言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2014'12.28.Sun
小さな手に引っ張られて向かったリビングは賑やかだった。兄に頼まれて1枚にまとめたクリスマスソングのCDが流れていて、テレビの脇には昨日両親に連れられて甥が選んできたクリスマスツリーの箱がある。一緒にやろう、と甥が財前を呼びにきたのは、要するに、彼の両親、つまり財前の兄とその嫁が、少年の世話を押しつけたということだろう。3歳の甥の背丈よりも高いツリーにややうんざりしながらも、ここまで来て甥が解放してくれるはずもない。
仕方なく包装を剥がして箱を開けるとプラスチックの葉を窮屈そうに広げたツリーが現れた。甥が引っ張りあげるのを押さえて土台を組み、ツリーも立ててやる。甥は嬉しそうにオーナメントの類を取り出し、CDに合わせて歌いながら飾りつけを始めた。「あわてんぼうのサンタクロース」から「We wish you a marry christmas」まで、うろ覚えのあやふやなまま気にせず歌われる歌はいかにも楽しそうだ。
「ひかるもして!」
「はいはい」
手のひらに押しつけられるオーナメントを枝にかけていく。財前がもっと小さい頃にうちにあったツリーはもっと小さくて机におけるようなものだったが、あれはどうしたのだろうか。
「あんなー、サンタさんにおてまみかいてん」
「へー。何書いたん」
何かを下さいと書いたようだが子どもの言葉は聞き取れず、財前はそうなんやぁ、と聞き流した。
財前のところにサンタクロースが来ていたのはそう長い期間ではない。年の離れた兄が喧嘩の拍子に弟にサンタクロースの正体をばらし、そのことを両親に確認すると兄が怒られ、財前は謝られた。その年から、クリスマスプレゼントは自己申請制になり、去年は財前が言い出すまで親は促しもしなかった。今年もきっとそうだろうから、早めに買ってもらえそうな値段を予想してほしいものを決めなくてはならない。
目の前ではしゃぐ甥のような気持ちを、いつまで感じていたのか思い出せなかった。
*
昼間は友達とカラオケで、家に帰って家族で夕食。中学生のクリスマスイブならこんなもんだろう。日が落ちてから解散して家に帰ると甥が朝からのハイテンションのままで、早々に電池切れしそうだと思えば案の定ケーキの前にはほぼ眠っていた。意地でホールケーキにナイフが入るところまでは起きていたが、ふた口ほどで母の隣で完全に寝てしまっている。大体予想がついていたので財前は自分のものには手をつけず、甥の食べかけの皿を引き寄せた。兄嫁の手作りのそれは甥好みにフルーツがふんだんに使われている。財前の母は料理もお菓子づくりも得意ではないので、手作りのケーキを食べたのは兄夫婦と同居を初めてからが初めてだ。それは誰が作ってもそうなるものなのか、兄嫁が得意なのか、市販のものとかざりつけの技術は違えども味が劣るとは思わなかった。
少しずつ、世界が広くなる。子どもだけでカラオケに行けるようになったり、サンタクロースの正体を知ったりする。家族は今更財前が思春期だからと兄夫婦は年が明けてしばらくしたらこの家を出ることになった。気にしないと言えたらよかったのかもしれないが、もしかしたら自分も反抗期がくるかもしれない。
「光もはよ寝ぇや〜」
「はぁい」
適当に聞き流し、寝る支度をすませて自室に入る。パソコンをつけると3時間は動けなくなることを知りながらもほぼ習慣化してしまっていた。
インターネットの世界は広い。生憎財前はまだ親によってフィルターをかけられているのでその世界はまだ区切られている。
しかしそのインターネットの世界も現実と同じようにクリスマスを満喫していて、それは悲喜こもごも、財前に理解できたりできなかったりという話で溢れている。
いつか財前もクリスマスを彼女と過ごしたり、彼女がいないことを嘆いたりするのだろうか。今はまだぴんとこない。女の子はかわいいと思うし、触れたいと思うことがないわけでもない。しかし一緒に遊んだりはしゃいだりする相手として異性を選ぶ自分が想像できなかった。
パソコンを切って布団に潜り込んでからも携帯を手にしていて、我ながら依存症である自覚はある。しかし携帯に触れたまま気づけば寝ているという毎日に慣れてしまっていて、その日も変わらず同様だった。
「ひかる、ひかる!」
クリスマスの朝、財前を起こしたのは甥の興奮した声だった。小さな手が毛布を引き剥がし、露骨に不機嫌な財前に怯みもせず、サンタクロースからのプレゼントらしい見慣れないおもちゃを振りかざしている。はいはいよかったなとあしらって再び布団に潜ろうとするも、彼はまだ財前を解放する気はないようだ。
「ひかるはなにもろたん?」
「あ〜?」
甥にとって、財前はまだ彼と同じ「子ども」のカテゴリーであるらしい。どう説明したものか、放棄して寝ようとした財前は甥の追撃にあってまたも遮られる。
「なあ、はよあけて!」
開けるも何も。渋々甥を見ると彼はその小さな目で、財前の枕元を凝視していた。赤いリボンのかかったプレゼントに、財前は眠気も飛んで硬直する。分かりやすくサンタクロースやプレゼントの舞う包装紙は届くはずのない「サンタクロースからの贈り物」のようにそこに鎮座していて、半身を起こして手に取るがまだ思考ができなかった。
「あら、光もええ子にしとったからちゃんとサンタさん来たんやねぇ」
様子を見に来たらしい母が財前の部屋を覗き、財前はやっと理解した。この家にはふたりの子どもがいて、ひとりにはサンタクロースがプレゼントを置いたのにもうひとりには何もない、なんてことは、甥の世界では有り得ないのだ。
あけて、と甥に促され、孫に甘いおばあちゃんにも見守られながら無造作にリボンをほどいて包装紙を破る。現れたのは、テニスボールだった。財前は思わず溜息をつく。期待したわけではないが、それでももう少し、夢のあるものでよかっただろうに。
「わぁっ、よかったなぁ!ひかる、てにすすきやもんな!」
「……せやな」
ボールをなくしたことを、誰にもまだ言っていないはずだった。おそらく部活用に紛れてしまって、見分けられる印もなかったのでそのうちちょろまかしてやろうと考えながら忘れている。だからしばらく帰宅後の自主連は気が向いたときに走っているだけで、ラケットを持って出ることはなかったから、察することは容易だろう。
しかし、自分がテニスを一生懸命しているのだと思われることは、妙に気恥ずかしい。
少しずつ世界は広くなって、もっともっと未来にば財前がサンタクロースになることもあるのかもしれない。そのときはもっといいものをプレゼントしよう。誰にでもなく誓い、テニスボールを握りしめた。
仕方なく包装を剥がして箱を開けるとプラスチックの葉を窮屈そうに広げたツリーが現れた。甥が引っ張りあげるのを押さえて土台を組み、ツリーも立ててやる。甥は嬉しそうにオーナメントの類を取り出し、CDに合わせて歌いながら飾りつけを始めた。「あわてんぼうのサンタクロース」から「We wish you a marry christmas」まで、うろ覚えのあやふやなまま気にせず歌われる歌はいかにも楽しそうだ。
「ひかるもして!」
「はいはい」
手のひらに押しつけられるオーナメントを枝にかけていく。財前がもっと小さい頃にうちにあったツリーはもっと小さくて机におけるようなものだったが、あれはどうしたのだろうか。
「あんなー、サンタさんにおてまみかいてん」
「へー。何書いたん」
何かを下さいと書いたようだが子どもの言葉は聞き取れず、財前はそうなんやぁ、と聞き流した。
財前のところにサンタクロースが来ていたのはそう長い期間ではない。年の離れた兄が喧嘩の拍子に弟にサンタクロースの正体をばらし、そのことを両親に確認すると兄が怒られ、財前は謝られた。その年から、クリスマスプレゼントは自己申請制になり、去年は財前が言い出すまで親は促しもしなかった。今年もきっとそうだろうから、早めに買ってもらえそうな値段を予想してほしいものを決めなくてはならない。
目の前ではしゃぐ甥のような気持ちを、いつまで感じていたのか思い出せなかった。
*
昼間は友達とカラオケで、家に帰って家族で夕食。中学生のクリスマスイブならこんなもんだろう。日が落ちてから解散して家に帰ると甥が朝からのハイテンションのままで、早々に電池切れしそうだと思えば案の定ケーキの前にはほぼ眠っていた。意地でホールケーキにナイフが入るところまでは起きていたが、ふた口ほどで母の隣で完全に寝てしまっている。大体予想がついていたので財前は自分のものには手をつけず、甥の食べかけの皿を引き寄せた。兄嫁の手作りのそれは甥好みにフルーツがふんだんに使われている。財前の母は料理もお菓子づくりも得意ではないので、手作りのケーキを食べたのは兄夫婦と同居を初めてからが初めてだ。それは誰が作ってもそうなるものなのか、兄嫁が得意なのか、市販のものとかざりつけの技術は違えども味が劣るとは思わなかった。
少しずつ、世界が広くなる。子どもだけでカラオケに行けるようになったり、サンタクロースの正体を知ったりする。家族は今更財前が思春期だからと兄夫婦は年が明けてしばらくしたらこの家を出ることになった。気にしないと言えたらよかったのかもしれないが、もしかしたら自分も反抗期がくるかもしれない。
「光もはよ寝ぇや〜」
「はぁい」
適当に聞き流し、寝る支度をすませて自室に入る。パソコンをつけると3時間は動けなくなることを知りながらもほぼ習慣化してしまっていた。
インターネットの世界は広い。生憎財前はまだ親によってフィルターをかけられているのでその世界はまだ区切られている。
しかしそのインターネットの世界も現実と同じようにクリスマスを満喫していて、それは悲喜こもごも、財前に理解できたりできなかったりという話で溢れている。
いつか財前もクリスマスを彼女と過ごしたり、彼女がいないことを嘆いたりするのだろうか。今はまだぴんとこない。女の子はかわいいと思うし、触れたいと思うことがないわけでもない。しかし一緒に遊んだりはしゃいだりする相手として異性を選ぶ自分が想像できなかった。
パソコンを切って布団に潜り込んでからも携帯を手にしていて、我ながら依存症である自覚はある。しかし携帯に触れたまま気づけば寝ているという毎日に慣れてしまっていて、その日も変わらず同様だった。
「ひかる、ひかる!」
クリスマスの朝、財前を起こしたのは甥の興奮した声だった。小さな手が毛布を引き剥がし、露骨に不機嫌な財前に怯みもせず、サンタクロースからのプレゼントらしい見慣れないおもちゃを振りかざしている。はいはいよかったなとあしらって再び布団に潜ろうとするも、彼はまだ財前を解放する気はないようだ。
「ひかるはなにもろたん?」
「あ〜?」
甥にとって、財前はまだ彼と同じ「子ども」のカテゴリーであるらしい。どう説明したものか、放棄して寝ようとした財前は甥の追撃にあってまたも遮られる。
「なあ、はよあけて!」
開けるも何も。渋々甥を見ると彼はその小さな目で、財前の枕元を凝視していた。赤いリボンのかかったプレゼントに、財前は眠気も飛んで硬直する。分かりやすくサンタクロースやプレゼントの舞う包装紙は届くはずのない「サンタクロースからの贈り物」のようにそこに鎮座していて、半身を起こして手に取るがまだ思考ができなかった。
「あら、光もええ子にしとったからちゃんとサンタさん来たんやねぇ」
様子を見に来たらしい母が財前の部屋を覗き、財前はやっと理解した。この家にはふたりの子どもがいて、ひとりにはサンタクロースがプレゼントを置いたのにもうひとりには何もない、なんてことは、甥の世界では有り得ないのだ。
あけて、と甥に促され、孫に甘いおばあちゃんにも見守られながら無造作にリボンをほどいて包装紙を破る。現れたのは、テニスボールだった。財前は思わず溜息をつく。期待したわけではないが、それでももう少し、夢のあるものでよかっただろうに。
「わぁっ、よかったなぁ!ひかる、てにすすきやもんな!」
「……せやな」
ボールをなくしたことを、誰にもまだ言っていないはずだった。おそらく部活用に紛れてしまって、見分けられる印もなかったのでそのうちちょろまかしてやろうと考えながら忘れている。だからしばらく帰宅後の自主連は気が向いたときに走っているだけで、ラケットを持って出ることはなかったから、察することは容易だろう。
しかし、自分がテニスを一生懸命しているのだと思われることは、妙に気恥ずかしい。
少しずつ世界は広くなって、もっともっと未来にば財前がサンタクロースになることもあるのかもしれない。そのときはもっといいものをプレゼントしよう。誰にでもなく誓い、テニスボールを握りしめた。
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2014'12.26.Fri
「寒い〜おかん〜寒い〜」
「珍しいな、敦士がそんな寒がっとんの」
夕食の支度に台所に立つ光に寄り添ってくる息子はかわいらしいが、いかんせん既に母親の身長を抜いた男子高校生だ。あまりぐいぐいと体を寄せられるとかわいさよりも鬱陶しさが勝る。
確かに寒いがそれは冬だからという寒さで、今日は昨日と同じでとりわけ寒いわけではない。ふと思い当たって光は眉を寄せ、魚をさばく途中のまま敦士を見上げた。
「敦士、ちゅーしたるからおでこ出して」
「えっ何?やったー」
微塵も母親離れする気配を見せない男子高校生は無邪気に前髪をかきあげて光に額を向けた。その額に唇を当て、確信する。
「敦士、熱あるやん」
「え?」
「あ〜もう、布団入ってあったかくしとって」
「え〜?ないよぉ」
「あります〜。ええからはよ」
「はぁい」
心配性やなぁ、などと思っているのだろう、敦士はへらへら笑いながら部屋へ向かう。母親が子どもの心配をしなくてどうするのだ。
途中の料理もそのままに、光は手を洗って支度をする。敦士の父の実家が病院だ。孫に甘い家であるから混んでいても最優先しかねないが、一応電話をかけながら保険証を探す。
「……あっ、どうも〜光です〜。……ほんまに、毎日寒くてやんなりますわ。あのですね、敦士が熱っぽくて……あ、今から計ります。……あ〜、ちょっと待って下さいね」
財布を開けたまま敦士の部屋に向かえば、彼は大人しく布団に潜り込んでいた。額を撫でてやるとやはり平素より熱を持っている。
「敦士、友達誰かインフルエンザかかった子おった?」
「……あっ」
「……おったみたいです。はい、一応検査お願いしますわ。……はい、いや連れていきます。はい、はい、すいません〜お願いします〜。ほな〜」
「誰?」
「病院かけたらおばあちゃん出はった。混んでるから診察時間後に看てくれはるって。それまで寝とり」
「俺元気やのにぃ」
「おかんの言うこと聞かれへん?」
「寝ます」
頭まで毛布を引き上げた息子を笑い、毛布越しに頭を撫でた。
*
「てな訳で、敦士インフルエンザやったんで謙也さんしばらく実家帰っとって下さい」
「……え?」
玄関で愛しい妻が謙也を迎えてくれたと思ったら、続いたのは冷たい言葉だった。光はマスクを引き下げて謙也を見る。
「だから」
「あ、ちゃう、わかったけど!ええやん、俺も手洗いうがい気をつけたらええんやろ」
「あんた毎日どんだけの受験生に会うねん」
「……た、たくさん……」
謙也の経営する塾は個人塾ながら人気もあり、この時期は冬期講習もある。謙也自身がかからなくても謙也を介してうつることは十分ありえることだ。
「謙也さんが行くことは伝えてます。はいこれ、何日か着替え詰めてるんで、足りんもんあったら持ってくから連絡下さい」
「光様が足りひんのですけど……」
「我慢のあとのご馳走はおいしいやろ?」
「ううっ……せめて敦士の顔見せてや。起きてる?」
「さっきトイレに起きとったから、多分」
医者の息子である謙也は手洗いうがいの理想的な方法は仕込まれている。敦士もまた同様に医療関係者直々に教わっているはずなので風邪を引くのは珍しい。途中のリビングでマスクを掴み、謙也が部屋に入ると敦士は体を起こしてスポーツドリンクを飲んでいるところだった。
「ただいま」
「あ〜お帰り〜。おとんごめんなぁ〜」
「珍しいなぁ。しんどいやろ」
「めっちゃ熱上がった」
ベッドに寄って首筋に触れると平素よりかなり熱い。少し汗ばんだ肌には触れる謙也の冷えた手が心地いいのか、敦士は目を細めた。
「うう、医者の孫やのにぃ」
「医者の孫は医者の孫やで」
「でも〜」
「熱上がってからずっとそれ言ってんねん」
笑いながら入ってきた光は楽しげにベッドに腰を下ろし、敦士の額の冷却シートに触れた。それをはがして新しいものと交換する。
「血は争えへんなぁ。ねぇ謙也さん」
「……何の話ですか」
「敦士が5歳ぐらいのときやった?風邪ひいて『医者の息子やのにぃ』ってめそめそしとったん。同じ顔で同じこと言いよって、おもろいからやめてほしいわ」
「記憶にございません」
光は謙也を振り返って笑う。いまいちぼんやりしているのか敦士のリアクションはない。光がペットボトルを取り上げて肩を押せば素直に横になってベッドに潜り込む。
「しんどい……」
「予防注射もしてんのになぁ。まぁ運が悪いこともあるわ。おかん独り占めでラッキーって思っとき」
「そんな元気がほしい……」
光はけらけら笑い、敦士の頬を撫でて立ち上がる。
「ほななんかあったら呼びや」
「んー」
「ワンコでええからな。携帯ここな」
「んー」
毛布にくるまって鼻をすする息子は体は大きくともやはりまだ子どもなのだと実感する。謙也も促されて光と一緒に部屋を出た。
「ほな光も気ィつけてな」
「わかってますって。医者の息子の嫁ですよ」
「ただの塾講師の嫁やんけ。……なんか嬉しそうやし」
「……わかります?」
光は顔半分がマスクに隠れたままでもわかるほどにやりと笑う。わからないはずがない。そのマスクは伝染を防ぐためだが、表情を隠すためでもあるだろう。
「弱ってる敦士かわいくて」
病床の息子に悪いと思いながらも、普段手の掛からない彼の世話を焼けるのが嬉しいようだ。
ほらほら夕食も向こうで食べてな、と光に追い出されるように見送られ、閉まったドアの前で謙也は着替えを抱えた。
息子はかわいいし、あの辛そうな様子は心配だ。それでも、目を細めて笑う光を思う。
「独り占め、ええなぁ……」
*
自分自身がしばらく熱を出していないので、いまいち感覚を忘れている。光が寝る前に敦士を見に行くと起きていて、何をするでもなくぼんやり天井を見ている。生憎光は風邪となればここぞとばかりにパソコンの前に座っていたので、寝込んでいる人間にどうしてやればいいのかわからない。
「どない?熱下がらんなぁ」
撫でるように額や首筋を触れるとやはりまだ熱い。しかし辛そうな様子が少しましになっているので安心する。
「しんどない?」
「大丈夫。寝すぎてだるい」
「しんどかったら添い寝したろと思ったのに」
元気そうなのでからかえば、敦士はきょとんと目を丸くして、すぐに首を振る。
「おかんにうつったら困るもん。おかんがこんなしんどいの嫌や」
「あ、うん……ほな、お休み。でもしんどくなったら気にせんと起こしや」
「うん。眠ないけど頑張って寝るわ〜。お休み」
「お休み……」
最後に額をひと撫でして、光は部屋を出た。ポケットをまさぐって携帯を取り出し、ほとんど無意識に電話をかける。呼び出し音がしばらく続き、ようやく出た声は不快を露わにしたものだった。しかし今の光にとってそんなことはささいなことだ。
「あのね、うちの敦士って天使やなぁと思っとったんですけど、ほんまに天使やったんです。いや夜中とかどうでもええんで聞いて下さい。敦士が」
無言で切られた通話に一瞬反応できず、光はディスプレイを眺めて考える。しかしすぐに寝室に向かいながら電話をかけ直し、やはり長い呼び出し音の後、ドスの利いた声が聞こえたがやはり構わすず口を開いた。
「それで、敦士の話なんですけど」
『もうお前の息子が天使なんは知っとるから!』
「ほらユウジ先輩も敦士が天使やって思うでしょ?さっきの敦士の話聞いて下さいよ」
『光が敦士のことを天使やと思ってることは知っとるけど俺にとっては悪魔や』
ぷつり、とまた一方的に通話は途切れた。再度かけ直すが電源を切られている。舌打ちをして光もベッドに潜り込むが、妙に高ぶって気持ちがおさまらなかった。
「珍しいな、敦士がそんな寒がっとんの」
夕食の支度に台所に立つ光に寄り添ってくる息子はかわいらしいが、いかんせん既に母親の身長を抜いた男子高校生だ。あまりぐいぐいと体を寄せられるとかわいさよりも鬱陶しさが勝る。
確かに寒いがそれは冬だからという寒さで、今日は昨日と同じでとりわけ寒いわけではない。ふと思い当たって光は眉を寄せ、魚をさばく途中のまま敦士を見上げた。
「敦士、ちゅーしたるからおでこ出して」
「えっ何?やったー」
微塵も母親離れする気配を見せない男子高校生は無邪気に前髪をかきあげて光に額を向けた。その額に唇を当て、確信する。
「敦士、熱あるやん」
「え?」
「あ〜もう、布団入ってあったかくしとって」
「え〜?ないよぉ」
「あります〜。ええからはよ」
「はぁい」
心配性やなぁ、などと思っているのだろう、敦士はへらへら笑いながら部屋へ向かう。母親が子どもの心配をしなくてどうするのだ。
途中の料理もそのままに、光は手を洗って支度をする。敦士の父の実家が病院だ。孫に甘い家であるから混んでいても最優先しかねないが、一応電話をかけながら保険証を探す。
「……あっ、どうも〜光です〜。……ほんまに、毎日寒くてやんなりますわ。あのですね、敦士が熱っぽくて……あ、今から計ります。……あ〜、ちょっと待って下さいね」
財布を開けたまま敦士の部屋に向かえば、彼は大人しく布団に潜り込んでいた。額を撫でてやるとやはり平素より熱を持っている。
「敦士、友達誰かインフルエンザかかった子おった?」
「……あっ」
「……おったみたいです。はい、一応検査お願いしますわ。……はい、いや連れていきます。はい、はい、すいません〜お願いします〜。ほな〜」
「誰?」
「病院かけたらおばあちゃん出はった。混んでるから診察時間後に看てくれはるって。それまで寝とり」
「俺元気やのにぃ」
「おかんの言うこと聞かれへん?」
「寝ます」
頭まで毛布を引き上げた息子を笑い、毛布越しに頭を撫でた。
*
「てな訳で、敦士インフルエンザやったんで謙也さんしばらく実家帰っとって下さい」
「……え?」
玄関で愛しい妻が謙也を迎えてくれたと思ったら、続いたのは冷たい言葉だった。光はマスクを引き下げて謙也を見る。
「だから」
「あ、ちゃう、わかったけど!ええやん、俺も手洗いうがい気をつけたらええんやろ」
「あんた毎日どんだけの受験生に会うねん」
「……た、たくさん……」
謙也の経営する塾は個人塾ながら人気もあり、この時期は冬期講習もある。謙也自身がかからなくても謙也を介してうつることは十分ありえることだ。
「謙也さんが行くことは伝えてます。はいこれ、何日か着替え詰めてるんで、足りんもんあったら持ってくから連絡下さい」
「光様が足りひんのですけど……」
「我慢のあとのご馳走はおいしいやろ?」
「ううっ……せめて敦士の顔見せてや。起きてる?」
「さっきトイレに起きとったから、多分」
医者の息子である謙也は手洗いうがいの理想的な方法は仕込まれている。敦士もまた同様に医療関係者直々に教わっているはずなので風邪を引くのは珍しい。途中のリビングでマスクを掴み、謙也が部屋に入ると敦士は体を起こしてスポーツドリンクを飲んでいるところだった。
「ただいま」
「あ〜お帰り〜。おとんごめんなぁ〜」
「珍しいなぁ。しんどいやろ」
「めっちゃ熱上がった」
ベッドに寄って首筋に触れると平素よりかなり熱い。少し汗ばんだ肌には触れる謙也の冷えた手が心地いいのか、敦士は目を細めた。
「うう、医者の孫やのにぃ」
「医者の孫は医者の孫やで」
「でも〜」
「熱上がってからずっとそれ言ってんねん」
笑いながら入ってきた光は楽しげにベッドに腰を下ろし、敦士の額の冷却シートに触れた。それをはがして新しいものと交換する。
「血は争えへんなぁ。ねぇ謙也さん」
「……何の話ですか」
「敦士が5歳ぐらいのときやった?風邪ひいて『医者の息子やのにぃ』ってめそめそしとったん。同じ顔で同じこと言いよって、おもろいからやめてほしいわ」
「記憶にございません」
光は謙也を振り返って笑う。いまいちぼんやりしているのか敦士のリアクションはない。光がペットボトルを取り上げて肩を押せば素直に横になってベッドに潜り込む。
「しんどい……」
「予防注射もしてんのになぁ。まぁ運が悪いこともあるわ。おかん独り占めでラッキーって思っとき」
「そんな元気がほしい……」
光はけらけら笑い、敦士の頬を撫でて立ち上がる。
「ほななんかあったら呼びや」
「んー」
「ワンコでええからな。携帯ここな」
「んー」
毛布にくるまって鼻をすする息子は体は大きくともやはりまだ子どもなのだと実感する。謙也も促されて光と一緒に部屋を出た。
「ほな光も気ィつけてな」
「わかってますって。医者の息子の嫁ですよ」
「ただの塾講師の嫁やんけ。……なんか嬉しそうやし」
「……わかります?」
光は顔半分がマスクに隠れたままでもわかるほどにやりと笑う。わからないはずがない。そのマスクは伝染を防ぐためだが、表情を隠すためでもあるだろう。
「弱ってる敦士かわいくて」
病床の息子に悪いと思いながらも、普段手の掛からない彼の世話を焼けるのが嬉しいようだ。
ほらほら夕食も向こうで食べてな、と光に追い出されるように見送られ、閉まったドアの前で謙也は着替えを抱えた。
息子はかわいいし、あの辛そうな様子は心配だ。それでも、目を細めて笑う光を思う。
「独り占め、ええなぁ……」
*
自分自身がしばらく熱を出していないので、いまいち感覚を忘れている。光が寝る前に敦士を見に行くと起きていて、何をするでもなくぼんやり天井を見ている。生憎光は風邪となればここぞとばかりにパソコンの前に座っていたので、寝込んでいる人間にどうしてやればいいのかわからない。
「どない?熱下がらんなぁ」
撫でるように額や首筋を触れるとやはりまだ熱い。しかし辛そうな様子が少しましになっているので安心する。
「しんどない?」
「大丈夫。寝すぎてだるい」
「しんどかったら添い寝したろと思ったのに」
元気そうなのでからかえば、敦士はきょとんと目を丸くして、すぐに首を振る。
「おかんにうつったら困るもん。おかんがこんなしんどいの嫌や」
「あ、うん……ほな、お休み。でもしんどくなったら気にせんと起こしや」
「うん。眠ないけど頑張って寝るわ〜。お休み」
「お休み……」
最後に額をひと撫でして、光は部屋を出た。ポケットをまさぐって携帯を取り出し、ほとんど無意識に電話をかける。呼び出し音がしばらく続き、ようやく出た声は不快を露わにしたものだった。しかし今の光にとってそんなことはささいなことだ。
「あのね、うちの敦士って天使やなぁと思っとったんですけど、ほんまに天使やったんです。いや夜中とかどうでもええんで聞いて下さい。敦士が」
無言で切られた通話に一瞬反応できず、光はディスプレイを眺めて考える。しかしすぐに寝室に向かいながら電話をかけ直し、やはり長い呼び出し音の後、ドスの利いた声が聞こえたがやはり構わすず口を開いた。
「それで、敦士の話なんですけど」
『もうお前の息子が天使なんは知っとるから!』
「ほらユウジ先輩も敦士が天使やって思うでしょ?さっきの敦士の話聞いて下さいよ」
『光が敦士のことを天使やと思ってることは知っとるけど俺にとっては悪魔や』
ぷつり、とまた一方的に通話は途切れた。再度かけ直すが電源を切られている。舌打ちをして光もベッドに潜り込むが、妙に高ぶって気持ちがおさまらなかった。
2014'12.24.Wed
「まぁええねんけどォ」
「……何よ」
「小春とふたりでクリスマス過ごすことになるとは思ってへんかっただけぇ」
しかも、一氏ユウジの手作り料理で。
物珍しげに部屋の中を見る私を小春はたしなめたが、仕方ないだろう。学生の頃におっかけをしていた芸人の自宅だ。今は本命ではないとはいえ、興味がないわけではない。尤もこの2DKは小春の家でもあって、更に言えば住居としての家でもない。それを反映するように、壁側にそびえる本棚はおよそ今は使っていないとわかる背表紙もきれいなままの全集が並んでいて、他に収納とおぼしき家具はキッチンの食器棚ぐらいなものだ。
ここは東京。大学の先生になった小春と、私が追っていた頃より遙かに人気者になった芸人・一氏ユウジの東京での宿のような部屋だった。学会だなんだ、撮影だなんだと東京へくる機会が増え、いちいちホテルをとるのが煩わしくなったらしい。さっきシングルベッドひとつなのをからかったら、小春はふたり一緒にくることはないから、とあっさりあしらおうとしたが、じゃあ今夜はどうするつもりだったのかと聞くと黙ってしまった。
良くも悪くも、変わらないふたりだ。私がユウジを追いかけていた学生時代、小春はしばらく自分がユウジと知り合いであることすら隠して私の追っかけ話につき合っていた。あれはそこそこ名前が売れてきたユウジのためだったのだと思っていたが、すぐにそうではないと気がついた。IQ200という冗談みたいな脳味噌を持っているくせに不器用で、好きな人への甘え方も知らない。
小さな折りたたみのローテーブル。無造作に季節折々の服のかけてあるラック。段ボールに投げ込まれたハンガー。テレビはない。きっと、ここは本来ならふたり以外の誰かは入らないのだ。
手伝うと言ったが客だからと断られ、私はぼけっと机の前で膝を抱えて待っている。小春はてきぱきと鍋をかき回したり包丁を握ったりと食べる用意を進めてはテーブルに一品増やしていく。
メインはどんと置かれたローストビーフだ。具だくさんのミネストローネ、ブロッコリーのサラダ、バジルソースのパスタ。ユウジは昨日のうちにこれらを仕込んで出かけたのか。プライベートのユウジは自分が応援していた姿そのもので、別人だ。
本来ならユウジは世間の盛り上がるクリスマス両日休みだったらしい。それが歳末助け合いチャリティーライブにMCとして出る予定だった先輩芸人がインフルエンザにかかったとかで、急遽ユウジが引っ張り出された。使い勝手はいいだろう。かつてのような追っかけはやめたとはいえ好きな芸人だ。年々芸に磨きをかけて、更に俳優としても活躍するようになってからはかなり名も売れて、先輩芸人の代わりは十分つとまる。
「さっ、いただきましょうか!」
「わーい」
メニューはすべて揃ったようだ。私が差し入れたワインを開けて、不揃いなグラスに注ぐ。
「少し早いけど、今年もお疲れさまでした」
「お疲れさまでした。メリークリスマス!」
「メリークリスマス」
ちん、とグラスをぶつけ合い、なんとなく顔を見合わせると笑いがこみ上げる。会うのは久しぶりでもそう感じていなかったのに、この感覚はやはり久しぶりでくすぐったい。
「なんやかんや、小春とクリスマス過ごすの初めてちゃう?」
「せやねえ。美里ちゃんが就職して東京来てからはほんとに会ってなかったし。式いつ頃?」
「6月にしようかって。せっかくやし」
「あら、ジューンブライド。ええねぇ。恋人としての最後のクリスマスやったのに、彼氏くんお仕事とはついてへんなぁ」
「ええねんて。人妻になるまえに友人と過ごすクリスマスの方が貴重やわ。嘆いてんのはユウジぐらいちゃう?」
「ええねんて。どうせ毎年似たようなことやってんねん」
どこか突き放すような、しかし噛みしめるような小春に頬が緩む。何にやけてんねん、やや鋭い視線が飛んできたが、私がにやけているわけを小春がわからないはずがないのだ。
まるで秘密基地のようなふたりの部屋のことを、私は誰にも言わないだろう。
「……何よ」
「小春とふたりでクリスマス過ごすことになるとは思ってへんかっただけぇ」
しかも、一氏ユウジの手作り料理で。
物珍しげに部屋の中を見る私を小春はたしなめたが、仕方ないだろう。学生の頃におっかけをしていた芸人の自宅だ。今は本命ではないとはいえ、興味がないわけではない。尤もこの2DKは小春の家でもあって、更に言えば住居としての家でもない。それを反映するように、壁側にそびえる本棚はおよそ今は使っていないとわかる背表紙もきれいなままの全集が並んでいて、他に収納とおぼしき家具はキッチンの食器棚ぐらいなものだ。
ここは東京。大学の先生になった小春と、私が追っていた頃より遙かに人気者になった芸人・一氏ユウジの東京での宿のような部屋だった。学会だなんだ、撮影だなんだと東京へくる機会が増え、いちいちホテルをとるのが煩わしくなったらしい。さっきシングルベッドひとつなのをからかったら、小春はふたり一緒にくることはないから、とあっさりあしらおうとしたが、じゃあ今夜はどうするつもりだったのかと聞くと黙ってしまった。
良くも悪くも、変わらないふたりだ。私がユウジを追いかけていた学生時代、小春はしばらく自分がユウジと知り合いであることすら隠して私の追っかけ話につき合っていた。あれはそこそこ名前が売れてきたユウジのためだったのだと思っていたが、すぐにそうではないと気がついた。IQ200という冗談みたいな脳味噌を持っているくせに不器用で、好きな人への甘え方も知らない。
小さな折りたたみのローテーブル。無造作に季節折々の服のかけてあるラック。段ボールに投げ込まれたハンガー。テレビはない。きっと、ここは本来ならふたり以外の誰かは入らないのだ。
手伝うと言ったが客だからと断られ、私はぼけっと机の前で膝を抱えて待っている。小春はてきぱきと鍋をかき回したり包丁を握ったりと食べる用意を進めてはテーブルに一品増やしていく。
メインはどんと置かれたローストビーフだ。具だくさんのミネストローネ、ブロッコリーのサラダ、バジルソースのパスタ。ユウジは昨日のうちにこれらを仕込んで出かけたのか。プライベートのユウジは自分が応援していた姿そのもので、別人だ。
本来ならユウジは世間の盛り上がるクリスマス両日休みだったらしい。それが歳末助け合いチャリティーライブにMCとして出る予定だった先輩芸人がインフルエンザにかかったとかで、急遽ユウジが引っ張り出された。使い勝手はいいだろう。かつてのような追っかけはやめたとはいえ好きな芸人だ。年々芸に磨きをかけて、更に俳優としても活躍するようになってからはかなり名も売れて、先輩芸人の代わりは十分つとまる。
「さっ、いただきましょうか!」
「わーい」
メニューはすべて揃ったようだ。私が差し入れたワインを開けて、不揃いなグラスに注ぐ。
「少し早いけど、今年もお疲れさまでした」
「お疲れさまでした。メリークリスマス!」
「メリークリスマス」
ちん、とグラスをぶつけ合い、なんとなく顔を見合わせると笑いがこみ上げる。会うのは久しぶりでもそう感じていなかったのに、この感覚はやはり久しぶりでくすぐったい。
「なんやかんや、小春とクリスマス過ごすの初めてちゃう?」
「せやねえ。美里ちゃんが就職して東京来てからはほんとに会ってなかったし。式いつ頃?」
「6月にしようかって。せっかくやし」
「あら、ジューンブライド。ええねぇ。恋人としての最後のクリスマスやったのに、彼氏くんお仕事とはついてへんなぁ」
「ええねんて。人妻になるまえに友人と過ごすクリスマスの方が貴重やわ。嘆いてんのはユウジぐらいちゃう?」
「ええねんて。どうせ毎年似たようなことやってんねん」
どこか突き放すような、しかし噛みしめるような小春に頬が緩む。何にやけてんねん、やや鋭い視線が飛んできたが、私がにやけているわけを小春がわからないはずがないのだ。
まるで秘密基地のようなふたりの部屋のことを、私は誰にも言わないだろう。
2014'12.10.Wed
「数学オリンピック?懐かしいわぁ、高校の時テニスの試合とかぶって大変やったのよねぇ」
「へえ、結果どうやったん?」
「結果も何も、出てへんのよ。出る気もなかったし。数学の先生に出てくれってずっと言われとってんけどねぇ、アタシあの頃には文系に行くって決めとったし。顧問の先生にお願いして数学の先生説得してもらったり、大変やったわぁ」
「小春ちゃん男泣かせやなぁ」
「失礼な言い方せんといてくれる?」
「でも小春ちゃん理系のクラスやったんやろ?なんで文系にせんかったん?」
「理系のクラスの方がイケメンが多かったのよ」
ピッとパソコンからUSBを引き抜いて、金色小春は立ち上がった。清潔なシャツの襟の端まで丁寧にアイロンがかけられているのを見ていると、目の前にUSBが差し出された。短く切りそろえられた爪は健康的に艶めいて、しかし少し節ばった、男の手だ。
「村松くん用にデータまとめとったん、渡しとくわ。もし開けないデータやわからないことがあったらまたいらっしゃい」
「……ありがとうございます」
「芦田先生お元気?前は結構お食事誘ってくれはったんやけど、お子さんできたでしょう、もう要件って言ったらお子さんの写真送ってくるばっかりで」
「あ……はい。ゼミでもそんなんです」
「うふふ、あんなに怖い顔してはるのにかわいいこと。ああせや、英語の論文もデータにあるねんけど大丈夫?」
「英語と、ドイツ語と中国語は大丈夫です」
「あら優秀。ええ男やね」
眼鏡越しの目がにこりと村松に微笑んだ。
「……金色先生って」
「何かしら?」
「女の人だと思ってました」
「かわいい名前でしょ」
自分のゼミの女子学生と一緒にころころ笑う金色小春は、間違いなく男だった。
村松が金色小春の論文を見つけたのは去年のことだった。卒論の資料集めの最中に見つけた本の中に寄稿されていた、的確で斬新なテーマは純粋に読み物としてもおもしろく、そのとき村松が集めていた資料とはややそれたものだったが強く印象に残っている。
院の入試も卒論も落ち着いてからふと思いだし、金色小春の名前で検索をかけたが引っかかるのは古典文学の研究者ばかりで、しかもその研究者は村松の大学の文学科の教授であった。そうそうある名ではないが同姓同名かと諦め、何気なく自分の指導担当にこぼしたのが、村松が今日、文学科のある研究室へやってくるきっかけになった。
「それうちの文学科の金色先生が書いたやつやで。会いたいんやったら連絡したるけど。そういや君の興味のあるとこ、多分あの人の方が資料持ってんちゃうかな」
その言葉をすぐに信用できるはずがない。しかし教授が村松に嘘をつく理由もない。
次の日には教授が金色小春と連絡をつけていて、村松は初めて文学科に足を踏み入れた。村松を迎えたのはばっちりまつげが上を向き緩やかに髪を巻いた美人だった。偏見だと怒られるだろうが、文学科などもっと暗くて地味な学生ばかりだろうと思っていたので、イケメンがきた、と村松を迎える学生たちに驚いた。
「それアタシが抜粋しとるだけのデータやから、気になるのあったらちゃんと原本当たってね。一応図書館で取り寄せたりして揃うものしか入れてへんはずやから」
「わかりました。ありがとうございます」
「データのコピーしただけよ」
「小春ちゃんほんまにいろんなことしてんねんな」
「お陰様で本職がままならなくて、あなたたちが優秀で助かるわぁ」
「はぁい〜、頑張りますぅ」
女子学生と笑い会う姿に村松は何も言えなかった。
少なからず、自分が幻想を抱いていたことに気づかされ、同時にその幻想が打ち砕かれたことに誰に向けられるでもない憤りを感じていた。
あの洗練された文章に聡明な女性を見いだした。もちろんそれは名前のイメージが与えた先入観により村松が勝手に想像したもので、相手に憤りをぶつけるのはお門違いだ。それでも村松は感情を持て余し、彼から受け取ったUSBの中身をしばらく見ることなく放置していた。なよなよしたあんな男、ましてや専門でもない教授の何を信じられるというのだろう。
「村松」
教授に頼まれた作業をしていると同期に声をかけられた。同じ優男でもまだこの友人の方がきれいな顔をしている、などと勝手に値踏みする。
「どうした」
「前に金色先生紹介してもらってたやろ、文学科の」
「あ〜……行くには行ったけど」
よりにもよってその話か。村松はばちんとホッチキスで資料を綴じて興味のないまま応えた。
「僕もこないだお邪魔してん。そのとき村松が貰ったデータ、コピーしてもいいって言ってもらったから借りたいんやけど」
「……持ってへん」
「今やなくてええで」
「USBなくした」
「え〜?」
「探しとく。それよりこれ手伝えよ」
資料の半分を押しつける。友人は何か言いたげな素振りを見せたが、結局黙って資料を手に取った。
あのデータが一体なんだというのだろう。村松は自他共に認める優秀な学生だ。他学部の人間に教えを請わずとも自分で研究を全うできる自信がある。隣の友人だって同じことだ。
「……廣瀬、金色先生と何の話したん」
「あのときは資料の話やってんけど、ほとんど村松が持ってるみたいやったからそんなに。ああ……お笑いの話したわ」
「お笑い?」
「好きなんやって」
「……しょーもな」
村松がその日駅で金色を見かけたのは偶然だった。同じ学校にいるのだから同じ駅を利用していても不思議はない。それでも帰宅の時間が同じになったのは初めてなのだろう。駅のホームで文庫本に視線を落とし、その姿勢は背に定規でも入っているのかと思うほどぴしりとしている。村松が離れたところで立ち止まってその背中を見ていると、彼はポケットから携帯を取り出した。ディスプレイを見て頬を緩め、耳へ運ぶ。
「ユウくん?」
それは、村松が聞いたどんな声よりも甘かった。
「そう、帰るところ……いや、もう改札ん中や。……天王寺?せやなぁ……もう3分ぐらいで電車くると思うから……せやな、それぐらいには着くわ。うん?……ええわよ、たまにはアタシにさせてぇな。うん、ほな、気ィつけて。……はぁい、また後でね」
それは端的で、だからこそ親密さを感じるものだった。村松は小学校時代を思い出す。担任が産休に入るのだと報告した日。今まで漠然ととらえていた教師という存在が、明確に人間という枠を持った。村松が見ている金色小春という男は、あのとき得たはずの人間の形をした枠を越えてぼやけた何かになって見える。
通話を終えた金色は文庫本を鞄にしまい、代わりにタブレットを取り出した。迷いなくディスプレイを指が滑り、好奇心に負けて彼に近づく。
「金色先生」
「あら、村松くん」
彼がタブレットを立てる一瞬に見えたのは、料理レシピのサイトだった。何となく拍子抜けして途端に興味がなくなる。
「こんにちは。先日はありがとうございました」
「いいえ。よけいなお世話やったやろ」
「……少し忙しくて、まだじっくり目を通せてませんがそのうち」
「ええのよ、村松くんなら自力でてきるやろ」
見抜かれている。尤も、自分も態度を隠しきっていなかっただろう。こんな学生にも慣れているのかもしれない。
「料理されるんですか」
「ああ、これね」
金色はあっさりタブレットを倒して村松に見せた。演技がかって肩をすくめる。
「料理はあんまり向いてないみたいね。お菓子の方が得意やわ。色気のない表現やけど、理科の実験の同じね。分量や時間間違わなければおいしくできるもの」
「じゃあそれは?」
「たまにはね」
「……無駄なことは、しない人だと思ってました」
口をついて出た言葉に金色は少し驚いた表情を見せた。ううん、と小さく唸り、すぐに笑う
「……そうかも。だからアタシがする料理は、無駄にならないんだわ」
ならば、金色が村松に渡したデータは、無駄ではなかったというのだろうか。誰の目にも触れないまま、院生室の机の引き出しに眠るUSBのことを考える。
「来週、お時間ありますか」
「え?」
「データ確認して、質問に行きます」
「多分君ならわかる内容ばかりやと思うけど」
「いえ。絶対あります」
「ええわよ。この間の時間なら、いつも研究室におるわ」
「よろしくお願いします」
電車がホームに滑り込んだ。金色がそれに視線を遣るのとほぼ同時に会釈をし、村松は改札へ戻っていく。村松に与えられたUSBの意味を、今すぐ確認しなければ気が済まなかった。
「へえ、結果どうやったん?」
「結果も何も、出てへんのよ。出る気もなかったし。数学の先生に出てくれってずっと言われとってんけどねぇ、アタシあの頃には文系に行くって決めとったし。顧問の先生にお願いして数学の先生説得してもらったり、大変やったわぁ」
「小春ちゃん男泣かせやなぁ」
「失礼な言い方せんといてくれる?」
「でも小春ちゃん理系のクラスやったんやろ?なんで文系にせんかったん?」
「理系のクラスの方がイケメンが多かったのよ」
ピッとパソコンからUSBを引き抜いて、金色小春は立ち上がった。清潔なシャツの襟の端まで丁寧にアイロンがかけられているのを見ていると、目の前にUSBが差し出された。短く切りそろえられた爪は健康的に艶めいて、しかし少し節ばった、男の手だ。
「村松くん用にデータまとめとったん、渡しとくわ。もし開けないデータやわからないことがあったらまたいらっしゃい」
「……ありがとうございます」
「芦田先生お元気?前は結構お食事誘ってくれはったんやけど、お子さんできたでしょう、もう要件って言ったらお子さんの写真送ってくるばっかりで」
「あ……はい。ゼミでもそんなんです」
「うふふ、あんなに怖い顔してはるのにかわいいこと。ああせや、英語の論文もデータにあるねんけど大丈夫?」
「英語と、ドイツ語と中国語は大丈夫です」
「あら優秀。ええ男やね」
眼鏡越しの目がにこりと村松に微笑んだ。
「……金色先生って」
「何かしら?」
「女の人だと思ってました」
「かわいい名前でしょ」
自分のゼミの女子学生と一緒にころころ笑う金色小春は、間違いなく男だった。
村松が金色小春の論文を見つけたのは去年のことだった。卒論の資料集めの最中に見つけた本の中に寄稿されていた、的確で斬新なテーマは純粋に読み物としてもおもしろく、そのとき村松が集めていた資料とはややそれたものだったが強く印象に残っている。
院の入試も卒論も落ち着いてからふと思いだし、金色小春の名前で検索をかけたが引っかかるのは古典文学の研究者ばかりで、しかもその研究者は村松の大学の文学科の教授であった。そうそうある名ではないが同姓同名かと諦め、何気なく自分の指導担当にこぼしたのが、村松が今日、文学科のある研究室へやってくるきっかけになった。
「それうちの文学科の金色先生が書いたやつやで。会いたいんやったら連絡したるけど。そういや君の興味のあるとこ、多分あの人の方が資料持ってんちゃうかな」
その言葉をすぐに信用できるはずがない。しかし教授が村松に嘘をつく理由もない。
次の日には教授が金色小春と連絡をつけていて、村松は初めて文学科に足を踏み入れた。村松を迎えたのはばっちりまつげが上を向き緩やかに髪を巻いた美人だった。偏見だと怒られるだろうが、文学科などもっと暗くて地味な学生ばかりだろうと思っていたので、イケメンがきた、と村松を迎える学生たちに驚いた。
「それアタシが抜粋しとるだけのデータやから、気になるのあったらちゃんと原本当たってね。一応図書館で取り寄せたりして揃うものしか入れてへんはずやから」
「わかりました。ありがとうございます」
「データのコピーしただけよ」
「小春ちゃんほんまにいろんなことしてんねんな」
「お陰様で本職がままならなくて、あなたたちが優秀で助かるわぁ」
「はぁい〜、頑張りますぅ」
女子学生と笑い会う姿に村松は何も言えなかった。
少なからず、自分が幻想を抱いていたことに気づかされ、同時にその幻想が打ち砕かれたことに誰に向けられるでもない憤りを感じていた。
あの洗練された文章に聡明な女性を見いだした。もちろんそれは名前のイメージが与えた先入観により村松が勝手に想像したもので、相手に憤りをぶつけるのはお門違いだ。それでも村松は感情を持て余し、彼から受け取ったUSBの中身をしばらく見ることなく放置していた。なよなよしたあんな男、ましてや専門でもない教授の何を信じられるというのだろう。
「村松」
教授に頼まれた作業をしていると同期に声をかけられた。同じ優男でもまだこの友人の方がきれいな顔をしている、などと勝手に値踏みする。
「どうした」
「前に金色先生紹介してもらってたやろ、文学科の」
「あ〜……行くには行ったけど」
よりにもよってその話か。村松はばちんとホッチキスで資料を綴じて興味のないまま応えた。
「僕もこないだお邪魔してん。そのとき村松が貰ったデータ、コピーしてもいいって言ってもらったから借りたいんやけど」
「……持ってへん」
「今やなくてええで」
「USBなくした」
「え〜?」
「探しとく。それよりこれ手伝えよ」
資料の半分を押しつける。友人は何か言いたげな素振りを見せたが、結局黙って資料を手に取った。
あのデータが一体なんだというのだろう。村松は自他共に認める優秀な学生だ。他学部の人間に教えを請わずとも自分で研究を全うできる自信がある。隣の友人だって同じことだ。
「……廣瀬、金色先生と何の話したん」
「あのときは資料の話やってんけど、ほとんど村松が持ってるみたいやったからそんなに。ああ……お笑いの話したわ」
「お笑い?」
「好きなんやって」
「……しょーもな」
村松がその日駅で金色を見かけたのは偶然だった。同じ学校にいるのだから同じ駅を利用していても不思議はない。それでも帰宅の時間が同じになったのは初めてなのだろう。駅のホームで文庫本に視線を落とし、その姿勢は背に定規でも入っているのかと思うほどぴしりとしている。村松が離れたところで立ち止まってその背中を見ていると、彼はポケットから携帯を取り出した。ディスプレイを見て頬を緩め、耳へ運ぶ。
「ユウくん?」
それは、村松が聞いたどんな声よりも甘かった。
「そう、帰るところ……いや、もう改札ん中や。……天王寺?せやなぁ……もう3分ぐらいで電車くると思うから……せやな、それぐらいには着くわ。うん?……ええわよ、たまにはアタシにさせてぇな。うん、ほな、気ィつけて。……はぁい、また後でね」
それは端的で、だからこそ親密さを感じるものだった。村松は小学校時代を思い出す。担任が産休に入るのだと報告した日。今まで漠然ととらえていた教師という存在が、明確に人間という枠を持った。村松が見ている金色小春という男は、あのとき得たはずの人間の形をした枠を越えてぼやけた何かになって見える。
通話を終えた金色は文庫本を鞄にしまい、代わりにタブレットを取り出した。迷いなくディスプレイを指が滑り、好奇心に負けて彼に近づく。
「金色先生」
「あら、村松くん」
彼がタブレットを立てる一瞬に見えたのは、料理レシピのサイトだった。何となく拍子抜けして途端に興味がなくなる。
「こんにちは。先日はありがとうございました」
「いいえ。よけいなお世話やったやろ」
「……少し忙しくて、まだじっくり目を通せてませんがそのうち」
「ええのよ、村松くんなら自力でてきるやろ」
見抜かれている。尤も、自分も態度を隠しきっていなかっただろう。こんな学生にも慣れているのかもしれない。
「料理されるんですか」
「ああ、これね」
金色はあっさりタブレットを倒して村松に見せた。演技がかって肩をすくめる。
「料理はあんまり向いてないみたいね。お菓子の方が得意やわ。色気のない表現やけど、理科の実験の同じね。分量や時間間違わなければおいしくできるもの」
「じゃあそれは?」
「たまにはね」
「……無駄なことは、しない人だと思ってました」
口をついて出た言葉に金色は少し驚いた表情を見せた。ううん、と小さく唸り、すぐに笑う
「……そうかも。だからアタシがする料理は、無駄にならないんだわ」
ならば、金色が村松に渡したデータは、無駄ではなかったというのだろうか。誰の目にも触れないまま、院生室の机の引き出しに眠るUSBのことを考える。
「来週、お時間ありますか」
「え?」
「データ確認して、質問に行きます」
「多分君ならわかる内容ばかりやと思うけど」
「いえ。絶対あります」
「ええわよ。この間の時間なら、いつも研究室におるわ」
「よろしくお願いします」
電車がホームに滑り込んだ。金色がそれに視線を遣るのとほぼ同時に会釈をし、村松は改札へ戻っていく。村松に与えられたUSBの意味を、今すぐ確認しなければ気が済まなかった。
2014'10.13.Mon
ついてない、などと言うつもりはなかったが。
散歩の途中から降ってきた雨は予想外に強く、頬を叩く雨粒は痛いほどだった。台風が接近していたのは知っていたが、この辺りのもその気配が近づいてきたらしい。まだ粘ろうとする犬のリードを引っ張って、家に転がり込む。庭先で小屋の側に犬をつなぎ直すと全身を振って雨粒を飛ばし、しゃがんでいた荒北は真っ向からそれを浴びてしまった。
「おいコラ」
がしりと首元を掴んでも犬は素知らぬ顔をして、お返しに乱暴に毛をかき乱すように撫でまわす。きゃんきゃん嫌がるのも構わずに続けていると、玄関が開いて母親が顔を出した。
「靖友、電車止まったって」
「はぁ?」
「あんた今日帰れないわよ」
「ちょっ……」
立ち上がった荒北は母親を押しのけるように家の中に飛び込んだ。廊下を濡らすのも気にせずにリビングに向かうと、ニュースを見ていた父親が緩慢に振り返る。
「踏切が壊れたところがあるんだと。今のところ復旧未定」
「冗談、俺明日学校あるぜ」
「ちょっと靖友!濡れたまま絨毯踏まないで!」
母親に怒られて髪から滴が垂れていることに気がついた。舌を打ち、母親に促されるまま風呂場へ向かう。散歩に出た荒北が濡れて帰ってくることを見越してだろうか、風呂は沸かしている途中で、実家のありがたさを実感しつつもくすぐったい。
この春、大学に入学した荒北はひとり暮らしを始めた。運動部で鍛えられたせいか性分なのかはわからないがそれなりに気を引き締めて生活をしているつもりだが、たまに実家に顔を出すと甘やかされるのでつい緩む。
さっさと服を脱ぎ捨てて風呂に入ると、母親が着替えを持ってきた。ドア越しに見える影が少し懐かしく感じる。
「とりあえず今日も泊まるわね?」
「車出せねぇの、電車動いてるとこまで」
「まだアッシーしなきゃいけないもの」
「チッ」
高校生の妹が塾に行っている。この雨の様子だと車での迎えは必須だろう。
仕方なく、熱めの湯を張った湯船に体を沈める。雨で冷えた身体はじわりと痺れるようで、深く息を吐いた。
ここしばらく雨続きで調子が悪い。自分で考えているよりも、荒北は体を動かしていなければならない生き物であるようだ。
野球をしていた頃はそうではなかった。自転車を始めてから。
――否、野球をしているときだってそうだった。雨で練習が中止になったと聞けば喜んで、しこたまねてやろうとベッドに飛び込んでも目が冴えて、手持無沙汰に筋トレをしたり道具を磨いたりしていた。
アパートの部屋ならローラー台があるのに、と舌を打つ。その音は浴室によく響いた。湯の中でふくらはぎを揉む。
たかが犬の散歩、と侮った。久しぶりに会った愛犬との触れ合いも楽しくて、つい走りすぎたせいもあるのかもしれない。自分の体はいつの間にか、昔のように己の足で地面を蹴ることを拒むようになっている。以前は走り回っていたコースでこんなに疲れることになるとは思ってもいなかった。
悔しくも、荒北を笑う顔が浮かぶ。
そんな距離を歩けるはずがないだろう、この体に纏うのはペダルを踏むための筋肉だ。
体を温めて浴室から出る。髪を拭きながら母親に声をかければ、台所では揚げ物の跳ねる心地よい音と香ばしい匂いで充満していた。思わず足を踏み入れて、キッチンペーパーの上でまだ油を含んで光る狐色のフライに手を伸ばす。さくりと衣を砕いて、じゅわりと口腔に魚の甘味が広がる。
「今日は鮭でーす。お父さんに骨抜いてもらっちゃった」
「他は?」
「豚汁とわかめのサラダ。いつもちゃんと食べてる?」
「食ってるよ」
「食べるのも仕事だものね」
いつだか荒北が口にした言葉を、母親はずっと覚えている。何といえばいいのかわからず、むず痒い唇をフライで塞いで荒北はリビングに逃げた。父親はまだ同じニュース番組を見ている。
「やっぱり電車は動かんなぁ。明日も学校か?」
「授業は午後からなんだけどなァ」
父親の後ろに立って荒北もテレビを見たが、作業員が踏切で作業する映像が映し出され、アナウンサーの声は繰り返し路線の運休を知らせていた。彼らは大変だろうが、朝には動いていることを願ってしまう。
「野球も中止だ。靖友、自転車見るか、自転車」
「は?」
「DVD借りたんだ。会社にお前みたいな自転車のってる若いのがいてな、なんとかっていう自転車に乗ってる」
「何もわかんねーよ」
いそいそと父親が取り出したのは、ヨーロッパの世界的なプロロードレースのDVDだ。昔からスポーツは野球と相撲しか見ない父親が、自転車に興味を持ったきっかけはまず間違いなく荒北の影響で、またも居心地の悪いような座りの悪さだ。しかし見ていてもわからんから教えてくれ、と言われて、何よりも、実家を出た荒北にはもはや自室がない。家を出たと同時に妹が広い部屋へと移り、元々の妹の部屋は物置状態だ。結局リビングにいるしかなくて、荒北は諦めて受け取ったDVDをセットして父親の隣に腰を降ろす。
一度立ち上がって姿を消した父親が、ビール瓶とグラスをふたつ手に戻ってきた。もう勘弁してほしい。荒北の周囲には真面目で父親に犯行などしたことがないような男ばかりで、一度はわかりやすい反抗期を迎えた荒北は今更父親とどんな顔で話をしたらいいのか、まだ測りかねているのだ。
「飲めるだろ」
「飲めるけどよ」
「ご飯の前だからそこそこにしてよー!」
台所から飛んでくる母親の声に父親は気安く答えている。
クソ、クソッ!
やけくそで父親の手からビール瓶を奪い、さっさと栓を抜いて瓶を傾ける。父親は何も言わずにグラスを向けた。父親にされる前に自分の分は手酌でついで、乾杯など言われる前に口をつける。
父親はには野球を教わった。楽しかった。縋ろうと思えば、どんな形でも、あの場所に残ることはできたのかもしれない。それでもさっさと自分で見限って、あの熱い球場から逃げたのは自分だ。それでも父親は何も言わなかった。
ついてない。実家に残していた荷物を取りに来ただけの、一日だけの帰宅になるはずだった。それはこんな歓迎が予想できたからだ。そして息子がそれを嫌がることを知っていて、最低限にしてくれていることを知っているからだ。
朝一番で電車が動いていることを切に願う。ペダルを踏まないと、息が詰まってたまらない。
散歩の途中から降ってきた雨は予想外に強く、頬を叩く雨粒は痛いほどだった。台風が接近していたのは知っていたが、この辺りのもその気配が近づいてきたらしい。まだ粘ろうとする犬のリードを引っ張って、家に転がり込む。庭先で小屋の側に犬をつなぎ直すと全身を振って雨粒を飛ばし、しゃがんでいた荒北は真っ向からそれを浴びてしまった。
「おいコラ」
がしりと首元を掴んでも犬は素知らぬ顔をして、お返しに乱暴に毛をかき乱すように撫でまわす。きゃんきゃん嫌がるのも構わずに続けていると、玄関が開いて母親が顔を出した。
「靖友、電車止まったって」
「はぁ?」
「あんた今日帰れないわよ」
「ちょっ……」
立ち上がった荒北は母親を押しのけるように家の中に飛び込んだ。廊下を濡らすのも気にせずにリビングに向かうと、ニュースを見ていた父親が緩慢に振り返る。
「踏切が壊れたところがあるんだと。今のところ復旧未定」
「冗談、俺明日学校あるぜ」
「ちょっと靖友!濡れたまま絨毯踏まないで!」
母親に怒られて髪から滴が垂れていることに気がついた。舌を打ち、母親に促されるまま風呂場へ向かう。散歩に出た荒北が濡れて帰ってくることを見越してだろうか、風呂は沸かしている途中で、実家のありがたさを実感しつつもくすぐったい。
この春、大学に入学した荒北はひとり暮らしを始めた。運動部で鍛えられたせいか性分なのかはわからないがそれなりに気を引き締めて生活をしているつもりだが、たまに実家に顔を出すと甘やかされるのでつい緩む。
さっさと服を脱ぎ捨てて風呂に入ると、母親が着替えを持ってきた。ドア越しに見える影が少し懐かしく感じる。
「とりあえず今日も泊まるわね?」
「車出せねぇの、電車動いてるとこまで」
「まだアッシーしなきゃいけないもの」
「チッ」
高校生の妹が塾に行っている。この雨の様子だと車での迎えは必須だろう。
仕方なく、熱めの湯を張った湯船に体を沈める。雨で冷えた身体はじわりと痺れるようで、深く息を吐いた。
ここしばらく雨続きで調子が悪い。自分で考えているよりも、荒北は体を動かしていなければならない生き物であるようだ。
野球をしていた頃はそうではなかった。自転車を始めてから。
――否、野球をしているときだってそうだった。雨で練習が中止になったと聞けば喜んで、しこたまねてやろうとベッドに飛び込んでも目が冴えて、手持無沙汰に筋トレをしたり道具を磨いたりしていた。
アパートの部屋ならローラー台があるのに、と舌を打つ。その音は浴室によく響いた。湯の中でふくらはぎを揉む。
たかが犬の散歩、と侮った。久しぶりに会った愛犬との触れ合いも楽しくて、つい走りすぎたせいもあるのかもしれない。自分の体はいつの間にか、昔のように己の足で地面を蹴ることを拒むようになっている。以前は走り回っていたコースでこんなに疲れることになるとは思ってもいなかった。
悔しくも、荒北を笑う顔が浮かぶ。
そんな距離を歩けるはずがないだろう、この体に纏うのはペダルを踏むための筋肉だ。
体を温めて浴室から出る。髪を拭きながら母親に声をかければ、台所では揚げ物の跳ねる心地よい音と香ばしい匂いで充満していた。思わず足を踏み入れて、キッチンペーパーの上でまだ油を含んで光る狐色のフライに手を伸ばす。さくりと衣を砕いて、じゅわりと口腔に魚の甘味が広がる。
「今日は鮭でーす。お父さんに骨抜いてもらっちゃった」
「他は?」
「豚汁とわかめのサラダ。いつもちゃんと食べてる?」
「食ってるよ」
「食べるのも仕事だものね」
いつだか荒北が口にした言葉を、母親はずっと覚えている。何といえばいいのかわからず、むず痒い唇をフライで塞いで荒北はリビングに逃げた。父親はまだ同じニュース番組を見ている。
「やっぱり電車は動かんなぁ。明日も学校か?」
「授業は午後からなんだけどなァ」
父親の後ろに立って荒北もテレビを見たが、作業員が踏切で作業する映像が映し出され、アナウンサーの声は繰り返し路線の運休を知らせていた。彼らは大変だろうが、朝には動いていることを願ってしまう。
「野球も中止だ。靖友、自転車見るか、自転車」
「は?」
「DVD借りたんだ。会社にお前みたいな自転車のってる若いのがいてな、なんとかっていう自転車に乗ってる」
「何もわかんねーよ」
いそいそと父親が取り出したのは、ヨーロッパの世界的なプロロードレースのDVDだ。昔からスポーツは野球と相撲しか見ない父親が、自転車に興味を持ったきっかけはまず間違いなく荒北の影響で、またも居心地の悪いような座りの悪さだ。しかし見ていてもわからんから教えてくれ、と言われて、何よりも、実家を出た荒北にはもはや自室がない。家を出たと同時に妹が広い部屋へと移り、元々の妹の部屋は物置状態だ。結局リビングにいるしかなくて、荒北は諦めて受け取ったDVDをセットして父親の隣に腰を降ろす。
一度立ち上がって姿を消した父親が、ビール瓶とグラスをふたつ手に戻ってきた。もう勘弁してほしい。荒北の周囲には真面目で父親に犯行などしたことがないような男ばかりで、一度はわかりやすい反抗期を迎えた荒北は今更父親とどんな顔で話をしたらいいのか、まだ測りかねているのだ。
「飲めるだろ」
「飲めるけどよ」
「ご飯の前だからそこそこにしてよー!」
台所から飛んでくる母親の声に父親は気安く答えている。
クソ、クソッ!
やけくそで父親の手からビール瓶を奪い、さっさと栓を抜いて瓶を傾ける。父親は何も言わずにグラスを向けた。父親にされる前に自分の分は手酌でついで、乾杯など言われる前に口をつける。
父親はには野球を教わった。楽しかった。縋ろうと思えば、どんな形でも、あの場所に残ることはできたのかもしれない。それでもさっさと自分で見限って、あの熱い球場から逃げたのは自分だ。それでも父親は何も言わなかった。
ついてない。実家に残していた荷物を取りに来ただけの、一日だけの帰宅になるはずだった。それはこんな歓迎が予想できたからだ。そして息子がそれを嫌がることを知っていて、最低限にしてくれていることを知っているからだ。
朝一番で電車が動いていることを切に願う。ペダルを踏まないと、息が詰まってたまらない。
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