言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'08.27.Tue
「アルミン、そこ終わったら……何見てんだ?」
「……ジャン、僕の前にもおつき合いしてた人いるんだよね」
しゃがみ込んだ後姿から嫌な予感がして、ジャンは思わず溜息をつきそうになる。眩しいほどの金髪黒いオーラを放って見えるほどのお怒りだ。
ジャンの部屋は大掃除の途中だった。ひとり暮らしを始めたときからつき合ってきたテレビが壊れ、おまけに本棚が決壊して使いものにならなくなったのだ。家電は同時に壊れるなどというがそんなに出費はできない、と嘆いていると、職場の先輩が電子レンジを譲ってくれることになったのだ。今まで使っていたものも確かにそろそろ怪しく、いっそ壊れてしまえば変えられるのにと思っていたのでありがたい言葉だ。
そんなわけで模様替えのついでに大掃除、ということで、休日返上で朝から働いていたのだが、手伝ってくれていたアルミンもついに集中力が途切れたらしい。日頃職業的に肉体労働をしているジャンとは体力の差は明白だ。できるだけ大きなものはジャンがしていたのだが、そろそろ休憩も考えていたところだった。
本棚の隙間から、一体何が出てきたというのだろう。ジャンが以前女性とつき合っていたというのは随分前のことで、今更長い髪が出てきたりということはないと思うのだが。
「どうした急に」
アルミンの後ろから覗きこめば、その手にあるのは指輪だった。げっ、と呻きそうになるのをこらえる。それは嫌というほどはっきり記憶している代物だ。
それなりに長くつき合った彼女だった。この部屋で大喧嘩をして別れたのだが、その時に指輪を投げつけられたのだ。大喧嘩とはいえどちらかがはっきりと悪かったというわけではなく、すれ違いの結果での別れだ。ジャンはどこに消えたのかわからない小さな貴金属を探すほどすぐにショックから回復はしなかったし、よりが戻ったら新しいのを買おうと思っていた。彼女が戻ってくることはなかったけれど。
勿論、今のジャンには何の未練もない。今ここで殺気を放つ、本来なら穏やかでかわいらしい子とおつき合いをしているのだ。今更今までの彼女が泣いてすがってきても突き放す自信があるぐらいには惚れている。
しかし誰かとつき合うという経験がジャンが初めてだというアルミンは、少しのことでも穏やかではいられないらしい。一体どれほど信用がないのかと少し悲しくもあるが、幼い嫉妬を見せられるのも満更ではなかった。少々面倒ではあるので、そう頻繁では困るけれども。
ジャンを一切振り返らず、アルミンは黙ったまま指輪を自分の指に通す。それがちゃっかり左手の薬指なのは、何を考えてなのだろうか。その指で正解ではあるのだが、ジャンとしては複雑だ。
指輪は勿論途中の節で止まってしまう。アルミンがいくらジャンと比べて華奢だとはいえ、――彼は立派な成人男子だ。同僚のように肉体労働をしているサシャやユミルならいざ知らず、普通のOLだった彼女の指と比べればアルミンの指の方が多少なりともたくましいだろう。
「あー、アルミン?」
「……頭ではわかるんだ。ジャンは今は僕を見てくれているし」
「ああ」
「でも、もっと小さくてかわいい子がジャンの側にいたんだなと思うと、ちょっと悲しい」
「おっ……まえなぁ!」
「わっ」
押し倒さんばかりの勢いでアルミンに抱きついた。さっきまでまとっていた殺気を引っ込めて、しゅんと肩を落としたアルミンがかわいくないはずがない。抱きしめてその髪を乱しながら丸い頭を撫でる。犬でも撫でるような勢いにアルミンに押し返されるが離さない。
「お前ほどかわいいやつがいるわけないだろう」
「……それ、いつも言ってたりして」
「言わねえよ」
「ふふ、ごめん、変なこと言って」
機嫌の直ったらしいアルミンから少し離れ、その手から指輪を引き抜いてゴミ箱に投げる。カランと景気のいい音を立てておさまった指輪にぽかんとして、アルミンが少し困ったようにジャンを見上げた。
「あの」
「指輪、買いに行くか」
「いっ、いい!いいよ!あんなの僕似合わないし!」
「嫌ならつけなくてもいい。持っててくれたらいい」
「……じゃあ、今じゃなくていい。僕も働き出して、ジャンに指輪を贈れるぐらい稼げるようになってから、僕に指輪をちょうだい」
「何年待たせる気だよ」
笑いながらキスをする。くすぐったそうに受け止められたキスは柔らかい。
「でもやっぱり買いに行く」
「えっ」
「安いのでいい。虫除けだ」
「……あー、うー……」
それはもう大丈夫、とアルミンは突然赤くなって俯いた。学生のアルミンには接する人が多いだろうと前から気にしていたのだが、アルミンの反応が思っていたものではないので気になった。頬を撫でて上を向かせると、視線をそらして小さくつぶやく。
「学祭の時に撮った写真に、キスマーク見えてるの混ざってて……」
「……あー、それは」
ジャンの知らぬところでさぞからかわれただろう。しかし恥じらう姿がかわいくて、反省する気は全く起きない。首筋に唇を当てると弾かれたように突き飛ばされる。しかし倒れそうになったのはアルミンのせいで、慌てて腕を掴んで引き留めた。
「もう!」
「ごめんって。ちょっと休憩するか。大体場所も作れたし、飯食いに行って一緒に本棚見に行こうぜ」
「あ、うん」
一緒に出掛けるのは久しぶりだ。アルミンが頬を綻ばせるのが愛しくて、やはりもう少し時間を作って出かけたいと思う。
食事の帰りにアクセサリーショップを通りかかって、中に引きこもうとすると真っ赤な顔で逃げられた。それをからかって追っていると、本屋に逃げ込んだアルミンが棚の前から動かなくなる。手に取ったそれを開き、ぱらぱらとページを送った後、一ページ目から開き直すので溜息をついて取り上げた。
「あっ」
「誰かさんには指輪よりこっちの方がいいようで」
「!」
いいから!と慌てるアルミンを無視してレジに向かう。家具屋に行くのにアルミンと一緒でよかったと思った。きっと棚に収まるのは、アルミンの本ばかりになるだろう。
「……ジャン、僕の前にもおつき合いしてた人いるんだよね」
しゃがみ込んだ後姿から嫌な予感がして、ジャンは思わず溜息をつきそうになる。眩しいほどの金髪黒いオーラを放って見えるほどのお怒りだ。
ジャンの部屋は大掃除の途中だった。ひとり暮らしを始めたときからつき合ってきたテレビが壊れ、おまけに本棚が決壊して使いものにならなくなったのだ。家電は同時に壊れるなどというがそんなに出費はできない、と嘆いていると、職場の先輩が電子レンジを譲ってくれることになったのだ。今まで使っていたものも確かにそろそろ怪しく、いっそ壊れてしまえば変えられるのにと思っていたのでありがたい言葉だ。
そんなわけで模様替えのついでに大掃除、ということで、休日返上で朝から働いていたのだが、手伝ってくれていたアルミンもついに集中力が途切れたらしい。日頃職業的に肉体労働をしているジャンとは体力の差は明白だ。できるだけ大きなものはジャンがしていたのだが、そろそろ休憩も考えていたところだった。
本棚の隙間から、一体何が出てきたというのだろう。ジャンが以前女性とつき合っていたというのは随分前のことで、今更長い髪が出てきたりということはないと思うのだが。
「どうした急に」
アルミンの後ろから覗きこめば、その手にあるのは指輪だった。げっ、と呻きそうになるのをこらえる。それは嫌というほどはっきり記憶している代物だ。
それなりに長くつき合った彼女だった。この部屋で大喧嘩をして別れたのだが、その時に指輪を投げつけられたのだ。大喧嘩とはいえどちらかがはっきりと悪かったというわけではなく、すれ違いの結果での別れだ。ジャンはどこに消えたのかわからない小さな貴金属を探すほどすぐにショックから回復はしなかったし、よりが戻ったら新しいのを買おうと思っていた。彼女が戻ってくることはなかったけれど。
勿論、今のジャンには何の未練もない。今ここで殺気を放つ、本来なら穏やかでかわいらしい子とおつき合いをしているのだ。今更今までの彼女が泣いてすがってきても突き放す自信があるぐらいには惚れている。
しかし誰かとつき合うという経験がジャンが初めてだというアルミンは、少しのことでも穏やかではいられないらしい。一体どれほど信用がないのかと少し悲しくもあるが、幼い嫉妬を見せられるのも満更ではなかった。少々面倒ではあるので、そう頻繁では困るけれども。
ジャンを一切振り返らず、アルミンは黙ったまま指輪を自分の指に通す。それがちゃっかり左手の薬指なのは、何を考えてなのだろうか。その指で正解ではあるのだが、ジャンとしては複雑だ。
指輪は勿論途中の節で止まってしまう。アルミンがいくらジャンと比べて華奢だとはいえ、――彼は立派な成人男子だ。同僚のように肉体労働をしているサシャやユミルならいざ知らず、普通のOLだった彼女の指と比べればアルミンの指の方が多少なりともたくましいだろう。
「あー、アルミン?」
「……頭ではわかるんだ。ジャンは今は僕を見てくれているし」
「ああ」
「でも、もっと小さくてかわいい子がジャンの側にいたんだなと思うと、ちょっと悲しい」
「おっ……まえなぁ!」
「わっ」
押し倒さんばかりの勢いでアルミンに抱きついた。さっきまでまとっていた殺気を引っ込めて、しゅんと肩を落としたアルミンがかわいくないはずがない。抱きしめてその髪を乱しながら丸い頭を撫でる。犬でも撫でるような勢いにアルミンに押し返されるが離さない。
「お前ほどかわいいやつがいるわけないだろう」
「……それ、いつも言ってたりして」
「言わねえよ」
「ふふ、ごめん、変なこと言って」
機嫌の直ったらしいアルミンから少し離れ、その手から指輪を引き抜いてゴミ箱に投げる。カランと景気のいい音を立てておさまった指輪にぽかんとして、アルミンが少し困ったようにジャンを見上げた。
「あの」
「指輪、買いに行くか」
「いっ、いい!いいよ!あんなの僕似合わないし!」
「嫌ならつけなくてもいい。持っててくれたらいい」
「……じゃあ、今じゃなくていい。僕も働き出して、ジャンに指輪を贈れるぐらい稼げるようになってから、僕に指輪をちょうだい」
「何年待たせる気だよ」
笑いながらキスをする。くすぐったそうに受け止められたキスは柔らかい。
「でもやっぱり買いに行く」
「えっ」
「安いのでいい。虫除けだ」
「……あー、うー……」
それはもう大丈夫、とアルミンは突然赤くなって俯いた。学生のアルミンには接する人が多いだろうと前から気にしていたのだが、アルミンの反応が思っていたものではないので気になった。頬を撫でて上を向かせると、視線をそらして小さくつぶやく。
「学祭の時に撮った写真に、キスマーク見えてるの混ざってて……」
「……あー、それは」
ジャンの知らぬところでさぞからかわれただろう。しかし恥じらう姿がかわいくて、反省する気は全く起きない。首筋に唇を当てると弾かれたように突き飛ばされる。しかし倒れそうになったのはアルミンのせいで、慌てて腕を掴んで引き留めた。
「もう!」
「ごめんって。ちょっと休憩するか。大体場所も作れたし、飯食いに行って一緒に本棚見に行こうぜ」
「あ、うん」
一緒に出掛けるのは久しぶりだ。アルミンが頬を綻ばせるのが愛しくて、やはりもう少し時間を作って出かけたいと思う。
食事の帰りにアクセサリーショップを通りかかって、中に引きこもうとすると真っ赤な顔で逃げられた。それをからかって追っていると、本屋に逃げ込んだアルミンが棚の前から動かなくなる。手に取ったそれを開き、ぱらぱらとページを送った後、一ページ目から開き直すので溜息をついて取り上げた。
「あっ」
「誰かさんには指輪よりこっちの方がいいようで」
「!」
いいから!と慌てるアルミンを無視してレジに向かう。家具屋に行くのにアルミンと一緒でよかったと思った。きっと棚に収まるのは、アルミンの本ばかりになるだろう。
PR
2013'05.10.Fri
「藤代選手だ」
人波から聞こえた声に藤代は耳聡く反応する。ぱっと振り返って声の主を確認し、目が合った相手が動揺したのを見て笑って手を振った。やめなよ、隣の笠井は眉をひそめる。
「また人だかりになったらどうするの」
「大丈夫でしょ」
「どうでもいいけどひとりのときにして!」
「はいはい」
「今日は遅刻できないんだからね!先輩の結婚式に遅れるなんてとんでもない!」
「はいはい」
のんきに笑う藤代を引っ張って式場へ向かう。慣れない正装のはずなのに藤代はよく着こなしていた。生まれもって持っているものの差はずるい。もう何度も着たスーツ姿で歩く笠井はどう見えているのだろう。元恋人の結婚式に行くように見えるだろうか。
純白のウエディングドレスは笠井にだって着られないことはないだろう。限りなく犯罪的ではあるかもしれないが、着てはいけないということはない。しかしそれは一体誰が得をするのだろうか。笠井が尊厳を失うだけである。
花嫁を見ながら気もそぞろでそんなことを考えているのは、きっと笠井だけだ。
祝福される新郎新婦。勿論笠井も祝うつもりできたのだ、恨み言を言うつもりもない。ただ、笑顔の三上が眩しくて。
タキシードを着こなした三上の姿に涙がにじむ。嫌いで別れたわけではないのだ。若い熱が冷めてお互い大人になった。それだけのことだった。そう思っているのは、三上だけだということだった。
藤代に引っ張られて三上のそばに連れて行かれる。見上げた三上は嬉しそうで、笠井は思わず涙をこぼした。数々の思い出が走馬燈のように蘇る。不器用に気持ちを交わしたこと、つまらないことで喧嘩をしたこと、初めてキスをしたこと。こんなにも鮮やかに思い出すことができるのに、二人のこの先には何もない。
「笠井、おい」
かすれた声で名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開けた。隣を見ると三上が大きなあくびをして、低くうなって枕に突っ伏す。今のは夢だとすぐに理解した。顔を伏せたままの三上が手探りで笠井の腹を撫でている。時計を見上げると針は5時を指していた。三上の起きる時間だ。あくびをかみ殺しながらこっちを見た三上はまだ視線がどこか虚ろだ。
「泣きながら寝てるからよ、起こしてやった方がいいかと思って」
そう言われて初めて自分が泣いていることに気がついた。目を拭って三上を見る。あやすようにぽんぽんと腹を叩く手は重そうだ。
「どんな夢見てたんだよ」
「あー……思い出せない」
「ふぅん」
三上が目を閉じた。うとうとしかけたのを見計らったかのように、目覚まし時計が鳴り出す。三上は手を伸ばしてそれを止め、渋々と行った様子で体を起こす。
「寝てろ」
笠井が体を起こそうとすると制されて、三上は足を引きずるように寝室を出ていった。階段を降りる足音が頼りなく、毎日のことながら落ちやしないか心配になる。今日は練習試合の日だったか。コーチも何かと忙しい。言われたとおりに寝ようとしたが目が冴えて、朝食ぐらい用意してやろうとベッドを出る。洗面所で顔を洗う音を聞きながら台所に入った。
ふたりで暮らし始めて何年経つだろうか。住宅街の端とはいえ、戸建ての家に男がふたり。そこにピアノを持ち込んで教室を開いたが、よくこんな怪しいところに通わせる親がいたものだ、と他人事のように考える。最も、好奇心もあるだろう。今も生徒は埋まっている。
フライパンを火にかけて卵とベーコンを取り出す。相変わらず料理は三上の方がうまいが、さすがにこの程度は慣れた。熱されたフライパンにベーコン、続いて卵を落とせば、じゅう、といい音がして食欲を誘う。裸足の足音をさせて三上が洗面所を出てきた。さっきよりは目に力が戻っている。
「焦がすなよ」
「うるさいなぁ、じゃあ食べなくていいですよ」
「いる」
コーヒーを入れる三上を振り返ると、後頭部に寝癖が残っている。引っ張って指摘してやるとしかめっ面で洗面所に戻っていった。
――こんな生活を何年も続けているのに、今更あんな夢を見るんだな。我ながら情けない。フライパンに水を差してふたを閉める。いつかあの夢のようになるのだとずっと覚悟していたのに、気がつけば三十路は目の前だ。人生の半分以上を共にして、常に平穏な日々というわけでもなかった。今度こそ、ということは何度となく訪れたのに、結局こうして一緒にいる。そのたび元の鞘に戻ったか、などと言われてきたが、果たして自分たちま元々つがいとなれるものなのだろうか。そんなつまらないことを考えているとフライパンの音は聞こえなくなり、はたと気づいて蓋を開けたときにはベーコンの端が焦げている。知らんぷりを決め込んで皿に移した頃三上が戻ってきた。何か言いたげであったが、笠井が三上を見ないので黙ってトースターにパンを投げ込む。
「あ、俺今夜いないから、晩飯お好きにどうぞ」
「あー、今日だっけ?先生のコンサート」
「うん。多分打ち上げもつきあうと思うから」
「俺も多分反省会という名の飲み会」
「毎度お勤めご苦労様です」
「飲み会で思い出した。中西からメール来てた」
「中西会久しぶりだ」
「根岸が東京出てくるんだと」
「えー、会いたいなぁ」
焼けたパンと皿を手に三上は台所を出る。主婦の憧れかどうかは知らないが、笠井は特に興味のないカウンターキッチンから三上を見ながら、笠井はパンにするかご飯にするか迷っている。
きっと、こんな家にいるから離れることのないまま今日まで来てしまったのだ。ここは三上の母方の実家だった家だ。結婚してから家を出て、その両親、三上の祖父母は優雅にハワイで暮らしているらしい。東京にいるなら使ってほしいと三上が頼まれ、なんやかんやで一緒に住むことになってしまった。男ふたりの生活にミスマッチな二階建ての住宅。馴染んでしまえば居心地もよく、三上と共にというよりはこの家と共にという選択かもしれない。
「……ご飯にしよう」
「あ?」
「何でもー」
セットしていた炊飯器を開ける。つやつやの白米を見ると俄然食欲が沸いてきて、時間はあるからと鮭を焼くことにする。その間に三上は朝食を終えてしまった。食器はそのままカウンターで受け取ると、三上はすぐに部屋に向かう。
「中西会いつー?」
「忘れたー」
あとで確認しておこう。飲み会をしようと言い出すのは大体中西だ。それぞれ家庭を持つ者も増えてきて、集まる人数は毎回違う。いつだったか藤代と渋沢が揃ったときに居酒屋を選んだのは大失敗で、この家に逃げてきてやり直したことがあった。今回はどうだろうか。相変わらず海外にいる親友も、帰国したときは律儀に連絡をくれる。今帰ってきていたはずだ。
そこまで考えて、今朝の夢を思い出した。思わずグリルを見たまましかめっ面になる。睨んだって焼けねえぞ、背後からの声にそのままの表情で振り返った。すっかり支度のできた三上が笑う。
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
新婚でも夫婦でもないので玄関まで見送りはしない。ドアの音を聞きながら魚をひっくり返す。
この先も、一体いつまでこんな生活をするのかと思いながら暮らすのだろうか。男と女ならもう何年も前に結婚しているのかもしれない。
魚が焼けると味噌汁がほしくなったが、今日は土曜日、あまりのんびりしていると午前中の教室が始まってしまう。あまり練習をしてこない子だが、そのせいなのかいつも早めに来るのだ。少し焦ったが、三上に合わせて起きたのでまだ早朝なのだと思い出す。テレビをつけるとスポーツニュースの時間だった。サッカーの話題は大体誰かしら知っている名前が出てくる。
「いただきます」
久しぶりに走りに行こうか。どうやら天気もよさそうだ。
人波から聞こえた声に藤代は耳聡く反応する。ぱっと振り返って声の主を確認し、目が合った相手が動揺したのを見て笑って手を振った。やめなよ、隣の笠井は眉をひそめる。
「また人だかりになったらどうするの」
「大丈夫でしょ」
「どうでもいいけどひとりのときにして!」
「はいはい」
「今日は遅刻できないんだからね!先輩の結婚式に遅れるなんてとんでもない!」
「はいはい」
のんきに笑う藤代を引っ張って式場へ向かう。慣れない正装のはずなのに藤代はよく着こなしていた。生まれもって持っているものの差はずるい。もう何度も着たスーツ姿で歩く笠井はどう見えているのだろう。元恋人の結婚式に行くように見えるだろうか。
純白のウエディングドレスは笠井にだって着られないことはないだろう。限りなく犯罪的ではあるかもしれないが、着てはいけないということはない。しかしそれは一体誰が得をするのだろうか。笠井が尊厳を失うだけである。
花嫁を見ながら気もそぞろでそんなことを考えているのは、きっと笠井だけだ。
祝福される新郎新婦。勿論笠井も祝うつもりできたのだ、恨み言を言うつもりもない。ただ、笑顔の三上が眩しくて。
タキシードを着こなした三上の姿に涙がにじむ。嫌いで別れたわけではないのだ。若い熱が冷めてお互い大人になった。それだけのことだった。そう思っているのは、三上だけだということだった。
藤代に引っ張られて三上のそばに連れて行かれる。見上げた三上は嬉しそうで、笠井は思わず涙をこぼした。数々の思い出が走馬燈のように蘇る。不器用に気持ちを交わしたこと、つまらないことで喧嘩をしたこと、初めてキスをしたこと。こんなにも鮮やかに思い出すことができるのに、二人のこの先には何もない。
「笠井、おい」
かすれた声で名前を呼ばれ、ゆっくりと目を開けた。隣を見ると三上が大きなあくびをして、低くうなって枕に突っ伏す。今のは夢だとすぐに理解した。顔を伏せたままの三上が手探りで笠井の腹を撫でている。時計を見上げると針は5時を指していた。三上の起きる時間だ。あくびをかみ殺しながらこっちを見た三上はまだ視線がどこか虚ろだ。
「泣きながら寝てるからよ、起こしてやった方がいいかと思って」
そう言われて初めて自分が泣いていることに気がついた。目を拭って三上を見る。あやすようにぽんぽんと腹を叩く手は重そうだ。
「どんな夢見てたんだよ」
「あー……思い出せない」
「ふぅん」
三上が目を閉じた。うとうとしかけたのを見計らったかのように、目覚まし時計が鳴り出す。三上は手を伸ばしてそれを止め、渋々と行った様子で体を起こす。
「寝てろ」
笠井が体を起こそうとすると制されて、三上は足を引きずるように寝室を出ていった。階段を降りる足音が頼りなく、毎日のことながら落ちやしないか心配になる。今日は練習試合の日だったか。コーチも何かと忙しい。言われたとおりに寝ようとしたが目が冴えて、朝食ぐらい用意してやろうとベッドを出る。洗面所で顔を洗う音を聞きながら台所に入った。
ふたりで暮らし始めて何年経つだろうか。住宅街の端とはいえ、戸建ての家に男がふたり。そこにピアノを持ち込んで教室を開いたが、よくこんな怪しいところに通わせる親がいたものだ、と他人事のように考える。最も、好奇心もあるだろう。今も生徒は埋まっている。
フライパンを火にかけて卵とベーコンを取り出す。相変わらず料理は三上の方がうまいが、さすがにこの程度は慣れた。熱されたフライパンにベーコン、続いて卵を落とせば、じゅう、といい音がして食欲を誘う。裸足の足音をさせて三上が洗面所を出てきた。さっきよりは目に力が戻っている。
「焦がすなよ」
「うるさいなぁ、じゃあ食べなくていいですよ」
「いる」
コーヒーを入れる三上を振り返ると、後頭部に寝癖が残っている。引っ張って指摘してやるとしかめっ面で洗面所に戻っていった。
――こんな生活を何年も続けているのに、今更あんな夢を見るんだな。我ながら情けない。フライパンに水を差してふたを閉める。いつかあの夢のようになるのだとずっと覚悟していたのに、気がつけば三十路は目の前だ。人生の半分以上を共にして、常に平穏な日々というわけでもなかった。今度こそ、ということは何度となく訪れたのに、結局こうして一緒にいる。そのたび元の鞘に戻ったか、などと言われてきたが、果たして自分たちま元々つがいとなれるものなのだろうか。そんなつまらないことを考えているとフライパンの音は聞こえなくなり、はたと気づいて蓋を開けたときにはベーコンの端が焦げている。知らんぷりを決め込んで皿に移した頃三上が戻ってきた。何か言いたげであったが、笠井が三上を見ないので黙ってトースターにパンを投げ込む。
「あ、俺今夜いないから、晩飯お好きにどうぞ」
「あー、今日だっけ?先生のコンサート」
「うん。多分打ち上げもつきあうと思うから」
「俺も多分反省会という名の飲み会」
「毎度お勤めご苦労様です」
「飲み会で思い出した。中西からメール来てた」
「中西会久しぶりだ」
「根岸が東京出てくるんだと」
「えー、会いたいなぁ」
焼けたパンと皿を手に三上は台所を出る。主婦の憧れかどうかは知らないが、笠井は特に興味のないカウンターキッチンから三上を見ながら、笠井はパンにするかご飯にするか迷っている。
きっと、こんな家にいるから離れることのないまま今日まで来てしまったのだ。ここは三上の母方の実家だった家だ。結婚してから家を出て、その両親、三上の祖父母は優雅にハワイで暮らしているらしい。東京にいるなら使ってほしいと三上が頼まれ、なんやかんやで一緒に住むことになってしまった。男ふたりの生活にミスマッチな二階建ての住宅。馴染んでしまえば居心地もよく、三上と共にというよりはこの家と共にという選択かもしれない。
「……ご飯にしよう」
「あ?」
「何でもー」
セットしていた炊飯器を開ける。つやつやの白米を見ると俄然食欲が沸いてきて、時間はあるからと鮭を焼くことにする。その間に三上は朝食を終えてしまった。食器はそのままカウンターで受け取ると、三上はすぐに部屋に向かう。
「中西会いつー?」
「忘れたー」
あとで確認しておこう。飲み会をしようと言い出すのは大体中西だ。それぞれ家庭を持つ者も増えてきて、集まる人数は毎回違う。いつだったか藤代と渋沢が揃ったときに居酒屋を選んだのは大失敗で、この家に逃げてきてやり直したことがあった。今回はどうだろうか。相変わらず海外にいる親友も、帰国したときは律儀に連絡をくれる。今帰ってきていたはずだ。
そこまで考えて、今朝の夢を思い出した。思わずグリルを見たまましかめっ面になる。睨んだって焼けねえぞ、背後からの声にそのままの表情で振り返った。すっかり支度のできた三上が笑う。
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
新婚でも夫婦でもないので玄関まで見送りはしない。ドアの音を聞きながら魚をひっくり返す。
この先も、一体いつまでこんな生活をするのかと思いながら暮らすのだろうか。男と女ならもう何年も前に結婚しているのかもしれない。
魚が焼けると味噌汁がほしくなったが、今日は土曜日、あまりのんびりしていると午前中の教室が始まってしまう。あまり練習をしてこない子だが、そのせいなのかいつも早めに来るのだ。少し焦ったが、三上に合わせて起きたのでまだ早朝なのだと思い出す。テレビをつけるとスポーツニュースの時間だった。サッカーの話題は大体誰かしら知っている名前が出てくる。
「いただきます」
久しぶりに走りに行こうか。どうやら天気もよさそうだ。
2013'05.04.Sat
昼食を食べ終えた高坂は、いつものように缶コーヒーを片手に喫煙室に向かう。今日は人は少なく、その中に知った顔を見つけて近づいた。隈をたたえたうつろな目で煙草をくわえていた同期は、高坂に気づいて軽く手を上げる。隣に座ると煙草を離して灰を落とした。
「久しぶりだな」
「潮江も。まだ修羅場中か」
「いや、もう一踏ん張りだ」
「今年は倒れるなよ」
「うるせえ」
潮江をからかうと眉をひそめた。入社以来経理一筋の男の力でかなりの経費が削減されたときく。決算の時期は修羅場としか言いようがなく、去年の今頃は不摂生と疲労で寝込んでいる。今年は大丈夫だ、潮江は忌々しげに口を開いた。
「家政婦を雇った。俺は仕事だけしてりゃいい」
「へぇ、さすがの潮江も金より健康を取ったか」
「背に腹は代えられん」
潮江が相変わらずの仏頂面で、どうかしたのかと聞けば煙草の煙を溜息とともに吐き出した。言いにくそうに口元をもごもごさせるので促すと、しかめっ面で吐き捨てる。
「舌が肥えた。食堂の飯がまずい」
「素晴らしいな。大当たりじゃないか」
「当たりっつーか外れっつーか」
はぁ、と大きく息を吐き、潮江は頭を垂れる。そうかと思えば顔を上げ、高坂を見た。
「お前、煙草吸ったっけ?」
「いや」
「なんでわざわざ喫煙室に。打ち合わせか?」
「特等席なんだ」
「は?」
高坂は笑って喫煙所の外を指差した。食堂のテラス、いつもの決まったテーブルで、左近が弁当を広げている。見えるのは後ろ姿だが、もう食事は終えて読書をしているようだとわかった。
「……お前、まだストーカーしてんのか……」
「俺がいつストーカーなんか」
「どこをどう見てもストーカーじゃねえか」
潮江は呆れて顔をしかめ、左近と高坂を見比べながら灰を落とす。いつもぴんと伸びた背中が少し丸くなり、視線の動きに合わせてわずかに頭が揺れる。時折しおりを挟んで伸びをしたり持参の水筒に手を伸ばしたりする姿を見ているだけで頬が緩む。一緒に缶コーヒーをすすりながら、こうしているだけで高坂は幸せだった。潮江からぶしつけな視線を向けられていようが気にならない。
乱暴に喫煙室のドアが開けられた。しかしそれすら気にしない高坂に呆れながら潮江が視線を遣れば、またも同期の姿だ。潮江の姿を見るなりカツカツとパンプスのヒールも高らかに近づいてきて、隣に座って手を出した。
「1本ちょうだい!」
「……彼氏できてやめたんじゃなかったのか」
「今日は解禁!」
「荒れてんなぁ」
潮江がライターと一緒に煙草を渡せば、彼女は半ば奪うようにそれを引ったくった。慣れた手つきで火をつけて、潮江にライターを返しながら煙草をくわえる。髪をまとめていたコームを引き抜いて頭をかけば、豊かな黒髪が背中を流れた。
「あンのクソジジィ……」
「どうした」
「どうしたもこうしたも、また完全前に突然の思いつきだよ……」
「お疲れ」
深く吸った煙を吐き出し、四肢の力を抜く彼女は同期の久々知だ。いわゆるキャリアウーマンで仕事一筋であったが、最近にわかに周囲が華やかであるらしい。煙草じゃなくて彼氏に癒してもらうんだな、潮江が思わずこぼせば睨まれた。セクハラだとでも言うのだろうか。
「潮江くんこそ、繁忙期だってのにいい食生活だそうで」
「え」
「君んちの家政婦さん、高校時代の先輩なんだ」
「なっ」
「いいなぁ、久しぶりに立花さんのご飯食べた〜い。潮江くんち行こうかなぁ」
「来るな」
なんだか久々知に気力を吸い取られたような気分で潮江は溜息をついた。高坂は相変わらず、こちらを振り返りもしない左近の後ろ姿を見つめている。
「……あれ、高坂くん?」
「高坂と言われたら高坂だが、ありゃただのストーカーだ」
「まだ追っかけてんの?」
呆れた、久々知はまだ長い煙草を灰皿に落とし、高坂のそばに立つ。あれほど荒れていたのに、女の切り替えというものは潮江には理解できない。高坂もどれほど盲目なのか、まだ久々知に気づいていなかったようだ。潮江の同期ということは、当然ながら高坂と久々知も同期である。
「懲りずによく追いかけるね。高校のときからあの子変わらないよ」
「高校時代の左近さんもかわいかったんだろうなぁ」
「……ああ、かわいいのはかわいかったよ」
「まさか彼氏とか!」
「言い寄る男は大体高坂くんと同じようにあしらわれてたよ。君ぐらいだよ、こんなことしてるの」
「変わらない人って素敵だね」
「……触れるんじゃなかった」
高坂を置いて戻ってきた久々知に苦笑する。入社当時はこんな人物だとは思ってもいなかった。社内でかなりの美形に分類され、仕事面でも優秀、女子社員が憧れないはずがない。それがどうしたことか、気がつけば地味な女子社員に入れ込んでいる。
「高坂くん仕事はちゃんとしてるの?」
「らしいぜ。あの様子じゃまだ彼女の帰宅に合わせて定時上がりやってんだろうな」
「嫌味だな〜」
久々知は深く溜息をついた。きれいにネイルで飾った指先を見て、色変えたい、とつぶやく姿は普通の女子社員と同じだ。潮江はガラス越しの左近を見る。高坂はあんな地味な女のどこがいいのだろう。
そろそろ戻るか、と潮江が最後にするつもりで煙草に火をつける。高坂が立ち上がり、空き缶を捨てるために振り向いた。
「あれ、久々知さん久しぶり」
「……潮江くん、もう1本ちょうだい」
「全部やる」
「いい。あーもう疲れた〜」
「じゃあ、また潮江が落ち着いたら飲みにでも」
「おー。ストーカーもほどほどにな」
ひらひらと手を振って高坂は喫煙室を出る。その自然な仕草だけでも女を落とせそうな高坂があれほどアプローチしてもなびかないなら、本当に脈がないのだろう。顔がよかろうが人がよかろうが、恋愛は理屈じゃない。高坂に非がなくとも、万人が高坂を好きになることはないのだ。左近が数少ない一人であっただけのこと。
潮江が何気なく左近を見れば、高坂が近づいていくところだった。高坂は正面に回り込み、しゃがんで机越しに左近を見上げてにこにこしている。どうやら左近はうたた寝でもしているのか、まったく反応を見せない。鳥肌立った、潮江の隣で久々知が腕をさする。そのうち高坂は満足したのか、立ち上がって左近に声をかけた。それでも反応しない左近の肩を軽く叩く。身動きをした左近はのろのろと高坂を見上げた。話しかける高坂に返事をしているのかどうかはわからない。弁当の入ったバッグと文庫本を手に立ち上がった左近は姿勢良く歩きだし、高坂はやはり何か話しながらついていく。
「……どう見ても脈なしなんだから諦めろよ」
「いや」
髪を結い直し、久々知は大きく息を吐く。
「案外そうでもないかもしれない」
「どこが」
「少なくとも、睨まれたりはしていないようだから。あるいは、高校のときより左近が丸くなっただけかもね」
「女はわからん」
潮江は溜息と共に紫煙を吐いた。高坂の幸せそうな笑みを思い出す。
「……男もわからん」
「久しぶりだな」
「潮江も。まだ修羅場中か」
「いや、もう一踏ん張りだ」
「今年は倒れるなよ」
「うるせえ」
潮江をからかうと眉をひそめた。入社以来経理一筋の男の力でかなりの経費が削減されたときく。決算の時期は修羅場としか言いようがなく、去年の今頃は不摂生と疲労で寝込んでいる。今年は大丈夫だ、潮江は忌々しげに口を開いた。
「家政婦を雇った。俺は仕事だけしてりゃいい」
「へぇ、さすがの潮江も金より健康を取ったか」
「背に腹は代えられん」
潮江が相変わらずの仏頂面で、どうかしたのかと聞けば煙草の煙を溜息とともに吐き出した。言いにくそうに口元をもごもごさせるので促すと、しかめっ面で吐き捨てる。
「舌が肥えた。食堂の飯がまずい」
「素晴らしいな。大当たりじゃないか」
「当たりっつーか外れっつーか」
はぁ、と大きく息を吐き、潮江は頭を垂れる。そうかと思えば顔を上げ、高坂を見た。
「お前、煙草吸ったっけ?」
「いや」
「なんでわざわざ喫煙室に。打ち合わせか?」
「特等席なんだ」
「は?」
高坂は笑って喫煙所の外を指差した。食堂のテラス、いつもの決まったテーブルで、左近が弁当を広げている。見えるのは後ろ姿だが、もう食事は終えて読書をしているようだとわかった。
「……お前、まだストーカーしてんのか……」
「俺がいつストーカーなんか」
「どこをどう見てもストーカーじゃねえか」
潮江は呆れて顔をしかめ、左近と高坂を見比べながら灰を落とす。いつもぴんと伸びた背中が少し丸くなり、視線の動きに合わせてわずかに頭が揺れる。時折しおりを挟んで伸びをしたり持参の水筒に手を伸ばしたりする姿を見ているだけで頬が緩む。一緒に缶コーヒーをすすりながら、こうしているだけで高坂は幸せだった。潮江からぶしつけな視線を向けられていようが気にならない。
乱暴に喫煙室のドアが開けられた。しかしそれすら気にしない高坂に呆れながら潮江が視線を遣れば、またも同期の姿だ。潮江の姿を見るなりカツカツとパンプスのヒールも高らかに近づいてきて、隣に座って手を出した。
「1本ちょうだい!」
「……彼氏できてやめたんじゃなかったのか」
「今日は解禁!」
「荒れてんなぁ」
潮江がライターと一緒に煙草を渡せば、彼女は半ば奪うようにそれを引ったくった。慣れた手つきで火をつけて、潮江にライターを返しながら煙草をくわえる。髪をまとめていたコームを引き抜いて頭をかけば、豊かな黒髪が背中を流れた。
「あンのクソジジィ……」
「どうした」
「どうしたもこうしたも、また完全前に突然の思いつきだよ……」
「お疲れ」
深く吸った煙を吐き出し、四肢の力を抜く彼女は同期の久々知だ。いわゆるキャリアウーマンで仕事一筋であったが、最近にわかに周囲が華やかであるらしい。煙草じゃなくて彼氏に癒してもらうんだな、潮江が思わずこぼせば睨まれた。セクハラだとでも言うのだろうか。
「潮江くんこそ、繁忙期だってのにいい食生活だそうで」
「え」
「君んちの家政婦さん、高校時代の先輩なんだ」
「なっ」
「いいなぁ、久しぶりに立花さんのご飯食べた〜い。潮江くんち行こうかなぁ」
「来るな」
なんだか久々知に気力を吸い取られたような気分で潮江は溜息をついた。高坂は相変わらず、こちらを振り返りもしない左近の後ろ姿を見つめている。
「……あれ、高坂くん?」
「高坂と言われたら高坂だが、ありゃただのストーカーだ」
「まだ追っかけてんの?」
呆れた、久々知はまだ長い煙草を灰皿に落とし、高坂のそばに立つ。あれほど荒れていたのに、女の切り替えというものは潮江には理解できない。高坂もどれほど盲目なのか、まだ久々知に気づいていなかったようだ。潮江の同期ということは、当然ながら高坂と久々知も同期である。
「懲りずによく追いかけるね。高校のときからあの子変わらないよ」
「高校時代の左近さんもかわいかったんだろうなぁ」
「……ああ、かわいいのはかわいかったよ」
「まさか彼氏とか!」
「言い寄る男は大体高坂くんと同じようにあしらわれてたよ。君ぐらいだよ、こんなことしてるの」
「変わらない人って素敵だね」
「……触れるんじゃなかった」
高坂を置いて戻ってきた久々知に苦笑する。入社当時はこんな人物だとは思ってもいなかった。社内でかなりの美形に分類され、仕事面でも優秀、女子社員が憧れないはずがない。それがどうしたことか、気がつけば地味な女子社員に入れ込んでいる。
「高坂くん仕事はちゃんとしてるの?」
「らしいぜ。あの様子じゃまだ彼女の帰宅に合わせて定時上がりやってんだろうな」
「嫌味だな〜」
久々知は深く溜息をついた。きれいにネイルで飾った指先を見て、色変えたい、とつぶやく姿は普通の女子社員と同じだ。潮江はガラス越しの左近を見る。高坂はあんな地味な女のどこがいいのだろう。
そろそろ戻るか、と潮江が最後にするつもりで煙草に火をつける。高坂が立ち上がり、空き缶を捨てるために振り向いた。
「あれ、久々知さん久しぶり」
「……潮江くん、もう1本ちょうだい」
「全部やる」
「いい。あーもう疲れた〜」
「じゃあ、また潮江が落ち着いたら飲みにでも」
「おー。ストーカーもほどほどにな」
ひらひらと手を振って高坂は喫煙室を出る。その自然な仕草だけでも女を落とせそうな高坂があれほどアプローチしてもなびかないなら、本当に脈がないのだろう。顔がよかろうが人がよかろうが、恋愛は理屈じゃない。高坂に非がなくとも、万人が高坂を好きになることはないのだ。左近が数少ない一人であっただけのこと。
潮江が何気なく左近を見れば、高坂が近づいていくところだった。高坂は正面に回り込み、しゃがんで机越しに左近を見上げてにこにこしている。どうやら左近はうたた寝でもしているのか、まったく反応を見せない。鳥肌立った、潮江の隣で久々知が腕をさする。そのうち高坂は満足したのか、立ち上がって左近に声をかけた。それでも反応しない左近の肩を軽く叩く。身動きをした左近はのろのろと高坂を見上げた。話しかける高坂に返事をしているのかどうかはわからない。弁当の入ったバッグと文庫本を手に立ち上がった左近は姿勢良く歩きだし、高坂はやはり何か話しながらついていく。
「……どう見ても脈なしなんだから諦めろよ」
「いや」
髪を結い直し、久々知は大きく息を吐く。
「案外そうでもないかもしれない」
「どこが」
「少なくとも、睨まれたりはしていないようだから。あるいは、高校のときより左近が丸くなっただけかもね」
「女はわからん」
潮江は溜息と共に紫煙を吐いた。高坂の幸せそうな笑みを思い出す。
「……男もわからん」
2013'05.02.Thu
「調子いいみたいね」
「……そうですね」
思わず仏頂面で答えると教師は笑った。無表情でピアノを引いていたことは意識していたので間違いない。そうとなると、先の言葉は笠井の表情ではなく、その指先から紡がれる音楽によって判断されたものだ。きっと今の環境の中で笠井の音から感情や気分を読みとるのはこの音楽教師だけだが、例え一人だろうが心を覗かれることはいい気持ちではない。笠井が手を止めると音楽教師はわざとらしく残念がってみせた。
「笠井くんはほんとにむらっけのある子ねぇ」
「……そんなのわかるの先生だけですよ」
「またまた、自分でもわかるくせに。エッロい音出しちゃって」
「先生それセクハラだよ」
「詳しく聞いてもいいってことかなぁ?」
「何も言いません」
笠井は手を止めたまま、ピアノのふたを閉めた。それは笠井にできる唯一の抵抗だ。音楽教師はただ笑って、楽譜の何ヶ所かにシャーペンでチェックを入れる。
「この辺り気をつけて」
「はぁ〜い」
「恋もがんばって」
「はいはい」
笠井の投げやりな返事を聞きながら音楽教師は音楽室を出ていった。笠井は学校のピアノを借りているだけで、あの音楽教師から直接教わっているわけではない。教わっている先生は別にいる。もしかしたらその先生も笠井の音を聞いてわかるのかもしれないが、音楽教師とは違って真面目でお堅い人だ、からかうようなことは言わないだろう。
気を取り直して再びピアノを弾き始める。鍵盤を叩く自分の指先を見た。昨日爪を切ったばかりの丸い指先。正確には切ってもらったばかり、だ。頬が緩んで音が変わる。鍵盤は正確に音を響かせるのに、どうしてこうも違って聞こえるのだろう。
「何にやにやしてんの」
「ヒッ」
ドアの音と同時の声に椅子の上で跳ね上がる。廊下から顔を覗かせてこちらを見ている三上こそにやにやしていて、笠井はピアノの陰に隠れるように背を丸めた。
「丸見えですけど」
肩を揺らして笑いながら三上が近づいてくる。さっきまで昨日のことを思い返していたタイミングで三上の顔を見ると表情を作れない。くるりと体を返して顔を背ける。何だよ、笑いながら三上は笠井を突き飛ばすように無理やり同じ椅子に腰掛けた。顔をのぞき込もうとしてくるが更に逃げる。気配だけで笑ったのがわかったが何も言葉は出てこなかった。
「毎日毎日よくやるな」
「……何しにきたんですか」
「俺のために何か弾いてもらおうかと思って」
「はぁ?」
「ピアノのために爪切ってやったじゃん」
「先輩が無理矢理やったんじゃん……」
「何でもいいから弾けよ」
ゆっくり振り返ってうつむいたまま上目で三上を見る。前髪の間から見える顔はにやにやしていて憎たらしい。あんたのために弾いたって、あんたはその思いがわからないじゃないか。三上に手を取られ、指先を鍵盤に載せられる。
「……せめて退いてくれます?」
「はいはい」
三上が腰を上げたので座りなおした。真横に立つ三上は体温が感じられそうなほど近い。
深呼吸をすると胸が震える。その震えが指先にまで伝わりそうで、一度強く握った。そして覚悟を決めて鍵盤に触れる。音がつながり音楽になる。隣で三上が笑った。
「何で校歌なんだよ」
「何でもいいって言ったじゃないですか」
できるだけお堅い生真面目な、そんな音になるように。やはり三上は気づかないが、自分ではどこか浮ついているように聞こえてくる。
三上の手が肩に触れた。弾いてて、囁かれたので手は止めない。それでも抵抗のつもりでうつむいたが、顔を寄せられて額がぶつかる。そのまま抵抗を続ければ、諦めたように額に唇が触れた。ああ、間違えた。乱れる音楽。手を止める。ゆっくり息を吐いて三上を見た。
「先輩、ピアノ弾けます?」
「いや。鍵盤ハーモニカぐらいしか触ったことねぇな」
三上の手が遠慮もなく鍵盤に触れた。ドレミファソラシド、と順に鳴らす指先。この人がピアノを弾いたらどんな音になるのだろうか。落ち着いた人だから、気分で音が変わることはないかもしれない。それでも聞きたいと思った。
「俺、先輩のピアノ聞きたいな」
「じゃあ教えろよ。笠井先生」
「俺が?」
「隙アリ」
油断した隙にキスが降る。体をかたくすると三上に肩を叩かれた。楽しんでいるのだろう。悔しい。
「邪魔するなら出てって下さいよ!」
「邪魔しなきゃいてもいーの?」
「……出てって下さい」
「はいはい。何時まで?」
「5時まで」
「昇降口にいるわ」
ぽんと笠井の背を叩いて三上は音楽室を出ていった。その後ろ姿がドアの向こうに消えて、肩の力を抜く。待っててくれなんて頼んでいない。
「……置いて帰れないかな」
ようやく練習を再開するが、浮ついた自分を隠すことができなかった。
「……そうですね」
思わず仏頂面で答えると教師は笑った。無表情でピアノを引いていたことは意識していたので間違いない。そうとなると、先の言葉は笠井の表情ではなく、その指先から紡がれる音楽によって判断されたものだ。きっと今の環境の中で笠井の音から感情や気分を読みとるのはこの音楽教師だけだが、例え一人だろうが心を覗かれることはいい気持ちではない。笠井が手を止めると音楽教師はわざとらしく残念がってみせた。
「笠井くんはほんとにむらっけのある子ねぇ」
「……そんなのわかるの先生だけですよ」
「またまた、自分でもわかるくせに。エッロい音出しちゃって」
「先生それセクハラだよ」
「詳しく聞いてもいいってことかなぁ?」
「何も言いません」
笠井は手を止めたまま、ピアノのふたを閉めた。それは笠井にできる唯一の抵抗だ。音楽教師はただ笑って、楽譜の何ヶ所かにシャーペンでチェックを入れる。
「この辺り気をつけて」
「はぁ〜い」
「恋もがんばって」
「はいはい」
笠井の投げやりな返事を聞きながら音楽教師は音楽室を出ていった。笠井は学校のピアノを借りているだけで、あの音楽教師から直接教わっているわけではない。教わっている先生は別にいる。もしかしたらその先生も笠井の音を聞いてわかるのかもしれないが、音楽教師とは違って真面目でお堅い人だ、からかうようなことは言わないだろう。
気を取り直して再びピアノを弾き始める。鍵盤を叩く自分の指先を見た。昨日爪を切ったばかりの丸い指先。正確には切ってもらったばかり、だ。頬が緩んで音が変わる。鍵盤は正確に音を響かせるのに、どうしてこうも違って聞こえるのだろう。
「何にやにやしてんの」
「ヒッ」
ドアの音と同時の声に椅子の上で跳ね上がる。廊下から顔を覗かせてこちらを見ている三上こそにやにやしていて、笠井はピアノの陰に隠れるように背を丸めた。
「丸見えですけど」
肩を揺らして笑いながら三上が近づいてくる。さっきまで昨日のことを思い返していたタイミングで三上の顔を見ると表情を作れない。くるりと体を返して顔を背ける。何だよ、笑いながら三上は笠井を突き飛ばすように無理やり同じ椅子に腰掛けた。顔をのぞき込もうとしてくるが更に逃げる。気配だけで笑ったのがわかったが何も言葉は出てこなかった。
「毎日毎日よくやるな」
「……何しにきたんですか」
「俺のために何か弾いてもらおうかと思って」
「はぁ?」
「ピアノのために爪切ってやったじゃん」
「先輩が無理矢理やったんじゃん……」
「何でもいいから弾けよ」
ゆっくり振り返ってうつむいたまま上目で三上を見る。前髪の間から見える顔はにやにやしていて憎たらしい。あんたのために弾いたって、あんたはその思いがわからないじゃないか。三上に手を取られ、指先を鍵盤に載せられる。
「……せめて退いてくれます?」
「はいはい」
三上が腰を上げたので座りなおした。真横に立つ三上は体温が感じられそうなほど近い。
深呼吸をすると胸が震える。その震えが指先にまで伝わりそうで、一度強く握った。そして覚悟を決めて鍵盤に触れる。音がつながり音楽になる。隣で三上が笑った。
「何で校歌なんだよ」
「何でもいいって言ったじゃないですか」
できるだけお堅い生真面目な、そんな音になるように。やはり三上は気づかないが、自分ではどこか浮ついているように聞こえてくる。
三上の手が肩に触れた。弾いてて、囁かれたので手は止めない。それでも抵抗のつもりでうつむいたが、顔を寄せられて額がぶつかる。そのまま抵抗を続ければ、諦めたように額に唇が触れた。ああ、間違えた。乱れる音楽。手を止める。ゆっくり息を吐いて三上を見た。
「先輩、ピアノ弾けます?」
「いや。鍵盤ハーモニカぐらいしか触ったことねぇな」
三上の手が遠慮もなく鍵盤に触れた。ドレミファソラシド、と順に鳴らす指先。この人がピアノを弾いたらどんな音になるのだろうか。落ち着いた人だから、気分で音が変わることはないかもしれない。それでも聞きたいと思った。
「俺、先輩のピアノ聞きたいな」
「じゃあ教えろよ。笠井先生」
「俺が?」
「隙アリ」
油断した隙にキスが降る。体をかたくすると三上に肩を叩かれた。楽しんでいるのだろう。悔しい。
「邪魔するなら出てって下さいよ!」
「邪魔しなきゃいてもいーの?」
「……出てって下さい」
「はいはい。何時まで?」
「5時まで」
「昇降口にいるわ」
ぽんと笠井の背を叩いて三上は音楽室を出ていった。その後ろ姿がドアの向こうに消えて、肩の力を抜く。待っててくれなんて頼んでいない。
「……置いて帰れないかな」
ようやく練習を再開するが、浮ついた自分を隠すことができなかった。
2013'02.06.Wed
「高坂さん、今夜飲みに行きませんか?」
「あ、先約があるから」
会社内の女子社員の中でひそかに行われていたイケメン番付でナンバーワンを獲得したのは、高坂陣内左衛門という男だった。人当たりもよく、営業成績もいい。学歴も申し分なく、家もそれなりに裕福であるらしい。さっさと結婚して家庭に入りたい女性社員から見ると最良物件で、当然ながらアプローチも少なくない。しかし高坂がその誘いに乗ることはなかった。毎日ほぼ定時できっちり仕事を終えて、残業がつきそうな日は朝早くから出社する。上司に飲みに誘われてもめったに付き合うこともなく、この男が毎日時間通りに動くのは、当然ながらわけがあった。
「左近さんっ!お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
タイムカードを切ったあと、高坂が顔を出したのは別の部署だった。ノートパソコンを閉じて顔を上げた左近と目があい、高坂はにこりと笑うが左近の方は無表情だ。とても歓迎されているようには見えないが、視線を合わせてもらえるようになるまで半年かかったのだから上等だ。眼鏡を外して帰り支度をする左近を、高坂はにこにこと待っている。
「高坂さんもこりませんねー。どこがいいんですか、あんなブス」
「君には左近さんの魅力がわからなくてけっこう!」
「あ、そーですか」
「三郎次、今朝渡した書類今日中だからな」
「はいはい、わかってますよ。さっさと帰れ」
「言われなくても帰ります」
もう何年使っているのかわからないバッグを手に左近が立ち上がり、タイムカードを切る。同僚にもう一度くぎを刺して、左近は職場を出た。左近が先に行ってしまうのももう慣れたもので、高坂は数歩で追いついて隣を歩く。
「鞄持とうか?」
「いいです。自分で持てますから」
「お腹すいてないかい。どこか寄らないか」
「いいえ。実家ですから、家で食べます」
「……あれ、何」
高坂と左近が歩く姿を見た女子社員は顔をひきつらせた。会社で一番のイケメンが、会社で一番地味な女にくっついて歩いている。
「ああ、まだ見たことなかったの?」
「は?」
「あれ、高坂さん毎日やってる」
「はぁ!?」
「じゃあ左近さん日曜日は?よかったら映画でも一緒に行かない?」
「今興味のある映画がないので」
「映画じゃなくてもどこか一緒にどう?」
「どうといわれても、あなたと行きたいところなんて特にありません」
「……イケメン番付の次点、誰だけ?」
「不運の塊、善法寺さん」
「この会社の男はみんな顔だけか!」
「さっ、合コンいこ合コン!」
そんな女子社員のやり取りを知ってか知らずか、高坂は駅までずっと左近に話しかけては冷たい返事を返されている。しかし高坂はずっと幸せそうな笑みだ。
「あ、そうだ、よかったら家まで送ろうか」
「結構です。高坂さん逆のホームじゃないですか」
「もう少し一緒にいたいんだけどな」
「明日も仕事なんですからまっすぐ帰ったらどうですか」
左近が改札にかざしたICカードがピッと鳴り、その瞬間だけわずかに高坂は顔を曇らせる。しかしすぐに左近に続いて自分もカードをかざして改札を通った。ホームをわける階段の前で、左近がいつものように待っている。
「ではここで」
「帰り道気を付けてね」
「駅につけば徒歩5分ですから。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
くるっと踵を返して階段を上がる左近の後姿をしばらく追い、高坂も背を向けて階段を上っていく。ホームに上がり、電車の進行方向へ向かう。先頭車両の乗り口に立つ。正面を向くと、向こうのホームに左近がいる。文庫本に視線を落としている彼女の姿に、自然とほおが緩んだ。ホームに音楽が流れる。先に電車が来るのは向こう側のホームだ。左近が顔を上げる。まっすぐ高坂を見て、
「また明日」
電車が走りこんできて左近の姿を隠した。電車の中は人であふれていて左近の姿は見えなかったが、電車の走り去った後のホームには誰も残っていなかった。
「左近さん、また明日」
「あ、先約があるから」
会社内の女子社員の中でひそかに行われていたイケメン番付でナンバーワンを獲得したのは、高坂陣内左衛門という男だった。人当たりもよく、営業成績もいい。学歴も申し分なく、家もそれなりに裕福であるらしい。さっさと結婚して家庭に入りたい女性社員から見ると最良物件で、当然ながらアプローチも少なくない。しかし高坂がその誘いに乗ることはなかった。毎日ほぼ定時できっちり仕事を終えて、残業がつきそうな日は朝早くから出社する。上司に飲みに誘われてもめったに付き合うこともなく、この男が毎日時間通りに動くのは、当然ながらわけがあった。
「左近さんっ!お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
タイムカードを切ったあと、高坂が顔を出したのは別の部署だった。ノートパソコンを閉じて顔を上げた左近と目があい、高坂はにこりと笑うが左近の方は無表情だ。とても歓迎されているようには見えないが、視線を合わせてもらえるようになるまで半年かかったのだから上等だ。眼鏡を外して帰り支度をする左近を、高坂はにこにこと待っている。
「高坂さんもこりませんねー。どこがいいんですか、あんなブス」
「君には左近さんの魅力がわからなくてけっこう!」
「あ、そーですか」
「三郎次、今朝渡した書類今日中だからな」
「はいはい、わかってますよ。さっさと帰れ」
「言われなくても帰ります」
もう何年使っているのかわからないバッグを手に左近が立ち上がり、タイムカードを切る。同僚にもう一度くぎを刺して、左近は職場を出た。左近が先に行ってしまうのももう慣れたもので、高坂は数歩で追いついて隣を歩く。
「鞄持とうか?」
「いいです。自分で持てますから」
「お腹すいてないかい。どこか寄らないか」
「いいえ。実家ですから、家で食べます」
「……あれ、何」
高坂と左近が歩く姿を見た女子社員は顔をひきつらせた。会社で一番のイケメンが、会社で一番地味な女にくっついて歩いている。
「ああ、まだ見たことなかったの?」
「は?」
「あれ、高坂さん毎日やってる」
「はぁ!?」
「じゃあ左近さん日曜日は?よかったら映画でも一緒に行かない?」
「今興味のある映画がないので」
「映画じゃなくてもどこか一緒にどう?」
「どうといわれても、あなたと行きたいところなんて特にありません」
「……イケメン番付の次点、誰だけ?」
「不運の塊、善法寺さん」
「この会社の男はみんな顔だけか!」
「さっ、合コンいこ合コン!」
そんな女子社員のやり取りを知ってか知らずか、高坂は駅までずっと左近に話しかけては冷たい返事を返されている。しかし高坂はずっと幸せそうな笑みだ。
「あ、そうだ、よかったら家まで送ろうか」
「結構です。高坂さん逆のホームじゃないですか」
「もう少し一緒にいたいんだけどな」
「明日も仕事なんですからまっすぐ帰ったらどうですか」
左近が改札にかざしたICカードがピッと鳴り、その瞬間だけわずかに高坂は顔を曇らせる。しかしすぐに左近に続いて自分もカードをかざして改札を通った。ホームをわける階段の前で、左近がいつものように待っている。
「ではここで」
「帰り道気を付けてね」
「駅につけば徒歩5分ですから。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
くるっと踵を返して階段を上がる左近の後姿をしばらく追い、高坂も背を向けて階段を上っていく。ホームに上がり、電車の進行方向へ向かう。先頭車両の乗り口に立つ。正面を向くと、向こうのホームに左近がいる。文庫本に視線を落としている彼女の姿に、自然とほおが緩んだ。ホームに音楽が流れる。先に電車が来るのは向こう側のホームだ。左近が顔を上げる。まっすぐ高坂を見て、
「また明日」
電車が走りこんできて左近の姿を隠した。電車の中は人であふれていて左近の姿は見えなかったが、電車の走り去った後のホームには誰も残っていなかった。
「左近さん、また明日」
カレンダー
カテゴリー
最新記事
ブログ内検索
アクセス解析
アクセス解析