言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2014'12.25.Thu
恋人はサンタクロース、なんて歌詞の歌があるらしい。その全容は知らないので、兵太夫はそれに共感することも憤慨することもできなかったが、少なくともそのワンフレーズは、兵太夫の今の状況を言い表すのにふさわしい言葉だった。
クリスマスを一緒に過ごす相手がいるはずの伊助が予定がないというので追求すれば、彼氏殿はひとり身の集まる男子会なるものに出席するらしい。馬鹿らしいと思うが男のよくわからない感覚で、恥ずかしいという理由で彼はまだ周囲に彼女がいることを隠しているらしかった。それでいいのかと伊助に問えば、別に構わない、と少しも残念そうにしなかった。兵太夫は伊助のような大人にはなれない。クリスマスはサンタクロースになる恋人と、派手な喧嘩をしたばかりだった。
「反省してるならさっさと謝ればいいのにー」
「……他人事だと思って」
「他人事だもん」
けらけら笑う三治朗を睨んでも、彼女には少しもダメージはない。
クラスメイトと一緒に賑やかにケーキを作って、紅茶を入れてのささやかなクリスマスパーティも、楽しくないわけではない。それでも折に触れて思い出す団蔵の姿に、兵太夫はつい眉を潜めた。
団蔵をつき合い始めて初めてのクリスマスだ。だというのに、配送業を営む彼の家では団蔵も貴重な働き手で、クリスマス当日にプレゼントを届けたいと思う人の分だけ彼らは忙しくなる。そのことは説明されると理解はできるが、誰かの休みの日にも働く人はいるのだと思ってもいなかった自分を馬鹿にされたようでもあり、素直に頷くことができなかった。
だから、自分が悪いことはわかっている。
何度目かの鬱々とした気分に襲われた兵太夫を遮るように、チャイムが鳴った。家の人である伊助が立ち上がり、三治朗とそれを見送る。
「僕はクリスマスはみんなと騒ぐ方が楽しいけどなー」
「選択肢があって選ぶのと、一方的に選択肢を奪われるのは別だろ」
「さー、ぼくはまだお子様だからわかりませーん」
けらけらと笑う三治朗がわかっていてからかってきているのだ。それにうまく言い返す言葉が見つからないのが悔しい。
伊助が戻ってきたと思えば、兵太夫を呼んだ。なぜ自分だけが呼ばれたのかわからずに首を傾げるが、とにかく玄関へ行くように言われて更にわけがわからない。
暖房で暖まった部屋を出て渋々玄関へ向かう。しかし玄関に立つ人物を見て、兵太夫は脚を止めて硬直した。安っぽい、赤いサンタ帽を被ったその人は、兵太夫を見て気まずげに頭をかく。
「な……何?」
「あー、一回家行ったんだけど、伊助んちって言われて。……なんでそんな遠いんだよ。こいよ」
その声に尻込みするが、それを悟られたくなくて必死で顔を引き締めて足を進める。足に馴染まないスリッパのように、この空気はぎこちない。
「ん」
「えっ」
差し出されたのはしっかりとした紙袋だった。百貨店の地下にある、兵太夫の好きな洋菓子店のロゴがプリントしてある。視線に促されて恐る恐る手を伸ばしてそれを取ると、中にリボンがちらりと見えた。
「なんか、女の好きそうなもんわかんねえから」
「えっ、何これ」
「だから、クリスマスプレゼント」
ぶわっと熱が上がる。きっと隠せていない。兵太夫が熱くなるのに少し遅れて、団蔵も低く呻きながらマフラーを緩めた。
「あ〜……だからその……悪かった。俺ももっと早く言えばよかったです。すいませんでした。だから仲直りしてくれよ」
どこか拗ねたような、そんな顔でそんなことを言われたら、断ることができるはずがない。どうしたらこれ以上この男の前で強がることができるのか、兵太夫は奥歯を噛んだ。
「こ……こんな……今もらっても困るのに」
「あー、ごめん」
「まぁ、もらっとくけど」
「どっちだよ」
「……団蔵、荷物引き取りもやってるよね」
「してるけど、……何?」
怪訝そうな声にわざとはっきり声を出す。
「ぼく8時以降には家に帰ってるからうち寄って。荷物出すから」
「担当の方じゃないからいつになるかわかんないけど」
「いつでもいい。全部仕事終わってからでいいよ。……団蔵あてだから」
一瞬、団蔵が硬直する。しくじったか、と思ったが、団蔵は黙ったままのそりとマフラーを巻き直した。マフラーで顔の半分が隠れたが、表情は隠しきれていない。兵太夫は自分があんなに緩んでいないことをただ願う。
できるだけ早く行きます。その言葉に、兵太夫もただ頷くことしかできなかった。
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クリスマスを一緒に過ごす相手がいるはずの伊助が予定がないというので追求すれば、彼氏殿はひとり身の集まる男子会なるものに出席するらしい。馬鹿らしいと思うが男のよくわからない感覚で、恥ずかしいという理由で彼はまだ周囲に彼女がいることを隠しているらしかった。それでいいのかと伊助に問えば、別に構わない、と少しも残念そうにしなかった。兵太夫は伊助のような大人にはなれない。クリスマスはサンタクロースになる恋人と、派手な喧嘩をしたばかりだった。
「反省してるならさっさと謝ればいいのにー」
「……他人事だと思って」
「他人事だもん」
けらけら笑う三治朗を睨んでも、彼女には少しもダメージはない。
クラスメイトと一緒に賑やかにケーキを作って、紅茶を入れてのささやかなクリスマスパーティも、楽しくないわけではない。それでも折に触れて思い出す団蔵の姿に、兵太夫はつい眉を潜めた。
団蔵をつき合い始めて初めてのクリスマスだ。だというのに、配送業を営む彼の家では団蔵も貴重な働き手で、クリスマス当日にプレゼントを届けたいと思う人の分だけ彼らは忙しくなる。そのことは説明されると理解はできるが、誰かの休みの日にも働く人はいるのだと思ってもいなかった自分を馬鹿にされたようでもあり、素直に頷くことができなかった。
だから、自分が悪いことはわかっている。
何度目かの鬱々とした気分に襲われた兵太夫を遮るように、チャイムが鳴った。家の人である伊助が立ち上がり、三治朗とそれを見送る。
「僕はクリスマスはみんなと騒ぐ方が楽しいけどなー」
「選択肢があって選ぶのと、一方的に選択肢を奪われるのは別だろ」
「さー、ぼくはまだお子様だからわかりませーん」
けらけらと笑う三治朗がわかっていてからかってきているのだ。それにうまく言い返す言葉が見つからないのが悔しい。
伊助が戻ってきたと思えば、兵太夫を呼んだ。なぜ自分だけが呼ばれたのかわからずに首を傾げるが、とにかく玄関へ行くように言われて更にわけがわからない。
暖房で暖まった部屋を出て渋々玄関へ向かう。しかし玄関に立つ人物を見て、兵太夫は脚を止めて硬直した。安っぽい、赤いサンタ帽を被ったその人は、兵太夫を見て気まずげに頭をかく。
「な……何?」
「あー、一回家行ったんだけど、伊助んちって言われて。……なんでそんな遠いんだよ。こいよ」
その声に尻込みするが、それを悟られたくなくて必死で顔を引き締めて足を進める。足に馴染まないスリッパのように、この空気はぎこちない。
「ん」
「えっ」
差し出されたのはしっかりとした紙袋だった。百貨店の地下にある、兵太夫の好きな洋菓子店のロゴがプリントしてある。視線に促されて恐る恐る手を伸ばしてそれを取ると、中にリボンがちらりと見えた。
「なんか、女の好きそうなもんわかんねえから」
「えっ、何これ」
「だから、クリスマスプレゼント」
ぶわっと熱が上がる。きっと隠せていない。兵太夫が熱くなるのに少し遅れて、団蔵も低く呻きながらマフラーを緩めた。
「あ〜……だからその……悪かった。俺ももっと早く言えばよかったです。すいませんでした。だから仲直りしてくれよ」
どこか拗ねたような、そんな顔でそんなことを言われたら、断ることができるはずがない。どうしたらこれ以上この男の前で強がることができるのか、兵太夫は奥歯を噛んだ。
「こ……こんな……今もらっても困るのに」
「あー、ごめん」
「まぁ、もらっとくけど」
「どっちだよ」
「……団蔵、荷物引き取りもやってるよね」
「してるけど、……何?」
怪訝そうな声にわざとはっきり声を出す。
「ぼく8時以降には家に帰ってるからうち寄って。荷物出すから」
「担当の方じゃないからいつになるかわかんないけど」
「いつでもいい。全部仕事終わってからでいいよ。……団蔵あてだから」
一瞬、団蔵が硬直する。しくじったか、と思ったが、団蔵は黙ったままのそりとマフラーを巻き直した。マフラーで顔の半分が隠れたが、表情は隠しきれていない。兵太夫は自分があんなに緩んでいないことをただ願う。
できるだけ早く行きます。その言葉に、兵太夫もただ頷くことしかできなかった。
2014'06.22.Sun
丸い小さな目から、ぼろぼろと涙が零れている。湯上りのまま首にかけていたタオルをその目に押しつけて、嗚咽を漏らすのに呆れて三郎次は勢いよくソファーの隣に座りこんだ。柔らかいソファーは勢いで沈み、その反動で丸い肩が三郎次にもたれてぶつかる。
「何ッ回泣くんだよ。映画館で泣いて、レンタル始まったら借りてきて泣いて、結局DVD買って、何で地上波放送わざわざ見てまた泣いて」
「うっ、うるさいっ、なぁ!」
一瞬顔を上げた伊助は三郎次を睨んだが、すぐにまたタオルに顔を押しつけた。テレビから流れるのは映画のスタッフロール。しっとりとした音楽はこの映画のラストに相応しく、目を凝らさなければ読めないほど小さな文字で関係者の名前が流れていく。それを一瞥し、三郎次はソファーに体を預けた。ずるりと体重をかけてくる伊助をそのままに、小さくすすり泣くのを聞いている。
「……ほんとに、心臓に悪いから、泣くなよ」
まだ水分を含んだ髪に頬を寄せる。すん、と鼻を鳴らして、伊助が三郎次を見上げた。
「……泣かせたくないですか?」
「勝手に泣いてろ」
「……あのね、泣いたらお腹すいたんです。ラーメン半分こしません?」
「デブ」
「一緒に太りません?」
「好きにしろ」
ぱっと伊助は立ち上がった。スンと鼻をすすって、台所へ向かっていく。散々泣いていた割にはフットワークの軽いことだ。エンドロールの途中のテレビのチャンネルを変え、適当に回すと天気予報が始まった。梅雨入りしたと言いながらさほど雨に降られた印象がないのは、運がいいからなのだろうか。
三郎次も立ち上がって台所に向かう。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出せば、僕も、と声だけ飛んでくる。わざと顔をしかめて、グラスをふたつ取り出した。
鍋ではぐらぐらとお湯が煮立っている。そこに落とされた乾麺を箸でつつく横顔はまだ泣いた名残が残っていて、首に巻かれたタオルで目元をぬぐってやった。
「泣きすぎ」
「あれで泣けない三郎次さんがおかしいんです。人でなし」
「おーおー、人でなしで結構。お茶はやらん」
「下さい!」
「ん」
乱暴に注いだそれを差し出す。握った冷たいグラスに頬を緩め、伊助は麺をほぐしながらグラスの縁に口をつけた。
「何か入れますか?」
「ネギ」
「たまご……」
「夜中にやめとけよ」
冷蔵庫からネギのタッパーを取り出して伊助に渡す。ざらざらと鍋に適当にネギを落とし、小袋に入ったスープも流し込む。醤油の香ばしい匂いが漂い、その気のなかった三郎次の胃袋も刺激した。
「三郎次さん、器」
「どんぶり?」
「半分にするからもっと小さくていいです」
「じゃああれか」
「うん、あれぐらい」
棚から取り出した器をシンクに並べる。一人前のインスタントラーメンを半分にした夜食を、伊助が箸と共に差し出した。
「明日雨ですか?」
「晴れのち雨。降水確率30パー」
「微妙だなぁ」
器を手に、立ったままラーメンをすする。湯気で汗を浮かせて、熱いスープを口にする。
「厚手のもの洗ってしまいたいんだけどな。あ、三郎次さんももう着ない羽織り物出しておいてくださいね」
「ああ」
「あとね、三郎次さん」
「何?」
「海に行きませんか、先輩」
「何ッ回泣くんだよ。映画館で泣いて、レンタル始まったら借りてきて泣いて、結局DVD買って、何で地上波放送わざわざ見てまた泣いて」
「うっ、うるさいっ、なぁ!」
一瞬顔を上げた伊助は三郎次を睨んだが、すぐにまたタオルに顔を押しつけた。テレビから流れるのは映画のスタッフロール。しっとりとした音楽はこの映画のラストに相応しく、目を凝らさなければ読めないほど小さな文字で関係者の名前が流れていく。それを一瞥し、三郎次はソファーに体を預けた。ずるりと体重をかけてくる伊助をそのままに、小さくすすり泣くのを聞いている。
「……ほんとに、心臓に悪いから、泣くなよ」
まだ水分を含んだ髪に頬を寄せる。すん、と鼻を鳴らして、伊助が三郎次を見上げた。
「……泣かせたくないですか?」
「勝手に泣いてろ」
「……あのね、泣いたらお腹すいたんです。ラーメン半分こしません?」
「デブ」
「一緒に太りません?」
「好きにしろ」
ぱっと伊助は立ち上がった。スンと鼻をすすって、台所へ向かっていく。散々泣いていた割にはフットワークの軽いことだ。エンドロールの途中のテレビのチャンネルを変え、適当に回すと天気予報が始まった。梅雨入りしたと言いながらさほど雨に降られた印象がないのは、運がいいからなのだろうか。
三郎次も立ち上がって台所に向かう。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出せば、僕も、と声だけ飛んでくる。わざと顔をしかめて、グラスをふたつ取り出した。
鍋ではぐらぐらとお湯が煮立っている。そこに落とされた乾麺を箸でつつく横顔はまだ泣いた名残が残っていて、首に巻かれたタオルで目元をぬぐってやった。
「泣きすぎ」
「あれで泣けない三郎次さんがおかしいんです。人でなし」
「おーおー、人でなしで結構。お茶はやらん」
「下さい!」
「ん」
乱暴に注いだそれを差し出す。握った冷たいグラスに頬を緩め、伊助は麺をほぐしながらグラスの縁に口をつけた。
「何か入れますか?」
「ネギ」
「たまご……」
「夜中にやめとけよ」
冷蔵庫からネギのタッパーを取り出して伊助に渡す。ざらざらと鍋に適当にネギを落とし、小袋に入ったスープも流し込む。醤油の香ばしい匂いが漂い、その気のなかった三郎次の胃袋も刺激した。
「三郎次さん、器」
「どんぶり?」
「半分にするからもっと小さくていいです」
「じゃああれか」
「うん、あれぐらい」
棚から取り出した器をシンクに並べる。一人前のインスタントラーメンを半分にした夜食を、伊助が箸と共に差し出した。
「明日雨ですか?」
「晴れのち雨。降水確率30パー」
「微妙だなぁ」
器を手に、立ったままラーメンをすする。湯気で汗を浮かせて、熱いスープを口にする。
「厚手のもの洗ってしまいたいんだけどな。あ、三郎次さんももう着ない羽織り物出しておいてくださいね」
「ああ」
「あとね、三郎次さん」
「何?」
「海に行きませんか、先輩」
2013'12.27.Fri
「あ、お父さん」
車を降りた左近の第一声に、高坂は焦って窓の外を見た。左近の家の前に車が止まり、そこからひとりの男性が降りてきたところだ。中肉中背、特に目立つところもない優しそうな男性だ。左近の父親となると黙って帰るわけにはいかない。高坂が車を降りようとすると、左近が慌てて止めた。
「でも、挨拶ぐらい」
「やめた方がいいです、絶対!」
「いずれご挨拶に伺うつもりなんだ。今日逃げるように帰って印象を悪くしたくないしね」
「変わらないと思いますけどぉ〜……」
気の進まない様子の左近を伴って道を渡る。家の前の父親は途中でふたりに気づいて待っていた。左近の父親、ということは、川西総合病院の院長だ。少し緊張しながら高坂は姿勢を正す。近づいていくと男はまず左近に顔を向けた。
「お帰り左近」
「ただいま。お父さん今日早かったんだね」
「予定が延期になってね。そちらは?」
「え〜っと」
「初めまして、高坂陣内左衛門と言います」
「家内から話だけは。失礼ですが、お勤めはどちらに?」
「お父さん!」
「失礼しました。私、人材派遣の株式会社タソガレドキ、人事部に在籍しております」
名刺を出して差し出せば彼はそれを受け取り、社名を確かめる。かと思えば携帯を取り出し耳に当てた。だから言ったのに、左近のつぶやきに首を傾げる。
「……ああ、内藤くん?派遣のさ、そう。タソガレドキから来てる子みんなお断りしておいてくれる?うん、今日限りで」
「えっ!?」
「何か言われたら私に回して。じゃあよろしく」
「ちょっ、あの」
「今まで証拠がなかったんだけど、これで忍者絡みの会社だと確定したからね」
携帯をしまった川西は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「に、忍者とは?」
「左近とお付き合いしてるんだから忍者だろう?」
「あ……あの……」
「左近を送ってくれてありがとう。左近、きちんとお礼を言うんだよ」
「はぁーい」
家に入っていく父親を見送る左近は演技がかった返事をした。玄関のドアがしまり、呆然と立ち尽くす高坂を見上げる。
「だからやめた方がいいって言ったのに」
「……今……何が……」
「痛くもない腹を探られるのは不愉快なんですって。わざと一度中に入れてから判断するのがお父さんの趣味みたいなもので、お陰で人の入れ替わりが多くて病院大変ですよ」
「……今……えっ!?契約切られた!?」
「はい。容赦なく」
「なっ……なんでこうなると教えてくれなかったんだ!」
「お父さんの前で言えるわけないじゃないですか」
「ちょっ、ヤバい!」
高坂はばたばたと携帯を取り出し、焦る手つきで上司に電話をかける。その横で左近があ、と声を上げ、指で示されるままに振り返ると、――レッカー車。
「えっ、早っ!?え!?」
『高坂、どうした。今日は休みだろう』
「や、山本さん、今あの」
「車行っちゃいますよ」
「ま、待って」
『高坂?』
「レッカー車って初めて見ました。すごーい」
「あっ、あー!」
――後日、あんなに取り乱した高坂さんを見たのは初めてでした、と、左近は楽しげに言ったのだった。
*
「たいっへん申し訳ございません」
高坂は床に額を押しつけて、心の底から謝罪した。さすがの雑渡もいつものようにふざけることはなく、電話の相手に謝罪をしている。ひと段落ついて受話器を置いてから床に這いつくばるような高坂を見て、雑渡は深い溜息をついた。
「お前、何したの」
「名乗っただけです」
「元々試されてたわけね。まあなったものは仕方ない、あとで川西総合病院に直接行くからついておいで」
「申し訳ございません!」
「本人が出てくれるといいけど」
「申し訳ございません……」
床に伏せたまま、高坂はこのまま消えてしまいたかった。自分が消えてどうにかなるのならそれでいい。しかし事態はそう簡単ではなかった。
「山本」
「はい。資料を用意しておきます」
「そうして。全部話していくしかないだろうからねぇ。あそこの病院には後ろめたいことは何にもないから、切られちゃうと会社として困っちゃうよねぇ」
「重ね重ね、申し訳ごさまいません!」
「いいから這いつくばってないで電話の1本でも出て」
「はいっ!」
突然の契約解除にあちこちからクレームがきている。朝から鳴りやまない電話の中には関係のないいたずら電話もある。この大失態の責任をどうとればいいのかわからず、会社に駆けつけてから謝り続けている。左近にどうにかならないかと助言を求めたが、父の仕事の話ですから、とばっさり切り捨てられた。放心する高坂と別れてからさすがに心配はしてくれたのか、メールが届いたがどう返したか記憶が定かではない。
「陣左」
「はっ!」
立ち上がると雑渡の用意はできている。山本からいくつか必要な物を受け取り、ぎゅっと鞄を握った。
「……は〜、やだな〜、私仲人だってしたくないのに、何が悲しくて義理の親子の橋渡しを」
「くっ、組頭!」
「違うの?」
「あ……う……」
そうなるのだろうか。昨日見た左近の父親を思い出す。終始浮かべていた笑顔は、少なくとも怒っているようには見えなかった。まるで雑渡が飲み会を断るかのような気軽さにしか思えなかったが、あれはかわいい娘についた悪い虫への憤りを隠していたのだろうか。高坂は姉妹もなく、娘を持つ親の気持ちはわからない。しかしあれほどかわいい娘がいれば、そんな気持ちになるかもしれなかった。
川西総合病院まで足取りは重く、とはいえ、文明の利器である自動車は高坂の足取りに左右されずにアクセスを踏んだ分だけ道路を走る。いつもより速度を5キロほど落とした程度で、車は川を流れるように高坂たちを運んだ。
車を降りた左近の第一声に、高坂は焦って窓の外を見た。左近の家の前に車が止まり、そこからひとりの男性が降りてきたところだ。中肉中背、特に目立つところもない優しそうな男性だ。左近の父親となると黙って帰るわけにはいかない。高坂が車を降りようとすると、左近が慌てて止めた。
「でも、挨拶ぐらい」
「やめた方がいいです、絶対!」
「いずれご挨拶に伺うつもりなんだ。今日逃げるように帰って印象を悪くしたくないしね」
「変わらないと思いますけどぉ〜……」
気の進まない様子の左近を伴って道を渡る。家の前の父親は途中でふたりに気づいて待っていた。左近の父親、ということは、川西総合病院の院長だ。少し緊張しながら高坂は姿勢を正す。近づいていくと男はまず左近に顔を向けた。
「お帰り左近」
「ただいま。お父さん今日早かったんだね」
「予定が延期になってね。そちらは?」
「え〜っと」
「初めまして、高坂陣内左衛門と言います」
「家内から話だけは。失礼ですが、お勤めはどちらに?」
「お父さん!」
「失礼しました。私、人材派遣の株式会社タソガレドキ、人事部に在籍しております」
名刺を出して差し出せば彼はそれを受け取り、社名を確かめる。かと思えば携帯を取り出し耳に当てた。だから言ったのに、左近のつぶやきに首を傾げる。
「……ああ、内藤くん?派遣のさ、そう。タソガレドキから来てる子みんなお断りしておいてくれる?うん、今日限りで」
「えっ!?」
「何か言われたら私に回して。じゃあよろしく」
「ちょっ、あの」
「今まで証拠がなかったんだけど、これで忍者絡みの会社だと確定したからね」
携帯をしまった川西は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「に、忍者とは?」
「左近とお付き合いしてるんだから忍者だろう?」
「あ……あの……」
「左近を送ってくれてありがとう。左近、きちんとお礼を言うんだよ」
「はぁーい」
家に入っていく父親を見送る左近は演技がかった返事をした。玄関のドアがしまり、呆然と立ち尽くす高坂を見上げる。
「だからやめた方がいいって言ったのに」
「……今……何が……」
「痛くもない腹を探られるのは不愉快なんですって。わざと一度中に入れてから判断するのがお父さんの趣味みたいなもので、お陰で人の入れ替わりが多くて病院大変ですよ」
「……今……えっ!?契約切られた!?」
「はい。容赦なく」
「なっ……なんでこうなると教えてくれなかったんだ!」
「お父さんの前で言えるわけないじゃないですか」
「ちょっ、ヤバい!」
高坂はばたばたと携帯を取り出し、焦る手つきで上司に電話をかける。その横で左近があ、と声を上げ、指で示されるままに振り返ると、――レッカー車。
「えっ、早っ!?え!?」
『高坂、どうした。今日は休みだろう』
「や、山本さん、今あの」
「車行っちゃいますよ」
「ま、待って」
『高坂?』
「レッカー車って初めて見ました。すごーい」
「あっ、あー!」
――後日、あんなに取り乱した高坂さんを見たのは初めてでした、と、左近は楽しげに言ったのだった。
*
「たいっへん申し訳ございません」
高坂は床に額を押しつけて、心の底から謝罪した。さすがの雑渡もいつものようにふざけることはなく、電話の相手に謝罪をしている。ひと段落ついて受話器を置いてから床に這いつくばるような高坂を見て、雑渡は深い溜息をついた。
「お前、何したの」
「名乗っただけです」
「元々試されてたわけね。まあなったものは仕方ない、あとで川西総合病院に直接行くからついておいで」
「申し訳ございません!」
「本人が出てくれるといいけど」
「申し訳ございません……」
床に伏せたまま、高坂はこのまま消えてしまいたかった。自分が消えてどうにかなるのならそれでいい。しかし事態はそう簡単ではなかった。
「山本」
「はい。資料を用意しておきます」
「そうして。全部話していくしかないだろうからねぇ。あそこの病院には後ろめたいことは何にもないから、切られちゃうと会社として困っちゃうよねぇ」
「重ね重ね、申し訳ごさまいません!」
「いいから這いつくばってないで電話の1本でも出て」
「はいっ!」
突然の契約解除にあちこちからクレームがきている。朝から鳴りやまない電話の中には関係のないいたずら電話もある。この大失態の責任をどうとればいいのかわからず、会社に駆けつけてから謝り続けている。左近にどうにかならないかと助言を求めたが、父の仕事の話ですから、とばっさり切り捨てられた。放心する高坂と別れてからさすがに心配はしてくれたのか、メールが届いたがどう返したか記憶が定かではない。
「陣左」
「はっ!」
立ち上がると雑渡の用意はできている。山本からいくつか必要な物を受け取り、ぎゅっと鞄を握った。
「……は〜、やだな〜、私仲人だってしたくないのに、何が悲しくて義理の親子の橋渡しを」
「くっ、組頭!」
「違うの?」
「あ……う……」
そうなるのだろうか。昨日見た左近の父親を思い出す。終始浮かべていた笑顔は、少なくとも怒っているようには見えなかった。まるで雑渡が飲み会を断るかのような気軽さにしか思えなかったが、あれはかわいい娘についた悪い虫への憤りを隠していたのだろうか。高坂は姉妹もなく、娘を持つ親の気持ちはわからない。しかしあれほどかわいい娘がいれば、そんな気持ちになるかもしれなかった。
川西総合病院まで足取りは重く、とはいえ、文明の利器である自動車は高坂の足取りに左右されずにアクセスを踏んだ分だけ道路を走る。いつもより速度を5キロほど落とした程度で、車は川を流れるように高坂たちを運んだ。
2013'12.27.Fri
「大あくび」
指摘されて左近は慌てて口を塞いだ。笑いながら隣に座った待ち合わせの相手は、そんな左近の様子を喜んでいるかのようである。
「男の前でそんなに気を抜いて大丈夫?こわぁいダーリンがいるじゃない」
「男?どこに?」
「……」
待ち合わせ相手、山崎は己を見る。清潔なブラウスにジャケット、深くスリットの入ったタイトスカート。化粧は少しきつめだが乱れはない。左近の言葉を受け、ずず、と音を立ててコーヒーをすする姿は、ひどく不満げである。
「……君の関係者で、三十路を迎えてもなお女装を強いられる気の毒な人はいるかい」
「いませんね」
「俺どう思うっ!?」
「普段よりそっちの方がいいですよ」
「……そう……」
がくりと肩を落としながらも、山崎は足を組む。ガラスの向こうを歩くサラリーマンが一瞬こちらを注視した。コーヒーショップの、窓に沿ったカウンター。こんな格好で来ると知っていれば、窓側に座らなかったのに、と左近は後悔していた。
ちょっと許して、とハイヒールを脱いで落とす彼は、馴染みのある仕事相手だ。敵か味方かを問われれば「敵ではない」、と答える他ない関係だが、彼に限らず関わるのはいつもそんな相手ばかりだった。いつ誰が敵に回るのかわからないのがこの業界である。もっとも、山崎たちが敵に回ったことはない。敵視はされども、迷惑をかけたこともないのだ。
「それより珍しいね、時間変えてくれなんて。おまけに大あくび」
「友達と遊んでたらなりゆきでオールになって」
「まぁあの人ねちっこそうだよね」
「……」
「激しいってよりしつこいでしょ?絶対むっつりスケベだよ。なぁに?朝まで離してくれなかァッイター!」
反射的に脚を蹴ると、山崎はほとんど椅子から落ちそうになる。大声で視線を集めたことに慌てて座り直すが、キッと左近を睨んだ。
「ちょっと!何すんの!」
「セクハラ!」
「はぁ?」
「山崎さんおっさん臭くなったね!」
「え?臭う?」
「そうじゃなくて!」
「あのねぇ、いつから君の相手してると思ってんの。鼻垂らしが飛ぶようにレディになるまでの時間で、俺はゆっくりおっさんになってるんだよ」
「訂正。初めて会ったときからおっさんだった」
「で?」
「何?」
「無事に高坂さんのものになったってのろけにきたわけじゃないでしょーが」
「……おっさんだよ」
左近は鞄から小さな包みを出した。ラッピングされてはいるがそれはただのフェイクで、中身はそんなにいいものではない。山崎は笑ってそれを受け取り、中を改める。確認が終われば、確かに、とジャケットの内ポケットにしまった。代わりに違うものを取り出し、左近に差し出す。それは予定にないもので、左近は首を傾げた。
「優しいおじちゃんからのお誕生日プレゼントだよ〜」
「えっ」
「あげる。きれいになったから、きっと似合うよ」
「……きしょい」
「こら!かっこよかったでしょ!」
「でももらえるものはもらっておいてあげます」
素直にそれを受け取った。包装もされていないそれは、広告を見かけて少し気になっていたグロスだ。学生が手を出すにはややためらうようなブランドだったが、くれると言うのだから断る理由はない。山崎は交換条件で何かを要求するような男ではないし、何かあったとしてそれを飲むつもりもなかった。
「それねぇ!発色めっちゃいいよ!保ちもいいし。自分の探しに行ってたんだけどこれ絶対左近さんに似合うなと思ってさぁ!超オススメ!」
「……山崎さん」
「……あ」
「もう女になっちゃえば?」
「うう……おっさん化が進むにつれ女子力も上がっていく……」
「目は肥えますからねえ」
「そーなんだよねぇ。女の子見かけても最近じゃ乳だの尻だのより先に化粧とか服に目が行っちゃって。結婚できるかなぁ」
「ホモが何言ってんだか」
「……」
「しかもドM」
「ドMじゃないよ!今度こそ別れる!あの人とは清く正しい上司と部下の関係に戻るんだからっ!」
「オフィス街ってわかっててその言い回し?」
「一緒にいても仕事!仕事!仕事!アタシと仕事とどっちが大切なのよ!」
「仕事なんでしょ」
「アタシはあの人のおもちゃじゃないのよ!」
「……」
「……はぁ」
「……気が済みました?」
「伊作くんなら乗ってくれるのにぃ」
「あいにくぼくは川西左近なので」
用事は済んだ。受け取った物を確かに鞄にしまい、左近は立ち上がる。飲みかけのカフェオレを手にすると山崎もパンプスを履き直した。ぴんと背を伸ばすと顔つきまで変わり、どこから見てもキャリアウーマンだ。その徹底的な様子に左近は顔をひきつらせる。伝子さんと気が合いそうだな、と思う。
「それではまた、ご贔屓に」
「どーも、DV彼氏さんにもよろしくお伝え下さい」
「こちらこそ、……と、こっちは不要かな」
山崎が窓の外に視線をやってにやりと笑う。それをたどれば、山崎が見ているのは黒いスーツの男性だ。ひくり、と左近は顔を引きつらせる。出かける先は伝えていなかったのに。
「であ左近さん、楽しい蜜月を!」
指摘されて左近は慌てて口を塞いだ。笑いながら隣に座った待ち合わせの相手は、そんな左近の様子を喜んでいるかのようである。
「男の前でそんなに気を抜いて大丈夫?こわぁいダーリンがいるじゃない」
「男?どこに?」
「……」
待ち合わせ相手、山崎は己を見る。清潔なブラウスにジャケット、深くスリットの入ったタイトスカート。化粧は少しきつめだが乱れはない。左近の言葉を受け、ずず、と音を立ててコーヒーをすする姿は、ひどく不満げである。
「……君の関係者で、三十路を迎えてもなお女装を強いられる気の毒な人はいるかい」
「いませんね」
「俺どう思うっ!?」
「普段よりそっちの方がいいですよ」
「……そう……」
がくりと肩を落としながらも、山崎は足を組む。ガラスの向こうを歩くサラリーマンが一瞬こちらを注視した。コーヒーショップの、窓に沿ったカウンター。こんな格好で来ると知っていれば、窓側に座らなかったのに、と左近は後悔していた。
ちょっと許して、とハイヒールを脱いで落とす彼は、馴染みのある仕事相手だ。敵か味方かを問われれば「敵ではない」、と答える他ない関係だが、彼に限らず関わるのはいつもそんな相手ばかりだった。いつ誰が敵に回るのかわからないのがこの業界である。もっとも、山崎たちが敵に回ったことはない。敵視はされども、迷惑をかけたこともないのだ。
「それより珍しいね、時間変えてくれなんて。おまけに大あくび」
「友達と遊んでたらなりゆきでオールになって」
「まぁあの人ねちっこそうだよね」
「……」
「激しいってよりしつこいでしょ?絶対むっつりスケベだよ。なぁに?朝まで離してくれなかァッイター!」
反射的に脚を蹴ると、山崎はほとんど椅子から落ちそうになる。大声で視線を集めたことに慌てて座り直すが、キッと左近を睨んだ。
「ちょっと!何すんの!」
「セクハラ!」
「はぁ?」
「山崎さんおっさん臭くなったね!」
「え?臭う?」
「そうじゃなくて!」
「あのねぇ、いつから君の相手してると思ってんの。鼻垂らしが飛ぶようにレディになるまでの時間で、俺はゆっくりおっさんになってるんだよ」
「訂正。初めて会ったときからおっさんだった」
「で?」
「何?」
「無事に高坂さんのものになったってのろけにきたわけじゃないでしょーが」
「……おっさんだよ」
左近は鞄から小さな包みを出した。ラッピングされてはいるがそれはただのフェイクで、中身はそんなにいいものではない。山崎は笑ってそれを受け取り、中を改める。確認が終われば、確かに、とジャケットの内ポケットにしまった。代わりに違うものを取り出し、左近に差し出す。それは予定にないもので、左近は首を傾げた。
「優しいおじちゃんからのお誕生日プレゼントだよ〜」
「えっ」
「あげる。きれいになったから、きっと似合うよ」
「……きしょい」
「こら!かっこよかったでしょ!」
「でももらえるものはもらっておいてあげます」
素直にそれを受け取った。包装もされていないそれは、広告を見かけて少し気になっていたグロスだ。学生が手を出すにはややためらうようなブランドだったが、くれると言うのだから断る理由はない。山崎は交換条件で何かを要求するような男ではないし、何かあったとしてそれを飲むつもりもなかった。
「それねぇ!発色めっちゃいいよ!保ちもいいし。自分の探しに行ってたんだけどこれ絶対左近さんに似合うなと思ってさぁ!超オススメ!」
「……山崎さん」
「……あ」
「もう女になっちゃえば?」
「うう……おっさん化が進むにつれ女子力も上がっていく……」
「目は肥えますからねえ」
「そーなんだよねぇ。女の子見かけても最近じゃ乳だの尻だのより先に化粧とか服に目が行っちゃって。結婚できるかなぁ」
「ホモが何言ってんだか」
「……」
「しかもドM」
「ドMじゃないよ!今度こそ別れる!あの人とは清く正しい上司と部下の関係に戻るんだからっ!」
「オフィス街ってわかっててその言い回し?」
「一緒にいても仕事!仕事!仕事!アタシと仕事とどっちが大切なのよ!」
「仕事なんでしょ」
「アタシはあの人のおもちゃじゃないのよ!」
「……」
「……はぁ」
「……気が済みました?」
「伊作くんなら乗ってくれるのにぃ」
「あいにくぼくは川西左近なので」
用事は済んだ。受け取った物を確かに鞄にしまい、左近は立ち上がる。飲みかけのカフェオレを手にすると山崎もパンプスを履き直した。ぴんと背を伸ばすと顔つきまで変わり、どこから見てもキャリアウーマンだ。その徹底的な様子に左近は顔をひきつらせる。伝子さんと気が合いそうだな、と思う。
「それではまた、ご贔屓に」
「どーも、DV彼氏さんにもよろしくお伝え下さい」
「こちらこそ、……と、こっちは不要かな」
山崎が窓の外に視線をやってにやりと笑う。それをたどれば、山崎が見ているのは黒いスーツの男性だ。ひくり、と左近は顔を引きつらせる。出かける先は伝えていなかったのに。
「であ左近さん、楽しい蜜月を!」
2013'12.27.Fri
さてと。
コーヒーショップを出た斉藤タカ丸は大きく伸びをする。チラシの入った紙袋を揺らして歩き出した。気持ちのいい快晴だ、今日はいい出会いがある気がする。タカ丸の父は美容師だ。カリスマと呼ばれる父の元で、中学を卒業してからずっと美容師の修行を続けている。今はまだ資格もないので客を取ることはできない。今自分にできることは少なかった。だからこそ、できることは積極的に。店のチラシを手に街へ出るのはほとんど日課となっていた。
適度な風が心地よく、誘われるように風上に目をやった。その瞬間、タカ丸の目は彼女たちに釘づけになる。――きっとそれは運命だ。
雑踏の中を歩くその3人は、それぞれ三様に美しい。可憐で、しかしその瞳に宿した意志の強さはまるでよけいなものを拒絶するかのように外界を睨んでいた。あれを、知っている。タカ丸はこちらへ向かって歩いてくる彼女たちを見つめて立ち尽くした。
「滝夜叉丸、クレープ食べたい」
「喜八郎……お前さっきまでアルションのケーキって言ってただろう」
「さっきの人見たら食べたくなった」
「滝夜叉丸がこの間言ってた、新しくできたお店は?」
「クリスピードーナツ?」
「違う、ヨーグルトだっけ」
「ああ……あそこはまだ若干並んでるぞ。喜八郎がいないときに行こう」
「何それ」
「喜八郎は大人しく待てないだろ」
「いいもん、立花先輩と行くから。今日はクレープ!クレープにしよう!」
「わかったから……三木ヱ門もそれでいいか?」
「いいよ。どこの?」
「あっちのクレープリーか、ちょっと歩いたところにココリコもある」
「ゲーセンの近くにもなかった?」
「あそこはいまいちだ」
「さっすが、食い道楽委員」
「違う!」
「滝夜叉丸のおすすめは?」
「店内で食べたいならクレープリーだな。食べ歩きか?」
「潮江先輩に見つかったら怒られる」
「じゃああっちに」
「あのっ!」
無視を覚悟で声をかけた瞬間、3人はぴたりと足を止めた。ばっと振り返ったのは両側のふたりで、タカ丸を認めて口角を上げた。
「この美しい私に何かご用ですか?」
「この可憐な私に何かご用ですか?」
「……え、と……」
見事なユニゾンに、どちらがどちらのセリフを言ったのかわからなかった。セリフが被ったことがわかった瞬間彼女たちは互いを睨み、彼は私に声をかけたのだ、いいや私だと言い合いを始める。真ん中の彼女だけが冷静にふたりの間を抜け、何か、と訪ねてきた。しばしその無感情な瞳に見とれた後はっとして、慌ててチラシを差し出した。
「あの!カットモデルやりませんか!」
「間に合ってます」
ためらいもせずに断られ、しかしタカ丸とて今回ばかりは引けなかった。彼女たちを逃がしてはいけない。タカ丸の魂が叫ぶ。
しかし彼女の柔らかそうな髪を見て、これ以上どう引き留めればいいのか考える。ふわりと空気を含んだ髪は丁寧に手入れをされていることがよくわかる。化粧っけはないが肌もきれいだ。これほど完璧なら、カットモデルなどして他人の手を入れられたくはないだろう。睨み合っていたふたりもカットモデルと聞いたとたん興味をなくしたのか、ひとりだけがまあ私の髪は美しいから触りたくなるのも無理はない、などとぐだぐだ続けている。
「いやでも、」
「私たち写真が残るようなことはできないんです」
「へ?」
トパーズの髪を揺らしてひとりが割り込んだ。くるりと上がったまつげが美しい。よく見ればつけまつげだとわかるが、かなり巧みに馴染ませてある。
「あ、タレントさんか何かですか」
「いえ、学生です」
「だ、大丈夫だよ!写真は記録のために残すかもしれないけど、許可なく掲載したりはしないし!」
「だめなんです。ごめんなさい」
「わかった、じゃあ写真は撮らない!1回だけでも、ううん、もう切らないし、うちの美容院に来てくれるだけでもいいから!」
「カットモデルを探しているんでしょう?私たちは無理ですが、そこまで必要なら友人を紹介しますよ」
誰も相手にしないので口上をやめた彼女も加わってきた。黒髪が美しい。アイシャドウのグラデーションも自然で、きっと手間のかかっているだろう、陶器のような美しい肌だ。
「違うんだ、他の人じゃだめなんだ。僕は君たちが」
「あ」
真ん中の子がくるりと目の色を変えた。まじまじとタカ丸を見つめてきて、どきりと胸が鳴る。無遠慮なほど近いのに嫌な気がしない。それどころか懐かしさすら感じた。これは何だろうか。
「どうした喜八郎」
「好みか?行ってくるか?」
「三木と一緒にしないでくれる。……会ったこと、あります?」
「えっ!?あ、いや、初めて……だと思う。でも、会ったことあるような気がするんだ」
「ふぅん……そっか。つまんないや」
そう言いながら彼女はタカ丸の手からチラシを引き抜く。それを鞄にねじ込み、両側ふたりの手を取った。
「ふたりとも行こう、スコーン」
「だからクレープだろ?」
「じゃあ明日!」
「明日は委員会」
「私もだ」
「あー、でもコールドストーンも行きたい。アイスもいいなぁ」
「喜八郎、決めてくれ」
「あっ、あのぅ!」
ぱっと喜八郎と呼ばれた子が振り返る。姿はすぐに雑踏に消えたが、その前にタカ丸の耳には確かにその声が届いていた。
『またね』
それは、どういう意味だろうか。チラシを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。しかしタカ丸も、これを最後にする気はなかった。絶対に見逃してはいけない出会いだと、頭の中で鳴り響く。きっとこの日タカ丸の運命は大きく変わるのだ。ぐっと顔を上げ、店へ走り出す。――手がかりは、あの制服。白いスカーフのセーラー服、学生鞄は指定がなさそうだった。よく見かける制服だから、遠くではないだろう。地理にも詳しそうだった。
「ただいまっ!」
「あ〜ん、タカ丸くんお帰りなさいっ」
父親の助手がタカ丸の腕に絡みついてくる。たまたま店には客がいない。今日は父親が休みなので予約が少ないのだ。ユミさん、その手を振り払って向かい合う。
「この辺りでセーラー服の制服の学校ってどこがある!?」
「何?いい子いた?」
「スカーフは白だったんだけど」
「ああ、じゃあ大川学園だね」
掃除をしていた美容師が近づいてきた。走って乱れたタカ丸の髪を直しながら、ほら、あそこの私立の、と続ける。
「でかい学校だよ。惚れたの?あそこの子、1度断られたら絶対受けてくれないよ。厳しいおうちの子多いみたい」
「大川学園……」
タカ丸でも名前を知っている。常連客の中にも大川学園の生徒がいたはずだ。中高一貫校で、敷地の広さはけた違いだと聞いたことがある。彼女たちはおそらく高等部の生徒だろう。美しい少女たちを思い、ぐっと拳を握る。これまでにない感覚だった。――知りたい。彼女たちのことを知りたい。あの中に自分のポジションがあるのだと、なぜか疑わなかった。
「……ユミさん!俺明日休みにして!他の日出るから!」
「え?いいけど、どうしたの?休みの日でも出てくる君が」
「……見つけないと、後悔する気がするんだ」
*
絶対に彼女たちを見つけてみせる。――そう決意して次の日、タカ丸は大川学園の校門前で立ち尽くしていた。そこには生徒の姿はない。ああ、身に付いたサービス業。――今日は土曜日じゃないか。まばらに生徒の姿があるにはあるが、おそらく部活動の生徒だろう。がっくりと肩を落として帰りかけ、顔を上げた。昨日彼女たちは、委員会がある、と言っていなかっただろうか。委員会と言えば学校の中の所属だ。ならば学園内にいるはずだ。生徒の姿が途切れたのを見計らい、こっそりと校門をくぐる。見つかったら間違いなく不審者だ。今までどんなきれいな髪の子を見かけても、こんなことをしたことがない。自分の中から湧き上がる衝動がなんなのかわからないが、じっとしていられなかった。せめて、と持ったお土産を手に、できるだけ堂々と校舎へ向かう。タカ丸が通っていた公立中学とはかけ離れた立派な建物に後込みしながらも、昇降口まで着いたその瞬間。
「サインを!」
「うひゃあっ」
背後から肩を叩かれて飛び上がった。慌てて言い訳を頭の中に連ね、振り返ると若い男がノートを突き出している。
「入門表にサイン下さぁい!」
「へ?」
「校門脇に書いてたでしょ、校内に入る方は入門表にサインして下さいって」
「あの……」
「ほら」
「はぁ……」
無理やりペンを持たされ、タカ丸は仕方なく名前の欄にサインをする。備考欄が隣にあるが、タカ丸以前の記入もそこは空欄のままだ。
「はい、確かに」
「あの……理由なんかは?」
「理由?いつも特に聞いてませんから結構ですよ」
「はぁ……」
そんなものなのだろうか。先生ですか、と訪ねると、ただの用務員です、とノートを小脇に抱える。危機感のない用務員はどこか親しみがあり、憎めない。いや、――まただ。自分はこの人を知っている。
「ではごゆっくり。あ、帰りもサインして下さいね!」
「あっ、あのっ!」
「何か?」
「きょ……今日、活動してる委員会ってありますか?」
「委員会ですか?そうですねぇ、さっき裏庭で体育委員会と生物委員会が戦ってたけど」
「たたか……!?」
「あ、ということは保健委員会も待機してるんじゃないかなぁ」
裏庭ならあっちから回るといいですよ、指で示された方を見る。校舎の脇から回り込んで行けるのだろう。人影もなく静かだが、なぜかぞくりと鳥肌が立つ。行くなら気をつけて下さいね、不穏な言葉を残して用務員は立ち去った。
――あそこを曲がると、何があるのだろう。手にかいた汗をパンツで拭う。この血がざわめくような感覚。引きずるように足を動かす。砂の鳴る音が妙に耳に残った。後悔はしないか?それでもタカ丸は拳を握り、校舎の向こう側へ回り込む。その途端視界は木々であふれた。さっきまでとは別世界の視界に、ここは森か山かとたたらを踏む。振り返ると確かに学校だ。こんなところで委員会活動?さっきの間抜けそうな用務員は何か勘違いをしているのではないだろうか。戻ろうとしたとき、生徒らしい数人の人影が目に映る。
「てぇい!」
「ほい」
「ックソ!」
キィン、と高い金属音。何かをはじき返した少年は次の瞬間にはその場にいない。その向こうにいた男は舌打ちをして一歩引く。焦ったように振り返った先にはセーラー服の少女がいて、笑顔を浮かべて上の方を指さした。
「竹谷先輩、あれ切って下さい」
「……三治郎、隠れててくれ」
「だって守られてるだけだなんてルールじゃないでしょ?」
「……怪我人出さないでくれよ〜」
近くの木を足場に男は飛びながら、手の中のものを振り切った。何が起きたのかわからなかったが、奥の方で悲鳴が聞こえる。
「金吾が落ちたっ」
「次屋が突き飛ばしたんだろうがっ!あっ、七松先輩!」
「竹谷ァ!」
「ぎゃああああ!」
奥から飛び出してきた塊が一瞬にして竹谷を捕らえる。転がるように視界から消えていき、はらはらするタカ丸の目には別の少女が映る。ポニーテールの髪がふわりと風に揺れた。のんびりとしているようにも見える無表情、但し口元はきりりと結んでいる。身軽に地を蹴って三治郎へ向かっていき、焦って逃げ出した彼女との間にまた別の男が割り込む。止まりかけた少女の腕を捕まえて、反動をそのままに投げ飛ばした。少女の体は軽く飛ばされ、――タカ丸の方へ向かってくる。
「わっ!」
「えっ?」
声に驚いた彼女がタカ丸に気づいたときにはもう遅く、着地点を失った彼女はタカ丸の上へ落ちてきた。受け止めきれずにその場にひっくり返り、頭に衝撃が走る。――そこでタカ丸の意識は途切れた。
*
強く、投げ飛ばされた記憶が戻ってきた。受け身をとる間もない早さで地面に叩きつけられ、あのときは確かあばらを折ったはずだ。すう、とすくい上げられるように意識が浮上し、目を開けたタカ丸ははっとして体を起こす。見下ろした両腕は傷ひとつなく、指も問題なく動く。ほっと息を吐いて胸をなで下ろした。
「起きた」
「え?」
ようやく周りに意識を向ければ、タカ丸のそばにはセーラー服の少女が立っていた。それは昨日調べた、大川学園のもので間違いない。体を屈めてタカ丸の額に手を当てる彼女の、ポニーテールがさらりと落ちた。どうやら自分はベッドの上にいるらしい、と初めて気づく。少し意地悪そうにとがった唇が、相変わらずだな、と小さく零した。
「え?」
「どこか痛いところはありますか?」
「え、えーと」
「目覚めたか」
カーテンの向こうから男性が顔を出した。その見覚えのある顔に、タカ丸は安心して力を抜いた。
「土井先生」
つぶやいてからはっとすた。――誰だ?混乱する頭を抱えて自問する。改めて見れば彼は知らない男性だ。似た人も知らないし、常連客なら覚えている。タカ丸の様子に彼らは顔を見合わせ、少女はそっと水を差し出した。ゆっくり飲んで、の言葉に従い、コップを受け取ってよく冷えた水を口に含む。体まですうっと冷えるようで、少し頭が軽くなった。
「落ち着いた?」
「はい……」
「よかった。すまなかったね、うちの生徒の活動に巻き込んでしまったようで。見た限り怪我はないようだが、痛いところはあるかい」
「いえ、大丈夫です……多分」
「まあ受け身は取れてたみたいだから」
「はぁ……」
「何か用があって来たのかな?」
男の笑顔にまた考え込む。やはり、……知っている。この笑顔を、声を。タカ丸の様子に彼も困ったように笑って、無理に考えなくていい、と優しく言った。
「左近、他の子は?」
「しろべえはテンパってたので次屋先輩が連れていきました。生物はみんな帰りました。というか帰しました」
「わかった。君、名前は?」
「あ……斎藤タカ丸です……」
「私は土井、ここの教師だ。今日は送るから帰りなさい」
「はぁ……」
納得がいかないまま生返事をする。そのときカーテンの向こうが騒がしくなり、誰かが制止を振りきったらしい。ジャッと大きくカーテンが開かれ、そこには顔を土で汚した少女が立っていた。保健室にシャベル持ち込まないで下さいよ!左近が彼女を睨む。Tシャツにジャージ、髪は適当にまとめられているが、昨日出会った少女に間違いない。「またね」と言った、あの少女。はっとしたタカ丸に近づいてきて、じっと顔をのぞき込んでくる。その丸い瞳に見つめられていると視界がちかちかした。くらりとよろけたタカ丸を彼女が支える。
「綾部」
「だってもう思い出しかけてますよ。かさぶたってはがしたくなりません?」
「やめなさい」
たしなめる土井の声が遠くなる。頭を抱えたタカ丸の脳裏には自分が知らないはずの、知っている光景が次々と浮かんでは消えていった。誰かの髷を結う自分、幼い少年に手を貸されて立ち上がり、雨の中を走る。目の前で繰り広げられる戦い。目が回る。呆れた顔の友人たち、それは、忍装束だった。
「あやべくん」
口をついて出た言葉に自分で驚く。しかし自分はやはり、知っているのだ。彼女――否、『彼』を。
「綾部喜八郎くん」
名を呼ばれた『彼』は瞬きをして、ほらごらんなさい、と土井を振り返る。土井は大きく溜息をつき、頭を抱えた。
「綾部くん」
「なんですか、タカ丸さん」
「ッ……」
ぎゅうっと胸が苦しくなり、視界が一気に涙に沈む。泣き出したタカ丸を、綾部は黙って抱きしめた。やわらかい感触は知らないものだったが、この体温には覚えがある。
「綾部くん」
「はいはい、綾部きはちろーですよ」
何も言葉にならない。一気によみがえる記憶はタカ丸の全身を巡り、それは痛みにも近い感覚でタカ丸を襲う。優しいぬくもりに包まれて、止まらない涙をこぼし続けた。――どうして忘れていたのだろう。こんなに大切な人たちなのに。
「滝夜叉丸も三木ヱ門も、みんないるんだよ。また4人で遊べるね」
*
「落ち着いたかい」
「はい……すみません」
左近の入れてくれたお茶をすすりながら、タカ丸は笑ってみせる。ぎこちないものだっただろうが、土井も苦笑を返した。ほどよく冷房の効いたこの部屋は、大川学園の保健室だ。――大川。今ならその名も思い出せる。大川平次渦正。それはかつて自分が学んだ、忍術学園の学園長の名だ。
コーヒーショップを出た斉藤タカ丸は大きく伸びをする。チラシの入った紙袋を揺らして歩き出した。気持ちのいい快晴だ、今日はいい出会いがある気がする。タカ丸の父は美容師だ。カリスマと呼ばれる父の元で、中学を卒業してからずっと美容師の修行を続けている。今はまだ資格もないので客を取ることはできない。今自分にできることは少なかった。だからこそ、できることは積極的に。店のチラシを手に街へ出るのはほとんど日課となっていた。
適度な風が心地よく、誘われるように風上に目をやった。その瞬間、タカ丸の目は彼女たちに釘づけになる。――きっとそれは運命だ。
雑踏の中を歩くその3人は、それぞれ三様に美しい。可憐で、しかしその瞳に宿した意志の強さはまるでよけいなものを拒絶するかのように外界を睨んでいた。あれを、知っている。タカ丸はこちらへ向かって歩いてくる彼女たちを見つめて立ち尽くした。
「滝夜叉丸、クレープ食べたい」
「喜八郎……お前さっきまでアルションのケーキって言ってただろう」
「さっきの人見たら食べたくなった」
「滝夜叉丸がこの間言ってた、新しくできたお店は?」
「クリスピードーナツ?」
「違う、ヨーグルトだっけ」
「ああ……あそこはまだ若干並んでるぞ。喜八郎がいないときに行こう」
「何それ」
「喜八郎は大人しく待てないだろ」
「いいもん、立花先輩と行くから。今日はクレープ!クレープにしよう!」
「わかったから……三木ヱ門もそれでいいか?」
「いいよ。どこの?」
「あっちのクレープリーか、ちょっと歩いたところにココリコもある」
「ゲーセンの近くにもなかった?」
「あそこはいまいちだ」
「さっすが、食い道楽委員」
「違う!」
「滝夜叉丸のおすすめは?」
「店内で食べたいならクレープリーだな。食べ歩きか?」
「潮江先輩に見つかったら怒られる」
「じゃああっちに」
「あのっ!」
無視を覚悟で声をかけた瞬間、3人はぴたりと足を止めた。ばっと振り返ったのは両側のふたりで、タカ丸を認めて口角を上げた。
「この美しい私に何かご用ですか?」
「この可憐な私に何かご用ですか?」
「……え、と……」
見事なユニゾンに、どちらがどちらのセリフを言ったのかわからなかった。セリフが被ったことがわかった瞬間彼女たちは互いを睨み、彼は私に声をかけたのだ、いいや私だと言い合いを始める。真ん中の彼女だけが冷静にふたりの間を抜け、何か、と訪ねてきた。しばしその無感情な瞳に見とれた後はっとして、慌ててチラシを差し出した。
「あの!カットモデルやりませんか!」
「間に合ってます」
ためらいもせずに断られ、しかしタカ丸とて今回ばかりは引けなかった。彼女たちを逃がしてはいけない。タカ丸の魂が叫ぶ。
しかし彼女の柔らかそうな髪を見て、これ以上どう引き留めればいいのか考える。ふわりと空気を含んだ髪は丁寧に手入れをされていることがよくわかる。化粧っけはないが肌もきれいだ。これほど完璧なら、カットモデルなどして他人の手を入れられたくはないだろう。睨み合っていたふたりもカットモデルと聞いたとたん興味をなくしたのか、ひとりだけがまあ私の髪は美しいから触りたくなるのも無理はない、などとぐだぐだ続けている。
「いやでも、」
「私たち写真が残るようなことはできないんです」
「へ?」
トパーズの髪を揺らしてひとりが割り込んだ。くるりと上がったまつげが美しい。よく見ればつけまつげだとわかるが、かなり巧みに馴染ませてある。
「あ、タレントさんか何かですか」
「いえ、学生です」
「だ、大丈夫だよ!写真は記録のために残すかもしれないけど、許可なく掲載したりはしないし!」
「だめなんです。ごめんなさい」
「わかった、じゃあ写真は撮らない!1回だけでも、ううん、もう切らないし、うちの美容院に来てくれるだけでもいいから!」
「カットモデルを探しているんでしょう?私たちは無理ですが、そこまで必要なら友人を紹介しますよ」
誰も相手にしないので口上をやめた彼女も加わってきた。黒髪が美しい。アイシャドウのグラデーションも自然で、きっと手間のかかっているだろう、陶器のような美しい肌だ。
「違うんだ、他の人じゃだめなんだ。僕は君たちが」
「あ」
真ん中の子がくるりと目の色を変えた。まじまじとタカ丸を見つめてきて、どきりと胸が鳴る。無遠慮なほど近いのに嫌な気がしない。それどころか懐かしさすら感じた。これは何だろうか。
「どうした喜八郎」
「好みか?行ってくるか?」
「三木と一緒にしないでくれる。……会ったこと、あります?」
「えっ!?あ、いや、初めて……だと思う。でも、会ったことあるような気がするんだ」
「ふぅん……そっか。つまんないや」
そう言いながら彼女はタカ丸の手からチラシを引き抜く。それを鞄にねじ込み、両側ふたりの手を取った。
「ふたりとも行こう、スコーン」
「だからクレープだろ?」
「じゃあ明日!」
「明日は委員会」
「私もだ」
「あー、でもコールドストーンも行きたい。アイスもいいなぁ」
「喜八郎、決めてくれ」
「あっ、あのぅ!」
ぱっと喜八郎と呼ばれた子が振り返る。姿はすぐに雑踏に消えたが、その前にタカ丸の耳には確かにその声が届いていた。
『またね』
それは、どういう意味だろうか。チラシを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。しかしタカ丸も、これを最後にする気はなかった。絶対に見逃してはいけない出会いだと、頭の中で鳴り響く。きっとこの日タカ丸の運命は大きく変わるのだ。ぐっと顔を上げ、店へ走り出す。――手がかりは、あの制服。白いスカーフのセーラー服、学生鞄は指定がなさそうだった。よく見かける制服だから、遠くではないだろう。地理にも詳しそうだった。
「ただいまっ!」
「あ〜ん、タカ丸くんお帰りなさいっ」
父親の助手がタカ丸の腕に絡みついてくる。たまたま店には客がいない。今日は父親が休みなので予約が少ないのだ。ユミさん、その手を振り払って向かい合う。
「この辺りでセーラー服の制服の学校ってどこがある!?」
「何?いい子いた?」
「スカーフは白だったんだけど」
「ああ、じゃあ大川学園だね」
掃除をしていた美容師が近づいてきた。走って乱れたタカ丸の髪を直しながら、ほら、あそこの私立の、と続ける。
「でかい学校だよ。惚れたの?あそこの子、1度断られたら絶対受けてくれないよ。厳しいおうちの子多いみたい」
「大川学園……」
タカ丸でも名前を知っている。常連客の中にも大川学園の生徒がいたはずだ。中高一貫校で、敷地の広さはけた違いだと聞いたことがある。彼女たちはおそらく高等部の生徒だろう。美しい少女たちを思い、ぐっと拳を握る。これまでにない感覚だった。――知りたい。彼女たちのことを知りたい。あの中に自分のポジションがあるのだと、なぜか疑わなかった。
「……ユミさん!俺明日休みにして!他の日出るから!」
「え?いいけど、どうしたの?休みの日でも出てくる君が」
「……見つけないと、後悔する気がするんだ」
*
絶対に彼女たちを見つけてみせる。――そう決意して次の日、タカ丸は大川学園の校門前で立ち尽くしていた。そこには生徒の姿はない。ああ、身に付いたサービス業。――今日は土曜日じゃないか。まばらに生徒の姿があるにはあるが、おそらく部活動の生徒だろう。がっくりと肩を落として帰りかけ、顔を上げた。昨日彼女たちは、委員会がある、と言っていなかっただろうか。委員会と言えば学校の中の所属だ。ならば学園内にいるはずだ。生徒の姿が途切れたのを見計らい、こっそりと校門をくぐる。見つかったら間違いなく不審者だ。今までどんなきれいな髪の子を見かけても、こんなことをしたことがない。自分の中から湧き上がる衝動がなんなのかわからないが、じっとしていられなかった。せめて、と持ったお土産を手に、できるだけ堂々と校舎へ向かう。タカ丸が通っていた公立中学とはかけ離れた立派な建物に後込みしながらも、昇降口まで着いたその瞬間。
「サインを!」
「うひゃあっ」
背後から肩を叩かれて飛び上がった。慌てて言い訳を頭の中に連ね、振り返ると若い男がノートを突き出している。
「入門表にサイン下さぁい!」
「へ?」
「校門脇に書いてたでしょ、校内に入る方は入門表にサインして下さいって」
「あの……」
「ほら」
「はぁ……」
無理やりペンを持たされ、タカ丸は仕方なく名前の欄にサインをする。備考欄が隣にあるが、タカ丸以前の記入もそこは空欄のままだ。
「はい、確かに」
「あの……理由なんかは?」
「理由?いつも特に聞いてませんから結構ですよ」
「はぁ……」
そんなものなのだろうか。先生ですか、と訪ねると、ただの用務員です、とノートを小脇に抱える。危機感のない用務員はどこか親しみがあり、憎めない。いや、――まただ。自分はこの人を知っている。
「ではごゆっくり。あ、帰りもサインして下さいね!」
「あっ、あのっ!」
「何か?」
「きょ……今日、活動してる委員会ってありますか?」
「委員会ですか?そうですねぇ、さっき裏庭で体育委員会と生物委員会が戦ってたけど」
「たたか……!?」
「あ、ということは保健委員会も待機してるんじゃないかなぁ」
裏庭ならあっちから回るといいですよ、指で示された方を見る。校舎の脇から回り込んで行けるのだろう。人影もなく静かだが、なぜかぞくりと鳥肌が立つ。行くなら気をつけて下さいね、不穏な言葉を残して用務員は立ち去った。
――あそこを曲がると、何があるのだろう。手にかいた汗をパンツで拭う。この血がざわめくような感覚。引きずるように足を動かす。砂の鳴る音が妙に耳に残った。後悔はしないか?それでもタカ丸は拳を握り、校舎の向こう側へ回り込む。その途端視界は木々であふれた。さっきまでとは別世界の視界に、ここは森か山かとたたらを踏む。振り返ると確かに学校だ。こんなところで委員会活動?さっきの間抜けそうな用務員は何か勘違いをしているのではないだろうか。戻ろうとしたとき、生徒らしい数人の人影が目に映る。
「てぇい!」
「ほい」
「ックソ!」
キィン、と高い金属音。何かをはじき返した少年は次の瞬間にはその場にいない。その向こうにいた男は舌打ちをして一歩引く。焦ったように振り返った先にはセーラー服の少女がいて、笑顔を浮かべて上の方を指さした。
「竹谷先輩、あれ切って下さい」
「……三治郎、隠れててくれ」
「だって守られてるだけだなんてルールじゃないでしょ?」
「……怪我人出さないでくれよ〜」
近くの木を足場に男は飛びながら、手の中のものを振り切った。何が起きたのかわからなかったが、奥の方で悲鳴が聞こえる。
「金吾が落ちたっ」
「次屋が突き飛ばしたんだろうがっ!あっ、七松先輩!」
「竹谷ァ!」
「ぎゃああああ!」
奥から飛び出してきた塊が一瞬にして竹谷を捕らえる。転がるように視界から消えていき、はらはらするタカ丸の目には別の少女が映る。ポニーテールの髪がふわりと風に揺れた。のんびりとしているようにも見える無表情、但し口元はきりりと結んでいる。身軽に地を蹴って三治郎へ向かっていき、焦って逃げ出した彼女との間にまた別の男が割り込む。止まりかけた少女の腕を捕まえて、反動をそのままに投げ飛ばした。少女の体は軽く飛ばされ、――タカ丸の方へ向かってくる。
「わっ!」
「えっ?」
声に驚いた彼女がタカ丸に気づいたときにはもう遅く、着地点を失った彼女はタカ丸の上へ落ちてきた。受け止めきれずにその場にひっくり返り、頭に衝撃が走る。――そこでタカ丸の意識は途切れた。
*
強く、投げ飛ばされた記憶が戻ってきた。受け身をとる間もない早さで地面に叩きつけられ、あのときは確かあばらを折ったはずだ。すう、とすくい上げられるように意識が浮上し、目を開けたタカ丸ははっとして体を起こす。見下ろした両腕は傷ひとつなく、指も問題なく動く。ほっと息を吐いて胸をなで下ろした。
「起きた」
「え?」
ようやく周りに意識を向ければ、タカ丸のそばにはセーラー服の少女が立っていた。それは昨日調べた、大川学園のもので間違いない。体を屈めてタカ丸の額に手を当てる彼女の、ポニーテールがさらりと落ちた。どうやら自分はベッドの上にいるらしい、と初めて気づく。少し意地悪そうにとがった唇が、相変わらずだな、と小さく零した。
「え?」
「どこか痛いところはありますか?」
「え、えーと」
「目覚めたか」
カーテンの向こうから男性が顔を出した。その見覚えのある顔に、タカ丸は安心して力を抜いた。
「土井先生」
つぶやいてからはっとすた。――誰だ?混乱する頭を抱えて自問する。改めて見れば彼は知らない男性だ。似た人も知らないし、常連客なら覚えている。タカ丸の様子に彼らは顔を見合わせ、少女はそっと水を差し出した。ゆっくり飲んで、の言葉に従い、コップを受け取ってよく冷えた水を口に含む。体まですうっと冷えるようで、少し頭が軽くなった。
「落ち着いた?」
「はい……」
「よかった。すまなかったね、うちの生徒の活動に巻き込んでしまったようで。見た限り怪我はないようだが、痛いところはあるかい」
「いえ、大丈夫です……多分」
「まあ受け身は取れてたみたいだから」
「はぁ……」
「何か用があって来たのかな?」
男の笑顔にまた考え込む。やはり、……知っている。この笑顔を、声を。タカ丸の様子に彼も困ったように笑って、無理に考えなくていい、と優しく言った。
「左近、他の子は?」
「しろべえはテンパってたので次屋先輩が連れていきました。生物はみんな帰りました。というか帰しました」
「わかった。君、名前は?」
「あ……斎藤タカ丸です……」
「私は土井、ここの教師だ。今日は送るから帰りなさい」
「はぁ……」
納得がいかないまま生返事をする。そのときカーテンの向こうが騒がしくなり、誰かが制止を振りきったらしい。ジャッと大きくカーテンが開かれ、そこには顔を土で汚した少女が立っていた。保健室にシャベル持ち込まないで下さいよ!左近が彼女を睨む。Tシャツにジャージ、髪は適当にまとめられているが、昨日出会った少女に間違いない。「またね」と言った、あの少女。はっとしたタカ丸に近づいてきて、じっと顔をのぞき込んでくる。その丸い瞳に見つめられていると視界がちかちかした。くらりとよろけたタカ丸を彼女が支える。
「綾部」
「だってもう思い出しかけてますよ。かさぶたってはがしたくなりません?」
「やめなさい」
たしなめる土井の声が遠くなる。頭を抱えたタカ丸の脳裏には自分が知らないはずの、知っている光景が次々と浮かんでは消えていった。誰かの髷を結う自分、幼い少年に手を貸されて立ち上がり、雨の中を走る。目の前で繰り広げられる戦い。目が回る。呆れた顔の友人たち、それは、忍装束だった。
「あやべくん」
口をついて出た言葉に自分で驚く。しかし自分はやはり、知っているのだ。彼女――否、『彼』を。
「綾部喜八郎くん」
名を呼ばれた『彼』は瞬きをして、ほらごらんなさい、と土井を振り返る。土井は大きく溜息をつき、頭を抱えた。
「綾部くん」
「なんですか、タカ丸さん」
「ッ……」
ぎゅうっと胸が苦しくなり、視界が一気に涙に沈む。泣き出したタカ丸を、綾部は黙って抱きしめた。やわらかい感触は知らないものだったが、この体温には覚えがある。
「綾部くん」
「はいはい、綾部きはちろーですよ」
何も言葉にならない。一気によみがえる記憶はタカ丸の全身を巡り、それは痛みにも近い感覚でタカ丸を襲う。優しいぬくもりに包まれて、止まらない涙をこぼし続けた。――どうして忘れていたのだろう。こんなに大切な人たちなのに。
「滝夜叉丸も三木ヱ門も、みんないるんだよ。また4人で遊べるね」
*
「落ち着いたかい」
「はい……すみません」
左近の入れてくれたお茶をすすりながら、タカ丸は笑ってみせる。ぎこちないものだっただろうが、土井も苦笑を返した。ほどよく冷房の効いたこの部屋は、大川学園の保健室だ。――大川。今ならその名も思い出せる。大川平次渦正。それはかつて自分が学んだ、忍術学園の学園長の名だ。
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