言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2012'09.02.Sun
「空を泳ぐ金魚は、どうやって捕まえたらいいんだろう」
誰にでもなくぽつりとつぶやく。孫次郎が日陰から見上げる初秋の青空を、真っ赤な金魚が長い尾鰭を揺らして泳いでいる。飛んでいるというのだろうか。ちらちらと自由に動き回る金魚は美しく、孫次郎は届かない手を伸ばした。
「孫次郎は金魚に見えるの」
孫次郎がびくりとして飛び上がる。ごめん、の声に振り返ると、三治郎が申し訳なさそうに眉を下げていた。しかしすぐにばっと明るいいつもの笑顔になる。
「生物委員会集合だって。また誰かが逃げたみたい」
「三治郎は何に見えるの?」
三治郎は顔をしかめる。悪いことを聞いただろうかと取り消そうとしたが、三治郎はうなって首を傾げた。
*
青空よりも、夕日に染まった空の方が金魚は生き生きしているように見えた。長屋に帰る途中に空に金魚を見つけ、孫次郎は足を止める。優雅に、力強く金魚は宙を舞う。あの金魚は金魚鉢で飼えないのだろうか。蓋をしなければ飛んでいってしまうだろうか。
見入っている孫次郎をからかうように、ひらひらと金魚は近づいてくる。日が沈むのに合わせて距離が縮まる。孫次郎は思わず手を差し出した。警戒も見せない金魚はまるで孫次郎を目指すように泳ぎ、孫次郎は嬉しくなって金魚を待つ。夕闇が迫る中で、金魚はいっそう赤く見えた。
金魚を捕まえたらそっと手で包み、竹谷に育て方を聞きにいこう。籠で飼うのなら平太に籠を作ってもらって、飼うのは難しいと言われても必ず自分で最後まで面倒を見るのだ。
手に金魚が触れんばかりに近づいた瞬間、金魚をかき消すように宙から焼け爛れた真っ黒な腕がつきだした。孫次郎が息を飲む間にその腕は孫次郎の手を鷲掴み、恐ろしい力で宙につり上げる。
「こらぁっ!」
孫次郎を引きずり降ろしたのは日向であった。普段は陽気な先生が眉をつり上げ、孫次郎を掴んだ腕を払い落とす。たくましい体に抱かれた孫次郎の背中に、三治郎が抱きついた。孫次郎の視界の端に、斜堂が何かを追っていく姿が見える。
「もう大丈夫だ」
顔を上げると日向がいつも通りの、まぶしいほどの笑みを向けていた。まだ何が起きたのか理解できないが、腕に残る痛みは確かなものだ。背中にしがみついた三治郎は肩を揺らして嗚咽をあげている。熱い涙が背中を濡らしていき、じわじわと遅れてやってきた恐怖に足がすくむ。ぼろぼろと涙がこぼれ、日向は三治郎ごと孫次郎を抱きしめた。
*
あれからも金魚は現れる。優雅に空を舞い、時折見える者を誘っている。黄昏時を泳ぐ金魚を見ながら、孫次郎は隣で同じく方を見ている三治郎に聞いた。
「三治郎には何に見えるの」
「……炎」
それもまた、美しいのだろう。
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誰にでもなくぽつりとつぶやく。孫次郎が日陰から見上げる初秋の青空を、真っ赤な金魚が長い尾鰭を揺らして泳いでいる。飛んでいるというのだろうか。ちらちらと自由に動き回る金魚は美しく、孫次郎は届かない手を伸ばした。
「孫次郎は金魚に見えるの」
孫次郎がびくりとして飛び上がる。ごめん、の声に振り返ると、三治郎が申し訳なさそうに眉を下げていた。しかしすぐにばっと明るいいつもの笑顔になる。
「生物委員会集合だって。また誰かが逃げたみたい」
「三治郎は何に見えるの?」
三治郎は顔をしかめる。悪いことを聞いただろうかと取り消そうとしたが、三治郎はうなって首を傾げた。
*
青空よりも、夕日に染まった空の方が金魚は生き生きしているように見えた。長屋に帰る途中に空に金魚を見つけ、孫次郎は足を止める。優雅に、力強く金魚は宙を舞う。あの金魚は金魚鉢で飼えないのだろうか。蓋をしなければ飛んでいってしまうだろうか。
見入っている孫次郎をからかうように、ひらひらと金魚は近づいてくる。日が沈むのに合わせて距離が縮まる。孫次郎は思わず手を差し出した。警戒も見せない金魚はまるで孫次郎を目指すように泳ぎ、孫次郎は嬉しくなって金魚を待つ。夕闇が迫る中で、金魚はいっそう赤く見えた。
金魚を捕まえたらそっと手で包み、竹谷に育て方を聞きにいこう。籠で飼うのなら平太に籠を作ってもらって、飼うのは難しいと言われても必ず自分で最後まで面倒を見るのだ。
手に金魚が触れんばかりに近づいた瞬間、金魚をかき消すように宙から焼け爛れた真っ黒な腕がつきだした。孫次郎が息を飲む間にその腕は孫次郎の手を鷲掴み、恐ろしい力で宙につり上げる。
「こらぁっ!」
孫次郎を引きずり降ろしたのは日向であった。普段は陽気な先生が眉をつり上げ、孫次郎を掴んだ腕を払い落とす。たくましい体に抱かれた孫次郎の背中に、三治郎が抱きついた。孫次郎の視界の端に、斜堂が何かを追っていく姿が見える。
「もう大丈夫だ」
顔を上げると日向がいつも通りの、まぶしいほどの笑みを向けていた。まだ何が起きたのか理解できないが、腕に残る痛みは確かなものだ。背中にしがみついた三治郎は肩を揺らして嗚咽をあげている。熱い涙が背中を濡らしていき、じわじわと遅れてやってきた恐怖に足がすくむ。ぼろぼろと涙がこぼれ、日向は三治郎ごと孫次郎を抱きしめた。
*
あれからも金魚は現れる。優雅に空を舞い、時折見える者を誘っている。黄昏時を泳ぐ金魚を見ながら、孫次郎は隣で同じく方を見ている三治郎に聞いた。
「三治郎には何に見えるの」
「……炎」
それもまた、美しいのだろう。
2012'08.27.Mon
ただいま、と言った孫兵の表情は暗く、次屋と数馬は顔を見合わせた。彼の首を定位置としたまむしのじゅんこも心なしか落ち込んでいるように見える。数馬はつい治療中だということも忘れて次屋の手を離した。しかし次屋も気に留めず、むしろこのまま治療から逃げられることを期待して孫兵を手招きする。のろのろと誘われてきた孫兵は縁側に座り、旅装束も解かないまま深い溜息をついた。
「どうしたの?実家帰ってたんだよね」
「……数馬は卒業したら実家継ぐんだっけ」
「継ぐかどうかはわからないけど、実家には戻るよ」
「数馬んちってなにやってんだっけ」
「うちは商人。それがどうかした?」
「……伊賀崎は代々城仕えの忍者なんだ。当然ぼくも跡継ぎになるかはさておき、卒業したら戻る」
「いいよなぁお前ら。おれはちまちま就活だもん」
「はずだった」
愚痴をこぼしかけた次屋だが、孫兵の言葉に口をつぐんだ。城仕えをしている忍者、その里で孫兵が見たものを想像して、数馬も息を飲む。
「孫兵、辛いなら言わなくていいよ」
「ありがとう数馬、でも言いたいんだ。聞いてほしい」
「……うん」
次屋が黙って孫兵の背を叩く。孫兵は顔を見合わせ、じゅんこを撫でながら話し出した。
「実家に帰ったとき、残っているのは忍者をまとめている祖父ひとりだけだった。ぼくを見ると歓迎して迎えてくれたよ。大きくなったと成長を喜んでくれた。他のみんなは、と聞くと戦場に出ているようだった。戦の後だったんだ」
膝に乗せた孫兵の手がかたく握られる。震える声は悲痛なもので、数馬はそっとその手を覆った。
「ぼくが六年にあがって、今年卒業して里に帰ってくると言うと祖父は顔色を変えた。なんて言ったと思う?」
「……」
「『お前の居場所なんかないぞ』って」
「孫兵……」
「……あのジジィ」
孫兵の声色がいつもと違うことに気づき、数馬は首をかしげた。なんかちょっと、思っているのと違うかもしれない。
「自分で入学させたくせにぼくが今年卒業することをすっかり忘れてたんだ。この間の戦は圧勝で、敵方の忍者もぼくらの里が預かることになったんだ。要するに今忍者が飽和状態で、ぼくは帰省したってのに横になって寝ることすらままならない寿司詰め状態の部屋に押し込まれた。いくらなんでもこれはないと祖父に文句を言いに行けば、『お前はもうどこに出しても恥ずかしくない立派な忍びだ。ここに一子相伝の最終奥義を授けよう、これを以てお前は伊賀崎から巣立つのだ。この術を伝えゆくがよい!』とこの巻物を持たされ、里を追い出された。あとは何を言っても入れてくれなかったよ」
「……えーと……その……孫兵のお爺さまっておもしろい方だね」
「ぼくもあんなにふざけた姿は初めて見た」
「……」
「腹いせにみんなを置いてきちゃったから、また迎えに行かなきゃ。我ながらバカなことをした」
「みんなって」
「みんなだよ」
「……」
「今から就活なんてしたくない……」
「それはまだ決まってない俺に対する嫌味ですか」
次屋は呆れてさっきよりも強く背を叩いた。孫兵は両手で顔を覆ってうなだれる。
「で、でもさ!奥義を教えてもらったんだろ?すごいじゃん!」
必死でフォローを試みる数馬の前に、孫兵は巻物を突き出した。訳がわからないまま受け取ると孫兵はまた顔を覆ってしまう。次屋に促されて数馬は恐る恐る紐を解いた。昔から続く忍者の里の、一子相伝の秘技とはどんなものだろい。伊賀崎の里ならばやはり毒にまつわるものだろうか。緊張気味のふたりの目の前に広がったのは、――裸の男女が陰部も露わに絡み合う絵であった。
「……エロ本?」
「ばっ、バカ違うよ!これは、えーっと」
次屋の言葉をフォローすべく数馬は巻物に目を走らせる。絵のそばには説明らしき文がしっかり書かれていた。きっと何か重要な、……
「……いや、これほんとに結構すごいよ!?男女の産み分けについて書かれてる!」
「人間の男女なんて大差ないよ」
「そりゃ庶民はね。でもお城のお殿様にとっては大きな問題だよ!」
「どれ」
数馬の手から巻物を取り、次屋は巻物を広げた。ほう、これは、などとぶつぶつ言いながら見入っているが、見ているのは絵ばかりだ。
「はぁ……」
「ま、まあ、忍者は臨機応変に生きなきゃね!まだ進路が決まってるやつの方が少ないしさ、孫兵みたいな優秀な忍者は引く手数多だって!」
「決まる決まらないじゃない。ぼくのかわいいペットたちと一緒じゃなきゃ意味がない」
「ああ、そっか……今生物小屋の半分ぐらい、孫兵のなんだっけ」
「おれちょっと厠に」
「菌が入るから治療が終わってからにして」
「……はい」
逃がしてもらえなかった次屋は大人しく数馬の隣に正座した。思い出したように数馬は消毒を始める。小さなかすり傷だがそれは体のあちこちにあり、更にそのまま山を駆け回っていたと言うのだから保健委員長の数馬が怒らないはずがないのだ。しかし次屋は何度怒られてもつい後回しにしまう。ましてや今回は、のんびりと傷を洗っている暇など与えられなかったのだ。
孫兵が溜息をつくそばで治療を続けていると、何者かが近づく気配があった。生徒ではないが、悪意もない。迷わず六年長屋の前に姿を現したその人は、忍者学園の卒業生、竹谷八左ヱ門であった。
「竹谷先輩!お久しぶりぶりです」
「よう数馬、ご無沙汰。卒業前に会っとこうと思ってよ」
「はい、伊作先輩からお話は」
「何の話?」
「うち漢方扱ってるから、お互い何かとね」
「うちの領地、山だけは立派だからなぁ。ところで孫兵はどうした?珍しいな」
うなだれたままの孫兵の頭を竹谷は無造作に撫でた。孫兵がそうされても許すのは同輩以外では竹谷だけである。かつて生物委員で孫兵と根気よくつきあってきた神経は伊達ではない。
「……竹谷先輩」
「なんだ」
「雇って下さい」
「就活か?」
「はい」
「いいぞ、来いよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと待ったぁ!今の流れ納得いかないっス!」
割り込んだ次屋に数馬だけが苦笑する。何を言っても無駄なのだろうが、次屋は言わずにはいられない。
「何」
「何じゃねえよ、今ので孫兵の就活終了!?」
「そうだね」
「いやいやそんなんないでしょ!竹谷先輩おれももらって下さい!」
「体育委員はやだ」
「何でですか〜!贔屓だ!」
「だって体育委員って、七松先輩が狙ってるだろ」
「行きたくないから就活してるんじゃないですか!」
次屋の怪我は何を隠そう、今日スカウトにきた七松に追い回されて作ったものだ。今日ばかりは自分の方向音痴に感謝する。予測不可能な走りをするおかげで、七松をまくことができた。最も、七松が本気を出せば間違いなく捕まっていただろうが。
「滝夜叉丸のときも七松先輩いらっしゃってたよね、結局捕まってたし。委員の後輩大好きなんだ」
「……あの人はそんな優しくねぇよ」
「どういうこと?」
「……体育委員はあの人の弱点を知ってるんだ」
「えっ」
にわかに竹谷まで色めき立つ。次屋は頭を抱えてうずくまった。先ほどまで同じ様相だったはずの孫兵は微笑みを浮かべてじゅんこを撫でている。
「知りたくなんてなかったのに……」
「ちょっと次屋くんそこんとこ詳しく」
「言えるわけないじゃないっすか!委員会中にたまたま知っちゃっただけなのに、なんでこんな……」
次屋の落ち込みように竹谷は苦笑した。次屋の背を撫でてやる数馬も同じようななんとも言えない笑みだ。
「あー、別に来てもらっても構わんが」
竹谷の声に次屋はがばっと顔を上げた。期待に満ちた目を向けられるが、でもなぁと竹谷は続ける。
「うち今生物の飼育と畑仕事しかしてないし、どうせこっちに来ても七松先輩追ってくると思うけど」
「……何してんすか竹谷先輩」
「平和と言え」
「竹谷せんぱ〜い」
「お?」
ぴょん、と身軽に姿を現したのは五年の時友四郎兵衛だ。泥だらけの姿に数馬は怪我はないかと目を走らせている。
「お米、おばちゃんに渡してきました〜」
「おう、ありがとな!」
「次屋先輩どうしたんですか?」
「七松先輩に襲われてたんだってよ」
「え〜、七松先輩来てらっしゃったんですか?呼んで下さいよ〜」
「それどころじゃなかったっつーの」
「え〜」
うずくまった次屋の背中に時友はじゃれつきにいく。丸まった背中に乗りあがる時友は低学年のように無邪気でかわいらしいが、汚れたままなので数馬にぺしりと叩かれていた。
「あ、孫兵、ほんとに来るならちゃんと挨拶に来いよ」
「はい」
「小屋は作っとくから増やすなよ〜。じゃあ次屋、頑張って」
「竹谷先輩の人でなし〜!」
「体育委員に言われたくねぇな」
けらけら笑いながら竹谷は帰っていった。卒業生はさまざまで、卒業するなり消息のわからなくなる者もいるが、竹谷のようによく顔を出す者もいる。竹谷は特に頻繁だが、六年にもなるとようやくその意図がわかるようになってきた。誰もはっきり言葉にしないが、そういうことだ。
「はー、就活やだなー」
「まあまあ次屋先輩、今日のお米はおいしいから元気出して下さい。キリンタケの新米ですよ〜」
「四郎兵衛はとりあえずお風呂に入っておいで」
「はーい。あ、ぼくら裏裏山で演習だっんですけどぉ」
「ん?誰か怪我人?」
「怪我はしてないんですけど、左近が沢に落ちて流されたので、帰ってくるの時間かかると思います」
「……わかった、次の時間左近の当番だったけどぼくが行こう……」
「四郎兵衛の成績は?」
「もちろん一等賞でゴールですよ〜」
「よしよし」
「ふふっ」
次屋が時友の頭を撫でてやる。緩んでいたのかまげがとけてしまったが、時友は気にせずぼさぼさ頭で戻っていった。
「……ねえ次屋、いつも思うんだけど、あの子ほんとに人間かな」
「小屋では飼えねえと思うぞ」
「そうか……」
「本気か」
「さて、みんなを迎えに行かなくちゃ。数馬、ちょっと薬分けてくれないかな。大丈夫だとは思うけど耐性ない人もいるかもしれないから」
「いいよ。保健室行こうか」
「物騒だなぁ。進路決まった途端ケロッとしてさ」
「道中考えてはいたんだ。あそこなら今忍者の層が薄いから、ぼくほど実力があればある程度自由にできるし、竹谷先輩だし」
「生物委員は竹谷先輩大好きだよな」
「竹谷先輩は自分が黒と言っても、ぼくが白と言えばそうかと言って下さるからね」
「……どーせ体育委員は『右に同じ』ですよ」
次屋を残してふたりが行ってしまい、ひとり大きく溜息をつく。夢に見るほど強烈な、七松の背中を思い出した。あの人に追われるよりも、あの背を追う方が容易に想像できる。
「……とりあえず滝夜叉丸を捕まえてみるか」
「どうしたの?実家帰ってたんだよね」
「……数馬は卒業したら実家継ぐんだっけ」
「継ぐかどうかはわからないけど、実家には戻るよ」
「数馬んちってなにやってんだっけ」
「うちは商人。それがどうかした?」
「……伊賀崎は代々城仕えの忍者なんだ。当然ぼくも跡継ぎになるかはさておき、卒業したら戻る」
「いいよなぁお前ら。おれはちまちま就活だもん」
「はずだった」
愚痴をこぼしかけた次屋だが、孫兵の言葉に口をつぐんだ。城仕えをしている忍者、その里で孫兵が見たものを想像して、数馬も息を飲む。
「孫兵、辛いなら言わなくていいよ」
「ありがとう数馬、でも言いたいんだ。聞いてほしい」
「……うん」
次屋が黙って孫兵の背を叩く。孫兵は顔を見合わせ、じゅんこを撫でながら話し出した。
「実家に帰ったとき、残っているのは忍者をまとめている祖父ひとりだけだった。ぼくを見ると歓迎して迎えてくれたよ。大きくなったと成長を喜んでくれた。他のみんなは、と聞くと戦場に出ているようだった。戦の後だったんだ」
膝に乗せた孫兵の手がかたく握られる。震える声は悲痛なもので、数馬はそっとその手を覆った。
「ぼくが六年にあがって、今年卒業して里に帰ってくると言うと祖父は顔色を変えた。なんて言ったと思う?」
「……」
「『お前の居場所なんかないぞ』って」
「孫兵……」
「……あのジジィ」
孫兵の声色がいつもと違うことに気づき、数馬は首をかしげた。なんかちょっと、思っているのと違うかもしれない。
「自分で入学させたくせにぼくが今年卒業することをすっかり忘れてたんだ。この間の戦は圧勝で、敵方の忍者もぼくらの里が預かることになったんだ。要するに今忍者が飽和状態で、ぼくは帰省したってのに横になって寝ることすらままならない寿司詰め状態の部屋に押し込まれた。いくらなんでもこれはないと祖父に文句を言いに行けば、『お前はもうどこに出しても恥ずかしくない立派な忍びだ。ここに一子相伝の最終奥義を授けよう、これを以てお前は伊賀崎から巣立つのだ。この術を伝えゆくがよい!』とこの巻物を持たされ、里を追い出された。あとは何を言っても入れてくれなかったよ」
「……えーと……その……孫兵のお爺さまっておもしろい方だね」
「ぼくもあんなにふざけた姿は初めて見た」
「……」
「腹いせにみんなを置いてきちゃったから、また迎えに行かなきゃ。我ながらバカなことをした」
「みんなって」
「みんなだよ」
「……」
「今から就活なんてしたくない……」
「それはまだ決まってない俺に対する嫌味ですか」
次屋は呆れてさっきよりも強く背を叩いた。孫兵は両手で顔を覆ってうなだれる。
「で、でもさ!奥義を教えてもらったんだろ?すごいじゃん!」
必死でフォローを試みる数馬の前に、孫兵は巻物を突き出した。訳がわからないまま受け取ると孫兵はまた顔を覆ってしまう。次屋に促されて数馬は恐る恐る紐を解いた。昔から続く忍者の里の、一子相伝の秘技とはどんなものだろい。伊賀崎の里ならばやはり毒にまつわるものだろうか。緊張気味のふたりの目の前に広がったのは、――裸の男女が陰部も露わに絡み合う絵であった。
「……エロ本?」
「ばっ、バカ違うよ!これは、えーっと」
次屋の言葉をフォローすべく数馬は巻物に目を走らせる。絵のそばには説明らしき文がしっかり書かれていた。きっと何か重要な、……
「……いや、これほんとに結構すごいよ!?男女の産み分けについて書かれてる!」
「人間の男女なんて大差ないよ」
「そりゃ庶民はね。でもお城のお殿様にとっては大きな問題だよ!」
「どれ」
数馬の手から巻物を取り、次屋は巻物を広げた。ほう、これは、などとぶつぶつ言いながら見入っているが、見ているのは絵ばかりだ。
「はぁ……」
「ま、まあ、忍者は臨機応変に生きなきゃね!まだ進路が決まってるやつの方が少ないしさ、孫兵みたいな優秀な忍者は引く手数多だって!」
「決まる決まらないじゃない。ぼくのかわいいペットたちと一緒じゃなきゃ意味がない」
「ああ、そっか……今生物小屋の半分ぐらい、孫兵のなんだっけ」
「おれちょっと厠に」
「菌が入るから治療が終わってからにして」
「……はい」
逃がしてもらえなかった次屋は大人しく数馬の隣に正座した。思い出したように数馬は消毒を始める。小さなかすり傷だがそれは体のあちこちにあり、更にそのまま山を駆け回っていたと言うのだから保健委員長の数馬が怒らないはずがないのだ。しかし次屋は何度怒られてもつい後回しにしまう。ましてや今回は、のんびりと傷を洗っている暇など与えられなかったのだ。
孫兵が溜息をつくそばで治療を続けていると、何者かが近づく気配があった。生徒ではないが、悪意もない。迷わず六年長屋の前に姿を現したその人は、忍者学園の卒業生、竹谷八左ヱ門であった。
「竹谷先輩!お久しぶりぶりです」
「よう数馬、ご無沙汰。卒業前に会っとこうと思ってよ」
「はい、伊作先輩からお話は」
「何の話?」
「うち漢方扱ってるから、お互い何かとね」
「うちの領地、山だけは立派だからなぁ。ところで孫兵はどうした?珍しいな」
うなだれたままの孫兵の頭を竹谷は無造作に撫でた。孫兵がそうされても許すのは同輩以外では竹谷だけである。かつて生物委員で孫兵と根気よくつきあってきた神経は伊達ではない。
「……竹谷先輩」
「なんだ」
「雇って下さい」
「就活か?」
「はい」
「いいぞ、来いよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと待ったぁ!今の流れ納得いかないっス!」
割り込んだ次屋に数馬だけが苦笑する。何を言っても無駄なのだろうが、次屋は言わずにはいられない。
「何」
「何じゃねえよ、今ので孫兵の就活終了!?」
「そうだね」
「いやいやそんなんないでしょ!竹谷先輩おれももらって下さい!」
「体育委員はやだ」
「何でですか〜!贔屓だ!」
「だって体育委員って、七松先輩が狙ってるだろ」
「行きたくないから就活してるんじゃないですか!」
次屋の怪我は何を隠そう、今日スカウトにきた七松に追い回されて作ったものだ。今日ばかりは自分の方向音痴に感謝する。予測不可能な走りをするおかげで、七松をまくことができた。最も、七松が本気を出せば間違いなく捕まっていただろうが。
「滝夜叉丸のときも七松先輩いらっしゃってたよね、結局捕まってたし。委員の後輩大好きなんだ」
「……あの人はそんな優しくねぇよ」
「どういうこと?」
「……体育委員はあの人の弱点を知ってるんだ」
「えっ」
にわかに竹谷まで色めき立つ。次屋は頭を抱えてうずくまった。先ほどまで同じ様相だったはずの孫兵は微笑みを浮かべてじゅんこを撫でている。
「知りたくなんてなかったのに……」
「ちょっと次屋くんそこんとこ詳しく」
「言えるわけないじゃないっすか!委員会中にたまたま知っちゃっただけなのに、なんでこんな……」
次屋の落ち込みように竹谷は苦笑した。次屋の背を撫でてやる数馬も同じようななんとも言えない笑みだ。
「あー、別に来てもらっても構わんが」
竹谷の声に次屋はがばっと顔を上げた。期待に満ちた目を向けられるが、でもなぁと竹谷は続ける。
「うち今生物の飼育と畑仕事しかしてないし、どうせこっちに来ても七松先輩追ってくると思うけど」
「……何してんすか竹谷先輩」
「平和と言え」
「竹谷せんぱ〜い」
「お?」
ぴょん、と身軽に姿を現したのは五年の時友四郎兵衛だ。泥だらけの姿に数馬は怪我はないかと目を走らせている。
「お米、おばちゃんに渡してきました〜」
「おう、ありがとな!」
「次屋先輩どうしたんですか?」
「七松先輩に襲われてたんだってよ」
「え〜、七松先輩来てらっしゃったんですか?呼んで下さいよ〜」
「それどころじゃなかったっつーの」
「え〜」
うずくまった次屋の背中に時友はじゃれつきにいく。丸まった背中に乗りあがる時友は低学年のように無邪気でかわいらしいが、汚れたままなので数馬にぺしりと叩かれていた。
「あ、孫兵、ほんとに来るならちゃんと挨拶に来いよ」
「はい」
「小屋は作っとくから増やすなよ〜。じゃあ次屋、頑張って」
「竹谷先輩の人でなし〜!」
「体育委員に言われたくねぇな」
けらけら笑いながら竹谷は帰っていった。卒業生はさまざまで、卒業するなり消息のわからなくなる者もいるが、竹谷のようによく顔を出す者もいる。竹谷は特に頻繁だが、六年にもなるとようやくその意図がわかるようになってきた。誰もはっきり言葉にしないが、そういうことだ。
「はー、就活やだなー」
「まあまあ次屋先輩、今日のお米はおいしいから元気出して下さい。キリンタケの新米ですよ〜」
「四郎兵衛はとりあえずお風呂に入っておいで」
「はーい。あ、ぼくら裏裏山で演習だっんですけどぉ」
「ん?誰か怪我人?」
「怪我はしてないんですけど、左近が沢に落ちて流されたので、帰ってくるの時間かかると思います」
「……わかった、次の時間左近の当番だったけどぼくが行こう……」
「四郎兵衛の成績は?」
「もちろん一等賞でゴールですよ〜」
「よしよし」
「ふふっ」
次屋が時友の頭を撫でてやる。緩んでいたのかまげがとけてしまったが、時友は気にせずぼさぼさ頭で戻っていった。
「……ねえ次屋、いつも思うんだけど、あの子ほんとに人間かな」
「小屋では飼えねえと思うぞ」
「そうか……」
「本気か」
「さて、みんなを迎えに行かなくちゃ。数馬、ちょっと薬分けてくれないかな。大丈夫だとは思うけど耐性ない人もいるかもしれないから」
「いいよ。保健室行こうか」
「物騒だなぁ。進路決まった途端ケロッとしてさ」
「道中考えてはいたんだ。あそこなら今忍者の層が薄いから、ぼくほど実力があればある程度自由にできるし、竹谷先輩だし」
「生物委員は竹谷先輩大好きだよな」
「竹谷先輩は自分が黒と言っても、ぼくが白と言えばそうかと言って下さるからね」
「……どーせ体育委員は『右に同じ』ですよ」
次屋を残してふたりが行ってしまい、ひとり大きく溜息をつく。夢に見るほど強烈な、七松の背中を思い出した。あの人に追われるよりも、あの背を追う方が容易に想像できる。
「……とりあえず滝夜叉丸を捕まえてみるか」
2012'08.27.Mon
「失礼しまーす。笹山先生おられますか?」
「はーいっ……って、やめて下さいよ」
兵太夫が振り返った先にいたのは、懐かしい先輩の姿だった。直接関わったことはあまりないが、親しくしている三治郎が慕う先輩、竹谷八左ヱ門だ。三治郎は卒業してからも彼と同じ城にいる。生物委員長をつとめた竹谷は、今はとある城の忍び組頭にまで出世した。卒業後も何度か学園に指導に来ていたが、最近、特にこの夏に入ってからは後輩に任せて姿を見せなくなっていた。彼の勤める城は平和主義だったが、戦でも起きそうなのか、と噂する者もいたほどだ。まさかそれに関係するのだろうか。相変わらずの向日葵のような笑顔からは何も読めない。
「何かご用ですか?」
「笹山先生にこっそりお願いが」
「先生はやめて下さいって。何ですか?」
「氷室、今年も順調か?」
「はい、今年も沢山氷が……何で知ってるんですか」
「三治郎が使ってるはやぶさは、元々おれのだからな」
「ちぇ、学園長には内緒にして下さいよ。きり丸との専属契約結んでるんです」
「そう言わず、ちょっと氷を分けてくれよ。きり丸にはおれから言っておくからさ」
「ならいいですけどぉ。まさか生物絡みで定期的になんて……」
「違う違う!人間だ!夏バテしたやつがいてさ、氷でも含めばちょっとは違うだろうと思って」
「お城の方ですか?まさか、お姫様?」
「姫ならバテしらずだ。里の方にな」
「里……」
兵太夫はそれ以上聞くのをやめた。きっといつもの悪い癖だ。この人のお人好しは、時には残酷なほどである。三治郎も苦労してるだろうなぁ、などと他人事のように思った後、兵太夫は机に積んでいる集めた宿題を思い出して苦笑した。
*
梅雨が明けてから暑い日が続いている。あまり暑さに得意ではない孫次郎には厳しい季節だ。この辺りは山なので、まだましだと考えて自分を誤魔化すしかない。仕事がひと段落したので日陰にうずくまっていると、いい風が吹いてきた。力仕事をしたあとの汗が冷やされて気持ちがいい。
「孫次郎みーっけ!」
「あ、三治郎お帰り」
顔を出したのは、荷は降ろしているが山伏姿の三治郎で、見ているだけでも暑そうな格好だ。実際三治郎は手甲などを外しながら歩いていたようで、脇にいろいろ抱えている。
「ただいま。何してたの?」
「薪割り」
「お疲れ様〜。孫次郎も焼けたねぇ。竹谷先輩知らない?」
「忍術学園に行っててさっき戻ってこられたけど、またすぐに出て行っちゃった」
「どこに?」
「里の方」
「またぁ?今日は何を貢ぐ気なのさ」
「氷を持って帰って来てらしたよ」
「氷……」
三治郎が視線を流す。何か思い当たることがあるらしい。特に追求はせず、孫次郎は笑って返す。
「まごじろー!」
「おや」
幼い声が自分を探している。孫次郎が木陰から出ていくと器を抱えた少女がすぐに気がついた。ぱっと明るい笑顔を見せて、まっすぐ駆け寄ってくる。日に当たった途端に汗が噴き出すのを感じながら、孫次郎は元気だなぁなどとのんきにそれを見ていたが、少女がつまづいて転けたので慌てて駆け寄った。
「すず姫、大丈夫ですか」
「大丈夫……だけど」
支えられて立ち上がった少女は、砂を払うこともせず、ひっくり返してしまった器を見た。こぼれて散らばっているのは砕いた氷だ。
「孫次郎にあげようと思ったのに」
「わざわざ持ってきて下さったのですか、ありがとうございます」
「でも台無しにしちゃった」
「それよりお怪我はありませんか?」
「大丈夫!」
ようやく両手の砂を払い、すずは孫次郎を見た。母親によく似たしっかり者の彼女は、この城の姫だ。その割に気さくなのはその母や、我らが上司である竹谷の接し方によるものだろう。
「すず姫……ああ、孫次郎見つかりましたか」
すずの後を追ってきたのは孫兵だ。手にしているのは、同様に氷を盛った器である。すずの様子と惨状を見て、そんなことだろうと思いました、などとさらりと口にする。暗におっちょこちょいだと言われ、すずは膨れっ面をしながらも、孫兵が差し出してくれる新しい器を受け取った。
「何、拗ねなくても氷ならまた三治郎に頼めば持ってきてくれますよ」
「えっ」
「あら、三治郎お帰りなさい」
「た、ただいま戻りました。ちょっと、孫兵先輩どういうことですか」
「読まれたくないならきちんと処理するか暗号化すること、もしくは鳥の世話を任せないこと」
「うわーん!兵ちゃんに怒られるかなぁ」
どうやら氷の出所には三治郎が関わっているようだ。しゃがみこんで頭を抱える三治郎のそばで、孫次郎は差し出されるままに氷の欠片を口に含む。氷は幾ら水を飲んでも乾く喉を湿らせ、冷たさが喉を通り抜けていく。思わず頬を緩ませると、すずが孫次郎を覗き込んだ。
「涼しくなった?」
「はい」
「無理しちゃだめよ」
「はい。ありがとうございます」
「しんどかったら休むのよ。薪割りなんて、お父様がやればいいんだわ」
「お殿様に薪割りをさせて休むなんてできませんよ」
「いいのよ、暇すぎて金魚と会話してるぐらいなんだから。お里にも、暑くて参っちゃってる人がいるんですって。心配だわ」
「そうですねぇ……」
孫次郎は視線を遣ったが、孫兵は諦めた表情で首を振った。
竹谷はすずに顔を見せた後、砕いた残りを預けて再び氷を手に里へ下りていた。領内には山中の集落が多いがここは比較的低く、平らな場所にある。獣以外では忍者しか通らないような道なき道を抜けてきた竹谷は笠を被って身なりを整え、商人といった体で里に下りた。目的は村の代表者の家だ。家主はまだ畑へ出ているだろう。氷が溶けていないか確認してから、竹谷は家の裏手に回り込む。ほどよく木々に囲まれた中庭は1日のほとんどが日陰で、比較的涼しい。縁側には女性が座り、膝に載せて本を読んでいる。竹谷は笠を上げて近づいていった。
「お琴さん!」
「!」
はっとして顔を上げた彼女は慌てて崩していた足を直した。立ち上がろうとするのを制して、それより早く隣に座り込む。
「突然立つとまた立ちくらみで倒れるぜ」
「あ、あのときは!……すみません」
「はは!土産だ」
「これは?」
竹谷は縁側に荷物を置き、さっと包みを解く。目の前に現れた氷塊に、女は感嘆の声を上げた。
「どうだ、ちったぁ涼しくなれそうか」
「わざわざこれを?」
「納品のついでだから気にすんな」
竹谷が笑うと女はぽっと頬を染めた。
女はこの村の人間ではない。町では暑さに耐えきれず、夏の間だけ親戚のところに避暑に来ているらしい。この村にたどり着く前に暑さにやられていたところを、竹谷が見つけて介抱したのをきっかけに、あれから気になってちょこちょこと世話を焼いていた。商人と言うことにしているが、女は滅多に家から出ないので素性がばれることもないだろう。
氷を砕くのを女は珍しそうに見ていた。城の分は嫌そうな顔をした孫兵に任せてきたから、きっとすずにせがまれて嫌々ながら同じようにしてやっているはずだ。
「しかしもう暑さも少しましになってきたな」
「そうですか?毎日同じように暑いです」
「少しずつ季節は巡るんだ。直に町も涼しくなるよ」
「……もっとゆっくりでいいです」
「でも暑いのしんどいだろ?」
女は竹谷から顔を逸らす。その視線の先は庭の影を見つめていた。器に盛った氷がからんと鳴る。
「ゆっくりで、いいんです」
*
しゃん、と金属が擦れる音に、女は顔を上げた。いつもそこから現れるのは、夏の太陽のような明るい男だ。しかし今日、この裏庭に入り込んできたのは山伏だった。見たところまだ若そうだ。錫状を持つのとは違う手に、向日葵の花を持っている。
「こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは……」
「ああ、これはこれは、あまり顔色のよくない様子」
「あの」
「もうそれもよくなりますよ。あなたの周りにあまりよくないものがいたので祓っておきました」
にこりと笑う山伏に戸惑っていると、彼は手にした向日葵を差し出した。促されるままにそれを受け取り、山伏を見上げるが変わらない笑顔だ。
「あの」
「人にちょっかいを出して一生つきまとう、厄介なやつだったのです。この程度で手を打ててよかった」
「……竹谷さんの、ことですか?」
にこり、と彼は一際明るく笑い、手を合わせた。何も言わない彼に不安をあおられ、再び口を開こうとしたところで、山伏はさっと女の体のそばに手を伸ばした。その手が蛇を掴んでおり、女は悲鳴を上げる。自分の腕ほどはありそうな大きな蛇は尾を振り回し、女の腕を叩く。山伏は蛇を自分の方に引き寄せたが、表情はまったく変えない。
「彼が今日を境に二度と現れなければ、彼がまやかしであった証拠です。もうそのうち暑さも緩みますから、そうしたらすぐに村を出なさい。あなたのような美しい人は、魅入られやすいから」
「山伏様」
「いいですか、早く村を出るんですよ」
含みを持たせて言葉を残した後、山伏は蛇を捕まえたまま庭を出ていく。女は手の中に残った向日葵を見た。向日葵のような、あの男を思い出していた。
*
「なあ、俺どんな悪者なんだよ」
「三治郎、ちょっとじゅんこの扱いが乱暴すぎる」
「すみませーん」
「きれいな人ですね」
「なあ、これ」
「竹谷先輩は黙ってて下さい」
「はい……」
後輩、もとい部下に一蹴されて竹谷は大人しく口を閉じた。三治郎は孫兵にじゅんこを返して、暑い!と文句を言いながら装束を解いていく。それを孫次郎が受け取った。
「大体竹谷先輩は無防備なんですよ」
「あと無責任」
「それで天然なんですよね」
「なんだよぉ……」
畳みかけられる言葉に竹谷は顔をしかめた。
「だって一度関わったら気になるだろ」
「それで、また最後まで世話焼くつもりですか?」
「悪いか」
「悪いですよ!竹谷先輩の『最後』とあの女の人の『最後』が全く違うんですから!」
三治郎の言葉に孫次郎がうんうんと頷く。竹谷は珍しく眉間にしわを寄せ、孫兵に無言で訴えた。
「気づいてない振りが通じるのは彼女だけですよ」
「え〜、だって涼しくなって帰ったら終わりだってぇ」
「残酷」
「人でなし!」
「何だよ、みんな揃ってさ」
竹谷はみんなを追い抜き、城へ向かってざくざくと山道を登る。ついてきていた狼たちがあちこちから集まってきて竹谷を取り囲んだ。いつもの笑顔でそれぞれを撫でてやる竹谷を見ながら、三治郎は孫兵の腕を引く。
「見抜かれてると思いますか?」
「あの人、そう言うところは鈍いからどうだろうね」
本当は、自分たちが彼を渡したくないのだ。自分たちの太陽。振り返った竹谷は眩しいほどの笑顔だった。
「はーいっ……って、やめて下さいよ」
兵太夫が振り返った先にいたのは、懐かしい先輩の姿だった。直接関わったことはあまりないが、親しくしている三治郎が慕う先輩、竹谷八左ヱ門だ。三治郎は卒業してからも彼と同じ城にいる。生物委員長をつとめた竹谷は、今はとある城の忍び組頭にまで出世した。卒業後も何度か学園に指導に来ていたが、最近、特にこの夏に入ってからは後輩に任せて姿を見せなくなっていた。彼の勤める城は平和主義だったが、戦でも起きそうなのか、と噂する者もいたほどだ。まさかそれに関係するのだろうか。相変わらずの向日葵のような笑顔からは何も読めない。
「何かご用ですか?」
「笹山先生にこっそりお願いが」
「先生はやめて下さいって。何ですか?」
「氷室、今年も順調か?」
「はい、今年も沢山氷が……何で知ってるんですか」
「三治郎が使ってるはやぶさは、元々おれのだからな」
「ちぇ、学園長には内緒にして下さいよ。きり丸との専属契約結んでるんです」
「そう言わず、ちょっと氷を分けてくれよ。きり丸にはおれから言っておくからさ」
「ならいいですけどぉ。まさか生物絡みで定期的になんて……」
「違う違う!人間だ!夏バテしたやつがいてさ、氷でも含めばちょっとは違うだろうと思って」
「お城の方ですか?まさか、お姫様?」
「姫ならバテしらずだ。里の方にな」
「里……」
兵太夫はそれ以上聞くのをやめた。きっといつもの悪い癖だ。この人のお人好しは、時には残酷なほどである。三治郎も苦労してるだろうなぁ、などと他人事のように思った後、兵太夫は机に積んでいる集めた宿題を思い出して苦笑した。
*
梅雨が明けてから暑い日が続いている。あまり暑さに得意ではない孫次郎には厳しい季節だ。この辺りは山なので、まだましだと考えて自分を誤魔化すしかない。仕事がひと段落したので日陰にうずくまっていると、いい風が吹いてきた。力仕事をしたあとの汗が冷やされて気持ちがいい。
「孫次郎みーっけ!」
「あ、三治郎お帰り」
顔を出したのは、荷は降ろしているが山伏姿の三治郎で、見ているだけでも暑そうな格好だ。実際三治郎は手甲などを外しながら歩いていたようで、脇にいろいろ抱えている。
「ただいま。何してたの?」
「薪割り」
「お疲れ様〜。孫次郎も焼けたねぇ。竹谷先輩知らない?」
「忍術学園に行っててさっき戻ってこられたけど、またすぐに出て行っちゃった」
「どこに?」
「里の方」
「またぁ?今日は何を貢ぐ気なのさ」
「氷を持って帰って来てらしたよ」
「氷……」
三治郎が視線を流す。何か思い当たることがあるらしい。特に追求はせず、孫次郎は笑って返す。
「まごじろー!」
「おや」
幼い声が自分を探している。孫次郎が木陰から出ていくと器を抱えた少女がすぐに気がついた。ぱっと明るい笑顔を見せて、まっすぐ駆け寄ってくる。日に当たった途端に汗が噴き出すのを感じながら、孫次郎は元気だなぁなどとのんきにそれを見ていたが、少女がつまづいて転けたので慌てて駆け寄った。
「すず姫、大丈夫ですか」
「大丈夫……だけど」
支えられて立ち上がった少女は、砂を払うこともせず、ひっくり返してしまった器を見た。こぼれて散らばっているのは砕いた氷だ。
「孫次郎にあげようと思ったのに」
「わざわざ持ってきて下さったのですか、ありがとうございます」
「でも台無しにしちゃった」
「それよりお怪我はありませんか?」
「大丈夫!」
ようやく両手の砂を払い、すずは孫次郎を見た。母親によく似たしっかり者の彼女は、この城の姫だ。その割に気さくなのはその母や、我らが上司である竹谷の接し方によるものだろう。
「すず姫……ああ、孫次郎見つかりましたか」
すずの後を追ってきたのは孫兵だ。手にしているのは、同様に氷を盛った器である。すずの様子と惨状を見て、そんなことだろうと思いました、などとさらりと口にする。暗におっちょこちょいだと言われ、すずは膨れっ面をしながらも、孫兵が差し出してくれる新しい器を受け取った。
「何、拗ねなくても氷ならまた三治郎に頼めば持ってきてくれますよ」
「えっ」
「あら、三治郎お帰りなさい」
「た、ただいま戻りました。ちょっと、孫兵先輩どういうことですか」
「読まれたくないならきちんと処理するか暗号化すること、もしくは鳥の世話を任せないこと」
「うわーん!兵ちゃんに怒られるかなぁ」
どうやら氷の出所には三治郎が関わっているようだ。しゃがみこんで頭を抱える三治郎のそばで、孫次郎は差し出されるままに氷の欠片を口に含む。氷は幾ら水を飲んでも乾く喉を湿らせ、冷たさが喉を通り抜けていく。思わず頬を緩ませると、すずが孫次郎を覗き込んだ。
「涼しくなった?」
「はい」
「無理しちゃだめよ」
「はい。ありがとうございます」
「しんどかったら休むのよ。薪割りなんて、お父様がやればいいんだわ」
「お殿様に薪割りをさせて休むなんてできませんよ」
「いいのよ、暇すぎて金魚と会話してるぐらいなんだから。お里にも、暑くて参っちゃってる人がいるんですって。心配だわ」
「そうですねぇ……」
孫次郎は視線を遣ったが、孫兵は諦めた表情で首を振った。
竹谷はすずに顔を見せた後、砕いた残りを預けて再び氷を手に里へ下りていた。領内には山中の集落が多いがここは比較的低く、平らな場所にある。獣以外では忍者しか通らないような道なき道を抜けてきた竹谷は笠を被って身なりを整え、商人といった体で里に下りた。目的は村の代表者の家だ。家主はまだ畑へ出ているだろう。氷が溶けていないか確認してから、竹谷は家の裏手に回り込む。ほどよく木々に囲まれた中庭は1日のほとんどが日陰で、比較的涼しい。縁側には女性が座り、膝に載せて本を読んでいる。竹谷は笠を上げて近づいていった。
「お琴さん!」
「!」
はっとして顔を上げた彼女は慌てて崩していた足を直した。立ち上がろうとするのを制して、それより早く隣に座り込む。
「突然立つとまた立ちくらみで倒れるぜ」
「あ、あのときは!……すみません」
「はは!土産だ」
「これは?」
竹谷は縁側に荷物を置き、さっと包みを解く。目の前に現れた氷塊に、女は感嘆の声を上げた。
「どうだ、ちったぁ涼しくなれそうか」
「わざわざこれを?」
「納品のついでだから気にすんな」
竹谷が笑うと女はぽっと頬を染めた。
女はこの村の人間ではない。町では暑さに耐えきれず、夏の間だけ親戚のところに避暑に来ているらしい。この村にたどり着く前に暑さにやられていたところを、竹谷が見つけて介抱したのをきっかけに、あれから気になってちょこちょこと世話を焼いていた。商人と言うことにしているが、女は滅多に家から出ないので素性がばれることもないだろう。
氷を砕くのを女は珍しそうに見ていた。城の分は嫌そうな顔をした孫兵に任せてきたから、きっとすずにせがまれて嫌々ながら同じようにしてやっているはずだ。
「しかしもう暑さも少しましになってきたな」
「そうですか?毎日同じように暑いです」
「少しずつ季節は巡るんだ。直に町も涼しくなるよ」
「……もっとゆっくりでいいです」
「でも暑いのしんどいだろ?」
女は竹谷から顔を逸らす。その視線の先は庭の影を見つめていた。器に盛った氷がからんと鳴る。
「ゆっくりで、いいんです」
*
しゃん、と金属が擦れる音に、女は顔を上げた。いつもそこから現れるのは、夏の太陽のような明るい男だ。しかし今日、この裏庭に入り込んできたのは山伏だった。見たところまだ若そうだ。錫状を持つのとは違う手に、向日葵の花を持っている。
「こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは……」
「ああ、これはこれは、あまり顔色のよくない様子」
「あの」
「もうそれもよくなりますよ。あなたの周りにあまりよくないものがいたので祓っておきました」
にこりと笑う山伏に戸惑っていると、彼は手にした向日葵を差し出した。促されるままにそれを受け取り、山伏を見上げるが変わらない笑顔だ。
「あの」
「人にちょっかいを出して一生つきまとう、厄介なやつだったのです。この程度で手を打ててよかった」
「……竹谷さんの、ことですか?」
にこり、と彼は一際明るく笑い、手を合わせた。何も言わない彼に不安をあおられ、再び口を開こうとしたところで、山伏はさっと女の体のそばに手を伸ばした。その手が蛇を掴んでおり、女は悲鳴を上げる。自分の腕ほどはありそうな大きな蛇は尾を振り回し、女の腕を叩く。山伏は蛇を自分の方に引き寄せたが、表情はまったく変えない。
「彼が今日を境に二度と現れなければ、彼がまやかしであった証拠です。もうそのうち暑さも緩みますから、そうしたらすぐに村を出なさい。あなたのような美しい人は、魅入られやすいから」
「山伏様」
「いいですか、早く村を出るんですよ」
含みを持たせて言葉を残した後、山伏は蛇を捕まえたまま庭を出ていく。女は手の中に残った向日葵を見た。向日葵のような、あの男を思い出していた。
*
「なあ、俺どんな悪者なんだよ」
「三治郎、ちょっとじゅんこの扱いが乱暴すぎる」
「すみませーん」
「きれいな人ですね」
「なあ、これ」
「竹谷先輩は黙ってて下さい」
「はい……」
後輩、もとい部下に一蹴されて竹谷は大人しく口を閉じた。三治郎は孫兵にじゅんこを返して、暑い!と文句を言いながら装束を解いていく。それを孫次郎が受け取った。
「大体竹谷先輩は無防備なんですよ」
「あと無責任」
「それで天然なんですよね」
「なんだよぉ……」
畳みかけられる言葉に竹谷は顔をしかめた。
「だって一度関わったら気になるだろ」
「それで、また最後まで世話焼くつもりですか?」
「悪いか」
「悪いですよ!竹谷先輩の『最後』とあの女の人の『最後』が全く違うんですから!」
三治郎の言葉に孫次郎がうんうんと頷く。竹谷は珍しく眉間にしわを寄せ、孫兵に無言で訴えた。
「気づいてない振りが通じるのは彼女だけですよ」
「え〜、だって涼しくなって帰ったら終わりだってぇ」
「残酷」
「人でなし!」
「何だよ、みんな揃ってさ」
竹谷はみんなを追い抜き、城へ向かってざくざくと山道を登る。ついてきていた狼たちがあちこちから集まってきて竹谷を取り囲んだ。いつもの笑顔でそれぞれを撫でてやる竹谷を見ながら、三治郎は孫兵の腕を引く。
「見抜かれてると思いますか?」
「あの人、そう言うところは鈍いからどうだろうね」
本当は、自分たちが彼を渡したくないのだ。自分たちの太陽。振り返った竹谷は眩しいほどの笑顔だった。
2012'08.09.Thu
「暑いですねえ……」
「暑いなぁ……」
ぐでんと四肢を投げ出し、流れる汗もそのままに、時友と次屋はさっきからこうして縁側に転がっていた。太陽はてっぺんからこれでもかとばかりに夏の日差しでふたりを照りつけ、じりじりと肌の焼けるような想像をしながらも、ふたりはもう影へ移動するだけの体力も残ってはいなかった。七松体育委員長率いるいけどんマラソンは、季節などものともしないのだ。
ふたりの一歩手前、どうにかぎりぎり動く力の残っていた滝夜叉丸は、最後の力を振り絞って金吾を長屋まで送り届けている。さすがにいつものぐだぐだとした口上を口にする気力はないのか、無言のままであったが、金吾はそんなことに気づく余裕もなかっただろう。
額に浮いた汗がつうと流れ、耳に入って鬱陶しい。次屋がゆるりと顔を倒すと、こちらはうつ伏せになった時友が腕を枕のようにして顔を伏せている。自分の息がこもって暑そうだが、気にならないのだろうか。自分よりも一回り小さな体はまだ肩で息をしている。どこか変な気がしてそのまま時友を見ていたが、しばらくのちようやく気がついて次屋はのたりと体を起こした。這うようにしながら時友に近づき、うつ伏せの体を転がす。
「なんですかぁ」
「お前、脱げよ」
「もうそんな元気もありません〜」
「ほんと、七松体育委員長はどうしてあんなに元気なんだか」
溜息をつきながら、すでにかなり乱れてはいるが着たままの時友の忍び装束を引き剥がす。次屋はそんなもの、走っている途中から脱いでしまっていた。
ほそっこい柔らかい腕を掴んで袖から引き抜き、脱がしてやると時友は涼しい、と言って笑う。少し風が出てきた。汗の浮いた肌を撫でて冷やすほどではないが、あるとなしでは大違いだ。
じっとしていると蝉時雨が聞こえてくる。否、蝉はずっと鳴いていたのだろうが、どうやら疲労はよけいな音を聞き取れないほどであるらしい。
「夏だなぁ……」
「次屋先輩は、夏はお好きですか」
視線をやると時友と目が合う。前掛けは汗をかいて色が変わっていて、自分よりも随分と汗をかいているように見えた。四郎兵衛は、と返すと、時友はきょとんとしたあと、溶けるように笑う。
「夏の暑さも、蝉の声も、夕方の風も、体育委員のみんなで走るのも、みんな大好きです」
「……物好きだなぁ四郎兵衛は」
「次屋先輩はお嫌いですか?」
「んー」
外に視線をやる。眩しい夏は、まるで七松のようにも思えた。
「お嫌いではないかな。しんどいのもまぁ、嫌いじゃないよ」
首から流れた汗が背中を伝う。走る足を止めてから随分経つというのに、まだじわじわと全身から汗が噴き出している。しかしこの疲労感には達成感が混じっていた。きっとこの感覚は、七松と共に走ることのできる体育委員会だけのものなのだ。
「暑いなぁ……」
ぐでんと四肢を投げ出し、流れる汗もそのままに、時友と次屋はさっきからこうして縁側に転がっていた。太陽はてっぺんからこれでもかとばかりに夏の日差しでふたりを照りつけ、じりじりと肌の焼けるような想像をしながらも、ふたりはもう影へ移動するだけの体力も残ってはいなかった。七松体育委員長率いるいけどんマラソンは、季節などものともしないのだ。
ふたりの一歩手前、どうにかぎりぎり動く力の残っていた滝夜叉丸は、最後の力を振り絞って金吾を長屋まで送り届けている。さすがにいつものぐだぐだとした口上を口にする気力はないのか、無言のままであったが、金吾はそんなことに気づく余裕もなかっただろう。
額に浮いた汗がつうと流れ、耳に入って鬱陶しい。次屋がゆるりと顔を倒すと、こちらはうつ伏せになった時友が腕を枕のようにして顔を伏せている。自分の息がこもって暑そうだが、気にならないのだろうか。自分よりも一回り小さな体はまだ肩で息をしている。どこか変な気がしてそのまま時友を見ていたが、しばらくのちようやく気がついて次屋はのたりと体を起こした。這うようにしながら時友に近づき、うつ伏せの体を転がす。
「なんですかぁ」
「お前、脱げよ」
「もうそんな元気もありません〜」
「ほんと、七松体育委員長はどうしてあんなに元気なんだか」
溜息をつきながら、すでにかなり乱れてはいるが着たままの時友の忍び装束を引き剥がす。次屋はそんなもの、走っている途中から脱いでしまっていた。
ほそっこい柔らかい腕を掴んで袖から引き抜き、脱がしてやると時友は涼しい、と言って笑う。少し風が出てきた。汗の浮いた肌を撫でて冷やすほどではないが、あるとなしでは大違いだ。
じっとしていると蝉時雨が聞こえてくる。否、蝉はずっと鳴いていたのだろうが、どうやら疲労はよけいな音を聞き取れないほどであるらしい。
「夏だなぁ……」
「次屋先輩は、夏はお好きですか」
視線をやると時友と目が合う。前掛けは汗をかいて色が変わっていて、自分よりも随分と汗をかいているように見えた。四郎兵衛は、と返すと、時友はきょとんとしたあと、溶けるように笑う。
「夏の暑さも、蝉の声も、夕方の風も、体育委員のみんなで走るのも、みんな大好きです」
「……物好きだなぁ四郎兵衛は」
「次屋先輩はお嫌いですか?」
「んー」
外に視線をやる。眩しい夏は、まるで七松のようにも思えた。
「お嫌いではないかな。しんどいのもまぁ、嫌いじゃないよ」
首から流れた汗が背中を伝う。走る足を止めてから随分経つというのに、まだじわじわと全身から汗が噴き出している。しかしこの疲労感には達成感が混じっていた。きっとこの感覚は、七松と共に走ることのできる体育委員会だけのものなのだ。
2012'08.09.Thu
竹谷の隣を歩いていた狼がぴくりと耳を動かし、顔を上げる。それに気づいて竹谷も足を止め、森を見渡した。風で木々がざわめくのが不穏に感じられ、竹谷は狼の背に手を添える。
小さいとはいえここはキリンタケの領内だ。かすかに感じる気配を見過ごすわけにはいかない。
――風が凪いだ、一瞬。竹谷は振り返ってくないを構える。
「松風!」
竹谷の声で狼が藪へ飛び込むのと入れ違いに、姿を現した忍者が振り下ろしたくないを受け、竹谷はぎりぎりで持ちこたえながら口笛を鳴らす。力だけで押さえつけられ、竹谷はそれ以上動けない。襲いくる殺気に冷や汗が流れる。正体を見極めようと視線を上げ、力任せに竹谷をねじ伏せようとする忍者を見た。視線が合う。にやり、とその目が細められた。
そのときふたりの元へ駆けてきた狼が迷わず忍者に飛びかかった。忍者は身軽に体をひねって距離を取る。守るように竹谷の前に立ちはだかって唸り声を上げる狼に、忍者は大きな笑い声を上げた。
「流石に私を覚えてはいないか!いい目だなぁ、欲しい」
「あっ、あげません!」
忍者は笑いながら頭巾を取る。竹谷の脱力も気にせず顔を見せたのは、かつての先輩である七松小平太であった。
「すみれ!」
七松が振り返って呼ぶと、藪から狼が顔を出す。竹谷の連れていた松風と一緒に出てきたその狼は、以前は竹谷の群にいた、すみれと言う名の狼だ。忍術学園に在学中に七松が懐かせてしまい、やむなく譲ることになったのである。
すみれは大人しく七松の足元にすり寄って行き、竹谷は娘を嫁にやった心地であった。竹谷が少ししょんぼりとしていると、松風、そして竹谷の口笛で飛んできたはなが竹谷のそばに寄ってきて額を寄せてくる。優しい獣を撫でて、竹谷は気を落ちつけた。
「で、七松先輩、殺気をご挨拶に何の用ですか。うちの子はもうあげませんよ」
「ああ、それはすみれだけでいい。忍者貸してくれ」
「はぁ?」
「今内の忍者が少し足りん。組頭殿なら何人か動かせるだろ?」
「いやいや、何も聞かされてないのにぽいと貸せませんよ。そもそもこの間そちらに連れて行かれたふたり、そのまま引き抜いちゃったじゃないですか!」
「いやぁ、お前がいい教育してくれるから使いやすくて」
七松は豪快に笑い飛ばす。そういう言い方をするとまるで竹谷が優秀な指導者であるかのようだが、そうではない。竹谷は部下を送り出すときに、「何があっても七松小平太には逆らうな」と伝えただけである。それが五年間同じ学び舎の下で生活を共にした竹谷が唯一できる対処法であった。
七松の勤める城は大きな戦をすることはないが、竹谷が務めるキリンタケはそもそも竹谷が忍者隊を任されるようになってからは一切戦をしていない。つまり忍者たちのほとんどは忍者としての戦を経験していないのである。多少は社会勉強も必要だろうと以前七松が同様の理由で来たときには忍者を何人か派遣させたが、そのまま連れて行かれてしまった。
「今度はちゃんと返すって。な?」
「……それ、いつですか」
「今。もう明日始まってもおかしくない」
「無理です。何を言われても今は無理です。これから稲刈りなんですから」
「ああ、そうか、なら仕方ないな」
七松があっさりと諦めたことに少し拍子抜けしたが、思い返せば確かこの人の実家も農家だと聞いたことがある、その大変さはわかるのだろう。
キリンタケ忍者のほとんどは専門の忍者ではない。普段は城の使用人や城下で農民をしている。
「じゃあ戦の手伝いはいいから、1日だけ元生物委員をの誰かを貸してくれ」
「生物?」
「どうも毒虫がからんでいそうなのがあってな。保健委員を探していたんだが誰も見つからないんだ」
「……孫次郎!」
「はい」
竹谷が空を仰いで呼ぶと、木陰からひとりの忍者が降りてくる。全く気がついていなかったのか、七松は目をしばたたかせた。
「今手放せない生物はいるか?」
「いえ、大丈夫です」
「なら、悪いが七松先輩と行ってくれるか」
「いいですよ」
「……元斜堂クラスは流石だな」
七松の言葉を褒め言葉ととって、孫次郎はかすかに微笑む。
「いい忍者になったな。ほしい」
「あげませんって!1日だけの約束ですからね」
「帰れなくしてやろうか」
笑顔で不穏なことを言う七松に竹谷は顔を引きつらせたが、孫次郎本人は顔色を変えない。それに安心し、竹谷もようやく一息つく。
「帰ってこれるから、孫次郎なんですよ」
「うーん、ますますほしい」
「……孫次郎、何かあったらすまん」
「……頑張ります」
小さいとはいえここはキリンタケの領内だ。かすかに感じる気配を見過ごすわけにはいかない。
――風が凪いだ、一瞬。竹谷は振り返ってくないを構える。
「松風!」
竹谷の声で狼が藪へ飛び込むのと入れ違いに、姿を現した忍者が振り下ろしたくないを受け、竹谷はぎりぎりで持ちこたえながら口笛を鳴らす。力だけで押さえつけられ、竹谷はそれ以上動けない。襲いくる殺気に冷や汗が流れる。正体を見極めようと視線を上げ、力任せに竹谷をねじ伏せようとする忍者を見た。視線が合う。にやり、とその目が細められた。
そのときふたりの元へ駆けてきた狼が迷わず忍者に飛びかかった。忍者は身軽に体をひねって距離を取る。守るように竹谷の前に立ちはだかって唸り声を上げる狼に、忍者は大きな笑い声を上げた。
「流石に私を覚えてはいないか!いい目だなぁ、欲しい」
「あっ、あげません!」
忍者は笑いながら頭巾を取る。竹谷の脱力も気にせず顔を見せたのは、かつての先輩である七松小平太であった。
「すみれ!」
七松が振り返って呼ぶと、藪から狼が顔を出す。竹谷の連れていた松風と一緒に出てきたその狼は、以前は竹谷の群にいた、すみれと言う名の狼だ。忍術学園に在学中に七松が懐かせてしまい、やむなく譲ることになったのである。
すみれは大人しく七松の足元にすり寄って行き、竹谷は娘を嫁にやった心地であった。竹谷が少ししょんぼりとしていると、松風、そして竹谷の口笛で飛んできたはなが竹谷のそばに寄ってきて額を寄せてくる。優しい獣を撫でて、竹谷は気を落ちつけた。
「で、七松先輩、殺気をご挨拶に何の用ですか。うちの子はもうあげませんよ」
「ああ、それはすみれだけでいい。忍者貸してくれ」
「はぁ?」
「今内の忍者が少し足りん。組頭殿なら何人か動かせるだろ?」
「いやいや、何も聞かされてないのにぽいと貸せませんよ。そもそもこの間そちらに連れて行かれたふたり、そのまま引き抜いちゃったじゃないですか!」
「いやぁ、お前がいい教育してくれるから使いやすくて」
七松は豪快に笑い飛ばす。そういう言い方をするとまるで竹谷が優秀な指導者であるかのようだが、そうではない。竹谷は部下を送り出すときに、「何があっても七松小平太には逆らうな」と伝えただけである。それが五年間同じ学び舎の下で生活を共にした竹谷が唯一できる対処法であった。
七松の勤める城は大きな戦をすることはないが、竹谷が務めるキリンタケはそもそも竹谷が忍者隊を任されるようになってからは一切戦をしていない。つまり忍者たちのほとんどは忍者としての戦を経験していないのである。多少は社会勉強も必要だろうと以前七松が同様の理由で来たときには忍者を何人か派遣させたが、そのまま連れて行かれてしまった。
「今度はちゃんと返すって。な?」
「……それ、いつですか」
「今。もう明日始まってもおかしくない」
「無理です。何を言われても今は無理です。これから稲刈りなんですから」
「ああ、そうか、なら仕方ないな」
七松があっさりと諦めたことに少し拍子抜けしたが、思い返せば確かこの人の実家も農家だと聞いたことがある、その大変さはわかるのだろう。
キリンタケ忍者のほとんどは専門の忍者ではない。普段は城の使用人や城下で農民をしている。
「じゃあ戦の手伝いはいいから、1日だけ元生物委員をの誰かを貸してくれ」
「生物?」
「どうも毒虫がからんでいそうなのがあってな。保健委員を探していたんだが誰も見つからないんだ」
「……孫次郎!」
「はい」
竹谷が空を仰いで呼ぶと、木陰からひとりの忍者が降りてくる。全く気がついていなかったのか、七松は目をしばたたかせた。
「今手放せない生物はいるか?」
「いえ、大丈夫です」
「なら、悪いが七松先輩と行ってくれるか」
「いいですよ」
「……元斜堂クラスは流石だな」
七松の言葉を褒め言葉ととって、孫次郎はかすかに微笑む。
「いい忍者になったな。ほしい」
「あげませんって!1日だけの約束ですからね」
「帰れなくしてやろうか」
笑顔で不穏なことを言う七松に竹谷は顔を引きつらせたが、孫次郎本人は顔色を変えない。それに安心し、竹谷もようやく一息つく。
「帰ってこれるから、孫次郎なんですよ」
「うーん、ますますほしい」
「……孫次郎、何かあったらすまん」
「……頑張ります」
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