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言い訳置き場

言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。

2025'03.13.Thu
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2013'01.15.Tue
「今年もこの時期が来ましたね……」

経理課ミーティングなう。そんなふざけた札を下げた会議室内、今期で最後になるであろうまともなミーティングが行われていた。一年の締めくくりである総決算の季節がやってきた。普段は現場に出ている加藤もこの時期は強制的に経理課へ戻され、ベストメンバーが揃えられている。指揮を執るのは潮江文次郎。入社以来経理一筋の男は、開始前からすでに目の下にくまを飼っている。

「いいか、用途不明の領収書は叩き返せ!必要印が揃ってない不備書類も同様だ!」

「はいっ!」

「各部署の甘えた要求にも聞く耳を貸すな!」

「はいっ!」

「ところで主任」

「何だ」

「今期は終わった途端に寝込んだりしないで下さいね」

「……わかってる」

空気の読めない後輩の発言に会議室は凍りついた。はらはらする他のメンバーの視線に溜息をつく。

前回の決算は、それまで共に暮らしていた母親がいなくなって初めての修羅場だった。ひとりになってもそれなりに生活は十分にできていたが、あのときばかりはそれもままならなかった。毎日終電に駆け込んで帰宅し、食事と風呂と洗濯をこなして気持ちばかりの睡眠で朝早くに出社する。こなせると思っていたが、最後の会議が終わった次の日は布団から起きあがることができず、家の中もひどい有様だった。今年も同じことを繰り返すわけには行かない。すでに先手は打ってあった。



*



玄関が少し暖かい。明かりをつけて潮江は感嘆の息を漏らす。そういえば頼んだのは今日からか。玄関の隅の砂まで払われ、更には靴まで磨いてある。

秘密兵器はハウスキーパーだ。女手ひとつでバリバリ働いていた母親が使っていた手だ。頼んだのは洗濯と食事の用意と簡単な掃除だけだが、どうやら完璧主義者が担当になったようだ。

食卓には夕食が並んでいる。どうやら丁度すれ違ったらしく、皿はまだ温かい。添えてあるメモには端正な文字が並んでいた。お帰りなさい、なんて。

「お帰りなさい、アレルギーは伺っていますが、嫌いなものがあればお申し付け下さい、朝食は冷蔵庫にあるので温めて……まめなこった」

しかしそれが彼女たちの仕事なのだ。同じ金を払うのだから、優秀な方が不都合がない。

鍋に汁物があり、食卓と合わせて一汁一菜。炊飯器のお米も炊き立てのようだ。スーツのジャケットを脱いで食卓につく。自分で簡単なものは作るが、自宅でこんな食事は久しぶりだ。基本的に食にこだわりはないが、やはり少し気持ちが違う。皿のラップを外して手を合わせた。

「いただきます」



*



修羅場が始まった。よれよれで帰宅したところに食事があるだけでこんなにも違うのかと、毎日噛み締める。帰宅時間が遅いので結局ハウスキーパーとは顔を合わせていないが、さぞベテランなのだろう、と毎朝アイロンのかかったシャツに袖を通して思う。

「……ただいま、と」

毎日律儀に残されるメモに目を通す。今日した仕事の内容と夕食を温める旨を書いただけの簡潔なものだ。潮江は必要な場合だけそれに返事のメモを残す。

「……肉じゃがなんていつぶりだ」

思わず溜息をついたのは、この食事が完璧であることを知っているからだ。潮江のような食にこだわりのない男でも、考えられた食事であることはわかる。季節のもの、栄養バランス、食べ合わせなど、計算された食事だ。ひとり暮らしでそれなりにやっていたつもりでも、プロとは違うのだと思い知らされる。思えば、子どもの頃はハウスキーパーの夕食を楽しみにしていたように思う。

「ああ、お帰りなさい」

「!?」

顔を上げるとそこに女がひとり立っている。長い髪を簡単にまとめ、カットソーにデニムという姿だが目を引くほどに美しい。言葉を失ったままの潮江に彼女は笑いかける。

「初めまして、家政婦の立花です」

「こ、こんな時間まで何を」

「庭の草むしりを。気になっていたので明日するつもりだったのですが、時間があったので」

「そうではなく!」

「あなたを待っていたんです」

「は?」

「いつも残さずきれいに食べて下さるから、どんな顔をして食べているのか見てみたくて」

立花は食卓の椅子にかけていたエプロンをさっと手にして身にまとい、椅子を引いて潮江を促す。疲れた頭が状況を理解しきれない。しかし立花はお構いなしに、食卓の器を一度回収して鍋を置いたままのコンロに火をつける。

「温め直しますね、座って下さい」

「おい」

「ああ、大丈夫です延長料金なんて取りませんから。好きでやってるだけです」

帰そうとしたが漂う夕食の匂いに腹が鳴る。振り返らなかったが立花が笑ったのがわかり、黙って椅子に座った。立花はテキパキ働き、潮江の前にはあっという間に温かい夕食が並ぶ。最後に立花が目の前に座った。

「召し上がれ」

「……立花さんは」

「いただきました。気にせずどうぞ」

「……いただきます」

手を合わせて食べ始める。温め直した食事だがいつも通り質のいい食事だ。

「潮江さんはほんとに好き嫌いはないんですか?」

「ない。……若いんだな」

「はは、そうでもないですよ」

「もっとおばさんだと思ってた。昔うちに来てもらった人がそうだったから」

「それはうちの母ですね」

「……そうなのか」

「潮江さんからお仕事の依頼があったことを聞いて来たがっていました」

「今は?」

「もう隠居してます。元気ですけど、もう人んちの掃除までしてられないって」

「はは、らしいな」

立花は自分にお茶だけ用意し、潮江の夕食につき合っている。もっと華やかな仕事の似合いそうな容姿だが、母親の話を聞いて納得した。彼女も完璧にこなす人だった。

「毎日こんなに遅いんですか?」

「いや、今だけだ」

「よかったらお弁当作りましょうか」

「え?」

「お昼、いつもコンビニみたいですから」

立花は冷蔵庫のマグネットに挟んであるレシートを指さした。自分の金の計算までする気になれず、溜まる一方だ。

「……いや、片手で食べられるものじゃないと」

「……それはまた、母が聞けば怒りそうな話ですね」

「はは、よく怒られた。俺の食事マナーはあの人に叩き込まれたようなものだ」

「では母には内緒で」

立花は立ち上がり、米櫃を開ける。

「とりあえず、明日の分作りますね」

「……正直」

「はい?」

「舌が肥えて困ってたから助かる」

「……ふっ」

どこかいたずらっ子のような顔で立花は笑った。



*



「主任〜、昼飯買ってきます〜」

「10分で帰れ!」

「はぁい。主任もいつものでいいですかぁ?」

へろへろになった加藤が切りをつけた書類を持ってやってきた。ああ、と返事をしかけて、潮江は鞄の中の昼食を思い出す。

「大丈夫だ」

「え、いいんですか?」

「ああ。持ってきた」

「うへえ。じゃあ抜けてきます〜」

「団蔵!僕のも!」

「メモ下さ〜い」

デスクにメモが回る中、潮江は弁当を取り出した。弁当と言ってもラップで包まれたおにぎりだ。片手で電卓を叩きながらそれにかぶりつく。ふと、立花の顔が浮かんだ。今頃立花はまめに掃除でもしているのだろうか。

(……待てよ)

昨日は気づかなかったが、あの立花が家事をしてるということは、下着の洗濯も任せているということだ。

「……あー……」

しばらく考えて、潮江はまた手を動かした。全てはこれが、終わってからだ。
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2013'01.05.Sat
「俺たちってどういう風に見えてるんでしょうね」

久々知のストレートな物言いに言葉を失った。タカ丸の様子を知ってか知らずか、久々知は何事もなかったかのように、慎重に選んだ豆腐を買い物かごに入れた。感情の起伏もなくこだわりもない彼が唯一執着するのが豆腐だ。今夜は麻婆豆腐にするのだ、とそれにふさわしいものを選んだ彼は、カートを押して次の食材を探しに行く。

スーパーで買い物をするカップル、には見えないだろう。ふたりとも立派な成人男子で、女らしい柔らかさやかわいらしさは微塵もない。久々知は寝間着のままのよれよれのスウェット姿、タカ丸は金髪にスーツといったホスト同然の格好だ。繁華街の美容院の店員など、世間から見ればホストとそう変わらないのかもしれない。今日も贔屓にしてくれているキャバクラの開店2周年のパーティーに呼ばれていて、朝帰りならぬ昼帰りでさっきようやく久々知の顔を見たばかりだ。

「タカ丸さん?」

「……兄弟、とか?」

「は?」

「え?」

「ああ、考えてたんですか?どう見えてようがどうでもいいですよ」

「えぇ〜」

真剣に考える程度には衝撃的な言葉だったのだが、久々知の方はそうではなかったらしい。彼と会話がかみ合わないのは今に始まったことではないが、こうして肩すかしを食らうことになかなか慣れない。

「酒飲みますか?……って、もういいですよね」

「はは、もう浴びるように飲んだよ」

「さっさと帰って風呂ですね。先に帰ってていいのに」

「いいの、一緒がよかったの!」

「疲れてないならいいですけど」

「お酒より味噌汁が飲みたいかな〜」

「いいですよ」

「あ」

しまった、と思ってももう遅い。久々知は味噌汁用の豆腐を選びにコーナーへ戻っていった。



*



「ただいま〜」

「お帰りなさい」

先に入ったタカ丸の後ろから久々知が応えた。体を返して久々知に笑いかける。

「兵助くんおかえり!」

「ただいま」

靴を脱いだ久々知が不意に顔を寄せてくる。ぎょっとして硬直したタカ丸の首筋に鼻先を当てて少し笑った。

「お風呂いってらっしゃい。味噌汁作っておきますから」

「……超どきどきした……」

心臓に悪い。彼の周囲の人間は、久々知は空気が読めないだとか間が悪いだとか言うが、タカ丸はしばらくつき合ってきてよくわかった。彼はそうと悟らせず、かなり狙って行動する。今すぐ抱きしめたい衝動を押さえ、香水の匂いを落とすべくタカ丸は浴室に走った。
2013'01.04.Fri
「うう〜、この寒さはほんとにどうにかなりませんかね」

委員会の雑用の為に寒い硝煙倉にしばらくいたら、すっかり体が冷えきってしまった。火薬委員として過ごす冬はもう4度目になるが、かつての委員長のタカ丸ではなくともつい甘酒が欲しくなる。

冷たい指先に息を吐きかけてすり合わせていると、隣の三郎次は呆れた顔でそれを見てくる。軟弱だな、という彼だってその鼻は寒さで赤くなっていた。いつもの調子でしかめっ面を作り、先輩は寒くないんですか、と嫌味を込めて言ってやる。

「誰も寒くないなんて言ってないだろ。冬なんだから寒いに決まってる」

「その割には何か言いたそうにしてましたけどぉ」

「鍛錬が足りないって話だよ。寒い寒い言うから余計寒くなるんだ」

「むぅ……」

三郎次の顔は完全に伊助を馬鹿にしている。ほんの世間話のつもりでも、このひねくれ者はおちょくらずにはいられないらしい。

「えいっ」

「!」

かじかむ手で三郎次の手を掴んだ。しかしその手も伊助が思っていた以上に冷たく、ついがっかりすると三郎次はわざとらしく溜息をついた。

「だからおれだって寒いのは寒いんだよ」

「でも平気ならちょっとぐらい暖をとらせて下さいよっ」

離した手をすぐさま三郎次の首に伸ばす。しかし指先が触れるよりも、三郎次の拳が伊助の頭を落ちた方が早かった。

「く〜っ!乱暴!」

「甘い!」

「ちぇ。なぁんかそういうとこ久々知先輩に似てますよね」

「そうかぁ?」

「あの人もあの寒いところで平気そうにしてたじゃないですか」

「雪国の生まれだそうだから」

「ぼくだっては組の中じゃ寒さには強い方なんですけどねー」

「その調子でか。軟弱だな」

「うるさいなぁ。実家に帰っても水を使うから多少は鍛えられてます」

「はぁ?舐めてんのか。冬の海に出てから言いやがれ」

「そりゃ海ほど寒くはないですけどぉ」

ああ言えばこう言う。唇をとがらせて不満を露わにするが、三郎次は言い任したことに満足して鼻で笑った。

「あ、三郎次、食堂のおばちゃんが甘酒できたって!冷めるから早く取りにいけよ!」

「……おー……」

走ってすれ違った左近は、三郎次の表情を見ただろうか。

伊助が覗き込もうとすると三郎次は顔を逸らす。深追いするとぐるぐると回る羽目になったがおかしくて思わず吹き出すと、べしりと顔を叩かれた。

「いったー!」

「やかましわ!」

「何も言ってません!」

「お前が寒い寒いうるさいからだろうが!いいからとっとと食堂行って後輩に持ってってやれ!」

伊助の手から書類を奪い、三郎次は駆けだす。伊助は笑ながらその背中を追いかけた。飛びつくようにぶつかって、三郎次の手を取る。

「あとで先輩も戻ってきて下さいね」

「うるせーよ書類出したら部屋に帰る」

「待ってますからね!」

「早くいけよ冷めるだろ!」

「はーいっ」

足を踏み鳴らす三郎次を笑い、伊助は食堂へと走り出した。
2012'11.20.Tue
「しろべー!」

腹の底に響く声に、はっとして目を開けた。ひっくり返るような格好で藪の中に落ちたまま、気を失っていたらしい。体育委員会の活動中だったことは覚えているが、どうしてこんな状況になっているのかは思い出せなかった。

体は全身ずぶ濡れであった。そういえば裏山に入ったときに降っていた雨はいつの間にかやんでいる。足場の悪い中で足を滑らせて転がったのだろう。戻らなくては。

声は時友を呼び続けている。起きあがろうともがいていると人影が時友の前に飛び出した。ぐいと両腕を捕まれて引き上げられる。軽々と時友をぶらさげて満面の笑みを見せたのは、体育委員長の七松小平太であった。時友を振り回しながら、怪我はないか、と豪快な確認をする。小さな切り傷などはあるだろうが、目立つ痛みはない。揺らされながらありませんとどうにか答えれば、小平太はやはり豪快な笑い声をあげた。

「よかったよかった。金吾が四郎兵衛がいないと大騒ぎでな」

「すみません」

「何、かまわん。下見は滝夜叉丸たちに任せてきたからのんびり帰ろう」

のんびり、と言っても走るのだろう。この体育委員長がてくてく歩いているところなど見たことがない。時友を降ろした七松はじろじろと時友の全身を眺め、汚いなぁ、と明け透けに言った。確かに雨の中を走った後に転がったので全身泥だらけだ。しかしそう言う七松も同じことだ。一緒ですね、と言えば七松は初めて気がついたように自分の体を見回して、大きな口を開けて笑う。そしてきょろきょろと辺りを見回した後、屈んで時友を見ながら目を輝かせて言った。

「四郎兵衛は大人しい子だから、面白い場所に連れていってやろう。但し、私がいいと言うまでひとっ言も喋るんじゃないぞ」



*



温泉だ、と声を上げそうになって、時友は慌てて口を手で覆う。その様子を見て七松は表情だけで笑い、時友の頭を撫でた。

七松に引かれるまま山の奥へ向かった先、目の前が開けたと思えば、そこに広がるのは真っ白な湯気を上げている温泉だった。誰かの手が入っているのか岩と土で囲まれ、白く濁ったようなお湯が沸き続けている。体育委員会で学園のものである山はほとんど走り抜けたが、こんなところに温泉があるとは知らなかった。

驚いている時友を後目に、七松はさっさと汚れた着物を脱ぎ捨て、ふんどしまでも取り去った。確かに時友も全身ずぶ濡れで、下着まで雨がしみている。思い出すと不快になり、真似をするように着物を取っ払った。七松がそうしているように、隣に並んで温泉の端で着物を濯ぐ。溶けるように泥は落ち、七松はきれいになった着物を絞って近くの木に引っかけた。時友がもたもたしていると七松がそれをまとめて絞り、同様に木の枝へと放り投げる。

言葉は口にしないまま七松は時友の背を押し、促されるまま湯に足をつけた。熱すぎない湯は時友を包み込む。ゆっくり肩までお湯につかると、自然と深い溜息がこぼれた。七松が隣で豪快に体を沈め、お湯に押されて体が傾く。

ぐいと腕を引かれたかと思うと頬を拭われた。手を伸ばして七松の鼻先も拭いてやる。七松はくすぐったそうに口元を歪め、今にも笑い出しそうであった。それがおかしくて時友が肩を揺らすと沈められそうになり慌てて七松の手から逃げ出す。湯をかいて泳ぐように逃げた先で何かにぶつかり、時友は顔を上げた。かたいものではない。温泉と同じ温かさのそれは包み込むように柔らかく、月のように白い。しかしそれが「何」なのか、時友にはさっぱりわからなかった。壁のようでもあり小動物のようでもある。質量のある湯気、が一番近いだろうか。

困惑する時友の頭を七松が押さえつけた。慌てて見ると隣で七松はその湯気ともつかぬ白い影に頭を下げていて、時友もそれに倣った。動いてはいけないような気がしてつい息まで止めてしまい、苦しくなってきた頃にようやく七松が手を離したので、大きく息を吸って隣を見上げた。彼の視線の先では、ぼんやりとしたそれがざぶんとお湯を溢れさせながら温泉から出ていくところだった。正体を尋ねようとした時友だったが、七松に遮られて慌てて口を閉じる。

七松が時友の手を取った。指先まで温まったか確認したようだ。手振りで温泉からあがるように示されて縁の方へ近づくと外から白い影が迫った。とっさに会釈をしてやり過ごし、通過したと同時に転がるように温泉を出る。

七松が引っ張って回収した頭巾を渡されると、それは日に干したように乾いている。訪ねようと七松を見たがまだ話してはいけないようで、口を閉じて渡された忍び装束を着た。着物もすっかり乾いている。確かに雨は上がったが、短時間で乾くほどの快晴ではない。

着替えたのを確認して、七松は来たときのように時友を誘導して走り出した。やはり来たときと同じように、よく知るはずの森の全く知らない場所を走り抜けて、ふっと空気が変わったと思えばいつものマラソンコースに出る。そこでようやく七松が声を上げて笑いだした。乱暴に時友の頭を撫でる。

「うわぁ」

「よしよし、よく我慢した!」

「あのぅ、あそこは何ですか?あのもやもやしたものも」

「知らん!」

「はぁ」

「長次も知らなかったからな。何、口を利かなければ人だとばれないから大丈夫だ」

結局七松の言うことでは何もわからなかった。しかし生き字引と呼ばれる中在家長次も知らないいとなると、誰も知らないように思える。

「滝夜叉丸には内緒だ。あいつはべらべらうるさいからな。金吾も泣き言を言いそうだし。四郎兵衛も、もしまたあそこに出たら声を出すなよ」

「声を出したら、どうなるんですか?」

「知らん!」

「……」

豪快な人だと知ってはいたが、怖くはないのだろうか。しかしあの温かい温泉を思い返し、恐怖感はなかったことを思い出す。

「あ、次屋先輩はどうですか?」

何気なく七松を見上げると、初めて難しい顔をした。藪をかき分けて学園に向かいながら小さくうなる。

「あいつには迷ったら喋るなと言ってある。あいつたまに見つからんだろう、多分ああいう場所に入ってしまってるんだ」

「はぁ……」

「滝夜叉丸はそういう勘がない。次屋は入っても気づかない。四郎兵衛、『境』はわかったか」

「……何となく」

「うん、覚えておけ。まあ何かに会っても、大体は何もしなければいいだけだ」

「はい」

「よしっ、学園までマラソンだ!いけいけどんどーん!」

「どんどーん!」

七松について走り出した裏山はいつもと変わらない。温泉に寄った割にはまだ空は明るかった。夕食には十分間に合うだろう。思い出すと腹が鳴って、それを聞いていた七松と並んで笑いあった。
2012'09.21.Fri
「いらっしゃいませ」

左近の声に、客は会釈ともつかない程度に頭を下げた。会社帰りであろう、スーツ姿の一人客。珍しいことじゃない。左近はお決まりの流れとして、カウンターに座った男の前にお絞りを差し出した。知らない顔だ。渡したメニューを開いているところを見ると、常連ではなさそうである。

店の奥を見る。三郎次はまだ店員の振りをして彼女といちゃついていた。呆れはするがわざわざ呼び戻すほど野暮ではない。左近は客に視線を戻す。

「決まらなければ、イメージでも結構ですよ」

左近が声をかけると彼は驚いた表情を見せたが、すぐに眉を下げて困ったように笑った。

「それじゃあ、君の好きなやつ」

「私の、ですか」

「失礼だろうが、酒ならなんでもいいんだ」

「……好みぐらいはお聞きしても?」

「そうだな、甘い酒はあまり好きじゃない」

「かしこまりました」

バーテンをしているが、実は左近はこの手の注文は苦手であった。頭がかたいのだと三郎次たちにはバカにされるが、結局お決まりのものになってしまう。元々酒好きな久作や三郎次に比べると知識面でもやや弱い。

手際よくやっていると見せかけながら目は必死でカウンター裏に並ぶボトルを睨み、最終的に失敗なしの自分の好きな味になる。注文通りなのだからと開き直り、携帯を見ていた客の前に差し出した。

「ありがとう」

携帯を手放した男はグラスを取った。氷を慣らしながらグラスを傾け、一口含んですぐに降ろす。しかしその口角は上がっていて、左近はこっそり安堵の息をはいた。



その日から男は時々店に来るようになった。甘いお酒は飲まない。つまみはあまりいらない。オリーブは好き。雨の日は来ない。金曜日は来ない。携帯で見ているのは時事ニュース。ひとり暮らし。料理は得意。



来客の足音に左近は顔を上げる。

「いらっしゃいませ」

あの男ではなかった。男女の二人連れだ。お決まりの用意を始める。

あの人に会いたいと、思っている自分には見ない振りをした。
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