言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.20.Fri
あ〜……他のとこではどうだか知らねえけど、オレらの村では、誰かとすれ違うときは必ず挨拶をしろって躾けられてた。特に夜は、誰かとすれ違うときは必ず挨拶をしろって、耳にタコができるぐらい言われてた。言われなかったか?
オレらの村では子どもも労働力だった。暗くなってからでも畑に野菜を取りに行くなんてざらにあることで、母ちゃんたちも遠慮なく子どももこき使ってたんだ。
どこの家もそうだし、オレだって、そりゃめんどくせぇなぁと思うことはあるけど、言いつけサボるとすぐに飯抜きだもんな。
その日も、晩飯の支度してる母ちゃんの代わりに畑に野菜取りに行ったんだ。途中で近所のオッサンに会って、いいものが取れたからって野菜を取りに来るように言われた。何だったか忘れたけど。かぼちゃかなんかじゃねぇかな。まぁそれはどうでもいい。
だからさ、自分ちの畑に行って、一回帰るのめんどくせぇから、そのままオッサンちに行って、それから家に向かう頃には随分暗くなっていた。
多分その日は月もなかったんだ。辺りは本当に真っ暗で、慣れた道じゃないと歩けないぐらいだった。まあそんなに遠い距離でもなかったし、夜が怖いなんて思ったこともなかったし、何も気にせず野菜を抱えて家に向かった。
歩いてると、誰かの気配がした。前の方に誰かがいる。月はなかったけど、星明りでそれぐらいはわかった。
だからこんばんは、って挨拶したんだ。声を聞けば誰だかわかるから。
そうしたら、返事がなかった。
村の人間なら、必ず挨拶を返すはずなんだ。今まで返されなかったことなんてなかったし、村には偏屈なやつもいなかったから。
それが誰だかわからないけど、とにかくすっげぇヤバい気がした。第六感ってーの?ぞくっと鳥肌が立って、オレはその誰かさんのそばを走り抜けた。隣を通るときに捕まるんじゃないかって思いで頭がいっぱいでめちゃくちゃ怖かったけど、その時は大丈夫だった。
その時は、な。
通り過ぎて、ほっと息を吐こうとした瞬間だった。
生臭い匂いが漂って、背後で荒い息が聞こえた。
やばい、やばい、やばい!ってオレは焦って、必死で足を動かした。多分その間に手に持ってた野菜なんて投げ捨ててたんだと思う。もうめちゃくちゃに走って、もしかしたら何か叫んでたかもしれないけど、近所から誰かが出てくることはなかった。
後から考えたら、これもおかしいんだよ。まだ日も落ちたばかりだからどこの家も寝てるはずがないから、家には明かりがついているはずなのに、そんなものは何も見えなかったんだ。
ただ、自分ちの明かりは見えた。
まだ背後から何かが迫ってくる気配はある。まっすぐ家に飛び込んで、その気配を絶対に中に入れないようにドアを叩きつけて閉めて、勢いのまま弟を探して捕まえた。弟はビビッて泣き出したけど、多分オレもその時もう泣いてたと思う。弟を捕まえて母ちゃんに抱きついて、驚いてる父ちゃんにも必死で訴えた。多分何も伝わってなかったと思うけど、オレも何を言おうとしてたのか覚えてない。
――ドンドンドン!
ぼろいドアが外れるんじゃないかってぐらいの勢いで、ドアが叩かれた。オレは飛び上がって、ドアに向かおうとする父ちゃんを必死で引き留めた。
――ドンドンドン!
――ドンドンドン!
始めは村の誰かだと思っていた父ちゃんも、すぐにおかしいということに気がついたのか、オレを抱いて母ちゃんたちと一緒に丸くなった。
だって、村では誰もドアに鍵なんてかけないんだよ。そもそもオレの家にはなかったし。
だから、もし何か緊急事態だとしても、こんなにノックを繰り返す必要はないんだ。
どれぐらいかわからないけれど、オレも弟もとにかく泣きじゃくっていた。母ちゃんや父ちゃんが身動きするのも怖くて、次の日見たら手のひらに爪の跡がくっきり残ってた。
ずっと続いていたノックが止まり、それでもオレたちはまだひと塊になっていた。誰も何も言わないままだった。
それでも、あの怖いものは去ったんじゃないか、と油断した頃、今度は家ごと大きく揺れた。何の音かわからないけど、とにかくでかい音だった。
家がボールみたいに跳ねてるんじゃないかってぐらいに大きく軋んで揺れ続け、オレたちはまた泣き叫んだ。
それは多分一晩中続いてた。もうぜってぇ家ぶっ壊れて、オレら全員食われちまうんだって思ってたけど、家は無事だったしオレたちはひとりも食われなかった。
家が揺れなくなって、窓の外がすっかり明るくなってから、母ちゃんがオレらを抱きしめて、父ちゃんがドアを開けに行った。恐る恐る、オレたちは息を飲んでドアの外を見たけど、そこはいつも通りの風景が続いているだけだった。
そこでようやく、父ちゃんに何があったのかを聞かれて、オレも何があったのかを思い出した。すれ違った誰かの話をして、父ちゃんとオレで畑までの道を一緒に戻ってみることにした。
あの変な気配に会ったのは多分この辺りだ、と思ったところに、動物の死体があった。
それが、変なんだよ。大きさはイタチぐらいだったんだけど、イタチじゃねえし、とにかく、オレらが知ってるどの動物とも違った。
オレと父ちゃんはその動物をちゃんと葬った。あいつがオレらに何をしたかったのかはわからないけれど、自然のものなら自然に返すのはいいからな。
あれから同じものに会ったことはない。違うものにも会ってない。しばらくは夜ひとりで出歩くのは怖かったし母ちゃんたちは無理強いしなかったけど、兄弟が増えてくるとそういうわけにもいかないしな。
オレはずっと、暗闇で会った人には挨拶をすることを続けている。声さえ聞けば、それが誰かわかるからな。
オレらの村では子どもも労働力だった。暗くなってからでも畑に野菜を取りに行くなんてざらにあることで、母ちゃんたちも遠慮なく子どももこき使ってたんだ。
どこの家もそうだし、オレだって、そりゃめんどくせぇなぁと思うことはあるけど、言いつけサボるとすぐに飯抜きだもんな。
その日も、晩飯の支度してる母ちゃんの代わりに畑に野菜取りに行ったんだ。途中で近所のオッサンに会って、いいものが取れたからって野菜を取りに来るように言われた。何だったか忘れたけど。かぼちゃかなんかじゃねぇかな。まぁそれはどうでもいい。
だからさ、自分ちの畑に行って、一回帰るのめんどくせぇから、そのままオッサンちに行って、それから家に向かう頃には随分暗くなっていた。
多分その日は月もなかったんだ。辺りは本当に真っ暗で、慣れた道じゃないと歩けないぐらいだった。まあそんなに遠い距離でもなかったし、夜が怖いなんて思ったこともなかったし、何も気にせず野菜を抱えて家に向かった。
歩いてると、誰かの気配がした。前の方に誰かがいる。月はなかったけど、星明りでそれぐらいはわかった。
だからこんばんは、って挨拶したんだ。声を聞けば誰だかわかるから。
そうしたら、返事がなかった。
村の人間なら、必ず挨拶を返すはずなんだ。今まで返されなかったことなんてなかったし、村には偏屈なやつもいなかったから。
それが誰だかわからないけど、とにかくすっげぇヤバい気がした。第六感ってーの?ぞくっと鳥肌が立って、オレはその誰かさんのそばを走り抜けた。隣を通るときに捕まるんじゃないかって思いで頭がいっぱいでめちゃくちゃ怖かったけど、その時は大丈夫だった。
その時は、な。
通り過ぎて、ほっと息を吐こうとした瞬間だった。
生臭い匂いが漂って、背後で荒い息が聞こえた。
やばい、やばい、やばい!ってオレは焦って、必死で足を動かした。多分その間に手に持ってた野菜なんて投げ捨ててたんだと思う。もうめちゃくちゃに走って、もしかしたら何か叫んでたかもしれないけど、近所から誰かが出てくることはなかった。
後から考えたら、これもおかしいんだよ。まだ日も落ちたばかりだからどこの家も寝てるはずがないから、家には明かりがついているはずなのに、そんなものは何も見えなかったんだ。
ただ、自分ちの明かりは見えた。
まだ背後から何かが迫ってくる気配はある。まっすぐ家に飛び込んで、その気配を絶対に中に入れないようにドアを叩きつけて閉めて、勢いのまま弟を探して捕まえた。弟はビビッて泣き出したけど、多分オレもその時もう泣いてたと思う。弟を捕まえて母ちゃんに抱きついて、驚いてる父ちゃんにも必死で訴えた。多分何も伝わってなかったと思うけど、オレも何を言おうとしてたのか覚えてない。
――ドンドンドン!
ぼろいドアが外れるんじゃないかってぐらいの勢いで、ドアが叩かれた。オレは飛び上がって、ドアに向かおうとする父ちゃんを必死で引き留めた。
――ドンドンドン!
――ドンドンドン!
始めは村の誰かだと思っていた父ちゃんも、すぐにおかしいということに気がついたのか、オレを抱いて母ちゃんたちと一緒に丸くなった。
だって、村では誰もドアに鍵なんてかけないんだよ。そもそもオレの家にはなかったし。
だから、もし何か緊急事態だとしても、こんなにノックを繰り返す必要はないんだ。
どれぐらいかわからないけれど、オレも弟もとにかく泣きじゃくっていた。母ちゃんや父ちゃんが身動きするのも怖くて、次の日見たら手のひらに爪の跡がくっきり残ってた。
ずっと続いていたノックが止まり、それでもオレたちはまだひと塊になっていた。誰も何も言わないままだった。
それでも、あの怖いものは去ったんじゃないか、と油断した頃、今度は家ごと大きく揺れた。何の音かわからないけど、とにかくでかい音だった。
家がボールみたいに跳ねてるんじゃないかってぐらいに大きく軋んで揺れ続け、オレたちはまた泣き叫んだ。
それは多分一晩中続いてた。もうぜってぇ家ぶっ壊れて、オレら全員食われちまうんだって思ってたけど、家は無事だったしオレたちはひとりも食われなかった。
家が揺れなくなって、窓の外がすっかり明るくなってから、母ちゃんがオレらを抱きしめて、父ちゃんがドアを開けに行った。恐る恐る、オレたちは息を飲んでドアの外を見たけど、そこはいつも通りの風景が続いているだけだった。
そこでようやく、父ちゃんに何があったのかを聞かれて、オレも何があったのかを思い出した。すれ違った誰かの話をして、父ちゃんとオレで畑までの道を一緒に戻ってみることにした。
あの変な気配に会ったのは多分この辺りだ、と思ったところに、動物の死体があった。
それが、変なんだよ。大きさはイタチぐらいだったんだけど、イタチじゃねえし、とにかく、オレらが知ってるどの動物とも違った。
オレと父ちゃんはその動物をちゃんと葬った。あいつがオレらに何をしたかったのかはわからないけれど、自然のものなら自然に返すのはいいからな。
あれから同じものに会ったことはない。違うものにも会ってない。しばらくは夜ひとりで出歩くのは怖かったし母ちゃんたちは無理強いしなかったけど、兄弟が増えてくるとそういうわけにもいかないしな。
オレはずっと、暗闇で会った人には挨拶をすることを続けている。声さえ聞けば、それが誰かわかるからな。
PR
2013'12.20.Fri
小さい頃、母が寝込んだことがあった。
私の母は風邪ひとつひかない強い人で、私や父が寝込んでいるような時でも看病と家事に走り回って、病人から風邪をもらうこともない人だった。
その母がベッドから起き上がってこないということは、幼い私にとってはそれだけでとても不安なことだった。母はうつるからとそばに行かせてくれなくて、起きたときと寝る前に挨拶を許されていただけだった。
そう……それは、少しおかしいぐらい長く続いた。父も不安になるほど、母の容体はいつまでもよくならなかった。それでも、グリシャ先生が見て下さっても症状はただの風邪でしかなくて、みんなで首を傾げていた。
母が部屋の中に入れてくれないので、私は窓の外から母の様子を見ることにした。寝室の外から窓を叩けば、起きていた母は驚いてこちらを見た。長く寝込んでいるせいで少しやつれていて、私はとても悲しかったことを覚えている。精一杯平然と振る舞ったけれど、母は泣きそうになっていたからきっと私も悲しい顔をしていたのだろう。
それでも毎日、私は窓の外から母を見舞った。ベッドから体を起こすこともできない母は窓を開けてくれることもなかったけれど、母のかすれた声をガラス越しに聞くことは悲しかったけれど。
それがどれほど続いたのか、幼かった私はあまりはっきりと覚えていない。
その日、いつも通り私は窓の外から母の様子を伺った。その日は花をつんで行ったことを覚えている。鮮やかな花を窓辺に置けば、母の気持ちも少しは晴れるのではないかと思ったから。今思えば、きっと母は笑顔を見せることも辛かったのだろうと思う。思えば私はただ母が休む邪魔をしていただけなのだろうけど……とにかく、その日はいつもと違った。
寝室を覗いて、ガラスをノックしようとして、私は驚いた。もしかしたらノックをした後だったかもしれない。母がこちらを見たから。
しかし私は母を見ることができなかった。別のものに、視線が引き寄せられていた。
母のベッドの側に、「何か」がいた。
「何か」……としか、私には言えない。それがどんな姿をしていたのか、どんな色をしていたのか、覚えていないのではなく、……「何もいなかった」というのが、きっと一番近いのだと思う。
そこには何もない。ただ部屋の壁が見えるだけ。
そうだというのに、私には母のベッドの側に「何か」がいるのはわかった。よくわからない「何か」が母のそばにいた。
私は無我夢中で家の中に飛び込み、真っ直ぐに寝室を目指した。丁度父は仕事に出ていて誰に止められることもなく、私は乱暴にドアを開けて母のベッドに駆け寄った。驚く母の体に覆いかぶさって、咎める母の声も聞かずにそうしていた。
母を守らなければならないと思った。
だって、あの母がこんなに苦しむはずはない。きっと、何か悪いものが母を苦しめているのだ。
これ以上母を苦しめるのなら、私が守らなければならないと思った。
ベッドの側、私の背後には「何か」の気配があった。母が私を何度も呼んだけれど、私は何も言わずずっと母に縋りついていた。
そのときふっと、お香の匂いがした。
お香と言うのは……役割としてはポプリのようなもの。母の国のもので、母は特別な日やお祝いごとの日にお香を焚く。……火をつけて使うものなので、母は日常的には使ってはいなかった。それでもお香を焚いた日は服や髪に匂いが移って、私もとても好きだった。
そのお香の匂いがした。それと同時に、ぽっと背中が温かくなった。「何か」がいる方から、じんわりと。
途端に何か間違えているような気がしたけれど、私はやはり怖くて母から離れることはできなかった。
そうしているうちに私は眠ってしまっていたようで、起きたときには私はひとりで母のベッドに寝かされていた。すぐに跳ね起きて寝室を出ると、母親が元気に夕食の支度をしていた。ここしばらくのことが夢であったように、しゃんと背を伸ばして立ち、てきぱきと行き来している。
私が母を呼ぶと笑顔をこちらに向けて、その頬がこけていて、夢ではなかったのだとわかった。それでも、母が元気になったことは間違いない。
ほっとした私は母に縋りついて、……これは母に聞いた話だけれど、私は骨が折れそうなほど強く母を抱きしめて、獣のような大声で泣きわめいた。私は全く覚えていないので聞いた話。
私が泣き止むと母は熱いお茶を入れてくれた。ふと「何か」の気配がもうすっかりなかったことを思い出し、私は母にお香を焚いたか聞いた。確かにあの匂いは、母の香の匂いだった。
母は首を傾げて私に聞き返した。私は母に「何か」がベッドのそばにいたこと、母を守らなければならないと思ったこと、そしてお香の匂いがしたことを話した。
母は私の話を始めは笑顔で聞いていた。しかし次第に眉を寄せ、私が話し終えると泣き始めた。
私はまだ母は具合が悪いのではないかと思い慌てると、母はそうではない、と泣きながら私に笑いかけた。
母の好きなあのお香は、母の母が好んでいたものであるのだと教えてくれた。
私の母は風邪ひとつひかない強い人で、私や父が寝込んでいるような時でも看病と家事に走り回って、病人から風邪をもらうこともない人だった。
その母がベッドから起き上がってこないということは、幼い私にとってはそれだけでとても不安なことだった。母はうつるからとそばに行かせてくれなくて、起きたときと寝る前に挨拶を許されていただけだった。
そう……それは、少しおかしいぐらい長く続いた。父も不安になるほど、母の容体はいつまでもよくならなかった。それでも、グリシャ先生が見て下さっても症状はただの風邪でしかなくて、みんなで首を傾げていた。
母が部屋の中に入れてくれないので、私は窓の外から母の様子を見ることにした。寝室の外から窓を叩けば、起きていた母は驚いてこちらを見た。長く寝込んでいるせいで少しやつれていて、私はとても悲しかったことを覚えている。精一杯平然と振る舞ったけれど、母は泣きそうになっていたからきっと私も悲しい顔をしていたのだろう。
それでも毎日、私は窓の外から母を見舞った。ベッドから体を起こすこともできない母は窓を開けてくれることもなかったけれど、母のかすれた声をガラス越しに聞くことは悲しかったけれど。
それがどれほど続いたのか、幼かった私はあまりはっきりと覚えていない。
その日、いつも通り私は窓の外から母の様子を伺った。その日は花をつんで行ったことを覚えている。鮮やかな花を窓辺に置けば、母の気持ちも少しは晴れるのではないかと思ったから。今思えば、きっと母は笑顔を見せることも辛かったのだろうと思う。思えば私はただ母が休む邪魔をしていただけなのだろうけど……とにかく、その日はいつもと違った。
寝室を覗いて、ガラスをノックしようとして、私は驚いた。もしかしたらノックをした後だったかもしれない。母がこちらを見たから。
しかし私は母を見ることができなかった。別のものに、視線が引き寄せられていた。
母のベッドの側に、「何か」がいた。
「何か」……としか、私には言えない。それがどんな姿をしていたのか、どんな色をしていたのか、覚えていないのではなく、……「何もいなかった」というのが、きっと一番近いのだと思う。
そこには何もない。ただ部屋の壁が見えるだけ。
そうだというのに、私には母のベッドの側に「何か」がいるのはわかった。よくわからない「何か」が母のそばにいた。
私は無我夢中で家の中に飛び込み、真っ直ぐに寝室を目指した。丁度父は仕事に出ていて誰に止められることもなく、私は乱暴にドアを開けて母のベッドに駆け寄った。驚く母の体に覆いかぶさって、咎める母の声も聞かずにそうしていた。
母を守らなければならないと思った。
だって、あの母がこんなに苦しむはずはない。きっと、何か悪いものが母を苦しめているのだ。
これ以上母を苦しめるのなら、私が守らなければならないと思った。
ベッドの側、私の背後には「何か」の気配があった。母が私を何度も呼んだけれど、私は何も言わずずっと母に縋りついていた。
そのときふっと、お香の匂いがした。
お香と言うのは……役割としてはポプリのようなもの。母の国のもので、母は特別な日やお祝いごとの日にお香を焚く。……火をつけて使うものなので、母は日常的には使ってはいなかった。それでもお香を焚いた日は服や髪に匂いが移って、私もとても好きだった。
そのお香の匂いがした。それと同時に、ぽっと背中が温かくなった。「何か」がいる方から、じんわりと。
途端に何か間違えているような気がしたけれど、私はやはり怖くて母から離れることはできなかった。
そうしているうちに私は眠ってしまっていたようで、起きたときには私はひとりで母のベッドに寝かされていた。すぐに跳ね起きて寝室を出ると、母親が元気に夕食の支度をしていた。ここしばらくのことが夢であったように、しゃんと背を伸ばして立ち、てきぱきと行き来している。
私が母を呼ぶと笑顔をこちらに向けて、その頬がこけていて、夢ではなかったのだとわかった。それでも、母が元気になったことは間違いない。
ほっとした私は母に縋りついて、……これは母に聞いた話だけれど、私は骨が折れそうなほど強く母を抱きしめて、獣のような大声で泣きわめいた。私は全く覚えていないので聞いた話。
私が泣き止むと母は熱いお茶を入れてくれた。ふと「何か」の気配がもうすっかりなかったことを思い出し、私は母にお香を焚いたか聞いた。確かにあの匂いは、母の香の匂いだった。
母は首を傾げて私に聞き返した。私は母に「何か」がベッドのそばにいたこと、母を守らなければならないと思ったこと、そしてお香の匂いがしたことを話した。
母は私の話を始めは笑顔で聞いていた。しかし次第に眉を寄せ、私が話し終えると泣き始めた。
私はまだ母は具合が悪いのではないかと思い慌てると、母はそうではない、と泣きながら私に笑いかけた。
母の好きなあのお香は、母の母が好んでいたものであるのだと教えてくれた。
2013'12.20.Fri
僕の瞳のほんとうの色を知ってる?
僕は鏡を見ないから、自分の目が何色なのか知らないんだ。
どういうことだと思うかもしれないけれど、僕がこの目を得たのは、あれはまだシガンシナに住んでた頃、もっと小さい頃のことだった。
まだエレンとも知り合う前のことだ。僕は近所に友達もいなくて、おじいちゃんが本を読んでくれるのが毎日の楽しみだった。だけどその頃はまだおじいちゃんも働きに出ていたから、そういつもいつも一緒にいてくれるわけじゃない。
僕は家を出ることは禁止されていなかったから、いつも暇つぶしに街に出ていた。文字を覚えかけたばかりの頃で、店の看板を読むだけでも楽しかったんだ。
え?うーん、ひとりで危ないって言われたことはなかったなぁ。シガンシナは平和だったし、川辺には近づかなかったから。遠くへ行ってはいけない、って言うのは強く言われていたけどね。
だからその日もいつものように、ひとりで街を歩いていた。顔見知りの人に挨拶をして、みんな親切だったからひとりで遊ぶ僕を厭うこともなく声をかけてくれたよ。
毎日のようにそんなことをしていたから、僕はすっかり近所のことを覚えていた。どこの家は何人家族で、あそこのお店に行けば何が買えて、この家には犬がいて、……そんなことばかりだけど。
だから、いつもはそこにないものを見つけることも得意だった。どこの花壇の花が咲いたとか、そこの店の看板娘が髪を切ったとか……。
でもその日見つけたものは、そんな些細なものじゃなかった。
もうそろそろ日が暮れてきて、家に帰ろうとしていたときだった。少し遠くまで行きすぎたせいか、自分が思っていたよりも早く辺りが暗くなってきて、少し怖かったけれど人気がない近道を選んだんだ。家と家の間の路地裏で、きっと今の僕が行けば怖くもなんともないような場所なんだろうけれど、その頃の僕には人気も明かりもない道をひとりで通るのはとても勇気のいることだったんだ。
そう……そこは背の高い家が並んでいるから、一日のどの時間でも、暗く影のかかっているところだった。
その路地の前まで来て、僕はまた迷い出した。少し遅くなっても、人のいる道を通って帰ろうかしら。お母さんには帰りが遅くなったことを怒られてしまうかもしれないけれど、怖い思いをするのとどちらがいいだろう。
そんなことを考えながら路地を覗いて、僕は多分、えっ、と声を出した。とにかくとても驚いた。
真っ暗であるはずの路地の奥に、ぽつんと明かりが灯っているのが見えたんだ。
もしかして周りの家の人が、この路地のあまりの暗さに火を入れるようにしてくれたのかもしれない。そこは普段昼間でもあまり近寄らなかったから、僕が見逃していただけかもしれない。
とにかく僕はほっと息を吐いた。人気はないが明るいのならまだ心強い。それまでの怖がっていた気持ちはぽんと捨ててしまって、僕は勇ましく路地に足を踏み入れた。
きっと、そんなに長い路地ではなかったんだと思う。せいぜい四、五軒分ぐらいだっただろうけど、子どもの足では長く感じてた。
段々明かりに近づいて、僕はそこで初めて、その明かりが路地に設置されたものではないと気がついた。
それは、人が持つランプだった。
フードつきの長いローブを羽織った人がランプを下げていたんだ。顔はほとんど見えなかったけれど、人見知りをしない僕は構わず近づいて行った。もしかしたら、お願いしたら、路地の向こうまでランプを持って一緒に来てくれるかもしれない、なんて期待しながら。
その人に近づいて、僕は「こんばんは」と挨拶をした。少し身動きをしてその人は僕を見た。半分フードに隠れた口元は切り結ばれていたが、僕に気がつくとにこりと弧を描いた。きゅうっと、耳から耳まで。
その人も「こんばんは」と挨拶を返した。その時、僕はその手にあるのがランプだけではないと気がついた。ローブと同じようなどこか薄汚れた布が巻かれたそれは真四角で、その人の腕の中にすっぽりと収まるほどの大きさだった。
ねえ君、と呼ばれて、僕は名前を名乗った。暗いから僕が誰なのかわからないのかもしれないと思ったんだ。そこにはランプがあるのにね。
唇は弓の形のまま割れて、僕の名前を繰り返した。それから、箱の中身を知っているかい、と問うた。
僕は時には疎ましがられるほど知りたがりの子どもで、そう聞かれると途端にその箱が気になって仕方なくなる。もうこの箱の中身を知らないままでは帰ることができないほど引きつけられて、首が取れてしまうのではないかと思うほど首を振った。
見たいかい、と声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、と声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
見せてあげよう、と言われるのを待って、僕の視線はもうその人の腕の中のものを見ていた。ずるりとローブが揺れて、枯れ枝のような腕が――その人はとても細かったんだ。まるで木の枝のように痩せ細った腕をしていて、僕は一瞬それに驚いた。しかしその人は僕の動揺を気にしないまま、はらりと布をはがしていく。僕の意識は途端にそれに引き戻された。
はらり、はらりと布が取られる。
その下に現れたのは、何の変哲もない木の箱だった。ただ、ふたつ、こちらを向いて丸い穴が開いている。ぽっかりと空いた黒い穴は、そう、両目が並んでいるようだった。
見たいかい、声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
僕の目の高さに木箱が降ろされた。その木箱に見つめられているような感覚に、その時の僕にはわくわくしていた。中には一体何があるのだろう。
僕はふたつの穴に目を当てた。初めは真っ暗に思えたが、よく目を凝らすとそれは夜空に星が瞬くように小さな光りがちかちかとしている暗さだった。光りがちらつくのは、よく見えないが、何かが動いているからであるようだ。それがなんなのか確かめようと僕は更に箱に顔を押しつける。
――ずる、と。
眼球に何かが触れた。
その瞬間初めて恐怖を感じ、僕は叫んで体を引いた。慌てて目をこすると濡れた感触がして、違和感がある。瞬きを繰り返していると、ずるりと、
――目が落ちた。
地面に転がるふたつの目玉が僕を見上げ、その恐怖に悲鳴を上げる。
――僕の記憶はそこまでで、気がつくと自分のベッドで寝ていた。路地の家の人が何もないところで倒れている僕を見つけて、家まで連れて行ってくれたらしい。家族にたっぷり心配されて事情を聞かれたけれど、いくら説明をしても信じてもらえなかった。そんなはずはない、と僕は母の鏡を借りて自分の顔を覗きこんだ。
目の中で、黒い影がうごめいていた。
あれから僕はまともに鏡を見ていない。結局僕は貧血か何かで倒れて奇妙な夢でも見たのだろうということにされたけれど、僕はまだ、自分の目が落ちるのではないかと言う恐怖に襲われることがある。あの感覚は、一生忘れようにも忘れることができないものだった。
ねえ、誰か、僕の瞳の色が何色か、確かめてくれないかな。ついでに、その中に、黒い影がいないか探しておくれ。
僕は鏡を見ないから、自分の目が何色なのか知らないんだ。
どういうことだと思うかもしれないけれど、僕がこの目を得たのは、あれはまだシガンシナに住んでた頃、もっと小さい頃のことだった。
まだエレンとも知り合う前のことだ。僕は近所に友達もいなくて、おじいちゃんが本を読んでくれるのが毎日の楽しみだった。だけどその頃はまだおじいちゃんも働きに出ていたから、そういつもいつも一緒にいてくれるわけじゃない。
僕は家を出ることは禁止されていなかったから、いつも暇つぶしに街に出ていた。文字を覚えかけたばかりの頃で、店の看板を読むだけでも楽しかったんだ。
え?うーん、ひとりで危ないって言われたことはなかったなぁ。シガンシナは平和だったし、川辺には近づかなかったから。遠くへ行ってはいけない、って言うのは強く言われていたけどね。
だからその日もいつものように、ひとりで街を歩いていた。顔見知りの人に挨拶をして、みんな親切だったからひとりで遊ぶ僕を厭うこともなく声をかけてくれたよ。
毎日のようにそんなことをしていたから、僕はすっかり近所のことを覚えていた。どこの家は何人家族で、あそこのお店に行けば何が買えて、この家には犬がいて、……そんなことばかりだけど。
だから、いつもはそこにないものを見つけることも得意だった。どこの花壇の花が咲いたとか、そこの店の看板娘が髪を切ったとか……。
でもその日見つけたものは、そんな些細なものじゃなかった。
もうそろそろ日が暮れてきて、家に帰ろうとしていたときだった。少し遠くまで行きすぎたせいか、自分が思っていたよりも早く辺りが暗くなってきて、少し怖かったけれど人気がない近道を選んだんだ。家と家の間の路地裏で、きっと今の僕が行けば怖くもなんともないような場所なんだろうけれど、その頃の僕には人気も明かりもない道をひとりで通るのはとても勇気のいることだったんだ。
そう……そこは背の高い家が並んでいるから、一日のどの時間でも、暗く影のかかっているところだった。
その路地の前まで来て、僕はまた迷い出した。少し遅くなっても、人のいる道を通って帰ろうかしら。お母さんには帰りが遅くなったことを怒られてしまうかもしれないけれど、怖い思いをするのとどちらがいいだろう。
そんなことを考えながら路地を覗いて、僕は多分、えっ、と声を出した。とにかくとても驚いた。
真っ暗であるはずの路地の奥に、ぽつんと明かりが灯っているのが見えたんだ。
もしかして周りの家の人が、この路地のあまりの暗さに火を入れるようにしてくれたのかもしれない。そこは普段昼間でもあまり近寄らなかったから、僕が見逃していただけかもしれない。
とにかく僕はほっと息を吐いた。人気はないが明るいのならまだ心強い。それまでの怖がっていた気持ちはぽんと捨ててしまって、僕は勇ましく路地に足を踏み入れた。
きっと、そんなに長い路地ではなかったんだと思う。せいぜい四、五軒分ぐらいだっただろうけど、子どもの足では長く感じてた。
段々明かりに近づいて、僕はそこで初めて、その明かりが路地に設置されたものではないと気がついた。
それは、人が持つランプだった。
フードつきの長いローブを羽織った人がランプを下げていたんだ。顔はほとんど見えなかったけれど、人見知りをしない僕は構わず近づいて行った。もしかしたら、お願いしたら、路地の向こうまでランプを持って一緒に来てくれるかもしれない、なんて期待しながら。
その人に近づいて、僕は「こんばんは」と挨拶をした。少し身動きをしてその人は僕を見た。半分フードに隠れた口元は切り結ばれていたが、僕に気がつくとにこりと弧を描いた。きゅうっと、耳から耳まで。
その人も「こんばんは」と挨拶を返した。その時、僕はその手にあるのがランプだけではないと気がついた。ローブと同じようなどこか薄汚れた布が巻かれたそれは真四角で、その人の腕の中にすっぽりと収まるほどの大きさだった。
ねえ君、と呼ばれて、僕は名前を名乗った。暗いから僕が誰なのかわからないのかもしれないと思ったんだ。そこにはランプがあるのにね。
唇は弓の形のまま割れて、僕の名前を繰り返した。それから、箱の中身を知っているかい、と問うた。
僕は時には疎ましがられるほど知りたがりの子どもで、そう聞かれると途端にその箱が気になって仕方なくなる。もうこの箱の中身を知らないままでは帰ることができないほど引きつけられて、首が取れてしまうのではないかと思うほど首を振った。
見たいかい、と声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、と声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
見せてあげよう、と言われるのを待って、僕の視線はもうその人の腕の中のものを見ていた。ずるりとローブが揺れて、枯れ枝のような腕が――その人はとても細かったんだ。まるで木の枝のように痩せ細った腕をしていて、僕は一瞬それに驚いた。しかしその人は僕の動揺を気にしないまま、はらりと布をはがしていく。僕の意識は途端にそれに引き戻された。
はらり、はらりと布が取られる。
その下に現れたのは、何の変哲もない木の箱だった。ただ、ふたつ、こちらを向いて丸い穴が開いている。ぽっかりと空いた黒い穴は、そう、両目が並んでいるようだった。
見たいかい、声は問うた。僕は頷く。
見たいかい、声は再度問うた。僕はさっきよりも大きく頷く。
僕の目の高さに木箱が降ろされた。その木箱に見つめられているような感覚に、その時の僕にはわくわくしていた。中には一体何があるのだろう。
僕はふたつの穴に目を当てた。初めは真っ暗に思えたが、よく目を凝らすとそれは夜空に星が瞬くように小さな光りがちかちかとしている暗さだった。光りがちらつくのは、よく見えないが、何かが動いているからであるようだ。それがなんなのか確かめようと僕は更に箱に顔を押しつける。
――ずる、と。
眼球に何かが触れた。
その瞬間初めて恐怖を感じ、僕は叫んで体を引いた。慌てて目をこすると濡れた感触がして、違和感がある。瞬きを繰り返していると、ずるりと、
――目が落ちた。
地面に転がるふたつの目玉が僕を見上げ、その恐怖に悲鳴を上げる。
――僕の記憶はそこまでで、気がつくと自分のベッドで寝ていた。路地の家の人が何もないところで倒れている僕を見つけて、家まで連れて行ってくれたらしい。家族にたっぷり心配されて事情を聞かれたけれど、いくら説明をしても信じてもらえなかった。そんなはずはない、と僕は母の鏡を借りて自分の顔を覗きこんだ。
目の中で、黒い影がうごめいていた。
あれから僕はまともに鏡を見ていない。結局僕は貧血か何かで倒れて奇妙な夢でも見たのだろうということにされたけれど、僕はまだ、自分の目が落ちるのではないかと言う恐怖に襲われることがある。あの感覚は、一生忘れようにも忘れることができないものだった。
ねえ、誰か、僕の瞳の色が何色か、確かめてくれないかな。ついでに、その中に、黒い影がいないか探しておくれ。
2013'12.03.Tue
「ほんッと腹立つ!」
どうにかジャンから引きはがしたエレンを引っ張って昇降口に向かう。遅いから迎えに行こうと言ったミカサを置いてきて正解だった。教室の中からはまだマルコに宥められているジャンの憤る声が聞こえていて、それに反応して引き返そうとするエレンを慌てて捕まえる。
エレンとジャンはどうにも相容れないらしい。つまらないことで喧嘩をしてはぶつかっているが、アルミンはこっそり、彼らがそれをどこか楽しんでいるのではないかと思っている。エレンもジャンも、同じことを繰り返すような馬鹿ではない。
「もう、今日のはエレンが悪いよ」
「知るか」
「ほんっと懲りないんだから。いい、ミカサには何も言わないでよ、余計こじれるんだから」
「言わねえよ」
ふん、とエレンは鼻を鳴らすが、この態度を見ればミカサも何が起きていたのか察してしまうだろう。今度はあの美しい幼馴染をどう宥めるか考えて、アルミンは静かに息を吐く。
高校に入学してから見慣れた光景ではあった。エレンとジャンが小競り合いをして、それを見咎めたミカサが眉を吊り上げる。いつも宥めるのはアルミンの仕事で、ジャンを止めるのは彼の親友のマルコだった。
案の定、昇降口で待たせていたミカサはエレンの表情を見て、またジャンと揉めていたということを察したのだろう。その美しい眉を潜め、聞き取れないほどの早口で何かを口にする。その呪いにも似た言葉をジャンが直接聞かないことがせめてもの救いだろうか。
まだ制服のブレザーも馴染まない頃から、衣替えをした夏、再び冬服に戻った頃になっても彼らのやり取りは変わらない。エレンはジャンが嫌いで、ジャンはエレンが嫌い。エレンを好きなミカサはエレンの味方で、ジャンはミカサにこっそり憧れていて、アルミンは幼馴染のエレンの味方。
だから、変わったのはアルミンだけだ。いつの頃からか、ジャンと自分を飾らずにぶつかりあえるエレンを羨ましいと思っていた。
きっとジャンの目にはアルミンの存在など映っていないだろう。いつもジャンが声をかけるのは、天敵とも言えるようなエレンと、向ける笑みもぎこちなくなるミカサばかりだ。時々アルミンと目が合ったとしてもぷいと背けられて、まともに話をしたことなどない。
真っ直ぐ、自分の言葉で語る彼を、好きだと思った。鼓膜をくすぐる声で名前を呼ばれたら、と思い、慌てて首を振る。
自分には、それさえも高望みだとしか思えなかった。
*
「あのさぁ、いい加減にしたら?」
「うるせぇ……」
校門に向かうエレンたち3人を教室の窓から目で追い、ジャンは窓に額を押しつけた。秋の空気はガラスを冷やし、じわりと体温を奪われる。背後からマルコが深い溜息をついたのが聞こえたが、溜息をつきたいのはこっちだった。どうして、名前を呼ぶ、というただそれだけが、できないのだろう。
「いつまでもエレンと喧嘩してたって、アルミンはジャンに振り向いてくれないと思うけど?」
「わかってるっつってんだろ……」
ああ、あんな笑顔を向けられるエレンが羨ましいなどと、どうしてミカサを吹っ切った今でも思わなければならないのだろう。
入学式でミカサを見て、ひと目で恋に落ちた。凛とした佇まいに風に遊ばれる髪の先まで意識されたようで、ジャンの心をかっさらっていくには彼女は美しすぎた。その次の瞬間彼女の隣に現れたエレンの立ち振る舞いは彼女を全く尊重しないもので、憤りのままに彼にいらぬちょっかいを出したのももう随分前のことのように思える。
エレンと敵対している限りミカサが自分を振り向いてくれないだろうということはすぐにわかった。否、それ以前に、ミカサがエレン以外を見る気がないということもすぐにわかった。それは隠しようもなく、誰もがわかる事実だった。
しばらくはエレンとぶつかっては己の存在を主張していたジャンだったが、彼女に向けられる鋭い視線は辛いものだった。
ジャンがアルミンを意識したのは、いつだっただろうか。
ミカサがジャンからエレンを引きはがして行ったあと、苛立ち任せに頭をかいていたジャンをおずおずとアルミンが覗き込んだ。
「あの、ごめんね」
それをその瞬間に理解することはできなかった。すぐにアルミンはエレンに呼ばれ、慌ててジャンに背を向けて走っていく。それを鋭い目のまま見送った後、妙に気が抜けて肩を落とした。なぜアルミンが謝るのだろう。悪いのはエレンで、ジャンだ。自分でそれはわかっている。
そういえば3人でつるんでいたな、と思いだしてから、アルミンを意識するまではすぐだった。エレンとジャンが喧嘩をしていると慌てて止めに来て、時にはエレンに突き飛ばされてよろけながらもミカサの手を借りて喧嘩を止めている。ジャンがむきになる分エレンがヒートアップすることに気づいて、アルミンが駆け寄ってきてからは少し手を緩めるようになった。それはジャンを止める側だったマルコにはすぐに見抜かれて、あっという間に自分が気づいていなかった感情を引っ張り出された。
「なんでアルミンのやつ、あんなにエレンに付きまとってるんだよ」
「僕に聞かれても。自分で聞いてみれば?」
「聞けるかよ……」
「ほら、うだうだしてないで帰るよ」
もうアルミンたちはとっくに校門を出てしまった。マルコに引っ張られて、ジャンはしぶしぶ窓から離れる。
この間までミカサが好きで、今はアルミンが好きだなんて、そんな無節操なことを簡単に認めることはできなかった。
それでも、今はミカサに世話を焼かれるエレンよりも、アルミンの気遣いに気づかないエレンに腹が立つ。
*
いつもは3人で帰るアルミンたちだったが、今日はエレンもミカサも委員会の活動があるのでアルミンは先に変えることになった。図書室辺りで待っていてもいいと言ったのだが、以前同じように委員会の活動があったとき予想外に時間がかかったことを気にして、帰るように言われてしまったのだ。アルミンはどうせ帰ったとしても課題を済ませて本を読む程度の予定しかないのでどこにいても大差ないのだが、ふたりがしきりに気にするので素直に帰ることにしたのだ。
入学してから、ほぼ毎日登下校は3人だったので少し違和感がある。昇降口を抜けて駅に向かう途中の道さえすこし新鮮に見えた。思えば、いつもは話をして帰るのでエレンとミカサの顔ばかり見ているのだ。
いつの間にか木々は鮮やかに紅葉している。風も随分冷たくなって、冬に向かっているのだと実感させた。
ふと、角を曲がったアルミンは足を止めた。視界の先に、ジャンがいる。いつもはマルコと帰る彼も、今日はひとりであるようだった。そういえば、マルコは生徒会の役員だ。きっとエレンたちと同じく何か活動があるのだろう。
暇を持て余すように、何か音楽を聴いているらしいイヤホンが見える。自分より、エレンよりも背の高い後ろ姿。すでに少しくたびれたように見えるスクールバッグはファスナーの開いたままジャンの肩で揺れていた。
アルミンを追い抜いて行った人が振り返り、それにはっとしてアルミンもゆっくり歩き出す。視線はジャンから離せない。
――今、追いかけたら。
自分の隣にも、彼の隣にも誰もいない。ならば隣を歩くこともできるはずだ。
どきりと心臓が鳴って、ブレザーのネクタイごと胸元を掴む。脈が早いのがわかるほど心臓がうるさい。
途中の乗り換え駅までは、一緒に帰れるはずだ。追いかけて、ぽんと肩を叩いて、一緒に帰ろう、と言うだけだ。少し罪悪感はあるけれど、エレンを出汁にすればきっと話も続く。
それでも、アルミンの歩みはそれ以上早くならなかった。やがて駅についた頃には人も増えてジャンを見失ってしまって、自分の意気地のなさに肩を落とす。もしかしたらもう二度とないチャンスだったのかもしれないのに、と思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「はぁ……」
少し、泣きそうだ。
*
ひとりでの帰り道は久しぶりだ。行きはひとりなので愛用にしている音楽プレイヤーを引っ張り出して駅に向かう。真面目な親友様は今日は文化祭の準備のための会議があるらしい。これからしばらく、当日までこういう日が続くのかもしれない。
どこぞの三人組のようにべったり張りついていなければ心細いなんてことはないが、腹が減ってもつき合ってくれる相手がいないのは寂しいものだった。ひとりで行くのも味気ないので結局まっすぐ帰ることにして、それでも少しは何か腹に入れたくて駅のコンビニに立ち寄って菓子パンを買う。少々お行儀は悪いが空腹には耐えかねた。
パンをくわえながらICカードを改札にかざし、ホームへ上がる。同じ高校の生徒だけではなく近くに大学もあるので人は多い。少しでも人の少ない方に、とホームの奥へ向かう途中、ジャンはふと足を止めた。一番後ろの車両の辺り、文庫本を開いて次の電車を待っているのはアルミンだ。周りにいつも付きまとっている幼馴染の姿がない。そういやあいつらも何か委員会に入っていたか、と思いだし、ジャンははっとして食べかけのパンをスクールバッグにねじ込んだ。なぜだか無性に恥ずかしい。
風に煽られて髪を乱され、アルミンが少し顔を上げる。肩にかけたスクールバッグを直し、少し邪魔くさそうに髪を耳にかけてまた視線は本に戻った。誰の目があるわけでもないのにきれいに背筋を伸ばし、ページを押さえる指先まで意識されたように無駄がなく見える。
――今、近づいて。
肩を叩いて、よう、でもお疲れ、でも何でもいい。何か声をかけて、何を読んでいるのか、でもいい。話題が続かなければ、嫌な顔をするかもしれないが、エレンの悪口でも言えば何かは返ってくるだろう。話をするのは苦手じゃない。きっとしゃべり出せばどうにでもなる。
それでも、ジャンは勇気が出なかった。アルミンがジャンをどんな目で見ているのか、いつも目をそらしていたから知らないのだ。
ジャンがミカサを好きだったときはその態度をすぐに周りに見抜かれて、一体自分のどんな仕草がそれを露わにしたのかまだわからない。実際アルミンを意識し始めたこともはマルコにはすぐに見抜かれた。だからもしアルミンにも同じことをしてしまったら、アルミンはどう思うのだろう。そう思うと怖くなり、まともに目を合わせたこともない。
まだ踏ん切りがつかない間に電車が来てしまい、ジャンはアルミンが電車に乗り込むのを見ながら、隣の車両に乗り込んだ。
アルミンはいつもエレンとミカサと一緒に帰る。否、登校時も同じだ。幼馴染で家も近いのだから当然と言えば当然なのかもしれない。
文化祭当日まで、アルミンがひとりで帰る日はあるのだろうか。マルコは忙しいらしいと先輩に聞かされていたようだが、普通の委員会ではどうなのだろうか。もしかしたら、もう二度とないかもしれない。
がたん、と電車に揺らされながら、ジャンはぐっとこぶしを握った。
途中の乗換駅までは、アルミンも同じはずだ。
次の駅でジャンはホームに飛び出して、アルミンがいるはずの車両に乗り直す。ドアに寄り掛かって相変わらず本を開いていたアルミンはすぐに見つかった。
どくどくと心臓がうるさい。こんなに緊張したことはここ最近ではなかった。さっきまでは何とでもいえると思っていたのに、いざアルミンを前にすると頭が真っ白になる。それでも電車が動き出し、時間は有限であるとジャンに知らしめた。別れるはずの駅まではふた駅ほどしかない。
深く息を吸って、アルミンの前に向かう。気配を感じたのか、顔を上げたアルミンはジャンを見て目を丸くした。そこに拒絶がないことだけが救いだ。
「……よう」
「あ……うん」
驚いているアルミンに後悔する。やっぱりいつもと違うことはするものではない。それでも一度始めてしまったのだから引き返すわけにもいかず、ジャンは必死で頭を巡らせる。
「あー、あいつは?エレン」
「委員会だって。もうすぐ文化祭だから」
「ああ、マルコもだ」
「ジャンは委員会、入ってないんだっけ」
「ああ」
「そう、僕も」
「……」
「……」
アルミンが本を閉じた。それにはっと気がついて、ジャンは慌てて耳からイヤホンを引き抜く。それはいつの間にか再生が終わってしまっていた。もう何を聞いていたのかもよく思いだせない。
「本、酔わねえ?」
「ううん、大丈夫」
「ふーん」
「……」
「……」
これはまずい。何も会話続かない。アルミンは困ったように視線を泳がせていて、なぜか少し頬が赤いように見えてジャンも直視できなくなる。決して容姿に惚れたわけではないと言いたいが、可愛く見えて仕方がない。
「え、えーと、ジャンは、乗り換え?」
「あ、ああ。地下鉄」
「僕とは別だね」
「ああ」
「……」
「……」
やばい。めっちゃアルミンが頑張ってくれてる。頭を抱えそうになるのをどうにか抑え、ジャンも必死で頭を働かそうとするが、何を話してもベストであるとは思えなかった。
「……本、好きなのか」
「あ、うん」
「何読んでたんだ?」
「……知らないと思う」
「……そうか」
「……」
「……」
これは拒絶されたのか?オレには話したくなかったか?普段のアルミンがどのように会話をしていたのか全く思いだせない。確かにジャンとは話をすることはほとんどないが、マルコとは仲がいいはずだ。そのそばで会話を聞いていたことは何度もあったはずなのに。
電車が少し傾き、アルミンがよろけて窓に手をつく。これ今の支えてやればドラマみたいに決まったんじゃねえのかな、とつまらない妄想ばかりが頭をかすめる。
「ジャン、は」
「な、何?」
「何聞いてたの?」
「えっ」
「それ」
「あ、ああ……いや、これも、知らないと思う。インディーズの、知ってるやつ会ったことねえし」
「そう……」
「……」
「……」
また電車が止まる。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。もうあとひと駅だ。
「……僕」
アルミンが何か言ったような気がしたしかし電車のアナウンスとかぶって聞き取れない。聞き返すと大きな目でジャンを見上げ、慌てたように何でもないと首を振った。
「何だよ、言えよ」
あ、やばい、きつすぎたか?自分の話し方まで気を使う。もう全部がもどかしい。アルミンに好かれたくて必死だった。しかし実際はきっとそれ以前で、好かれるどころか友達とも言えないのだ。
「えっと……」
言いよどむアルミンの言葉を待っている。緊張で手に汗をかき、こっそりボトムで手のひらを拭った。何を言われるのだろう。
次にアルミンが口を開きかけたとき、ジャンの腹の虫が鳴った。全く空気の読まないそれは、少なくとも目の前のアルミンには聞こえるほど派手に響く。途端にかっと頭まで熱くなり、ジャンは耐え切れずに顔をそむけてドアに寄り掛かった。
「……ふふっ」
柔らかい笑い声に、もう死にたい、という思いが頭を占める。しかしどういう顔で笑ってるのかどうしても見たくなってしまい、横目でアルミンに視線を遣った。いつも幼馴染たちに向けているような微笑みに、心臓が射抜かれたように痛くなる。
「あのね、ずっとジャンと話したいと思ってたんだ」
「え」
「何か食べに行く?」
結婚しよ。
ジャンの反応がないことを不安になったアルミンが眉を下げるまで、ジャンはアルミンの笑みに見とれて硬直していた。
どうにかジャンから引きはがしたエレンを引っ張って昇降口に向かう。遅いから迎えに行こうと言ったミカサを置いてきて正解だった。教室の中からはまだマルコに宥められているジャンの憤る声が聞こえていて、それに反応して引き返そうとするエレンを慌てて捕まえる。
エレンとジャンはどうにも相容れないらしい。つまらないことで喧嘩をしてはぶつかっているが、アルミンはこっそり、彼らがそれをどこか楽しんでいるのではないかと思っている。エレンもジャンも、同じことを繰り返すような馬鹿ではない。
「もう、今日のはエレンが悪いよ」
「知るか」
「ほんっと懲りないんだから。いい、ミカサには何も言わないでよ、余計こじれるんだから」
「言わねえよ」
ふん、とエレンは鼻を鳴らすが、この態度を見ればミカサも何が起きていたのか察してしまうだろう。今度はあの美しい幼馴染をどう宥めるか考えて、アルミンは静かに息を吐く。
高校に入学してから見慣れた光景ではあった。エレンとジャンが小競り合いをして、それを見咎めたミカサが眉を吊り上げる。いつも宥めるのはアルミンの仕事で、ジャンを止めるのは彼の親友のマルコだった。
案の定、昇降口で待たせていたミカサはエレンの表情を見て、またジャンと揉めていたということを察したのだろう。その美しい眉を潜め、聞き取れないほどの早口で何かを口にする。その呪いにも似た言葉をジャンが直接聞かないことがせめてもの救いだろうか。
まだ制服のブレザーも馴染まない頃から、衣替えをした夏、再び冬服に戻った頃になっても彼らのやり取りは変わらない。エレンはジャンが嫌いで、ジャンはエレンが嫌い。エレンを好きなミカサはエレンの味方で、ジャンはミカサにこっそり憧れていて、アルミンは幼馴染のエレンの味方。
だから、変わったのはアルミンだけだ。いつの頃からか、ジャンと自分を飾らずにぶつかりあえるエレンを羨ましいと思っていた。
きっとジャンの目にはアルミンの存在など映っていないだろう。いつもジャンが声をかけるのは、天敵とも言えるようなエレンと、向ける笑みもぎこちなくなるミカサばかりだ。時々アルミンと目が合ったとしてもぷいと背けられて、まともに話をしたことなどない。
真っ直ぐ、自分の言葉で語る彼を、好きだと思った。鼓膜をくすぐる声で名前を呼ばれたら、と思い、慌てて首を振る。
自分には、それさえも高望みだとしか思えなかった。
*
「あのさぁ、いい加減にしたら?」
「うるせぇ……」
校門に向かうエレンたち3人を教室の窓から目で追い、ジャンは窓に額を押しつけた。秋の空気はガラスを冷やし、じわりと体温を奪われる。背後からマルコが深い溜息をついたのが聞こえたが、溜息をつきたいのはこっちだった。どうして、名前を呼ぶ、というただそれだけが、できないのだろう。
「いつまでもエレンと喧嘩してたって、アルミンはジャンに振り向いてくれないと思うけど?」
「わかってるっつってんだろ……」
ああ、あんな笑顔を向けられるエレンが羨ましいなどと、どうしてミカサを吹っ切った今でも思わなければならないのだろう。
入学式でミカサを見て、ひと目で恋に落ちた。凛とした佇まいに風に遊ばれる髪の先まで意識されたようで、ジャンの心をかっさらっていくには彼女は美しすぎた。その次の瞬間彼女の隣に現れたエレンの立ち振る舞いは彼女を全く尊重しないもので、憤りのままに彼にいらぬちょっかいを出したのももう随分前のことのように思える。
エレンと敵対している限りミカサが自分を振り向いてくれないだろうということはすぐにわかった。否、それ以前に、ミカサがエレン以外を見る気がないということもすぐにわかった。それは隠しようもなく、誰もがわかる事実だった。
しばらくはエレンとぶつかっては己の存在を主張していたジャンだったが、彼女に向けられる鋭い視線は辛いものだった。
ジャンがアルミンを意識したのは、いつだっただろうか。
ミカサがジャンからエレンを引きはがして行ったあと、苛立ち任せに頭をかいていたジャンをおずおずとアルミンが覗き込んだ。
「あの、ごめんね」
それをその瞬間に理解することはできなかった。すぐにアルミンはエレンに呼ばれ、慌ててジャンに背を向けて走っていく。それを鋭い目のまま見送った後、妙に気が抜けて肩を落とした。なぜアルミンが謝るのだろう。悪いのはエレンで、ジャンだ。自分でそれはわかっている。
そういえば3人でつるんでいたな、と思いだしてから、アルミンを意識するまではすぐだった。エレンとジャンが喧嘩をしていると慌てて止めに来て、時にはエレンに突き飛ばされてよろけながらもミカサの手を借りて喧嘩を止めている。ジャンがむきになる分エレンがヒートアップすることに気づいて、アルミンが駆け寄ってきてからは少し手を緩めるようになった。それはジャンを止める側だったマルコにはすぐに見抜かれて、あっという間に自分が気づいていなかった感情を引っ張り出された。
「なんでアルミンのやつ、あんなにエレンに付きまとってるんだよ」
「僕に聞かれても。自分で聞いてみれば?」
「聞けるかよ……」
「ほら、うだうだしてないで帰るよ」
もうアルミンたちはとっくに校門を出てしまった。マルコに引っ張られて、ジャンはしぶしぶ窓から離れる。
この間までミカサが好きで、今はアルミンが好きだなんて、そんな無節操なことを簡単に認めることはできなかった。
それでも、今はミカサに世話を焼かれるエレンよりも、アルミンの気遣いに気づかないエレンに腹が立つ。
*
いつもは3人で帰るアルミンたちだったが、今日はエレンもミカサも委員会の活動があるのでアルミンは先に変えることになった。図書室辺りで待っていてもいいと言ったのだが、以前同じように委員会の活動があったとき予想外に時間がかかったことを気にして、帰るように言われてしまったのだ。アルミンはどうせ帰ったとしても課題を済ませて本を読む程度の予定しかないのでどこにいても大差ないのだが、ふたりがしきりに気にするので素直に帰ることにしたのだ。
入学してから、ほぼ毎日登下校は3人だったので少し違和感がある。昇降口を抜けて駅に向かう途中の道さえすこし新鮮に見えた。思えば、いつもは話をして帰るのでエレンとミカサの顔ばかり見ているのだ。
いつの間にか木々は鮮やかに紅葉している。風も随分冷たくなって、冬に向かっているのだと実感させた。
ふと、角を曲がったアルミンは足を止めた。視界の先に、ジャンがいる。いつもはマルコと帰る彼も、今日はひとりであるようだった。そういえば、マルコは生徒会の役員だ。きっとエレンたちと同じく何か活動があるのだろう。
暇を持て余すように、何か音楽を聴いているらしいイヤホンが見える。自分より、エレンよりも背の高い後ろ姿。すでに少しくたびれたように見えるスクールバッグはファスナーの開いたままジャンの肩で揺れていた。
アルミンを追い抜いて行った人が振り返り、それにはっとしてアルミンもゆっくり歩き出す。視線はジャンから離せない。
――今、追いかけたら。
自分の隣にも、彼の隣にも誰もいない。ならば隣を歩くこともできるはずだ。
どきりと心臓が鳴って、ブレザーのネクタイごと胸元を掴む。脈が早いのがわかるほど心臓がうるさい。
途中の乗り換え駅までは、一緒に帰れるはずだ。追いかけて、ぽんと肩を叩いて、一緒に帰ろう、と言うだけだ。少し罪悪感はあるけれど、エレンを出汁にすればきっと話も続く。
それでも、アルミンの歩みはそれ以上早くならなかった。やがて駅についた頃には人も増えてジャンを見失ってしまって、自分の意気地のなさに肩を落とす。もしかしたらもう二度とないチャンスだったのかもしれないのに、と思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「はぁ……」
少し、泣きそうだ。
*
ひとりでの帰り道は久しぶりだ。行きはひとりなので愛用にしている音楽プレイヤーを引っ張り出して駅に向かう。真面目な親友様は今日は文化祭の準備のための会議があるらしい。これからしばらく、当日までこういう日が続くのかもしれない。
どこぞの三人組のようにべったり張りついていなければ心細いなんてことはないが、腹が減ってもつき合ってくれる相手がいないのは寂しいものだった。ひとりで行くのも味気ないので結局まっすぐ帰ることにして、それでも少しは何か腹に入れたくて駅のコンビニに立ち寄って菓子パンを買う。少々お行儀は悪いが空腹には耐えかねた。
パンをくわえながらICカードを改札にかざし、ホームへ上がる。同じ高校の生徒だけではなく近くに大学もあるので人は多い。少しでも人の少ない方に、とホームの奥へ向かう途中、ジャンはふと足を止めた。一番後ろの車両の辺り、文庫本を開いて次の電車を待っているのはアルミンだ。周りにいつも付きまとっている幼馴染の姿がない。そういやあいつらも何か委員会に入っていたか、と思いだし、ジャンははっとして食べかけのパンをスクールバッグにねじ込んだ。なぜだか無性に恥ずかしい。
風に煽られて髪を乱され、アルミンが少し顔を上げる。肩にかけたスクールバッグを直し、少し邪魔くさそうに髪を耳にかけてまた視線は本に戻った。誰の目があるわけでもないのにきれいに背筋を伸ばし、ページを押さえる指先まで意識されたように無駄がなく見える。
――今、近づいて。
肩を叩いて、よう、でもお疲れ、でも何でもいい。何か声をかけて、何を読んでいるのか、でもいい。話題が続かなければ、嫌な顔をするかもしれないが、エレンの悪口でも言えば何かは返ってくるだろう。話をするのは苦手じゃない。きっとしゃべり出せばどうにでもなる。
それでも、ジャンは勇気が出なかった。アルミンがジャンをどんな目で見ているのか、いつも目をそらしていたから知らないのだ。
ジャンがミカサを好きだったときはその態度をすぐに周りに見抜かれて、一体自分のどんな仕草がそれを露わにしたのかまだわからない。実際アルミンを意識し始めたこともはマルコにはすぐに見抜かれた。だからもしアルミンにも同じことをしてしまったら、アルミンはどう思うのだろう。そう思うと怖くなり、まともに目を合わせたこともない。
まだ踏ん切りがつかない間に電車が来てしまい、ジャンはアルミンが電車に乗り込むのを見ながら、隣の車両に乗り込んだ。
アルミンはいつもエレンとミカサと一緒に帰る。否、登校時も同じだ。幼馴染で家も近いのだから当然と言えば当然なのかもしれない。
文化祭当日まで、アルミンがひとりで帰る日はあるのだろうか。マルコは忙しいらしいと先輩に聞かされていたようだが、普通の委員会ではどうなのだろうか。もしかしたら、もう二度とないかもしれない。
がたん、と電車に揺らされながら、ジャンはぐっとこぶしを握った。
途中の乗換駅までは、アルミンも同じはずだ。
次の駅でジャンはホームに飛び出して、アルミンがいるはずの車両に乗り直す。ドアに寄り掛かって相変わらず本を開いていたアルミンはすぐに見つかった。
どくどくと心臓がうるさい。こんなに緊張したことはここ最近ではなかった。さっきまでは何とでもいえると思っていたのに、いざアルミンを前にすると頭が真っ白になる。それでも電車が動き出し、時間は有限であるとジャンに知らしめた。別れるはずの駅まではふた駅ほどしかない。
深く息を吸って、アルミンの前に向かう。気配を感じたのか、顔を上げたアルミンはジャンを見て目を丸くした。そこに拒絶がないことだけが救いだ。
「……よう」
「あ……うん」
驚いているアルミンに後悔する。やっぱりいつもと違うことはするものではない。それでも一度始めてしまったのだから引き返すわけにもいかず、ジャンは必死で頭を巡らせる。
「あー、あいつは?エレン」
「委員会だって。もうすぐ文化祭だから」
「ああ、マルコもだ」
「ジャンは委員会、入ってないんだっけ」
「ああ」
「そう、僕も」
「……」
「……」
アルミンが本を閉じた。それにはっと気がついて、ジャンは慌てて耳からイヤホンを引き抜く。それはいつの間にか再生が終わってしまっていた。もう何を聞いていたのかもよく思いだせない。
「本、酔わねえ?」
「ううん、大丈夫」
「ふーん」
「……」
「……」
これはまずい。何も会話続かない。アルミンは困ったように視線を泳がせていて、なぜか少し頬が赤いように見えてジャンも直視できなくなる。決して容姿に惚れたわけではないと言いたいが、可愛く見えて仕方がない。
「え、えーと、ジャンは、乗り換え?」
「あ、ああ。地下鉄」
「僕とは別だね」
「ああ」
「……」
「……」
やばい。めっちゃアルミンが頑張ってくれてる。頭を抱えそうになるのをどうにか抑え、ジャンも必死で頭を働かそうとするが、何を話してもベストであるとは思えなかった。
「……本、好きなのか」
「あ、うん」
「何読んでたんだ?」
「……知らないと思う」
「……そうか」
「……」
「……」
これは拒絶されたのか?オレには話したくなかったか?普段のアルミンがどのように会話をしていたのか全く思いだせない。確かにジャンとは話をすることはほとんどないが、マルコとは仲がいいはずだ。そのそばで会話を聞いていたことは何度もあったはずなのに。
電車が少し傾き、アルミンがよろけて窓に手をつく。これ今の支えてやればドラマみたいに決まったんじゃねえのかな、とつまらない妄想ばかりが頭をかすめる。
「ジャン、は」
「な、何?」
「何聞いてたの?」
「えっ」
「それ」
「あ、ああ……いや、これも、知らないと思う。インディーズの、知ってるやつ会ったことねえし」
「そう……」
「……」
「……」
また電車が止まる。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。もうあとひと駅だ。
「……僕」
アルミンが何か言ったような気がしたしかし電車のアナウンスとかぶって聞き取れない。聞き返すと大きな目でジャンを見上げ、慌てたように何でもないと首を振った。
「何だよ、言えよ」
あ、やばい、きつすぎたか?自分の話し方まで気を使う。もう全部がもどかしい。アルミンに好かれたくて必死だった。しかし実際はきっとそれ以前で、好かれるどころか友達とも言えないのだ。
「えっと……」
言いよどむアルミンの言葉を待っている。緊張で手に汗をかき、こっそりボトムで手のひらを拭った。何を言われるのだろう。
次にアルミンが口を開きかけたとき、ジャンの腹の虫が鳴った。全く空気の読まないそれは、少なくとも目の前のアルミンには聞こえるほど派手に響く。途端にかっと頭まで熱くなり、ジャンは耐え切れずに顔をそむけてドアに寄り掛かった。
「……ふふっ」
柔らかい笑い声に、もう死にたい、という思いが頭を占める。しかしどういう顔で笑ってるのかどうしても見たくなってしまい、横目でアルミンに視線を遣った。いつも幼馴染たちに向けているような微笑みに、心臓が射抜かれたように痛くなる。
「あのね、ずっとジャンと話したいと思ってたんだ」
「え」
「何か食べに行く?」
結婚しよ。
ジャンの反応がないことを不安になったアルミンが眉を下げるまで、ジャンはアルミンの笑みに見とれて硬直していた。
2013'11.25.Mon
金木犀が教えてくれる、と言われた通り、地図を片手に向かった場所は金木犀の甘い匂いが漂っていた。今日からジャンの家になるその寄宿舎は決して新しくはないが、由緒正しいという言葉がふさわしい歴史ある建物だ。創立者が芸術を志していたということもあり、門扉にしても細かな細工が施されている。なるほど、金の有り余った者の道楽で作るには持って来いなものであっただろう。ジャンがたどり着いたのは裏口のようだったがそれでもジャンの見たことがないような立派な門だ。堅牢に立ちふさがるようにも見えてジャンは少しためらうが、ここより他に行く場所はない。
冷たい鉄の門を押すと、それは意外にもすんなりとジャンを受け入れた。一歩足を踏み入れると金木犀の香りが強くなる。視線を巡らせた先に見つけたその木の根本に、うずくまる人影を見つけてぎょっとした。恐る恐る近づくと丸まった背はかすかに上下していて、ほっと息を吐く。具合でも悪いのだろうかと肩を軽く叩いてみるが、反応はない。呼吸は規則正しく繰り返されているので、眠っているだけのようだ。
頭の丸みに沿って流れる金の髪を金木犀の小さな花が飾り、どこか甘そうにも見えるその色に手を伸ばす。ジャンの指先に応えるように花が落ち、それを視線で追うと、そこに見つけたサファイアの瞳に息を飲んだ。
丁寧にまばたきをして、彼はジャンを見上げた。腕に顔を半分埋めたまま、濡れた瞳でこちらを見つめている。
「……ジャン・キルシャタイン?」
透き通った声に名前を呼ばれ、ジャンは背筋を伸ばしてややのけぞった。ゆっくり顔を上げてジャンを見たのは、人間ではないように見えるほど、不思議な存在に思える。しかし次の瞬間彼はにこりと笑い、気さくにジャンに手を差し出した。
「ようこそ寄宿舎へ。僕はアルミン・アルレルト。君と同室なんだ、よろしく」
「よっ、よろしく」
「待ってる間に寝ちゃった」
ぱっと立ち上がった彼、アルミンはしゃがんだまたのジャンにも手を差し出した。立ち上がると彼の頭に残る金木犀の花が目についたので、払ってやるとアルミンは驚いて目を丸くする。しかし金木犀に気づき、その花と同じぐらい可憐に笑った。胸が高鳴るのがわかる。新しいルームメイトとは、仲良くできるだろうか。
アルミンは成績優秀な学生だった。クラスの誰もが彼に羨望の眼差しを向け、少々運動が不得手なところもまた愛嬌があった。アルミンがルームメイトであると紹介してくれたお陰で、ジャンはクラスにもすぐ馴染むことができた。
幸い学力も差がつくほどではなく、ジャンはどちらかといえば成績は上位に入った。アルミンとは違いジャンは運動神経もよく、どんなスポーツでも活躍することができた。
アルミンはそれを僻むようなこともなく、ふたりがお互いの不足を補うようになるのは自然な流れだった。いつの間にか、まるで旧知の仲のように息のあったやりとりをするふたりになっていた。ジャンはアルミンに気を許して、何でも相談できる相手だった。
――それでも、アルミンはそうだとは限らなかった。
「アルミン、灯落とすぞ」
「うん」
アルミンはジャンの言葉に素直に頷き、読んでいた本を閉じる。アルミンがベッドに潜り込んだのを確認し、ジャンはランプの小さな炎を消した。訪れる闇の中でジャンは手探りでベッドに戻り、柔らかいシーツに体を預ける。始めのうちはホームシックにもなったが、そのたびアルミンが勇気づけてくれたので、ひとりのベッドも今は寂しくない。
やがて衣擦れの音も聞こえなくなり、静かになった部屋には何の音もしなくなった。ジャンは息を殺し、じっと待つ。
今日は週末だ。いつもの通りなら――小さく、木の軋む音。
やはりいつものように、アルミンがベッドを抜け出した。ジャンを起こさないよう物音を立てず、静かに靴を履いて寝間着のままこっそりと部屋を出ていく。ドアが閉まってかすかな足音も消えてから、ジャンは体を起こした。アルミンが出ていってしまったドアを見て溜息をつく。
週末の夜、アルミンはいつもこうして部屋を抜け出している。初めはトイレにでも行っているのかと思っていたが、しばらく待ってもアルミンは帰ってこなかった。一度追いかけようとしたが、ジャンが部屋を抜け出した頃にはアルミンの姿はどこにもなく、結局朝方までアルミンは戻ってこなかったのだ。今夜もきっと、そうなのだろう。
どこに行っているのか一度問い詰めたことがある。それでも、柔らかい物腰でどこにも行かないと言い張った。あまつさえ、ジャンが夢を見たことにされてしまったのだ。
今日もアルミンは朝まで帰ってこなかった。布団に潜っていたジャンが体を起こすと、さも今起きたばかりだという体でジャンに挨拶をする。もうそれがいつものやりとりになっていた。
「ジャン、今日の予定は?」
「……勉強する」
「僕もそうしようかな。自習室?」
「ああ」
朝食を食べてからふたりで自習室に向かった。寮に作られた自習室は昔は書斎だったのだろう、作りつけの本棚には今でも沢山の本が並べられている。読書家のアルミンのお気に入りの場所だ。他にも生徒がいる中で、ふたりは並んで座った。
「ジャン、ここわかる?」
「どれ」
アルミンが身を乗り出してジャンにもノートを向けた。ふと寄った体から、ふわりと甘い香りがする。それが何か考えてすぐに思い当たった。金木犀だ。
「……アルミン」
「何?」
「……何でもない」
確かに彼から香るのは金木犀だった。
次の週末もやはりアルミンは深夜に部屋を抜け出した。遅れてベッドを出たジャンも、気づかれないようこっそり部屋を出る。
普段は気にならない小さな廊下の軋みが妙に耳につき、それに誘われるように胸が脈打った。アルミンの姿はやはりないが、見当はついている。
――金木犀。
この近くでその匂いを感じることができるのは、この辺りには一ヶ所しかない。
ジャンは慎重に寮を抜け出した。裏口の鍵は開いていて確信する。風の冷たい夜に紛れて裏門に向かった。足音を殺し、建物に隠れてそっと門の方をのぞき込む。
月明かりにシルエットが浮かんでいる。かき乱される金の髪、溶け合うように絡む腕。ひとつになっていた影がゆっくりと離れ、恍惚に満ちたアルミンの表情が影の肩越しに見えた。アルミンの体を抱くその相手は影になって、様子がわからない。
それでも、金木犀の木のそばで微笑むのは、アルミンに間違いなかった。うっとりと目を細め、日に焼けない腕は柔らかく影を抱く。すっかりアルミンを隠してしまうほどの影は優しくアルミンを撫で、その手の中でアルミンは体をよじらせた。
ジャンは指先さえ動かすことができないまま立ち尽くした。そこにある愉悦も快楽も、ジャンは知らない。あんな表情のアルミンを見たことがない。
何かの間違いであれと願うジャンの思いとは裏腹に、小さく漏れた笑い声は、いつも耳にするアルミンの声で間違いなかった。
そのあとどうやって部屋まで戻ったのか、ジャンはよく覚えていない。ただ誰にも咎められなかったので、見つかることなく部屋に戻ったことは確かだろう。
布団に潜ってからも目はさえて、アルミンの顔が浮かんで離れない。その夜は朝まで、アルミンが戻ってくるまで眠ることができなかった。
「おはよう、ジャン。……ジャン?」
「……おはよう」
頭まで布団を被ったまま答えるとアルミンは笑った。どうしたの、今日はお寝坊さんだね。ジャンをからかいながら布団をはぎ、アルミンはジャンの顔を見て驚いた。一睡もしていないジャンは、どんなひどい顔をしているのだろう。
「またホームシックかい?じゃあ今夜は僕が一緒に寝てあげるよ」
優しく母のようにジャンの髪を撫でつけたアルミンからは、金木犀の匂いがした。
その夜、アルミンは宣言通りジャンと共にベッドに入った。睡眠不足とアルミンのことで一日中ぼんやりしていたジャンをいたわって、布団を被ってからもぽんぽんと腹を叩いてくれた。それでもジャンは不安になって、アルミンにねだって手をつないで寝てもらった。笑いながらアルミンが重ねた手はあたたかく、この手が誰かを抱いたなんて嘘のようだった。
次の夜もジャンはアルミンの心配に甘えて一緒に眠った。その次の週末まで、ずっとアルミンの手を握って眠った。甘えっこだね、と笑いながら、アルミンは毎晩ジャンの手を包むようにして眠りについた。
それでも、週末はやはりベッドを抜け出した。ジャンの指を一本ずつゆっくり離し、いつもより殊更慎重にベッドを降りる。アルミンが静かにドアを閉める音を聞きながら、ジャンは悔しさに唇を噛んだ。どんなに優しくても、アルミンは決して自分を選ばない。
自分で傷を抉るように、ジャンもベッドを降りて寮を出た。先日同様にアルミンは金木犀の下で誰かを愛しげに抱いていた。
その次の夜からアルミンを抱いて眠った。初めは戸惑ったアルミンもすぐにジャンにほだされた。そんなに優しく振る舞っても、アルミンはジャンに何も言わなかった。
周囲から親友と呼ばれながらアルミンと過ごす日々はジャンにとって苦痛であった。アルミンは親しげにジャンの名を呼び、アルミンを探す人はジャンに尋ねる。ジャンがどんなに愛しさを込めて名を呼んでも、アルミンがどこにいて何をしているのかわかっても、アルミンにとってジャンは決して特別ではなかった。
週末。
アルミンが抱き締めるジャンの腕から抜け出して、ジャンは泣いた。ジャンがどんなに強く抱いても、アルミンはその柔らかな腕を回してくれることはなかった。
離れた体温を追うようにシーツを握って枕を濡らし、やがてジャンは顔を上げた。布団をはね飛ばすと冷えた空気が体を包む。身震いしながら部屋を出た。
アルミンは何を思いながらこの軋む廊下を歩くのだろう。
いつものように建物の影から金木犀の木に視線を向ける。辺りに漂う甘い匂い。その木の下に、月を溶かしたような金髪を風に遊ばせ、アルミンがしゃがみ込んでいる。その髪を砂糖菓子のような金木犀の花が飾っていた。
ジャンは鼻をすすって、アルミンの元に歩み寄る。海を閉じ込めたような濡れた瞳がジャンを見上げた。そばに膝をついて冷えた手を取っても、アルミンは何も言わない。
金木犀もほとんど散った。新しい季節がくるはずなのに、アルミンはジャンを見ようとはしなかった。
冷たい鉄の門を押すと、それは意外にもすんなりとジャンを受け入れた。一歩足を踏み入れると金木犀の香りが強くなる。視線を巡らせた先に見つけたその木の根本に、うずくまる人影を見つけてぎょっとした。恐る恐る近づくと丸まった背はかすかに上下していて、ほっと息を吐く。具合でも悪いのだろうかと肩を軽く叩いてみるが、反応はない。呼吸は規則正しく繰り返されているので、眠っているだけのようだ。
頭の丸みに沿って流れる金の髪を金木犀の小さな花が飾り、どこか甘そうにも見えるその色に手を伸ばす。ジャンの指先に応えるように花が落ち、それを視線で追うと、そこに見つけたサファイアの瞳に息を飲んだ。
丁寧にまばたきをして、彼はジャンを見上げた。腕に顔を半分埋めたまま、濡れた瞳でこちらを見つめている。
「……ジャン・キルシャタイン?」
透き通った声に名前を呼ばれ、ジャンは背筋を伸ばしてややのけぞった。ゆっくり顔を上げてジャンを見たのは、人間ではないように見えるほど、不思議な存在に思える。しかし次の瞬間彼はにこりと笑い、気さくにジャンに手を差し出した。
「ようこそ寄宿舎へ。僕はアルミン・アルレルト。君と同室なんだ、よろしく」
「よっ、よろしく」
「待ってる間に寝ちゃった」
ぱっと立ち上がった彼、アルミンはしゃがんだまたのジャンにも手を差し出した。立ち上がると彼の頭に残る金木犀の花が目についたので、払ってやるとアルミンは驚いて目を丸くする。しかし金木犀に気づき、その花と同じぐらい可憐に笑った。胸が高鳴るのがわかる。新しいルームメイトとは、仲良くできるだろうか。
アルミンは成績優秀な学生だった。クラスの誰もが彼に羨望の眼差しを向け、少々運動が不得手なところもまた愛嬌があった。アルミンがルームメイトであると紹介してくれたお陰で、ジャンはクラスにもすぐ馴染むことができた。
幸い学力も差がつくほどではなく、ジャンはどちらかといえば成績は上位に入った。アルミンとは違いジャンは運動神経もよく、どんなスポーツでも活躍することができた。
アルミンはそれを僻むようなこともなく、ふたりがお互いの不足を補うようになるのは自然な流れだった。いつの間にか、まるで旧知の仲のように息のあったやりとりをするふたりになっていた。ジャンはアルミンに気を許して、何でも相談できる相手だった。
――それでも、アルミンはそうだとは限らなかった。
「アルミン、灯落とすぞ」
「うん」
アルミンはジャンの言葉に素直に頷き、読んでいた本を閉じる。アルミンがベッドに潜り込んだのを確認し、ジャンはランプの小さな炎を消した。訪れる闇の中でジャンは手探りでベッドに戻り、柔らかいシーツに体を預ける。始めのうちはホームシックにもなったが、そのたびアルミンが勇気づけてくれたので、ひとりのベッドも今は寂しくない。
やがて衣擦れの音も聞こえなくなり、静かになった部屋には何の音もしなくなった。ジャンは息を殺し、じっと待つ。
今日は週末だ。いつもの通りなら――小さく、木の軋む音。
やはりいつものように、アルミンがベッドを抜け出した。ジャンを起こさないよう物音を立てず、静かに靴を履いて寝間着のままこっそりと部屋を出ていく。ドアが閉まってかすかな足音も消えてから、ジャンは体を起こした。アルミンが出ていってしまったドアを見て溜息をつく。
週末の夜、アルミンはいつもこうして部屋を抜け出している。初めはトイレにでも行っているのかと思っていたが、しばらく待ってもアルミンは帰ってこなかった。一度追いかけようとしたが、ジャンが部屋を抜け出した頃にはアルミンの姿はどこにもなく、結局朝方までアルミンは戻ってこなかったのだ。今夜もきっと、そうなのだろう。
どこに行っているのか一度問い詰めたことがある。それでも、柔らかい物腰でどこにも行かないと言い張った。あまつさえ、ジャンが夢を見たことにされてしまったのだ。
今日もアルミンは朝まで帰ってこなかった。布団に潜っていたジャンが体を起こすと、さも今起きたばかりだという体でジャンに挨拶をする。もうそれがいつものやりとりになっていた。
「ジャン、今日の予定は?」
「……勉強する」
「僕もそうしようかな。自習室?」
「ああ」
朝食を食べてからふたりで自習室に向かった。寮に作られた自習室は昔は書斎だったのだろう、作りつけの本棚には今でも沢山の本が並べられている。読書家のアルミンのお気に入りの場所だ。他にも生徒がいる中で、ふたりは並んで座った。
「ジャン、ここわかる?」
「どれ」
アルミンが身を乗り出してジャンにもノートを向けた。ふと寄った体から、ふわりと甘い香りがする。それが何か考えてすぐに思い当たった。金木犀だ。
「……アルミン」
「何?」
「……何でもない」
確かに彼から香るのは金木犀だった。
次の週末もやはりアルミンは深夜に部屋を抜け出した。遅れてベッドを出たジャンも、気づかれないようこっそり部屋を出る。
普段は気にならない小さな廊下の軋みが妙に耳につき、それに誘われるように胸が脈打った。アルミンの姿はやはりないが、見当はついている。
――金木犀。
この近くでその匂いを感じることができるのは、この辺りには一ヶ所しかない。
ジャンは慎重に寮を抜け出した。裏口の鍵は開いていて確信する。風の冷たい夜に紛れて裏門に向かった。足音を殺し、建物に隠れてそっと門の方をのぞき込む。
月明かりにシルエットが浮かんでいる。かき乱される金の髪、溶け合うように絡む腕。ひとつになっていた影がゆっくりと離れ、恍惚に満ちたアルミンの表情が影の肩越しに見えた。アルミンの体を抱くその相手は影になって、様子がわからない。
それでも、金木犀の木のそばで微笑むのは、アルミンに間違いなかった。うっとりと目を細め、日に焼けない腕は柔らかく影を抱く。すっかりアルミンを隠してしまうほどの影は優しくアルミンを撫で、その手の中でアルミンは体をよじらせた。
ジャンは指先さえ動かすことができないまま立ち尽くした。そこにある愉悦も快楽も、ジャンは知らない。あんな表情のアルミンを見たことがない。
何かの間違いであれと願うジャンの思いとは裏腹に、小さく漏れた笑い声は、いつも耳にするアルミンの声で間違いなかった。
そのあとどうやって部屋まで戻ったのか、ジャンはよく覚えていない。ただ誰にも咎められなかったので、見つかることなく部屋に戻ったことは確かだろう。
布団に潜ってからも目はさえて、アルミンの顔が浮かんで離れない。その夜は朝まで、アルミンが戻ってくるまで眠ることができなかった。
「おはよう、ジャン。……ジャン?」
「……おはよう」
頭まで布団を被ったまま答えるとアルミンは笑った。どうしたの、今日はお寝坊さんだね。ジャンをからかいながら布団をはぎ、アルミンはジャンの顔を見て驚いた。一睡もしていないジャンは、どんなひどい顔をしているのだろう。
「またホームシックかい?じゃあ今夜は僕が一緒に寝てあげるよ」
優しく母のようにジャンの髪を撫でつけたアルミンからは、金木犀の匂いがした。
その夜、アルミンは宣言通りジャンと共にベッドに入った。睡眠不足とアルミンのことで一日中ぼんやりしていたジャンをいたわって、布団を被ってからもぽんぽんと腹を叩いてくれた。それでもジャンは不安になって、アルミンにねだって手をつないで寝てもらった。笑いながらアルミンが重ねた手はあたたかく、この手が誰かを抱いたなんて嘘のようだった。
次の夜もジャンはアルミンの心配に甘えて一緒に眠った。その次の週末まで、ずっとアルミンの手を握って眠った。甘えっこだね、と笑いながら、アルミンは毎晩ジャンの手を包むようにして眠りについた。
それでも、週末はやはりベッドを抜け出した。ジャンの指を一本ずつゆっくり離し、いつもより殊更慎重にベッドを降りる。アルミンが静かにドアを閉める音を聞きながら、ジャンは悔しさに唇を噛んだ。どんなに優しくても、アルミンは決して自分を選ばない。
自分で傷を抉るように、ジャンもベッドを降りて寮を出た。先日同様にアルミンは金木犀の下で誰かを愛しげに抱いていた。
その次の夜からアルミンを抱いて眠った。初めは戸惑ったアルミンもすぐにジャンにほだされた。そんなに優しく振る舞っても、アルミンはジャンに何も言わなかった。
周囲から親友と呼ばれながらアルミンと過ごす日々はジャンにとって苦痛であった。アルミンは親しげにジャンの名を呼び、アルミンを探す人はジャンに尋ねる。ジャンがどんなに愛しさを込めて名を呼んでも、アルミンがどこにいて何をしているのかわかっても、アルミンにとってジャンは決して特別ではなかった。
週末。
アルミンが抱き締めるジャンの腕から抜け出して、ジャンは泣いた。ジャンがどんなに強く抱いても、アルミンはその柔らかな腕を回してくれることはなかった。
離れた体温を追うようにシーツを握って枕を濡らし、やがてジャンは顔を上げた。布団をはね飛ばすと冷えた空気が体を包む。身震いしながら部屋を出た。
アルミンは何を思いながらこの軋む廊下を歩くのだろう。
いつものように建物の影から金木犀の木に視線を向ける。辺りに漂う甘い匂い。その木の下に、月を溶かしたような金髪を風に遊ばせ、アルミンがしゃがみ込んでいる。その髪を砂糖菓子のような金木犀の花が飾っていた。
ジャンは鼻をすすって、アルミンの元に歩み寄る。海を閉じ込めたような濡れた瞳がジャンを見上げた。そばに膝をついて冷えた手を取っても、アルミンは何も言わない。
金木犀もほとんど散った。新しい季節がくるはずなのに、アルミンはジャンを見ようとはしなかった。
カレンダー
カテゴリー
最新記事
ブログ内検索
アクセス解析
アクセス解析