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言い訳置き場

言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。

2025'03.14.Fri
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2014'12.24.Wed
「まぁええねんけどォ」

「……何よ」

「小春とふたりでクリスマス過ごすことになるとは思ってへんかっただけぇ」

しかも、一氏ユウジの手作り料理で。

物珍しげに部屋の中を見る私を小春はたしなめたが、仕方ないだろう。学生の頃におっかけをしていた芸人の自宅だ。今は本命ではないとはいえ、興味がないわけではない。尤もこの2DKは小春の家でもあって、更に言えば住居としての家でもない。それを反映するように、壁側にそびえる本棚はおよそ今は使っていないとわかる背表紙もきれいなままの全集が並んでいて、他に収納とおぼしき家具はキッチンの食器棚ぐらいなものだ。

ここは東京。大学の先生になった小春と、私が追っていた頃より遙かに人気者になった芸人・一氏ユウジの東京での宿のような部屋だった。学会だなんだ、撮影だなんだと東京へくる機会が増え、いちいちホテルをとるのが煩わしくなったらしい。さっきシングルベッドひとつなのをからかったら、小春はふたり一緒にくることはないから、とあっさりあしらおうとしたが、じゃあ今夜はどうするつもりだったのかと聞くと黙ってしまった。

良くも悪くも、変わらないふたりだ。私がユウジを追いかけていた学生時代、小春はしばらく自分がユウジと知り合いであることすら隠して私の追っかけ話につき合っていた。あれはそこそこ名前が売れてきたユウジのためだったのだと思っていたが、すぐにそうではないと気がついた。IQ200という冗談みたいな脳味噌を持っているくせに不器用で、好きな人への甘え方も知らない。

小さな折りたたみのローテーブル。無造作に季節折々の服のかけてあるラック。段ボールに投げ込まれたハンガー。テレビはない。きっと、ここは本来ならふたり以外の誰かは入らないのだ。

手伝うと言ったが客だからと断られ、私はぼけっと机の前で膝を抱えて待っている。小春はてきぱきと鍋をかき回したり包丁を握ったりと食べる用意を進めてはテーブルに一品増やしていく。

メインはどんと置かれたローストビーフだ。具だくさんのミネストローネ、ブロッコリーのサラダ、バジルソースのパスタ。ユウジは昨日のうちにこれらを仕込んで出かけたのか。プライベートのユウジは自分が応援していた姿そのもので、別人だ。

本来ならユウジは世間の盛り上がるクリスマス両日休みだったらしい。それが歳末助け合いチャリティーライブにMCとして出る予定だった先輩芸人がインフルエンザにかかったとかで、急遽ユウジが引っ張り出された。使い勝手はいいだろう。かつてのような追っかけはやめたとはいえ好きな芸人だ。年々芸に磨きをかけて、更に俳優としても活躍するようになってからはかなり名も売れて、先輩芸人の代わりは十分つとまる。

「さっ、いただきましょうか!」

「わーい」

メニューはすべて揃ったようだ。私が差し入れたワインを開けて、不揃いなグラスに注ぐ。

「少し早いけど、今年もお疲れさまでした」

「お疲れさまでした。メリークリスマス!」

「メリークリスマス」

ちん、とグラスをぶつけ合い、なんとなく顔を見合わせると笑いがこみ上げる。会うのは久しぶりでもそう感じていなかったのに、この感覚はやはり久しぶりでくすぐったい。

「なんやかんや、小春とクリスマス過ごすの初めてちゃう?」

「せやねえ。美里ちゃんが就職して東京来てからはほんとに会ってなかったし。式いつ頃?」

「6月にしようかって。せっかくやし」

「あら、ジューンブライド。ええねぇ。恋人としての最後のクリスマスやったのに、彼氏くんお仕事とはついてへんなぁ」

「ええねんて。人妻になるまえに友人と過ごすクリスマスの方が貴重やわ。嘆いてんのはユウジぐらいちゃう?」

「ええねんて。どうせ毎年似たようなことやってんねん」

どこか突き放すような、しかし噛みしめるような小春に頬が緩む。何にやけてんねん、やや鋭い視線が飛んできたが、私がにやけているわけを小春がわからないはずがないのだ。

まるで秘密基地のようなふたりの部屋のことを、私は誰にも言わないだろう。
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2014'12.10.Wed
「数学オリンピック?懐かしいわぁ、高校の時テニスの試合とかぶって大変やったのよねぇ」

「へえ、結果どうやったん?」

「結果も何も、出てへんのよ。出る気もなかったし。数学の先生に出てくれってずっと言われとってんけどねぇ、アタシあの頃には文系に行くって決めとったし。顧問の先生にお願いして数学の先生説得してもらったり、大変やったわぁ」

「小春ちゃん男泣かせやなぁ」

「失礼な言い方せんといてくれる?」

「でも小春ちゃん理系のクラスやったんやろ?なんで文系にせんかったん?」

「理系のクラスの方がイケメンが多かったのよ」

ピッとパソコンからUSBを引き抜いて、金色小春は立ち上がった。清潔なシャツの襟の端まで丁寧にアイロンがかけられているのを見ていると、目の前にUSBが差し出された。短く切りそろえられた爪は健康的に艶めいて、しかし少し節ばった、男の手だ。

「村松くん用にデータまとめとったん、渡しとくわ。もし開けないデータやわからないことがあったらまたいらっしゃい」

「……ありがとうございます」

「芦田先生お元気?前は結構お食事誘ってくれはったんやけど、お子さんできたでしょう、もう要件って言ったらお子さんの写真送ってくるばっかりで」

「あ……はい。ゼミでもそんなんです」

「うふふ、あんなに怖い顔してはるのにかわいいこと。ああせや、英語の論文もデータにあるねんけど大丈夫?」

「英語と、ドイツ語と中国語は大丈夫です」

「あら優秀。ええ男やね」

眼鏡越しの目がにこりと村松に微笑んだ。

「……金色先生って」

「何かしら?」

「女の人だと思ってました」

「かわいい名前でしょ」

自分のゼミの女子学生と一緒にころころ笑う金色小春は、間違いなく男だった。



村松が金色小春の論文を見つけたのは去年のことだった。卒論の資料集めの最中に見つけた本の中に寄稿されていた、的確で斬新なテーマは純粋に読み物としてもおもしろく、そのとき村松が集めていた資料とはややそれたものだったが強く印象に残っている。

院の入試も卒論も落ち着いてからふと思いだし、金色小春の名前で検索をかけたが引っかかるのは古典文学の研究者ばかりで、しかもその研究者は村松の大学の文学科の教授であった。そうそうある名ではないが同姓同名かと諦め、何気なく自分の指導担当にこぼしたのが、村松が今日、文学科のある研究室へやってくるきっかけになった。

「それうちの文学科の金色先生が書いたやつやで。会いたいんやったら連絡したるけど。そういや君の興味のあるとこ、多分あの人の方が資料持ってんちゃうかな」

その言葉をすぐに信用できるはずがない。しかし教授が村松に嘘をつく理由もない。

次の日には教授が金色小春と連絡をつけていて、村松は初めて文学科に足を踏み入れた。村松を迎えたのはばっちりまつげが上を向き緩やかに髪を巻いた美人だった。偏見だと怒られるだろうが、文学科などもっと暗くて地味な学生ばかりだろうと思っていたので、イケメンがきた、と村松を迎える学生たちに驚いた。

「それアタシが抜粋しとるだけのデータやから、気になるのあったらちゃんと原本当たってね。一応図書館で取り寄せたりして揃うものしか入れてへんはずやから」

「わかりました。ありがとうございます」

「データのコピーしただけよ」

「小春ちゃんほんまにいろんなことしてんねんな」

「お陰様で本職がままならなくて、あなたたちが優秀で助かるわぁ」

「はぁい〜、頑張りますぅ」

女子学生と笑い会う姿に村松は何も言えなかった。



少なからず、自分が幻想を抱いていたことに気づかされ、同時にその幻想が打ち砕かれたことに誰に向けられるでもない憤りを感じていた。

あの洗練された文章に聡明な女性を見いだした。もちろんそれは名前のイメージが与えた先入観により村松が勝手に想像したもので、相手に憤りをぶつけるのはお門違いだ。それでも村松は感情を持て余し、彼から受け取ったUSBの中身をしばらく見ることなく放置していた。なよなよしたあんな男、ましてや専門でもない教授の何を信じられるというのだろう。

「村松」

教授に頼まれた作業をしていると同期に声をかけられた。同じ優男でもまだこの友人の方がきれいな顔をしている、などと勝手に値踏みする。

「どうした」

「前に金色先生紹介してもらってたやろ、文学科の」

「あ〜……行くには行ったけど」

よりにもよってその話か。村松はばちんとホッチキスで資料を綴じて興味のないまま応えた。

「僕もこないだお邪魔してん。そのとき村松が貰ったデータ、コピーしてもいいって言ってもらったから借りたいんやけど」

「……持ってへん」

「今やなくてええで」

「USBなくした」

「え〜?」

「探しとく。それよりこれ手伝えよ」

資料の半分を押しつける。友人は何か言いたげな素振りを見せたが、結局黙って資料を手に取った。

あのデータが一体なんだというのだろう。村松は自他共に認める優秀な学生だ。他学部の人間に教えを請わずとも自分で研究を全うできる自信がある。隣の友人だって同じことだ。

「……廣瀬、金色先生と何の話したん」

「あのときは資料の話やってんけど、ほとんど村松が持ってるみたいやったからそんなに。ああ……お笑いの話したわ」

「お笑い?」

「好きなんやって」

「……しょーもな」



村松がその日駅で金色を見かけたのは偶然だった。同じ学校にいるのだから同じ駅を利用していても不思議はない。それでも帰宅の時間が同じになったのは初めてなのだろう。駅のホームで文庫本に視線を落とし、その姿勢は背に定規でも入っているのかと思うほどぴしりとしている。村松が離れたところで立ち止まってその背中を見ていると、彼はポケットから携帯を取り出した。ディスプレイを見て頬を緩め、耳へ運ぶ。

「ユウくん?」

それは、村松が聞いたどんな声よりも甘かった。

「そう、帰るところ……いや、もう改札ん中や。……天王寺?せやなぁ……もう3分ぐらいで電車くると思うから……せやな、それぐらいには着くわ。うん?……ええわよ、たまにはアタシにさせてぇな。うん、ほな、気ィつけて。……はぁい、また後でね」

それは端的で、だからこそ親密さを感じるものだった。村松は小学校時代を思い出す。担任が産休に入るのだと報告した日。今まで漠然ととらえていた教師という存在が、明確に人間という枠を持った。村松が見ている金色小春という男は、あのとき得たはずの人間の形をした枠を越えてぼやけた何かになって見える。

通話を終えた金色は文庫本を鞄にしまい、代わりにタブレットを取り出した。迷いなくディスプレイを指が滑り、好奇心に負けて彼に近づく。

「金色先生」

「あら、村松くん」

彼がタブレットを立てる一瞬に見えたのは、料理レシピのサイトだった。何となく拍子抜けして途端に興味がなくなる。

「こんにちは。先日はありがとうございました」

「いいえ。よけいなお世話やったやろ」

「……少し忙しくて、まだじっくり目を通せてませんがそのうち」

「ええのよ、村松くんなら自力でてきるやろ」

見抜かれている。尤も、自分も態度を隠しきっていなかっただろう。こんな学生にも慣れているのかもしれない。

「料理されるんですか」

「ああ、これね」

金色はあっさりタブレットを倒して村松に見せた。演技がかって肩をすくめる。

「料理はあんまり向いてないみたいね。お菓子の方が得意やわ。色気のない表現やけど、理科の実験の同じね。分量や時間間違わなければおいしくできるもの」

「じゃあそれは?」

「たまにはね」

「……無駄なことは、しない人だと思ってました」

口をついて出た言葉に金色は少し驚いた表情を見せた。ううん、と小さく唸り、すぐに笑う

「……そうかも。だからアタシがする料理は、無駄にならないんだわ」

ならば、金色が村松に渡したデータは、無駄ではなかったというのだろうか。誰の目にも触れないまま、院生室の机の引き出しに眠るUSBのことを考える。

「来週、お時間ありますか」

「え?」

「データ確認して、質問に行きます」

「多分君ならわかる内容ばかりやと思うけど」

「いえ。絶対あります」

「ええわよ。この間の時間なら、いつも研究室におるわ」

「よろしくお願いします」

電車がホームに滑り込んだ。金色がそれに視線を遣るのとほぼ同時に会釈をし、村松は改札へ戻っていく。村松に与えられたUSBの意味を、今すぐ確認しなければ気が済まなかった。
2014'10.20.Mon
田舎が涼しいなどと誰が言ったのだろう。確かに都会の気温の高さだけではない暑さと、その質は違う。しかしそんなものは些細な違いでしかなく、暑いものは暑いのだ。

額から頬にかけて流れていく汗を拭うことも諦め、ジャンは火照って熱い体を引きずるように炎天下を歩き続けた。

中学は地元の公立へ進んだので、中学3年生の今年、ジャンは初めて受験を経験することになった。毎日の遊ぶ時間は勉強時間へと変わっていき、さほど無理のない志望校とはいえ、ジャンも受験生としてそれなりに振る舞っている。塾へは行かず、近所の大学生が家庭教師をしてくれて日々勉強をしていた。そんな彼も夏休みに入り、2週間ほど忙しくなるということで家庭教師を休むことになった。ジャンにはよくわからないが、授業の一環で合宿のようなものがあるらしい。まだ高校生活すら経験していないジャンには想像もできなかった。

ジャンは立ち止まり、汗を拭う。駅を出て20分で汗だくだ。ペットボトルをバッグから引っ張り出し、完全に温くなった水を喉に流し込む。昔は駅から出ていたはずのバスはいつの間にかかなり本数を減らしていて、タクシーを呼ぶほどの金は持たされていなかった。ジャンをひとりで送り出した母親を恨みながら再び歩き出す。張りつくサンダルも重たい荷物も不快でしかない。

ジャンが今向かっている先は、いわゆる「本家」と呼ぶものだった。とはいえ、ジャンの祖父の実家、という、ジャンからしてみれば遠縁だ。次男坊の祖父は婿に行くという形で家を出た。幼い頃に葬式でジャンも本家へ行ったことはあるらしいが記憶はほとんどなく、今でも本家については詳しく知らない。祖父は本家を嫌っていたようで、ジャンには何も教えてくれなかった。

そんなジャンがなぜ本家へ行くことになったのかといえば、件の大学生のせいである。家庭教師がいなくなるということで浮かれたジャンを察した母親が、本家なら涼しいから受験勉強にぴったりだ、と言い出したのだ。地元の図書館は勉強禁止で、塾の集中講義も定員だ。ひとりでも勉強するというジャンの主張はあっさりと否定され、あれよあれよという間に行くことになってしまったのだった。

本家までは一本道だ。しおれた野菜のようにうなだれていたジャンは顔を上げる。立派な門を構えた、武家屋敷を思わせる本家は、ジャンを圧迫するような威圧感があった。木戸を開ければ石畳が続き、その先に母屋がある。鍵もかかっていなかったので庭へ入り、母屋の戸の前に立つ。玄関に立つだけでもこの家が広いことはよくわかった。庭は夏の暑さを喜ぶように木々が枝を伸ばしている。ジャンには名前までわからないが、立派な木ばかりだ。どこか鬱蒼としているのは、手入れが行き届いてないからだろうか。この広さなら家の人間だけでは難しいのかもしれない。木々のせいか少し涼しくなったような気がして、ジャンは息を吐き、呼び鈴を鳴らす。待った時間は少しで、からりと戸が開いた。

――刹那、ジャンは息を飲む。

ジャンの視界に飛び込んだのは、艶やかな黒髪を風に遊ばせ、菖蒲柄の浴衣を涼しげに着こなした美女だった。ひゅっと喉を鳴らし、硬直するジャンに気を止めた様子もなく、彼女は紅を刷いた唇を開く。

「ジャンね?」

「あっ、はいっ!ジャン・キルシュタインです、初めまして!短い間ですがよろしくお願いします!」

「いらっしゃい。私はミカサ・アッカーマン。この家の長女です。お疲れでしょう、中へ」

「お、オジャマシマス」

まるでこの暑さを感じていないかのように汗ひとつかいていない女は、一歩引いてジャンを中へ招き入れた。石のたたき、ぎしりと板の鳴る廊下を抜ける。廊下は少し心細くなるぐらい薄暗く、縁側に出たときは少しほっとした。この部屋を使うように、と通されたのは、中庭に面した和室だった。とはいえジャンの幼い頃の記憶が確かなら、この家には応接間を除くと畳の敷かれた和室しかない。間取りまでは覚えていないが全体的に古臭く、少々広すぎるがいかにも「おばあちゃんち」といった雰囲気だった。部屋には文机と布団が用意されている。障子戸を開け放すと風のよく通る部屋だった。

「疲れたでしょう、休んでいて。お茶を出すから」

「あ、ありがとうございます」

ぴんと背筋を伸ばしてミカサが部屋を出ていく。ジャンはその背中を見送って、緩む口元を隠しきれなかった。この2週間、あの美女とひとつ屋根の下ということは、思春期の少年が気持ちを高揚させるには十分すぎる餌だ。母親と家庭教師に課せられた課題は2週間では足りないほどどっさりと出されたが、少しは頑張れそうだ。

荷物を放り出し、畳の上に直接腰を降ろす。どっと疲労が感じられ、ジャンはそのまま横になって四肢を伸ばした。涼しい風が汗をかいた体を舐めていく。古い家屋はジャンの住むマンションと違ってよく風を通すのかもしれない。

蝉の鳴き声までもどこか涼しげに聞こえて耳を澄ませた。あれは蜩だろうか。いつもはクーラーを聞かせた部屋の中で聞く蝉の声でさえ鬱陶しいと思うのに、周りの環境が変わるだけで聞こえ方が変わる気がするのは、ジャンが単純だからなのだろうか。目を閉じて耳を澄ませ、胸いっぱいに息を吸いこむ。畳の匂いはどこか懐かしさを感じさせた。

蝉の声に交じる葉擦れの音、どこかで風鈴の音もする。小さく木の軋む音が混じり、続いて名前を呼ばれて慌てて体を跳ね上げた。

丸盆に湯呑みを乗せたミカサが障子の向こうから顔を出し、だらしない姿を見せたことを恥じて正座に座り直す。ミカサは特に気にしていないようで、静かに膝をついて文机に湯呑みを置いた。その上を湯気が揺れているのを見て息を詰める。時々家族と食事に出かけた先でも、夏だというのに熱い茶を出されることがある。母親などは冷え症だか何だか知らないが、ジャンにしてみれば理解できない。冬場にこたつでアイス、とはわけが違うのだ、しかしミカサ相手には何も言えず、素直に礼を言う。

「お手洗いは玄関から入って、この部屋に来るときに曲がったところを曲がらずまっすぐ。もうすぐ父が戻るので私は夕食の支度をしている。できたらまた呼びに来るので、それまで自由に」

「何か、手伝いを」

「いいえ。あなたは勉強をしに来たのだから」

「わ、わかりました」

「それと……庭の奥には、行かないように」

「え?あ、はい」

静かな声にはどこか迫力があった。ジャンが戸惑っている様子にミカサも少し考え、丸盆を抱いて庭へ視線を向ける。

「古い蔵がある。少し崩れかけていて、危険」

「わかりました」

そういえば昔も近づくなと言われていた場所があった気がする。あの頃は珍しいものばかりのこの家の中で遊ぶだけで忙しく、庭へ出た記憶はない。そう言われると少し興味がわくが、つまらない怪我をしてしまうのは避けたいところだ。

来たときと同じように、かすかに廊下を軋ませながらミカサは去っていく。どこか甘い匂いが残っている気がして、ジャンは再び畳に倒れ込んだ。そのままぼんやりと庭を眺める。庭の隅にはオレンジの鮮やかな百合が群れて咲き誇り、夏らしく庭を彩っている。

若く見えるが、幾つぐらいだろうか。ミカサを脳裏に浮かべてジャンは口元を緩めた。

クーラーの効いた部屋とは違うが、少し日の落ちた夕方はここへ来るまでの道のりが嘘のように涼しい。朝の気温にも期待ができそうだ。今回は2週間だが、ここで成果を出せば今度も勉強を口実に来ることができるかもしれない。

よし、と気合を入れて体を起こす。そうとなれば勉強あるのみだ。リュックをひっくり返すような勢いで問題集とノートを取り出す。一緒に携帯が飛び出して、着いたら連絡するように母親から散々言われていたことを思い出した。やる気が削がれたような気がしたが、後でうるさく言われるのも面倒だ。渋々番号を呼び出し、家に電話をかける。いまどきろくろくゲームもできない古い機種は、母親が昔買ったが使いこなせずに諦めたものだった。中学に入ったときにジャンは入学祝いとして自分の携帯を買ってもらっていたが、今年の春ごろ、うっかり風呂に落としてしまっていた。修理費の額に母は黙り込み、そして彼女は自分の携帯をジャンに与えた。当然抗議したが、少々ゲーム依存気味であったジャンを母親は見逃していなかったらしく、受験生にはこれで十分、と言い切られてしまったのだ。どうにか次の模試の結果次第で新しいものを手に入れる算段をつけたので、その意味でも勉強を真剣にやらねばならない。

好都合なことに電話は留守電につながって、簡単にメッセージを残してジャンはすぐに携帯を手放した。蜩の声を聞きながら文机の前に腰を据える。元々集中力はある方だ。まずは自分の特異な科目から。縁側から入る風も蝉の声も、すぐに意識しなくなった。



ジャンが手を止めたのは、問題が解けなくなったからでも夕食に呼ばれたからでもなかった。むっと青臭い匂いが部屋に流れ込んできたのだ。顔を上げたジャンの目に、薄暗い庭が映る。その奥にぼんやりと白く浮かぶものがあってぎょっとした。よく目を凝らすとそれは白い百合で、ほっと息を吐く。どうやらこの濃厚な香りは百合の匂いであるようだ。さっき寝転んで庭を見たときに目についたオレンジの百合は逆側で咲き誇っている。気づけば蝉は気配を消し去って、代わりに別の虫の声がしている。よくわからないが鈴虫のような類だろう。

きしり、と気の軋みが規則正しく聞こえ、ジャンは背筋を伸ばした。予想通りミカサが縁側から顔を出す。

「夕食ができた。こちらに運ぶこともできるけれど」

「いえ、行きます」

慌てて立ち上がってついていく。ミカサは後ろ姿も美しい。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――とは美人を表す言葉だが、まさにこの物憂げに頭を垂れて歩く姿は美しい。

連れて行かれたのは台所から続く広間だった。やはり畳の部屋には大きなテーブルがあり、夕食が並べられている。しかしジャンはそれよりも、上座に座る男に視線が吸い寄せられて息を詰めた。ジャンも大概だが、その男はジャン以上に目つきが悪かった。まるでこちらを射抜くような視線だ。少し隈の浮いたような目元も黒の着流しもその怖さをその怖さを煽るばかりで、ジャンはミカサにすすめられるまま斜向かいに座るが、体が強張ってしまった。正面にミカサが座っても緊張はほぐれない。

「お前がジャンか」

低い声にジャンはびくりと背を正す。

「はっ、はいっ、ジャン・キルシュタインです、お世話になります」

声が情けなく上擦っている。視線もそちらに向けられずにいると溜息が聞こえ、一層身をすくめた。

「脅かそうとしてんじゃねえ。俺は家長のリヴァイ・アッカーマン。ミカサの父だ。まあそう顔を合わすこともない、楽にしろ」

「は、はい。宜しくお願いします」

そうは言われても、平気で人を殺すんじゃないかと思ってしまうほどその目つきは鋭い。食事の味もろくろくわからず、ジャンは食事を飲み込んだ。

しかし食事の後に風呂に、と案内されて、現金なジャンは気を持ち直す。浴室に並ぶ2種類のシャンプーはどちらがミカサのものか一目瞭然で、それだけでジャンを盛り上げるには十分だった。

風呂を出て部屋に戻ると蚊帳が釣ってあった。時代錯誤なそれにもにわかにテンションが上がり、ジャンは蚊帳を跳ね上げて中に入る。干された布団に飛び込むと湯上りの身体には熱く感じるほどで、結局すぐに蚊帳を出た。机の側には火のついた蚊取り線香。経験と知らないジャンでも懐かしいと感じるのは、単にドラマや漫画などの影響なのだろうか。

庭を見るとまだ空には若干の明るさが残っている。百合の白さに誘われるように、ジャンは縁側に置かれたままのつっかけに足を通して庭に降りた。まだ明るいうちに蔵を見てやろうという気になったのだ。危険だとは言われたが、遠目に見るぐらいはいいだろう。ミカサの視線が送られていた方に足を進める。

ふとぼんやりと白い影が浮かんだ気がして目を凝らした。人影だ。白地の浴衣を着たその人は、色の抜けたような髪をしている。それを人だと認識した途端ジャンの足は止まった。この家に、他に人間がいるという話は聞いていない。どっと汗が吹き出す。

しかし瞬きのあとにはその白い人影は消えていて、ジャンはゆっくり息を吐いた。後に残るのは庭に群れて並ぶ白い百合で、きっとこの家の雰囲気がジャンにおかしな妄想を見せたのだろう。部屋に戻ろうか、と庭に視線を巡らせ、その向こうに小さく明かりが見えていることに気がついた。戻るべきだろうか、と思いながらも、ジャンは好奇心に負けて足を進める。

明かりを漏らしているのは蔵だった。それがミカサが昼間言ったものかどうか決めかねているのは、それが危険というほど朽ちているようには見えなかったからだ。ましてやその窓から明かりが漏れている。それに近づいてみると窓には布でも掛けてあるようで、わずかな隙間があるだけだ。しかし中を覗くには十分で、ジャンはそっと踵を上げて中を覗きこむ。

――金色の目と、視線が合った。

ばっと窓から顔を引き剥がし、ジャンは数歩後ずさった。逃げられなかったのは、咄嗟に体が動いてくれなかったからだ。

「誰だ」

低い、しかし若い声が蔵から漏れる。あの眼の持ち主だろうか。ミカサもリヴァイも瞳は黒で、ジャンは何を見たのだろう。

「誰だか知らねえけどここからすぐに出ろ、ここにはいちゃいけない」

蔵の声は強い。ジャンはごくりと息を飲み、再び蔵を覗く。金の目はジャンをしっかり見据えた。黒い髪の男だった。

「この家には化け物がいる。出会う前に、ここから出ろ」
2014'10.15.Wed
最近めっきりご無沙汰だったが、そういえば全く女と縁のないタイプではなかった、などと、マルコは今しがた届いたメールを見て思い出していた。

自画自賛をするつもりではないが、人当たりは悪くなく、よほど馬が合わない限り誰とでもつき合えるタイプだと自負している。事実明確に負の感情を向けられたのは、初めに勤めた会社を辞めたときに上司に睨まれたときぐらいなもので、あのときも周囲からは同情的な目を向けられた。遊んできたつもりはないが女性関係もそれなりで、ここ数年は珍しく縁がないが、高校時代からあまりひとりでいたことがない。

それはさておき。

今はフリーライターをしているマルコが先日取材したカフェのオーナーから、忘れ物をしていないかという旨のメールが送られてきた。貼付されていた写真は、まさしく探していた携帯のストラップだ。気づいたときには紐だけが寂しく垂れており、どこかで落としたのだろうかとあきらめていたのだが、見つかってマルコは安心した。近いうちに取りに行かせてほしいと送ったメールの返事から、冒頭に至る。

『よかったらお食事に行きませんか?この間はお仕事の話しかできなかったので、いろいろお話聞きたいです』

マルコじゃなくともある程度の社会経験があれば誰だって、それが社交辞令かどうかぐらいはわかるだろう。

ショートカットのよく似合う、さっぱりした女性だった。手作り雑貨の販売もする小さなカフェをひとりで切り盛りしていて、マルコとは10歳ほど離れていただろうか。40も越えれば10ぐらいは大した差には思えなかった。気が合えば関係は続くだろうし、合わなければ一度で終わる。そんなことはそれなりに社会で過ごせば何度かあることだった。



店の場所はマルコが決めた。前から少し気になっていたレストランは雑誌でも見たことがあり、いつか行こうと思っていた店だ。金曜日の夜でも待ち時間なく入ることができたが、料理を待つ間に客は増えてきたようで、タイミングが良かっただけのようだ。

「そうだ、忘れないうちにお渡ししておきますね」

簡単に挨拶と天気の話などをした後に、彼女は先にマルコの忘れ物を取り出した。店で使っているものか、小さなクラフト紙の袋に入れられたそれを受け取る。封を開けて中身を取り出し、確認すると間違いなくマルコのものだ。

「ありがとうございます。お手数おかけしてすみません」

「いいえ、大したことでは。大切なものでしたか?」

「え?」

「顔が緩みました」

「……はは」

マルコは誤魔化すように口元に手を当てた。無意識にどんな表情をしたのかわからないが、やたらと恥ずかしい。

間もなく1品目が運ばれてきて、マルコはストラップを袋に戻して鞄にしまう。今度はなくさないようにしなければ。

気を取り直してスープを口にする。冷たいスープはさっぱりとして、好きな味だ、と思いじっくり味わう。

「それより、よく僕のだとわかりましたね」

「取材中に携帯取り出したとき、意外なストラップつけてるなと思って見てたんです」

「意外ですか?」

「んー、というか、ストラップをつけてることが意外で。他の持ち物は全部シンプルでしたから」

「女性はよく見てますね。確かに、もらいものです」

「あら、じゃあ見つけてよかった」

「諦めていたので嬉しかったです」

「いいえ、大したことじゃ。それに、お話したかったのは本当ですから」

「そうですねぇ、どちらも会社が合わずに辞めた同士ですし」

「ですねぇ」

料理はおいしく、話は弾む。久しぶりの感覚で、新鮮に思える時間だった。



*



次の日、マルコは友人のジャンからの連絡を受けて、待ち合わせ場所に立っていた。高校時代からの友人は家庭を持った今でもマルコと親しくつき合ってくれている。彼らの微笑ましい家族の姿を羨ましいと思うことはないことはないが、まるで親戚のようにつき合っているからか、自分には手が届かないと諦めてしまっているのか、自分でも定かではないがとにかくいい関係だった。仲のいい、理想的とも言える家族だろう。それでもマルコが自分で家族を持つことを考えられないのは何故なのか、立ち止まって考えれば結婚もあったのかもしれないが、もう過ぎた話だ。

昨日のことを思い出し、悪くない人だったな、と考える。それでも、また機会があれば食事でも、と口にした言葉は、マルコにとっては社交辞令以上のものにはならなかった。

昨日は楽しかったです、という旨のメールに何と返すか迷っているうちに、待ち合わせの相手がやってきた。マルコは寄りかかっていた車から体を離し、彼女に向かって手を挙げる。

「メアリー!」

きょろきょろと辺りをうかがっていた彼女はマルコに気づき、ぱっと明るい笑顔を見せて走り寄ってくる。中学校の制服を翻してマルコの胸に飛び込む、無邪気な少女を受け止めた。

「マルコ!お迎えありがとう」

「お姫様のためならいつだって」

「うふっ」

メアリーは上機嫌だが、帰宅中の中学生に視線を向けられ、マルコは彼女を離した。助手席のドアを開けてメアリーを車に乗せ、自分もすぐに運転席に回った。

「じゃあ行こうか」

「はぁい。マルコありがとう」

「おやすいご用です」

笑って答え、車を走らせる。

メアリーの祖母が旅先でぎっくり腰になり、迎えに行くことになったと慌てた様子のジャンから連絡が入ったのは昼過ぎだ。母親を大事にしている彼にとっては一大事だっただろう。平静を装ってはいるが言葉の端々に動揺が見え、そのためだろう、電話を代わったジャンの妻が、ふたりで迎えに行くことにしたと説明する。要するにマルコのところに電話があったのは、その間中学生の娘を預かってほしいという話だった。いつ帰れるのかはっきりわからない状態で、娘を溺愛するジャンはこの子にひとりで留守番をさせる選択肢は頭にないだろう。

「おばあちゃんには悪いけど、マルコのうちにお泊まり嬉しいな」

「久しぶりだもんね。中学生になったら忙しくなっちゃったから」

「また試合見に来てね」

「もちろん」

父親譲りの運動神経を発揮、メアリーはバスケ部で活躍中だ。小学生の頃は毎週のように遊んでいたが部活を始めてからはなかなか気軽に会えなくなっていた。泊まりになるかはわからないが着替えは念のため預かってきている。

ポケットで携帯が振動し、運転しながら取り出してちらりと画面を見るとジャンからの電話だった。メアリーと合流したら連絡する約束だったことを思い出して苦笑し、助手席のメアリーにそのまま横流しする。

「パパからだ。代わりに出てもらえる?」

「うん。……もしもし、パパ?」

怒鳴ったやろうと意気込んでいたに違いないジャンは、メアリーの声を聞いてどんなリアクションをしただろうか。メアリーは父親の愛の深さを知っているので、過剰な心配にも慣れている。怒鳴られたところで笑うだけで、ショックを受けるのはジャンだろう。

「うん、マルコが迎えにきてくれたよ!……え〜、いいよ〜急がなくて〜。マルコと一緒だから大丈夫!ねえ、おばあちゃんは?代わってよ」

電話口から聞こえる声が女性のものに変わった。明るく話し続けるメアリーと違い、しゅんと落ち込むジャンの姿を想像して笑ってしまう。まもなく話が終わったのか、メアリーが一度マルコを見たが運転中なのでそのまま電話を切ってもらった。

「ねえマルコ」

「何?どこか寄る?」

「ううん。あのね、ストラップどうしたの?」

「ああ、この間取れてしまって。大丈夫、家にはあるよ」

「よかった。じゃあつけ直してあげるね」

「ほんとに?ありがとう。でもまたなくすの嫌だから、もう家においておこうかな」

「え〜、なくなったらまた作るから使ってよ〜」

メアリーが膝に抱いたスクールバッグで、ビーズ細工のストラップが揺れる。それはマルコが家に残してきたものと色違いだ。手先の器用なメアリーの作ったおそろいのストラップを、一度でもなくしたことが悔やまれる。あのサプライズのプレゼントは本当に嬉しかったのだ。

「じゃあストラップを直してくれるメアリーにはお礼をしないとね」

「何?」

「おいしいレストラン見つけたんだ。メアリーの口に合うと思うから、一緒に行こうと思って」

「楽しみ!」

「まだ早いからお茶でもしにいく?」

「おうちがいいな。宿題あるし、マルコ教えてよ」

「えー、わかるかなぁ」

下見ができていてよかった、と思いながらマルコは車を走らせる。ひとりのときよりも安全運転を心がけているドライブは、短い距離でも楽しいものだった。
2014'10.13.Mon
ついてない、などと言うつもりはなかったが。

散歩の途中から降ってきた雨は予想外に強く、頬を叩く雨粒は痛いほどだった。台風が接近していたのは知っていたが、この辺りのもその気配が近づいてきたらしい。まだ粘ろうとする犬のリードを引っ張って、家に転がり込む。庭先で小屋の側に犬をつなぎ直すと全身を振って雨粒を飛ばし、しゃがんでいた荒北は真っ向からそれを浴びてしまった。

「おいコラ」

がしりと首元を掴んでも犬は素知らぬ顔をして、お返しに乱暴に毛をかき乱すように撫でまわす。きゃんきゃん嫌がるのも構わずに続けていると、玄関が開いて母親が顔を出した。

「靖友、電車止まったって」

「はぁ?」

「あんた今日帰れないわよ」

「ちょっ……」

立ち上がった荒北は母親を押しのけるように家の中に飛び込んだ。廊下を濡らすのも気にせずにリビングに向かうと、ニュースを見ていた父親が緩慢に振り返る。

「踏切が壊れたところがあるんだと。今のところ復旧未定」

「冗談、俺明日学校あるぜ」

「ちょっと靖友!濡れたまま絨毯踏まないで!」

母親に怒られて髪から滴が垂れていることに気がついた。舌を打ち、母親に促されるまま風呂場へ向かう。散歩に出た荒北が濡れて帰ってくることを見越してだろうか、風呂は沸かしている途中で、実家のありがたさを実感しつつもくすぐったい。

この春、大学に入学した荒北はひとり暮らしを始めた。運動部で鍛えられたせいか性分なのかはわからないがそれなりに気を引き締めて生活をしているつもりだが、たまに実家に顔を出すと甘やかされるのでつい緩む。

さっさと服を脱ぎ捨てて風呂に入ると、母親が着替えを持ってきた。ドア越しに見える影が少し懐かしく感じる。

「とりあえず今日も泊まるわね?」

「車出せねぇの、電車動いてるとこまで」

「まだアッシーしなきゃいけないもの」

「チッ」

高校生の妹が塾に行っている。この雨の様子だと車での迎えは必須だろう。

仕方なく、熱めの湯を張った湯船に体を沈める。雨で冷えた身体はじわりと痺れるようで、深く息を吐いた。

ここしばらく雨続きで調子が悪い。自分で考えているよりも、荒北は体を動かしていなければならない生き物であるようだ。

野球をしていた頃はそうではなかった。自転車を始めてから。

――否、野球をしているときだってそうだった。雨で練習が中止になったと聞けば喜んで、しこたまねてやろうとベッドに飛び込んでも目が冴えて、手持無沙汰に筋トレをしたり道具を磨いたりしていた。

アパートの部屋ならローラー台があるのに、と舌を打つ。その音は浴室によく響いた。湯の中でふくらはぎを揉む。

たかが犬の散歩、と侮った。久しぶりに会った愛犬との触れ合いも楽しくて、つい走りすぎたせいもあるのかもしれない。自分の体はいつの間にか、昔のように己の足で地面を蹴ることを拒むようになっている。以前は走り回っていたコースでこんなに疲れることになるとは思ってもいなかった。

悔しくも、荒北を笑う顔が浮かぶ。

そんな距離を歩けるはずがないだろう、この体に纏うのはペダルを踏むための筋肉だ。

体を温めて浴室から出る。髪を拭きながら母親に声をかければ、台所では揚げ物の跳ねる心地よい音と香ばしい匂いで充満していた。思わず足を踏み入れて、キッチンペーパーの上でまだ油を含んで光る狐色のフライに手を伸ばす。さくりと衣を砕いて、じゅわりと口腔に魚の甘味が広がる。

「今日は鮭でーす。お父さんに骨抜いてもらっちゃった」

「他は?」

「豚汁とわかめのサラダ。いつもちゃんと食べてる?」

「食ってるよ」

「食べるのも仕事だものね」

いつだか荒北が口にした言葉を、母親はずっと覚えている。何といえばいいのかわからず、むず痒い唇をフライで塞いで荒北はリビングに逃げた。父親はまだ同じニュース番組を見ている。

「やっぱり電車は動かんなぁ。明日も学校か?」

「授業は午後からなんだけどなァ」

父親の後ろに立って荒北もテレビを見たが、作業員が踏切で作業する映像が映し出され、アナウンサーの声は繰り返し路線の運休を知らせていた。彼らは大変だろうが、朝には動いていることを願ってしまう。

「野球も中止だ。靖友、自転車見るか、自転車」

「は?」

「DVD借りたんだ。会社にお前みたいな自転車のってる若いのがいてな、なんとかっていう自転車に乗ってる」

「何もわかんねーよ」

いそいそと父親が取り出したのは、ヨーロッパの世界的なプロロードレースのDVDだ。昔からスポーツは野球と相撲しか見ない父親が、自転車に興味を持ったきっかけはまず間違いなく荒北の影響で、またも居心地の悪いような座りの悪さだ。しかし見ていてもわからんから教えてくれ、と言われて、何よりも、実家を出た荒北にはもはや自室がない。家を出たと同時に妹が広い部屋へと移り、元々の妹の部屋は物置状態だ。結局リビングにいるしかなくて、荒北は諦めて受け取ったDVDをセットして父親の隣に腰を降ろす。

一度立ち上がって姿を消した父親が、ビール瓶とグラスをふたつ手に戻ってきた。もう勘弁してほしい。荒北の周囲には真面目で父親に犯行などしたことがないような男ばかりで、一度はわかりやすい反抗期を迎えた荒北は今更父親とどんな顔で話をしたらいいのか、まだ測りかねているのだ。

「飲めるだろ」

「飲めるけどよ」

「ご飯の前だからそこそこにしてよー!」

台所から飛んでくる母親の声に父親は気安く答えている。

クソ、クソッ!

やけくそで父親の手からビール瓶を奪い、さっさと栓を抜いて瓶を傾ける。父親は何も言わずにグラスを向けた。父親にされる前に自分の分は手酌でついで、乾杯など言われる前に口をつける。

父親はには野球を教わった。楽しかった。縋ろうと思えば、どんな形でも、あの場所に残ることはできたのかもしれない。それでもさっさと自分で見限って、あの熱い球場から逃げたのは自分だ。それでも父親は何も言わなかった。

ついてない。実家に残していた荷物を取りに来ただけの、一日だけの帰宅になるはずだった。それはこんな歓迎が予想できたからだ。そして息子がそれを嫌がることを知っていて、最低限にしてくれていることを知っているからだ。

朝一番で電車が動いていることを切に願う。ペダルを踏まないと、息が詰まってたまらない。
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