言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'09.15.Sun
パネル前の住人が<開>のボタンを押した。久々知はそれに軽く会釈してエレベーターを降りる。
「おやすみなさ〜い」
不意に声をかけられて振り返ると、見ず知らずのマンションの住人はへらへら笑って久々知に手を振った。派手な金髪の男は酔っているようだ。
「お休みなさい」
挨拶を返して久々知は歩き出す。金曜日の仕事終わりだというのに背筋をぴんと伸ばし、パンプスの音も高らかに部屋へ戻った。鍵をかけた瞬間、バッグを投げるように廊下に落としてジャケットを脱ぎ捨て、パンプスも脱ぎ散らかしながら大股で廊下を抜ける。髪をまとめていたコームを引き抜いて頭をかきながら、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。そのまま止まらず部屋を横切り、テレビの電源をつけてソファーに沈み込む。缶ビールを開けて一気にあおった。喉を鳴らして半分ほど流し込む。
「ッあー!今週もお疲れっしたぁ!」
誰もいない宙に勘を掲げ、久々知は更に深く身を沈めた。正面のローテーブルに一旦缶を置き、もぞもぞと背中に手を回して下着のホックを外す。スーツのスカートをたくし上げてストッキングもくしゃくしゃと丸めて脱いだ。テレビからはニュースが流れているが、横目で見るだけで聞き流している。改めてビールを手にして、久々知は深く息を吐いた。
――この開放感のために働いている。そう言っても過言ではないかもしれない。もう風呂も入らず寝てしまおうか、と思い、癖のついた髪を見て肩を落とした。明日は美容院の予約をしている。風呂に入ってしっかり髪の手入れをしなければ。手入れをするために美容院に行くのに手入れをするとは我ながら不毛だが、下さないプライドが許さない。強張った足の指を動かしてビールを口にする。
来年で30になる。母親はもう結婚しろと言うのを諦めた。ひとりで適度に貯金をしながら生活をしていく程度の収入はある。学生時代の友人のように寂しいから彼氏が欲しいと思うこともない。もう2年ほど相手はいないが、久々知の生活には特に支障がなかった。胸の辺りまで伸びた毛先を見る。切ろうか、と少し考えたが、結局いつものように整えるだけで終わるのだろう。いつものルーティーンのひとつだ。
「はぁ」
このまま眠ってしまいたい。どうせ出かけるのなら靴の修理も以降。ヒールがすぐにすり減るのだ。ついでにマッサージか岩盤浴に立ち寄るのもいい。季節の変わり目だからショッピングでも……
「いや、接待だ」
深く溜息をついて髪をかき上げる。何が悲しくて休みの日の夜にわざわざ飾って出かけ、酒の酌をしなくてはならないのだろう。
目の前でひらりと手を閃かせ、しばらく指先を見て考える。缶ビールを干して立ち上がり、脱ぎ捨てた下着類を掴んでブラウスのボタンを外しながら廊下を戻った。バッグから携帯を取り出し、バスルームの戸を開けながら友人に電話をかける。まだ起きているだろう。
「――あ、もしもし。明日、雷蔵空いてる時間ある?うん、ネイル。ううん、普段用でいいから。あ、あのさぁ、来月結婚式あるだろ、そう、その時の予約もさせてほしい。うん」
肩で携帯を支えてぽいぽいと服を脱ぎ捨てる。鏡を覗き込んで眉を寄せた。
「あと、まつげパーマの予約も。うん、もう駄目、あれ楽すぎて。うん、午前中は美容院なんだ、午後に。――4時ね、わかった。ありがとう――行きたい!行きたいけど明日の夜接待なんだ。な〜、しばらくお茶もしてないもんな〜」
戸を開け放ってシャワーをひねる。お湯が出るのを待っていると、電話の相手が笑うのがわかった。音が聞こえるのだろう。
「ありがと。おやすみ。うん、また明日」
ぱくんと携帯を閉じて、久々知は深呼吸をした。シャワーの温度は上がり、浴室には湯気が漂っている。
「ま、手間がかかるのはしょうがない」
それが女と言うものだ。
「おやすみなさ〜い」
不意に声をかけられて振り返ると、見ず知らずのマンションの住人はへらへら笑って久々知に手を振った。派手な金髪の男は酔っているようだ。
「お休みなさい」
挨拶を返して久々知は歩き出す。金曜日の仕事終わりだというのに背筋をぴんと伸ばし、パンプスの音も高らかに部屋へ戻った。鍵をかけた瞬間、バッグを投げるように廊下に落としてジャケットを脱ぎ捨て、パンプスも脱ぎ散らかしながら大股で廊下を抜ける。髪をまとめていたコームを引き抜いて頭をかきながら、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。そのまま止まらず部屋を横切り、テレビの電源をつけてソファーに沈み込む。缶ビールを開けて一気にあおった。喉を鳴らして半分ほど流し込む。
「ッあー!今週もお疲れっしたぁ!」
誰もいない宙に勘を掲げ、久々知は更に深く身を沈めた。正面のローテーブルに一旦缶を置き、もぞもぞと背中に手を回して下着のホックを外す。スーツのスカートをたくし上げてストッキングもくしゃくしゃと丸めて脱いだ。テレビからはニュースが流れているが、横目で見るだけで聞き流している。改めてビールを手にして、久々知は深く息を吐いた。
――この開放感のために働いている。そう言っても過言ではないかもしれない。もう風呂も入らず寝てしまおうか、と思い、癖のついた髪を見て肩を落とした。明日は美容院の予約をしている。風呂に入ってしっかり髪の手入れをしなければ。手入れをするために美容院に行くのに手入れをするとは我ながら不毛だが、下さないプライドが許さない。強張った足の指を動かしてビールを口にする。
来年で30になる。母親はもう結婚しろと言うのを諦めた。ひとりで適度に貯金をしながら生活をしていく程度の収入はある。学生時代の友人のように寂しいから彼氏が欲しいと思うこともない。もう2年ほど相手はいないが、久々知の生活には特に支障がなかった。胸の辺りまで伸びた毛先を見る。切ろうか、と少し考えたが、結局いつものように整えるだけで終わるのだろう。いつものルーティーンのひとつだ。
「はぁ」
このまま眠ってしまいたい。どうせ出かけるのなら靴の修理も以降。ヒールがすぐにすり減るのだ。ついでにマッサージか岩盤浴に立ち寄るのもいい。季節の変わり目だからショッピングでも……
「いや、接待だ」
深く溜息をついて髪をかき上げる。何が悲しくて休みの日の夜にわざわざ飾って出かけ、酒の酌をしなくてはならないのだろう。
目の前でひらりと手を閃かせ、しばらく指先を見て考える。缶ビールを干して立ち上がり、脱ぎ捨てた下着類を掴んでブラウスのボタンを外しながら廊下を戻った。バッグから携帯を取り出し、バスルームの戸を開けながら友人に電話をかける。まだ起きているだろう。
「――あ、もしもし。明日、雷蔵空いてる時間ある?うん、ネイル。ううん、普段用でいいから。あ、あのさぁ、来月結婚式あるだろ、そう、その時の予約もさせてほしい。うん」
肩で携帯を支えてぽいぽいと服を脱ぎ捨てる。鏡を覗き込んで眉を寄せた。
「あと、まつげパーマの予約も。うん、もう駄目、あれ楽すぎて。うん、午前中は美容院なんだ、午後に。――4時ね、わかった。ありがとう――行きたい!行きたいけど明日の夜接待なんだ。な〜、しばらくお茶もしてないもんな〜」
戸を開け放ってシャワーをひねる。お湯が出るのを待っていると、電話の相手が笑うのがわかった。音が聞こえるのだろう。
「ありがと。おやすみ。うん、また明日」
ぱくんと携帯を閉じて、久々知は深呼吸をした。シャワーの温度は上がり、浴室には湯気が漂っている。
「ま、手間がかかるのはしょうがない」
それが女と言うものだ。
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2013'09.13.Fri
締め切った熱気に耐えきれず、教室の窓を開け放つ。生徒が来るとわかっているのだから、先に来た教師が開けておいてくれたらいいのに。伊助は毎日そんなことを思いながら窓を開けて、そして身を乗り出す。正面に広がるグラウンド、右手にはプールが見える。風が髪を舞いあげたのを押さえてプールを見た。ほとんどは校舎に隠れて端の方が見えるだけだが、さわやかなプールの水色や水のきらめきは見ているだけで涼しげだった。
補習の授業はまだ生徒が集まってすらいないのに、水泳部はすでに練習を開始している。普段の勉学と共に部活動にも力を入れた学校はどの部も優秀な成績をおさめるところが多く、水泳部もまた同様に、全国大会まで勝ち進んでいると聞いた。誰かが泳いで跳ねる水しぶきが夏日に反射して、プールサイドから見ればもっときれいなのだろう。
「おはよう伊助」
「おはよー、庄左ヱ門」
振り返って風で首にまとわりつく髪を払う。首が焼けるのがいやで登校のときは髪を下ろしていたが、やはり暑苦しい。日焼け止めを塗っていても手足同様少しずつ肌は焼けている。髪をまとめて、他の窓も開け放した。
それは伊助の夏休みの日課になっていた。教室に風を入れながら、気分だけの涼を求めてプールを見る。泳ぎは得意ではないので行きたいとは思わない。プールサイドが暑いことは知っているが、それでもやはり水の近くを少し羨ましい気持ちで眺めていた。
多少の雨でも水泳部は泳いでいた。威勢のいい応援が聞こえることも何度かあった。プールサイドに、見たくない人物が見える日もあった。
「こら水泳部ー!着替えてきなさい!」
「すいませーんっ」
前方から逃げるように走ってきた姿を見て、反射的に廊下の端に避けた。伊助の隣の友人は、露骨に顔をしかめている。水着にジャージの上着を羽織っただけの水泳部員がふたり、売店から戻る途中のようだ。
すれ違い際にひとりが伊助を見た。伊助が会いたくない人物、池田三郎次。目をそらすのは癪で、一瞥して友人の腕を取る。
「行こ」
「見たくないもん見せられた〜」
「ね、デリカシーのないやつ。無視無視」
友人を連れて売店に向かう。三郎次に聞こえただろうか。どちらでもいい。伊助が意地を張っている間は三郎次が謝ってくることはないだろうが、伊助もまた、謝る気は一切なかった。
それでも毎日プールを見ていた。毎日あまりにも暑いから、冷房もない教室では視覚的に涼を求めなくなるからだ。三郎次のことなど見たくもなかった。
毎日飽きもせず、太陽は地球を焼き尽くさんばかりに日差しを浴びせかけている。まぶしさと暑さに辟易しても補習はなくならず、今日も暑い制服を着て学校へ。
どうして補習なんてものがあるのだろう、夏休みなのに。そのことを三郎次にからかわれたことを思い出して顔をしかめた。どうせお勉強はできませんよ、あのとき返したせりふをまた頭の中で繰り返す。いつも通りのやりとりだったのに、あのときだけ許せなかったのはなぜだろう。
いつもの時間に校門をくぐった。天気予報は今日も真夏日としか言わなくて、あれほど鬱陶しいと思っていた梅雨が恋しくなってくる。
昇降口までも遠く感じながら歩く伊助の隣を誰かが走り抜けた。一瞬であったがこちらを見て通り過ぎて行ったのは、間違いなく三郎次だ。後ろ姿はあっと言う間に昇降口に消えていく。寝坊でもしたのだろうか。ざまあみろ、思わず口角を上げる。
夏休み前にも十分焼けていた三郎次の肌は、また更に夏らしくなっていた。
結局補習の最終日まで、伊助は窓を開け続けていた。軽い窓を開けると熱気をはらんだ風がカーテンを舞い上げる。髪を押さえて身を乗り出し、プールの方を見た。
――そこに見えたものに、硬直する。
隣の教室の窓から、身を乗り出した三郎次が伊助を見ていた。そのずっと遠くで静かなプールの水面が光っている。
「勝ったぞ!」
三郎次の声にはっとした。すぐに教室に入ろうとするのに、睨むような三郎次の視線から逃げられない。
「帰りちゃんと待ってろよ!」
「しっ……知らない!あんな一方的な約束は無効!」
「黙って待ってろブス!」
伊助の反論を許さず、三郎次の方が先に姿を消す。背後で廊下を駆け抜ける足音がした。
日に焼けた肌では顔が赤かったかどうかなんてわからない。それでもその表情を思い出すと、伊助まで恥ずかしくなってくる。
「おはよう伊助」
「おっ、おはよう庄左ヱ門!」
クラスメイトの声に弾かれるように振り返る。その勢いに少し驚いた様子を見せた庄左ヱ門は、特に追求はしなかったが笑顔を見せた。
「ちょっと焼けた?」
「え?」
「顔が赤いよ」
「……ひ、日焼け止め、塗り忘れて」
顔を隠すように踵を返し、他の窓も開けていく。
どうやって三郎次から逃げ出すかを考えて、最後の補習は何も頭に入らなかった。
補習の授業はまだ生徒が集まってすらいないのに、水泳部はすでに練習を開始している。普段の勉学と共に部活動にも力を入れた学校はどの部も優秀な成績をおさめるところが多く、水泳部もまた同様に、全国大会まで勝ち進んでいると聞いた。誰かが泳いで跳ねる水しぶきが夏日に反射して、プールサイドから見ればもっときれいなのだろう。
「おはよう伊助」
「おはよー、庄左ヱ門」
振り返って風で首にまとわりつく髪を払う。首が焼けるのがいやで登校のときは髪を下ろしていたが、やはり暑苦しい。日焼け止めを塗っていても手足同様少しずつ肌は焼けている。髪をまとめて、他の窓も開け放した。
それは伊助の夏休みの日課になっていた。教室に風を入れながら、気分だけの涼を求めてプールを見る。泳ぎは得意ではないので行きたいとは思わない。プールサイドが暑いことは知っているが、それでもやはり水の近くを少し羨ましい気持ちで眺めていた。
多少の雨でも水泳部は泳いでいた。威勢のいい応援が聞こえることも何度かあった。プールサイドに、見たくない人物が見える日もあった。
「こら水泳部ー!着替えてきなさい!」
「すいませーんっ」
前方から逃げるように走ってきた姿を見て、反射的に廊下の端に避けた。伊助の隣の友人は、露骨に顔をしかめている。水着にジャージの上着を羽織っただけの水泳部員がふたり、売店から戻る途中のようだ。
すれ違い際にひとりが伊助を見た。伊助が会いたくない人物、池田三郎次。目をそらすのは癪で、一瞥して友人の腕を取る。
「行こ」
「見たくないもん見せられた〜」
「ね、デリカシーのないやつ。無視無視」
友人を連れて売店に向かう。三郎次に聞こえただろうか。どちらでもいい。伊助が意地を張っている間は三郎次が謝ってくることはないだろうが、伊助もまた、謝る気は一切なかった。
それでも毎日プールを見ていた。毎日あまりにも暑いから、冷房もない教室では視覚的に涼を求めなくなるからだ。三郎次のことなど見たくもなかった。
毎日飽きもせず、太陽は地球を焼き尽くさんばかりに日差しを浴びせかけている。まぶしさと暑さに辟易しても補習はなくならず、今日も暑い制服を着て学校へ。
どうして補習なんてものがあるのだろう、夏休みなのに。そのことを三郎次にからかわれたことを思い出して顔をしかめた。どうせお勉強はできませんよ、あのとき返したせりふをまた頭の中で繰り返す。いつも通りのやりとりだったのに、あのときだけ許せなかったのはなぜだろう。
いつもの時間に校門をくぐった。天気予報は今日も真夏日としか言わなくて、あれほど鬱陶しいと思っていた梅雨が恋しくなってくる。
昇降口までも遠く感じながら歩く伊助の隣を誰かが走り抜けた。一瞬であったがこちらを見て通り過ぎて行ったのは、間違いなく三郎次だ。後ろ姿はあっと言う間に昇降口に消えていく。寝坊でもしたのだろうか。ざまあみろ、思わず口角を上げる。
夏休み前にも十分焼けていた三郎次の肌は、また更に夏らしくなっていた。
結局補習の最終日まで、伊助は窓を開け続けていた。軽い窓を開けると熱気をはらんだ風がカーテンを舞い上げる。髪を押さえて身を乗り出し、プールの方を見た。
――そこに見えたものに、硬直する。
隣の教室の窓から、身を乗り出した三郎次が伊助を見ていた。そのずっと遠くで静かなプールの水面が光っている。
「勝ったぞ!」
三郎次の声にはっとした。すぐに教室に入ろうとするのに、睨むような三郎次の視線から逃げられない。
「帰りちゃんと待ってろよ!」
「しっ……知らない!あんな一方的な約束は無効!」
「黙って待ってろブス!」
伊助の反論を許さず、三郎次の方が先に姿を消す。背後で廊下を駆け抜ける足音がした。
日に焼けた肌では顔が赤かったかどうかなんてわからない。それでもその表情を思い出すと、伊助まで恥ずかしくなってくる。
「おはよう伊助」
「おっ、おはよう庄左ヱ門!」
クラスメイトの声に弾かれるように振り返る。その勢いに少し驚いた様子を見せた庄左ヱ門は、特に追求はしなかったが笑顔を見せた。
「ちょっと焼けた?」
「え?」
「顔が赤いよ」
「……ひ、日焼け止め、塗り忘れて」
顔を隠すように踵を返し、他の窓も開けていく。
どうやって三郎次から逃げ出すかを考えて、最後の補習は何も頭に入らなかった。
2013'09.13.Fri
幼い頃は自分がお姫様だと思っていて、いつかすてきな王子様が迎えに来るのだと信じていた。きらきらしたものやふわふわしたものに囲まれていたから、脳味噌までふやけていたのだろう。だからきっと、間違えてあんな男を好きになってしまったのだ。
「嘘つき」
ただいまを言うより早く愚痴をこぼし、兵太夫は蒸し暑い玄関に立ち尽くす。今日は絶対早く帰るから、なんて言葉を、信じていたわけじゃない。毎日同じことを聞かされているのだ。彼の中ではそれは免罪符になっているのだろう。
カーテンの引かれた暗い部屋は、この夜でも気温の下がらない真夏日に1日中締め切られていたので熱気がこもっている。パンプスを脱ぎ捨てて、重たい体をどうにか部屋の中へ運んだ。部屋を満たした生ぬるい空気はまとわりつくようで、思わずブラウスを脱ぎながら歩くが脱いでも大して変わらなかった。
冷房だけは電源を入れ、荷物を投げ捨ててソファーに崩れ込む。横になると寝てしまう気がしてどうにか体は倒さずに、肩を落として深く溜息をついた。化粧を落とさなければ。夕食の支度をして、洗濯も今夜してしまいたい。
同居人は最近忙しい。親の経営する運送業に勤める彼は最近忙しい。大口の契約が結べたのだと、夏に入ってから西へ東へと飛び回っている。夜にはほとんど寝るためだけに帰っては来るが、すでに兵太夫が寝ている時間になっていることもある。嘘をついて遊び回ることができるような性格ではないとわかっているから何を疑うでもないが、こうすれ違いが続いては少し虚しくなることもあった。一緒に住んでいる方が寂しい、なんて。
動かなければ、と思うのに体が重い。もう少し部屋が涼しくなれば楽になるだろう。ドアノブの回る音がして、ひくりと指先が動いたが、顔を向けるのも億劫だった。
「ただいまー!ってあれ?」
1日働いたとは思えない張り切った声が帰ってくる。ぱちりと電気をつけられて、突然の刺激に目を細めた。
「うわっ!びっくりした!兵ちゃん帰ってたんだ、どうしたの電気もつけずに。俺鍵かけるの忘れたかと思ってびっくりしたじゃん」
彼は笑いながら洗濯物を出したり風呂を覗いたりとテキパキ動いている。元気だな、と思うとどこか理不尽な気持ちになった。寂しいと思っているのは自分だけなのだろう。
「兵ちゃーん?……どうした?しんどい?」
やっとこちらに来るその手にはビールがある。ご飯まだ、小さくこぼすが隣に座った彼は気にせずに、缶ビールで冷えた手が兵太夫の額に触れた。
「団蔵」
「どうした?熱はないなぁ。夏バテ?」
「……ちょっと」
「しんどい?食欲は、ないかぁ、なさそうだね。ゼリーでも買ってこようか?」
「……馬鹿」
もたれかかると焦ったように体をかたくした。体重をかけるとそのままずるずると倒れていく団蔵にそって体を倒す。熱い体を下敷きに、このまま眠ってしまいたい。それでも馬鹿にはなれなくて、化粧を落とさなければ、と考えている。団蔵の服にもついてしまう。起きなければ。
どうしたの、優しい声が降った。大きな手が頭を撫でて、我慢できずに振り払う。
「優しくすんな馬鹿!」
「えっ」
絞め殺すイメージで強く抱きしめる。いつだって、まるでたぶらかすように優しいから、この人がいいと思ってしまうのだ。冷静になればただの錯覚だと思うのに。
「遊びたい」
「兵ちゃん?」
「海行きたいお祭り行きたい」
「えーと、兵ちゃん行ってたよね」
「お前と行きたいって言ってんだよ馬鹿!」
憤りに任せて胸を叩く。思いがけない力が入ってしまい、団蔵は低く呻いた。泣きたくないと思うのに、我慢しているうちに夏が終わっていく。
「俺だって」
ゆっくり抱き締められる。汗臭いと思うのに、それに安心している自分がいた。
「兵ちゃんの水着も浴衣も見たかったなぁ」
「……あのさ」
「ん?」
「当たってんだけど……」
「スイマセン……俺だって我慢してんだよぉ」
頭を抱いた手が愛しくてすり寄った。やっぱりちょっと離れて下さい、と押し返されるが、その手を払って抱き直す。
「兵ちゃん、あのね、俺明後日は休みだから」
「明後日三ちゃんとデートだもん」
「うう……」
生殺しだ、と言いながら、頭を撫でてくれる手が優しい。
さっき団蔵が設定していたのか、風呂がわいたことを知らせるメロディーが流れる。
「へ、兵ちゃん、お風呂行っといで!俺ぱっと走って晩飯買ってくるから!」
「……連れてって」
「はいはいっ」
わざとひょうきんに振る舞って、体を起こした団蔵は兵太夫を抱き上げる。軽々といわゆるお姫様抱っこで抱いた兵太夫を連れて、団蔵は浴室に向かった。バスマットの上に降ろされてから、自分がブラウスを脱いだみっともない姿だったことを思い出す。お姫様とは程遠い。
「一緒に入る?」
「入りたいッ……けど、明日、明日お願いします!俺明日4時起きだし!」
「やだ。一緒がいい」
お姫様にはなれなかったし、王子様も現れなかった。
それでも兵太夫が手を引けば、甘えさせてくれる人がいる。真っ赤になった彼を見るのは久しぶりで、羞恥心など忘れてしまった。
「嘘つき」
ただいまを言うより早く愚痴をこぼし、兵太夫は蒸し暑い玄関に立ち尽くす。今日は絶対早く帰るから、なんて言葉を、信じていたわけじゃない。毎日同じことを聞かされているのだ。彼の中ではそれは免罪符になっているのだろう。
カーテンの引かれた暗い部屋は、この夜でも気温の下がらない真夏日に1日中締め切られていたので熱気がこもっている。パンプスを脱ぎ捨てて、重たい体をどうにか部屋の中へ運んだ。部屋を満たした生ぬるい空気はまとわりつくようで、思わずブラウスを脱ぎながら歩くが脱いでも大して変わらなかった。
冷房だけは電源を入れ、荷物を投げ捨ててソファーに崩れ込む。横になると寝てしまう気がしてどうにか体は倒さずに、肩を落として深く溜息をついた。化粧を落とさなければ。夕食の支度をして、洗濯も今夜してしまいたい。
同居人は最近忙しい。親の経営する運送業に勤める彼は最近忙しい。大口の契約が結べたのだと、夏に入ってから西へ東へと飛び回っている。夜にはほとんど寝るためだけに帰っては来るが、すでに兵太夫が寝ている時間になっていることもある。嘘をついて遊び回ることができるような性格ではないとわかっているから何を疑うでもないが、こうすれ違いが続いては少し虚しくなることもあった。一緒に住んでいる方が寂しい、なんて。
動かなければ、と思うのに体が重い。もう少し部屋が涼しくなれば楽になるだろう。ドアノブの回る音がして、ひくりと指先が動いたが、顔を向けるのも億劫だった。
「ただいまー!ってあれ?」
1日働いたとは思えない張り切った声が帰ってくる。ぱちりと電気をつけられて、突然の刺激に目を細めた。
「うわっ!びっくりした!兵ちゃん帰ってたんだ、どうしたの電気もつけずに。俺鍵かけるの忘れたかと思ってびっくりしたじゃん」
彼は笑いながら洗濯物を出したり風呂を覗いたりとテキパキ動いている。元気だな、と思うとどこか理不尽な気持ちになった。寂しいと思っているのは自分だけなのだろう。
「兵ちゃーん?……どうした?しんどい?」
やっとこちらに来るその手にはビールがある。ご飯まだ、小さくこぼすが隣に座った彼は気にせずに、缶ビールで冷えた手が兵太夫の額に触れた。
「団蔵」
「どうした?熱はないなぁ。夏バテ?」
「……ちょっと」
「しんどい?食欲は、ないかぁ、なさそうだね。ゼリーでも買ってこようか?」
「……馬鹿」
もたれかかると焦ったように体をかたくした。体重をかけるとそのままずるずると倒れていく団蔵にそって体を倒す。熱い体を下敷きに、このまま眠ってしまいたい。それでも馬鹿にはなれなくて、化粧を落とさなければ、と考えている。団蔵の服にもついてしまう。起きなければ。
どうしたの、優しい声が降った。大きな手が頭を撫でて、我慢できずに振り払う。
「優しくすんな馬鹿!」
「えっ」
絞め殺すイメージで強く抱きしめる。いつだって、まるでたぶらかすように優しいから、この人がいいと思ってしまうのだ。冷静になればただの錯覚だと思うのに。
「遊びたい」
「兵ちゃん?」
「海行きたいお祭り行きたい」
「えーと、兵ちゃん行ってたよね」
「お前と行きたいって言ってんだよ馬鹿!」
憤りに任せて胸を叩く。思いがけない力が入ってしまい、団蔵は低く呻いた。泣きたくないと思うのに、我慢しているうちに夏が終わっていく。
「俺だって」
ゆっくり抱き締められる。汗臭いと思うのに、それに安心している自分がいた。
「兵ちゃんの水着も浴衣も見たかったなぁ」
「……あのさ」
「ん?」
「当たってんだけど……」
「スイマセン……俺だって我慢してんだよぉ」
頭を抱いた手が愛しくてすり寄った。やっぱりちょっと離れて下さい、と押し返されるが、その手を払って抱き直す。
「兵ちゃん、あのね、俺明後日は休みだから」
「明後日三ちゃんとデートだもん」
「うう……」
生殺しだ、と言いながら、頭を撫でてくれる手が優しい。
さっき団蔵が設定していたのか、風呂がわいたことを知らせるメロディーが流れる。
「へ、兵ちゃん、お風呂行っといで!俺ぱっと走って晩飯買ってくるから!」
「……連れてって」
「はいはいっ」
わざとひょうきんに振る舞って、体を起こした団蔵は兵太夫を抱き上げる。軽々といわゆるお姫様抱っこで抱いた兵太夫を連れて、団蔵は浴室に向かった。バスマットの上に降ろされてから、自分がブラウスを脱いだみっともない姿だったことを思い出す。お姫様とは程遠い。
「一緒に入る?」
「入りたいッ……けど、明日、明日お願いします!俺明日4時起きだし!」
「やだ。一緒がいい」
お姫様にはなれなかったし、王子様も現れなかった。
それでも兵太夫が手を引けば、甘えさせてくれる人がいる。真っ赤になった彼を見るのは久しぶりで、羞恥心など忘れてしまった。
2013'09.09.Mon
「三郎次、買い出し行ってきてくれる?」
「わかった」
母親の声に、待ってましたとばかりに返事をする。丁度宿題に飽きてきたところだった。親しくなれる気がしない「夏休みの友」を投げ出して、三郎次は扇風機を止めて店に出る。夏の間解放しているオープンテラス――と、母親は言い張っているがすのこの上にテーブルを並べただけの簡易喫茶スペース――は今日も客で一杯で、アルバイトの学生が汗を吹きながら作っている焼きそばのソースの匂いが漂っていた。
夏の熱気に誘われて、この季節、浜は人で溢れている。さほど有名ではない海水浴場でもそれなりに人は集まって、この光景を見ると三郎次はいつも秋が恋しくなった。
「富松くんにいるもの聞いて」
「うん。帰りにアイス買っていい?」
「どうぞ」
母親から小銭入れを受け取って、ひも付きのそれを首から下げる。すぐにかき氷の機械の前に戻った母親はもうこちらを見ていない。調理場に入ってアルバイトの男を呼ぶ。隣の県から泊まり込みできている学生のひとりだ。みんな初日よりも随分焼けた。それは仕事ばかりではなく、休憩のたびに遊んでいるからだ。
「富松さん、買い出し行ってきます」
「おう、キャベツと人参頼む」
焼きそばの具を切り続けている汗だくの男はやはり振り返りもしない。山になった野菜の大きさは大体均一で、初日に手こずっていたのが嘘のようだ。
「今日多いの?」
「ああ。やっぱみんな穴場知ってんだな〜」
「……他にはいらない?」
「三郎次くん!ついでに割り箸頼む!」
叫んでいるような大声と共に入ってきた男に富松が顔をしかめた。どれほど働いても一切疲れを見せない彼は、他人を疲れさせるほど元気だ。
「うるっせぇよ左門」
「すまん!さっきぶちまけた!」
「最低だな!」
「行ってきます」
いちいち挙動の大きい男なのだ。しかしどこか憎めず、母親もその元気良さを気に入っているらしい。
店を抜けて砂浜、海水浴をする客が溢れていた。中も暑かったが日差しを浴びると更にぐっと暑くなる。もうひとりのアルバイト、次屋が店の前に出した鉄板で焼きそばを作りながら客と話しているのを横目に道に上がった。スーパーまでは5分ほどだ。最近ではスーパーで買い物を済ませて海へ行く人の方が多いので、母が半ば趣味でやっている海の家も昔ほど忙しくはないらしい。それでもやはり雰囲気を楽しみたい客が、何かしらを買いにくる。
浴衣の女性とすれ違った。こんなところでも、と思わず振り返る。今日は大きな花火大会がある。とは言え祭りの賑やかさが伸びてくるほど近くではないのだが、この浜からは花火がきれいに見えるのだ。去年フリーのライターが小さな記事で書いたせいか、今年はいつもより少しだけ人が多いようだった。
冷房のよく効いたスーパーに入り、頼まれたものをさっさと買う。海の家は店内には気持ちばかりの古いエアコンはあるが、奥の部屋にはやはり年代ものの扇風機しかない。名残惜しいが駄賃代わりのアイスも買ってしまったので、魅力的なスーパーからまた炎天下へ戻った。こうなると真っ黒なアスファルトよりも焼けた砂の方がまだましで、三郎次はアイスを食べながら海へ戻っていく。
海は太陽を受けて反射し、三郎次は目を細めた。波の動きでちらつく光はまぶしすぎて目が痛くなる。早々に汗をかき始めたアイスが指まで伝い、慌てて大きく口を開いた。
夏はいつでもやってくる。三郎次が待ち望んでいても、二度と受け入れたくなくても。
「ただいまー」
「おかえり」
帰るなり次屋に捕まって、直してと言われるままに頭に巻いたタオルを結び直してやった。汗が目に入る、とふうふう言いながらまた仕事に戻った次屋に特に何も返さず、三郎次は中に入った。母親に声をかけて調理場に向かう。
「三郎次、代わってあげて!」
「はーい」
割り箸はストック場所に片づけ、代わらず包丁を握っている富松に声をかける。初めこそ小学生に手伝われるということをためらっていた彼らだが、すぐにそんな余裕はなくなっていた。富松は助かったとばかりに包丁を置き、肩を回す。
「はー、握力なくなりそうだぜ」
「休んでいーよ」
「すまねぇな」
休憩に行く富松と代わってまな板の前に立った。包丁を取る前に、切れた分を店の外の方に持っていく。
「次屋さん、追加」
「せんきゅー。ひどくない?作ちゃんひとりで泳ぎに行っちゃったよ。水冷たいんだろうな〜」
「だって次屋さんひとりで行ったら迷子になるんだろ」
「道もないのにねえ。いらっしゃーい」
前に立った客の影に、三郎次は野菜の乗ったボウルを置いて中に戻った。
日が沈むにつれ、海から人は引いていく。しかし暗くなるほど今日は人が増えていき、いつもは全てを飲み込んでしまいそうになるほど暗い海が今日は賑やかだった。
三郎次は二階の部屋から海を見た。店はいつもは閉めている時間だが、今日は飲み物だけを外に出て販売している。ビールが売れていくのを見ながら、アルバイトの彼らは悔しげに接客をしていた。酒の味を知らない三郎次にはわからない感覚だ。下はまだ賑やかで、三郎次も目が冴えている。
「三郎次?スイカいる?富松くんたちがスイカ割りするんだって」
「……後で」
「早くね。なくなっちゃうわよ〜」
下から左門の威勢のいい声がした。いくつもの笑い声がするから、花火を待つ客も集まっているのかもしれない。
部屋に顔を出した母親はそれを笑い、三郎次の頭を撫でて降りていく。海風の流れてくる部屋は昼間よりはいくらか涼しいが、やはり夏の盛りではまだ暑い。いつか火を吹くのではないかと思うような年代物の扇風機が、部屋の隅でぎこちなく首を振っている程度では足りなかった。
夏が過ぎてほしいと思う。それでも、終わらなければいいとも思う。そうなれば、いつまでも待っていられるのに。
「っしゃー!」
窓から顔を出すと富松が顔からタオルを外してガッツポーズを決めていた。スイカはシルエットだけが見える。ぱっと窓を離れて階段を降りた。
「三郎次」
気づいた左門が手招きをする。差し出された欠片は大きすぎて、笑うと次屋がもうひと回り小さいものを渡してくれた。大きい塊は左門がかぶりついている。
母親は一足先に缶ビールを開けていて、それを見つけた学生たちが騒ぎだした。母はそれを待っていたかのように、笑いながら彼らにもそれを許した。温かい母の手が三郎次の肩を抱く。汗をかいている三郎次に構わず額を寄せる。恥ずかしいとは思うが、抵抗すると余計にからかってくるのだ。
「寝るね」
「おやすみ、三郎次」
「おやすみ」
学生たちにも挨拶をして、手を洗ってまた二階に上がった。花火見ないんですか、誰かが母に聞いている声が聞こえてくる。
カーテンをしっかり閉めて、三郎次は布団に潜り込んだ。頭までタオルケットをかぶり、蒸し暑いがそのまま耳を塞ぐ。間もなく、花火が始まった。夜空を彩る大輪に歓声が上がる。昔見た花火を瞼の裏に浮かべて、きつく目を閉じた。
*
「三郎次くん、蛍見たことあるか?」
次屋に聞かれて首を振った。生まれてからずっと海にいる。3人は顔を見合わせて、三郎次に向き直った。
「俺らの地元の方、蛍がいるんだ。ちょうど今が見頃だって地元の奴らが言ってたから、見に行かねえ?」
その日はアルバイトの最終日だった。夏休みも終わりに近づき、アルバイトの手が必要なほどの忙しさはすぐになくなる。今日の仕事を終えたら彼らは帰ることになっていた。
「……見たい」
夜の山にも興味が沸いた。光る虫は名前として知ってはいるが、三郎次の世界に今までいなかったものだ。よし、と笑った富松は三郎次の汗をかいた頭を撫でて、三郎次の母の元へ向かって言った。
「今日までありがとう!よかったらまた来年も来てちょうだい」
「もー是非是非、めっちゃ楽しかったです」
三郎次は少し緊張して母親を見た。富松の話を聞いた彼女の目がこちらを向く。
「いいな〜!お母さんも見たい!三郎次ずるい!」
「お母さんも行きます?」
「お店あるもの〜。三郎次、ちゃんとお礼言った?」
「あっ、ありがとう!」
「何の、まだ早い!」
盛り上がった左門が荷物をかつぎ上げた。もう出発するのだと、慌てて三郎次も立ち上がる。母親に色々と持たされている間に富松が車を取りに行き、予想外のドライブをすることになった。
*
夜の山は海と同じぐらい暗かった。それでも海は、月明かりを反射する。木々の合間から差し込む月光は柔らかく、目を細めることもない。
いた、左門のささやく声に顔を上げる。視界に突然、小さな明かりが灯った。ともすれば見失いそうなかすかな明かりは、求愛のためだと本で読んだことがある。それはひとつふたつではなく、点滅するのでどれほどいるのかはわからなかったが、無数に飛び交うそれを初めて見る三郎次は何も言葉にできなかった。
ぽかんとして光を追っていたら、肩をつつかれて振り返る。次屋に手を出して、と言われて手のひらを向けたが、富松が三郎次の手を取って両手で囲いを作らせた。その隙間から、次屋が手にしたものを中に移す。くすぐったいようなかすかな感触に緊張しながら、そっと透き間をあけると手のひらの中で蛍の光が点滅していた。温かいように見えた光はそんなことはなく、三郎次の手の中でかすかに息づいている。
「そう言えば、昔じいちゃんに蛍は死んだ人の魂だって言われたな」
「あー、そうそう。うちのひいばあちゃんの三回忌、蛍見たからみんなで帰ってきたなって話したわ」
富松たちの会話に驚いて顔を上げた。それが勢いづいたせいか、彼らの方も驚いて三郎次を見る。
「ごめん、怖かったか?」
「海で死んだ人も?」
「え?」
「海で死んだ人も、山で蛍になるの?」
返事を待たずに涙が溢れる。いつかあの暗い海から帰ってくるのではないかと思っていた。そんなことはないと、わかっているのに。
「いいや!そんな馬鹿な話があるか!」
左門に肩を叩かれて息を飲む。三郎次の体が揺れたので、手の中にいた蛍もまた飛んでいった。あーあ、と次屋が視線だけでそれを追う。
三郎次、力強く左門の手が肩を抱いた。母親とは違う温もりは、それでも同じようにあたたかい。
「死んだ人がみんな蛍になっていたら、蛍が減ることなんてないからな」
「お前なー、なんか他に言うことあるだろ」
「なあ三郎次、みんな好きな場所に行ったんだ。蛍になりたいやつもいれば、海に行きたいやつもいるさ」
「俺死んだら女子更衣室に行くわ」
「次屋くん最低」
けらけら笑う次屋の頭上を蛍が横切る。汗くさいかも、と言いながら、富松が三郎次の顔をタオルで拭った。母親から何か聞いたのかもしれない。しかし彼らは何も言わなかった。
あの日のことを、三郎次はきっと忘れないだろう。
「蛍もきれいだけど、夜の海もきれいだったな」
あの美しく恐ろしい海が恋しくて、顔を上げると涙の海を淡い光が漂っていた。
「わかった」
母親の声に、待ってましたとばかりに返事をする。丁度宿題に飽きてきたところだった。親しくなれる気がしない「夏休みの友」を投げ出して、三郎次は扇風機を止めて店に出る。夏の間解放しているオープンテラス――と、母親は言い張っているがすのこの上にテーブルを並べただけの簡易喫茶スペース――は今日も客で一杯で、アルバイトの学生が汗を吹きながら作っている焼きそばのソースの匂いが漂っていた。
夏の熱気に誘われて、この季節、浜は人で溢れている。さほど有名ではない海水浴場でもそれなりに人は集まって、この光景を見ると三郎次はいつも秋が恋しくなった。
「富松くんにいるもの聞いて」
「うん。帰りにアイス買っていい?」
「どうぞ」
母親から小銭入れを受け取って、ひも付きのそれを首から下げる。すぐにかき氷の機械の前に戻った母親はもうこちらを見ていない。調理場に入ってアルバイトの男を呼ぶ。隣の県から泊まり込みできている学生のひとりだ。みんな初日よりも随分焼けた。それは仕事ばかりではなく、休憩のたびに遊んでいるからだ。
「富松さん、買い出し行ってきます」
「おう、キャベツと人参頼む」
焼きそばの具を切り続けている汗だくの男はやはり振り返りもしない。山になった野菜の大きさは大体均一で、初日に手こずっていたのが嘘のようだ。
「今日多いの?」
「ああ。やっぱみんな穴場知ってんだな〜」
「……他にはいらない?」
「三郎次くん!ついでに割り箸頼む!」
叫んでいるような大声と共に入ってきた男に富松が顔をしかめた。どれほど働いても一切疲れを見せない彼は、他人を疲れさせるほど元気だ。
「うるっせぇよ左門」
「すまん!さっきぶちまけた!」
「最低だな!」
「行ってきます」
いちいち挙動の大きい男なのだ。しかしどこか憎めず、母親もその元気良さを気に入っているらしい。
店を抜けて砂浜、海水浴をする客が溢れていた。中も暑かったが日差しを浴びると更にぐっと暑くなる。もうひとりのアルバイト、次屋が店の前に出した鉄板で焼きそばを作りながら客と話しているのを横目に道に上がった。スーパーまでは5分ほどだ。最近ではスーパーで買い物を済ませて海へ行く人の方が多いので、母が半ば趣味でやっている海の家も昔ほど忙しくはないらしい。それでもやはり雰囲気を楽しみたい客が、何かしらを買いにくる。
浴衣の女性とすれ違った。こんなところでも、と思わず振り返る。今日は大きな花火大会がある。とは言え祭りの賑やかさが伸びてくるほど近くではないのだが、この浜からは花火がきれいに見えるのだ。去年フリーのライターが小さな記事で書いたせいか、今年はいつもより少しだけ人が多いようだった。
冷房のよく効いたスーパーに入り、頼まれたものをさっさと買う。海の家は店内には気持ちばかりの古いエアコンはあるが、奥の部屋にはやはり年代ものの扇風機しかない。名残惜しいが駄賃代わりのアイスも買ってしまったので、魅力的なスーパーからまた炎天下へ戻った。こうなると真っ黒なアスファルトよりも焼けた砂の方がまだましで、三郎次はアイスを食べながら海へ戻っていく。
海は太陽を受けて反射し、三郎次は目を細めた。波の動きでちらつく光はまぶしすぎて目が痛くなる。早々に汗をかき始めたアイスが指まで伝い、慌てて大きく口を開いた。
夏はいつでもやってくる。三郎次が待ち望んでいても、二度と受け入れたくなくても。
「ただいまー」
「おかえり」
帰るなり次屋に捕まって、直してと言われるままに頭に巻いたタオルを結び直してやった。汗が目に入る、とふうふう言いながらまた仕事に戻った次屋に特に何も返さず、三郎次は中に入った。母親に声をかけて調理場に向かう。
「三郎次、代わってあげて!」
「はーい」
割り箸はストック場所に片づけ、代わらず包丁を握っている富松に声をかける。初めこそ小学生に手伝われるということをためらっていた彼らだが、すぐにそんな余裕はなくなっていた。富松は助かったとばかりに包丁を置き、肩を回す。
「はー、握力なくなりそうだぜ」
「休んでいーよ」
「すまねぇな」
休憩に行く富松と代わってまな板の前に立った。包丁を取る前に、切れた分を店の外の方に持っていく。
「次屋さん、追加」
「せんきゅー。ひどくない?作ちゃんひとりで泳ぎに行っちゃったよ。水冷たいんだろうな〜」
「だって次屋さんひとりで行ったら迷子になるんだろ」
「道もないのにねえ。いらっしゃーい」
前に立った客の影に、三郎次は野菜の乗ったボウルを置いて中に戻った。
日が沈むにつれ、海から人は引いていく。しかし暗くなるほど今日は人が増えていき、いつもは全てを飲み込んでしまいそうになるほど暗い海が今日は賑やかだった。
三郎次は二階の部屋から海を見た。店はいつもは閉めている時間だが、今日は飲み物だけを外に出て販売している。ビールが売れていくのを見ながら、アルバイトの彼らは悔しげに接客をしていた。酒の味を知らない三郎次にはわからない感覚だ。下はまだ賑やかで、三郎次も目が冴えている。
「三郎次?スイカいる?富松くんたちがスイカ割りするんだって」
「……後で」
「早くね。なくなっちゃうわよ〜」
下から左門の威勢のいい声がした。いくつもの笑い声がするから、花火を待つ客も集まっているのかもしれない。
部屋に顔を出した母親はそれを笑い、三郎次の頭を撫でて降りていく。海風の流れてくる部屋は昼間よりはいくらか涼しいが、やはり夏の盛りではまだ暑い。いつか火を吹くのではないかと思うような年代物の扇風機が、部屋の隅でぎこちなく首を振っている程度では足りなかった。
夏が過ぎてほしいと思う。それでも、終わらなければいいとも思う。そうなれば、いつまでも待っていられるのに。
「っしゃー!」
窓から顔を出すと富松が顔からタオルを外してガッツポーズを決めていた。スイカはシルエットだけが見える。ぱっと窓を離れて階段を降りた。
「三郎次」
気づいた左門が手招きをする。差し出された欠片は大きすぎて、笑うと次屋がもうひと回り小さいものを渡してくれた。大きい塊は左門がかぶりついている。
母親は一足先に缶ビールを開けていて、それを見つけた学生たちが騒ぎだした。母はそれを待っていたかのように、笑いながら彼らにもそれを許した。温かい母の手が三郎次の肩を抱く。汗をかいている三郎次に構わず額を寄せる。恥ずかしいとは思うが、抵抗すると余計にからかってくるのだ。
「寝るね」
「おやすみ、三郎次」
「おやすみ」
学生たちにも挨拶をして、手を洗ってまた二階に上がった。花火見ないんですか、誰かが母に聞いている声が聞こえてくる。
カーテンをしっかり閉めて、三郎次は布団に潜り込んだ。頭までタオルケットをかぶり、蒸し暑いがそのまま耳を塞ぐ。間もなく、花火が始まった。夜空を彩る大輪に歓声が上がる。昔見た花火を瞼の裏に浮かべて、きつく目を閉じた。
*
「三郎次くん、蛍見たことあるか?」
次屋に聞かれて首を振った。生まれてからずっと海にいる。3人は顔を見合わせて、三郎次に向き直った。
「俺らの地元の方、蛍がいるんだ。ちょうど今が見頃だって地元の奴らが言ってたから、見に行かねえ?」
その日はアルバイトの最終日だった。夏休みも終わりに近づき、アルバイトの手が必要なほどの忙しさはすぐになくなる。今日の仕事を終えたら彼らは帰ることになっていた。
「……見たい」
夜の山にも興味が沸いた。光る虫は名前として知ってはいるが、三郎次の世界に今までいなかったものだ。よし、と笑った富松は三郎次の汗をかいた頭を撫でて、三郎次の母の元へ向かって言った。
「今日までありがとう!よかったらまた来年も来てちょうだい」
「もー是非是非、めっちゃ楽しかったです」
三郎次は少し緊張して母親を見た。富松の話を聞いた彼女の目がこちらを向く。
「いいな〜!お母さんも見たい!三郎次ずるい!」
「お母さんも行きます?」
「お店あるもの〜。三郎次、ちゃんとお礼言った?」
「あっ、ありがとう!」
「何の、まだ早い!」
盛り上がった左門が荷物をかつぎ上げた。もう出発するのだと、慌てて三郎次も立ち上がる。母親に色々と持たされている間に富松が車を取りに行き、予想外のドライブをすることになった。
*
夜の山は海と同じぐらい暗かった。それでも海は、月明かりを反射する。木々の合間から差し込む月光は柔らかく、目を細めることもない。
いた、左門のささやく声に顔を上げる。視界に突然、小さな明かりが灯った。ともすれば見失いそうなかすかな明かりは、求愛のためだと本で読んだことがある。それはひとつふたつではなく、点滅するのでどれほどいるのかはわからなかったが、無数に飛び交うそれを初めて見る三郎次は何も言葉にできなかった。
ぽかんとして光を追っていたら、肩をつつかれて振り返る。次屋に手を出して、と言われて手のひらを向けたが、富松が三郎次の手を取って両手で囲いを作らせた。その隙間から、次屋が手にしたものを中に移す。くすぐったいようなかすかな感触に緊張しながら、そっと透き間をあけると手のひらの中で蛍の光が点滅していた。温かいように見えた光はそんなことはなく、三郎次の手の中でかすかに息づいている。
「そう言えば、昔じいちゃんに蛍は死んだ人の魂だって言われたな」
「あー、そうそう。うちのひいばあちゃんの三回忌、蛍見たからみんなで帰ってきたなって話したわ」
富松たちの会話に驚いて顔を上げた。それが勢いづいたせいか、彼らの方も驚いて三郎次を見る。
「ごめん、怖かったか?」
「海で死んだ人も?」
「え?」
「海で死んだ人も、山で蛍になるの?」
返事を待たずに涙が溢れる。いつかあの暗い海から帰ってくるのではないかと思っていた。そんなことはないと、わかっているのに。
「いいや!そんな馬鹿な話があるか!」
左門に肩を叩かれて息を飲む。三郎次の体が揺れたので、手の中にいた蛍もまた飛んでいった。あーあ、と次屋が視線だけでそれを追う。
三郎次、力強く左門の手が肩を抱いた。母親とは違う温もりは、それでも同じようにあたたかい。
「死んだ人がみんな蛍になっていたら、蛍が減ることなんてないからな」
「お前なー、なんか他に言うことあるだろ」
「なあ三郎次、みんな好きな場所に行ったんだ。蛍になりたいやつもいれば、海に行きたいやつもいるさ」
「俺死んだら女子更衣室に行くわ」
「次屋くん最低」
けらけら笑う次屋の頭上を蛍が横切る。汗くさいかも、と言いながら、富松が三郎次の顔をタオルで拭った。母親から何か聞いたのかもしれない。しかし彼らは何も言わなかった。
あの日のことを、三郎次はきっと忘れないだろう。
「蛍もきれいだけど、夜の海もきれいだったな」
あの美しく恐ろしい海が恋しくて、顔を上げると涙の海を淡い光が漂っていた。
2013'09.05.Thu
「おはようございます!」
(おはようございます)
「暑いっすね。あ、車で行きます」
カメラに向かって笑いかけ、竹谷は行き先を指さした。変装している様子もないが、堂々としている。
(ファンに見つかったりしませんか?)
「ひとりでいるときはないですね〜。あ、レンタルショップの18禁コーナーに入るときは変装します」
スタッフが思わず笑い声をこぼすと、その反応に竹谷は少年のような笑みを見せた。からかう姿にも嫌味がない。
『朝から爽やかな笑顔でスタッフを迎えてくれたのは、今をときめく若手俳優、竹谷八左ヱ門さん。忍たま乱太郎を始めとして、ドラマに舞台にと活躍しています。今日はそんな彼の素顔を見せてもらいましょう』
カメラは助手席から竹谷を映す。車を発進させた竹谷は時々横目で隣を見た。
「なんか緊張しますね」
(してるように見えませんよ)
「ほんまですか?心臓バックバクですよ」
(お休みの日は普段何をされてるんですか?)
「家にはいないですね。誰とも予定がなければジムに行ったり、後輩の稽古に混ぜてもらったり」
(プロですね)
「じっとしてられないだけです。俺、小学校の時に夏休みの宿題終わらせたことなんかないですよー」
車は住宅街に入っていく。慣れているのか迷わず車を進め、通りを抜けた先の広場の前で止まった。そこには子どもたちが集まっている。
「竹谷くん来た!」
「遅〜い!」
「なんでお前らもう汗だくなん?」
「影踏みしてた!」
「アホちゃうか」
車を降りると竹谷はすぐに囲まれる。自分の首に巻いていたタオルで汗を拭いてやる姿は自然なものだったが、子どもはふざけて逃げ出した。
「みんな来てるか?はい番号ー」
「いーち」
「にーい」
「さーん」
「アルカリー!」
竹谷がふざけたひとりをすかさず捕まえてくすぐってやる。大きな声で笑いながら逃げていく姿にまた笑いが広がった。
(お兄ちゃんですね)
「なんも言うこと聞きませんよ。ほら、お世話になるから挨拶せえよー」
「はーい!上島一平です!竹谷くんとは『忍たま乱太郎』で一緒にお仕事しています!」
「佐武虎若です!僕も『忍たま』です!」
「初島孫次郎です。『忍たま』でお世話になっています」
「夢前三治郎です!いつも竹谷くんのお世話をしています!」
「このやろっ」
「きゃーっ!」
笑いながら逃げていく子どもを追い立て、竹谷は車に乗せていく。付き添っていた保護者に挨拶を済ませて竹谷が車に戻ったときには少し疲れているようにも見えた。
「ちゃんと座ってろよ」
「はーい」
「帽子!飲み物!カメラ!忘れ物あるなら今のうち!」
「大丈夫でーす」
「ほんまかい」
竹谷は車を走らせる。後部座席は賑やかで、カメラはそちらを映した。
(いつも竹谷くんと遊ぶの?)
「あのなー、こないだはユニバ行ってん」
「海も行ったで」
「僕一緒にひらパー行った!」
(そうなんや、ええなぁ)
「でも竹谷くんめっちゃうるさいよな」
「ほんまに!おかんよりうるさいで」
「虎若〜三治郎〜アウト〜」
運転席で竹谷が低い声を出し、子どもたちはけらけら笑う。カメラは降ろしたろか、と毒づく竹谷も映したが、その表情は怒ってはいない。
(あちこち行かれたんですね)
「ちゃうんですよ、こいつら勝手に遊ぶ予定に俺を組み込むんですよ」
「だって竹谷くんも夏休みやろー?」
「ちゃんとお仕事してますぅ〜」
(今日はどちらに?)
「「水族館!」」
竹谷の代わりに子どもたちが叫ぶように答えた。
親子連れやカップルで賑わう水族館に着くと、子どもたちは静かになった。竹谷が買った入場券の絵柄を見せ合っている姿は、さっきまでとは別人のように大人しい。カメラが竹谷を向くと、気づいたように苦笑した。
「あの子らもプロなんで。礼儀に関して言えば俺がガキの頃よりちゃんとしてますよ」
「竹谷くんの何?」
「ん?イルカ」
「いいな〜!交換!」
交換と言いながら入場券をひったくり、自分が持っていたものを押しつけていく。誉めたのに、と言いながら竹谷が見せた入場券にはカニがプリントされていた。
「竹谷くん、入っていい?」
「ああ。迷子になるなよ」
子どもたちに続いて竹谷が足を進める。入ってすぐの大きな水槽には様々な魚が泳いでいて、子どもたちは自然にまとまったままそちらに向かっていった。
(みんな子役の子なんですね)
「ふざけてるところ見るとただの子どもなんですけどね。あ、今日はカメラあるのでちょっとテンション高かったですけど」
(そうなんですか)
「多分俺より緊張してたと思いますけど、全然見せないでしょ。将来有望で怖いぐらいで」
「竹谷くん、あれ何?」
呼ばれて竹谷が水槽に向かう。高いところにある案内を見ながら説明をすると、子どもたちは食い入るように水槽を見つめていた。
その後ろ姿を、竹谷がデジカメを取り出して写真におさめる。それで気づいた子どもたちは各々バッグからゲーム機を取り出した。カメラ機能が付いたもので、それを水槽に向ける目は真剣だ。
「いいな〜あれ。俺の古いからカメラなくて」
(最近のゲームはすごいですね)
「ね、ずるいですよね。俺夏休み入ってからデジカメ買ったんです。あいつらなんでか俺ばっかり撮るから、俺が親御さんに後でデータ渡してます」
言いながら子どもが竹谷にカメラを向けて、竹谷がふざけて返したので静かな笑いが広がった。
小さな子どもが後ろにいることに気がついて、竹谷がさりげなく一人の肩を叩いた。気づいた子は顔を上げ、次行こう、と竹谷の手を引く。
順路にそって館内を進んでいく。誰かが質問をすれば竹谷は熱心に答えていた。
(三治郎くん)
「はい」
(竹谷くんはどんな人?)
「えーっとね、めっちゃ優しいで!たまにめっちゃ怒るけど。僕お兄ちゃんはおらんけど、お兄ちゃんみたい」
「何なに?」
「竹谷くんの話」
三治郎の隣に一平がやってくる。竹谷くんなー、とこぼす笑い声は自然なものだ。
「竹谷くんすぐ疲れたって言うねんで」
「おっさんやもんなー」
「なー」
*
場面は変わり、竹谷はあるスタジオに入っていく。中でストレッチをしていた尾浜が顔を上げた。
「うぃーす」
「いーっす。いいもんあるじゃん。お久しぶりです」
(お久しぶりです)
「勘ちゃん知り合い?」
「前に俺も撮ってもーた。そらもう舐めるように撮るんやもん、忘れようにも忘れられへんわぁ」
カメラをからかう尾浜はすっかり用意ができているようだ。竹谷のストレッチを待って、練習が始まった。
(今日は何の練習ですか)
「舞台です。トレジャーハンターのお話で、俺三枚目やります」
(三枚目ですか)
「そう、勘右衛門とペアなんでつられないように必死です」
その背後からぬっと尾浜が現れる。竹谷に甘えるようにすがるので、嫌な顔で引きはがされた。
「はちえも〜ん、バク転がきれいに決まる道具だ〜して〜」
「痩せろ!」
「痩せたやん!痩せましたやん!これ以上痩せたらガリガリやん!」
「衣装合わせまであと5キロ絞るんやろ」
「せやねん。今日焼き肉行ったからその分動かな」
「アホか。バク転どこの?」
「始めに出るとこ。八が下手で俺が上手から」
「『呼ばれて飛び出て!』」
「シュタッ!シュタッ!バーン!『泣く子も黙るはっぱ隊!』」
「ちゃう」
「『ピッピカチュウ!』」
「ちゃう」
「『ルパン・ザ・サード!』」
「やめさせてもらうわ」
「ごめんて。セリフ言わなあかんからぴゃっと決めなあかんやん、でもよろけるやん、ここのセリフぱっつぁんだけにせん?」
「なんでやねん。決めシーンや」
やるで、と竹谷が促し、ふたり同時に構えて助走をつける。用意されたマットの上に、竹谷はきれいに技を決めて着地した。尾浜はやや着地でよろけ、そのままバランスを崩して倒れ込む。
「体が重い!」
「痩せろ!」
「俺実は妖精やなくておっさんやねん!」
「知っとる」
カメラは練習風景を追っていった。昼間子どもたちと関わっていたときに笑顔を絶やさなかったのが嘘のように、打って変わった厳しい表情が続く様子もある。真摯な表情は伝播して、年の近い尾浜も真剣に先輩にも構わず意見していく。
(竹谷くんはどんな人ですか?)
「え〜?面倒なやつ」
簡潔に言い切って尾浜は笑う。指導を受けていた竹谷が気にしたようにこっちを見たが、来ることはできずにそわそわとしていた。
「見たままアホやのに意外とまじめやし、あと体育会系やから暑苦しい。まあ嫌いではないけど」
*
(お疲れさまでした)
「お疲れさまでしたー。ありがとうございます」
稽古を終えて出てきた竹谷に疲れた様子はない。朝と変わらない笑顔をカメラに向けている。
(竹谷さんにとって、今の生活はどんなものですか?)
「んー、そうですね……いろんなことがあって、日々勉強ですね。でも毎日、大切です」
笑顔で挨拶をし、竹谷は最後までスタッフを見送った。
『竹谷くんの舞台は今月20日から23日、シアター丸山にて上映されます。素敵な笑顔をぜひ、劇場でご覧下さい。きっと彼が好きになります。本日のひとりは、竹谷八左ヱ門さんでした』
(おはようございます)
「暑いっすね。あ、車で行きます」
カメラに向かって笑いかけ、竹谷は行き先を指さした。変装している様子もないが、堂々としている。
(ファンに見つかったりしませんか?)
「ひとりでいるときはないですね〜。あ、レンタルショップの18禁コーナーに入るときは変装します」
スタッフが思わず笑い声をこぼすと、その反応に竹谷は少年のような笑みを見せた。からかう姿にも嫌味がない。
『朝から爽やかな笑顔でスタッフを迎えてくれたのは、今をときめく若手俳優、竹谷八左ヱ門さん。忍たま乱太郎を始めとして、ドラマに舞台にと活躍しています。今日はそんな彼の素顔を見せてもらいましょう』
カメラは助手席から竹谷を映す。車を発進させた竹谷は時々横目で隣を見た。
「なんか緊張しますね」
(してるように見えませんよ)
「ほんまですか?心臓バックバクですよ」
(お休みの日は普段何をされてるんですか?)
「家にはいないですね。誰とも予定がなければジムに行ったり、後輩の稽古に混ぜてもらったり」
(プロですね)
「じっとしてられないだけです。俺、小学校の時に夏休みの宿題終わらせたことなんかないですよー」
車は住宅街に入っていく。慣れているのか迷わず車を進め、通りを抜けた先の広場の前で止まった。そこには子どもたちが集まっている。
「竹谷くん来た!」
「遅〜い!」
「なんでお前らもう汗だくなん?」
「影踏みしてた!」
「アホちゃうか」
車を降りると竹谷はすぐに囲まれる。自分の首に巻いていたタオルで汗を拭いてやる姿は自然なものだったが、子どもはふざけて逃げ出した。
「みんな来てるか?はい番号ー」
「いーち」
「にーい」
「さーん」
「アルカリー!」
竹谷がふざけたひとりをすかさず捕まえてくすぐってやる。大きな声で笑いながら逃げていく姿にまた笑いが広がった。
(お兄ちゃんですね)
「なんも言うこと聞きませんよ。ほら、お世話になるから挨拶せえよー」
「はーい!上島一平です!竹谷くんとは『忍たま乱太郎』で一緒にお仕事しています!」
「佐武虎若です!僕も『忍たま』です!」
「初島孫次郎です。『忍たま』でお世話になっています」
「夢前三治郎です!いつも竹谷くんのお世話をしています!」
「このやろっ」
「きゃーっ!」
笑いながら逃げていく子どもを追い立て、竹谷は車に乗せていく。付き添っていた保護者に挨拶を済ませて竹谷が車に戻ったときには少し疲れているようにも見えた。
「ちゃんと座ってろよ」
「はーい」
「帽子!飲み物!カメラ!忘れ物あるなら今のうち!」
「大丈夫でーす」
「ほんまかい」
竹谷は車を走らせる。後部座席は賑やかで、カメラはそちらを映した。
(いつも竹谷くんと遊ぶの?)
「あのなー、こないだはユニバ行ってん」
「海も行ったで」
「僕一緒にひらパー行った!」
(そうなんや、ええなぁ)
「でも竹谷くんめっちゃうるさいよな」
「ほんまに!おかんよりうるさいで」
「虎若〜三治郎〜アウト〜」
運転席で竹谷が低い声を出し、子どもたちはけらけら笑う。カメラは降ろしたろか、と毒づく竹谷も映したが、その表情は怒ってはいない。
(あちこち行かれたんですね)
「ちゃうんですよ、こいつら勝手に遊ぶ予定に俺を組み込むんですよ」
「だって竹谷くんも夏休みやろー?」
「ちゃんとお仕事してますぅ〜」
(今日はどちらに?)
「「水族館!」」
竹谷の代わりに子どもたちが叫ぶように答えた。
親子連れやカップルで賑わう水族館に着くと、子どもたちは静かになった。竹谷が買った入場券の絵柄を見せ合っている姿は、さっきまでとは別人のように大人しい。カメラが竹谷を向くと、気づいたように苦笑した。
「あの子らもプロなんで。礼儀に関して言えば俺がガキの頃よりちゃんとしてますよ」
「竹谷くんの何?」
「ん?イルカ」
「いいな〜!交換!」
交換と言いながら入場券をひったくり、自分が持っていたものを押しつけていく。誉めたのに、と言いながら竹谷が見せた入場券にはカニがプリントされていた。
「竹谷くん、入っていい?」
「ああ。迷子になるなよ」
子どもたちに続いて竹谷が足を進める。入ってすぐの大きな水槽には様々な魚が泳いでいて、子どもたちは自然にまとまったままそちらに向かっていった。
(みんな子役の子なんですね)
「ふざけてるところ見るとただの子どもなんですけどね。あ、今日はカメラあるのでちょっとテンション高かったですけど」
(そうなんですか)
「多分俺より緊張してたと思いますけど、全然見せないでしょ。将来有望で怖いぐらいで」
「竹谷くん、あれ何?」
呼ばれて竹谷が水槽に向かう。高いところにある案内を見ながら説明をすると、子どもたちは食い入るように水槽を見つめていた。
その後ろ姿を、竹谷がデジカメを取り出して写真におさめる。それで気づいた子どもたちは各々バッグからゲーム機を取り出した。カメラ機能が付いたもので、それを水槽に向ける目は真剣だ。
「いいな〜あれ。俺の古いからカメラなくて」
(最近のゲームはすごいですね)
「ね、ずるいですよね。俺夏休み入ってからデジカメ買ったんです。あいつらなんでか俺ばっかり撮るから、俺が親御さんに後でデータ渡してます」
言いながら子どもが竹谷にカメラを向けて、竹谷がふざけて返したので静かな笑いが広がった。
小さな子どもが後ろにいることに気がついて、竹谷がさりげなく一人の肩を叩いた。気づいた子は顔を上げ、次行こう、と竹谷の手を引く。
順路にそって館内を進んでいく。誰かが質問をすれば竹谷は熱心に答えていた。
(三治郎くん)
「はい」
(竹谷くんはどんな人?)
「えーっとね、めっちゃ優しいで!たまにめっちゃ怒るけど。僕お兄ちゃんはおらんけど、お兄ちゃんみたい」
「何なに?」
「竹谷くんの話」
三治郎の隣に一平がやってくる。竹谷くんなー、とこぼす笑い声は自然なものだ。
「竹谷くんすぐ疲れたって言うねんで」
「おっさんやもんなー」
「なー」
*
場面は変わり、竹谷はあるスタジオに入っていく。中でストレッチをしていた尾浜が顔を上げた。
「うぃーす」
「いーっす。いいもんあるじゃん。お久しぶりです」
(お久しぶりです)
「勘ちゃん知り合い?」
「前に俺も撮ってもーた。そらもう舐めるように撮るんやもん、忘れようにも忘れられへんわぁ」
カメラをからかう尾浜はすっかり用意ができているようだ。竹谷のストレッチを待って、練習が始まった。
(今日は何の練習ですか)
「舞台です。トレジャーハンターのお話で、俺三枚目やります」
(三枚目ですか)
「そう、勘右衛門とペアなんでつられないように必死です」
その背後からぬっと尾浜が現れる。竹谷に甘えるようにすがるので、嫌な顔で引きはがされた。
「はちえも〜ん、バク転がきれいに決まる道具だ〜して〜」
「痩せろ!」
「痩せたやん!痩せましたやん!これ以上痩せたらガリガリやん!」
「衣装合わせまであと5キロ絞るんやろ」
「せやねん。今日焼き肉行ったからその分動かな」
「アホか。バク転どこの?」
「始めに出るとこ。八が下手で俺が上手から」
「『呼ばれて飛び出て!』」
「シュタッ!シュタッ!バーン!『泣く子も黙るはっぱ隊!』」
「ちゃう」
「『ピッピカチュウ!』」
「ちゃう」
「『ルパン・ザ・サード!』」
「やめさせてもらうわ」
「ごめんて。セリフ言わなあかんからぴゃっと決めなあかんやん、でもよろけるやん、ここのセリフぱっつぁんだけにせん?」
「なんでやねん。決めシーンや」
やるで、と竹谷が促し、ふたり同時に構えて助走をつける。用意されたマットの上に、竹谷はきれいに技を決めて着地した。尾浜はやや着地でよろけ、そのままバランスを崩して倒れ込む。
「体が重い!」
「痩せろ!」
「俺実は妖精やなくておっさんやねん!」
「知っとる」
カメラは練習風景を追っていった。昼間子どもたちと関わっていたときに笑顔を絶やさなかったのが嘘のように、打って変わった厳しい表情が続く様子もある。真摯な表情は伝播して、年の近い尾浜も真剣に先輩にも構わず意見していく。
(竹谷くんはどんな人ですか?)
「え〜?面倒なやつ」
簡潔に言い切って尾浜は笑う。指導を受けていた竹谷が気にしたようにこっちを見たが、来ることはできずにそわそわとしていた。
「見たままアホやのに意外とまじめやし、あと体育会系やから暑苦しい。まあ嫌いではないけど」
*
(お疲れさまでした)
「お疲れさまでしたー。ありがとうございます」
稽古を終えて出てきた竹谷に疲れた様子はない。朝と変わらない笑顔をカメラに向けている。
(竹谷さんにとって、今の生活はどんなものですか?)
「んー、そうですね……いろんなことがあって、日々勉強ですね。でも毎日、大切です」
笑顔で挨拶をし、竹谷は最後までスタッフを見送った。
『竹谷くんの舞台は今月20日から23日、シアター丸山にて上映されます。素敵な笑顔をぜひ、劇場でご覧下さい。きっと彼が好きになります。本日のひとりは、竹谷八左ヱ門さんでした』
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