言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.27.Fri
悪趣味なことだ。
高坂のような無頓着な男でさえそうとわかる高級な調度品に囲まれた部屋は、きっとそれ専用の檻なのだ。甘い花の香りが漂い、レースやフリルの繊細なもので飾られたここは、場所が違うだけで動物園と同じなのだろう。見せ物は可憐な少女たち。ここは貴族の間で流行している、『観用少女』の専門店だ。
プライベートであれば高坂には一生縁のない店だが、新しいもの好きの主人がほしがらないはずもない。職人の最高傑作が入ったと聞けばせっせと通っているが、未だ手にすることはなかった。それは決して主人が選り好みしているから、というわけではない。
「おおっ、これはまた、美しい」
「『伝七』と呼ばれています」
「……しかし、目を開けんのう」
「美しい瞳をしているのですが、お見せできなくて残念です」
店主は眉を下げ、オーバーなほど嘆いて見せた。当の主人の方はもう慣れてしまったのか、いつものように店の少女たちの顔を覗いて歩く。誰かひとりぐらい気の変わったものはいないかと期待しての行動だが、今日も無駄足のようだ。
『観用少女』はパートナーを選ぶ。パートナーに応えて微笑み、決めたパートナーにだけ寄り添う、わがままなおもちゃだ。しかしそれが、貴族たちにとってはある種のステータスとなるらしい。
主人はどうも相性が悪いのか、どんな『観用少女』も微笑むことがなかった。金に任せて強引に手に入れることもできるが、それでは『観用少女』は枯れてしまうだけだという。確かに少女たちは一様に美しいが、高坂にはこんな手間のかかるものの何が楽しいのかわからなかった。
「おや、見慣れないのがあるな」
「ああ、そちらはちょっと訳アリで」
「訳アリ?」
「中古品、とすればいいのか、何せ主人が4回変わっていまして」
「何?それはまた不運な」
「さて、不運は一体どちらでしょう」
主人は意味深に微笑む店主を振り返った。高坂はふと好奇心を出しその『観用少女』を見る。
『観用少女』は高額である。しかしそれだけに一旦人の手に渡ると価値は下がる一方で、つい衝動で買ってしまった者が返品を望んでも買値はぐんと低くなるため、手放すにも覚悟がいる代物だ。それが4度もあったとなると、一体どんないわくがあるのだろうか。
その『観用少女』は濡れたような黒い髪を垂らし、髪が隠す頬は桃のように色づいている。まぶしいほど華やかな着物を纏い、大きすぎる椅子に行儀よく収まる姿はまさに人形だ。高坂が見ているうちに、短いまつげが縁取るまぶたが花が綻ぶように開いた。宝石をはめ込んだような瞳が高坂を見据える。
「最初の主人はとある大富豪でした。この子を自慢にしていてパーティーや集会など人の集まる場所には必ず連れていき、見せびらかして賞賛の言葉をもらうのを楽しんでいたようです。あるパーティーの晩、男はいつものように少女を自慢している最中に商売敵に毒を盛られ、そのまま帰らぬ人となりました」
つるりとした瞳には何を映しているのか、己の過去に憂いも見せない。すうとまぶたが閉じると思えば、また高坂を見ている。
「ふたり目は優秀なルポライターの女性。この子を連れて世界中を飛び回りあらゆるものを見せました。きっとこの子の見ていない世界を探す方が困難でしょう。しかし彼女は若さ故に無鉄砲と勇気をはき違えていたようです。ある国の内戦の様子を取材に行き、その花を散らせることとなりました」
高坂はそれと目が合っていることに気がついた。こんな人形が一体何を見て人を選ぶと言うのだろう。高坂が顔を背けるとその視線を追うように顔を傾ける。その先に何もないことに気づいてか再び高坂を見た。
「3人目は女の子でした。彼女は体が弱く、なかなか学校にも通えなかった為に、ご両親が友達として与えたのです。女の子はお揃いのドレスを着て、いつどんなときでも一緒でした。女の子は徐々に体も強くなり、学校にも通えることになりました。学校に行くようになっても女の子の一番の友達は変わりませんでした。毎日帰ってきては1日の報告をしている様子は大変微笑ましいものでしたが、学校にも慣れた頃、女の子は帰り道で車にはねられてしまいました。幸い命は取り留めましたが、少女と遊ぶことはできなくなってしまったそうです」
ゆっくりと瞬きをした人形は、高坂から視線を外さない。意志は感じられないのに射るような力のある瞳。高坂は知らずに唾を飲む。――不運、なのは、人形ではなく。
「4人目は?」
主人が店主に促した。高坂もそちらを見る。どこか困ったような顔で渋って見せた後、店主は決めたように笑みを浮かべる。
「4人目の主人は、ある日突然いなくなってしまいました。残ったものは『観用少女』だけ、真実は永遠に闇の中」
――『観用少女』の唇が、弧を描く。
「おや、『左近』に気に入られたようですね」
店主の笑みも、まるで人形のようであった。
*
「華やかになりましたね〜」
「冗談じゃない!」
感情のままに怒鳴りつけたが尊奈門は怯みもしなかった。適応力の高い後輩は、人形の座る椅子の前にしゃがみ込む。
「初めまして、私は諸泉尊奈門です。よろしくね、左近ちゃん」
「尊、お前引き取れ」
「無理ですね」
その人形が尊奈門を見ていたのはわずかな間で、視線はすぐに引き寄せられるように高坂に向かう。その目は高坂を苛つかせ、我ながらつまらないことをしていると思いながらも人形に背を向けた。
――あの店で、『左近』と呼ばれる『観用少女』は高坂に微笑みかけた。そうかと思えば椅子から立ち上がり、そっと近づいて高坂のスーツの裾を小さな手で掴み、じっと高坂を見上げる。何が起きているのかわからなかった高坂に、店主は嬉しそうに言ったのだ。
「今度は最後のパートナーになるといいね」
とっさに幼い手を振り払おうとしたのを止めたのは、主人の歓喜の声だった。
どんな『観用少女』の笑みも得られない主人は、とにかく相性が悪いのだろう。どうやら半ばあきらめていたようだが、運転手として着いてきただけの高坂に白羽の矢が立った。この際手元に置けるのならいいと結論を出したらしく、高坂の了承を得ないまま商談は始まり、その間『観用少女』はずっと高坂を見上げて笑っていた。
そして、その日のうちに高坂の部屋に『観用少女』のためのあれやこれが運び込まれた。要人の運転手兼ボディーガードであった高坂にとって、降って沸いた「人形の世話」とあう仕事は不本意なものでしかない。
『観用少女』の世話は簡単なもので、一日三度のミルクを与える他は、愛情を注ぐだけだ。しかしその愛情が、高坂にとっては厄介だった。餌をやるだけならまだしも、大の大人が風呂だ着替えだと人形に振り回されるなど我慢ができない。
「いいじゃないですか、給料倍になるんでしょ?」
「金をもらっても人形遊びなんてしたくない!」
「ま、殿のご命令だから仕方ないね。いいじゃない、かわいいよ」
高坂がはっとして振り返ると、いつの間にか尊敬する上司がやってきている。雑渡は無造作に抱えていたくまのぬいぐるみを左近の膝に置いた。左近は不思議そうに雑渡を見上げたが、笑みを見せることはない。
「ふうん、殿のおっしゃる通りだ。陣左、ちょっと呼んでみてよ」
「……左近」
言われるままに高坂が名を呼べば、左近はぱっとこちらに笑顔を向ける。無垢な笑みはより高坂を苛つかせるのだが、そんなことに気づくほど賢くはないようだ。雑渡は感心したように左近の頭を撫でる。
「愛してくれない男を選んでしまうなんて、今度は君が不運のようだね。」
雑渡はこの生き人形にまつわる不運の話も聞いたようだ。社交界で見せびらかすにはもってこいな話題であることには違いない。――まるで、『観用少女』自身が不運をもたらしていたかのような過去だ。
尊奈門の方は初耳だったのか、雑渡に説明を求めている。その間に左近を見れば、くまのぬいぐるみを膝から転がり落としていた。主人からのいただきものを粗末に扱うことはできない。拾い上げて改めて渡すと、きょとんと高坂を見上げる。
「大事にしなさい」
高坂の言葉を聞いて、左近はようやくぬいぐるみを抱きしめる。その笑顔を見るに、気に入らなかったわけではないらしい。
「ほう。陣左を介せばいいんだね」
「でも高坂さん近いうちに『観用少女』の呪いで死ぬんじゃないですか?」
「ばかばかしい」
「ま、何にせよしっかりお世話するんだよ」
改めて左近を見て、高坂は深く溜息をついた。
*
あたたかい。傍らのぬくもりに手を伸ばす。甘い香りに誘われて眠りから覚めた高坂の視界は、左近がほとんどを占めていた。高坂が起きたことがわかるとご機嫌ですり寄ってくる。
「はぁ……左近、毎日起こしにこなくていいんだよ……」
左近のベッドは別にある。毎晩そこで眠るのを見ているが、朝にはこうして高坂のベッドに潜り込んでいた。どう言っても左近はこの習慣をやめてくれないので、高坂はいつか寝ぼけて傷つけやしないかと気が気でない。
左近は高坂のものではない。毎日のミルクにドレス、バス用品に至るまで全て所有者は高坂の主人だ。
高坂がベッドを降りると左近も跳ね起きる。まずは左近の着替えからだ。きれいなドレスに着替えさせた後はミルクの用意。これは『観用少女』用の高級品は毎朝新鮮なものが届けられる。高坂が仕事に行っている間はメイドに任せているが、それをわからせるまでが一苦労だった。慣れるまではメイドがどんなになだめすかしても差し出したミルクに手をつけず、高坂が帰るまで1日中椅子に座って身動きすらせずにメイドを困らせていたのだ。高坂が帰るとぱっと立ち上がり、高坂が差し出してようやくミルクを口にする。そんな頃から考えれば、高坂を待たずに食事をしてくれるようになっただけで大きな進歩だ。飲まないなら好きにしておけ、というわけにもいかず、徐々に色つやの衰えていく姿に随分焦らされた。
ドアがノックされ、高坂は自分の身支度を整えながら応える。入ってきたのは、そのメイドだ。いつものように、左近のミルクと高坂の朝食を運んできた。
「高坂さんおはようございます」
「おはよう三反田さん」
「左近もおはよう」
メイドの三反田が笑いかけると左近も笑みを見せた。高坂以外に初めて笑いかけた相手は三反田だった。時間はかかったが心を開いてくれて随分と助かっている。
「パーティー、今夜ですよね」
「ああ、夕方には迎えにくるよ」
「ではそれまでに支度しておきます。左近、今夜はパーティーだからうんとおめかししようね」
大人しくテーブルについた左近にミルクを渡し、三反田は笑いかけた。くん、とミルクの匂いに鼻を近づける左近は幼く愛らしい。
高坂のような無頓着な男でさえそうとわかる高級な調度品に囲まれた部屋は、きっとそれ専用の檻なのだ。甘い花の香りが漂い、レースやフリルの繊細なもので飾られたここは、場所が違うだけで動物園と同じなのだろう。見せ物は可憐な少女たち。ここは貴族の間で流行している、『観用少女』の専門店だ。
プライベートであれば高坂には一生縁のない店だが、新しいもの好きの主人がほしがらないはずもない。職人の最高傑作が入ったと聞けばせっせと通っているが、未だ手にすることはなかった。それは決して主人が選り好みしているから、というわけではない。
「おおっ、これはまた、美しい」
「『伝七』と呼ばれています」
「……しかし、目を開けんのう」
「美しい瞳をしているのですが、お見せできなくて残念です」
店主は眉を下げ、オーバーなほど嘆いて見せた。当の主人の方はもう慣れてしまったのか、いつものように店の少女たちの顔を覗いて歩く。誰かひとりぐらい気の変わったものはいないかと期待しての行動だが、今日も無駄足のようだ。
『観用少女』はパートナーを選ぶ。パートナーに応えて微笑み、決めたパートナーにだけ寄り添う、わがままなおもちゃだ。しかしそれが、貴族たちにとってはある種のステータスとなるらしい。
主人はどうも相性が悪いのか、どんな『観用少女』も微笑むことがなかった。金に任せて強引に手に入れることもできるが、それでは『観用少女』は枯れてしまうだけだという。確かに少女たちは一様に美しいが、高坂にはこんな手間のかかるものの何が楽しいのかわからなかった。
「おや、見慣れないのがあるな」
「ああ、そちらはちょっと訳アリで」
「訳アリ?」
「中古品、とすればいいのか、何せ主人が4回変わっていまして」
「何?それはまた不運な」
「さて、不運は一体どちらでしょう」
主人は意味深に微笑む店主を振り返った。高坂はふと好奇心を出しその『観用少女』を見る。
『観用少女』は高額である。しかしそれだけに一旦人の手に渡ると価値は下がる一方で、つい衝動で買ってしまった者が返品を望んでも買値はぐんと低くなるため、手放すにも覚悟がいる代物だ。それが4度もあったとなると、一体どんないわくがあるのだろうか。
その『観用少女』は濡れたような黒い髪を垂らし、髪が隠す頬は桃のように色づいている。まぶしいほど華やかな着物を纏い、大きすぎる椅子に行儀よく収まる姿はまさに人形だ。高坂が見ているうちに、短いまつげが縁取るまぶたが花が綻ぶように開いた。宝石をはめ込んだような瞳が高坂を見据える。
「最初の主人はとある大富豪でした。この子を自慢にしていてパーティーや集会など人の集まる場所には必ず連れていき、見せびらかして賞賛の言葉をもらうのを楽しんでいたようです。あるパーティーの晩、男はいつものように少女を自慢している最中に商売敵に毒を盛られ、そのまま帰らぬ人となりました」
つるりとした瞳には何を映しているのか、己の過去に憂いも見せない。すうとまぶたが閉じると思えば、また高坂を見ている。
「ふたり目は優秀なルポライターの女性。この子を連れて世界中を飛び回りあらゆるものを見せました。きっとこの子の見ていない世界を探す方が困難でしょう。しかし彼女は若さ故に無鉄砲と勇気をはき違えていたようです。ある国の内戦の様子を取材に行き、その花を散らせることとなりました」
高坂はそれと目が合っていることに気がついた。こんな人形が一体何を見て人を選ぶと言うのだろう。高坂が顔を背けるとその視線を追うように顔を傾ける。その先に何もないことに気づいてか再び高坂を見た。
「3人目は女の子でした。彼女は体が弱く、なかなか学校にも通えなかった為に、ご両親が友達として与えたのです。女の子はお揃いのドレスを着て、いつどんなときでも一緒でした。女の子は徐々に体も強くなり、学校にも通えることになりました。学校に行くようになっても女の子の一番の友達は変わりませんでした。毎日帰ってきては1日の報告をしている様子は大変微笑ましいものでしたが、学校にも慣れた頃、女の子は帰り道で車にはねられてしまいました。幸い命は取り留めましたが、少女と遊ぶことはできなくなってしまったそうです」
ゆっくりと瞬きをした人形は、高坂から視線を外さない。意志は感じられないのに射るような力のある瞳。高坂は知らずに唾を飲む。――不運、なのは、人形ではなく。
「4人目は?」
主人が店主に促した。高坂もそちらを見る。どこか困ったような顔で渋って見せた後、店主は決めたように笑みを浮かべる。
「4人目の主人は、ある日突然いなくなってしまいました。残ったものは『観用少女』だけ、真実は永遠に闇の中」
――『観用少女』の唇が、弧を描く。
「おや、『左近』に気に入られたようですね」
店主の笑みも、まるで人形のようであった。
*
「華やかになりましたね〜」
「冗談じゃない!」
感情のままに怒鳴りつけたが尊奈門は怯みもしなかった。適応力の高い後輩は、人形の座る椅子の前にしゃがみ込む。
「初めまして、私は諸泉尊奈門です。よろしくね、左近ちゃん」
「尊、お前引き取れ」
「無理ですね」
その人形が尊奈門を見ていたのはわずかな間で、視線はすぐに引き寄せられるように高坂に向かう。その目は高坂を苛つかせ、我ながらつまらないことをしていると思いながらも人形に背を向けた。
――あの店で、『左近』と呼ばれる『観用少女』は高坂に微笑みかけた。そうかと思えば椅子から立ち上がり、そっと近づいて高坂のスーツの裾を小さな手で掴み、じっと高坂を見上げる。何が起きているのかわからなかった高坂に、店主は嬉しそうに言ったのだ。
「今度は最後のパートナーになるといいね」
とっさに幼い手を振り払おうとしたのを止めたのは、主人の歓喜の声だった。
どんな『観用少女』の笑みも得られない主人は、とにかく相性が悪いのだろう。どうやら半ばあきらめていたようだが、運転手として着いてきただけの高坂に白羽の矢が立った。この際手元に置けるのならいいと結論を出したらしく、高坂の了承を得ないまま商談は始まり、その間『観用少女』はずっと高坂を見上げて笑っていた。
そして、その日のうちに高坂の部屋に『観用少女』のためのあれやこれが運び込まれた。要人の運転手兼ボディーガードであった高坂にとって、降って沸いた「人形の世話」とあう仕事は不本意なものでしかない。
『観用少女』の世話は簡単なもので、一日三度のミルクを与える他は、愛情を注ぐだけだ。しかしその愛情が、高坂にとっては厄介だった。餌をやるだけならまだしも、大の大人が風呂だ着替えだと人形に振り回されるなど我慢ができない。
「いいじゃないですか、給料倍になるんでしょ?」
「金をもらっても人形遊びなんてしたくない!」
「ま、殿のご命令だから仕方ないね。いいじゃない、かわいいよ」
高坂がはっとして振り返ると、いつの間にか尊敬する上司がやってきている。雑渡は無造作に抱えていたくまのぬいぐるみを左近の膝に置いた。左近は不思議そうに雑渡を見上げたが、笑みを見せることはない。
「ふうん、殿のおっしゃる通りだ。陣左、ちょっと呼んでみてよ」
「……左近」
言われるままに高坂が名を呼べば、左近はぱっとこちらに笑顔を向ける。無垢な笑みはより高坂を苛つかせるのだが、そんなことに気づくほど賢くはないようだ。雑渡は感心したように左近の頭を撫でる。
「愛してくれない男を選んでしまうなんて、今度は君が不運のようだね。」
雑渡はこの生き人形にまつわる不運の話も聞いたようだ。社交界で見せびらかすにはもってこいな話題であることには違いない。――まるで、『観用少女』自身が不運をもたらしていたかのような過去だ。
尊奈門の方は初耳だったのか、雑渡に説明を求めている。その間に左近を見れば、くまのぬいぐるみを膝から転がり落としていた。主人からのいただきものを粗末に扱うことはできない。拾い上げて改めて渡すと、きょとんと高坂を見上げる。
「大事にしなさい」
高坂の言葉を聞いて、左近はようやくぬいぐるみを抱きしめる。その笑顔を見るに、気に入らなかったわけではないらしい。
「ほう。陣左を介せばいいんだね」
「でも高坂さん近いうちに『観用少女』の呪いで死ぬんじゃないですか?」
「ばかばかしい」
「ま、何にせよしっかりお世話するんだよ」
改めて左近を見て、高坂は深く溜息をついた。
*
あたたかい。傍らのぬくもりに手を伸ばす。甘い香りに誘われて眠りから覚めた高坂の視界は、左近がほとんどを占めていた。高坂が起きたことがわかるとご機嫌ですり寄ってくる。
「はぁ……左近、毎日起こしにこなくていいんだよ……」
左近のベッドは別にある。毎晩そこで眠るのを見ているが、朝にはこうして高坂のベッドに潜り込んでいた。どう言っても左近はこの習慣をやめてくれないので、高坂はいつか寝ぼけて傷つけやしないかと気が気でない。
左近は高坂のものではない。毎日のミルクにドレス、バス用品に至るまで全て所有者は高坂の主人だ。
高坂がベッドを降りると左近も跳ね起きる。まずは左近の着替えからだ。きれいなドレスに着替えさせた後はミルクの用意。これは『観用少女』用の高級品は毎朝新鮮なものが届けられる。高坂が仕事に行っている間はメイドに任せているが、それをわからせるまでが一苦労だった。慣れるまではメイドがどんなになだめすかしても差し出したミルクに手をつけず、高坂が帰るまで1日中椅子に座って身動きすらせずにメイドを困らせていたのだ。高坂が帰るとぱっと立ち上がり、高坂が差し出してようやくミルクを口にする。そんな頃から考えれば、高坂を待たずに食事をしてくれるようになっただけで大きな進歩だ。飲まないなら好きにしておけ、というわけにもいかず、徐々に色つやの衰えていく姿に随分焦らされた。
ドアがノックされ、高坂は自分の身支度を整えながら応える。入ってきたのは、そのメイドだ。いつものように、左近のミルクと高坂の朝食を運んできた。
「高坂さんおはようございます」
「おはよう三反田さん」
「左近もおはよう」
メイドの三反田が笑いかけると左近も笑みを見せた。高坂以外に初めて笑いかけた相手は三反田だった。時間はかかったが心を開いてくれて随分と助かっている。
「パーティー、今夜ですよね」
「ああ、夕方には迎えにくるよ」
「ではそれまでに支度しておきます。左近、今夜はパーティーだからうんとおめかししようね」
大人しくテーブルについた左近にミルクを渡し、三反田は笑いかけた。くん、とミルクの匂いに鼻を近づける左近は幼く愛らしい。
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2013'12.27.Fri
えー、ばかばかしいお話を一席。いやぁ今日はね、紋付きなんて仕立ててもらっちまいまして、全く親ばかなんですから。今着てるこれなんですけどね、皆様よぉっく見といて下さい。明日には質屋に並んでます。へへっ、ドケチにゃもったいなくて持っていられませんからね。
ドケチといやぁ、昔こんなことがありました。私の友人に喜三太というナメクジが大好きなやつがおりまして、それはもう目に入れても痛くないとばかりにかわいがっていましてね。ナメ壷なんてぇ壷でナメクジを飼って毎日持ち歩いていたのでございます。ナメクジには1匹ずつ名前があったんですが、さてどんな名だったか忘れましたが、仮にナメ吉としましょうか。ある日ナメクジたちを散歩させていた喜三太はナメ吉がいないことに気がついた。こうなると喜三太はもう気が気じゃなく、飯を食っても風呂に入ってもそればかり。しまいには泣き出したもんだから、仕方なく友人たちで探してやることにしたんです。もちろん私も「お礼は出るかいっ」てな具合でひと口のっかりました。友情だろうが愛情だろうが、無償じゃおまんま食えませんからね。みんなで一匹のナメクジを探すってのはまた、おかしな光景ですよ。床下やら草むらやらを見てますから、はて犬か猫でも迷い込んだのかと人が聞けば、みんな「ナメクジさんやーい!」「ナメ吉やーい!」なんてやっててね。「やい、ナメクジなんか探してどうすんねや」「へえ、焼いて食います」なんてふざけて喜三太に怒られもしましたが、結局その日ナメ吉を見つけたのは私でした。というのも、へへ、軒下に小銭を見つけたんです。おっ、こりゃ儲けたなと思って手を伸ばせば、ぐにょっとしている。銭の上にナメ吉がいたんですな。ナメクジってのは、ありゃ触りたいもんじゃないですね、手のひらで遊ばせてる喜三太は一体どんな神経をしてるんだか。引きはがすのも嫌で小銭ごとナメ吉を持ってった。喜三太は大喜びで、もういなくなっちゃだめだよ、なんて言いながら壷を差し出す。私は返してやろうとナメ吉を差し出したんですが、手から小銭が離れない……いや、小銭からナメクジが離れない。どうにか壷の上でナメクジを落とそうとするんですが、あいつらは張りつくのが生業みたいなもんですからしつこいんです。遂に腕を振ったら小銭が指からすっぽ抜け、ナメクジと一緒にナメ壷に入ってしまった。ドケチが手にした銭を手離したなんてもうこれはドケチ失格です。挽回のためぱっとナメ壷に手を突っ込むと喜三太が悲鳴をあげましたが、そんなことに構っちゃいられません。ナメ壷の中はなんと言いますか、ぬるっと、べたっと、ぬとっと、ぐちゃっと、まあご想像にお任せしますが、とある方は女に似てるなんて言っちゃって、一体どういうことなんでしょうね。さて、そのナメ壷はさほど深くはないので小銭はすぐに見つけかりましたが、底をすくううちに、もう一枚小銭を見つけた。それどころか二枚三枚と底に貼りついている。きっと喜三太が知らずに落としたものだろうとは思いましたが、触れてしまったからにはドケチのものだ。そろって手のひらに握りしめて、壷から腕を抜こうとしたが、抜けない。ま、賢い方はおわかりでしょうが、こうして握ってるもんだから、壷の口より拳の方が大きいんですな。しかし一度握った小銭を残すなんてことをすればドケチの名が泣きます。最終的に仲間内で一番賢い庄左ヱ門が、指に小銭を挟んで指を伸ばして引き抜け、と言いまして、私の手は無事ナメ壷から解放されたのでありましたが、もらえた小銭は外で拾った一枚だけでありました。
私のドケチに関する話はご存じの方は幾つかご存じでしょうが、私は基本的には小銭稼ぎをしております。でかい仕事はしないんですな。一度に大金を持つと、持ち歩けなくなる。何を隠そう、私は全財産を身につけて持ち歩いているのです。この懐に。もし私がこんな安上がりの舞台でだらだらとくだらない話をするだけののんきな商売をしている間に、金を取られてしまっては元も子もございませんからな。
えー、私にはドケチの師匠が何人かおりますが、一番始めに師事したのは長屋の隣に住んでいた西念というインチキ坊主でございました。ぼろっちい身なりであっちへ行っては「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、こっちへ行っては「なんみょうほうれんげ」、そっちへ行ったら「アーメン」ってな具合でちまちまと稼いでおったわけですな。あるときその西念が煩いまして、医者を呼んで薬でも飲めば治ったのかもわかりませんが、ドケチというのはとにかく金を使うのが嫌いです。そんなことに金を使うぐらいなら、自然に治るのを待ってうずくまってた方がましだってんで、ずっと食うものも食わず臥せっていた。あまりにも姿を見かけないもんで、さすがに心配になって私も様子を見に行ったんです。
「やーい、西念さん、加減はどうだい」「何持ってきたぁ」「死にそうな声で何ほざいてやがる。あれあれ、元々細いのに骨と皮じゃないか。直に骨だけになっちまうぜ」「なんだきり丸か」
見舞いにきたってのになんだはねえだろ、つれねぇな。ちゃんと食ってんのかい?だめだよ飯は食わねえと。体は資本ってぇんだから。何か買ってきてやろうか、食べたいもの、何かあるだろ。え、言ってみな。今日だけ特別にタダで頼まれてやるからよ。何?……あんころ餅だぁ?具合が悪いってのにンな喉につまりそうなもんが食いてぇとは変わった坊主だ。まあいいや、買ってきてやるよ。ほれ。……ほれ、金出せよ。あ?あったり前じゃねえかドケチが金出せるかよ。……何、見舞いに来た方が出すのが道理だ?ったく余計なこと言っちまったぜ、しょうがねぇなぁ。どれぐらい欲しいんでぃ……何?ひと山?そんなに食うのかい?しんべヱ並の食欲じゃねえか!なんぼ何でもそれは聞けねえ頼みだな、と西念の部屋から逃げ出したものの、棺桶に片足つっこんでる病人の望みを無視するのはさすがのドケチでも少々後味が悪い。なんと言っても、何かの間違いで元気になって、恨み節でも聞かされちゃたまらない。こうなった手前手ぶらで西念のところに戻るわけにも行かないってんで、仕方なく餅屋まで行ったはいいものの、握りしめた拳からは小銭は離れてくれず、結局俺は餅屋の亭主に値切りに値切って餅をひと山手に入れた。
「ほら西念さん、お望みの餅だよ。ひと山だよ!ったく、ドケチが大枚叩いたんだからこれで元気になってくれなきゃ丸損だよ」「おお、ありがとよ」「ほら食いなよ。身を切る思いで買ってきたんだからよ、これ食って元気になってもらわなきゃやってらんねぇぜ」「ありがたくいただくよ」「おう、食いねぇ」「いただくよ」「たんと食え」「そうするよ」
なんて言いながら、西念はこちらを気にしてるだけで餅に手を出そうとしない。……何してんだよ、食いなよ。何?食べるところを見られたくないだぁ?何を女々しいことを言ってんだい、こちとら金出して見舞ってんだ、ちゃぁんとこの目の前で食べてくれなきゃ丸損だ。ほれ、あいたッ!なんだよ、叩くこたァねぇだろ。ったく、病人の癖にいじきたねぇ奴だぜ。それなら俺ァ帰るからよ、ちゃんと食って寝ろよ!ったく何考えてやがんだ。ほんとにちゃんと食ってんだろうな?まさか俺に買わせたものを売っぱらって儲ける気じゃあるめえな!
出てきたものの気になってしょうがないもんで、ボロっちい長屋の壁が隙間だらけなのをいいことに隣の部屋を覗きました。ったく、ほんとにドケチな坊主だぜ。食うとこ見てるぐらいで減りゃしないってんだ。ようやく起きあがってやがらぁ、背中ばっかりでよく見えねえな。もそもそと何かやってやがる。ありゃあ……なんだ?やっこさん、あんこと餅を分けてやがる。
ドケチといやぁ、昔こんなことがありました。私の友人に喜三太というナメクジが大好きなやつがおりまして、それはもう目に入れても痛くないとばかりにかわいがっていましてね。ナメ壷なんてぇ壷でナメクジを飼って毎日持ち歩いていたのでございます。ナメクジには1匹ずつ名前があったんですが、さてどんな名だったか忘れましたが、仮にナメ吉としましょうか。ある日ナメクジたちを散歩させていた喜三太はナメ吉がいないことに気がついた。こうなると喜三太はもう気が気じゃなく、飯を食っても風呂に入ってもそればかり。しまいには泣き出したもんだから、仕方なく友人たちで探してやることにしたんです。もちろん私も「お礼は出るかいっ」てな具合でひと口のっかりました。友情だろうが愛情だろうが、無償じゃおまんま食えませんからね。みんなで一匹のナメクジを探すってのはまた、おかしな光景ですよ。床下やら草むらやらを見てますから、はて犬か猫でも迷い込んだのかと人が聞けば、みんな「ナメクジさんやーい!」「ナメ吉やーい!」なんてやっててね。「やい、ナメクジなんか探してどうすんねや」「へえ、焼いて食います」なんてふざけて喜三太に怒られもしましたが、結局その日ナメ吉を見つけたのは私でした。というのも、へへ、軒下に小銭を見つけたんです。おっ、こりゃ儲けたなと思って手を伸ばせば、ぐにょっとしている。銭の上にナメ吉がいたんですな。ナメクジってのは、ありゃ触りたいもんじゃないですね、手のひらで遊ばせてる喜三太は一体どんな神経をしてるんだか。引きはがすのも嫌で小銭ごとナメ吉を持ってった。喜三太は大喜びで、もういなくなっちゃだめだよ、なんて言いながら壷を差し出す。私は返してやろうとナメ吉を差し出したんですが、手から小銭が離れない……いや、小銭からナメクジが離れない。どうにか壷の上でナメクジを落とそうとするんですが、あいつらは張りつくのが生業みたいなもんですからしつこいんです。遂に腕を振ったら小銭が指からすっぽ抜け、ナメクジと一緒にナメ壷に入ってしまった。ドケチが手にした銭を手離したなんてもうこれはドケチ失格です。挽回のためぱっとナメ壷に手を突っ込むと喜三太が悲鳴をあげましたが、そんなことに構っちゃいられません。ナメ壷の中はなんと言いますか、ぬるっと、べたっと、ぬとっと、ぐちゃっと、まあご想像にお任せしますが、とある方は女に似てるなんて言っちゃって、一体どういうことなんでしょうね。さて、そのナメ壷はさほど深くはないので小銭はすぐに見つけかりましたが、底をすくううちに、もう一枚小銭を見つけた。それどころか二枚三枚と底に貼りついている。きっと喜三太が知らずに落としたものだろうとは思いましたが、触れてしまったからにはドケチのものだ。そろって手のひらに握りしめて、壷から腕を抜こうとしたが、抜けない。ま、賢い方はおわかりでしょうが、こうして握ってるもんだから、壷の口より拳の方が大きいんですな。しかし一度握った小銭を残すなんてことをすればドケチの名が泣きます。最終的に仲間内で一番賢い庄左ヱ門が、指に小銭を挟んで指を伸ばして引き抜け、と言いまして、私の手は無事ナメ壷から解放されたのでありましたが、もらえた小銭は外で拾った一枚だけでありました。
私のドケチに関する話はご存じの方は幾つかご存じでしょうが、私は基本的には小銭稼ぎをしております。でかい仕事はしないんですな。一度に大金を持つと、持ち歩けなくなる。何を隠そう、私は全財産を身につけて持ち歩いているのです。この懐に。もし私がこんな安上がりの舞台でだらだらとくだらない話をするだけののんきな商売をしている間に、金を取られてしまっては元も子もございませんからな。
えー、私にはドケチの師匠が何人かおりますが、一番始めに師事したのは長屋の隣に住んでいた西念というインチキ坊主でございました。ぼろっちい身なりであっちへ行っては「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、こっちへ行っては「なんみょうほうれんげ」、そっちへ行ったら「アーメン」ってな具合でちまちまと稼いでおったわけですな。あるときその西念が煩いまして、医者を呼んで薬でも飲めば治ったのかもわかりませんが、ドケチというのはとにかく金を使うのが嫌いです。そんなことに金を使うぐらいなら、自然に治るのを待ってうずくまってた方がましだってんで、ずっと食うものも食わず臥せっていた。あまりにも姿を見かけないもんで、さすがに心配になって私も様子を見に行ったんです。
「やーい、西念さん、加減はどうだい」「何持ってきたぁ」「死にそうな声で何ほざいてやがる。あれあれ、元々細いのに骨と皮じゃないか。直に骨だけになっちまうぜ」「なんだきり丸か」
見舞いにきたってのになんだはねえだろ、つれねぇな。ちゃんと食ってんのかい?だめだよ飯は食わねえと。体は資本ってぇんだから。何か買ってきてやろうか、食べたいもの、何かあるだろ。え、言ってみな。今日だけ特別にタダで頼まれてやるからよ。何?……あんころ餅だぁ?具合が悪いってのにンな喉につまりそうなもんが食いてぇとは変わった坊主だ。まあいいや、買ってきてやるよ。ほれ。……ほれ、金出せよ。あ?あったり前じゃねえかドケチが金出せるかよ。……何、見舞いに来た方が出すのが道理だ?ったく余計なこと言っちまったぜ、しょうがねぇなぁ。どれぐらい欲しいんでぃ……何?ひと山?そんなに食うのかい?しんべヱ並の食欲じゃねえか!なんぼ何でもそれは聞けねえ頼みだな、と西念の部屋から逃げ出したものの、棺桶に片足つっこんでる病人の望みを無視するのはさすがのドケチでも少々後味が悪い。なんと言っても、何かの間違いで元気になって、恨み節でも聞かされちゃたまらない。こうなった手前手ぶらで西念のところに戻るわけにも行かないってんで、仕方なく餅屋まで行ったはいいものの、握りしめた拳からは小銭は離れてくれず、結局俺は餅屋の亭主に値切りに値切って餅をひと山手に入れた。
「ほら西念さん、お望みの餅だよ。ひと山だよ!ったく、ドケチが大枚叩いたんだからこれで元気になってくれなきゃ丸損だよ」「おお、ありがとよ」「ほら食いなよ。身を切る思いで買ってきたんだからよ、これ食って元気になってもらわなきゃやってらんねぇぜ」「ありがたくいただくよ」「おう、食いねぇ」「いただくよ」「たんと食え」「そうするよ」
なんて言いながら、西念はこちらを気にしてるだけで餅に手を出そうとしない。……何してんだよ、食いなよ。何?食べるところを見られたくないだぁ?何を女々しいことを言ってんだい、こちとら金出して見舞ってんだ、ちゃぁんとこの目の前で食べてくれなきゃ丸損だ。ほれ、あいたッ!なんだよ、叩くこたァねぇだろ。ったく、病人の癖にいじきたねぇ奴だぜ。それなら俺ァ帰るからよ、ちゃんと食って寝ろよ!ったく何考えてやがんだ。ほんとにちゃんと食ってんだろうな?まさか俺に買わせたものを売っぱらって儲ける気じゃあるめえな!
出てきたものの気になってしょうがないもんで、ボロっちい長屋の壁が隙間だらけなのをいいことに隣の部屋を覗きました。ったく、ほんとにドケチな坊主だぜ。食うとこ見てるぐらいで減りゃしないってんだ。ようやく起きあがってやがらぁ、背中ばっかりでよく見えねえな。もそもそと何かやってやがる。ありゃあ……なんだ?やっこさん、あんこと餅を分けてやがる。
2013'12.27.Fri
「数馬、藤内、左門と三之助見なかったか?」
部屋に顔を出した作兵衛に、三年は組のふたりは首を振った。そうか、と答えた作兵衛には、いつもの切羽詰まった様子がない。
作兵衛と同じクラスに、神崎左門と次屋三之助というふたりの厄介な方向音痴がいる。どちらも帰巣本能はあるのか、時間はかかるがいずれ帰っては来る。来るのだが、それが夕方なのか明日になるのか、はたまた数日かかるのかわからないという有様だ。無自覚である次屋はさておき、自分の方向音痴を自覚している左門にはもう少し自制してほしいところだが、そんなことは思いつきもしないらしい。
必然的にふたりの迷子の手綱を握っているのは富松の役割となっていたが、富松とて自分のするべきことがあり、いつもふたりを見張っているわけにはいかなかった。そして迷子を探すたびに大騒ぎをするのである。
しかし今日の富松には、いつもの狼狽した様子は見られなかった。
「焦らなくていいの?」
数馬の問いに、富松は庭に視線を遣る。何の変哲もない庭の隅で、ぱっと目を引く赤い花が咲いていた。
「あいつらなぜか、彼岸花が咲いてる時期はちゃんと帰ってくるんだ」
炎のような、或いは指をいっぱいに広げた手のような、天を向くそれは。
*
「うーむ、これは迷ったか」
迷い込んだ山の中で、左門は腕を組んで胸を張る。じっと何かを考えている様子だが、その実何も考えていない。カッと目を見開いて、直感で行き先を選ぶ。
「こっちだ!」
ざっと足元を鳴らして走り出した。幸いにも健脚であるので、多少の迷い道は苦ではない。ざくざくと威勢よく走る左門の視界の端に、ぱっと赤が散った。反射的に足を止め、左門は自分が目指していた方角と、きれいに並んで咲き誇る、彼岸花を見比べる。
今年ももう、彼岸花の咲く季節か。
どうやらまたしても自分の勘は間違っていたようである。左門は素直に進行方向を変え、彼岸花を辿って走り出した。
彼岸花が咲く先には、いつも富松の姿があった。
同じ頃、やはり山中で迷っていた次屋も彼岸花を見つけていた。
体育委員会の活動中にはぐれたらしい。らしいというのは自覚がないからである。次屋にしてみれば先輩について行っていたのだが、気づけば先輩が視界から消えていたのだ。ちゃんと後輩を射ておいてくれないと、と勝手なことを考えて溜息をついた先に、まぶしい赤が咲いていた。線の細い華奢な姿と見せかけて案外丈夫な茎を撫で、どうしたものかと考える。
先輩たちを追うべきか、待つべきか。どのみちいつも勝手な行動をするなと滝夜叉丸に怒られるのだから、どう振る舞っても結果は同じだろう。
そういえば、と思い、彼岸花を見下ろす。
富松は彼岸花が好きであるらしい。いつもこの季節は機嫌がよくて、彼岸花を見かけては手をかざす。土産に摘んで帰ろうか、とも思ったが、学園が火事になっては問題だ。次屋は迷信を信じるような子どもではないが、後輩を怖がらせてはいけないからな、と理由づける。
そういえば、保健委員の数馬にも彼岸花には触らない方がいいと怒られた。この燃えるような花は毒を持つ証拠であるらしい。
なおもどうするかと考えている間に滝夜叉丸の声が聞こえた。声を返すと、先輩の声は近づいてくる。
*
彼岸花の季節は短い。田畑を照らすような赤々とした鮮やかさは次第に色褪せて枯れていく。
その姿は死人花と呼ばれるのもわかるような気がするもので、あまりあの花を好まない人が多いのも納得できる気がした。学園の庭の隅に咲いていた彼岸花もほとんどその色をなくしてしまっている。
「
作兵衛まだかなー」
数馬が入れてくれたお茶をすすりながら次屋が呟くと、そうだねえ、と数馬が返す。三年は組のふたりの部屋に来てから、もうずいぶん待っているような気がした。
富松が委員会の後輩においしいお団子のお店ができた、と聞いて、みんなの分を買いに行ってくれている。始めは左門と次屋も行くと言っていたのだが、それはさりげなく委員会の先輩がフォローしてくれて、彼らに行けない理由を与えてくれたのだ。会計委員に呼ばれた左門も間もなく戻るだろう。
「うーん、ねえ、ろ組はどこまで進んだ?」
「どれ?」
部屋の中でうんうんうなっていた藤内が、遂に音をあげた。次屋が彼の開いていた帳面を覗き込む。
「あー、ここまだだ。孫兵に聞けば?」
「どんどん予習が大変になるなぁ」
「藤内は自分で大変にしてるんだよ」
「こらこら、三之助」
言葉を選ばない友人をたしなめる数馬だが、藤内はまたすぐに予習に集中していて聞いていなかったようだ。
「おおっ、ついた!」
「あ、左門お帰り、お疲れ様」
左門が件の孫兵とじゅんこを伴ってやってきた。どうやら彼に連れてきてもらったらしい。学園の中は彼岸花が咲いていないから迷うのだという。
「みんな揃ってどうしたの?作兵衛は?」
「作兵衛は団子を買いに行ったよ」
「……団子?」
孫兵が眉をひそめ、残りの三年生は各々顔を見合わせた。どうした、と左門が代表して聞けば、孫兵は困ったように口を開く。
「それ、もしかしてしんべヱが言ってた店?」
「そう言ってたけど」
「今、そこ、先輩たちが調べてる。どこかの忍者が関わってるみたいで、竹谷先輩に近づくなって言われたんだけど……」
孫兵が言い切るより早く、ざっと左門と次屋が立ち上がる。飛び出そうとするのを慌てて孫兵と藤内がそれぞれを捕まえた。
「行ってどうするの、まだ何もわからないのに」
「そうだとしてもひとりで歩かせるよりはましだろ」
「もー、救急箱用意するからちょっと待って」
「ぼくもじゅんこを預けてくる」
「外出届もらってくるよ。早く出たいなら、左門と三之助はここから動かないでね!」
それぞれが部屋を飛び出していく。残された左門たちは一瞬ぽかんとし、しかしすぐに座り心地が悪そうにそわそわと尻を動かした。
支度のできたみんなで揃って、五人で学園を飛び出した。始めはおおよその場所を聞いていた孫兵が先導する。何もないならそれでいい。みんなで揃って帰ればいいだけだ。
道端の彼岸花がぞっとするほどの鮮やかさで揺れている。
山に入るとより鮮やかに咲き誇り、孫兵は戸惑って足を止めた。もうほとんど山の彼岸花も枯れ花ばかりであったように思うのに。
「あっちだ!」
指を差すなり方向を変えた左門を藤内が慌てて捕まえたが、その側を次屋が走り抜ける。戸惑う彼らが顔を向けたその先は、彼岸花がぞろりと並んでいる。
「何、これ」
「彼岸花の先には作兵衛がいる」
ぐずぐずしているうちに次屋を見失いそうで、左門に引っ張られるように走り出す。
導くように並ぶ彼岸花をなぞる。それはやがて真っ赤な線になり、更に集まって太くなる。こんな群生を見たことがない。
「……これ」
青い顔で藤内がつぶやく。
「集まってる」
土を埋め尽くすように溢れる彼岸花を、前を行く次屋と左門が蹴散らした。言葉のない背中が早くと急かす。早く、早く。
「うおっ」
ズッ、と足元を滑らせた左門を慌てて次屋が捕まえた。一緒に滑って転がったその先は、崩れ落ちて崖になっている。彼岸花はその下へとまだ向かっていて、追いついた孫兵が顔を出して息を飲んだ。
一面に赤い、池のような。
溢れ帰る真っ赤な彼岸花の中に、倒れこむ富松を見つける。まるで血の池に飲み込まれるような光景に足が震えた。
「作兵衛!」
体勢を直した左門が迷わず飛び出した。そう高さはなかったらしいが、ぎょっと驚く友人をよそに次屋もためらわずに飛び降りる。
「ッ、行こう」
孫兵たちも揃って後に続いた。赤い花を散らして倒れた富松を左門が抱き起こし、次屋が辺りの花を蹴っている。
「作兵衛!怪我は?」
「大丈夫そうだ。起きないけど」
「見せて」
数馬が富松に駆け寄った。彼岸花を見て溜息をつく次屋に、孫兵が近づく。
「先輩呼ぼうか」
「大丈夫。多分そのうち散る」
「何なの、これ。こんなのどう予習したらいいんだよ」
「しなくていいよ。藤内は彼岸花に襲われないだろうし」
「まぁ、藤内は大丈夫だろうなぁ」
「何それ、孫兵まで」
「……好かれる人、ってのは、いるんだよ」
孫兵が振り返ると、富松が小さく呻いた。彼のまぶたがゆっくり上がる、それと同時に、ざっと赤い花が引いて行った。そこに何も咲いていなかったかのように、音もなく姿を消してしまう。
「作兵衛、大丈夫?」
「ん……?」
体を起こした富松は状況が掴めずにきょろきょろしている。
「おーい!何してる!」
耳に慣れた声に崖の上にを振り返ると、先輩の姿がそこにあった。注意したはずだ、と言いたげな竹谷の顔に、孫兵はそっと顔をそらす。
「おい、作兵衛か?」
身軽に降りてきたのは富松の委員会の先輩だった。続いて保健委員の伊作も降りて駆け寄っていく。竹谷から隠れようと藤内を盾にした孫兵も、友人越しに小突かれた。
「花に好かれてるのは富松か?」
「そうみたいです。ぼくも初めて知りました」
「……来年から気をつけてやれ。あと、孫兵はちゃんとじゅんこ連れてこい」
「そうします」
「え〜、生物委員って怖いですね」
「おれは作法委員の方が怖い」
藤内の言葉に竹谷は笑う。富松が立ち上がって怪我もない様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
*
「彼岸花、すっかり枯れちまったなー」
溜息をつく富松に、お茶をすすっていた数馬はやや不満げな顔をする。あんなに咲き誇る彼岸花を見たのは初めてで、できれはもう思い出したくもない。だというのに、当の富松は何も見ていないのだという。
「あれ便利なんだよなぁ、あいつら探し回らなくていいからさ」
色の抜けて灰のような枯れ花が学園の隅で立ち尽くしている。あれは一体どこからやってくるのだろう。風に乗って飛ぶ種ではないはずなのに、何もないところから突然咲き始める赤い花を、もう素直に愛でることはできないように思えた。
部屋に顔を出した作兵衛に、三年は組のふたりは首を振った。そうか、と答えた作兵衛には、いつもの切羽詰まった様子がない。
作兵衛と同じクラスに、神崎左門と次屋三之助というふたりの厄介な方向音痴がいる。どちらも帰巣本能はあるのか、時間はかかるがいずれ帰っては来る。来るのだが、それが夕方なのか明日になるのか、はたまた数日かかるのかわからないという有様だ。無自覚である次屋はさておき、自分の方向音痴を自覚している左門にはもう少し自制してほしいところだが、そんなことは思いつきもしないらしい。
必然的にふたりの迷子の手綱を握っているのは富松の役割となっていたが、富松とて自分のするべきことがあり、いつもふたりを見張っているわけにはいかなかった。そして迷子を探すたびに大騒ぎをするのである。
しかし今日の富松には、いつもの狼狽した様子は見られなかった。
「焦らなくていいの?」
数馬の問いに、富松は庭に視線を遣る。何の変哲もない庭の隅で、ぱっと目を引く赤い花が咲いていた。
「あいつらなぜか、彼岸花が咲いてる時期はちゃんと帰ってくるんだ」
炎のような、或いは指をいっぱいに広げた手のような、天を向くそれは。
*
「うーむ、これは迷ったか」
迷い込んだ山の中で、左門は腕を組んで胸を張る。じっと何かを考えている様子だが、その実何も考えていない。カッと目を見開いて、直感で行き先を選ぶ。
「こっちだ!」
ざっと足元を鳴らして走り出した。幸いにも健脚であるので、多少の迷い道は苦ではない。ざくざくと威勢よく走る左門の視界の端に、ぱっと赤が散った。反射的に足を止め、左門は自分が目指していた方角と、きれいに並んで咲き誇る、彼岸花を見比べる。
今年ももう、彼岸花の咲く季節か。
どうやらまたしても自分の勘は間違っていたようである。左門は素直に進行方向を変え、彼岸花を辿って走り出した。
彼岸花が咲く先には、いつも富松の姿があった。
同じ頃、やはり山中で迷っていた次屋も彼岸花を見つけていた。
体育委員会の活動中にはぐれたらしい。らしいというのは自覚がないからである。次屋にしてみれば先輩について行っていたのだが、気づけば先輩が視界から消えていたのだ。ちゃんと後輩を射ておいてくれないと、と勝手なことを考えて溜息をついた先に、まぶしい赤が咲いていた。線の細い華奢な姿と見せかけて案外丈夫な茎を撫で、どうしたものかと考える。
先輩たちを追うべきか、待つべきか。どのみちいつも勝手な行動をするなと滝夜叉丸に怒られるのだから、どう振る舞っても結果は同じだろう。
そういえば、と思い、彼岸花を見下ろす。
富松は彼岸花が好きであるらしい。いつもこの季節は機嫌がよくて、彼岸花を見かけては手をかざす。土産に摘んで帰ろうか、とも思ったが、学園が火事になっては問題だ。次屋は迷信を信じるような子どもではないが、後輩を怖がらせてはいけないからな、と理由づける。
そういえば、保健委員の数馬にも彼岸花には触らない方がいいと怒られた。この燃えるような花は毒を持つ証拠であるらしい。
なおもどうするかと考えている間に滝夜叉丸の声が聞こえた。声を返すと、先輩の声は近づいてくる。
*
彼岸花の季節は短い。田畑を照らすような赤々とした鮮やかさは次第に色褪せて枯れていく。
その姿は死人花と呼ばれるのもわかるような気がするもので、あまりあの花を好まない人が多いのも納得できる気がした。学園の庭の隅に咲いていた彼岸花もほとんどその色をなくしてしまっている。
「
作兵衛まだかなー」
数馬が入れてくれたお茶をすすりながら次屋が呟くと、そうだねえ、と数馬が返す。三年は組のふたりの部屋に来てから、もうずいぶん待っているような気がした。
富松が委員会の後輩においしいお団子のお店ができた、と聞いて、みんなの分を買いに行ってくれている。始めは左門と次屋も行くと言っていたのだが、それはさりげなく委員会の先輩がフォローしてくれて、彼らに行けない理由を与えてくれたのだ。会計委員に呼ばれた左門も間もなく戻るだろう。
「うーん、ねえ、ろ組はどこまで進んだ?」
「どれ?」
部屋の中でうんうんうなっていた藤内が、遂に音をあげた。次屋が彼の開いていた帳面を覗き込む。
「あー、ここまだだ。孫兵に聞けば?」
「どんどん予習が大変になるなぁ」
「藤内は自分で大変にしてるんだよ」
「こらこら、三之助」
言葉を選ばない友人をたしなめる数馬だが、藤内はまたすぐに予習に集中していて聞いていなかったようだ。
「おおっ、ついた!」
「あ、左門お帰り、お疲れ様」
左門が件の孫兵とじゅんこを伴ってやってきた。どうやら彼に連れてきてもらったらしい。学園の中は彼岸花が咲いていないから迷うのだという。
「みんな揃ってどうしたの?作兵衛は?」
「作兵衛は団子を買いに行ったよ」
「……団子?」
孫兵が眉をひそめ、残りの三年生は各々顔を見合わせた。どうした、と左門が代表して聞けば、孫兵は困ったように口を開く。
「それ、もしかしてしんべヱが言ってた店?」
「そう言ってたけど」
「今、そこ、先輩たちが調べてる。どこかの忍者が関わってるみたいで、竹谷先輩に近づくなって言われたんだけど……」
孫兵が言い切るより早く、ざっと左門と次屋が立ち上がる。飛び出そうとするのを慌てて孫兵と藤内がそれぞれを捕まえた。
「行ってどうするの、まだ何もわからないのに」
「そうだとしてもひとりで歩かせるよりはましだろ」
「もー、救急箱用意するからちょっと待って」
「ぼくもじゅんこを預けてくる」
「外出届もらってくるよ。早く出たいなら、左門と三之助はここから動かないでね!」
それぞれが部屋を飛び出していく。残された左門たちは一瞬ぽかんとし、しかしすぐに座り心地が悪そうにそわそわと尻を動かした。
支度のできたみんなで揃って、五人で学園を飛び出した。始めはおおよその場所を聞いていた孫兵が先導する。何もないならそれでいい。みんなで揃って帰ればいいだけだ。
道端の彼岸花がぞっとするほどの鮮やかさで揺れている。
山に入るとより鮮やかに咲き誇り、孫兵は戸惑って足を止めた。もうほとんど山の彼岸花も枯れ花ばかりであったように思うのに。
「あっちだ!」
指を差すなり方向を変えた左門を藤内が慌てて捕まえたが、その側を次屋が走り抜ける。戸惑う彼らが顔を向けたその先は、彼岸花がぞろりと並んでいる。
「何、これ」
「彼岸花の先には作兵衛がいる」
ぐずぐずしているうちに次屋を見失いそうで、左門に引っ張られるように走り出す。
導くように並ぶ彼岸花をなぞる。それはやがて真っ赤な線になり、更に集まって太くなる。こんな群生を見たことがない。
「……これ」
青い顔で藤内がつぶやく。
「集まってる」
土を埋め尽くすように溢れる彼岸花を、前を行く次屋と左門が蹴散らした。言葉のない背中が早くと急かす。早く、早く。
「うおっ」
ズッ、と足元を滑らせた左門を慌てて次屋が捕まえた。一緒に滑って転がったその先は、崩れ落ちて崖になっている。彼岸花はその下へとまだ向かっていて、追いついた孫兵が顔を出して息を飲んだ。
一面に赤い、池のような。
溢れ帰る真っ赤な彼岸花の中に、倒れこむ富松を見つける。まるで血の池に飲み込まれるような光景に足が震えた。
「作兵衛!」
体勢を直した左門が迷わず飛び出した。そう高さはなかったらしいが、ぎょっと驚く友人をよそに次屋もためらわずに飛び降りる。
「ッ、行こう」
孫兵たちも揃って後に続いた。赤い花を散らして倒れた富松を左門が抱き起こし、次屋が辺りの花を蹴っている。
「作兵衛!怪我は?」
「大丈夫そうだ。起きないけど」
「見せて」
数馬が富松に駆け寄った。彼岸花を見て溜息をつく次屋に、孫兵が近づく。
「先輩呼ぼうか」
「大丈夫。多分そのうち散る」
「何なの、これ。こんなのどう予習したらいいんだよ」
「しなくていいよ。藤内は彼岸花に襲われないだろうし」
「まぁ、藤内は大丈夫だろうなぁ」
「何それ、孫兵まで」
「……好かれる人、ってのは、いるんだよ」
孫兵が振り返ると、富松が小さく呻いた。彼のまぶたがゆっくり上がる、それと同時に、ざっと赤い花が引いて行った。そこに何も咲いていなかったかのように、音もなく姿を消してしまう。
「作兵衛、大丈夫?」
「ん……?」
体を起こした富松は状況が掴めずにきょろきょろしている。
「おーい!何してる!」
耳に慣れた声に崖の上にを振り返ると、先輩の姿がそこにあった。注意したはずだ、と言いたげな竹谷の顔に、孫兵はそっと顔をそらす。
「おい、作兵衛か?」
身軽に降りてきたのは富松の委員会の先輩だった。続いて保健委員の伊作も降りて駆け寄っていく。竹谷から隠れようと藤内を盾にした孫兵も、友人越しに小突かれた。
「花に好かれてるのは富松か?」
「そうみたいです。ぼくも初めて知りました」
「……来年から気をつけてやれ。あと、孫兵はちゃんとじゅんこ連れてこい」
「そうします」
「え〜、生物委員って怖いですね」
「おれは作法委員の方が怖い」
藤内の言葉に竹谷は笑う。富松が立ち上がって怪我もない様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
*
「彼岸花、すっかり枯れちまったなー」
溜息をつく富松に、お茶をすすっていた数馬はやや不満げな顔をする。あんなに咲き誇る彼岸花を見たのは初めてで、できれはもう思い出したくもない。だというのに、当の富松は何も見ていないのだという。
「あれ便利なんだよなぁ、あいつら探し回らなくていいからさ」
色の抜けて灰のような枯れ花が学園の隅で立ち尽くしている。あれは一体どこからやってくるのだろう。風に乗って飛ぶ種ではないはずなのに、何もないところから突然咲き始める赤い花を、もう素直に愛でることはできないように思えた。
2013'12.25.Wed
「意外だね、作法委員がクリスマスパーティーしないなんて」
伊助に言われて兵太夫は思わず溜息をついた。そうなのだ。兵太夫の所属する作法委員は前委員長がイベント事には積極的で、去年は終業式の後に委員会でクリスマスパーティーをしたのだ。その余興用に兵太夫はびっくり箱を作ったのだが、今年は出番がなさそうだ。
「今年は立花先輩と綾部先輩、ふたりでデートなんだって」
「ふーん。まぁ綾部先輩が率先してパーティー開くとは思えないもんね」
「だよねぇ。伊助は?」
「今年は僕が委員会でクリスマスパーティー」
「……さっさと告白して、三郎次と一緒に過ごせばいいのに」
「僕のペースでやるからいいんですー」
「あっそ。じゃーね、良い年を」
「じゃあね、また来年。よいお年を」
教室を出ていく伊助はあからさまに浮かれた様子を見せてはいなかったが、楽しみではあるのだろう。ほとんどの生徒が帰ってしまった教室で、兵太夫は特に何をするでもなく時間を持て余す。今日は三治郎と遊びに行く約束にしてはいたが、都合が悪くなってしまったのだ。早く帰っても得にすることがない、と言って、残っていてもすることがない。
昨日作ったびっくり箱を取り出した。漫画のようにお約束通りのびっくり箱で、ふたを開けるとばねの仕掛けでサンタクロースの人形が飛び出す仕掛けだ。ただしその下には本当のプレゼントを入れることができるようになっている。
折角だから誰かにあげればよかった、と思い教室を見渡した。もう生徒は半分以上帰ってしまっている。
「せーのっ!」
教室の後ろに集まっていた男子の一団が、一斉に開いているのは通知表だ。男子ってどうしてあんなに馬鹿なんだろう、と兵太夫は顔をしかめる。
「団蔵、お前体育以外絶望的じゃん」
「団蔵のは字が読めないせいじゃねえの?」
「俺先生が読めないところ聞きに来てたから大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろそれ」
輪の中心で笑う団蔵を見て、兵太夫は更に眉間のしわを深くした。
――思いだしてしまったのだ。渡せるはずのないクリスマスプレゼントを買ってしまったことを。
団蔵を意識し出したのは正確にはいつか覚えていない。しかし少なくとも去年のこの時期には団蔵のことが好きだった。季節が巡っても自分は意地を張ることしかできなくて、きっと団蔵にとっては自分はかわいくない女だろう。
何気なく買い物をしていたときに、ふと思い立って買ってしまったプレゼント。どうしてあの時は、渡せるなんて思ったのだろう。
しかめっ面にも疲れて力を抜き、溜息をつく。することもないから帰ろうか、と荷物をまとめかけ、びっくり箱を手にして考えた。
*
兵太夫がケーキの生クリームを泡立てていると、呼び鈴が鳴った。予定がなくなったので家でクリスマスを過ごすとわかると父親がそわそわし始めたので、娘をかわいがる父のためにケーキを焼いたところだったのだ。家人は手が塞がっており、兵太夫は生クリームを置いて玄関へ向かった。
せっかちな客人がもう一度チャイムを鳴らし、慌ててドアに飛びつく。父親への急ぎの用かもしれない。そう思った兵太夫がドアを開けると、――そこに立っていたのは団蔵だった。
硬直する兵太夫に気づいているのかいないのか、団蔵はいつも通りの明るい笑顔でこちらを見る。
「どーも!加藤運送です!」
差し出されたものにはっとして受け取ると、それは父親宛ての宅配便だ。そこでやっと、団蔵が家業の手伝いで兵太夫のうちに来たのだと思いつく。
――少し考えればわかることだ。団蔵が、兵太夫に用があるはずがないのに。
「兵太夫?」
「……何でも。今日、忙しいの?」
「まぁなー、結構宅配でプレゼント送る人いるんだ」
「ふうん。サインどこ?」
「あ、こちらにお願いしまーっす」
団蔵が伝票を指差した、その手を見て兵太夫は息を飲んだ。団蔵が手袋をしている。それは、兵太夫が目に焼きつくほど眺めたことのあるものだ。
手が震えていないか意識しながらどうにかサインをする。団蔵の顔を見ることができずに、俯いたまま荷物を受け取った。
「あとこれ、メリークリスマス」
箱の上にぽんと置かれたものは、リボンのかかったプレゼントだ。兵太夫が顔を上げると、団蔵はやはりいつも通りの笑顔を返す。
「なんかいい匂いする」
「え、あ、ケーキ焼いてた」
「マジ?いいな〜俺いつ飯食えるんだろ。あ、庄ちゃんとみんなで初詣行こうって言ってたんだ。兵太夫も行ける?」
「い、行けると思う」
「じゃあまた連絡するな。毎度、ありがとうございやしたーっ」
ふざけた調子で仕事を終えて、団蔵は丁寧にドアを閉めていく。メリークリスマスひとつ言えなかった兵太夫は、ただ玄関で立ち尽くした。
帰る前に、びっくり箱を団蔵の下駄箱に押し込んだ。その中に、プレゼントのつもりで買った手袋を仕込んで。名前も書かないプレゼント、見つけてもらえるかもわからなかったプレゼント。それでもきっと、あんな子どもじみたことをするのは兵太夫ぐらいだと、団蔵ならわかってくれるんじゃないかと――
じわり、と遅れて顔が熱くなる。
男の子はずるい。いつも馬鹿なところしか見せないくせに。
伊助に言われて兵太夫は思わず溜息をついた。そうなのだ。兵太夫の所属する作法委員は前委員長がイベント事には積極的で、去年は終業式の後に委員会でクリスマスパーティーをしたのだ。その余興用に兵太夫はびっくり箱を作ったのだが、今年は出番がなさそうだ。
「今年は立花先輩と綾部先輩、ふたりでデートなんだって」
「ふーん。まぁ綾部先輩が率先してパーティー開くとは思えないもんね」
「だよねぇ。伊助は?」
「今年は僕が委員会でクリスマスパーティー」
「……さっさと告白して、三郎次と一緒に過ごせばいいのに」
「僕のペースでやるからいいんですー」
「あっそ。じゃーね、良い年を」
「じゃあね、また来年。よいお年を」
教室を出ていく伊助はあからさまに浮かれた様子を見せてはいなかったが、楽しみではあるのだろう。ほとんどの生徒が帰ってしまった教室で、兵太夫は特に何をするでもなく時間を持て余す。今日は三治郎と遊びに行く約束にしてはいたが、都合が悪くなってしまったのだ。早く帰っても得にすることがない、と言って、残っていてもすることがない。
昨日作ったびっくり箱を取り出した。漫画のようにお約束通りのびっくり箱で、ふたを開けるとばねの仕掛けでサンタクロースの人形が飛び出す仕掛けだ。ただしその下には本当のプレゼントを入れることができるようになっている。
折角だから誰かにあげればよかった、と思い教室を見渡した。もう生徒は半分以上帰ってしまっている。
「せーのっ!」
教室の後ろに集まっていた男子の一団が、一斉に開いているのは通知表だ。男子ってどうしてあんなに馬鹿なんだろう、と兵太夫は顔をしかめる。
「団蔵、お前体育以外絶望的じゃん」
「団蔵のは字が読めないせいじゃねえの?」
「俺先生が読めないところ聞きに来てたから大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろそれ」
輪の中心で笑う団蔵を見て、兵太夫は更に眉間のしわを深くした。
――思いだしてしまったのだ。渡せるはずのないクリスマスプレゼントを買ってしまったことを。
団蔵を意識し出したのは正確にはいつか覚えていない。しかし少なくとも去年のこの時期には団蔵のことが好きだった。季節が巡っても自分は意地を張ることしかできなくて、きっと団蔵にとっては自分はかわいくない女だろう。
何気なく買い物をしていたときに、ふと思い立って買ってしまったプレゼント。どうしてあの時は、渡せるなんて思ったのだろう。
しかめっ面にも疲れて力を抜き、溜息をつく。することもないから帰ろうか、と荷物をまとめかけ、びっくり箱を手にして考えた。
*
兵太夫がケーキの生クリームを泡立てていると、呼び鈴が鳴った。予定がなくなったので家でクリスマスを過ごすとわかると父親がそわそわし始めたので、娘をかわいがる父のためにケーキを焼いたところだったのだ。家人は手が塞がっており、兵太夫は生クリームを置いて玄関へ向かった。
せっかちな客人がもう一度チャイムを鳴らし、慌ててドアに飛びつく。父親への急ぎの用かもしれない。そう思った兵太夫がドアを開けると、――そこに立っていたのは団蔵だった。
硬直する兵太夫に気づいているのかいないのか、団蔵はいつも通りの明るい笑顔でこちらを見る。
「どーも!加藤運送です!」
差し出されたものにはっとして受け取ると、それは父親宛ての宅配便だ。そこでやっと、団蔵が家業の手伝いで兵太夫のうちに来たのだと思いつく。
――少し考えればわかることだ。団蔵が、兵太夫に用があるはずがないのに。
「兵太夫?」
「……何でも。今日、忙しいの?」
「まぁなー、結構宅配でプレゼント送る人いるんだ」
「ふうん。サインどこ?」
「あ、こちらにお願いしまーっす」
団蔵が伝票を指差した、その手を見て兵太夫は息を飲んだ。団蔵が手袋をしている。それは、兵太夫が目に焼きつくほど眺めたことのあるものだ。
手が震えていないか意識しながらどうにかサインをする。団蔵の顔を見ることができずに、俯いたまま荷物を受け取った。
「あとこれ、メリークリスマス」
箱の上にぽんと置かれたものは、リボンのかかったプレゼントだ。兵太夫が顔を上げると、団蔵はやはりいつも通りの笑顔を返す。
「なんかいい匂いする」
「え、あ、ケーキ焼いてた」
「マジ?いいな〜俺いつ飯食えるんだろ。あ、庄ちゃんとみんなで初詣行こうって言ってたんだ。兵太夫も行ける?」
「い、行けると思う」
「じゃあまた連絡するな。毎度、ありがとうございやしたーっ」
ふざけた調子で仕事を終えて、団蔵は丁寧にドアを閉めていく。メリークリスマスひとつ言えなかった兵太夫は、ただ玄関で立ち尽くした。
帰る前に、びっくり箱を団蔵の下駄箱に押し込んだ。その中に、プレゼントのつもりで買った手袋を仕込んで。名前も書かないプレゼント、見つけてもらえるかもわからなかったプレゼント。それでもきっと、あんな子どもじみたことをするのは兵太夫ぐらいだと、団蔵ならわかってくれるんじゃないかと――
じわり、と遅れて顔が熱くなる。
男の子はずるい。いつも馬鹿なところしか見せないくせに。
2013'12.24.Tue
「あ、保健室に財布忘れてきた、左近ごめん、先に行って校門で待っといて。伊作先輩たちも来ると思うから」
高等部一年、一つ年上の三反田数馬の言葉にうなずいて、左近は先にひとりで昇降口に向かった。今日は終業式、二学期も終わったが、中高生の長期休みはそれなりに忙しい。まず初めの行事として、クリスマスパーティーをしなければ!と言い出したのは委員長代理の数馬だった。他の委員会がクリスマスパーティーをすると耳にして、保健委員もしなければならないと思ったらしい。何てことはない、集まって騒ぎたいだけの話だ。
その数馬の話に便乗したのが、卒業したはずの善法寺伊作、その彼氏である不審人物だった。大人の財力を見せつけて、当初はどこかレストランを貸し切ってあげようか、などととんでもない提案をしてきたので、譲歩してカラオケのパーティールームを予約してもらったのだ。左近はあまり乗り気ではないことだが、委員会で集まるのに自分だけ行かないというわけにもいかない。根が真面目なので断れないのだ。
昇降口を出て、思わず寒いと口に出す。雪が降ってホワイトクリスマス、と言うことはなさそうだが、寒いことに変わりはない。天気だけはいい青い空を見上げながら、左近は手袋をしながら校門へと向かっていく。卒業生の伊作たちが迎えに来てくれるはずになっていた。
校門の前に用務員の小松田が立っていた。彼も寒さには弱いようで、これでもかとばかりに着ぶくれをした後ろ姿は数馬の言葉を借りるなら「つついて転がしたくなるかわいさ」だ。実際転がっていきそうなほど丸くなっている。ぐるぐる巻いたマフラーに顔を半分うずめ、かわいらしい耳当てもして万全装備だ。冬場は外の掃除をしている姿が減る彼が何をしているのかと思えば、その手にはバインダーがある。来客があったのだろうか。客からサインをもらうことは彼が何よりも大事にしている仕事だ。
「小松田さん、寒いですね」
「ああ〜、左近くん、寒いねぇ。女の子は寒そうだなぁ」
「ほんとに。タイツもうこれより分厚いのないんですよ」
「風邪ひかないようにね」
「はい、小松田さんも。よいお年を」
「さようなら、よいお年を」
鼻の頭を真っ赤にした小松田は鼻をすすり、左近に手を振った。せめて寒さを少しでも忘れるようできるだけ元気よく挨拶をして、左近は校門を出る。
――そして、足を止めた。
校門を出てすぐ、目が合ったのはコートの男性。左近を見つけて、寒さにすくめていた肩を気まずげに降ろした。左近は横切って帰りかけたが、数馬を待たねばならないことを思い出す。
彼は高坂陣内左ヱ門。伊作がおつき合いしている男性は少し地位のある立派な男で、高坂はその部下である。女子高生とつき合っている自由な上司に翻弄されている気の毒な人物でもあるが、左近は同情する気にもなれなかった。きっと今日も、その上司の指示でそこで待たされているのだろう。
左近は仕方なく、距離を取って校門を出たところで数馬を待った。時々高坂に目をやると、彼も左近からは視線を外している。黒のコートの下は恐らくいつものスーツだろう。男の人のスーツは寒いのだろうか。足元から冷えてきて、左近は太腿をぴたりと寄せる。
手袋をした手でも指は冷えてきて、指先を揉みながら、考えたくないことが頭に浮かんでくるのを拭えなかった。
――ハメられた、のではなかろうか。
もう一度高坂に視線を向けると、今度は彼と目が合った。彼も何か言いたげに、しかしお互い口をつぐんで目をそらす。
絶対に、保健委員や彼の上司にしてやられた。
彼らはどうしてだか人の恋愛に首を突っ込みたがるたちで、目下のところ手を出さずにいられないのが左近と高坂のふたりであるらしい。機会を見つけてはふたりきりにされ、そうされたところで左近としては彼と話したいとも思わないのだ。正直わずらわしくて仕方がない。
こんな放課後に校門に向かってくる影があると思えば、同じ学年の池田三郎次と後輩の二郭伊助だった。そもそも数馬がクリスマスパーティーを言い出したのは、彼らの所属する委員会の先輩が企画を言い出したせいでもある。逆恨みもいいところだが思わず彼らに向ける視線は剣呑なものになってしまった。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
呆れた顔で三郎次は手にしていた温かい飲み物の入ったペットボトルを差し出した。ありがたくそれを受け取ったが、もう冷めてるようですぐにがっかりする。軽く会釈をした伊助と三郎次が校門を通っていった。左近を高坂を見て呆れただろうふたりに憤る。あいつらもずっと一緒にいる癖に、お互い告白もしないままなのだ、とやかく言われる筋合いはないので何も言わせない。
恋心は、ある。
もう彼と出会って一年以上、まだ足掻くつもりはない。きっと自分は彼に惹かれているのだろう。高坂が左近をどう思っているのかはわからないが、自分の気持ちは確かだ。
それでも認めることができないのは、少しややこしい事情があって、誰にも相談できずにいるからだ。
左近には前世の記憶がある。とは言えその一生を全て覚えているわけではなく、とても半端な記憶だ。その中に高坂はいない。いないが、知っている、とは思う。
過去の記憶にいない人の存在が気になるだけなのか、ただ単に今を生きている左近が彼のことを好きになったのか、それをわかりかねている。
それがわかったところで、結局恋は恋なのだろうと思う。左近がすっきりしないだけだ。
元より、高坂のような常識のある男が左近のような中学生を好きになるとは思わない。だから自分は思うだけでいいのだ。
「左近くーん」
背後から呼ばれて飛び上がりそうになる。慌てて振り返れば小松田で、眉間に皺を寄せていた。まだいたのか、と思ってから、その手のバインダーを見て合点がいく。
「あの人、入るのかな、入らないのかな」
「あ〜……入らない、と思います……」
「待ってたのになぁ……」
寒そうに身を抱いて、小松田は背を丸めて校舎の方に向かっていった。何が彼をそこまで駆り立てるのだろう。サインひとつがどれほど彼にとって重要なのか、左近にはわからない。
左近は溜息をひとつつき、諦めて高坂の方に近づいていく。
「高坂さんこんにちは」
「……こんにちは」
「先に行きましょう。……というか、多分僕らが最後です」
「……そうだね」
「高坂さん、クリスマスなのに一緒に過ごす人もいないんですか」
「君だって」
「僕はまだ中学生だからいいんですー」
「途端におじさん扱いするなぁ……」
困った顔で笑う人を、好きだと思う。
高等部一年、一つ年上の三反田数馬の言葉にうなずいて、左近は先にひとりで昇降口に向かった。今日は終業式、二学期も終わったが、中高生の長期休みはそれなりに忙しい。まず初めの行事として、クリスマスパーティーをしなければ!と言い出したのは委員長代理の数馬だった。他の委員会がクリスマスパーティーをすると耳にして、保健委員もしなければならないと思ったらしい。何てことはない、集まって騒ぎたいだけの話だ。
その数馬の話に便乗したのが、卒業したはずの善法寺伊作、その彼氏である不審人物だった。大人の財力を見せつけて、当初はどこかレストランを貸し切ってあげようか、などととんでもない提案をしてきたので、譲歩してカラオケのパーティールームを予約してもらったのだ。左近はあまり乗り気ではないことだが、委員会で集まるのに自分だけ行かないというわけにもいかない。根が真面目なので断れないのだ。
昇降口を出て、思わず寒いと口に出す。雪が降ってホワイトクリスマス、と言うことはなさそうだが、寒いことに変わりはない。天気だけはいい青い空を見上げながら、左近は手袋をしながら校門へと向かっていく。卒業生の伊作たちが迎えに来てくれるはずになっていた。
校門の前に用務員の小松田が立っていた。彼も寒さには弱いようで、これでもかとばかりに着ぶくれをした後ろ姿は数馬の言葉を借りるなら「つついて転がしたくなるかわいさ」だ。実際転がっていきそうなほど丸くなっている。ぐるぐる巻いたマフラーに顔を半分うずめ、かわいらしい耳当てもして万全装備だ。冬場は外の掃除をしている姿が減る彼が何をしているのかと思えば、その手にはバインダーがある。来客があったのだろうか。客からサインをもらうことは彼が何よりも大事にしている仕事だ。
「小松田さん、寒いですね」
「ああ〜、左近くん、寒いねぇ。女の子は寒そうだなぁ」
「ほんとに。タイツもうこれより分厚いのないんですよ」
「風邪ひかないようにね」
「はい、小松田さんも。よいお年を」
「さようなら、よいお年を」
鼻の頭を真っ赤にした小松田は鼻をすすり、左近に手を振った。せめて寒さを少しでも忘れるようできるだけ元気よく挨拶をして、左近は校門を出る。
――そして、足を止めた。
校門を出てすぐ、目が合ったのはコートの男性。左近を見つけて、寒さにすくめていた肩を気まずげに降ろした。左近は横切って帰りかけたが、数馬を待たねばならないことを思い出す。
彼は高坂陣内左ヱ門。伊作がおつき合いしている男性は少し地位のある立派な男で、高坂はその部下である。女子高生とつき合っている自由な上司に翻弄されている気の毒な人物でもあるが、左近は同情する気にもなれなかった。きっと今日も、その上司の指示でそこで待たされているのだろう。
左近は仕方なく、距離を取って校門を出たところで数馬を待った。時々高坂に目をやると、彼も左近からは視線を外している。黒のコートの下は恐らくいつものスーツだろう。男の人のスーツは寒いのだろうか。足元から冷えてきて、左近は太腿をぴたりと寄せる。
手袋をした手でも指は冷えてきて、指先を揉みながら、考えたくないことが頭に浮かんでくるのを拭えなかった。
――ハメられた、のではなかろうか。
もう一度高坂に視線を向けると、今度は彼と目が合った。彼も何か言いたげに、しかしお互い口をつぐんで目をそらす。
絶対に、保健委員や彼の上司にしてやられた。
彼らはどうしてだか人の恋愛に首を突っ込みたがるたちで、目下のところ手を出さずにいられないのが左近と高坂のふたりであるらしい。機会を見つけてはふたりきりにされ、そうされたところで左近としては彼と話したいとも思わないのだ。正直わずらわしくて仕方がない。
こんな放課後に校門に向かってくる影があると思えば、同じ学年の池田三郎次と後輩の二郭伊助だった。そもそも数馬がクリスマスパーティーを言い出したのは、彼らの所属する委員会の先輩が企画を言い出したせいでもある。逆恨みもいいところだが思わず彼らに向ける視線は剣呑なものになってしまった。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
呆れた顔で三郎次は手にしていた温かい飲み物の入ったペットボトルを差し出した。ありがたくそれを受け取ったが、もう冷めてるようですぐにがっかりする。軽く会釈をした伊助と三郎次が校門を通っていった。左近を高坂を見て呆れただろうふたりに憤る。あいつらもずっと一緒にいる癖に、お互い告白もしないままなのだ、とやかく言われる筋合いはないので何も言わせない。
恋心は、ある。
もう彼と出会って一年以上、まだ足掻くつもりはない。きっと自分は彼に惹かれているのだろう。高坂が左近をどう思っているのかはわからないが、自分の気持ちは確かだ。
それでも認めることができないのは、少しややこしい事情があって、誰にも相談できずにいるからだ。
左近には前世の記憶がある。とは言えその一生を全て覚えているわけではなく、とても半端な記憶だ。その中に高坂はいない。いないが、知っている、とは思う。
過去の記憶にいない人の存在が気になるだけなのか、ただ単に今を生きている左近が彼のことを好きになったのか、それをわかりかねている。
それがわかったところで、結局恋は恋なのだろうと思う。左近がすっきりしないだけだ。
元より、高坂のような常識のある男が左近のような中学生を好きになるとは思わない。だから自分は思うだけでいいのだ。
「左近くーん」
背後から呼ばれて飛び上がりそうになる。慌てて振り返れば小松田で、眉間に皺を寄せていた。まだいたのか、と思ってから、その手のバインダーを見て合点がいく。
「あの人、入るのかな、入らないのかな」
「あ〜……入らない、と思います……」
「待ってたのになぁ……」
寒そうに身を抱いて、小松田は背を丸めて校舎の方に向かっていった。何が彼をそこまで駆り立てるのだろう。サインひとつがどれほど彼にとって重要なのか、左近にはわからない。
左近は溜息をひとつつき、諦めて高坂の方に近づいていく。
「高坂さんこんにちは」
「……こんにちは」
「先に行きましょう。……というか、多分僕らが最後です」
「……そうだね」
「高坂さん、クリスマスなのに一緒に過ごす人もいないんですか」
「君だって」
「僕はまだ中学生だからいいんですー」
「途端におじさん扱いするなぁ……」
困った顔で笑う人を、好きだと思う。
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