言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'12.24.Tue
「委員会でクリスマスパーティーしようよ!」
そう言ったのは当然、高等部二年の斉藤タカ丸だった。最上級生で委員長でもある久々知兵助が今までそんなことを言い出したことはなく、それを率先して行うような人ではないことも、今までのつき合いの中で十分理解している。
学期末の委員会は大忙して、特に扱うものがものである火薬委員会は棚卸に翻弄されている。そんな中で相変わらず危機感のないタカ丸がそんなことを言い出したので、三郎次が怒鳴りそうになったのを、伊助は慌てて遮った。中等部二年池田三郎次の怒りもわからなくはない。何よりも、自分たちの仕事はのんびりしたタカ丸の好意と言う邪魔によって遅々とした進行であったからだ。
「それじゃあ僕、クリスマスケーキ作ってきます!」
「はぁ?」
「ね、タカ丸さん!だからクリスマスまでに、絶対棚卸終わらせましょうね!ね、久々知先輩!」
「……ああ、そうだな。じゃあタカ丸さん、棚卸が終わればクリスマスパーティーをしましょう」
「え〜?終わらなかったら?」
「終わらせるんです!冬休みも来るなんてごめんですからね!」
「よーし!頑張ろうね!」
三郎次の怒る様子も軽く流して、タカ丸は作業に戻っていった。三郎次の行き場のない憤りを、久々知がこっそり抑えている。伊助はほっと息を吐いた。
「伊助、ありがとう。目標があればタカ丸さんももう少し効率が上がるだろう」
「いえ、誰かさんがうるさくなるのが嫌だったので」
「それは俺か?」
「さぁ誰でしょう」
突っかかってくる三郎次に背を向けて、伊助も作業に戻った。火薬委員唯一の女子である伊助の受け持ちは軽い物ばかりではあるが、多いことに変わりはない。
それは結果的にタカ丸のやる気に火をつけて、順調に終業式までにするべきことを終えることができた。
三郎次は忘れていてくれないだろうかと思っていたらしいが、楽しいことが好きなタカ丸がそんな約束を忘れるはずがない。
昨日のうちに作っておいたケーキは朝のうちに用務員の小松田に預かってもらって冷蔵庫に入れてある。その他の買い出しを、伊助と三郎次で行くことになった。
「雪は降りそうにないですねぇ」
「降ってほしいのか、寒いだけじゃねえか」
肩をすくませてマフラーに顔をうずめた三郎次を横目に、伊助は笑いを隠した。あまり口にはしないが三郎次は寒さに弱いらしく、その制服の下に随分と着込んでいることを知っている。水泳部である三郎次は完全な夏男なのかもしれない。
買い出しと行ってもコンビニに飲み物とお菓子を少し買いに行くだけだ。学校ではタカ丸たちが飾りつけをしているだろう。タカ丸がどこからともなくクリスマスツリーを見つけ出してきたのだ。
ふたつに分けて持ったビニール袋を提げて、ふたりで学園に戻っていく。
「あったかくなると、久々知先輩も卒業ですね」
「……タカ丸さんが委員長になるのか」
「……」
はぁ、と溜息をついたのはほぼ同時だった。タカ丸は決して悪気があるわけではないが、いかんせん、彼の性格がリーダーには向いていない。
「まぁ、きっと後輩も入りますよ。頑張りましょうね」
「久々知先輩留年しないかな」
「そんな不穏なこと言ってると怒られますよ……そうでなくとも久々知先輩受験生なのに……」
「ピリピリしてたのはなくなったけどな」
「開き直ったみたいですよ」
「大丈夫なのかそれ」
自分の分だけ温かい飲み物を買った三郎次はそれをカイロ代わりに握りしめていた。確かに今日はよく冷え込み、寒さが苦手でなくとも喜んで外に出たくはないだろう。
学園が近づき、校門のそばに人影があるのに気がついた。見知ったその顔に、三郎次と少し顔を見合わせる。
保健委員の川西左近と、保健委員によく現れる部外者の高坂と言う男だ。一メートルほど離れた場所で、距離を保って並んでいる。
同じ学年の三郎次が左近に声をかけると、寒さに鼻を赤くして顔を上げた。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
冷めかけた飲み物を三郎次が渡せば、左近は素直に受け取った。高坂の方は何か言いたげに左近を見たが、左近はそちらに視線を送りもしない。左近と別れて校門を過ぎてから、伊助は声を潜めて三郎次に話しかける。
「あれ、絶対仕組まれてますよね」
「わかってるだろ、あいつらも」
左近と高坂がお互い意識しているだろうことは、近くにいれば何となく察しのつくことであった。立場や年齢やと何かと言い訳をしているらしいが、見ている側からすればまどろっこしいのでさっさとくっついてほしいところだろう。そんな周囲が彼らを二人っきりにしたのあろうが、あれでは効果があるのかわからない。
――尤も、伊助たちも人のことを言えた口ではないのだ。
お互い思いは口にしないまま、それでももうわかっている。たったのひと言を言葉にすれば、ふたりの関係ははっきりと言い表せるものになるだろう。
時々少しもどかしく、しかしこれが心地よいときもある。三郎次はどう思っているのだろう。
「……帰り」
「はい?」
「帰り、どうせ遅くなるだろうから送ってやる」
「別にいいですよ、タカ丸さんと帰りますから」
「先輩に片づけさせられないだろ」
「そーですねー」
素直じゃないこの人が、嫌いじゃない。
笑う伊助に三郎次は嫌な顔をしたが、もう見慣れた顔だった。
そう言ったのは当然、高等部二年の斉藤タカ丸だった。最上級生で委員長でもある久々知兵助が今までそんなことを言い出したことはなく、それを率先して行うような人ではないことも、今までのつき合いの中で十分理解している。
学期末の委員会は大忙して、特に扱うものがものである火薬委員会は棚卸に翻弄されている。そんな中で相変わらず危機感のないタカ丸がそんなことを言い出したので、三郎次が怒鳴りそうになったのを、伊助は慌てて遮った。中等部二年池田三郎次の怒りもわからなくはない。何よりも、自分たちの仕事はのんびりしたタカ丸の好意と言う邪魔によって遅々とした進行であったからだ。
「それじゃあ僕、クリスマスケーキ作ってきます!」
「はぁ?」
「ね、タカ丸さん!だからクリスマスまでに、絶対棚卸終わらせましょうね!ね、久々知先輩!」
「……ああ、そうだな。じゃあタカ丸さん、棚卸が終わればクリスマスパーティーをしましょう」
「え〜?終わらなかったら?」
「終わらせるんです!冬休みも来るなんてごめんですからね!」
「よーし!頑張ろうね!」
三郎次の怒る様子も軽く流して、タカ丸は作業に戻っていった。三郎次の行き場のない憤りを、久々知がこっそり抑えている。伊助はほっと息を吐いた。
「伊助、ありがとう。目標があればタカ丸さんももう少し効率が上がるだろう」
「いえ、誰かさんがうるさくなるのが嫌だったので」
「それは俺か?」
「さぁ誰でしょう」
突っかかってくる三郎次に背を向けて、伊助も作業に戻った。火薬委員唯一の女子である伊助の受け持ちは軽い物ばかりではあるが、多いことに変わりはない。
それは結果的にタカ丸のやる気に火をつけて、順調に終業式までにするべきことを終えることができた。
三郎次は忘れていてくれないだろうかと思っていたらしいが、楽しいことが好きなタカ丸がそんな約束を忘れるはずがない。
昨日のうちに作っておいたケーキは朝のうちに用務員の小松田に預かってもらって冷蔵庫に入れてある。その他の買い出しを、伊助と三郎次で行くことになった。
「雪は降りそうにないですねぇ」
「降ってほしいのか、寒いだけじゃねえか」
肩をすくませてマフラーに顔をうずめた三郎次を横目に、伊助は笑いを隠した。あまり口にはしないが三郎次は寒さに弱いらしく、その制服の下に随分と着込んでいることを知っている。水泳部である三郎次は完全な夏男なのかもしれない。
買い出しと行ってもコンビニに飲み物とお菓子を少し買いに行くだけだ。学校ではタカ丸たちが飾りつけをしているだろう。タカ丸がどこからともなくクリスマスツリーを見つけ出してきたのだ。
ふたつに分けて持ったビニール袋を提げて、ふたりで学園に戻っていく。
「あったかくなると、久々知先輩も卒業ですね」
「……タカ丸さんが委員長になるのか」
「……」
はぁ、と溜息をついたのはほぼ同時だった。タカ丸は決して悪気があるわけではないが、いかんせん、彼の性格がリーダーには向いていない。
「まぁ、きっと後輩も入りますよ。頑張りましょうね」
「久々知先輩留年しないかな」
「そんな不穏なこと言ってると怒られますよ……そうでなくとも久々知先輩受験生なのに……」
「ピリピリしてたのはなくなったけどな」
「開き直ったみたいですよ」
「大丈夫なのかそれ」
自分の分だけ温かい飲み物を買った三郎次はそれをカイロ代わりに握りしめていた。確かに今日はよく冷え込み、寒さが苦手でなくとも喜んで外に出たくはないだろう。
学園が近づき、校門のそばに人影があるのに気がついた。見知ったその顔に、三郎次と少し顔を見合わせる。
保健委員の川西左近と、保健委員によく現れる部外者の高坂と言う男だ。一メートルほど離れた場所で、距離を保って並んでいる。
同じ学年の三郎次が左近に声をかけると、寒さに鼻を赤くして顔を上げた。
「何してんだ、寒いのに」
「……三反田先輩に待てって言われたんだ。保健委員で出かけるんだけど、やり忘れたことがあるからって」
「……そっちの人は?」
「関係ない!」
「……まぁ、風邪ひかないようにしろよ」
冷めかけた飲み物を三郎次が渡せば、左近は素直に受け取った。高坂の方は何か言いたげに左近を見たが、左近はそちらに視線を送りもしない。左近と別れて校門を過ぎてから、伊助は声を潜めて三郎次に話しかける。
「あれ、絶対仕組まれてますよね」
「わかってるだろ、あいつらも」
左近と高坂がお互い意識しているだろうことは、近くにいれば何となく察しのつくことであった。立場や年齢やと何かと言い訳をしているらしいが、見ている側からすればまどろっこしいのでさっさとくっついてほしいところだろう。そんな周囲が彼らを二人っきりにしたのあろうが、あれでは効果があるのかわからない。
――尤も、伊助たちも人のことを言えた口ではないのだ。
お互い思いは口にしないまま、それでももうわかっている。たったのひと言を言葉にすれば、ふたりの関係ははっきりと言い表せるものになるだろう。
時々少しもどかしく、しかしこれが心地よいときもある。三郎次はどう思っているのだろう。
「……帰り」
「はい?」
「帰り、どうせ遅くなるだろうから送ってやる」
「別にいいですよ、タカ丸さんと帰りますから」
「先輩に片づけさせられないだろ」
「そーですねー」
素直じゃないこの人が、嫌いじゃない。
笑う伊助に三郎次は嫌な顔をしたが、もう見慣れた顔だった。
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2013'12.06.Fri
「『忍術学園の歴史』……」
手にした本のタイトルを読み上げて、その胡散臭さに久作は眉を潜めた。書庫の蔵書整理をしていた最中にナンバリングのされていない本を見つけ、手に取ってみれば時代錯誤な和綴じの本。しかし多少よれてはいるが紙自体はそう古いものではなさそうで、誰かが作ったものだろうか、と表紙を見ればこのタイトルだ。こんな悪趣味なものを作るのは誰だろうか。
――ここ、大川学園は中高一貫の私立校だ。文武両道をモットーに掲げるに見合う優秀な教師が教鞭を執り、学ぶ意志のある生徒が集う。毎年レベルの高い大学へ何人も進学し、世界レベルのアスリートも多く輩出していた。
――それはあくまで表向きの話だ。その輝かしい表舞台の裏側に、それを支える存在がある。『委員会』と称して秘密裏に活動しているのは、『忍者』と呼ばれる者たちだ。厳密にはその大半は忍者のたまご、忍たまと呼ばれている。とはいえ立派に仕事をこなす、優秀な忍びたちだ。彼らの忍びとしての鍛錬の延長に、表に出る輝かしい功績がある。
この平成の世に、時代錯誤な存在だとは思う。久作とて、自分が忍者でなければ信じることはなかっただろう。久作の所属する図書委員会は、日常の図書室の解放や貸し出しなどを行いながらも、その実体は『データ』を中心に扱う忍者の集まりだ。言い方を変えれば、情報屋、とでも言うのかもしれない。
しかしその忍者としての活動は、それ以外の教師や生徒には一切隠されていることだ。こんなに堂々と、忍者だの忍術だのと並べていいものではない。一体何が書かれているのだろうか。
「久作」
開きかけた本を閉じて振り返る。書庫に入ってきた三郎次はめざとくそれを見つけ、素早く近づいてきた。隠す間もなかったが、この三郎次も同じ忍者のひとりだ。
「何それ」
「見つけたんだ。図書館の本じゃないみたいだけど」
「何が書いてあるんだ?」
面白がった三郎次が無造作にそれを開く。久作も本に視線を落としたが、何も言えずに首を傾げた。
それは本と言うよりも、ノートと言うべきなのかもしれない。罫線はなく、文は縦書きで並んでいるが、それはどう見ても手書きの文字だった。おまけに、途中でペンどころか筆跡が変わっている。ページをめくって先を見れば、最後の方はまだ白紙であった。三郎次はページを始めに戻す。
「『人里離れた山中に忍術学園なる学び舎がある。その名の通り忍者になる修行をすべく、齢は十から、忍者のたまごが津々浦々より集まっている。彼らを率いる学園長は、かつて一世を風靡した天才忍者、大川へいじうずまさその人だ』……って、これ、学園長の名前か?」
三郎次が読み上げた冒頭を綴るのは活字のように美しい書体であった。そこに挙げられた名前は、この大川学園の学園長のもので間違いない。
「また学園長の悪ふざけだろ」
「ああ……」
三郎次はすぐに興味をなくし、それを久作の手に返した。それよりも、と手にしていたノートを広げる。課題のための資料を探しに来たらしい。
「これに使うんだ。昔の地図ある?」
「ちょっと待って」
ついさっき整理していた棚で見た覚えがある。手にしていたものを一旦置き、久作はふたつほど棚を戻った。その間に別の声が聞こえる。左近も同じ課題の資料探しに来たらしい。久作が戻ると彼女も『忍術学園の歴史』を手に取り、どこか青い顔をしながらそれを読みふけっている。久作に気づくとはっとして本を閉じてこちらを見た。
「久作、これどうしたの?」
「本棚で見つけた。リストにないし、誰かの私物みたいだから忘れ物として預かる」
「そう……」
「どうかしたか?」
「……読んだ?」
「頭だけ……左近のだった?」
「違うけど、読まない方がいいと思っただけ」
どこか早口で言い切って左近はそれを手放した。
三郎次たちと書庫の外に出ると、図書委員の先輩の不破雷蔵が来たところだった。久作たちに気づくと残りの作業を変わってくれると言うので、久作も一緒に課題に取り組むことにする。
――本来なら、久作も先輩に仕事をおしつけるようなことはしたくない。しかし、この課題は「忍たま」に課せられたものだった。これ以外にも、通常の生徒と同じ予習復習をしなければならない。同じく忍たまである不破は先輩としてその大変さを知っているのだ。
久作は自分が忍者になるための勉強をしているという自覚はない。ただ、普通では学べないことを覚えるのは楽しかった。将来忍者を続けようと思っているわけではなかったが、そんな忍たまも多く、教師もさして気にしていないようであった。
忍者は情報を扱うものだ。それは生きていくための術でもある。そう言ったのは誰だったのか、思い出すことができないほど古い記憶だった。
*
「あっ、しまった」
家に帰ってから、件の和綴じの本を持って帰ってきてしまったことに気がついた。不破に作業を引き継ぐときに伝えればよかったのに、手元の資料と一緒になってすっかり忘れていた。明日は忘れずに、と鞄にしまいかけ、少し気になってまた取り出す。タイトルの『忍術学園』に、学園長の名前。大川学園と無縁だとは思えない。
ページをめくると次々と知った名前が現れる。舞台は戦乱の室町時代。先輩、後輩、教師たち、クラスメイトの名もそこにはあった。共通するのは、それが忍者である生徒だということだ。書き連ねられているのは彼らの学園生活から外部と関わった事件まで、様々なエピソードであった。違う書体で付け足されたり、時間が飛んだりとめちゃくちゃだ。お世辞にもうまいとはいえない字もあるし、何を伝えたいのかわからない文章も多い。それでも、書体の上の忍たまたちは生き生きと忍術を学び、関わり、成長していく。
まるで見てきたかのように脳裏に浮かぶ光景に戸惑いながらも止まらなくなり、気づけばすっかり夜中まで読みふけってしまった。左近に忠告されていたことを途中で思い出したが、ここまできてはどこまで読んでも同じだ。
「あ」
自分の名前にどきりとする。能勢久作、と漢字も違わず自分の名だ。一緒に連ねられているのは、不破雷蔵、摂津のきり丸、二ノ坪怪子丸。それは、久作と同じ図書委員の名前だ。
「幻術……興業?手伝い……」
それは「能勢久作」の口上から始まる。
「東西東西……さてこれより取りかかりますのは、幻術師・里芋行者千番に一番のかねあい、美女瞬間移動の術でございます……」
なぞる言葉は妙に口に馴染んだ。覚えていると言うようなものではないが、知っている気がする。時代劇か何かで聞いた言い回しだろうか。それにしては、この口上に合わせて行われる演目も覚えがあるように思えて、何かが引っかかる。しかしその正体はわからない。
どこかもどかしさを抱えたまま、久作は文字を追っていく。小説とは違う、事務的とも言えるただ事実を連ねたような文章だ。楽しませる読み物でもなければ論を述べるものでもない。言うなれば日記に近いものだ。
――そう、まるで何かを記録するかのような。
流れるように書かれていた文章が途切れた。残りは白いページのままだ。
白紙を撫でて息を吐く。
とてつもなく、長い時間を過ごした気がした。
言葉の足りない文章は久作の中で補完されて渦巻いている。書かれている以上のことを知り得るはずがないのに、まるで自分の目で見たかのように鮮やかに浮かぶ話ばかりであった。
これが一体どういうことなのかはわからない。ただ、文章を綴る文体に、見慣れたものが混ざっていた。
*
「おっ、おはようございます」
久作の挨拶に、中在家は黙って頷いた。授業開始前の図書館の解放はいつも図書委員長の中在家が行っている。当番制にと不破が持ちかけたこともあったが、結局が彼がやりたくてやっていることだということで話が流れたのだ。
図書館にはまだ誰もいない。というよりも、滅多に朝から人が来ることはなかった。
「あ、あの」
無口な中在家は何も言わないが、カウンターの内側で黙って久作を見上げる。
「これ、……書庫で、見つけてたんです」
『忍術学園の歴史』を中在家に差し出した。無言でそれを見た中在家は立ち上がり、本を受け取る。彼は背が高く体格もしっかりしているので、並ぶと見下ろされる形になって威圧感があった。
緊張している久作を知ってか知らずか、それを受け取った中在家は大きな手で久作の頭を撫でた。
――そんなことは、今までされたことがない。それでもその温もりを、知っている気がする。
顔を上げると中在家が何かつぶやいた。彼が口の中だけでこぼす言葉はいつもなかなか聞き取ることができない。今も何を言ったのかわからなくて、しかし聞き返すのもはばかられて口元で迷った。
どうしてだろうか。この人の言葉を聞き取れたはずだ、と思うのは。
もしかしたら、これを見せたら、中在家は何か教えてくれるのではないかと思っていた。ページを埋める字のほとんどは、彼の書くものであったからだ。
しかし彼は何も言わなかった。ただ静かに久作を見て、笑った気がした。
手にした本のタイトルを読み上げて、その胡散臭さに久作は眉を潜めた。書庫の蔵書整理をしていた最中にナンバリングのされていない本を見つけ、手に取ってみれば時代錯誤な和綴じの本。しかし多少よれてはいるが紙自体はそう古いものではなさそうで、誰かが作ったものだろうか、と表紙を見ればこのタイトルだ。こんな悪趣味なものを作るのは誰だろうか。
――ここ、大川学園は中高一貫の私立校だ。文武両道をモットーに掲げるに見合う優秀な教師が教鞭を執り、学ぶ意志のある生徒が集う。毎年レベルの高い大学へ何人も進学し、世界レベルのアスリートも多く輩出していた。
――それはあくまで表向きの話だ。その輝かしい表舞台の裏側に、それを支える存在がある。『委員会』と称して秘密裏に活動しているのは、『忍者』と呼ばれる者たちだ。厳密にはその大半は忍者のたまご、忍たまと呼ばれている。とはいえ立派に仕事をこなす、優秀な忍びたちだ。彼らの忍びとしての鍛錬の延長に、表に出る輝かしい功績がある。
この平成の世に、時代錯誤な存在だとは思う。久作とて、自分が忍者でなければ信じることはなかっただろう。久作の所属する図書委員会は、日常の図書室の解放や貸し出しなどを行いながらも、その実体は『データ』を中心に扱う忍者の集まりだ。言い方を変えれば、情報屋、とでも言うのかもしれない。
しかしその忍者としての活動は、それ以外の教師や生徒には一切隠されていることだ。こんなに堂々と、忍者だの忍術だのと並べていいものではない。一体何が書かれているのだろうか。
「久作」
開きかけた本を閉じて振り返る。書庫に入ってきた三郎次はめざとくそれを見つけ、素早く近づいてきた。隠す間もなかったが、この三郎次も同じ忍者のひとりだ。
「何それ」
「見つけたんだ。図書館の本じゃないみたいだけど」
「何が書いてあるんだ?」
面白がった三郎次が無造作にそれを開く。久作も本に視線を落としたが、何も言えずに首を傾げた。
それは本と言うよりも、ノートと言うべきなのかもしれない。罫線はなく、文は縦書きで並んでいるが、それはどう見ても手書きの文字だった。おまけに、途中でペンどころか筆跡が変わっている。ページをめくって先を見れば、最後の方はまだ白紙であった。三郎次はページを始めに戻す。
「『人里離れた山中に忍術学園なる学び舎がある。その名の通り忍者になる修行をすべく、齢は十から、忍者のたまごが津々浦々より集まっている。彼らを率いる学園長は、かつて一世を風靡した天才忍者、大川へいじうずまさその人だ』……って、これ、学園長の名前か?」
三郎次が読み上げた冒頭を綴るのは活字のように美しい書体であった。そこに挙げられた名前は、この大川学園の学園長のもので間違いない。
「また学園長の悪ふざけだろ」
「ああ……」
三郎次はすぐに興味をなくし、それを久作の手に返した。それよりも、と手にしていたノートを広げる。課題のための資料を探しに来たらしい。
「これに使うんだ。昔の地図ある?」
「ちょっと待って」
ついさっき整理していた棚で見た覚えがある。手にしていたものを一旦置き、久作はふたつほど棚を戻った。その間に別の声が聞こえる。左近も同じ課題の資料探しに来たらしい。久作が戻ると彼女も『忍術学園の歴史』を手に取り、どこか青い顔をしながらそれを読みふけっている。久作に気づくとはっとして本を閉じてこちらを見た。
「久作、これどうしたの?」
「本棚で見つけた。リストにないし、誰かの私物みたいだから忘れ物として預かる」
「そう……」
「どうかしたか?」
「……読んだ?」
「頭だけ……左近のだった?」
「違うけど、読まない方がいいと思っただけ」
どこか早口で言い切って左近はそれを手放した。
三郎次たちと書庫の外に出ると、図書委員の先輩の不破雷蔵が来たところだった。久作たちに気づくと残りの作業を変わってくれると言うので、久作も一緒に課題に取り組むことにする。
――本来なら、久作も先輩に仕事をおしつけるようなことはしたくない。しかし、この課題は「忍たま」に課せられたものだった。これ以外にも、通常の生徒と同じ予習復習をしなければならない。同じく忍たまである不破は先輩としてその大変さを知っているのだ。
久作は自分が忍者になるための勉強をしているという自覚はない。ただ、普通では学べないことを覚えるのは楽しかった。将来忍者を続けようと思っているわけではなかったが、そんな忍たまも多く、教師もさして気にしていないようであった。
忍者は情報を扱うものだ。それは生きていくための術でもある。そう言ったのは誰だったのか、思い出すことができないほど古い記憶だった。
*
「あっ、しまった」
家に帰ってから、件の和綴じの本を持って帰ってきてしまったことに気がついた。不破に作業を引き継ぐときに伝えればよかったのに、手元の資料と一緒になってすっかり忘れていた。明日は忘れずに、と鞄にしまいかけ、少し気になってまた取り出す。タイトルの『忍術学園』に、学園長の名前。大川学園と無縁だとは思えない。
ページをめくると次々と知った名前が現れる。舞台は戦乱の室町時代。先輩、後輩、教師たち、クラスメイトの名もそこにはあった。共通するのは、それが忍者である生徒だということだ。書き連ねられているのは彼らの学園生活から外部と関わった事件まで、様々なエピソードであった。違う書体で付け足されたり、時間が飛んだりとめちゃくちゃだ。お世辞にもうまいとはいえない字もあるし、何を伝えたいのかわからない文章も多い。それでも、書体の上の忍たまたちは生き生きと忍術を学び、関わり、成長していく。
まるで見てきたかのように脳裏に浮かぶ光景に戸惑いながらも止まらなくなり、気づけばすっかり夜中まで読みふけってしまった。左近に忠告されていたことを途中で思い出したが、ここまできてはどこまで読んでも同じだ。
「あ」
自分の名前にどきりとする。能勢久作、と漢字も違わず自分の名だ。一緒に連ねられているのは、不破雷蔵、摂津のきり丸、二ノ坪怪子丸。それは、久作と同じ図書委員の名前だ。
「幻術……興業?手伝い……」
それは「能勢久作」の口上から始まる。
「東西東西……さてこれより取りかかりますのは、幻術師・里芋行者千番に一番のかねあい、美女瞬間移動の術でございます……」
なぞる言葉は妙に口に馴染んだ。覚えていると言うようなものではないが、知っている気がする。時代劇か何かで聞いた言い回しだろうか。それにしては、この口上に合わせて行われる演目も覚えがあるように思えて、何かが引っかかる。しかしその正体はわからない。
どこかもどかしさを抱えたまま、久作は文字を追っていく。小説とは違う、事務的とも言えるただ事実を連ねたような文章だ。楽しませる読み物でもなければ論を述べるものでもない。言うなれば日記に近いものだ。
――そう、まるで何かを記録するかのような。
流れるように書かれていた文章が途切れた。残りは白いページのままだ。
白紙を撫でて息を吐く。
とてつもなく、長い時間を過ごした気がした。
言葉の足りない文章は久作の中で補完されて渦巻いている。書かれている以上のことを知り得るはずがないのに、まるで自分の目で見たかのように鮮やかに浮かぶ話ばかりであった。
これが一体どういうことなのかはわからない。ただ、文章を綴る文体に、見慣れたものが混ざっていた。
*
「おっ、おはようございます」
久作の挨拶に、中在家は黙って頷いた。授業開始前の図書館の解放はいつも図書委員長の中在家が行っている。当番制にと不破が持ちかけたこともあったが、結局が彼がやりたくてやっていることだということで話が流れたのだ。
図書館にはまだ誰もいない。というよりも、滅多に朝から人が来ることはなかった。
「あ、あの」
無口な中在家は何も言わないが、カウンターの内側で黙って久作を見上げる。
「これ、……書庫で、見つけてたんです」
『忍術学園の歴史』を中在家に差し出した。無言でそれを見た中在家は立ち上がり、本を受け取る。彼は背が高く体格もしっかりしているので、並ぶと見下ろされる形になって威圧感があった。
緊張している久作を知ってか知らずか、それを受け取った中在家は大きな手で久作の頭を撫でた。
――そんなことは、今までされたことがない。それでもその温もりを、知っている気がする。
顔を上げると中在家が何かつぶやいた。彼が口の中だけでこぼす言葉はいつもなかなか聞き取ることができない。今も何を言ったのかわからなくて、しかし聞き返すのもはばかられて口元で迷った。
どうしてだろうか。この人の言葉を聞き取れたはずだ、と思うのは。
もしかしたら、これを見せたら、中在家は何か教えてくれるのではないかと思っていた。ページを埋める字のほとんどは、彼の書くものであったからだ。
しかし彼は何も言わなかった。ただ静かに久作を見て、笑った気がした。
2013'11.10.Sun
「こんにちはーっ!芙蓉ちゃんいるかい?」
「竹谷さんこんにちは!芙蓉さんなら奥にいるんですが、集中してるので少し待っていただけますか」
「集中?」
豆腐屋の朝は早い。邪魔をしないように友人を訪ねてきたつもりだが、どうやらまだ早かったようだ。彼女の豆腐は評判で、うかうかしていると売り切れてしまうほど人気がある。竹谷の勤める城の姫がここの豆腐をいたく気に入り、思い出したように竹谷にねだるのだ。そのたびその愛らしさに根負けし、竹谷はいつも挨拶がてら豆腐を買いにくる。以前は山中にあったこの店が、最近町中に移ったことがどれほどありがたいことだろう。
店主の娘で優秀な職人である芙蓉は寡黙な人で、店を切り盛りしているのはいつもアルバイトである。今竹谷を迎えてくれた彼も、まだ日は浅いはずだがしっかりしているようだ。
「あのですね、毎日のように豆腐評論家が来るんです」
「……ほう?」
声を潜めたアルバイトに、竹谷は嫌な予感がする。曰く、毎日のように豆腐を買いにきては芙蓉と睨み合うように店頭で豆腐を口にし、ああだこうだとうんちくを垂れて文句をつけていくらしい。やがてひとり納得し、最後には泣き出すように敗北を認め、豆腐を買って帰るのだ。それが続くうちに、その評論家に出す豆腐を毎日選別するのが、芙蓉の一日の仕事の中で一番重要な仕事になったようだ。
竹谷は深く溜息をつく。容姿や特徴を聞かずとも、そんな豆腐馬鹿はひとりしかいない。
「中入るぜ」
「邪魔すると怒られますよ〜」
「大丈夫」
竹谷が店の奥に入ると、難しい顔をした芙蓉が、親の敵のように水に浮かぶ豆腐を睨みつけていた。どれも同じだろう、と呆れはするが、彼女の不器用さを知っていると突き放すこともできない。
「芙蓉ちゃん」
「久しぶり」
「ああ。……あのさ、どれ食わせても同じだぜ」
「だってうるさいもの」
「はぁ……」
「芙蓉さん、来ましたよ!」
バイトの声に芙蓉が顔を上げた。すくい取った豆腐を皿に載せ、箸を添えて店に出る。竹谷が姿を見せぬようこっそり覗くと、案の定、店に現れたのは昔からの友人、豆腐小僧と呼ばれる久々知兵助その人だ。
芙蓉が黙って豆腐を突き出せば、久々知も黙ってそれを受け取った。アルバイトが固唾をのんで見守る中、久々知はもっともらしく豆腐を眺め、その白さに感動したかのようにどこかうっとりとしている。うやうやしく箸を取り、時間をかけてようやくひと口、ゆっくりそれを味わった。そして何か言いかけたときに竹谷が顔を出せば、ぎょっとしてそのまま硬直する。
「お前な、普通に会いに来い」
「な、何しにきたんだ」
「豆腐買いにきたんだよ、兵助よりよっぽどまともじゃねえか」
「おれだって豆腐を」
「普通に嫁に会えねえのかお前は」
溜息混じりにぼやくと久々知は箸を握って黙り込む。アルバイトは竹谷の言葉にきょとんとして、少し遅れて驚きの声を上げた。
「どういうことですか?」
「夫婦だよこいつら」
「えーっ!だ、だって芙蓉さん何も!」
「芙蓉ちゃん、仕事の邪魔だったらこいつ追い返していいんだぜ」
「構わない。大したことじゃないから」
気まずいところを見られた、とばかりに久々知は黙り込む。つくづく不器用な夫婦だ。
――そりゃ、いい反応がもらえるのがわかってるなら、一番いいものを食べてもらいたくなるよな。
芙蓉を見るが、彼女は特に表情を変えない。久々知はきっと、あのいじらしい行為を知らないのだろう。感情の豊かではない彼女だが、竹谷がわかるのだから久々知が見てもわかるはずだ。
「あーあほくさ。芙蓉ちゃん豆腐ちょうだい。この馬鹿に芙蓉ちゃんの豆腐やるの勿体ないぜ」
芙蓉の背を押し、急かして奥に引っ込んだ。久々知が何か言いたげにしていたが、気づかないふりをする。
「姫様に献上するからいいやつ選んでくれよ」
「どれも一緒」
溜息混じりの芙蓉の言葉を笑い飛ばした。優秀な豆腐職人でありながら、芙蓉は豆腐が嫌いである。味の違いもわからないまま素晴らしい豆腐を作るのだから、世の中は不可解だ。
真剣に豆腐を選んでくれる芙蓉の隣から、竹谷は店先で豆腐を味わっている久々知を見た。問い詰めるアルバイトに適当に相槌を打ちながら、豆腐を口に運んで顔をほころばせる。
「なぁ芙蓉ちゃん、別に芙蓉ちゃんが豆腐を作るのをやめたって、兵助は芙蓉ちゃんを大事にしてくれると思うぜ。どうせおやっさんも豆腐作りに専念してるんだろ」
「……いい。作るのは嫌いじゃない」
「……そりゃ、ま、食べてくれる人がいりゃそうなるか」
からかうつもりはなかったのだが、はっと顔を上げた芙蓉は竹谷を見た。その頬がほのかに赤い。
「……おれ、のろけ聞きに来たんじゃねえんだけどな……」
それきり黙り込んだ芙蓉が持たせてくれた豆腐を持って、なぜか疲れて店に出た。久々知がやや不満げにこちらを見る。
「じゃあな、嫁さん大事にしろよ」
「よけいなお世話だ」
不器用な夫婦だ。久々知の精一杯を笑い飛ばし、竹谷は豆腐を手に自分の城へと歩き出す。きっと以前よりもおいしい豆腐になっているだろう。妻の愛が、たっぷりこめられているのだから。
「竹谷さんこんにちは!芙蓉さんなら奥にいるんですが、集中してるので少し待っていただけますか」
「集中?」
豆腐屋の朝は早い。邪魔をしないように友人を訪ねてきたつもりだが、どうやらまだ早かったようだ。彼女の豆腐は評判で、うかうかしていると売り切れてしまうほど人気がある。竹谷の勤める城の姫がここの豆腐をいたく気に入り、思い出したように竹谷にねだるのだ。そのたびその愛らしさに根負けし、竹谷はいつも挨拶がてら豆腐を買いにくる。以前は山中にあったこの店が、最近町中に移ったことがどれほどありがたいことだろう。
店主の娘で優秀な職人である芙蓉は寡黙な人で、店を切り盛りしているのはいつもアルバイトである。今竹谷を迎えてくれた彼も、まだ日は浅いはずだがしっかりしているようだ。
「あのですね、毎日のように豆腐評論家が来るんです」
「……ほう?」
声を潜めたアルバイトに、竹谷は嫌な予感がする。曰く、毎日のように豆腐を買いにきては芙蓉と睨み合うように店頭で豆腐を口にし、ああだこうだとうんちくを垂れて文句をつけていくらしい。やがてひとり納得し、最後には泣き出すように敗北を認め、豆腐を買って帰るのだ。それが続くうちに、その評論家に出す豆腐を毎日選別するのが、芙蓉の一日の仕事の中で一番重要な仕事になったようだ。
竹谷は深く溜息をつく。容姿や特徴を聞かずとも、そんな豆腐馬鹿はひとりしかいない。
「中入るぜ」
「邪魔すると怒られますよ〜」
「大丈夫」
竹谷が店の奥に入ると、難しい顔をした芙蓉が、親の敵のように水に浮かぶ豆腐を睨みつけていた。どれも同じだろう、と呆れはするが、彼女の不器用さを知っていると突き放すこともできない。
「芙蓉ちゃん」
「久しぶり」
「ああ。……あのさ、どれ食わせても同じだぜ」
「だってうるさいもの」
「はぁ……」
「芙蓉さん、来ましたよ!」
バイトの声に芙蓉が顔を上げた。すくい取った豆腐を皿に載せ、箸を添えて店に出る。竹谷が姿を見せぬようこっそり覗くと、案の定、店に現れたのは昔からの友人、豆腐小僧と呼ばれる久々知兵助その人だ。
芙蓉が黙って豆腐を突き出せば、久々知も黙ってそれを受け取った。アルバイトが固唾をのんで見守る中、久々知はもっともらしく豆腐を眺め、その白さに感動したかのようにどこかうっとりとしている。うやうやしく箸を取り、時間をかけてようやくひと口、ゆっくりそれを味わった。そして何か言いかけたときに竹谷が顔を出せば、ぎょっとしてそのまま硬直する。
「お前な、普通に会いに来い」
「な、何しにきたんだ」
「豆腐買いにきたんだよ、兵助よりよっぽどまともじゃねえか」
「おれだって豆腐を」
「普通に嫁に会えねえのかお前は」
溜息混じりにぼやくと久々知は箸を握って黙り込む。アルバイトは竹谷の言葉にきょとんとして、少し遅れて驚きの声を上げた。
「どういうことですか?」
「夫婦だよこいつら」
「えーっ!だ、だって芙蓉さん何も!」
「芙蓉ちゃん、仕事の邪魔だったらこいつ追い返していいんだぜ」
「構わない。大したことじゃないから」
気まずいところを見られた、とばかりに久々知は黙り込む。つくづく不器用な夫婦だ。
――そりゃ、いい反応がもらえるのがわかってるなら、一番いいものを食べてもらいたくなるよな。
芙蓉を見るが、彼女は特に表情を変えない。久々知はきっと、あのいじらしい行為を知らないのだろう。感情の豊かではない彼女だが、竹谷がわかるのだから久々知が見てもわかるはずだ。
「あーあほくさ。芙蓉ちゃん豆腐ちょうだい。この馬鹿に芙蓉ちゃんの豆腐やるの勿体ないぜ」
芙蓉の背を押し、急かして奥に引っ込んだ。久々知が何か言いたげにしていたが、気づかないふりをする。
「姫様に献上するからいいやつ選んでくれよ」
「どれも一緒」
溜息混じりの芙蓉の言葉を笑い飛ばした。優秀な豆腐職人でありながら、芙蓉は豆腐が嫌いである。味の違いもわからないまま素晴らしい豆腐を作るのだから、世の中は不可解だ。
真剣に豆腐を選んでくれる芙蓉の隣から、竹谷は店先で豆腐を味わっている久々知を見た。問い詰めるアルバイトに適当に相槌を打ちながら、豆腐を口に運んで顔をほころばせる。
「なぁ芙蓉ちゃん、別に芙蓉ちゃんが豆腐を作るのをやめたって、兵助は芙蓉ちゃんを大事にしてくれると思うぜ。どうせおやっさんも豆腐作りに専念してるんだろ」
「……いい。作るのは嫌いじゃない」
「……そりゃ、ま、食べてくれる人がいりゃそうなるか」
からかうつもりはなかったのだが、はっと顔を上げた芙蓉は竹谷を見た。その頬がほのかに赤い。
「……おれ、のろけ聞きに来たんじゃねえんだけどな……」
それきり黙り込んだ芙蓉が持たせてくれた豆腐を持って、なぜか疲れて店に出た。久々知がやや不満げにこちらを見る。
「じゃあな、嫁さん大事にしろよ」
「よけいなお世話だ」
不器用な夫婦だ。久々知の精一杯を笑い飛ばし、竹谷は豆腐を手に自分の城へと歩き出す。きっと以前よりもおいしい豆腐になっているだろう。妻の愛が、たっぷりこめられているのだから。
2013'09.21.Sat
随分と日が長くなった。こんな季節は忍者の時間も短い。忍術学園事務員、小松田秀作はふと掃除の手を止めた。ようやくひぐらしの鳴き始めたまだ明るい空を仰ぐ。
もうすぐ夏休みだ。生徒たちの大半は帰省し、学園はいつもより静かになる。その間はいつも忙しい教師たちも多少は手が空くので、小松田の忍者の特訓を見てくれることがあった。それだけでも忍者を目指す自分にとっては、かなり幸運なことだろう。しかしその前に、帰省前の配布物の用意など、事務員は忙しくなる。また沢山怒られるんだろうなぁ、と思ったあと、今も早く掃除を終わらせなくてはならないことを思い出した。箒を握り直して門前の掃除を再開する。
ふと気配を感じて小松田が顔を上げると、道の向こうから笠を被った女性がこちらに向かってくる姿を見つけた。ひぐらしの声が大きくなる。女性は重力を感じさせないほど軽い足取りで、小松田が何かを思考する間もなく目前に近づいていた。
「忍術学園はこちらですか?」
「はい。お客さんですね?入門表にサインをお願いします!」
来客からサインを貰う、それも小松田の大切な仕事のひとつだ。いつもの調子で入門表と筆を差し出せば、女性は笠の影で困惑した様子を見せた。忍術学園を訪ねる者の中には稀だが、しかし文字の読み書きができない者は決して少なくない。お名前聞かせていただければ代筆しますよ、と笑いかけたが、女性はうつむいてしまった。名前を書けないのではなく、身分を隠したいのか。その事情は何であれ、サインを貰わなければ中へ入って貰うことはできない。小松田は困りましたねぇ、と腕を組む。女性はしばらく思案した後、小松田に背を向けて来た道を戻って行った。一体なんだったんだろう。首を傾げていると今度は後方から賑やかな声がやってくる。裏山に出かけていた生物委員の面々と、街へ出かけていたはずの私服姿の神崎左門だ。方向音痴の彼は今日は生物委員に見つけてもらえたらしい。
「すごくきれいな蛇だったのに」
「あのなー、うちじゃこれ以上お前のペットは飼えないの!」
すねた様子の伊賀崎孫兵に、生物委員委員長の竹谷八左ヱ門が苦笑して頭をかく。それを一年生たちが笑って見ていた。相変わらず仲のいい委員会だ。
「お帰り〜!」
「あっ、小松田さん!」
「ただいま戻りました!」
元気よく返事をした左門が勢いのまま通り過ぎそうになり、慌てて足の速い夢前三治郎が捕まえる。ひとりずつ順に入門表に名前を書いてもらい、門を開けた。竹谷が受け取ったとき、やや躊躇いを見せて顔を上げる。
「小松田さん、誰か来ました?」
「今日は忍術学園の人しか出入りしてないよ。あ、今来た女の人がいたけど、何も言わず帰っちゃった」
「そうですか、ならいいです」
「どうしたんだろうね」
首を傾げる小松田と竹谷の間に三治郎が顔を出す。
「小松田さんがいじめたんじゃない?」
「そんなことしてないよ!失礼だなぁ」
「こわ〜い顔で入門表を押しつけたんじゃないの〜?」
「してません〜!」
「こらこら、お前たちが小松田さんをいじめてどうする」
ごめんなさいと言いながらもけらけら笑い、一年生たちは門をくぐった。その後を孫兵が続くが、浮かない様子だ。心配になって視線で追えば、竹谷が大丈夫ですと笑う。
「裏山で珍しい蛇を見つけて持って帰りたがっていたんですが、止めたので拗ねてるんです」
「あ〜、それはやめてもらわないと」
「はは。はい、入門表みんな書けました」
「確かに!」
入門表を受け取って竹谷の背を見送る。入れ替わるように小松田の教育をしてくれている用具主任の吉野がやってきた。だまし絵のような顔をしているので小松田はいつか逆さまから見てみたいと思っているが、その機会はなかなか訪れない。
「みんな帰ってきましたか?」
「はい、今日出かけた人はみんな」
「来客も全て帰っていますか?」
「はい。利吉さんに出門表のサイン貰うの大変でしたよ〜」
吉野は小松田の苦労話を聞く気はないようで、そうですか、と頷くだけだ。それもいつものことなので、小松田は特に気にしない。
「ならもう掃除はいいですよ。夕食にでも行ってきなさい」
「はーい!」
子どものようにはしゃいで小松田が門をくぐるのを見て吉野は思わず溜息をつく。誰もいなくなった門の外を見て、吉野は錠を下ろした。
――異常なし。
今日も学園は平和だった。
「竹谷先輩!」
次の日竹谷は町で実習だった。実習から帰ってきたときはいつも門前が混雑する。小松田がしっかりと見張っているせいだ。大勢で出たときにもひとりずつ書かせるので時間がかかる。
特に疲れてもいなかったのでのんびり待っていると、委員会の後輩たちが駆け寄ってきた。彼らの焦った様子に何かが起きたのだと知る。
「どうした?」
「孫兵先輩が朝からいないんです!」
「しかもじゅんこを残して!」
孫兵の相方ともいえる存在のじゅんこは今一平の首に巻き付いている。昨日の孫兵の様子を思い出し、竹谷は思わず舌打ちをした。
――あの蛇だ。
「お前ら出門表は?」
「書きました!」
「よしっ、行くぞ!」
近くのクラスメイトに断って、竹谷は一年を連れて裏山へ急いだ。どうして昨日の間に気がつかなかったのだろう。
昨日回った場所を中心に虱潰しに孫兵の姿を探す。そう遠くはないはすだ。全員四散せず少し離れるだけに留める代わりに、四方に目を配って茂る森を見渡した。夏の盛りで緑が濃い。様々な生き物も活発になる季節だ。昨日後輩に指導がてらに見回りをしたのだが、もっとしっかり注意しておくべきだった。
「いました!」
少し先に行っていた三治郎が戻ってくる。じゅんこを連れた一平を呼んで竹谷は一瞬にそちらへ向かった。藪を抜けた先、小さな池のそばで、孫兵が笠を目深に被った女に寄り添っている姿が視界に飛び込んだ。水面が反射して目を細める。
「じゅんこ!」
一平が手を伸ばすとそこからマムシのじゅんこが跳んだ。彼女はまっすぐ女に向かい、笠を払うように顔に飛びかかる。女はそれから逃げようと身をよじったが、そこに竹谷が飛びかかって池に突き飛ばした。派手な水しぶきが上がり、その影に紛れて孫次郎と虎若が孫兵を引き寄せる。
「孫兵!大丈夫か!」
「先輩!」
「孫兵先輩!」
後輩に囲まれて、孫兵ははっと身をかたくした。湖面に浮かぶ笠を見て、彼らしくなく舌を打つ。
竹谷は孫兵が正気を取り戻したのを確認し、波立つ水面に構えた。
水かがぬっと割れるように、長い髪ですっかり顔の隠れてしまった女が水中から現れる。
「竹谷先輩、これっ……」
「目ェ覚めたか!こいつがお前の見てたかわいこちゃんの正体だ!」
「そんなっ……」
孫兵は顔を青くして口元を覆った。よろける彼を後輩たちが支える。
「美しい蛇だと思っていたのに!」
「そこですかぁ?」
呆れた後輩たちは思わず笑う。自分のペースを崩さない孫兵に竹谷も苦笑して、気が抜けて池に向けていた構えを解いた。
「お前も相手が悪かったな」
女は困惑したように水に使ったままきょろきょろと辺りを見回すが、ここに彼女の味方はいない。それがわかると彼女は顔を覆ってさめざめと泣き始めた。
「あーっ、竹谷先輩が泣かしたぁ!」
「えっ!」
三次郎の声に今度は竹谷が慌てる。すすり泣きを聞いて後輩たちが一斉はやし立てた。孫兵はぼくにはお前だけだ、などと調子よくじゅんこを抱きしめている。
「あっ、いや、その、泣かせるつもりじゃ」
「竹谷先輩ひどーい!」
「だからモテないんですよ〜」
「どっちかってぇと泣かせたの孫兵だろ!?ああ、ええと、その……ちょっと、学園の中には、お前たちは入れないんだ。孫兵と一緒でも入れないよ。あそこは人の世だ。わかるか?」
しとしと泣きくれる女が頷いた、ような気がして、理解してくれたものと信じることにする。
「竹谷先輩」
孫次郎に袖を引かれて振り返る。彼は影に隠れるようにしながらも、池の方を見つめていた。
「学園の外で仲良くするなら、大丈夫ですか?」
「え?」
竹谷が振り返ると、一年生たちが揃って竹谷を見ている。その目の輝きは、竹谷に否と答えることを許さない。竹谷は孫兵を見る。彼だけはすでにこちらに関心がない。
「ま、孫兵は?」
「自然の摂理に反したものに興味はありません」
「一番好かれるのお前なんだけどなぁ……」
一年生を見てから池の女に視線を戻す。長い髪の合間から目のようなものが覗き、一年生と同じ目で竹谷を見た。竹谷は深く、溜息をつく。
「ひとつ!必ず先輩か先生と一緒に会うこと!」
竹谷の宣言に、一年生たちはぱっと顔を明るくしてお互いを見た。甘いと言われても、どうも後輩たちの視線に勝てない。
「ひとつ!学園には絶対入れない!ひとつ!名前はつけない!わかったな!?」
「「はーい!」」
一年生たちが声をそろえた。
*
小松田が蝉の声を聞きながら門の外を掃除していると、笠を目深に被った女性が近づいてくる。入門表を取り出すと、学園内から竹谷が顔を出した。
「小松田さん、出門表を」
「あ、はぁい」
中から生物委員がぞろぞろと出てきた。順番に出門表に名前を書き、女性のそばに寄っていく。
「今日中には戻ります」
「はいはーい。それにしても、あの女の人が人間じゃないなんて、びっくりだな〜」
「……小松田さん、人に見えるんですね」
竹谷は出門表を返しながら少し顔をひきつらせた。
「違うの?きれいな女の人じゃない」
「……その目が羨ましいですよ。ほらっ、こんなところでのんびりしてないで行くぞー」
竹谷の声に元気よく応え、生物委員は女性と共に歩いていく。その背中をしばらく見送り、小松田は掃除を再開した。
もうすぐ夏休みだ。生徒たちの大半は帰省し、学園はいつもより静かになる。その間はいつも忙しい教師たちも多少は手が空くので、小松田の忍者の特訓を見てくれることがあった。それだけでも忍者を目指す自分にとっては、かなり幸運なことだろう。しかしその前に、帰省前の配布物の用意など、事務員は忙しくなる。また沢山怒られるんだろうなぁ、と思ったあと、今も早く掃除を終わらせなくてはならないことを思い出した。箒を握り直して門前の掃除を再開する。
ふと気配を感じて小松田が顔を上げると、道の向こうから笠を被った女性がこちらに向かってくる姿を見つけた。ひぐらしの声が大きくなる。女性は重力を感じさせないほど軽い足取りで、小松田が何かを思考する間もなく目前に近づいていた。
「忍術学園はこちらですか?」
「はい。お客さんですね?入門表にサインをお願いします!」
来客からサインを貰う、それも小松田の大切な仕事のひとつだ。いつもの調子で入門表と筆を差し出せば、女性は笠の影で困惑した様子を見せた。忍術学園を訪ねる者の中には稀だが、しかし文字の読み書きができない者は決して少なくない。お名前聞かせていただければ代筆しますよ、と笑いかけたが、女性はうつむいてしまった。名前を書けないのではなく、身分を隠したいのか。その事情は何であれ、サインを貰わなければ中へ入って貰うことはできない。小松田は困りましたねぇ、と腕を組む。女性はしばらく思案した後、小松田に背を向けて来た道を戻って行った。一体なんだったんだろう。首を傾げていると今度は後方から賑やかな声がやってくる。裏山に出かけていた生物委員の面々と、街へ出かけていたはずの私服姿の神崎左門だ。方向音痴の彼は今日は生物委員に見つけてもらえたらしい。
「すごくきれいな蛇だったのに」
「あのなー、うちじゃこれ以上お前のペットは飼えないの!」
すねた様子の伊賀崎孫兵に、生物委員委員長の竹谷八左ヱ門が苦笑して頭をかく。それを一年生たちが笑って見ていた。相変わらず仲のいい委員会だ。
「お帰り〜!」
「あっ、小松田さん!」
「ただいま戻りました!」
元気よく返事をした左門が勢いのまま通り過ぎそうになり、慌てて足の速い夢前三治郎が捕まえる。ひとりずつ順に入門表に名前を書いてもらい、門を開けた。竹谷が受け取ったとき、やや躊躇いを見せて顔を上げる。
「小松田さん、誰か来ました?」
「今日は忍術学園の人しか出入りしてないよ。あ、今来た女の人がいたけど、何も言わず帰っちゃった」
「そうですか、ならいいです」
「どうしたんだろうね」
首を傾げる小松田と竹谷の間に三治郎が顔を出す。
「小松田さんがいじめたんじゃない?」
「そんなことしてないよ!失礼だなぁ」
「こわ〜い顔で入門表を押しつけたんじゃないの〜?」
「してません〜!」
「こらこら、お前たちが小松田さんをいじめてどうする」
ごめんなさいと言いながらもけらけら笑い、一年生たちは門をくぐった。その後を孫兵が続くが、浮かない様子だ。心配になって視線で追えば、竹谷が大丈夫ですと笑う。
「裏山で珍しい蛇を見つけて持って帰りたがっていたんですが、止めたので拗ねてるんです」
「あ〜、それはやめてもらわないと」
「はは。はい、入門表みんな書けました」
「確かに!」
入門表を受け取って竹谷の背を見送る。入れ替わるように小松田の教育をしてくれている用具主任の吉野がやってきた。だまし絵のような顔をしているので小松田はいつか逆さまから見てみたいと思っているが、その機会はなかなか訪れない。
「みんな帰ってきましたか?」
「はい、今日出かけた人はみんな」
「来客も全て帰っていますか?」
「はい。利吉さんに出門表のサイン貰うの大変でしたよ〜」
吉野は小松田の苦労話を聞く気はないようで、そうですか、と頷くだけだ。それもいつものことなので、小松田は特に気にしない。
「ならもう掃除はいいですよ。夕食にでも行ってきなさい」
「はーい!」
子どものようにはしゃいで小松田が門をくぐるのを見て吉野は思わず溜息をつく。誰もいなくなった門の外を見て、吉野は錠を下ろした。
――異常なし。
今日も学園は平和だった。
「竹谷先輩!」
次の日竹谷は町で実習だった。実習から帰ってきたときはいつも門前が混雑する。小松田がしっかりと見張っているせいだ。大勢で出たときにもひとりずつ書かせるので時間がかかる。
特に疲れてもいなかったのでのんびり待っていると、委員会の後輩たちが駆け寄ってきた。彼らの焦った様子に何かが起きたのだと知る。
「どうした?」
「孫兵先輩が朝からいないんです!」
「しかもじゅんこを残して!」
孫兵の相方ともいえる存在のじゅんこは今一平の首に巻き付いている。昨日の孫兵の様子を思い出し、竹谷は思わず舌打ちをした。
――あの蛇だ。
「お前ら出門表は?」
「書きました!」
「よしっ、行くぞ!」
近くのクラスメイトに断って、竹谷は一年を連れて裏山へ急いだ。どうして昨日の間に気がつかなかったのだろう。
昨日回った場所を中心に虱潰しに孫兵の姿を探す。そう遠くはないはすだ。全員四散せず少し離れるだけに留める代わりに、四方に目を配って茂る森を見渡した。夏の盛りで緑が濃い。様々な生き物も活発になる季節だ。昨日後輩に指導がてらに見回りをしたのだが、もっとしっかり注意しておくべきだった。
「いました!」
少し先に行っていた三治郎が戻ってくる。じゅんこを連れた一平を呼んで竹谷は一瞬にそちらへ向かった。藪を抜けた先、小さな池のそばで、孫兵が笠を目深に被った女に寄り添っている姿が視界に飛び込んだ。水面が反射して目を細める。
「じゅんこ!」
一平が手を伸ばすとそこからマムシのじゅんこが跳んだ。彼女はまっすぐ女に向かい、笠を払うように顔に飛びかかる。女はそれから逃げようと身をよじったが、そこに竹谷が飛びかかって池に突き飛ばした。派手な水しぶきが上がり、その影に紛れて孫次郎と虎若が孫兵を引き寄せる。
「孫兵!大丈夫か!」
「先輩!」
「孫兵先輩!」
後輩に囲まれて、孫兵ははっと身をかたくした。湖面に浮かぶ笠を見て、彼らしくなく舌を打つ。
竹谷は孫兵が正気を取り戻したのを確認し、波立つ水面に構えた。
水かがぬっと割れるように、長い髪ですっかり顔の隠れてしまった女が水中から現れる。
「竹谷先輩、これっ……」
「目ェ覚めたか!こいつがお前の見てたかわいこちゃんの正体だ!」
「そんなっ……」
孫兵は顔を青くして口元を覆った。よろける彼を後輩たちが支える。
「美しい蛇だと思っていたのに!」
「そこですかぁ?」
呆れた後輩たちは思わず笑う。自分のペースを崩さない孫兵に竹谷も苦笑して、気が抜けて池に向けていた構えを解いた。
「お前も相手が悪かったな」
女は困惑したように水に使ったままきょろきょろと辺りを見回すが、ここに彼女の味方はいない。それがわかると彼女は顔を覆ってさめざめと泣き始めた。
「あーっ、竹谷先輩が泣かしたぁ!」
「えっ!」
三次郎の声に今度は竹谷が慌てる。すすり泣きを聞いて後輩たちが一斉はやし立てた。孫兵はぼくにはお前だけだ、などと調子よくじゅんこを抱きしめている。
「あっ、いや、その、泣かせるつもりじゃ」
「竹谷先輩ひどーい!」
「だからモテないんですよ〜」
「どっちかってぇと泣かせたの孫兵だろ!?ああ、ええと、その……ちょっと、学園の中には、お前たちは入れないんだ。孫兵と一緒でも入れないよ。あそこは人の世だ。わかるか?」
しとしと泣きくれる女が頷いた、ような気がして、理解してくれたものと信じることにする。
「竹谷先輩」
孫次郎に袖を引かれて振り返る。彼は影に隠れるようにしながらも、池の方を見つめていた。
「学園の外で仲良くするなら、大丈夫ですか?」
「え?」
竹谷が振り返ると、一年生たちが揃って竹谷を見ている。その目の輝きは、竹谷に否と答えることを許さない。竹谷は孫兵を見る。彼だけはすでにこちらに関心がない。
「ま、孫兵は?」
「自然の摂理に反したものに興味はありません」
「一番好かれるのお前なんだけどなぁ……」
一年生を見てから池の女に視線を戻す。長い髪の合間から目のようなものが覗き、一年生と同じ目で竹谷を見た。竹谷は深く、溜息をつく。
「ひとつ!必ず先輩か先生と一緒に会うこと!」
竹谷の宣言に、一年生たちはぱっと顔を明るくしてお互いを見た。甘いと言われても、どうも後輩たちの視線に勝てない。
「ひとつ!学園には絶対入れない!ひとつ!名前はつけない!わかったな!?」
「「はーい!」」
一年生たちが声をそろえた。
*
小松田が蝉の声を聞きながら門の外を掃除していると、笠を目深に被った女性が近づいてくる。入門表を取り出すと、学園内から竹谷が顔を出した。
「小松田さん、出門表を」
「あ、はぁい」
中から生物委員がぞろぞろと出てきた。順番に出門表に名前を書き、女性のそばに寄っていく。
「今日中には戻ります」
「はいはーい。それにしても、あの女の人が人間じゃないなんて、びっくりだな〜」
「……小松田さん、人に見えるんですね」
竹谷は出門表を返しながら少し顔をひきつらせた。
「違うの?きれいな女の人じゃない」
「……その目が羨ましいですよ。ほらっ、こんなところでのんびりしてないで行くぞー」
竹谷の声に元気よく応え、生物委員は女性と共に歩いていく。その背中をしばらく見送り、小松田は掃除を再開した。
2013'09.21.Sat
「捕まえたっ!」
竹谷が飛びかかると子狼は甲高く鳴いた。その口を素早くつかみ、暴れる獣を抑え込む。背を撫でてやればやがて大人しくなり、いい子だ、と褒めてやってから手を離す。荒い息のまま竹谷を見つめている子狼を笑って、膝の間に入れて撫でまわした。甘えるような声がくすぐったい。
「早く走れるようになったなぁ。どうなることかと思ったけど、お前もちゃんと狼だってことだ」
話しかけながら、まるで犬のようにじゃれてくる狼に苦笑した。兄弟の中では一番小柄で、どうも甘やかしてしまう。子狼の育て方をきちんと教わっておくべきだった、と卒業した先輩のことを思い返すが、過ぎた時間は戻らない。
「よし、帰るぞ」
立ち上がって歩き出すと、狼は大人しく竹谷についてくる。裏山を走っていたつもりだったが、いつの間にか裏々山辺りまで来てしまってる。ふと耳に入る音に辺りを見れば、キツツキの姿があった。小刻みに気を叩く姿は愛らしく、後輩たちに見せてやりたいなぁなどと思う。一年生は今揃って演習で海に行っているはずだ。またいつもの学園長先生の突然の思いつきだ。さて今度は何を食べたがっているのだろうか。
そんな余計なことを考えながら歩いていたせいだろうか、道なき道で迷ってしまった。辺りの木々に見覚えはある気はするのだが、思い浮かぶ帰路を辿って歩いても違うところに着いてしまう。
そうしているうちに日も落ちてしまい、夜に動くのは諦めることにした。たまごとはいえ竹谷も忍者、夜は恐ろしいものではない。自分ひとりならば歩き続けても構わないが、今はまだ若い狼と一緒だ。下手に野生の群れにでも遭遇するといらぬ戦いをすることになる。手頃な木の側で休むことを決めて、寄り添う獣を抱いて目を閉じた。
鳥の声で目が覚めた。と同時に、側にいたはずの子狼がまた逃げ出していることに気がつき、立ち上がる。まだ温もりが残っているので、さほど遠くへは行っていないだろう。朝も早くから蝉の大合唱が響く森の中を、竹谷は溜息をついて歩き出した。あまり遅くなると仕事がどんどん溜まってしまう。生き物がざわつく気配を探りながら、大体の見当をつけた。猫柳がその愛らしい穂を揺らしている。いい季節だ。
森を歩くのを楽しんでいると、小さく動く影を見つけた。悪戯好きの子狼だ。気配を殺し、音も極力させずに近づいていく。機嫌よく揺れる太い尻尾の先に、トンボがぶつかりそうになった。パリッと気持ちよく空気を切り、それが飛んでいった瞬間、狼が耳を揺らす。それとほぼ同時に背中に飛びついた。どうにか抱え込める大きさの獣の口を押さえ、低い唸り声をあげてあばれているのをどうにか制御する。声をかけ続けているとようやく落ち着いて、手を離して謝りながら首回りを撫でてやった。
「ったく、手間かけさせんなよ」
とはいえその成長は少し嬉しい。親を亡くして鳴いていたのを連れてきた形になり、初めは随分衰弱していたのだ。立派な狼にしてみせるからな、と背を撫で、さぁ、と声をかける。
「学園に帰るぞ」
何事にも巻き込まれていなければ、そろそろ学園長先生の突然の思いつきで海に行った一年生たちが帰ってきているだろう。紫陽花の咲き誇る辺りを抜けて学園に向かったが、竹谷が思っている場所に出ない。裏山を走っていたつもりが、いつの間にか裏々山に来ていたのだろうか。知っているような気がするあたりなのだが、竹谷の思う位置と少しずれているようだ。
子狼は遊びと勘違いしているのか、跳ねるように竹谷の足元にまとわりつきながらついてくる。水仙を踏み荒らすので笑って制した。そうかと思えば舞うように近づいてくるアゲハチョウを捕まえようと飛び跳ねる。元気な子だ。竹谷も疲れているわけではないが、とても遊ぶ気にはなれない。
歩いても歩いてもこれとはっきりわかる場所には出ず、そうこうするうちに緩やかに日が沈んでいく。空に浮かぶ月を見上げ、明るい満月に溜息をついた。こんなに明るい夜に動いて、他の群れに目をつけられてはたまらない。散々遊んだ子狼を抱え込み、今日は野営をすることにした。そう冷え込むわけでもないし、なによりこの獣は熱いほどだ。どこからともなく鈴虫の心地よい鳴き声が聞こえてくる。たまにはこんな夜も悪くない。
気持ちのいい朝だった。子狼に顔を舐められて目を開ける。近くに沢を見つけて顔を洗った。赤い沢蟹を見て頬を緩める。さあ、帰ろうか、と子狼を撫でて歩き出した。そろそろ演習へ行った一年生が帰ってきているかもしれない。学園長先生の突然の思いつきのおかげで生物委員は人手が足りなくて大変なのだ。早く帰らなければ。
金木犀が香る森を抜けて学園に向かう。どこからか桜の花びらが飛んできて、少し浮かれた気分になった。子狼も飛び跳ねるように竹谷の前を進んでいく。ふと見た足元に立派なキノコを見つけ、今度用意をして取りに来ようと思った。
ぴくん、と子狼が顔を上げた。次の瞬間地を蹴って駆けだす。油断していた竹谷は遅れて追いかけた。ドクダミを踏み分けて追う小さな背中は早い。自然の生き物を追いかけるのは一瞬たりとも気が抜けず、途中何を払ったかもうわからない。子狼が向かう先に鹿の姿を見つけ、竹谷は覚悟を決めて獣に飛びつく。高い鳴き声で獲物は逃げていき、暴れる四肢が大人しくなるまで抱え込んだ。幼いとはいえ鋭い牙と爪を持つ。どうにか落ち着いてくれた後、ゆっくり手を離して大きく息をついた。
「はー、帰ったら飯にするから、遊ぶならおれにしてくれ」
背を叩き、再び歩き出す。ざわついた森はすっかり生き物の気配が離れてしまった。気を取り直して学園へ向かう。少し遠くまで来てしまったが、このまま行けばそう時間もかかるまい。足元に芽吹くフキノトウを横目に進むのは知った道だ。そう思って歩いていたが、よそ見をしすぎたか、少し逸れてしまったようだ。
軌道修正していると、誰かに声をかけられる。少し警戒した子狼をなだめてその人を見ると、修業中の山伏のようだった。道に迷って森から抜けられなくなったのだという。それなら一緒に、ということになり、直接学園に向かうのはやめてふもとを目指すことにした。
「あなたは、森から出られますか?」
妙に神妙に男が言うので竹谷は思わず笑い飛ばす。自分にとっては庭のような場所だ。
「すぐ抜けられますよ」
「そうですか……私はもう、何日も迷っておりました」
「まさか、そんなに深い山じゃないでしょう。化かされているのならいざ知らず」
竹谷の軽い口調に彼は複雑そうにしていた。きっと慣れていないのだろう。
「あ、ほら、もうすぐそこですよ」
辺りが明るくなり、すっと森が切れる。その太陽の下に出た瞬間、竹谷はめまいに襲われ膝をついた。
「竹谷ッ!」
崩れ落ちそうな体を、たくましい腕が抱きとめる。直接頭に響く大きな声。名前を呼ぼうとするが、喉の奥が焼けつくようで、かすれた息が漏れるだけだ。七松がどうしてここにいるのだろうか。しかし考える余裕はなく、体にのしかかるような疲労に襲われて指先ひとつ動かせない。
「生きてるな!?」
ゆすぶられて頭ががくがくと振り回される。どうにか顔を上げて七松を見ると彼は安堵の息を吐き、強く竹谷を抱きしめる。とにかく水を、と差しだされ竹筒を持つこともできず、飲ませてもらいどうにか喉を潤した。
「――あの、これは」
「お前が帰ってこないから、みんなで探していたんだ」
「まさか、一晩ぐらいで大げさな」
「何を言っている。お前が帰らなくなって5日だ」
「……え?」
慣れた裏山に、後輩を迎えに行っただけだ。早く帰れと声をかけ、それから――それから、自分は何をしていたのだろうか。自分を強く抱く七松の力は痛いほどだったが、彼がそうするのは自分の体が震えているからだと気がついた。
「帰るぞ」
七松の頬に伝う汗を見上げ、竹谷は黙って頷いた。
竹谷が飛びかかると子狼は甲高く鳴いた。その口を素早くつかみ、暴れる獣を抑え込む。背を撫でてやればやがて大人しくなり、いい子だ、と褒めてやってから手を離す。荒い息のまま竹谷を見つめている子狼を笑って、膝の間に入れて撫でまわした。甘えるような声がくすぐったい。
「早く走れるようになったなぁ。どうなることかと思ったけど、お前もちゃんと狼だってことだ」
話しかけながら、まるで犬のようにじゃれてくる狼に苦笑した。兄弟の中では一番小柄で、どうも甘やかしてしまう。子狼の育て方をきちんと教わっておくべきだった、と卒業した先輩のことを思い返すが、過ぎた時間は戻らない。
「よし、帰るぞ」
立ち上がって歩き出すと、狼は大人しく竹谷についてくる。裏山を走っていたつもりだったが、いつの間にか裏々山辺りまで来てしまってる。ふと耳に入る音に辺りを見れば、キツツキの姿があった。小刻みに気を叩く姿は愛らしく、後輩たちに見せてやりたいなぁなどと思う。一年生は今揃って演習で海に行っているはずだ。またいつもの学園長先生の突然の思いつきだ。さて今度は何を食べたがっているのだろうか。
そんな余計なことを考えながら歩いていたせいだろうか、道なき道で迷ってしまった。辺りの木々に見覚えはある気はするのだが、思い浮かぶ帰路を辿って歩いても違うところに着いてしまう。
そうしているうちに日も落ちてしまい、夜に動くのは諦めることにした。たまごとはいえ竹谷も忍者、夜は恐ろしいものではない。自分ひとりならば歩き続けても構わないが、今はまだ若い狼と一緒だ。下手に野生の群れにでも遭遇するといらぬ戦いをすることになる。手頃な木の側で休むことを決めて、寄り添う獣を抱いて目を閉じた。
鳥の声で目が覚めた。と同時に、側にいたはずの子狼がまた逃げ出していることに気がつき、立ち上がる。まだ温もりが残っているので、さほど遠くへは行っていないだろう。朝も早くから蝉の大合唱が響く森の中を、竹谷は溜息をついて歩き出した。あまり遅くなると仕事がどんどん溜まってしまう。生き物がざわつく気配を探りながら、大体の見当をつけた。猫柳がその愛らしい穂を揺らしている。いい季節だ。
森を歩くのを楽しんでいると、小さく動く影を見つけた。悪戯好きの子狼だ。気配を殺し、音も極力させずに近づいていく。機嫌よく揺れる太い尻尾の先に、トンボがぶつかりそうになった。パリッと気持ちよく空気を切り、それが飛んでいった瞬間、狼が耳を揺らす。それとほぼ同時に背中に飛びついた。どうにか抱え込める大きさの獣の口を押さえ、低い唸り声をあげてあばれているのをどうにか制御する。声をかけ続けているとようやく落ち着いて、手を離して謝りながら首回りを撫でてやった。
「ったく、手間かけさせんなよ」
とはいえその成長は少し嬉しい。親を亡くして鳴いていたのを連れてきた形になり、初めは随分衰弱していたのだ。立派な狼にしてみせるからな、と背を撫で、さぁ、と声をかける。
「学園に帰るぞ」
何事にも巻き込まれていなければ、そろそろ学園長先生の突然の思いつきで海に行った一年生たちが帰ってきているだろう。紫陽花の咲き誇る辺りを抜けて学園に向かったが、竹谷が思っている場所に出ない。裏山を走っていたつもりが、いつの間にか裏々山に来ていたのだろうか。知っているような気がするあたりなのだが、竹谷の思う位置と少しずれているようだ。
子狼は遊びと勘違いしているのか、跳ねるように竹谷の足元にまとわりつきながらついてくる。水仙を踏み荒らすので笑って制した。そうかと思えば舞うように近づいてくるアゲハチョウを捕まえようと飛び跳ねる。元気な子だ。竹谷も疲れているわけではないが、とても遊ぶ気にはなれない。
歩いても歩いてもこれとはっきりわかる場所には出ず、そうこうするうちに緩やかに日が沈んでいく。空に浮かぶ月を見上げ、明るい満月に溜息をついた。こんなに明るい夜に動いて、他の群れに目をつけられてはたまらない。散々遊んだ子狼を抱え込み、今日は野営をすることにした。そう冷え込むわけでもないし、なによりこの獣は熱いほどだ。どこからともなく鈴虫の心地よい鳴き声が聞こえてくる。たまにはこんな夜も悪くない。
気持ちのいい朝だった。子狼に顔を舐められて目を開ける。近くに沢を見つけて顔を洗った。赤い沢蟹を見て頬を緩める。さあ、帰ろうか、と子狼を撫でて歩き出した。そろそろ演習へ行った一年生が帰ってきているかもしれない。学園長先生の突然の思いつきのおかげで生物委員は人手が足りなくて大変なのだ。早く帰らなければ。
金木犀が香る森を抜けて学園に向かう。どこからか桜の花びらが飛んできて、少し浮かれた気分になった。子狼も飛び跳ねるように竹谷の前を進んでいく。ふと見た足元に立派なキノコを見つけ、今度用意をして取りに来ようと思った。
ぴくん、と子狼が顔を上げた。次の瞬間地を蹴って駆けだす。油断していた竹谷は遅れて追いかけた。ドクダミを踏み分けて追う小さな背中は早い。自然の生き物を追いかけるのは一瞬たりとも気が抜けず、途中何を払ったかもうわからない。子狼が向かう先に鹿の姿を見つけ、竹谷は覚悟を決めて獣に飛びつく。高い鳴き声で獲物は逃げていき、暴れる四肢が大人しくなるまで抱え込んだ。幼いとはいえ鋭い牙と爪を持つ。どうにか落ち着いてくれた後、ゆっくり手を離して大きく息をついた。
「はー、帰ったら飯にするから、遊ぶならおれにしてくれ」
背を叩き、再び歩き出す。ざわついた森はすっかり生き物の気配が離れてしまった。気を取り直して学園へ向かう。少し遠くまで来てしまったが、このまま行けばそう時間もかかるまい。足元に芽吹くフキノトウを横目に進むのは知った道だ。そう思って歩いていたが、よそ見をしすぎたか、少し逸れてしまったようだ。
軌道修正していると、誰かに声をかけられる。少し警戒した子狼をなだめてその人を見ると、修業中の山伏のようだった。道に迷って森から抜けられなくなったのだという。それなら一緒に、ということになり、直接学園に向かうのはやめてふもとを目指すことにした。
「あなたは、森から出られますか?」
妙に神妙に男が言うので竹谷は思わず笑い飛ばす。自分にとっては庭のような場所だ。
「すぐ抜けられますよ」
「そうですか……私はもう、何日も迷っておりました」
「まさか、そんなに深い山じゃないでしょう。化かされているのならいざ知らず」
竹谷の軽い口調に彼は複雑そうにしていた。きっと慣れていないのだろう。
「あ、ほら、もうすぐそこですよ」
辺りが明るくなり、すっと森が切れる。その太陽の下に出た瞬間、竹谷はめまいに襲われ膝をついた。
「竹谷ッ!」
崩れ落ちそうな体を、たくましい腕が抱きとめる。直接頭に響く大きな声。名前を呼ぼうとするが、喉の奥が焼けつくようで、かすれた息が漏れるだけだ。七松がどうしてここにいるのだろうか。しかし考える余裕はなく、体にのしかかるような疲労に襲われて指先ひとつ動かせない。
「生きてるな!?」
ゆすぶられて頭ががくがくと振り回される。どうにか顔を上げて七松を見ると彼は安堵の息を吐き、強く竹谷を抱きしめる。とにかく水を、と差しだされ竹筒を持つこともできず、飲ませてもらいどうにか喉を潤した。
「――あの、これは」
「お前が帰ってこないから、みんなで探していたんだ」
「まさか、一晩ぐらいで大げさな」
「何を言っている。お前が帰らなくなって5日だ」
「……え?」
慣れた裏山に、後輩を迎えに行っただけだ。早く帰れと声をかけ、それから――それから、自分は何をしていたのだろうか。自分を強く抱く七松の力は痛いほどだったが、彼がそうするのは自分の体が震えているからだと気がついた。
「帰るぞ」
七松の頬に伝う汗を見上げ、竹谷は黙って頷いた。
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