田さん、人に見えるんですね」
竹谷は出門表を返しながら少し顔をひきつらせた。
「違うの?きれいな女の人じゃない」
「……その目が羨ましいですよ。ほらっ、こんなところでのんびりしてないで行くぞー」
竹谷の声に元気よく応え、生物委員は女性と共に歩いていく。その背中をしばらく見送り、小松田は掃除を再開した。
もうすぐ夏休みだ。生徒たちの大半は帰省し、学園はいつもより静かになる。その間はいつも忙しい教師たちも多少は手が空くので、小松田の忍者の特訓を見てくれることがあった。それだけでも忍者を目指す自分にとっては、かなり幸運なことだろう。しかしその前に、帰省前の配布物の用意など、事務員は忙しくなる。また沢山怒られるんだろうなぁ、と思ったあと、今も早く掃除を終わらせなくてはならないことを思い出した。箒を握り直して門前の掃除を再開する。
ふと気配を感じて小松田が顔を上げると、道の向こうから笠を被った女性がこちらに向かってくる姿を見つけた。ひぐらしの声が大きくなる。女性は重力を感じさせないほど軽い足取りで、小松田が何かを思考する間もなく目前に近づいていた。
「忍術学園はこちらですか?」
「はい。お客さんですね?入門表にサインをお願いします!」
来客からサインを貰う、それも小松田の大切な仕事のひとつだ。いつもの調子で入門表と筆を差し出せば、女性は笠の影で困惑した様子を見せた。忍術学園を訪ねる者の中には稀だが、しかし文字の読み書きができない者は決して少なくない。お名前聞かせていただければ代筆しますよ、と笑いかけたが、女性はうつむいてしまった。名前を書けないのではなく、身分を隠したいのか。その事情は何であれ、サインを貰わなければ中へ入って貰うことはできない。小松田は困りましたねぇ、と腕を組む。女性はしばらく思案した後、小松田に背を向けて来た道を戻って行った。一体なんだったんだろう。首を傾げていると今度は後方から賑やかな声がやってくる。裏山に出かけていた生物委員の面々と、街へ出かけていたはずの私服姿の神崎左門だ。方向音痴の彼は今日は生物委員に見つけてもらえたらしい。
「すごくきれいな蛇だったのに」
「あのなー、うちじゃこれ以上お前のペットは飼えないの!」
すねた様子の伊賀崎孫兵に、生物委員委員長の竹谷八左ヱ門が苦笑して頭をかく。それを一年生たちが笑って見ていた。相変わらず仲のいい委員会だ。
「お帰り〜!」
「あっ、小松田さん!」
「ただいま戻りました!」
元気よく返事をした左門が勢いのまま通り過ぎそうになり、慌てて足の速い夢前三治郎が捕まえる。ひとりずつ順に入門表に名前を書いてもらい、門を開けた。竹谷が受け取ったとき、やや躊躇いを見せて顔を上げる。
「小松田さん、誰か来ました?」
「今日は忍術学園の人しか出入りしてないよ。あ、今来た女の人がいたけど、何も言わず帰っちゃった」
「そうですか、ならいいです」
「どうしたんだろうね」
首を傾げる小松田と竹谷の間に三治郎が顔を出す。
「小松田さんがいじめたんじゃない?」
「そんなことしてないよ!失礼だなぁ」
「こわ〜い顔で入門表を押しつけたんじゃないの〜?」
「してません〜!」
「こらこら、お前たちが小松田さんをいじめてどうする」
ごめんなさいと言いながらもけらけら笑い、一年生たちは門をくぐった。その後を孫兵が続くが、浮かない様子だ。心配になって視線で追えば、竹谷が大丈夫ですと笑う。
「裏山で珍しい蛇を見つけて持って帰りたがっていたんですが、止めたので拗ねてるんです」
「あ〜、それはやめてもらわないと」
「はは。はい、入門表みんな書けました」
「確かに!」
入門表を受け取って竹谷の背を見送る。入れ替わるように小松田の教育をしてくれている用具主任の吉野がやってきた。だまし絵のような顔をしているので小松田はいつか逆さまから見てみたいと思っているが、その機会はなかなか訪れない。
「みんな帰ってきましたか?」
「はい、今日出かけた人はみんな」
「来客も全て帰っていますか?」
「はい。利吉さんに出門表のサイン貰うの大変でしたよ〜」
吉野は小松田の苦労話を聞く気はないようで、そうですか、と頷くだけだ。それもいつものことなので、小松田は特に気にしない。
「ならもう掃除はいいですよ。夕食にでも行ってきなさい」
「はーい!」
子どものようにはしゃいで小松田が門をくぐるのを見て吉野は思わず溜息をつく。誰もいなくなった門の外を見て、吉野は錠を下ろした。
――異常なし。
今日も学園は平和だった。
「竹谷先輩!」
次の日竹谷は町で実習だった。実習から帰ってきたときはいつも門前が混雑する。小松田がしっかりと見張っているせいだ。大勢で出たときにもひとりずつ書かせるので時間がかかる。
特に疲れてもいなかったのでのんびり待っていると、委員会の後輩たちが駆け寄ってきた。彼らの焦った様子に何かが起きたのだと知る。
「どうした?」
「孫兵先輩が朝からいないんです!」
「しかもじゅんこを残して!」
孫兵の相方ともいえる存在のじゅんこは今一平の首に巻き付いている。昨日の孫兵の様子を思い出し、竹谷は思わず舌打ちをした。
――あの蛇だ。
「お前ら出門表は?」
「書きました!」
「よしっ、行くぞ!」
近くのクラスメイトに断って、竹谷は一年を連れて裏山へ急いだ。どうして昨日の間に気がつかなかったのだろう。
昨日回った場所を中心に虱潰しに孫兵の姿を探す。そう遠くはないはすだ。全員四散せず少し離れるだけに留める代わりに、四方に目を配って茂る森を見渡した。夏の盛りで緑が濃い。様々な生き物も活発になる季節だ。昨日後輩に指導がてらに見回りをしたのだが、もっとしっかり注意しておくべきだった。
「いました!」
少し先に行っていた三治郎が戻ってくる。じゅんこを連れた一平を呼んで竹谷は一瞬にそちらへ向かった。藪を抜けた先、小さな池のそばで、孫兵が笠を目深に被った女に寄り添っている姿が視界に飛び込んだ。水面が反射して目を細める。
「じゅんこ!」
一平が手を伸ばすとそこからマムシのじゅんこが跳んだ。彼女はまっすぐ女に向かい、笠を払うように顔に飛びかかる。女はそれから逃げようと身をよじったが、そこに竹谷が飛びかかって池に突き飛ばした。派手な水しぶきが上がり、その影に紛れて孫次郎と虎若が孫兵を引き寄せる。
「孫兵!大丈夫か!」
「先輩!」
「孫兵先輩!」
後輩に囲まれて、孫兵ははっと身をかたくした。湖面に浮かぶ笠を見て、彼らしくなく舌を打つ。
竹谷は孫兵が正気を取り戻したのを確認し、波立つ水面に構えた。
水かがぬっと割れるように、長い髪ですっかり顔の隠れてしまった女が水中から現れる。
「竹谷先輩、これっ……」
「目ェ覚めたか!こいつがお前の見てたかわいこちゃんの正体だ!」
「そんなっ……」
孫兵は顔を青くして口元を覆った。よろける彼を後輩たちが支える。
「美しい蛇だと思っていたのに!」
「そこですかぁ?」
呆れた後輩たちは思わず笑う。自分のペースを崩さない孫兵に竹谷も苦笑して、気が抜けて池に向けていた構えを解いた。
「お前も相手が悪かったな」
女は困惑したように水に使ったままきょろきょろと辺りを見回すが、ここに彼女の味方はいない。それがわかると彼女は顔を覆ってさめざめと泣き始めた。
「あーっ、竹谷先輩が泣かしたぁ!」
「えっ!」
三次郎の声に今度は竹谷が慌てる。すすり泣きを聞いて後輩たちが一斉はやし立てた。孫兵はぼくにはお前だけだ、などと調子よくじゅんこを抱きしめている。
「あっ、いや、その、泣かせるつもりじゃ」
「竹谷先輩ひどーい!」
「だからモテないんですよ〜」
「どっちかってぇと泣かせたの孫兵だろ!?ああ、ええと、その……ちょっと、学園の中には、お前たちは入れないんだ。孫兵と一緒でも入れないよ。あそこは人の世だ。わかるか?」
しとしと泣きくれる女が頷いた、ような気がして、理解してくれたものと信じることにする。
「竹谷先輩」
孫次郎に袖を引かれて振り返る。彼は影に隠れるようにしながらも、池の方を見つめていた。
「学園の外で仲良くするなら、大丈夫ですか?」
「え?」
竹谷が振り返ると、一年生たちが揃って竹谷を見ている。その目の輝きは、竹谷に否と答えることを許さない。竹谷は孫兵を見る。彼だけはすでにこちらに関心がない。
「ま、孫兵は?」
「自然の摂理に反したものに興味はありません」
「一番好かれるのお前なんだけどなぁ……」
一年生を見てから池の女に視線を戻す。長い髪の合間から目のようなものが覗き、一年生と同じ目で竹谷を見た。竹谷は深く、溜息をつく。
「ひとつ!必ず先輩か先生と一緒に会うこと!」
竹谷の宣言に、一年生たちはぱっと顔を明るくしてお互いを見た。甘いと言われても、どうも後輩たちの視線に勝てない。
「ひとつ!学園には絶対入れない!ひとつ!名前はつけない!わかったな!?」
「「はーい!」」
一年生たちが声をそろえた。
*
小松田が蝉の声を聞きながら門の外を掃除していると、笠を目深に被った女性が近づいてくる。入門表を取り出すと、学園内から竹谷が顔を出した。
「小松田さん、出門表を」
「あ、はぁい」
中から生物委員がぞろぞろと出てきた。順番に出門表に名前を書き、女性のそばに寄っていく。
「今日中には戻ります」
「はいはーい。それにしても、あの女の人が人間じゃないなんて、びっくりだな〜」
「……小松田さん、人に見えるんですね」
竹谷は出門表を返しながら少し顔をひきつらせた。
「違うの?きれいな女の人じゃない」
「……その目が羨ましいですよ。ほらっ、こんなところでのんびりしてないで行くぞー」
竹谷の声に元気よく応え、生物委員は女性と共に歩いていく。その背中をしばらく見送り、小松田は掃除を再開した。
2013'09.21.Sat
自慢の真っ赤なロードバイクで、走って走って、ただひたすら走り続けた。梅田のビルの間を抜けて淀川を越えて尼崎、まだまだ走り続けると大きなビルは減っていく。だらだらは走るママチャリもちょっとかっこええチャリに乗ったやつも追い抜いて、ひたすら走って西宮、さっさと抜けて神戸、それでも走り続けていると左手に海が見えた。道路標識の須磨の文字にやっと足を止める。
そこまで飛ばしてきたわけではないが程よい疲れがたまっているのがわかる。周りを見ながら走っていたはずなのに、初めて風景に意識をやったような気がした。
愛車を歩道に上げて押しながら、水族園の前を横切った。手をつないで楽しげに歩く高校生ぐらいのカップルとすれ違い、口笛を吹いて冷かしてから、流石にオッサン過ぎたかと反省する。少し進むと海岸につながる道に出た。自転車を砂浜に入れる気はないのでそこから海を見た。海は果たして、どこへ行っても同じだろうか。
「お兄ちゃんやから先に言うとくな」
そう母が教えてくれたのは昨日のことだった。父親の転勤が決まった。予定では秋だったが、鳴子が中3と言うことを考慮してもらい、3月まで待ってもらうらしい。引っ越し先は父親の実家の近く、千葉だ。鳴子が生まれ育った大阪とは、同じ日本とはいえ文化も言葉も同じとはいかない。毎年帰省するので全く知らない場所ではないが、そっちで生活をするとなると変わってくる。
ほな自転車のコース探さなあかんな、そう言った自分は笑えていただろうか。とにかくやかましい友人たちが頭に浮かぶ。
少しルートを変えて甲子園の方に行ってもよかったかもしれない、そんなことを思いながら鼻をすすった。今頃あの辺りは賑やかだろう。大阪代表が勝ち進んでいる。
「……はぁ」
明日は進路相談だ。行きたいのは自転車部のある高校、そこが強ければ何も文句はない。道が変わっても鳴子は走り続けるだけだ。
――少しだけ泣いた。幼馴染と別れることは悲しい。近所の人ともずっと昔から家族のようにつき合ってきた。
「えーい!うじうじするのは今日までや!」
自転車を体にあずけ、両手で頬を叩く。グローブをしたままの手ではいい音もせずあまり決まらなかったが、細かいことは気にせずに自転車の向きを直した。六甲山でも登ろうか、と思ったが、走っても走っても平坦が足りない。山に構っている暇はなかった。
昨日よりも早く、今日よりも早く。大阪だろうが千葉だろが、誰よりも早く走るだけだ。
*
私物のなくなった巻島のロッカーの前で、坂道が立ち尽くしている。少し猫背のその背中に、鳴子は自分が離れた後のことを初めて考えた。何も言わずに去って行った巻島は、鳴子と全く違った。引っ越す前の鳴子は知り合いみんなに声をかけて、惜しまれながら見送られてきた。何の見送り儲けずに、巻島はどんな気持ちで慣れた地を離れたのだろう。
坂道は泣くだろうか、と見ていたが、ただ茫然としているだけだった。誰かが同じ道を走ってくれる楽しさは鳴子にも十分すぎるほどわかる。ましてや坂道のように、ひとりで走り続けていた者には巻島の存在は大きかったに違いない。
「あー……小野田クン」
「ぼくは」
「お、おう!なんや!?」
「好きだったのかな」
「……巻島サン?」
「あんなにもまぶしい人といたのは初めてだから、よくわからないんだ」
これはまさかの恋愛相談か。咲く前にしおれた恋を見ながら、たくましい背中を思い出す。自分の弱さを認めて強くなった人。彼がいなければ鳴子は自分を振り返ることはしなかっただろう。それは体だけが前に進むばかりで、成長しないということだ。そこまでのことをしたと思ってはいなくても、間違いようもなく、鳴子に強さを与えたのはあの男だった。
同様に、坂道にとっての巻島も大きな存在であっただろう。結局何も伝えることのできていない鳴子は、坂道に何を言えるのだろうか。とはいえ今の坂道には誰が何と声をかけても無駄のようで、後から来た同輩や先輩が心配して覗き込むも、いつかも見たことのある作り笑顔を向けられるだけであった。
「おい、鳴子」
強張った声に呼ばれて振り返る。少し苛立った表情の田所が立っていて、少しだけ胸が震えた。
「あいつ大丈夫か」
「……ひとりで帰る、言うたんで」
「そうか……お前はまっすぐ帰るか?」
「あー、そうします」
「そうか。気をつけてな」
嫌な空気が肌にまとわりついている。帰っていく田所の背中を見送った。今泉が不器用に言葉を重ねているが、坂道にはほとんど届いていないだろう。
初めて誰かと走った時のことを思い出す。いつか見たかっこえー自転車、自分だけのロードバイクを手にいれたとき、一緒に走ってくれたのは父だった。背の低かった鳴子は丁度いいサイズのものが見つからず、それでも乗ると言い張ったので、全く乗れないということはなかったが、今思えばきっとみっともないものだっただろう。
父が休みの日に、いわゆるママチャリで並走してくれたのが、初めて誰かと走った日だ。不格好に父を追い抜いた鳴子を手放しで喜んでくれた。父は家に帰ってそれはもう嬉しげに母に報告し、ずっと鳴子の頑固に呆れていた母も、このときは笑顔を見せてくれた。かっこええなぁ、もうお兄ちゃんやもんな。
家に帰っても落ち着かず、結局夕食を食べてからまた走りに出た。
暑い夏は確かに一度、終わったのだ。それでもまだ風は熱くて、海に近づくにつれて湿度の増すぬるい空気を切って走った。トレーニングのつもりで出たが本気で走る気にはなれず、夜道を流して走る。段々潮の匂いが強くなった。海側に人影が見えて、カップルでもいるのだろうか、と視線を向け、慌てて足を止める。あの大きな影は。身動きもせず、ただまっすぐ海を見ているその背中を、やはり黙って見つめる。視線を外すと、もう少し行ったところに田所の愛車が止めてあった。
――走ることしかできない。走らなければ、進めないのだ。
そこまで飛ばしてきたわけではないが程よい疲れがたまっているのがわかる。周りを見ながら走っていたはずなのに、初めて風景に意識をやったような気がした。
愛車を歩道に上げて押しながら、水族園の前を横切った。手をつないで楽しげに歩く高校生ぐらいのカップルとすれ違い、口笛を吹いて冷かしてから、流石にオッサン過ぎたかと反省する。少し進むと海岸につながる道に出た。自転車を砂浜に入れる気はないのでそこから海を見た。海は果たして、どこへ行っても同じだろうか。
「お兄ちゃんやから先に言うとくな」
そう母が教えてくれたのは昨日のことだった。父親の転勤が決まった。予定では秋だったが、鳴子が中3と言うことを考慮してもらい、3月まで待ってもらうらしい。引っ越し先は父親の実家の近く、千葉だ。鳴子が生まれ育った大阪とは、同じ日本とはいえ文化も言葉も同じとはいかない。毎年帰省するので全く知らない場所ではないが、そっちで生活をするとなると変わってくる。
ほな自転車のコース探さなあかんな、そう言った自分は笑えていただろうか。とにかくやかましい友人たちが頭に浮かぶ。
少しルートを変えて甲子園の方に行ってもよかったかもしれない、そんなことを思いながら鼻をすすった。今頃あの辺りは賑やかだろう。大阪代表が勝ち進んでいる。
「……はぁ」
明日は進路相談だ。行きたいのは自転車部のある高校、そこが強ければ何も文句はない。道が変わっても鳴子は走り続けるだけだ。
――少しだけ泣いた。幼馴染と別れることは悲しい。近所の人ともずっと昔から家族のようにつき合ってきた。
「えーい!うじうじするのは今日までや!」
自転車を体にあずけ、両手で頬を叩く。グローブをしたままの手ではいい音もせずあまり決まらなかったが、細かいことは気にせずに自転車の向きを直した。六甲山でも登ろうか、と思ったが、走っても走っても平坦が足りない。山に構っている暇はなかった。
昨日よりも早く、今日よりも早く。大阪だろうが千葉だろが、誰よりも早く走るだけだ。
*
私物のなくなった巻島のロッカーの前で、坂道が立ち尽くしている。少し猫背のその背中に、鳴子は自分が離れた後のことを初めて考えた。何も言わずに去って行った巻島は、鳴子と全く違った。引っ越す前の鳴子は知り合いみんなに声をかけて、惜しまれながら見送られてきた。何の見送り儲けずに、巻島はどんな気持ちで慣れた地を離れたのだろう。
坂道は泣くだろうか、と見ていたが、ただ茫然としているだけだった。誰かが同じ道を走ってくれる楽しさは鳴子にも十分すぎるほどわかる。ましてや坂道のように、ひとりで走り続けていた者には巻島の存在は大きかったに違いない。
「あー……小野田クン」
「ぼくは」
「お、おう!なんや!?」
「好きだったのかな」
「……巻島サン?」
「あんなにもまぶしい人といたのは初めてだから、よくわからないんだ」
これはまさかの恋愛相談か。咲く前にしおれた恋を見ながら、たくましい背中を思い出す。自分の弱さを認めて強くなった人。彼がいなければ鳴子は自分を振り返ることはしなかっただろう。それは体だけが前に進むばかりで、成長しないということだ。そこまでのことをしたと思ってはいなくても、間違いようもなく、鳴子に強さを与えたのはあの男だった。
同様に、坂道にとっての巻島も大きな存在であっただろう。結局何も伝えることのできていない鳴子は、坂道に何を言えるのだろうか。とはいえ今の坂道には誰が何と声をかけても無駄のようで、後から来た同輩や先輩が心配して覗き込むも、いつかも見たことのある作り笑顔を向けられるだけであった。
「おい、鳴子」
強張った声に呼ばれて振り返る。少し苛立った表情の田所が立っていて、少しだけ胸が震えた。
「あいつ大丈夫か」
「……ひとりで帰る、言うたんで」
「そうか……お前はまっすぐ帰るか?」
「あー、そうします」
「そうか。気をつけてな」
嫌な空気が肌にまとわりついている。帰っていく田所の背中を見送った。今泉が不器用に言葉を重ねているが、坂道にはほとんど届いていないだろう。
初めて誰かと走った時のことを思い出す。いつか見たかっこえー自転車、自分だけのロードバイクを手にいれたとき、一緒に走ってくれたのは父だった。背の低かった鳴子は丁度いいサイズのものが見つからず、それでも乗ると言い張ったので、全く乗れないということはなかったが、今思えばきっとみっともないものだっただろう。
父が休みの日に、いわゆるママチャリで並走してくれたのが、初めて誰かと走った日だ。不格好に父を追い抜いた鳴子を手放しで喜んでくれた。父は家に帰ってそれはもう嬉しげに母に報告し、ずっと鳴子の頑固に呆れていた母も、このときは笑顔を見せてくれた。かっこええなぁ、もうお兄ちゃんやもんな。
家に帰っても落ち着かず、結局夕食を食べてからまた走りに出た。
暑い夏は確かに一度、終わったのだ。それでもまだ風は熱くて、海に近づくにつれて湿度の増すぬるい空気を切って走った。トレーニングのつもりで出たが本気で走る気にはなれず、夜道を流して走る。段々潮の匂いが強くなった。海側に人影が見えて、カップルでもいるのだろうか、と視線を向け、慌てて足を止める。あの大きな影は。身動きもせず、ただまっすぐ海を見ているその背中を、やはり黙って見つめる。視線を外すと、もう少し行ったところに田所の愛車が止めてあった。
――走ることしかできない。走らなければ、進めないのだ。
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