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言い訳置き場

言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。

2025'03.15.Sat
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2013'09.10.Tue
何かの気配を感じて目が覚めた。首の辺りを何かが掠め、その感触に反射的に体を起こして首を拭う。虫でも這っているのかと思ったが、悲鳴を上げて転がり落ちたのはもっと大きな塊だ。

ジャンは混乱したままそれを見る。ベッドの上でうごめいているのは、両手に乗るほどの毛玉だった。

――子猫を拾ったんだった。やっと思い出し、ジャンはどきどきとうるさい心臓を押さえて、起き上がれずにばたついている子猫を転がしてやる。離れたところに置いておいたタオルを敷き詰めた段ボールを見たが倒れている様子もなく、一体どうやって出てきたのか、どうやってベッドに登ってきたのか。

カーテンの向こうは既に明るくなっていたのでカーテンを開けた。しかし時間を見ると目覚ましをかけた時間より2時間も早い。昨夜うるさい子猫が眠るまで気にかかって見ていたせいで、やっとジャンが布団に入ったのは2時を過ぎていた。3時間ほどしか寝ていないことになる。

ほんのりと明るいが外は小雨が降っていた。一晩中振り続けていたのだろうか。

ベッドの上で体制を直した子猫は甲高い声で鳴きながら、ジャンの腿へと昇ってくる。登りきったと思えばまだ進み、股間までやってくるので掴みあげてまたベッドに戻す。顎の下を撫でてやるとぐるぐると喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細めた。

「……眠い」

座ったまま瞼が重くなる。構ってやる手も次第に力が抜け、すっかり止まってしまった指に抗議するように子猫はじゃれついて歯を立てた。遊んでいるような甘噛みは痛くもないが、ジャンはぼんやりと子猫を見てひっくり返してやる。毛の薄い腹を見て、ふと思いついて足の付け根の辺りを探ってみたが性別はよくわからなかった。

子猫がみーみー鳴き続けるのでずっとつついて構っていたが、もしかして餌だろうか、と思い立ち上がる。昨夜エレンが残して行ったドライフードの残りを同様にふやかして、水も一緒に用意して振り返った。歩き出した足元にいつの間にか子猫が転がっていて、危うく踏みそうになって大きくよろける。小皿の水は全てひっくり返ったが、子猫は知らんぷりでジャンの足にまとわりついた。踏み潰しそうになってしまったという衝撃にジャンの心臓はまた乱れ、フローリングに水が広がっていくのを気にするどころではない。

――心臓に悪い。学校の友人たちにも声をかけて、一刻も早く誰かに引き取ってもらおう。

水を入れ直して子猫の側に置くとそちらに向かっていった。さっき零した水をさっさと拭いて猫を見ると、水の皿に前足を突っ込んだのでまたひっくり返った。こいつは水難の相でも出てるのだろうか、と溜息をつき、皿をもっと重たいものに変えようと考える。

「あー……エレンが来る前に風呂……」

スーパーが開いたら来ると行っていた。そのときに一緒に引き取ってくれねえかな、思いながら全てをやる気がなくて、床の上に寝っころがる。もう満足なのか、子猫は餌の皿から離れてジャンの顔の側にやってきた。ふんふんと匂いをかがれて、触れるひげがくすぐったい。子猫の方に顔を倒したが、逃げもせずジャンの匂いを嗅いでいる。

「お前エサくせえなぁ」

猫を好きだという人の気持ちはわかる。しかしやはり世話をするということはできる気がしなかった。小さな舌が鼻をなめる。この野郎、と掴んで遠ざけると、またジャンの手にじゃれ付いて遊び始めた。

きれいな猫だとは思う。エレンが金髪碧眼と褒めていたのを思い出し、顔の前にまた戻すと熱心にジャンを見つめてきた。大きな瞳は透き通ったような青だ。この青を知っている。目を引く蝶の羽、雨上りの紫陽花、姉の指で光る青い石、どこまでも深い海。きっと、青い鳥はこんな青色をしているのだろう。



*



けたたましい携帯の着信音で目を覚ました。床の上で眠ってしまっていたらしい。どこかぎこちない体を無理に起こし、ベッドに置いたままの携帯をどうにか取り上げる。ディスプレイに浮かんでいるのはエレンの名前だ。

「……もしもし」

『おい!どこにいるんだよ!』

「あ?」

『今お前んちの前にいるんだけど!」

「……開ける」

チャイムにも気づかずに寝ていたらしい。のそりと立ち上がって玄関に向かう。ドアを開けるとエレンは仏頂面でジャンを睨むが、何もなくてもジャンに対してはこんな顔だ。

「いるんじゃねえか!」

「寝てたんだよ……」

「猫ちゃんは?」

エレンの甘い声にぞっとする。しかし部屋を振り返って更にぞっとした。

――どこだ?

ジャンが硬直したのを見て、エレンが黙って部屋に入る。勝手にベッドの布団を引きはがしたり棚の隙間を覗いたりしているが、わかりやすいところにはいないらしい。

「ちゃんと見とけよなー」

「寝てたっつってんだろ……」

「あっ、わかった」

部屋の隅に積まれた取り込んだだけの洗濯物を見つけ、エレンはそれを崩していく。何をする、と文句を言いかけたとき、小さな毛玉が布の山から顔を出した。

「おはよー猫ちゃん」

「なんつうとこに……」

「あんな男と添い寝しても楽しくないもんなー」

子猫は初めは寝呆けていたようだが、やがて目を覚まして鳴き始めた。かわいいなあとエレンは遠慮なく頬ずりする。今日はあの凶暴な黒猫は一緒ではないらしい。

「近所には聞いてみたけど、お前の貰い手まだ見つからねえんだ。もうちょっとこの馬面で我慢してくれよー」

「もう置くもん置いてさっさと帰れよ」

「やだ!今日1日猫ちゃんと一緒にいる!」

「キメェんだよ!」

「だってミカサにここにいるから昼飯持って来てって頼んじゃったもん」

「え」

「あ〜かわいいなぁ〜いいなぁ〜うちで飼えたらなぁ〜」

「ちょっと待て、ミカサが来るって?」

「うん」

「おっ、ま……」

ジャンははっと自分を見た。寝起きどころか、昨夜は猫に構っていて風呂も入っていない。

「おっ……オレ風呂入ってくるからそいつ見張ってろよ!」

「はいはい」

エレンはジャンを見なかったが、あの様子なら猫以外に目を向けることはないだろう。ジャンはすぐさま浴室に引きこもる。

ミカサはエレンの幼馴染だ。ジャンがエレンを気に入らない理由のひとつでもある。あの美しい幼馴染がどれほど献身的にエレンに尽くしていても、彼はそれに応えるどころか一切気に留めていないのだ。大学でひと目見たときから彼女に惹かれているジャンから見れば羨ましいことこの上ない。そのミカサが、この部屋に来るという。

シャワーを浴びながら、自分がするべきことを考える。あの洗濯物の山を片づけて、部屋の掃除をして、トイレや台所も――時間がない!

髪も乾かさなければならないのでのんびりはできなかった。早めに切り上げて浴室を出て、とにかく先に部屋を片づけることにする。

「お前何バタバタしてんの?」

「部屋片づけるんだよ!お前は猫構ってろ!」

「うるせえなぁ」

「おいミカサいつ来るんだ!?」

「さぁ、用意できたら来るっつってた」

なんと曖昧なんだろうか。しかしここでエレンともめている時間はない。バタバタと部屋を片付け、掃除機をかけたときに子猫が大騒ぎしていた以外にはスムーズに掃除は進んだ。大方片付いた頃にチャイムが鳴り、ジャンはほっと胸を撫で下ろす。まだ気にかかるところはあるが、概ね許容範囲だろう。

ドアを開けるとミカサが立っている。今日も変わらず美しく、いつもエレンと一緒にいるミカサが自分の部屋のチャイムを鳴らすなんて夢のようだった。彼女の目的がエレンであることを忘れてはいないが、しばらく浸ったって罰は当たらないだろう。

「おはようジャン。休みの日にごめんなさい」

「い、いや、上がれよ。汚いところだけど」

「こいつ今めっちゃ片づけてたから」

「うるっせんんだよお前は!」

余計なことを言うエレンを睨みつける。ミカサはふたりのやり取りにももう慣れているので、靴を脱いできちんとそろえた。ついでにエレンの靴までそろえる仕草が愛しくも憎らしい。

「これ、よかったらお昼に」

「あっ、ありがとな」

「いいえ、大したことは何も」

ミカサに渡された紙袋は、エレンの言っていた昼食らしい。タッパーに入ったそれは、まさか出来合いの品ではないだろう。まさかこんな形でミカサの手料理を食べられることになるとは思わず、昨夜の偶然に感謝する。

「ほら見ろよミカサ、可愛いだろ」

「ほんと、きれいな目」

エレンの側に座ったミカサが子猫に手を伸ばした。指先で猫の額を撫でるミカサはかすかに笑う。笑いかけられたことのないジャンは複雑な気持ちでそれを見て、ぐっとこらえて冷蔵庫を開けた。飲み物を用意して部屋に入ると、子猫はミカサの膝の上で丸くなってその背を撫でてもらっている。子猫になりたい。

「み……ミカサ、猫好きなのか?」

「ええ。……あのエレンにまとわりつく黒猫以外は」

「あぁ、あれすごかったよな……」

「リヴァイもなー、夜寝てるときは比較的大人しいんだけどな」

ジャンはやっとエレンの腕に気づいた。明らかに昨日より傷跡が増えている。あの猫が大人しい様子など想像できなくて、猫でも性格の差と言うのは大きいのだな、と子猫を見る。スカートに毛がつくのもいとわずに子猫を愛でているミカサをずっと眺めておきたい。そしてできればその子猫になりたい。

「うちの近所でもらえる人がいたら、また会いに行けるのになー」

「ジャンが飼うんじゃないの?」

「飼わないんだって」

「そうなの。部屋が駄目なの?」

「い……いや、部屋は大丈夫なんだが、動物を飼ったことがないし……」

「なー、もうジャンが飼っちゃえよ。こいついい子だと思うぜ」

「できる範囲でなら、私も協力するけれど」

ジャンが決断をしたのは一瞬だった。
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2013'09.09.Mon
「三郎次、買い出し行ってきてくれる?」

「わかった」

母親の声に、待ってましたとばかりに返事をする。丁度宿題に飽きてきたところだった。親しくなれる気がしない「夏休みの友」を投げ出して、三郎次は扇風機を止めて店に出る。夏の間解放しているオープンテラス――と、母親は言い張っているがすのこの上にテーブルを並べただけの簡易喫茶スペース――は今日も客で一杯で、アルバイトの学生が汗を吹きながら作っている焼きそばのソースの匂いが漂っていた。

夏の熱気に誘われて、この季節、浜は人で溢れている。さほど有名ではない海水浴場でもそれなりに人は集まって、この光景を見ると三郎次はいつも秋が恋しくなった。

「富松くんにいるもの聞いて」

「うん。帰りにアイス買っていい?」

「どうぞ」

母親から小銭入れを受け取って、ひも付きのそれを首から下げる。すぐにかき氷の機械の前に戻った母親はもうこちらを見ていない。調理場に入ってアルバイトの男を呼ぶ。隣の県から泊まり込みできている学生のひとりだ。みんな初日よりも随分焼けた。それは仕事ばかりではなく、休憩のたびに遊んでいるからだ。

「富松さん、買い出し行ってきます」

「おう、キャベツと人参頼む」

焼きそばの具を切り続けている汗だくの男はやはり振り返りもしない。山になった野菜の大きさは大体均一で、初日に手こずっていたのが嘘のようだ。

「今日多いの?」

「ああ。やっぱみんな穴場知ってんだな〜」

「……他にはいらない?」

「三郎次くん!ついでに割り箸頼む!」

叫んでいるような大声と共に入ってきた男に富松が顔をしかめた。どれほど働いても一切疲れを見せない彼は、他人を疲れさせるほど元気だ。

「うるっせぇよ左門」

「すまん!さっきぶちまけた!」

「最低だな!」

「行ってきます」

いちいち挙動の大きい男なのだ。しかしどこか憎めず、母親もその元気良さを気に入っているらしい。

店を抜けて砂浜、海水浴をする客が溢れていた。中も暑かったが日差しを浴びると更にぐっと暑くなる。もうひとりのアルバイト、次屋が店の前に出した鉄板で焼きそばを作りながら客と話しているのを横目に道に上がった。スーパーまでは5分ほどだ。最近ではスーパーで買い物を済ませて海へ行く人の方が多いので、母が半ば趣味でやっている海の家も昔ほど忙しくはないらしい。それでもやはり雰囲気を楽しみたい客が、何かしらを買いにくる。

浴衣の女性とすれ違った。こんなところでも、と思わず振り返る。今日は大きな花火大会がある。とは言え祭りの賑やかさが伸びてくるほど近くではないのだが、この浜からは花火がきれいに見えるのだ。去年フリーのライターが小さな記事で書いたせいか、今年はいつもより少しだけ人が多いようだった。

冷房のよく効いたスーパーに入り、頼まれたものをさっさと買う。海の家は店内には気持ちばかりの古いエアコンはあるが、奥の部屋にはやはり年代ものの扇風機しかない。名残惜しいが駄賃代わりのアイスも買ってしまったので、魅力的なスーパーからまた炎天下へ戻った。こうなると真っ黒なアスファルトよりも焼けた砂の方がまだましで、三郎次はアイスを食べながら海へ戻っていく。

海は太陽を受けて反射し、三郎次は目を細めた。波の動きでちらつく光はまぶしすぎて目が痛くなる。早々に汗をかき始めたアイスが指まで伝い、慌てて大きく口を開いた。

夏はいつでもやってくる。三郎次が待ち望んでいても、二度と受け入れたくなくても。



「ただいまー」

「おかえり」

帰るなり次屋に捕まって、直してと言われるままに頭に巻いたタオルを結び直してやった。汗が目に入る、とふうふう言いながらまた仕事に戻った次屋に特に何も返さず、三郎次は中に入った。母親に声をかけて調理場に向かう。

「三郎次、代わってあげて!」

「はーい」

割り箸はストック場所に片づけ、代わらず包丁を握っている富松に声をかける。初めこそ小学生に手伝われるということをためらっていた彼らだが、すぐにそんな余裕はなくなっていた。富松は助かったとばかりに包丁を置き、肩を回す。

「はー、握力なくなりそうだぜ」

「休んでいーよ」

「すまねぇな」

休憩に行く富松と代わってまな板の前に立った。包丁を取る前に、切れた分を店の外の方に持っていく。

「次屋さん、追加」

「せんきゅー。ひどくない?作ちゃんひとりで泳ぎに行っちゃったよ。水冷たいんだろうな〜」

「だって次屋さんひとりで行ったら迷子になるんだろ」

「道もないのにねえ。いらっしゃーい」

前に立った客の影に、三郎次は野菜の乗ったボウルを置いて中に戻った。



日が沈むにつれ、海から人は引いていく。しかし暗くなるほど今日は人が増えていき、いつもは全てを飲み込んでしまいそうになるほど暗い海が今日は賑やかだった。

三郎次は二階の部屋から海を見た。店はいつもは閉めている時間だが、今日は飲み物だけを外に出て販売している。ビールが売れていくのを見ながら、アルバイトの彼らは悔しげに接客をしていた。酒の味を知らない三郎次にはわからない感覚だ。下はまだ賑やかで、三郎次も目が冴えている。

「三郎次?スイカいる?富松くんたちがスイカ割りするんだって」

「……後で」

「早くね。なくなっちゃうわよ〜」

下から左門の威勢のいい声がした。いくつもの笑い声がするから、花火を待つ客も集まっているのかもしれない。

部屋に顔を出した母親はそれを笑い、三郎次の頭を撫でて降りていく。海風の流れてくる部屋は昼間よりはいくらか涼しいが、やはり夏の盛りではまだ暑い。いつか火を吹くのではないかと思うような年代物の扇風機が、部屋の隅でぎこちなく首を振っている程度では足りなかった。

夏が過ぎてほしいと思う。それでも、終わらなければいいとも思う。そうなれば、いつまでも待っていられるのに。

「っしゃー!」

窓から顔を出すと富松が顔からタオルを外してガッツポーズを決めていた。スイカはシルエットだけが見える。ぱっと窓を離れて階段を降りた。

「三郎次」

気づいた左門が手招きをする。差し出された欠片は大きすぎて、笑うと次屋がもうひと回り小さいものを渡してくれた。大きい塊は左門がかぶりついている。

母親は一足先に缶ビールを開けていて、それを見つけた学生たちが騒ぎだした。母はそれを待っていたかのように、笑いながら彼らにもそれを許した。温かい母の手が三郎次の肩を抱く。汗をかいている三郎次に構わず額を寄せる。恥ずかしいとは思うが、抵抗すると余計にからかってくるのだ。

「寝るね」

「おやすみ、三郎次」

「おやすみ」

学生たちにも挨拶をして、手を洗ってまた二階に上がった。花火見ないんですか、誰かが母に聞いている声が聞こえてくる。

カーテンをしっかり閉めて、三郎次は布団に潜り込んだ。頭までタオルケットをかぶり、蒸し暑いがそのまま耳を塞ぐ。間もなく、花火が始まった。夜空を彩る大輪に歓声が上がる。昔見た花火を瞼の裏に浮かべて、きつく目を閉じた。



*



「三郎次くん、蛍見たことあるか?」

次屋に聞かれて首を振った。生まれてからずっと海にいる。3人は顔を見合わせて、三郎次に向き直った。

「俺らの地元の方、蛍がいるんだ。ちょうど今が見頃だって地元の奴らが言ってたから、見に行かねえ?」

その日はアルバイトの最終日だった。夏休みも終わりに近づき、アルバイトの手が必要なほどの忙しさはすぐになくなる。今日の仕事を終えたら彼らは帰ることになっていた。

「……見たい」

夜の山にも興味が沸いた。光る虫は名前として知ってはいるが、三郎次の世界に今までいなかったものだ。よし、と笑った富松は三郎次の汗をかいた頭を撫でて、三郎次の母の元へ向かって言った。

「今日までありがとう!よかったらまた来年も来てちょうだい」

「もー是非是非、めっちゃ楽しかったです」

三郎次は少し緊張して母親を見た。富松の話を聞いた彼女の目がこちらを向く。

「いいな〜!お母さんも見たい!三郎次ずるい!」

「お母さんも行きます?」

「お店あるもの〜。三郎次、ちゃんとお礼言った?」

「あっ、ありがとう!」

「何の、まだ早い!」

盛り上がった左門が荷物をかつぎ上げた。もう出発するのだと、慌てて三郎次も立ち上がる。母親に色々と持たされている間に富松が車を取りに行き、予想外のドライブをすることになった。



*



夜の山は海と同じぐらい暗かった。それでも海は、月明かりを反射する。木々の合間から差し込む月光は柔らかく、目を細めることもない。

いた、左門のささやく声に顔を上げる。視界に突然、小さな明かりが灯った。ともすれば見失いそうなかすかな明かりは、求愛のためだと本で読んだことがある。それはひとつふたつではなく、点滅するのでどれほどいるのかはわからなかったが、無数に飛び交うそれを初めて見る三郎次は何も言葉にできなかった。

ぽかんとして光を追っていたら、肩をつつかれて振り返る。次屋に手を出して、と言われて手のひらを向けたが、富松が三郎次の手を取って両手で囲いを作らせた。その隙間から、次屋が手にしたものを中に移す。くすぐったいようなかすかな感触に緊張しながら、そっと透き間をあけると手のひらの中で蛍の光が点滅していた。温かいように見えた光はそんなことはなく、三郎次の手の中でかすかに息づいている。

「そう言えば、昔じいちゃんに蛍は死んだ人の魂だって言われたな」

「あー、そうそう。うちのひいばあちゃんの三回忌、蛍見たからみんなで帰ってきたなって話したわ」

富松たちの会話に驚いて顔を上げた。それが勢いづいたせいか、彼らの方も驚いて三郎次を見る。

「ごめん、怖かったか?」

「海で死んだ人も?」

「え?」

「海で死んだ人も、山で蛍になるの?」

返事を待たずに涙が溢れる。いつかあの暗い海から帰ってくるのではないかと思っていた。そんなことはないと、わかっているのに。

「いいや!そんな馬鹿な話があるか!」

左門に肩を叩かれて息を飲む。三郎次の体が揺れたので、手の中にいた蛍もまた飛んでいった。あーあ、と次屋が視線だけでそれを追う。

三郎次、力強く左門の手が肩を抱いた。母親とは違う温もりは、それでも同じようにあたたかい。

「死んだ人がみんな蛍になっていたら、蛍が減ることなんてないからな」

「お前なー、なんか他に言うことあるだろ」

「なあ三郎次、みんな好きな場所に行ったんだ。蛍になりたいやつもいれば、海に行きたいやつもいるさ」

「俺死んだら女子更衣室に行くわ」

「次屋くん最低」

けらけら笑う次屋の頭上を蛍が横切る。汗くさいかも、と言いながら、富松が三郎次の顔をタオルで拭った。母親から何か聞いたのかもしれない。しかし彼らは何も言わなかった。

あの日のことを、三郎次はきっと忘れないだろう。

「蛍もきれいだけど、夜の海もきれいだったな」

あの美しく恐ろしい海が恋しくて、顔を上げると涙の海を淡い光が漂っていた。
2013'09.09.Mon
雨の降る夜だった。きっとその日雨が降っていなければ、ジャンはあんな声もそこまで気にしなかっただろう。或いは音楽プレイヤーの充電を忘れていなかったら、気がつかなかったかもしれない。その日は春にしては冷たい雨が降っていて、そしていつも外出時のお供をしている音楽プレイヤーの充電を忘れていた。そんな日に、雨粒によるビニール傘の演奏に混じって、子猫の鳴き声がした。

か細く甘えるような声が聞こえて、ジャンは軽く周囲に目をやった。この時間帯の車通りは多くはないが、深夜は大型トラックがよく通る。声の主はちゃんと避難しているのだろうか。それ以上特に気に留めるでもなく、意識はすぐに買ったばかりのCDに移る。知らないアーティストの曲を試聴で気になって買った。じっくり聞きたかったのに、昨日はバイトで疲れて帰るなり全てを忘れて眠ってしまったのが悔やまれる。うろ覚えの鼻歌を、猫の声が遮った。近い。振り返ると、バス停のベンチの下に白っぽい影が見える。小さな体全体を使った鳴き声は体にそぐわず大きく、ジャンを見つけて転がるようにこちらに向かってきた。ぎょっとしてジャンは再び歩き出すが、鳴き声はつかず離れずついてくる。ばたばたと傘を叩く雨はきっとひと晩続くだろう。そもそも朝から降っていた雨だ。まだ子猫だろうに、母親はどうしたのだろう。あんなに小さい体では、こんな雨も嵐のように感じるのかもしれない。天気予報では明日も雨だ。風も出るらしい。

ジャンは足を止めた。追いついた子猫が、ジャンの足下にまとわりつく。

「……クソッ」

バッグからタオルを引き抜いて、子猫をつまみ上げて包み込んだ。まさに濡れねずみとしか言いようのない小さな体は暴れたが、それは体勢が悪かっただけらしく、四肢を動かしてやがて落ち着いた。しかしにゃーにゃーと鳴き声だけは続き、ジャンは舌打ちをして足早にひとり暮らしのアパートに向かう。拾ってどうしようというのだろう。生き物の世話なんてものは、小学生の頃、クラスでハムスターを飼っていたぐらいで、ジャンはほとんどしたことがない。今夜ひと晩、この雨だけ乗り切って、あとは放り出してやろう。半端な世話は誉められたことではないのだろうが、無視をして帰ればこの小さな体が悲惨な目に遭う夢を見るに違いない。

部屋に帰ってから我に返った。姉が以前使っていたこの部屋はペットの飼える物件なのでそれは問題ない。しかし何の用意もないまま子猫を拾ってきてしまい、途方に暮れる。床に下ろすとタオルから顔を出してうろうろと歩き始めたが、その体はぷるぷると尻尾の先まで震えている。ジャンが濡れた靴下を脱ぎ捨てただけで座り込むとこちらに気づき、また力強い声で鳴きながらまとわりついてくる。膝にすり寄る子猫を掴んで、とにかくタオルで体を拭いた。少し力を入れたら折れてしまいそうな細い手足に不安になる。

どうしたらいいのかと途方に暮れる。思い浮かぶ人物がひとりいるが、あの男に助けを請うことはジャンにとっては耐えがたいことだ。しかし他に猫に関してジャンに適切な助言をくれるような相手は他にはおらず、インターネットで調べるということも考えたが、わかったところでもう店も開いていない。子猫は元気ではあるようだがさっきから鳴き続けているのは腹が減っているからだろうか。苦悩するジャンの手から転がり落ちた子猫は、珍しいからか、部屋の中を歩きだした。何か障害物を見つけては匂いを嗅いでいる。

ジャンは諦めて溜息をついた。自分が手を出したのだ、責任は取らねばならない。携帯を取りだして電話をかける。数コールで出た相手は、しかしやはり警戒していた。きっとジャンでも彼から連絡があれば警戒するだろう。ゼミの連絡網の関係で連絡先を知っているだけで、間違っても使ったことのない番号だ。

「エレン、今時間あるか」

『あるけど、何だよ』

「……子猫の世話、したことあるか」

『あ?』

「拾ったんだよ!」

『マジ?子猫?今ジャンのところにいるのか?』

「ああ」

『いいな〜子猫!触りてえ。あ、声がする』

部屋を回った子猫はまたジャンの元へ戻ってきていた。デニムに爪を立てて膝に上ってくる間も鳴き続けていて、それに応えるようにエレンの声が甘くなるのにぞっとする。

「だから世話だよ世話!どうすりゃいい」

『そう言われてもな、普通にご飯食えそうか?』

「わかんねえから聞いてんだ」

『あっコラッ!それ駄目だって!待てっ!』

「は?」

エレンの声が遠くなった。怒るような声がして、まもなく戻ってきたが心なしか疲れている。

『悪い、うちの猫が』

「……どうすりゃいい」

『大きさどれぐらい?』

「……両手で載るぐらい」

『じゃあ多分普通に食えるな。怪我はないんだな?』

「ないけど雨で濡れてた。タオルでは拭いたけど湿ってる」

『ドライヤー怖がらなかったら乾かしてやって。逃げたら無理するな、トラウマになるだけだから。あー……スーパー開いてねえよな』

「ああ」

『今からそっち行くわ。あ、水はやっていいけど牛乳はやるな』

「……わかった」

物凄く理不尽だがやむを得ない。ジャンの膝の間を往復している子猫を見ながら通話を切る。外では白っぽく見えたが明るいところで見るともう少し黄色がかっている。黄ばんでるだけじゃないだろうな、と体を転がしてみるがそういうわけではなさそうだ。ジャンを見上げるガラスのような瞳は青い。エレンの言葉を思い出し、猫を膝から降ろして洗面所にドライヤーを取りに行く。猫と比べるとドライヤーも大きく見えて、試しにそばで電源を入れてみると飛び上がって部屋の隅に逃げていった。駄目そうだ。仕方なくできるだけ乾かそうとタオルを持って猫を抱えた。腹の下に手を回せば片手で掴めてしまうような体でも、小さな命だと思うと投げ出したくなる。

エレンのうちはすでに猫を飼っている。ついでにこいつも引き取ってもらえないか聞いてみようと思っているうちにチャイムが鳴った。猫を置いて玄関に向かう。どれだけ飛ばしてきたのだろうか、ドアを開けると謎のゲージを抱えたエレンが立っている。

「……よう」

「ちっせえ〜!」

「は?」

エレンの目はジャンの足元を見ていた。すぐにしゃがみ込んだかと思えば抱えていたゲージを置くなり、ジャンの足元から子猫をすくい上げる。簡単に持ち上がった子猫はエレンの両手の中で大人しく頬ずりされていた。ふにゃふにゃと情けない声を上げているが嫌ではないようだ。それよりも隣のゲージが大きく揺れ、それに驚いてびくりとしている。

「かっわいいなぁ〜。金髪碧眼のかわいこちゃんだ。ドライヤーやっぱ駄目だったか?」

「ああ、逃げた」

「そっかそっか、よしよし寒かったな〜。お母さんはぐれちゃったか?かわいそうにな〜、お腹すいたよなぁ」

「その気色悪い声やめろよ……」

まさに猫撫で声とでも言うのだろうか。うるせえな、といつもの調子で毒づきエレンはやっと靴脱いで上がってくる。鞄から取りだしたのはキャットフードで、お湯でふやかして、とジャンに投げた。それぐらいは簡単なことだが、もっと説明すべきことがあるだろう。ジャンはエレンの横でがたがた揺れているゲージを指す。

「おい、それ何だよ」

「ああ、うちの猫」

「猫……?」

「うち今母さんいなくてさ、母さんいねえと悪さばっかすんだよ」

ジャンの知る猫はゲージをこんなに揺らすほど凶暴な生き物ではなかったはずだ。エレンは狭いところ嫌いなんだよなと笑っているが、これはその程度で済む話なのだろうか。皿に少し開けたキャットフードをポットのお湯でふやかして持っていくとエレンはやっと猫を降ろした。皿を前に置いてやると子猫は素早く駈け寄り、皿に前足を入れるほどの勢い出た食べ始める。やはりお腹が空いていたらしい。癪に障る相手ではあるが、猫のためには頼って正解だったようだ。

ゲージは相変わらずうるさいが、エレンは一向に構わず、後で出してやるから、と適当に声をかけている。幼い四肢を突っ張ってがつがつと食べる姿に頬を緩めて、エレンは子猫の尻尾を撫でていた。時々振り払うように激しく跳ねる尻尾を笑う。動物好きであることは間違いない。

「ちっちぇえな〜かわいいな〜。こいつもこんなに小さかったはずなのに、小さいときでもこんなに大人しくなかったぜ」

「……なあエレン、こいつお前んちで飼えないか?」

「なんで?ペット不可?」

「いや、部屋は大丈夫だけどよ……」

「もう1匹ぐらい大丈夫だけど……うーん、リヴァイがなぁ……」

エレンが横目でゲージを見る。持ってて、と抱き上げた子猫をジャンに押しつけ、エレンはゲージの戸を開けた。途端に黒い塊が飛び出して、ジャンは反射的に立ち上がる。それは真っ黒な猫だった。ジャンの手の中にほとんど隠れてしまっている子猫を威嚇して、その鋭い声に子猫はジャンの胸に爪を立てて肩までよじ登る。細いせいか小さな爪でも肌に刺さり、ジャンは悲鳴を上げて引きはがした。飛びかからんばかりの黒猫をエレンが素早く捕まえて、バシバシと蹴られたり噛まれたりしながらも再びゲージに押し込める。その間中、黒猫はこの世のものとは思えない鳴き声を上げていて、ジャンが抱き直した小さな生き物はずっと爪を立てていた。

「無理だな」

「猫こえぇ……」

「こいつ野良だったからさ、庭に来てたのを母さんが餌付けしたんだ。飼ってるっていうより夜寝に帰ってきてるだけみたいな猫なんだよ。違う匂いがするから威嚇してんだろうな」

「よくやるぜ……」

エレンの腕は一瞬で鋭いかき傷が何筋も走った。薄く血が滲んで腫れている。まだゲージの中で黒猫は暴れていて、リヴァイ!とエレンが声を荒げた時にはしばらく静かになったが、またすぐに暴れ始めた。

「まあ飼えねえってんなら探してやるよ。でも見つかるまではお前が面倒見てろよ」

「……お前んちには預けられねえようだからな」

子猫はまたジャンの肩まで登っていく。さっきほど爪は食い込まないが、柔らかい毛が首に当たるとくすぐったいのでまた腕に戻す。今度は狭い方へ行きたいのか、ジャンの脇の方に入り込もうとするのでまた引き戻した。

「ほんとは子猫用の餌の方がいいんだ、栄養価が違うから。お前明日バイト休み?」

「ああ、用はないが……」

「明日スーパー開いたら持ってきてやるよ。あ、あとトイレな、古いの持ってきたから。ちょっと躾いるかもしんねえけど、性格によるからなあ。基本的にはきれい好きだから、覚えりゃそこでしかしなくなる」

「トイレ……」

「うち買ったけどあんまり使わなかったからな〜。リヴァイ外でしてくるから」

テキパキとエレンは鞄から色々取り出すが、ジャンは生き物の世話をするという手間を考えて頭を抱えたくなる。腕の中の生き物はかわいいが、やはり飼える気がしない。

エレンが立ち上がってジャンの腕の子猫をのぞきこむ。曲げた肘の間で仰向けになった子猫の腹を指先で撫でてデレデレしているエレンは、こんなことがなければ見ることはなかっただろう。

「は〜いいなぁ!リヴァイと交換しようぜ」

「やだよ!」

「くっそ〜、かわいい。リヴァイがいなきゃ連れて帰るのに。嫌だよな〜こんな馬面が同居人なんて」

エレンが猫の腹に鼻を寄せた。動作としてはそうだが、それはジャンの腕に顔を埋める行為でもある。怯むジャンにお構いなしに、エレンはまた明日くるからなー、などと子猫に話しかけていた。握手、と称して前足を摘み、エレンはやっとジャンから離れる。

「じゃ!俺帰るから」

「……おう。ありがとな」

「寝てる間に押し潰すなよ」

「……あ」

「わーったって!帰るって!」

リヴァイの全身での抗議によってジャンの言葉は遮られた。ゲージを掴んでエレンはじゃあな、と帰っていく。腕から転げ落ちそうになった子猫をほとんど無意識にすくい上げ、無情に閉まったドアを見る。

「……え、お前どこで寝るの?」

ジャンが子猫を見下ろすと、青い瞳がジャンを見上げて、にゃあと愛想を振りまいた。
2013'09.06.Fri
「ご飯できたよ」

「ああ」

アルミンが声をかけたが、珍しくジャンは本に集中している。先日ジャンの部屋に新しく来たアルミラックは、先日棚が抜け落ちた古い本棚から教訓を得たものだが、今その一角をアルミンの本が占めていた。昔の教材だが気に入っているものや、単純に昔から好きな本などを少しずつ持ち込んでいる。自室が本で溢れそうだというとジャンが少しぐらいなら持ってきてもいいと言ってくれたので、その言葉に甘えていた。時々、暇を持て余したジャンがそれらを開いているのを知っている。

台所に立つアルミンからは、ソファーに座るジャンが今何を読んでいるのかは見えない。しかし文字列に向けられた静かな瞳や俯く横顔に、思わず口元を緩めた。読書は嫌いではないと言っていた。それでも、アルミンが本が好きだと知ってから、ジャンが本を読む姿を見ることが増えたのが素直に嬉しい。読んだ本について共有できることはもちろん、ジャンがアルミンに歩み寄ってくれるのが何よりも嬉しかった。

カラフルなサラダとメインの料理を皿に盛りつける。ひとり暮らしのジャンの部屋に来ることが増えて、一緒に食事をとることが増えて、どれぐらい経つだろう。一緒に買い物に行ってふたりで台所に立つこともあるし、今日のようにアルミンひとりで、またはジャンがひとりで作ることもある。ジャンの料理は大雑把ではあるが人に振る舞うには十分で、以外にも家庭的な面があるのだと思ったことはまだ記憶に新しい。

「ジャン」

「ん」

返事はするから、わかってはいるのだろう。それでも文字が自分を引きつけてやまない感覚を、アルミンは知っている。それ以上呼ばずにローテーブルを拭いて皿を並べた。



ジャンはこうして、好きになった相手に染まっていくのだろうか。

静かな食器の音を聞きながら、少しだけ頭をもたげる感情がある。アルミンと出会う前、ジャンは時間を共にした人がいた。彼女は、あるいは彼女たちは、ジャンにどんな影響を与えたのだろう。ジャンとどのように過ごしたのだろう。誰かを好きになるという経験が初めてのアルミンには、それを尋ねていいものかどうかもわからない。知りたくもあるし、知りたくないことでもある。もし比べられているのなら、自分の評価はどれほどのものなのだろうか。

周りの友人たちは恋の話に一喜一憂していたけれど、もし自分の立場ならもっと冷静でいられると思っていた。しかし実際は恋に溺れたアルミンも彼女たちと何も変わらず、テキストのない問題に己だけで立ち向かわなければならない状況に戸惑っている。手を伸ばせば温もりを与えてくれる存在になり得たことだけでもまだ信じられなかった。



テーブルの用意も済んで、アルミンはジャンの足元に座り込んだ。膝に頭を預けると、こちらを見ないままだが優しく髪を撫でられる。目を閉じてそれ受け入れ、もうしばらく待つとジャンはやっと本を閉じた。

「悪い」

「ううん。面白い?」

「ああ」

「残念だけど、続きはご飯の後で」

笑って手を引けばジャンは素直にソファーを降りて、テーブルの前に座りなおした。ふたりで手を合わせて、夕食を食べ始める。食事中のジャンは読書中の静かさとは違い、決して賑やかではないが適度な会話でアルミンを飽きさせない。仕事中にあったことやテレビで見た話、アルミンの話からまた発展させて、会話は続く。アルミンも話をすることは嫌いではないが冗談を言えるタチでもなく、知識にも偏りがあるのでジャンとの会話は新鮮だ。

ジャンの口元に視線を落とす。好き嫌いはない。甘いものは好きではないが嫌いでもない。辛いものはアルミンよりは得意。一緒に食事をするだけでいろんなことを知る。恋人と言う関係になってもなかなか都合が合わず、デートなどはできていないが、アルミンはできるだけジャンのそばにいた。

一緒に食事をした時間は、ジャンの肉体になる。もうひと月は経っただろうか。ジャンの体は、どれぐらいアルミンと過ごした時間になっているだろう。同じだけ、アルミンの体もそうなっている。

話をしても、触れあっても、まだ時々不安になるのはアルミンだけなのだろうか。ジャンが以前つき合っていた女性を別れた理由は知らないけれど、それはジャンのように魅力的な男でも何かのきっかけで誰かと縁が切れることもあるということだ。それは、ジャンとアルミンの別れが来ることもあり得るということだ。

もしその日が来ても、しばらくはジャンの体にアルミンと過ごした時間が残る。

箸を扱うその指先に触れられたいと思い、食事中だと自分を制する。それでも、少しの期待を押さえられない。本の続きを後にしてほしいと願うのはわがままだろうか。ここにあるアルミンの本は是非ジャンにも読んでほしいものばかりで、手に取ってくれることは嬉しいことだ。それでもまだ、欲を出す。



テーブルの下で何かが膝に触れて飛び上がる。勢いでテーブルに膝をぶつけて食器が鳴った。痛みに耐えて悶えていると、正面のジャンが笑い声をあげる。膝を撫でたジャンの足を蹴り返すが簡単に押さえつけられた。重たい足が乗せられると動かせなくて、悔しくてジャンを睨むが涼しい顔で食事を再開している。

「ジャンの馬鹿」

「飯食いながらなんて顔してんだよ」

「……どんな顔してた?」

ジャンが笑う。それはとても食事中とは思えない。耳まで熱くなって俯いて、アルミンも箸を握るが、うまく飲み込める気がしなかった。

全部見透かされてしまう。アルミンの思いは、ジャンにどれほど筒抜けなのだろう。つまらない過去への嫉妬も見抜かれているのだとしたら恥ずかしいどころではない。そんな男を選んで、ジャンは後悔しないだろうか。

アルミンの思考はいつも、ジャンの体温で遮られる。テーブルの下で触れる熱に、ただ耐えて口を開いた。
2013'09.05.Thu
「おはようございます!」

(おはようございます)

「暑いっすね。あ、車で行きます」

カメラに向かって笑いかけ、竹谷は行き先を指さした。変装している様子もないが、堂々としている。

(ファンに見つかったりしませんか?)

「ひとりでいるときはないですね〜。あ、レンタルショップの18禁コーナーに入るときは変装します」

スタッフが思わず笑い声をこぼすと、その反応に竹谷は少年のような笑みを見せた。からかう姿にも嫌味がない。



『朝から爽やかな笑顔でスタッフを迎えてくれたのは、今をときめく若手俳優、竹谷八左ヱ門さん。忍たま乱太郎を始めとして、ドラマに舞台にと活躍しています。今日はそんな彼の素顔を見せてもらいましょう』



カメラは助手席から竹谷を映す。車を発進させた竹谷は時々横目で隣を見た。

「なんか緊張しますね」

(してるように見えませんよ)

「ほんまですか?心臓バックバクですよ」

(お休みの日は普段何をされてるんですか?)

「家にはいないですね。誰とも予定がなければジムに行ったり、後輩の稽古に混ぜてもらったり」

(プロですね)

「じっとしてられないだけです。俺、小学校の時に夏休みの宿題終わらせたことなんかないですよー」

車は住宅街に入っていく。慣れているのか迷わず車を進め、通りを抜けた先の広場の前で止まった。そこには子どもたちが集まっている。

「竹谷くん来た!」

「遅〜い!」

「なんでお前らもう汗だくなん?」

「影踏みしてた!」

「アホちゃうか」

車を降りると竹谷はすぐに囲まれる。自分の首に巻いていたタオルで汗を拭いてやる姿は自然なものだったが、子どもはふざけて逃げ出した。

「みんな来てるか?はい番号ー」

「いーち」

「にーい」

「さーん」

「アルカリー!」

竹谷がふざけたひとりをすかさず捕まえてくすぐってやる。大きな声で笑いながら逃げていく姿にまた笑いが広がった。

(お兄ちゃんですね)

「なんも言うこと聞きませんよ。ほら、お世話になるから挨拶せえよー」

「はーい!上島一平です!竹谷くんとは『忍たま乱太郎』で一緒にお仕事しています!」

「佐武虎若です!僕も『忍たま』です!」

「初島孫次郎です。『忍たま』でお世話になっています」

「夢前三治郎です!いつも竹谷くんのお世話をしています!」

「このやろっ」

「きゃーっ!」

笑いながら逃げていく子どもを追い立て、竹谷は車に乗せていく。付き添っていた保護者に挨拶を済ませて竹谷が車に戻ったときには少し疲れているようにも見えた。

「ちゃんと座ってろよ」

「はーい」

「帽子!飲み物!カメラ!忘れ物あるなら今のうち!」

「大丈夫でーす」

「ほんまかい」

竹谷は車を走らせる。後部座席は賑やかで、カメラはそちらを映した。

(いつも竹谷くんと遊ぶの?)

「あのなー、こないだはユニバ行ってん」

「海も行ったで」

「僕一緒にひらパー行った!」

(そうなんや、ええなぁ)

「でも竹谷くんめっちゃうるさいよな」

「ほんまに!おかんよりうるさいで」

「虎若〜三治郎〜アウト〜」

運転席で竹谷が低い声を出し、子どもたちはけらけら笑う。カメラは降ろしたろか、と毒づく竹谷も映したが、その表情は怒ってはいない。

(あちこち行かれたんですね)

「ちゃうんですよ、こいつら勝手に遊ぶ予定に俺を組み込むんですよ」

「だって竹谷くんも夏休みやろー?」

「ちゃんとお仕事してますぅ〜」

(今日はどちらに?)

「「水族館!」」

竹谷の代わりに子どもたちが叫ぶように答えた。



親子連れやカップルで賑わう水族館に着くと、子どもたちは静かになった。竹谷が買った入場券の絵柄を見せ合っている姿は、さっきまでとは別人のように大人しい。カメラが竹谷を向くと、気づいたように苦笑した。

「あの子らもプロなんで。礼儀に関して言えば俺がガキの頃よりちゃんとしてますよ」

「竹谷くんの何?」

「ん?イルカ」

「いいな〜!交換!」

交換と言いながら入場券をひったくり、自分が持っていたものを押しつけていく。誉めたのに、と言いながら竹谷が見せた入場券にはカニがプリントされていた。

「竹谷くん、入っていい?」

「ああ。迷子になるなよ」

子どもたちに続いて竹谷が足を進める。入ってすぐの大きな水槽には様々な魚が泳いでいて、子どもたちは自然にまとまったままそちらに向かっていった。

(みんな子役の子なんですね)

「ふざけてるところ見るとただの子どもなんですけどね。あ、今日はカメラあるのでちょっとテンション高かったですけど」

(そうなんですか)

「多分俺より緊張してたと思いますけど、全然見せないでしょ。将来有望で怖いぐらいで」

「竹谷くん、あれ何?」

呼ばれて竹谷が水槽に向かう。高いところにある案内を見ながら説明をすると、子どもたちは食い入るように水槽を見つめていた。

その後ろ姿を、竹谷がデジカメを取り出して写真におさめる。それで気づいた子どもたちは各々バッグからゲーム機を取り出した。カメラ機能が付いたもので、それを水槽に向ける目は真剣だ。

「いいな〜あれ。俺の古いからカメラなくて」

(最近のゲームはすごいですね)

「ね、ずるいですよね。俺夏休み入ってからデジカメ買ったんです。あいつらなんでか俺ばっかり撮るから、俺が親御さんに後でデータ渡してます」

言いながら子どもが竹谷にカメラを向けて、竹谷がふざけて返したので静かな笑いが広がった。

小さな子どもが後ろにいることに気がついて、竹谷がさりげなく一人の肩を叩いた。気づいた子は顔を上げ、次行こう、と竹谷の手を引く。

順路にそって館内を進んでいく。誰かが質問をすれば竹谷は熱心に答えていた。

(三治郎くん)

「はい」

(竹谷くんはどんな人?)

「えーっとね、めっちゃ優しいで!たまにめっちゃ怒るけど。僕お兄ちゃんはおらんけど、お兄ちゃんみたい」

「何なに?」

「竹谷くんの話」

三治郎の隣に一平がやってくる。竹谷くんなー、とこぼす笑い声は自然なものだ。

「竹谷くんすぐ疲れたって言うねんで」

「おっさんやもんなー」

「なー」



*



場面は変わり、竹谷はあるスタジオに入っていく。中でストレッチをしていた尾浜が顔を上げた。

「うぃーす」

「いーっす。いいもんあるじゃん。お久しぶりです」

(お久しぶりです)

「勘ちゃん知り合い?」

「前に俺も撮ってもーた。そらもう舐めるように撮るんやもん、忘れようにも忘れられへんわぁ」

カメラをからかう尾浜はすっかり用意ができているようだ。竹谷のストレッチを待って、練習が始まった。

(今日は何の練習ですか)

「舞台です。トレジャーハンターのお話で、俺三枚目やります」

(三枚目ですか)

「そう、勘右衛門とペアなんでつられないように必死です」

その背後からぬっと尾浜が現れる。竹谷に甘えるようにすがるので、嫌な顔で引きはがされた。

「はちえも〜ん、バク転がきれいに決まる道具だ〜して〜」

「痩せろ!」

「痩せたやん!痩せましたやん!これ以上痩せたらガリガリやん!」

「衣装合わせまであと5キロ絞るんやろ」

「せやねん。今日焼き肉行ったからその分動かな」

「アホか。バク転どこの?」

「始めに出るとこ。八が下手で俺が上手から」

「『呼ばれて飛び出て!』」

「シュタッ!シュタッ!バーン!『泣く子も黙るはっぱ隊!』」

「ちゃう」

「『ピッピカチュウ!』」

「ちゃう」

「『ルパン・ザ・サード!』」

「やめさせてもらうわ」

「ごめんて。セリフ言わなあかんからぴゃっと決めなあかんやん、でもよろけるやん、ここのセリフぱっつぁんだけにせん?」

「なんでやねん。決めシーンや」

やるで、と竹谷が促し、ふたり同時に構えて助走をつける。用意されたマットの上に、竹谷はきれいに技を決めて着地した。尾浜はやや着地でよろけ、そのままバランスを崩して倒れ込む。

「体が重い!」

「痩せろ!」

「俺実は妖精やなくておっさんやねん!」

「知っとる」

カメラは練習風景を追っていった。昼間子どもたちと関わっていたときに笑顔を絶やさなかったのが嘘のように、打って変わった厳しい表情が続く様子もある。真摯な表情は伝播して、年の近い尾浜も真剣に先輩にも構わず意見していく。

(竹谷くんはどんな人ですか?)

「え〜?面倒なやつ」

簡潔に言い切って尾浜は笑う。指導を受けていた竹谷が気にしたようにこっちを見たが、来ることはできずにそわそわとしていた。

「見たままアホやのに意外とまじめやし、あと体育会系やから暑苦しい。まあ嫌いではないけど」



*



(お疲れさまでした)

「お疲れさまでしたー。ありがとうございます」

稽古を終えて出てきた竹谷に疲れた様子はない。朝と変わらない笑顔をカメラに向けている。

(竹谷さんにとって、今の生活はどんなものですか?)

「んー、そうですね……いろんなことがあって、日々勉強ですね。でも毎日、大切です」

笑顔で挨拶をし、竹谷は最後までスタッフを見送った。



『竹谷くんの舞台は今月20日から23日、シアター丸山にて上映されます。素敵な笑顔をぜひ、劇場でご覧下さい。きっと彼が好きになります。本日のひとりは、竹谷八左ヱ門さんでした』
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