言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2014'07.16.Wed
「ここ、ほんとに人住んでたんだな……」
「失礼だな」
ジャンの言葉に答えながらも、アルミンは気にしない様子でジャンを追い越して敷地に入った。大学から歩いて5分、ジャンは普段は通らない道にある、存在は認識していたアパートを見上げた。
2階建てのそれは誰が控えめに見たって「ボロアパート」という表現に異論を唱えないだろう。アパートの名前らしい標識は風化して読めず、2階へ上がる鉄鋼の階段は錆びて軋む。壁には不気味にツタが這い、およそ人の住んでいる気配は感じられなかった。しかしアルミンが慣れた様子で階段を上がっていくので、ジャンもしぶしぶ階段に足を乗せる。いざ体重をかけると音だけではなくわずかにたわむように感じられ、いっそうジャンの不安を煽った。
階段は抜けず、ジャンは無事に2階へたどり着く。管理者などいないも同然なのだろう、3対のドアと窓が並ぶ通路は埃や落ち葉が端にたまり、電気には蜘蛛の巣がかかっている。ジャンもひとり暮らしをしたいと言ったことがあるが、片道1時間程度では親は許してくれなかった。大学近くに住むのはさぞ便利だろうと思っていたが、こんな環境なら今のままで十分だ。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
ジャンの常識からかけ離れた部屋に足を踏み入れることは勇気のいることだった。アルミンは簡単に部屋に入ってしまうが、ドアまでも大きく軋みながら閉まるので気が気でない。半畳もない玄関、左を見ればノスタルジックと言えなくもない台所、そこにいかにも似合う野暮ったい冷蔵庫。なぜかドアの開いたままのトイレと中を覗かずともわかる狭い風呂。そして正面の畳敷きの6畳間には生活感のあるものが押し込められ、ジャンはようやくここに人が住んでいるのだと認識した。無造作にふたつに折られた布団、押入を半分隠すの本棚は棚板がたわむほど詰め込まれ、その前には溢れた本が積み上げられ山になっている。開け放した窓から外に干した洗濯物がはためき、ごちゃごちゃと本やグラスが載ったローテーブル……というより、この場合はちゃぶ台と言うべきか。アルミンらしいといえばアルミンらしい。
アルミンは床においたノートパソコンの電源を入れ、数歩で台所へ戻る。ジャンはやっと汗で張り付く、サンダルを脱ぎ部屋に入った。それまで部屋に意識がいっていたせいで忘れていたが、やっと部屋の暑さに気づいて顔をしかめる。狭い部屋の空気は夏の日差しで暖められて体にまとわりついた。
「アルミン、クーラーは?」
「ないよ」
「はぁっ!?」
「扇風機ならある」
アルミンが指さした先を追えば、青い羽根の色褪せもノスタルジックな、レトロな扇風機がジャンの視界に飛び込んだ。元は白かったのだろうか土台のプラスチックは黄色く変色し、羽の覆いも錆びている。ジャンは恐る恐る電源を入れてみようと近づくが、もはやスイッチですらない、やはり錆びた丸いつまみに感動すら覚えた。昔のテレビのチャンネルがこんな風だったのを何かで見たことがある。実物を見たことがないそれを、まさか現代人の居住スペース、それも一人暮らしの大学生の部屋で見るとは思ってもいなかった。自分がとりわけ都会人だと思ったこともなかったが、親の田舎だってこんなレトロな代物は見たことがない。つまみをひねり、「切」から「弱」を越えて「強」まで回す。ギッ、ギッ、と不気味な音を立てながら、扇風機は現役をアピールするように首を振って風を回した。風はくる。それは間違いない。扇風機はどんな形であっても仕事はシンプルだ。しかし、老体に鞭打つ気持ちになるのはジャンだけだろうか。
「これ、火ィ吹いたりしねぇだろうな……何十年ものだよ」
「さあ、入居したときからあったんだ」
「買えよ!」
「だって動くから」
アルミンはさっさとちゃぶ台から物をおろし、ジャンの前に麦茶を入れたグラスを置く。更に全部降ろしてそこにノートパソコンを引き上げた。そこでジャンはやっとここへきた目的を思い出す。共同での課題が出て、それをまとめにきたのだ。気を取り直そうとジャンはグラスを手にして口を付け、……顔をしかめる。
「ぬるい……」
「家出る前に沸かしたんだけど、まだ冷えてなかったみたい」
「氷は?」
「うちの冷蔵庫あんまり冷凍できなくて氷作れないんだ」
「買い換えろ!」
「使えるから大丈夫だよ」
まるで暑さを感じていないかのように、アルミンはぬるい麦茶をあおって鞄から課題の概要を取り出した。途中でコンビニに寄るべきだった、と後悔するが、再びあの日差しの元へ出る気になれない。諦めてジャンも飲んだ気のしない生ぬるい麦茶を口にし、仕方なく資料を開いた。
アルミンの部屋は蒸し暑く、今日は風もあまりないので部屋の中は耳障りな扇風機が辛うじて空気を巡回させているだけである。いつもは玄関も開けているのだとアルミンは言ったが、背後が開け放されていることにジャンが落ち着かなくなり閉めていた。かといって、開けていたときと暑さはさほど変わらない。
ジャンは途中で羽織っていたシャツを脱いでタンクトップ1枚になり、扇風機の前を陣取っていた。汗をかくのが耐えられなかったのだ。普段アルミンが薄着でいる理由がよくわかる。ノートパソコンからのわずかな発熱さえ疎ましく思うほどだったが、アルミンは慣れているせいか顔色ひとつ変えていなかった。恨めしげに隣を見る。キーボードを叩く指先はではなく画面を見ている横顔は涼しげだ。しかしよく見ればアルミンの額や首筋にも汗が浮いている。どんな不屈の精神を宿していても、肉体は別ということか。
「ジャン、これについての資料なかったっけ」
「あ?あ〜……これネットで見たやつじゃなかったか?」
「そっか。何で検索かけたっけ」
一緒にノートパソコンを覗き込み、慣れた距離を途端に意識する。こんな季節、汗をかいている姿なんて珍しくない。それでもお互いの体の熱を感じる距離に寄ることはそう頻繁ではないことだ。自分が汗臭いことはわかる。しかし知ったものと少し違うこれは、アルミンの匂いだろうか。しっとりと濡れた首筋を汗が伝ってTシャツの襟に吸い込まれた。
「……お前、エロいな」
アルミンの視線がこちらを見た。咎めるでも照れるでもない、感情の読めない目だ。薄くあいた唇、歯は隠れて見えないが、彼にしては珍しい表情だった。黙って唇を合わせる。乾いてぬるい体温。
これを知っている。夏のにおいだ。
懐かしい記憶を塗り変えるように、唇を舐めて舌をねじ込む。そのまま促せばアルミンはあっさり力を抜いて、ジャンに任せて畳へ体を預けた。毛羽だった畳にまぶしい金髪が散る。汗で絡まるシャツをまくりあげ、触れるジャンの手も触れられるアルミンの腹も汗ばんで張りつくようだ。
熱い呼吸を交わし、熱を高める。肌を伝う汗の感触がやけに感じられた。正気の沙汰ではない。こんなに暑い中で、きっと思考の歯車も汗で滑るのだ。そうでなければこんなにも、欲しくなるはずがない。
アルミンの甘い声に顔を上げ、ジャンは彼の潤んだ瞳をのぞき込む。普段は涼しげに見える青さえ、夏の暑さを思い起こすようだった。
「……ッダー!暑い!」
アルミンを引きはがすように体を起こし、ジャンは扇風機を引き寄せた。首振りさえも止めてしまい、その前で座り込む。汗をかいた肌を風が舐めていってようやく得られる涼しさに、ジャンは深く息を吐いた。体の中まで熱い。内蔵がゆだってしまうのではないだろうか。ちらりと麦茶を一瞥する。結露さえしないグラスがそこにある。この部屋には体の中を冷やすための物がない。
「アルミン、アイス買ってきて」
返事は黙って背中を蹴られた。無抵抗でいると何度か繰り返される。しかし痛みよりも暑さによる疲弊が勝り、ジャンはされるに任せた。
「こう暑くちゃ、エロいこともできねぇよ」
あー、と扇風機に向かって声を出す。音の振動はジャンを慰めはしない。
やがて黙ったままのアルミンはやにわに立ち上がり、不満を露わにした足音を立てて浴室へ向かう。ちらりと横目で伺えば、姿はないが叩きつけるような水音が響いてきた。そしてドスドスと足音を立て、アルミンが戻ってくる。
「たっぷり体の中まで冷やしてあげよう」
「たった今肝が冷えたので大丈夫です」
「失礼だな」
ジャンの言葉に答えながらも、アルミンは気にしない様子でジャンを追い越して敷地に入った。大学から歩いて5分、ジャンは普段は通らない道にある、存在は認識していたアパートを見上げた。
2階建てのそれは誰が控えめに見たって「ボロアパート」という表現に異論を唱えないだろう。アパートの名前らしい標識は風化して読めず、2階へ上がる鉄鋼の階段は錆びて軋む。壁には不気味にツタが這い、およそ人の住んでいる気配は感じられなかった。しかしアルミンが慣れた様子で階段を上がっていくので、ジャンもしぶしぶ階段に足を乗せる。いざ体重をかけると音だけではなくわずかにたわむように感じられ、いっそうジャンの不安を煽った。
階段は抜けず、ジャンは無事に2階へたどり着く。管理者などいないも同然なのだろう、3対のドアと窓が並ぶ通路は埃や落ち葉が端にたまり、電気には蜘蛛の巣がかかっている。ジャンもひとり暮らしをしたいと言ったことがあるが、片道1時間程度では親は許してくれなかった。大学近くに住むのはさぞ便利だろうと思っていたが、こんな環境なら今のままで十分だ。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
ジャンの常識からかけ離れた部屋に足を踏み入れることは勇気のいることだった。アルミンは簡単に部屋に入ってしまうが、ドアまでも大きく軋みながら閉まるので気が気でない。半畳もない玄関、左を見ればノスタルジックと言えなくもない台所、そこにいかにも似合う野暮ったい冷蔵庫。なぜかドアの開いたままのトイレと中を覗かずともわかる狭い風呂。そして正面の畳敷きの6畳間には生活感のあるものが押し込められ、ジャンはようやくここに人が住んでいるのだと認識した。無造作にふたつに折られた布団、押入を半分隠すの本棚は棚板がたわむほど詰め込まれ、その前には溢れた本が積み上げられ山になっている。開け放した窓から外に干した洗濯物がはためき、ごちゃごちゃと本やグラスが載ったローテーブル……というより、この場合はちゃぶ台と言うべきか。アルミンらしいといえばアルミンらしい。
アルミンは床においたノートパソコンの電源を入れ、数歩で台所へ戻る。ジャンはやっと汗で張り付く、サンダルを脱ぎ部屋に入った。それまで部屋に意識がいっていたせいで忘れていたが、やっと部屋の暑さに気づいて顔をしかめる。狭い部屋の空気は夏の日差しで暖められて体にまとわりついた。
「アルミン、クーラーは?」
「ないよ」
「はぁっ!?」
「扇風機ならある」
アルミンが指さした先を追えば、青い羽根の色褪せもノスタルジックな、レトロな扇風機がジャンの視界に飛び込んだ。元は白かったのだろうか土台のプラスチックは黄色く変色し、羽の覆いも錆びている。ジャンは恐る恐る電源を入れてみようと近づくが、もはやスイッチですらない、やはり錆びた丸いつまみに感動すら覚えた。昔のテレビのチャンネルがこんな風だったのを何かで見たことがある。実物を見たことがないそれを、まさか現代人の居住スペース、それも一人暮らしの大学生の部屋で見るとは思ってもいなかった。自分がとりわけ都会人だと思ったこともなかったが、親の田舎だってこんなレトロな代物は見たことがない。つまみをひねり、「切」から「弱」を越えて「強」まで回す。ギッ、ギッ、と不気味な音を立てながら、扇風機は現役をアピールするように首を振って風を回した。風はくる。それは間違いない。扇風機はどんな形であっても仕事はシンプルだ。しかし、老体に鞭打つ気持ちになるのはジャンだけだろうか。
「これ、火ィ吹いたりしねぇだろうな……何十年ものだよ」
「さあ、入居したときからあったんだ」
「買えよ!」
「だって動くから」
アルミンはさっさとちゃぶ台から物をおろし、ジャンの前に麦茶を入れたグラスを置く。更に全部降ろしてそこにノートパソコンを引き上げた。そこでジャンはやっとここへきた目的を思い出す。共同での課題が出て、それをまとめにきたのだ。気を取り直そうとジャンはグラスを手にして口を付け、……顔をしかめる。
「ぬるい……」
「家出る前に沸かしたんだけど、まだ冷えてなかったみたい」
「氷は?」
「うちの冷蔵庫あんまり冷凍できなくて氷作れないんだ」
「買い換えろ!」
「使えるから大丈夫だよ」
まるで暑さを感じていないかのように、アルミンはぬるい麦茶をあおって鞄から課題の概要を取り出した。途中でコンビニに寄るべきだった、と後悔するが、再びあの日差しの元へ出る気になれない。諦めてジャンも飲んだ気のしない生ぬるい麦茶を口にし、仕方なく資料を開いた。
アルミンの部屋は蒸し暑く、今日は風もあまりないので部屋の中は耳障りな扇風機が辛うじて空気を巡回させているだけである。いつもは玄関も開けているのだとアルミンは言ったが、背後が開け放されていることにジャンが落ち着かなくなり閉めていた。かといって、開けていたときと暑さはさほど変わらない。
ジャンは途中で羽織っていたシャツを脱いでタンクトップ1枚になり、扇風機の前を陣取っていた。汗をかくのが耐えられなかったのだ。普段アルミンが薄着でいる理由がよくわかる。ノートパソコンからのわずかな発熱さえ疎ましく思うほどだったが、アルミンは慣れているせいか顔色ひとつ変えていなかった。恨めしげに隣を見る。キーボードを叩く指先はではなく画面を見ている横顔は涼しげだ。しかしよく見ればアルミンの額や首筋にも汗が浮いている。どんな不屈の精神を宿していても、肉体は別ということか。
「ジャン、これについての資料なかったっけ」
「あ?あ〜……これネットで見たやつじゃなかったか?」
「そっか。何で検索かけたっけ」
一緒にノートパソコンを覗き込み、慣れた距離を途端に意識する。こんな季節、汗をかいている姿なんて珍しくない。それでもお互いの体の熱を感じる距離に寄ることはそう頻繁ではないことだ。自分が汗臭いことはわかる。しかし知ったものと少し違うこれは、アルミンの匂いだろうか。しっとりと濡れた首筋を汗が伝ってTシャツの襟に吸い込まれた。
「……お前、エロいな」
アルミンの視線がこちらを見た。咎めるでも照れるでもない、感情の読めない目だ。薄くあいた唇、歯は隠れて見えないが、彼にしては珍しい表情だった。黙って唇を合わせる。乾いてぬるい体温。
これを知っている。夏のにおいだ。
懐かしい記憶を塗り変えるように、唇を舐めて舌をねじ込む。そのまま促せばアルミンはあっさり力を抜いて、ジャンに任せて畳へ体を預けた。毛羽だった畳にまぶしい金髪が散る。汗で絡まるシャツをまくりあげ、触れるジャンの手も触れられるアルミンの腹も汗ばんで張りつくようだ。
熱い呼吸を交わし、熱を高める。肌を伝う汗の感触がやけに感じられた。正気の沙汰ではない。こんなに暑い中で、きっと思考の歯車も汗で滑るのだ。そうでなければこんなにも、欲しくなるはずがない。
アルミンの甘い声に顔を上げ、ジャンは彼の潤んだ瞳をのぞき込む。普段は涼しげに見える青さえ、夏の暑さを思い起こすようだった。
「……ッダー!暑い!」
アルミンを引きはがすように体を起こし、ジャンは扇風機を引き寄せた。首振りさえも止めてしまい、その前で座り込む。汗をかいた肌を風が舐めていってようやく得られる涼しさに、ジャンは深く息を吐いた。体の中まで熱い。内蔵がゆだってしまうのではないだろうか。ちらりと麦茶を一瞥する。結露さえしないグラスがそこにある。この部屋には体の中を冷やすための物がない。
「アルミン、アイス買ってきて」
返事は黙って背中を蹴られた。無抵抗でいると何度か繰り返される。しかし痛みよりも暑さによる疲弊が勝り、ジャンはされるに任せた。
「こう暑くちゃ、エロいこともできねぇよ」
あー、と扇風機に向かって声を出す。音の振動はジャンを慰めはしない。
やがて黙ったままのアルミンはやにわに立ち上がり、不満を露わにした足音を立てて浴室へ向かう。ちらりと横目で伺えば、姿はないが叩きつけるような水音が響いてきた。そしてドスドスと足音を立て、アルミンが戻ってくる。
「たっぷり体の中まで冷やしてあげよう」
「たった今肝が冷えたので大丈夫です」
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2014'06.28.Sat
額に汗が浮いている。冷や汗に近いそれに隣のミカサが気づかないことを願いながら、ジャンはこっそり汗を拭った。
ミカサの視線の先にはエレンがいた。ジャンがエレンを気に食わないと思う一因は、あの男がミカサの視線を気にも留めないからだ。家族のようなもの、と彼らは言うが、ジャンからみればそれは家族に向けるものではない。否、確かに母親が息子に向けるような、どこか懐かしさを感じる色を含んでいることもあるのだ。しかしそれだけではない。恋ではない。それはもっと、崇拝にさえ近いものだ。
ミカサの視線に気づかず、エレンはアニに教えてもらった格闘術でライナーと組み合っている。小柄なアニは大柄のライナーをころころと転がしてしまうが、エレンはまだ体格差には勝てないのか、代わりにライナーにころころと転がされている。いつもなら怒り出しそうなミカサだが、今回はただエレンが理不尽に攻められているのではないとわかるからか、黙ってそれを見つめていた。少しでもライナーが不振な素振りを見せたら猫のように飛びかかるだろう。それだけ集中してライナーを見ているミカサが、隣にジャンがいることをまったく意識していないことは明白だ。
――一目惚れだった。
そう一言で言えばひどくあっさりしたものだが、今は切られてしまったミカサの艶やかな黒髪に見とれたあのときの胸の高鳴りを、まだ忘れていない。
我ながら不毛な思いを抱いている自覚はある。もうミカサがエレンから離れることはないだろうと、どこかそんな諦めにも似た確信があった。
ならばさっさと忘れてしまえばいいのに、と自分に呆れる。隣に立つだけで緊張して、言葉も出なくなって、……なんと不毛な恋だろう。
「……あいつ、何回やられる気だよ」
やっと出てきたのは嘲笑を含むそんな言葉だ。ミカサの気を引けるはずもないのに。情けなさに頭を抱えたくなる。
しかしミカサはこちらに視線を降った。ここらで見ない漆黒の瞳は濡れて、きっとジャンではなくてもどきりとするだろう。
「私はジャンが羨ましい」
低く、甘い。名を呼ばれたことに戸惑って理解が遅れる。
「……は?」
「男の子は羨ましい。私はいさかいを止めることはできるけれど、興奮を共有することはできないから」
ミカサはすぐに視線をエレンに戻してしまった。
少しだけ、欲が出る。彼女が自分を認識していることに浮かれてしまう。
「どういうことだ?」
「……昔から、ずっと。私はエレンとアルミンのようにはなれない」
「あ〜……あの冒険の話のことか?」
ミカサが小さく頷いた。まともなコミュニケーションにやや声がうわずる。
「あれは、あいつらだけだろ。オレだって何がおもしろいのかわかんねえよ」
「そう?」
「ああ」
「……エレンとアルミンは、最近は少なくなったけれど、ずっと同じ話をしていた。私はずっとそれを聞いていた」
「へぇ。あいつら、もう少し気を使えってんだ」
「私は……やっぱり羨ましかったのだと思う。同じ気持ちにはなれないし、はっきり言うと興味もない。だけど、それを共有できなかった」
「あ〜……そうだな……うちの母親が言うにはだな、女はリアリストで、男はロマンチストなんだって。女は生まれた子どもを育てなきゃなんねぇから、夢ばかりみてらんねぇんだと」
ミカサがジャンを見て、ぱちりと瞬きをした。薄い瞼の裏に隠れた漆黒はすぐにジャンを見据える。こんなに美しい黒を他に知らない。
「だから……別に、ミカサが羨ましがるようなことでもなんでもないぜ。あいつらが子どもだってだけだ」
ミカサはもう一度瞬きをして、やはり視線をエレンに戻した。つられてジャンもそちらを見ると、疲れきったのか、エレンは倒れたまま起き上がらずに何かわめいている。
「男なら――ジャンならわかる?」
ぽつりとこぼす小さな声でさえ、ひとりの男を惑わせていることを、彼女は知らない。彼女は見せかけのリアリストだ。
「わかんねえよ。あんな現実を見てない馬鹿にはなれねぇ」
「そう……」
私と同じね。
そのたった一言がどれほどの力を持つのか、彼女はやはり知らないのだ。
ミカサの視線の先にはエレンがいた。ジャンがエレンを気に食わないと思う一因は、あの男がミカサの視線を気にも留めないからだ。家族のようなもの、と彼らは言うが、ジャンからみればそれは家族に向けるものではない。否、確かに母親が息子に向けるような、どこか懐かしさを感じる色を含んでいることもあるのだ。しかしそれだけではない。恋ではない。それはもっと、崇拝にさえ近いものだ。
ミカサの視線に気づかず、エレンはアニに教えてもらった格闘術でライナーと組み合っている。小柄なアニは大柄のライナーをころころと転がしてしまうが、エレンはまだ体格差には勝てないのか、代わりにライナーにころころと転がされている。いつもなら怒り出しそうなミカサだが、今回はただエレンが理不尽に攻められているのではないとわかるからか、黙ってそれを見つめていた。少しでもライナーが不振な素振りを見せたら猫のように飛びかかるだろう。それだけ集中してライナーを見ているミカサが、隣にジャンがいることをまったく意識していないことは明白だ。
――一目惚れだった。
そう一言で言えばひどくあっさりしたものだが、今は切られてしまったミカサの艶やかな黒髪に見とれたあのときの胸の高鳴りを、まだ忘れていない。
我ながら不毛な思いを抱いている自覚はある。もうミカサがエレンから離れることはないだろうと、どこかそんな諦めにも似た確信があった。
ならばさっさと忘れてしまえばいいのに、と自分に呆れる。隣に立つだけで緊張して、言葉も出なくなって、……なんと不毛な恋だろう。
「……あいつ、何回やられる気だよ」
やっと出てきたのは嘲笑を含むそんな言葉だ。ミカサの気を引けるはずもないのに。情けなさに頭を抱えたくなる。
しかしミカサはこちらに視線を降った。ここらで見ない漆黒の瞳は濡れて、きっとジャンではなくてもどきりとするだろう。
「私はジャンが羨ましい」
低く、甘い。名を呼ばれたことに戸惑って理解が遅れる。
「……は?」
「男の子は羨ましい。私はいさかいを止めることはできるけれど、興奮を共有することはできないから」
ミカサはすぐに視線をエレンに戻してしまった。
少しだけ、欲が出る。彼女が自分を認識していることに浮かれてしまう。
「どういうことだ?」
「……昔から、ずっと。私はエレンとアルミンのようにはなれない」
「あ〜……あの冒険の話のことか?」
ミカサが小さく頷いた。まともなコミュニケーションにやや声がうわずる。
「あれは、あいつらだけだろ。オレだって何がおもしろいのかわかんねえよ」
「そう?」
「ああ」
「……エレンとアルミンは、最近は少なくなったけれど、ずっと同じ話をしていた。私はずっとそれを聞いていた」
「へぇ。あいつら、もう少し気を使えってんだ」
「私は……やっぱり羨ましかったのだと思う。同じ気持ちにはなれないし、はっきり言うと興味もない。だけど、それを共有できなかった」
「あ〜……そうだな……うちの母親が言うにはだな、女はリアリストで、男はロマンチストなんだって。女は生まれた子どもを育てなきゃなんねぇから、夢ばかりみてらんねぇんだと」
ミカサがジャンを見て、ぱちりと瞬きをした。薄い瞼の裏に隠れた漆黒はすぐにジャンを見据える。こんなに美しい黒を他に知らない。
「だから……別に、ミカサが羨ましがるようなことでもなんでもないぜ。あいつらが子どもだってだけだ」
ミカサはもう一度瞬きをして、やはり視線をエレンに戻した。つられてジャンもそちらを見ると、疲れきったのか、エレンは倒れたまま起き上がらずに何かわめいている。
「男なら――ジャンならわかる?」
ぽつりとこぼす小さな声でさえ、ひとりの男を惑わせていることを、彼女は知らない。彼女は見せかけのリアリストだ。
「わかんねえよ。あんな現実を見てない馬鹿にはなれねぇ」
「そう……」
私と同じね。
そのたった一言がどれほどの力を持つのか、彼女はやはり知らないのだ。
2014'06.07.Sat
マルコ、甘い声が鼻孔をくすぐり、力が抜ける自分の体を叱咤してマルコはジャンを押し返した。それでもこんな弱い力ではマルコが本気で嫌がっていないことなど、きっとジャンには見抜かれてしまっている。少しだけアルコールの力を借りたジャンの熱い手がマルコの手の甲を滑り、カッターシャツの袖から指先を侵入させる。手首の骨をなぞられて、背筋を震わせた。
「マルコ」
力のないマルコの抵抗など物ともせず、ジャンは顔を寄せる。出会った頃よりも年を経て肉を落とした頬は男らしく、少し鋭い目は今は甘えるようにマルコだけを見つめている。マルコ、とただ呼ぶ声は、切羽詰まったものだった。
見ていたDVDはもう本編を終了し、メニュー画面のBGMをただ流している。これがもっと激しい曲であれば誤魔化したのに、別れのシーンに使われた曲は切なくもムード作りの役にしかたたなかった。
ジャンの体温を、拒めない自分がいる。
「マルコ、マルコ」
「ジャン、駄目だ」
「マルコ」
ほとんど伸し掛かるように、マルコはソファーに押しつけられる。額同士が触れて息を飲んだ。
「マルコ」
「駄目だ、ジャン、君にはアルミンがいて、僕にも」
「なんで駄目なんだよ。オレはまだ、マルコのことが好きだ。アルミンのことだって傷つけたいわけじゃない、それでも、どうしてお前もオレを好きなのに、触れちゃいけないんだ」
「ジャン、僕は」
「好きだろ、オレのこと」
「やめてくれ」
「マルコ」
言葉と共に熱い息がかかる。それと同時に泣きたくなる。それはもう何度も、自分に聞いて、答えを出してきたことだ。もうきちんと消化したはずなのに、ジャンの言葉ひとつ、仕草ひとつで呼び起されてしまう。
「マルコ」
「ジャン、駄目だ」
それでも、もう彼の目を拒めない。
震える唇が重なる。たった一瞬の熱でも焼けるように体が熱くなり、すぐにジャンを引き離そうとした手は先手を取ってジャンに捕まれる。さっきまでのじれったさが嘘のように、噛みつくようなキスは決定的で、もうふたりは自分を止めることができなかった。
お互いを強く抱きしめ、唇を合わせる。熱い息に溺れるように貪って、濡れた舌を絡ませあい、性急な手つきがもどかしく服を脱がしていく。その間も惜しむようにキスを深め、その合間にお互いの名前を呼び続けた。
あぁ、と深く、甘い声を上げる。
ジャンの唇が触れる場所から溶けていくように、マルコは劣情に溺れていった。
始めに拒んだのはマルコだった。ジャンが好きだという思いは、一生誰にも言わないつもりでいた。マルコには結婚を約束した彼女がいて、ジャンにも今はパートナーがいる。
それでも、理性では抑えられないほど、マルコはジャンを求めていたのだった。
「っていうジャンマル下さい」
「アルミン、正座」
マルコの言葉に何で、と不満を露わにしたアルミンをとにかくソファーに正座させた。隣で笑っていたジャンにも正座、と言い渡し、やはり不満そうなジャンにも同様に姿勢を正させる。マルコは深く溜息をつき、アルミンの「作品」をプリントアウトしたコピー用紙をテーブルに叩きつける。
「あのね、アルミン!」
「マルコはマルジャンがよかった?」
「オレどっちでもいいけど」
「ジャンは黙ってて」
自体はややこしく面倒くさい。マルコは感情任せに怒鳴りそうなのを押さえつけ、深く溜息をつく。
ジャンとの付き合いは長い。その間に、彼に告白をされたということは事実であった。ゲイであるジャンからの告白を、ただ男同士であるという理由で断ったわけではない。マルコにはジャンよりも長い付き合いの彼女がいて、結婚の約束をしていることも事実だった。そしてジャンの今のパートナーがアルミンであることも事実だ。
「あのね、どうしてこういうことになるの!」
「だって萌えたんだもん……」
かわいらしく拗ねてみせるアルミンに、マルコは何度目かわからない溜息をついた。アルミンは決して悪い人ではない。悪意があってこんなことをしているわけではなく、ましてやジャンやマルコを傷つけようとしているわけではないこともわかっている。しかし。
――腐男子って、やっぱりよくわからない。
「……とにかく、もう二度とこういうのは書かないでくれ」
「えー、オレも読みてえのに」
「ジャン!」
「マルジャンでもいいぜ?」
「もう君たちとの会話疲れる……」
マルコは頭を抱えて溜息をついた。ソファーで膨れっ面をしているアルミンが、自分の知らぬところで彼女と知り合って意気投合していることはまだ知らずにいるのだった。
「マルコ」
力のないマルコの抵抗など物ともせず、ジャンは顔を寄せる。出会った頃よりも年を経て肉を落とした頬は男らしく、少し鋭い目は今は甘えるようにマルコだけを見つめている。マルコ、とただ呼ぶ声は、切羽詰まったものだった。
見ていたDVDはもう本編を終了し、メニュー画面のBGMをただ流している。これがもっと激しい曲であれば誤魔化したのに、別れのシーンに使われた曲は切なくもムード作りの役にしかたたなかった。
ジャンの体温を、拒めない自分がいる。
「マルコ、マルコ」
「ジャン、駄目だ」
「マルコ」
ほとんど伸し掛かるように、マルコはソファーに押しつけられる。額同士が触れて息を飲んだ。
「マルコ」
「駄目だ、ジャン、君にはアルミンがいて、僕にも」
「なんで駄目なんだよ。オレはまだ、マルコのことが好きだ。アルミンのことだって傷つけたいわけじゃない、それでも、どうしてお前もオレを好きなのに、触れちゃいけないんだ」
「ジャン、僕は」
「好きだろ、オレのこと」
「やめてくれ」
「マルコ」
言葉と共に熱い息がかかる。それと同時に泣きたくなる。それはもう何度も、自分に聞いて、答えを出してきたことだ。もうきちんと消化したはずなのに、ジャンの言葉ひとつ、仕草ひとつで呼び起されてしまう。
「マルコ」
「ジャン、駄目だ」
それでも、もう彼の目を拒めない。
震える唇が重なる。たった一瞬の熱でも焼けるように体が熱くなり、すぐにジャンを引き離そうとした手は先手を取ってジャンに捕まれる。さっきまでのじれったさが嘘のように、噛みつくようなキスは決定的で、もうふたりは自分を止めることができなかった。
お互いを強く抱きしめ、唇を合わせる。熱い息に溺れるように貪って、濡れた舌を絡ませあい、性急な手つきがもどかしく服を脱がしていく。その間も惜しむようにキスを深め、その合間にお互いの名前を呼び続けた。
あぁ、と深く、甘い声を上げる。
ジャンの唇が触れる場所から溶けていくように、マルコは劣情に溺れていった。
始めに拒んだのはマルコだった。ジャンが好きだという思いは、一生誰にも言わないつもりでいた。マルコには結婚を約束した彼女がいて、ジャンにも今はパートナーがいる。
それでも、理性では抑えられないほど、マルコはジャンを求めていたのだった。
「っていうジャンマル下さい」
「アルミン、正座」
マルコの言葉に何で、と不満を露わにしたアルミンをとにかくソファーに正座させた。隣で笑っていたジャンにも正座、と言い渡し、やはり不満そうなジャンにも同様に姿勢を正させる。マルコは深く溜息をつき、アルミンの「作品」をプリントアウトしたコピー用紙をテーブルに叩きつける。
「あのね、アルミン!」
「マルコはマルジャンがよかった?」
「オレどっちでもいいけど」
「ジャンは黙ってて」
自体はややこしく面倒くさい。マルコは感情任せに怒鳴りそうなのを押さえつけ、深く溜息をつく。
ジャンとの付き合いは長い。その間に、彼に告白をされたということは事実であった。ゲイであるジャンからの告白を、ただ男同士であるという理由で断ったわけではない。マルコにはジャンよりも長い付き合いの彼女がいて、結婚の約束をしていることも事実だった。そしてジャンの今のパートナーがアルミンであることも事実だ。
「あのね、どうしてこういうことになるの!」
「だって萌えたんだもん……」
かわいらしく拗ねてみせるアルミンに、マルコは何度目かわからない溜息をついた。アルミンは決して悪い人ではない。悪意があってこんなことをしているわけではなく、ましてやジャンやマルコを傷つけようとしているわけではないこともわかっている。しかし。
――腐男子って、やっぱりよくわからない。
「……とにかく、もう二度とこういうのは書かないでくれ」
「えー、オレも読みてえのに」
「ジャン!」
「マルジャンでもいいぜ?」
「もう君たちとの会話疲れる……」
マルコは頭を抱えて溜息をついた。ソファーで膨れっ面をしているアルミンが、自分の知らぬところで彼女と知り合って意気投合していることはまだ知らずにいるのだった。
2014'05.21.Wed
右ジャン要素を含みます。クリスタも腐女子。
「そッ」
店の一角であがった素っ頓狂な声に、ジャンも連れと一緒に振り返った。視線を集めてしまって半端な会釈で誤魔化す彼は見ない顔だ。
年齢確認をされてしまいそうな幼い顔立ちは、もしかしたら未成年なのかもしれない。前に置かれたオレンジ色で満ちたグラスはアルコールが入っているかどうかはわからなかった。同じテーブルのスタッフが何か言ったのに大きく頷く彼を、隣の女が笑う。おい、とカウンターのバーテンに呼ばれ、ジャンはやっと体を戻した。
「ジャン、お前見すぎ」
「かわいくねぇ?」
「お前好きだな、ああいうタイプ」
「かわいいよな。オレ色に染めたいっつーの?」
「馬鹿」
カウンターを挟んで肩を揺らして笑いあう。空になったグラスを指さされ、少し考えてもう一杯同じものを頼んだ。
この店は繁華街のずっとマニアックな一帯にある。小さくも常連ばかりでつないでいるこの店は、いわゆるゲイバーだ。ジャンが店の常連になってから、ここでいろんな客を見た。やってくるのはゲイばかりではない。ネタ半分友達感覚半分の女の客も珍しくなく、あのテーブルもそうだろう。どんな話も興味深そうに聞いてうなづく男を再び見て、ジャンは新しく出されたグラスを持って立ち上がった。
「おい」
「後でな」
カウンターに残るバーテンの手に自分の手を重ねて笑う。呆れたように肩をすくめられたが、ジャンは気にせず店の隅のテーブルに向かった。客と一緒にいるのも顔見知りのスタッフで、彼に声をかける素振りでするりとテーブルに滑り込む。
「マルコ何飲んでんの?」
「ジャン」
隣に座ったジャンにマルコは驚いたが、すぐに笑顔を見せた。ちなみにマルコは三年つきあっている彼女のいるノンケで、ジャンは昔振られている。正面に視線を流すと、驚いた表情は彼をなおさら幼く見せていた。隣の女には見覚えがある。
「クリスタ、久し振り」
「久し振り、ジャン。彼氏できた?」
「そっくり返す」
こちらもやはりこんな薄暗いバーの似合わないようなかわいらしい女だ。繁華街を歩くそこらのホステスよりも圧倒的にかわいいが、ジャンの視線はその隣に向いてしまう。隣の男は顔も服も野暮ったいが、興味に目を光らせている様子はジャンの目には魅力的に見えた。
「クリスタの友達か?」
「そう、アルミン!こっちはジャン、常連さん」
「はっ、初めまして」
「どうも」
ノンケだろうなぁ、と少し惜しく思いながらアルミンを見る。こんなところにくるのだから嫌悪はないのだろうが、ジャンの直感は外れたことがない。下手に手を出してこじれるのはごめんなので、今日は会話を楽しむだけにしよう、と乾杯を持ちかける。慌ててグラスを持つ様は小動物を思わせた。
「ジャン、この間の話クリスタに聞かせてあげなよ」
「女が乗り込んできた話?」
「そうそう」
「何!?新しいネタ!?」
「オレは芸人じゃねぇんだよ」
きらきらと目を輝かせるクリスタとは反対に、ジャンは露骨に顔をしかめた。詳しいことは知らないが、クリスタは「腐女子」であるらしい。世間にはボーイズラブというジャンルが流行り、それは要するに男同士の恋愛を扱ったものである。クリスタと知り合ってからいくつかそれを目にしたが、性別が違うだけで少女漫画と同じという印象だ。ただ少女漫画と違うのは、過激な性行為の描写があったところだろうか。中には楽しめるものもあった。クリスタはボーイズラブが好きなだけではなく自分で書くこともするようで、ここに来るのはネタ探しも兼ねているらしい。
その「ネタ」という言葉に、アルミンが反応したのを見逃さない。クリスタと同じ青い目を輝かせ、ジャンの様子をうかがっている。
「あ〜……この間中学んときの友達と偶然会ってさ、イケメンってことはねえけどチャラくなっててさ」
「うんうん」
「オレ地元じゃ一部にはゲイだってバレてんだよ。学校の先生とつき合っんのバレて」
「ちょっ、その話知らないんだけど!?」
「だって不倫の話はクリスタ怒るだろ」
「あっ不倫はやだ」
アルミンがわずかに指先を跳ねさせた。クリスタとは違い、その反応は悪いものではなさそうだ。
「まあそんで、その同級生も仲よかったわけじゃないけど、久しぶりに会ったら普通に接してくれて、飯食いに行ったんだ。懐かしい昔の話ばっかりしてたら結構酒回って、終電逃したからうちに泊めたんだ」
「う、うん」
「そのときは次の日普通に帰っていったんだ。あ、何もしてねえよ、ほんと普通に泊めただけ。でも次の週ぐらいか?夜中にそいつが女とふたりで押し掛けてきて」
「うんうん」
「女はそいつの彼女でさ、うちに来るなり怒鳴り散らして、要するにそいつに別れ話をされて、理由を聞いたらオレとつき合ってるって言われたって。どういうことだこの泥棒猫、みたいなことで攻められたけど、オレまったく身に覚えがねえの。好みじゃねえしな」
「うわぁ、修羅場……」
「それがガチで修羅場でよ、女の方が包丁持ってて」
「えっ!」
「小さいやつだったけど。そいつが死ぬのも後味悪いけどオレは絶対死にたくないし、必死でなだめてどうにか座らせてお茶出して、その間にこっそりライナーにメール入れたんだ」
ジャンは少し振り返り、カウンターのバーテンを指さした。格闘技でもやっているのかと思うようながっちりした体型は、実用できるかはわからなくともはったりにはかなり有効だ。
「ライナーが来てしまえば女もビビったし、警察呼ぶぞって脅して外に放り出した」
「それで?」
「あとで話聞いたら、つきあいだしてからぶっ飛んだ女だってわかって、別れたいと思ってたところにオレが現れたから都合よく利用したんだってよ」
「何それ!最低!」
「でもちゃんとオチついてよ」
「うん」
「別れることには成功して、そのあとオレに惚れたっつって今ストーカー状態」
「ジャンってほんと、いつか刺されそうだよね……」
クリスタの言葉にマルコが大きく頷いた。何だよ、と口をとがらせて見せる。聞きたがるのはそちらのくせにいつもこうだ。
「アルミンはクリスタと同じ?」
「えっ」
「こういう話好き?」
「う、なんというか、すごすぎて……」
「ジャンの話、おもしろいけどすごすぎるんだよね。ネタにできないよ」
「いっとくけどオレいつも巻き込まれてるだけだからな」
「クリスタそろそろ終電じゃない?」
「あっ、ほんとだ!アルミンもだよね!」
「うん」
「なんだ、帰っちまうのか」
結局自分の話をしただけで終わってしまった。物足りなさを感じながら手を振って見送るとアルミンもはにかんで手を振り返してくれる。それが見れただけでよしとしておこう。
「また来る?」
誘うつもりで立ち上がったアルミンを見上げたが、困ったようにクリスタを見て、首を傾げた。
それからは元々少なかった客は減るばかりで、ジャンがひとり残った頃、ライナーがクローズの看板をかけにいく。ちびちびと酒を舐めていたジャンは酩酊とまではいかなくとも気分はかなり良く、カウンターの端でグラスの中の氷をつついていた。椅子を直しながら戻ってきたライナーはジャンの隣に座り、ちらと視線を送ると顔が近づく。力強い腕がジャンの腰を引き寄せ、厚い唇が重なった。
「ん」
腰を撫でた無骨な手がカットソーの下に滑り込んだ。くすぐったさを笑って息を漏らす。熱っぽいライナーの視線と目があって、ジャンは少し考えた。
「オレ、やっぱ帰るわ」
「……お前、ここまできてそれはねえだろ」
「気分乗らねぇ。また今度な」
わざと子どもじみた仕草で頬にキスをして、ジャンはライナーの胸を押す。しばしの沈黙の後、溜息と同時に体が離れた。
「送るか?」
「タクシー捕まえる。じゃな、おやすみ」
「おやすみ」
物わかりのいい友人に感謝して、ジャンは店を出た。
ジャンが塾講師という仕事を選んだのには、大それた信念や崇高な理由はなかった。仕事の相手が子どもであることと、面接のときの人事担当が好みであったからだ。残念ながら人事担当はジャンの就職とほぼ同時に異動になったが、他の講師も悪くはなかった。元々職場で恋愛をする気はなく、過ごせるならば何事も問題を起こさずに暮らしたい。受験勉強で大忙しの生徒たちは自分の恋愛のための余力しかなく、個人経営の塾の数少ない講師はみな真面目だった。ジャンが明け方まで遊び回っていようと、仕事以外で関わりそうもない。変装というわけではないが仕事中は伊達眼鏡で、気持ちの切り替えをしているつもりだ。
教室の一角で女子生徒がにぎやかな話をしている。今までは気にしたことはなかったが、ジャンはクリスタと知り合ってから彼女たちの会話の断片がわかるようになった。つまり彼女たちも腐女子なのだ。ホワイトボードを消しながらこっそり聞き耳を立てているジャンには気にもとめず、彼女たちは楽しそうに、ある種の共通言語を使いこなす。どうやらクリスタと同じ「ジャンル」らしい。有名私立の清楚な制服に身を包み、涼しい顔で勉強しながら、彼女たちも頭の中ではお気に入りのキャラクターたちによる乗算式を繰り広げているのだ。成績が落ちない程度に好きにしてくれ、と思いながらテキストを手に、ジャンは帰るようにと声をかける。
「あっ先生、今日言ってた参考書なんだっけ?」
「あ〜?わざわざ書いてやってただろうが」
「本屋寄って帰るから教えて〜!」
甘える声色にわざとしかめっ面をする。別にゲイだからと言って女が嫌いなわけではないが、単純に同じことの繰り返しは面倒だ。ふと自分もほしい本があることを思い出す。
「俺も本屋寄るから一緒に見てやる。ちょっと待ってろ」
彼女たちが顔を見合わせたが特に気にせず、ジャンは控え室に戻って帰り支度を手早く済ませた。ロビーで待っていた生徒と合流し、駅前の本屋に向かう。特に大きいわけではないが品ぞろえがよく、なかなか重宝する店だ。
「この店のコーナーならあのBL見つかるよね」
小さく囁きあう彼女たちの言葉が聞こえ、なるほど、とこっそり苦笑した。趣味に勉強にと忙しいことだ。さっさと目当ての参考書を見つけてやり、ジャンも目当ての本を探して生徒と別れた。本棚にはジャンの目当てのものは見つからず、帰ってインターネットで探す方が早いだろうかと思案する。丁度背後を店員が通りかかったので、ついでなので声をかけた。
はい、と振り返った顔を見て驚く。柔らかな金髪のボブカット、それは昨日バーで見た顔だ。薄暗い店内ではわからなかった青い瞳がジャンを見上げる。
「お探しですか?」
どうやらジャンに気づいていないらしい。そんなにインパクトがなかっただろうか、と思ったが、恐らく他人に興味のないタイプなのだろう。
「あの」
「ああ、『落窪物語』、岩波のありますか」
「少々お待ち下さい」
一度棚に視線を送り、ぱっと離れた彼はカウンター向かった。パソコンのキーボードを叩いて、スタッフルームに姿を消す。ジャンがどうしてやろうかと思っているうちに、文庫本を持って戻ってきた。
「こちらでお間違いないですか?」
「ありがとう。それと、あんたのオススメのBLある?」
すぐに理解ができずにぽかんと口を開けたアルミンを笑い、眼鏡を外してのぞき込む。時間をかけて思い出したようで、アルミンは視線をさまよわせた。
「えっ、と、あの……」
「終電間に合った?」
「は、はい……」
「よかった。また来いよ、もっと話聞きたいからさ」
「あ、う」
「あんたが知りたいような話も、できると思うぜ?」
ジャンの言葉に、アルミンが目を光らせたのを見逃さなかった。
「そッ」
店の一角であがった素っ頓狂な声に、ジャンも連れと一緒に振り返った。視線を集めてしまって半端な会釈で誤魔化す彼は見ない顔だ。
年齢確認をされてしまいそうな幼い顔立ちは、もしかしたら未成年なのかもしれない。前に置かれたオレンジ色で満ちたグラスはアルコールが入っているかどうかはわからなかった。同じテーブルのスタッフが何か言ったのに大きく頷く彼を、隣の女が笑う。おい、とカウンターのバーテンに呼ばれ、ジャンはやっと体を戻した。
「ジャン、お前見すぎ」
「かわいくねぇ?」
「お前好きだな、ああいうタイプ」
「かわいいよな。オレ色に染めたいっつーの?」
「馬鹿」
カウンターを挟んで肩を揺らして笑いあう。空になったグラスを指さされ、少し考えてもう一杯同じものを頼んだ。
この店は繁華街のずっとマニアックな一帯にある。小さくも常連ばかりでつないでいるこの店は、いわゆるゲイバーだ。ジャンが店の常連になってから、ここでいろんな客を見た。やってくるのはゲイばかりではない。ネタ半分友達感覚半分の女の客も珍しくなく、あのテーブルもそうだろう。どんな話も興味深そうに聞いてうなづく男を再び見て、ジャンは新しく出されたグラスを持って立ち上がった。
「おい」
「後でな」
カウンターに残るバーテンの手に自分の手を重ねて笑う。呆れたように肩をすくめられたが、ジャンは気にせず店の隅のテーブルに向かった。客と一緒にいるのも顔見知りのスタッフで、彼に声をかける素振りでするりとテーブルに滑り込む。
「マルコ何飲んでんの?」
「ジャン」
隣に座ったジャンにマルコは驚いたが、すぐに笑顔を見せた。ちなみにマルコは三年つきあっている彼女のいるノンケで、ジャンは昔振られている。正面に視線を流すと、驚いた表情は彼をなおさら幼く見せていた。隣の女には見覚えがある。
「クリスタ、久し振り」
「久し振り、ジャン。彼氏できた?」
「そっくり返す」
こちらもやはりこんな薄暗いバーの似合わないようなかわいらしい女だ。繁華街を歩くそこらのホステスよりも圧倒的にかわいいが、ジャンの視線はその隣に向いてしまう。隣の男は顔も服も野暮ったいが、興味に目を光らせている様子はジャンの目には魅力的に見えた。
「クリスタの友達か?」
「そう、アルミン!こっちはジャン、常連さん」
「はっ、初めまして」
「どうも」
ノンケだろうなぁ、と少し惜しく思いながらアルミンを見る。こんなところにくるのだから嫌悪はないのだろうが、ジャンの直感は外れたことがない。下手に手を出してこじれるのはごめんなので、今日は会話を楽しむだけにしよう、と乾杯を持ちかける。慌ててグラスを持つ様は小動物を思わせた。
「ジャン、この間の話クリスタに聞かせてあげなよ」
「女が乗り込んできた話?」
「そうそう」
「何!?新しいネタ!?」
「オレは芸人じゃねぇんだよ」
きらきらと目を輝かせるクリスタとは反対に、ジャンは露骨に顔をしかめた。詳しいことは知らないが、クリスタは「腐女子」であるらしい。世間にはボーイズラブというジャンルが流行り、それは要するに男同士の恋愛を扱ったものである。クリスタと知り合ってからいくつかそれを目にしたが、性別が違うだけで少女漫画と同じという印象だ。ただ少女漫画と違うのは、過激な性行為の描写があったところだろうか。中には楽しめるものもあった。クリスタはボーイズラブが好きなだけではなく自分で書くこともするようで、ここに来るのはネタ探しも兼ねているらしい。
その「ネタ」という言葉に、アルミンが反応したのを見逃さない。クリスタと同じ青い目を輝かせ、ジャンの様子をうかがっている。
「あ〜……この間中学んときの友達と偶然会ってさ、イケメンってことはねえけどチャラくなっててさ」
「うんうん」
「オレ地元じゃ一部にはゲイだってバレてんだよ。学校の先生とつき合っんのバレて」
「ちょっ、その話知らないんだけど!?」
「だって不倫の話はクリスタ怒るだろ」
「あっ不倫はやだ」
アルミンがわずかに指先を跳ねさせた。クリスタとは違い、その反応は悪いものではなさそうだ。
「まあそんで、その同級生も仲よかったわけじゃないけど、久しぶりに会ったら普通に接してくれて、飯食いに行ったんだ。懐かしい昔の話ばっかりしてたら結構酒回って、終電逃したからうちに泊めたんだ」
「う、うん」
「そのときは次の日普通に帰っていったんだ。あ、何もしてねえよ、ほんと普通に泊めただけ。でも次の週ぐらいか?夜中にそいつが女とふたりで押し掛けてきて」
「うんうん」
「女はそいつの彼女でさ、うちに来るなり怒鳴り散らして、要するにそいつに別れ話をされて、理由を聞いたらオレとつき合ってるって言われたって。どういうことだこの泥棒猫、みたいなことで攻められたけど、オレまったく身に覚えがねえの。好みじゃねえしな」
「うわぁ、修羅場……」
「それがガチで修羅場でよ、女の方が包丁持ってて」
「えっ!」
「小さいやつだったけど。そいつが死ぬのも後味悪いけどオレは絶対死にたくないし、必死でなだめてどうにか座らせてお茶出して、その間にこっそりライナーにメール入れたんだ」
ジャンは少し振り返り、カウンターのバーテンを指さした。格闘技でもやっているのかと思うようながっちりした体型は、実用できるかはわからなくともはったりにはかなり有効だ。
「ライナーが来てしまえば女もビビったし、警察呼ぶぞって脅して外に放り出した」
「それで?」
「あとで話聞いたら、つきあいだしてからぶっ飛んだ女だってわかって、別れたいと思ってたところにオレが現れたから都合よく利用したんだってよ」
「何それ!最低!」
「でもちゃんとオチついてよ」
「うん」
「別れることには成功して、そのあとオレに惚れたっつって今ストーカー状態」
「ジャンってほんと、いつか刺されそうだよね……」
クリスタの言葉にマルコが大きく頷いた。何だよ、と口をとがらせて見せる。聞きたがるのはそちらのくせにいつもこうだ。
「アルミンはクリスタと同じ?」
「えっ」
「こういう話好き?」
「う、なんというか、すごすぎて……」
「ジャンの話、おもしろいけどすごすぎるんだよね。ネタにできないよ」
「いっとくけどオレいつも巻き込まれてるだけだからな」
「クリスタそろそろ終電じゃない?」
「あっ、ほんとだ!アルミンもだよね!」
「うん」
「なんだ、帰っちまうのか」
結局自分の話をしただけで終わってしまった。物足りなさを感じながら手を振って見送るとアルミンもはにかんで手を振り返してくれる。それが見れただけでよしとしておこう。
「また来る?」
誘うつもりで立ち上がったアルミンを見上げたが、困ったようにクリスタを見て、首を傾げた。
それからは元々少なかった客は減るばかりで、ジャンがひとり残った頃、ライナーがクローズの看板をかけにいく。ちびちびと酒を舐めていたジャンは酩酊とまではいかなくとも気分はかなり良く、カウンターの端でグラスの中の氷をつついていた。椅子を直しながら戻ってきたライナーはジャンの隣に座り、ちらと視線を送ると顔が近づく。力強い腕がジャンの腰を引き寄せ、厚い唇が重なった。
「ん」
腰を撫でた無骨な手がカットソーの下に滑り込んだ。くすぐったさを笑って息を漏らす。熱っぽいライナーの視線と目があって、ジャンは少し考えた。
「オレ、やっぱ帰るわ」
「……お前、ここまできてそれはねえだろ」
「気分乗らねぇ。また今度な」
わざと子どもじみた仕草で頬にキスをして、ジャンはライナーの胸を押す。しばしの沈黙の後、溜息と同時に体が離れた。
「送るか?」
「タクシー捕まえる。じゃな、おやすみ」
「おやすみ」
物わかりのいい友人に感謝して、ジャンは店を出た。
ジャンが塾講師という仕事を選んだのには、大それた信念や崇高な理由はなかった。仕事の相手が子どもであることと、面接のときの人事担当が好みであったからだ。残念ながら人事担当はジャンの就職とほぼ同時に異動になったが、他の講師も悪くはなかった。元々職場で恋愛をする気はなく、過ごせるならば何事も問題を起こさずに暮らしたい。受験勉強で大忙しの生徒たちは自分の恋愛のための余力しかなく、個人経営の塾の数少ない講師はみな真面目だった。ジャンが明け方まで遊び回っていようと、仕事以外で関わりそうもない。変装というわけではないが仕事中は伊達眼鏡で、気持ちの切り替えをしているつもりだ。
教室の一角で女子生徒がにぎやかな話をしている。今までは気にしたことはなかったが、ジャンはクリスタと知り合ってから彼女たちの会話の断片がわかるようになった。つまり彼女たちも腐女子なのだ。ホワイトボードを消しながらこっそり聞き耳を立てているジャンには気にもとめず、彼女たちは楽しそうに、ある種の共通言語を使いこなす。どうやらクリスタと同じ「ジャンル」らしい。有名私立の清楚な制服に身を包み、涼しい顔で勉強しながら、彼女たちも頭の中ではお気に入りのキャラクターたちによる乗算式を繰り広げているのだ。成績が落ちない程度に好きにしてくれ、と思いながらテキストを手に、ジャンは帰るようにと声をかける。
「あっ先生、今日言ってた参考書なんだっけ?」
「あ〜?わざわざ書いてやってただろうが」
「本屋寄って帰るから教えて〜!」
甘える声色にわざとしかめっ面をする。別にゲイだからと言って女が嫌いなわけではないが、単純に同じことの繰り返しは面倒だ。ふと自分もほしい本があることを思い出す。
「俺も本屋寄るから一緒に見てやる。ちょっと待ってろ」
彼女たちが顔を見合わせたが特に気にせず、ジャンは控え室に戻って帰り支度を手早く済ませた。ロビーで待っていた生徒と合流し、駅前の本屋に向かう。特に大きいわけではないが品ぞろえがよく、なかなか重宝する店だ。
「この店のコーナーならあのBL見つかるよね」
小さく囁きあう彼女たちの言葉が聞こえ、なるほど、とこっそり苦笑した。趣味に勉強にと忙しいことだ。さっさと目当ての参考書を見つけてやり、ジャンも目当ての本を探して生徒と別れた。本棚にはジャンの目当てのものは見つからず、帰ってインターネットで探す方が早いだろうかと思案する。丁度背後を店員が通りかかったので、ついでなので声をかけた。
はい、と振り返った顔を見て驚く。柔らかな金髪のボブカット、それは昨日バーで見た顔だ。薄暗い店内ではわからなかった青い瞳がジャンを見上げる。
「お探しですか?」
どうやらジャンに気づいていないらしい。そんなにインパクトがなかっただろうか、と思ったが、恐らく他人に興味のないタイプなのだろう。
「あの」
「ああ、『落窪物語』、岩波のありますか」
「少々お待ち下さい」
一度棚に視線を送り、ぱっと離れた彼はカウンター向かった。パソコンのキーボードを叩いて、スタッフルームに姿を消す。ジャンがどうしてやろうかと思っているうちに、文庫本を持って戻ってきた。
「こちらでお間違いないですか?」
「ありがとう。それと、あんたのオススメのBLある?」
すぐに理解ができずにぽかんと口を開けたアルミンを笑い、眼鏡を外してのぞき込む。時間をかけて思い出したようで、アルミンは視線をさまよわせた。
「えっ、と、あの……」
「終電間に合った?」
「は、はい……」
「よかった。また来いよ、もっと話聞きたいからさ」
「あ、う」
「あんたが知りたいような話も、できると思うぜ?」
ジャンの言葉に、アルミンが目を光らせたのを見逃さなかった。
2014'05.15.Thu
ミルク、卵、シャボン玉。青い積み木は三角で、丸い積み木は赤い色。車のタイヤは外れてしまって、うさぎは綿がもうかたい。一番あったかくて柔らかいのは、母の手だった。
ジャン、と優しく呼ぶ声に、今すぐ飛び出していきそうになる。それでも驚いた顔が見たいという一心で、ジャンはじっと大人しくして息を潜めた。洗濯物の山の中、一際大きなシーツですっぽり体を覆ってうずくまる。母の声は近づいたり遠ざかったりして、そばを通る気配がするたびおかしくなった。
「ジャーン?どこに行っちゃったのかなぁジャンは。お顔が見たいな〜」
困った声に思わずくすくす笑いをこぼし、ジャンは「ばあっ!」と大きな声を上げて自分を覆っていたシーツから飛び出した。母は驚いて声を上げる。
「ああびっくりした!」
「びっくりした?」
「心臓が止まるかと思った」
胸をさする母に飛びついた。いたずらっ子ね、と頭を撫でられてけらけら笑う。エプロンからは甘い匂いがして、ジャンはあたたかい胸に顔を埋めた。
死体を燃やす炎が小さくなっていく。燃えるものがなくなってくすぶりゆく炎のように、自分の感情も治まってくれるならどれほどいいことだろう。ちらちらと空気を舐める炎を見つめ、ジャンはただ立ち尽くしていた。
見守っていた人間は随分減った。肉の焼けるにおいや高ぶる感情に耐えきれずに、ひとりまたひとりと離れていった。ジャンはどんな一瞬も捨てることができない気がした。
小さな火花がはぜ、燃えて組み木は崩れる。風は煙を遠く遠く、知らせのように運んでいった。
あの中にはジャンの親友もいた。冗談にしたいほどのくすぐったい言葉を平気で口にする男だった。ジャンのことを強い人ではないと言った男は、ジャンより先に死んだ。
「オレはな、昔から運はいい方だ」
近くにいた同期が動いた気配がしたが、話しかけたわけではなかった。しかしジャンは気にせず口を開く。
「運がいいだけだ」
ずっと炎を見ていたので、兵舎に戻ってからも目の奥がちかちかしているようだった。
煙は星を隠し、四散する。壁の外にも流れただろう。
新しいジャケットに袖を通した。気分は何も変わらない。背中に背負ったものは、自分には何も見えないからだ。
騒々しい、嫌な喧噪を走り抜ける。ちらちらと感じる視線はみな怒りに満ちて、悲しみをたたえて、あるいは無感情だ。
誰かの生活の欠片を蹴って、ジャンがまっすぐ目指したのは生まれ育った自分の家だ。巨人たちが好き勝手に暴れ回った街は人々を絶望させるには十分な光景だった。兵士の中には昔の悪夢を思い出して取り乱したまま、今も不安定な感情を持て余している者もいる。ジャンとて、昔の遊び場や通い慣れた店の変わり果てた姿に何も感じないはずがなかった。
全身の筋肉を意識して走る。そう考えていなければ、体が動かなくなる。右足を地面から持ち上げて体を前に、そうしながら左足で地面を踏みしめ、腕を大きく振りあげる。どんな一瞬の力さえ自分が指示をしなければ、糸が切れてしまう気がした。
ジャンの部屋はなくなっていた。天井のなくなった家の中で、母親が背中を丸めて、食卓を撫でていた。
「母さん」
今まで、自分はどんな声で母親を呼んでいただろうか。振り返った母親はひどく疲れていて、喜怒哀楽の豊かな母親を思い出して悲しくなった。
少しずつ変わっていくものばかりではないのだと思い知った。
「ジャン、よかった。訓練兵も参加したと聞いたから」
早足に母親に近づいた。背丈を抜いたのはいつのことなのか思い出せない。
「怪我は」
「私は何も。父さんが少しね。でも大丈夫よ」
母親はジャンを見上げ、困ったように小さく笑う。この変わり果てた家の中で見る、確かに知っている日常をかいま見た。それが嬉しいのか悲しいのかわからなかったが、ジャンは震える息を吐いた。
「あんた、兵士なのね」
伸ばされた手がジャンの胸のエンブレムに触れた。そこで母親ははっとして、ジャンを見る。荒れた手の下にあるのは、一角獣ではなく自由の翼だ。
「似合わねえだろ」
「……そうね、よく似合う」
あたたかい手が胸を撫でる。
空は青く、鳥は鳴く。しかし風が運んでくる声やにおいは知らないもので、ジャンは深く息を吐いてこみ上げるものを自分の中に散らせた。
シーツを被ってやり過ごせたら、どんなによかっただろう。自分を隠す術すら持たず、見て見ぬふりも許されない。
「ほんとに、よく似合う」
泣き出したジャンを、母親はいつものように抱きしめた。
切り傷、擦り傷、打ち身に捻挫。怒号に息を潜め、憤りは殺して鉄を嗅ぐ。ブレードがしなる視界の向こうはもう見えない。なくしたもののために戦うのか、なくしたくないもののために戦うのか、未だ道は見えなかった。
ジャン、と優しく呼ぶ声に、今すぐ飛び出していきそうになる。それでも驚いた顔が見たいという一心で、ジャンはじっと大人しくして息を潜めた。洗濯物の山の中、一際大きなシーツですっぽり体を覆ってうずくまる。母の声は近づいたり遠ざかったりして、そばを通る気配がするたびおかしくなった。
「ジャーン?どこに行っちゃったのかなぁジャンは。お顔が見たいな〜」
困った声に思わずくすくす笑いをこぼし、ジャンは「ばあっ!」と大きな声を上げて自分を覆っていたシーツから飛び出した。母は驚いて声を上げる。
「ああびっくりした!」
「びっくりした?」
「心臓が止まるかと思った」
胸をさする母に飛びついた。いたずらっ子ね、と頭を撫でられてけらけら笑う。エプロンからは甘い匂いがして、ジャンはあたたかい胸に顔を埋めた。
死体を燃やす炎が小さくなっていく。燃えるものがなくなってくすぶりゆく炎のように、自分の感情も治まってくれるならどれほどいいことだろう。ちらちらと空気を舐める炎を見つめ、ジャンはただ立ち尽くしていた。
見守っていた人間は随分減った。肉の焼けるにおいや高ぶる感情に耐えきれずに、ひとりまたひとりと離れていった。ジャンはどんな一瞬も捨てることができない気がした。
小さな火花がはぜ、燃えて組み木は崩れる。風は煙を遠く遠く、知らせのように運んでいった。
あの中にはジャンの親友もいた。冗談にしたいほどのくすぐったい言葉を平気で口にする男だった。ジャンのことを強い人ではないと言った男は、ジャンより先に死んだ。
「オレはな、昔から運はいい方だ」
近くにいた同期が動いた気配がしたが、話しかけたわけではなかった。しかしジャンは気にせず口を開く。
「運がいいだけだ」
ずっと炎を見ていたので、兵舎に戻ってからも目の奥がちかちかしているようだった。
煙は星を隠し、四散する。壁の外にも流れただろう。
新しいジャケットに袖を通した。気分は何も変わらない。背中に背負ったものは、自分には何も見えないからだ。
騒々しい、嫌な喧噪を走り抜ける。ちらちらと感じる視線はみな怒りに満ちて、悲しみをたたえて、あるいは無感情だ。
誰かの生活の欠片を蹴って、ジャンがまっすぐ目指したのは生まれ育った自分の家だ。巨人たちが好き勝手に暴れ回った街は人々を絶望させるには十分な光景だった。兵士の中には昔の悪夢を思い出して取り乱したまま、今も不安定な感情を持て余している者もいる。ジャンとて、昔の遊び場や通い慣れた店の変わり果てた姿に何も感じないはずがなかった。
全身の筋肉を意識して走る。そう考えていなければ、体が動かなくなる。右足を地面から持ち上げて体を前に、そうしながら左足で地面を踏みしめ、腕を大きく振りあげる。どんな一瞬の力さえ自分が指示をしなければ、糸が切れてしまう気がした。
ジャンの部屋はなくなっていた。天井のなくなった家の中で、母親が背中を丸めて、食卓を撫でていた。
「母さん」
今まで、自分はどんな声で母親を呼んでいただろうか。振り返った母親はひどく疲れていて、喜怒哀楽の豊かな母親を思い出して悲しくなった。
少しずつ変わっていくものばかりではないのだと思い知った。
「ジャン、よかった。訓練兵も参加したと聞いたから」
早足に母親に近づいた。背丈を抜いたのはいつのことなのか思い出せない。
「怪我は」
「私は何も。父さんが少しね。でも大丈夫よ」
母親はジャンを見上げ、困ったように小さく笑う。この変わり果てた家の中で見る、確かに知っている日常をかいま見た。それが嬉しいのか悲しいのかわからなかったが、ジャンは震える息を吐いた。
「あんた、兵士なのね」
伸ばされた手がジャンの胸のエンブレムに触れた。そこで母親ははっとして、ジャンを見る。荒れた手の下にあるのは、一角獣ではなく自由の翼だ。
「似合わねえだろ」
「……そうね、よく似合う」
あたたかい手が胸を撫でる。
空は青く、鳥は鳴く。しかし風が運んでくる声やにおいは知らないもので、ジャンは深く息を吐いてこみ上げるものを自分の中に散らせた。
シーツを被ってやり過ごせたら、どんなによかっただろう。自分を隠す術すら持たず、見て見ぬふりも許されない。
「ほんとに、よく似合う」
泣き出したジャンを、母親はいつものように抱きしめた。
切り傷、擦り傷、打ち身に捻挫。怒号に息を潜め、憤りは殺して鉄を嗅ぐ。ブレードがしなる視界の向こうはもう見えない。なくしたもののために戦うのか、なくしたくないもののために戦うのか、未だ道は見えなかった。
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