言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2013'09.09.Mon
雨の降る夜だった。きっとその日雨が降っていなければ、ジャンはあんな声もそこまで気にしなかっただろう。或いは音楽プレイヤーの充電を忘れていなかったら、気がつかなかったかもしれない。その日は春にしては冷たい雨が降っていて、そしていつも外出時のお供をしている音楽プレイヤーの充電を忘れていた。そんな日に、雨粒によるビニール傘の演奏に混じって、子猫の鳴き声がした。
か細く甘えるような声が聞こえて、ジャンは軽く周囲に目をやった。この時間帯の車通りは多くはないが、深夜は大型トラックがよく通る。声の主はちゃんと避難しているのだろうか。それ以上特に気に留めるでもなく、意識はすぐに買ったばかりのCDに移る。知らないアーティストの曲を試聴で気になって買った。じっくり聞きたかったのに、昨日はバイトで疲れて帰るなり全てを忘れて眠ってしまったのが悔やまれる。うろ覚えの鼻歌を、猫の声が遮った。近い。振り返ると、バス停のベンチの下に白っぽい影が見える。小さな体全体を使った鳴き声は体にそぐわず大きく、ジャンを見つけて転がるようにこちらに向かってきた。ぎょっとしてジャンは再び歩き出すが、鳴き声はつかず離れずついてくる。ばたばたと傘を叩く雨はきっとひと晩続くだろう。そもそも朝から降っていた雨だ。まだ子猫だろうに、母親はどうしたのだろう。あんなに小さい体では、こんな雨も嵐のように感じるのかもしれない。天気予報では明日も雨だ。風も出るらしい。
ジャンは足を止めた。追いついた子猫が、ジャンの足下にまとわりつく。
「……クソッ」
バッグからタオルを引き抜いて、子猫をつまみ上げて包み込んだ。まさに濡れねずみとしか言いようのない小さな体は暴れたが、それは体勢が悪かっただけらしく、四肢を動かしてやがて落ち着いた。しかしにゃーにゃーと鳴き声だけは続き、ジャンは舌打ちをして足早にひとり暮らしのアパートに向かう。拾ってどうしようというのだろう。生き物の世話なんてものは、小学生の頃、クラスでハムスターを飼っていたぐらいで、ジャンはほとんどしたことがない。今夜ひと晩、この雨だけ乗り切って、あとは放り出してやろう。半端な世話は誉められたことではないのだろうが、無視をして帰ればこの小さな体が悲惨な目に遭う夢を見るに違いない。
部屋に帰ってから我に返った。姉が以前使っていたこの部屋はペットの飼える物件なのでそれは問題ない。しかし何の用意もないまま子猫を拾ってきてしまい、途方に暮れる。床に下ろすとタオルから顔を出してうろうろと歩き始めたが、その体はぷるぷると尻尾の先まで震えている。ジャンが濡れた靴下を脱ぎ捨てただけで座り込むとこちらに気づき、また力強い声で鳴きながらまとわりついてくる。膝にすり寄る子猫を掴んで、とにかくタオルで体を拭いた。少し力を入れたら折れてしまいそうな細い手足に不安になる。
どうしたらいいのかと途方に暮れる。思い浮かぶ人物がひとりいるが、あの男に助けを請うことはジャンにとっては耐えがたいことだ。しかし他に猫に関してジャンに適切な助言をくれるような相手は他にはおらず、インターネットで調べるということも考えたが、わかったところでもう店も開いていない。子猫は元気ではあるようだがさっきから鳴き続けているのは腹が減っているからだろうか。苦悩するジャンの手から転がり落ちた子猫は、珍しいからか、部屋の中を歩きだした。何か障害物を見つけては匂いを嗅いでいる。
ジャンは諦めて溜息をついた。自分が手を出したのだ、責任は取らねばならない。携帯を取りだして電話をかける。数コールで出た相手は、しかしやはり警戒していた。きっとジャンでも彼から連絡があれば警戒するだろう。ゼミの連絡網の関係で連絡先を知っているだけで、間違っても使ったことのない番号だ。
「エレン、今時間あるか」
『あるけど、何だよ』
「……子猫の世話、したことあるか」
『あ?』
「拾ったんだよ!」
『マジ?子猫?今ジャンのところにいるのか?』
「ああ」
『いいな〜子猫!触りてえ。あ、声がする』
部屋を回った子猫はまたジャンの元へ戻ってきていた。デニムに爪を立てて膝に上ってくる間も鳴き続けていて、それに応えるようにエレンの声が甘くなるのにぞっとする。
「だから世話だよ世話!どうすりゃいい」
『そう言われてもな、普通にご飯食えそうか?』
「わかんねえから聞いてんだ」
『あっコラッ!それ駄目だって!待てっ!』
「は?」
エレンの声が遠くなった。怒るような声がして、まもなく戻ってきたが心なしか疲れている。
『悪い、うちの猫が』
「……どうすりゃいい」
『大きさどれぐらい?』
「……両手で載るぐらい」
『じゃあ多分普通に食えるな。怪我はないんだな?』
「ないけど雨で濡れてた。タオルでは拭いたけど湿ってる」
『ドライヤー怖がらなかったら乾かしてやって。逃げたら無理するな、トラウマになるだけだから。あー……スーパー開いてねえよな』
「ああ」
『今からそっち行くわ。あ、水はやっていいけど牛乳はやるな』
「……わかった」
物凄く理不尽だがやむを得ない。ジャンの膝の間を往復している子猫を見ながら通話を切る。外では白っぽく見えたが明るいところで見るともう少し黄色がかっている。黄ばんでるだけじゃないだろうな、と体を転がしてみるがそういうわけではなさそうだ。ジャンを見上げるガラスのような瞳は青い。エレンの言葉を思い出し、猫を膝から降ろして洗面所にドライヤーを取りに行く。猫と比べるとドライヤーも大きく見えて、試しにそばで電源を入れてみると飛び上がって部屋の隅に逃げていった。駄目そうだ。仕方なくできるだけ乾かそうとタオルを持って猫を抱えた。腹の下に手を回せば片手で掴めてしまうような体でも、小さな命だと思うと投げ出したくなる。
エレンのうちはすでに猫を飼っている。ついでにこいつも引き取ってもらえないか聞いてみようと思っているうちにチャイムが鳴った。猫を置いて玄関に向かう。どれだけ飛ばしてきたのだろうか、ドアを開けると謎のゲージを抱えたエレンが立っている。
「……よう」
「ちっせえ〜!」
「は?」
エレンの目はジャンの足元を見ていた。すぐにしゃがみ込んだかと思えば抱えていたゲージを置くなり、ジャンの足元から子猫をすくい上げる。簡単に持ち上がった子猫はエレンの両手の中で大人しく頬ずりされていた。ふにゃふにゃと情けない声を上げているが嫌ではないようだ。それよりも隣のゲージが大きく揺れ、それに驚いてびくりとしている。
「かっわいいなぁ〜。金髪碧眼のかわいこちゃんだ。ドライヤーやっぱ駄目だったか?」
「ああ、逃げた」
「そっかそっか、よしよし寒かったな〜。お母さんはぐれちゃったか?かわいそうにな〜、お腹すいたよなぁ」
「その気色悪い声やめろよ……」
まさに猫撫で声とでも言うのだろうか。うるせえな、といつもの調子で毒づきエレンはやっと靴脱いで上がってくる。鞄から取りだしたのはキャットフードで、お湯でふやかして、とジャンに投げた。それぐらいは簡単なことだが、もっと説明すべきことがあるだろう。ジャンはエレンの横でがたがた揺れているゲージを指す。
「おい、それ何だよ」
「ああ、うちの猫」
「猫……?」
「うち今母さんいなくてさ、母さんいねえと悪さばっかすんだよ」
ジャンの知る猫はゲージをこんなに揺らすほど凶暴な生き物ではなかったはずだ。エレンは狭いところ嫌いなんだよなと笑っているが、これはその程度で済む話なのだろうか。皿に少し開けたキャットフードをポットのお湯でふやかして持っていくとエレンはやっと猫を降ろした。皿を前に置いてやると子猫は素早く駈け寄り、皿に前足を入れるほどの勢い出た食べ始める。やはりお腹が空いていたらしい。癪に障る相手ではあるが、猫のためには頼って正解だったようだ。
ゲージは相変わらずうるさいが、エレンは一向に構わず、後で出してやるから、と適当に声をかけている。幼い四肢を突っ張ってがつがつと食べる姿に頬を緩めて、エレンは子猫の尻尾を撫でていた。時々振り払うように激しく跳ねる尻尾を笑う。動物好きであることは間違いない。
「ちっちぇえな〜かわいいな〜。こいつもこんなに小さかったはずなのに、小さいときでもこんなに大人しくなかったぜ」
「……なあエレン、こいつお前んちで飼えないか?」
「なんで?ペット不可?」
「いや、部屋は大丈夫だけどよ……」
「もう1匹ぐらい大丈夫だけど……うーん、リヴァイがなぁ……」
エレンが横目でゲージを見る。持ってて、と抱き上げた子猫をジャンに押しつけ、エレンはゲージの戸を開けた。途端に黒い塊が飛び出して、ジャンは反射的に立ち上がる。それは真っ黒な猫だった。ジャンの手の中にほとんど隠れてしまっている子猫を威嚇して、その鋭い声に子猫はジャンの胸に爪を立てて肩までよじ登る。細いせいか小さな爪でも肌に刺さり、ジャンは悲鳴を上げて引きはがした。飛びかからんばかりの黒猫をエレンが素早く捕まえて、バシバシと蹴られたり噛まれたりしながらも再びゲージに押し込める。その間中、黒猫はこの世のものとは思えない鳴き声を上げていて、ジャンが抱き直した小さな生き物はずっと爪を立てていた。
「無理だな」
「猫こえぇ……」
「こいつ野良だったからさ、庭に来てたのを母さんが餌付けしたんだ。飼ってるっていうより夜寝に帰ってきてるだけみたいな猫なんだよ。違う匂いがするから威嚇してんだろうな」
「よくやるぜ……」
エレンの腕は一瞬で鋭いかき傷が何筋も走った。薄く血が滲んで腫れている。まだゲージの中で黒猫は暴れていて、リヴァイ!とエレンが声を荒げた時にはしばらく静かになったが、またすぐに暴れ始めた。
「まあ飼えねえってんなら探してやるよ。でも見つかるまではお前が面倒見てろよ」
「……お前んちには預けられねえようだからな」
子猫はまたジャンの肩まで登っていく。さっきほど爪は食い込まないが、柔らかい毛が首に当たるとくすぐったいのでまた腕に戻す。今度は狭い方へ行きたいのか、ジャンの脇の方に入り込もうとするのでまた引き戻した。
「ほんとは子猫用の餌の方がいいんだ、栄養価が違うから。お前明日バイト休み?」
「ああ、用はないが……」
「明日スーパー開いたら持ってきてやるよ。あ、あとトイレな、古いの持ってきたから。ちょっと躾いるかもしんねえけど、性格によるからなあ。基本的にはきれい好きだから、覚えりゃそこでしかしなくなる」
「トイレ……」
「うち買ったけどあんまり使わなかったからな〜。リヴァイ外でしてくるから」
テキパキとエレンは鞄から色々取り出すが、ジャンは生き物の世話をするという手間を考えて頭を抱えたくなる。腕の中の生き物はかわいいが、やはり飼える気がしない。
エレンが立ち上がってジャンの腕の子猫をのぞきこむ。曲げた肘の間で仰向けになった子猫の腹を指先で撫でてデレデレしているエレンは、こんなことがなければ見ることはなかっただろう。
「は〜いいなぁ!リヴァイと交換しようぜ」
「やだよ!」
「くっそ〜、かわいい。リヴァイがいなきゃ連れて帰るのに。嫌だよな〜こんな馬面が同居人なんて」
エレンが猫の腹に鼻を寄せた。動作としてはそうだが、それはジャンの腕に顔を埋める行為でもある。怯むジャンにお構いなしに、エレンはまた明日くるからなー、などと子猫に話しかけていた。握手、と称して前足を摘み、エレンはやっとジャンから離れる。
「じゃ!俺帰るから」
「……おう。ありがとな」
「寝てる間に押し潰すなよ」
「……あ」
「わーったって!帰るって!」
リヴァイの全身での抗議によってジャンの言葉は遮られた。ゲージを掴んでエレンはじゃあな、と帰っていく。腕から転げ落ちそうになった子猫をほとんど無意識にすくい上げ、無情に閉まったドアを見る。
「……え、お前どこで寝るの?」
ジャンが子猫を見下ろすと、青い瞳がジャンを見上げて、にゃあと愛想を振りまいた。
か細く甘えるような声が聞こえて、ジャンは軽く周囲に目をやった。この時間帯の車通りは多くはないが、深夜は大型トラックがよく通る。声の主はちゃんと避難しているのだろうか。それ以上特に気に留めるでもなく、意識はすぐに買ったばかりのCDに移る。知らないアーティストの曲を試聴で気になって買った。じっくり聞きたかったのに、昨日はバイトで疲れて帰るなり全てを忘れて眠ってしまったのが悔やまれる。うろ覚えの鼻歌を、猫の声が遮った。近い。振り返ると、バス停のベンチの下に白っぽい影が見える。小さな体全体を使った鳴き声は体にそぐわず大きく、ジャンを見つけて転がるようにこちらに向かってきた。ぎょっとしてジャンは再び歩き出すが、鳴き声はつかず離れずついてくる。ばたばたと傘を叩く雨はきっとひと晩続くだろう。そもそも朝から降っていた雨だ。まだ子猫だろうに、母親はどうしたのだろう。あんなに小さい体では、こんな雨も嵐のように感じるのかもしれない。天気予報では明日も雨だ。風も出るらしい。
ジャンは足を止めた。追いついた子猫が、ジャンの足下にまとわりつく。
「……クソッ」
バッグからタオルを引き抜いて、子猫をつまみ上げて包み込んだ。まさに濡れねずみとしか言いようのない小さな体は暴れたが、それは体勢が悪かっただけらしく、四肢を動かしてやがて落ち着いた。しかしにゃーにゃーと鳴き声だけは続き、ジャンは舌打ちをして足早にひとり暮らしのアパートに向かう。拾ってどうしようというのだろう。生き物の世話なんてものは、小学生の頃、クラスでハムスターを飼っていたぐらいで、ジャンはほとんどしたことがない。今夜ひと晩、この雨だけ乗り切って、あとは放り出してやろう。半端な世話は誉められたことではないのだろうが、無視をして帰ればこの小さな体が悲惨な目に遭う夢を見るに違いない。
部屋に帰ってから我に返った。姉が以前使っていたこの部屋はペットの飼える物件なのでそれは問題ない。しかし何の用意もないまま子猫を拾ってきてしまい、途方に暮れる。床に下ろすとタオルから顔を出してうろうろと歩き始めたが、その体はぷるぷると尻尾の先まで震えている。ジャンが濡れた靴下を脱ぎ捨てただけで座り込むとこちらに気づき、また力強い声で鳴きながらまとわりついてくる。膝にすり寄る子猫を掴んで、とにかくタオルで体を拭いた。少し力を入れたら折れてしまいそうな細い手足に不安になる。
どうしたらいいのかと途方に暮れる。思い浮かぶ人物がひとりいるが、あの男に助けを請うことはジャンにとっては耐えがたいことだ。しかし他に猫に関してジャンに適切な助言をくれるような相手は他にはおらず、インターネットで調べるということも考えたが、わかったところでもう店も開いていない。子猫は元気ではあるようだがさっきから鳴き続けているのは腹が減っているからだろうか。苦悩するジャンの手から転がり落ちた子猫は、珍しいからか、部屋の中を歩きだした。何か障害物を見つけては匂いを嗅いでいる。
ジャンは諦めて溜息をついた。自分が手を出したのだ、責任は取らねばならない。携帯を取りだして電話をかける。数コールで出た相手は、しかしやはり警戒していた。きっとジャンでも彼から連絡があれば警戒するだろう。ゼミの連絡網の関係で連絡先を知っているだけで、間違っても使ったことのない番号だ。
「エレン、今時間あるか」
『あるけど、何だよ』
「……子猫の世話、したことあるか」
『あ?』
「拾ったんだよ!」
『マジ?子猫?今ジャンのところにいるのか?』
「ああ」
『いいな〜子猫!触りてえ。あ、声がする』
部屋を回った子猫はまたジャンの元へ戻ってきていた。デニムに爪を立てて膝に上ってくる間も鳴き続けていて、それに応えるようにエレンの声が甘くなるのにぞっとする。
「だから世話だよ世話!どうすりゃいい」
『そう言われてもな、普通にご飯食えそうか?』
「わかんねえから聞いてんだ」
『あっコラッ!それ駄目だって!待てっ!』
「は?」
エレンの声が遠くなった。怒るような声がして、まもなく戻ってきたが心なしか疲れている。
『悪い、うちの猫が』
「……どうすりゃいい」
『大きさどれぐらい?』
「……両手で載るぐらい」
『じゃあ多分普通に食えるな。怪我はないんだな?』
「ないけど雨で濡れてた。タオルでは拭いたけど湿ってる」
『ドライヤー怖がらなかったら乾かしてやって。逃げたら無理するな、トラウマになるだけだから。あー……スーパー開いてねえよな』
「ああ」
『今からそっち行くわ。あ、水はやっていいけど牛乳はやるな』
「……わかった」
物凄く理不尽だがやむを得ない。ジャンの膝の間を往復している子猫を見ながら通話を切る。外では白っぽく見えたが明るいところで見るともう少し黄色がかっている。黄ばんでるだけじゃないだろうな、と体を転がしてみるがそういうわけではなさそうだ。ジャンを見上げるガラスのような瞳は青い。エレンの言葉を思い出し、猫を膝から降ろして洗面所にドライヤーを取りに行く。猫と比べるとドライヤーも大きく見えて、試しにそばで電源を入れてみると飛び上がって部屋の隅に逃げていった。駄目そうだ。仕方なくできるだけ乾かそうとタオルを持って猫を抱えた。腹の下に手を回せば片手で掴めてしまうような体でも、小さな命だと思うと投げ出したくなる。
エレンのうちはすでに猫を飼っている。ついでにこいつも引き取ってもらえないか聞いてみようと思っているうちにチャイムが鳴った。猫を置いて玄関に向かう。どれだけ飛ばしてきたのだろうか、ドアを開けると謎のゲージを抱えたエレンが立っている。
「……よう」
「ちっせえ〜!」
「は?」
エレンの目はジャンの足元を見ていた。すぐにしゃがみ込んだかと思えば抱えていたゲージを置くなり、ジャンの足元から子猫をすくい上げる。簡単に持ち上がった子猫はエレンの両手の中で大人しく頬ずりされていた。ふにゃふにゃと情けない声を上げているが嫌ではないようだ。それよりも隣のゲージが大きく揺れ、それに驚いてびくりとしている。
「かっわいいなぁ〜。金髪碧眼のかわいこちゃんだ。ドライヤーやっぱ駄目だったか?」
「ああ、逃げた」
「そっかそっか、よしよし寒かったな〜。お母さんはぐれちゃったか?かわいそうにな〜、お腹すいたよなぁ」
「その気色悪い声やめろよ……」
まさに猫撫で声とでも言うのだろうか。うるせえな、といつもの調子で毒づきエレンはやっと靴脱いで上がってくる。鞄から取りだしたのはキャットフードで、お湯でふやかして、とジャンに投げた。それぐらいは簡単なことだが、もっと説明すべきことがあるだろう。ジャンはエレンの横でがたがた揺れているゲージを指す。
「おい、それ何だよ」
「ああ、うちの猫」
「猫……?」
「うち今母さんいなくてさ、母さんいねえと悪さばっかすんだよ」
ジャンの知る猫はゲージをこんなに揺らすほど凶暴な生き物ではなかったはずだ。エレンは狭いところ嫌いなんだよなと笑っているが、これはその程度で済む話なのだろうか。皿に少し開けたキャットフードをポットのお湯でふやかして持っていくとエレンはやっと猫を降ろした。皿を前に置いてやると子猫は素早く駈け寄り、皿に前足を入れるほどの勢い出た食べ始める。やはりお腹が空いていたらしい。癪に障る相手ではあるが、猫のためには頼って正解だったようだ。
ゲージは相変わらずうるさいが、エレンは一向に構わず、後で出してやるから、と適当に声をかけている。幼い四肢を突っ張ってがつがつと食べる姿に頬を緩めて、エレンは子猫の尻尾を撫でていた。時々振り払うように激しく跳ねる尻尾を笑う。動物好きであることは間違いない。
「ちっちぇえな〜かわいいな〜。こいつもこんなに小さかったはずなのに、小さいときでもこんなに大人しくなかったぜ」
「……なあエレン、こいつお前んちで飼えないか?」
「なんで?ペット不可?」
「いや、部屋は大丈夫だけどよ……」
「もう1匹ぐらい大丈夫だけど……うーん、リヴァイがなぁ……」
エレンが横目でゲージを見る。持ってて、と抱き上げた子猫をジャンに押しつけ、エレンはゲージの戸を開けた。途端に黒い塊が飛び出して、ジャンは反射的に立ち上がる。それは真っ黒な猫だった。ジャンの手の中にほとんど隠れてしまっている子猫を威嚇して、その鋭い声に子猫はジャンの胸に爪を立てて肩までよじ登る。細いせいか小さな爪でも肌に刺さり、ジャンは悲鳴を上げて引きはがした。飛びかからんばかりの黒猫をエレンが素早く捕まえて、バシバシと蹴られたり噛まれたりしながらも再びゲージに押し込める。その間中、黒猫はこの世のものとは思えない鳴き声を上げていて、ジャンが抱き直した小さな生き物はずっと爪を立てていた。
「無理だな」
「猫こえぇ……」
「こいつ野良だったからさ、庭に来てたのを母さんが餌付けしたんだ。飼ってるっていうより夜寝に帰ってきてるだけみたいな猫なんだよ。違う匂いがするから威嚇してんだろうな」
「よくやるぜ……」
エレンの腕は一瞬で鋭いかき傷が何筋も走った。薄く血が滲んで腫れている。まだゲージの中で黒猫は暴れていて、リヴァイ!とエレンが声を荒げた時にはしばらく静かになったが、またすぐに暴れ始めた。
「まあ飼えねえってんなら探してやるよ。でも見つかるまではお前が面倒見てろよ」
「……お前んちには預けられねえようだからな」
子猫はまたジャンの肩まで登っていく。さっきほど爪は食い込まないが、柔らかい毛が首に当たるとくすぐったいのでまた腕に戻す。今度は狭い方へ行きたいのか、ジャンの脇の方に入り込もうとするのでまた引き戻した。
「ほんとは子猫用の餌の方がいいんだ、栄養価が違うから。お前明日バイト休み?」
「ああ、用はないが……」
「明日スーパー開いたら持ってきてやるよ。あ、あとトイレな、古いの持ってきたから。ちょっと躾いるかもしんねえけど、性格によるからなあ。基本的にはきれい好きだから、覚えりゃそこでしかしなくなる」
「トイレ……」
「うち買ったけどあんまり使わなかったからな〜。リヴァイ外でしてくるから」
テキパキとエレンは鞄から色々取り出すが、ジャンは生き物の世話をするという手間を考えて頭を抱えたくなる。腕の中の生き物はかわいいが、やはり飼える気がしない。
エレンが立ち上がってジャンの腕の子猫をのぞきこむ。曲げた肘の間で仰向けになった子猫の腹を指先で撫でてデレデレしているエレンは、こんなことがなければ見ることはなかっただろう。
「は〜いいなぁ!リヴァイと交換しようぜ」
「やだよ!」
「くっそ〜、かわいい。リヴァイがいなきゃ連れて帰るのに。嫌だよな〜こんな馬面が同居人なんて」
エレンが猫の腹に鼻を寄せた。動作としてはそうだが、それはジャンの腕に顔を埋める行為でもある。怯むジャンにお構いなしに、エレンはまた明日くるからなー、などと子猫に話しかけていた。握手、と称して前足を摘み、エレンはやっとジャンから離れる。
「じゃ!俺帰るから」
「……おう。ありがとな」
「寝てる間に押し潰すなよ」
「……あ」
「わーったって!帰るって!」
リヴァイの全身での抗議によってジャンの言葉は遮られた。ゲージを掴んでエレンはじゃあな、と帰っていく。腕から転げ落ちそうになった子猫をほとんど無意識にすくい上げ、無情に閉まったドアを見る。
「……え、お前どこで寝るの?」
ジャンが子猫を見下ろすと、青い瞳がジャンを見上げて、にゃあと愛想を振りまいた。
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2013'09.06.Fri
「ご飯できたよ」
「ああ」
アルミンが声をかけたが、珍しくジャンは本に集中している。先日ジャンの部屋に新しく来たアルミラックは、先日棚が抜け落ちた古い本棚から教訓を得たものだが、今その一角をアルミンの本が占めていた。昔の教材だが気に入っているものや、単純に昔から好きな本などを少しずつ持ち込んでいる。自室が本で溢れそうだというとジャンが少しぐらいなら持ってきてもいいと言ってくれたので、その言葉に甘えていた。時々、暇を持て余したジャンがそれらを開いているのを知っている。
台所に立つアルミンからは、ソファーに座るジャンが今何を読んでいるのかは見えない。しかし文字列に向けられた静かな瞳や俯く横顔に、思わず口元を緩めた。読書は嫌いではないと言っていた。それでも、アルミンが本が好きだと知ってから、ジャンが本を読む姿を見ることが増えたのが素直に嬉しい。読んだ本について共有できることはもちろん、ジャンがアルミンに歩み寄ってくれるのが何よりも嬉しかった。
カラフルなサラダとメインの料理を皿に盛りつける。ひとり暮らしのジャンの部屋に来ることが増えて、一緒に食事をとることが増えて、どれぐらい経つだろう。一緒に買い物に行ってふたりで台所に立つこともあるし、今日のようにアルミンひとりで、またはジャンがひとりで作ることもある。ジャンの料理は大雑把ではあるが人に振る舞うには十分で、以外にも家庭的な面があるのだと思ったことはまだ記憶に新しい。
「ジャン」
「ん」
返事はするから、わかってはいるのだろう。それでも文字が自分を引きつけてやまない感覚を、アルミンは知っている。それ以上呼ばずにローテーブルを拭いて皿を並べた。
ジャンはこうして、好きになった相手に染まっていくのだろうか。
静かな食器の音を聞きながら、少しだけ頭をもたげる感情がある。アルミンと出会う前、ジャンは時間を共にした人がいた。彼女は、あるいは彼女たちは、ジャンにどんな影響を与えたのだろう。ジャンとどのように過ごしたのだろう。誰かを好きになるという経験が初めてのアルミンには、それを尋ねていいものかどうかもわからない。知りたくもあるし、知りたくないことでもある。もし比べられているのなら、自分の評価はどれほどのものなのだろうか。
周りの友人たちは恋の話に一喜一憂していたけれど、もし自分の立場ならもっと冷静でいられると思っていた。しかし実際は恋に溺れたアルミンも彼女たちと何も変わらず、テキストのない問題に己だけで立ち向かわなければならない状況に戸惑っている。手を伸ばせば温もりを与えてくれる存在になり得たことだけでもまだ信じられなかった。
テーブルの用意も済んで、アルミンはジャンの足元に座り込んだ。膝に頭を預けると、こちらを見ないままだが優しく髪を撫でられる。目を閉じてそれ受け入れ、もうしばらく待つとジャンはやっと本を閉じた。
「悪い」
「ううん。面白い?」
「ああ」
「残念だけど、続きはご飯の後で」
笑って手を引けばジャンは素直にソファーを降りて、テーブルの前に座りなおした。ふたりで手を合わせて、夕食を食べ始める。食事中のジャンは読書中の静かさとは違い、決して賑やかではないが適度な会話でアルミンを飽きさせない。仕事中にあったことやテレビで見た話、アルミンの話からまた発展させて、会話は続く。アルミンも話をすることは嫌いではないが冗談を言えるタチでもなく、知識にも偏りがあるのでジャンとの会話は新鮮だ。
ジャンの口元に視線を落とす。好き嫌いはない。甘いものは好きではないが嫌いでもない。辛いものはアルミンよりは得意。一緒に食事をするだけでいろんなことを知る。恋人と言う関係になってもなかなか都合が合わず、デートなどはできていないが、アルミンはできるだけジャンのそばにいた。
一緒に食事をした時間は、ジャンの肉体になる。もうひと月は経っただろうか。ジャンの体は、どれぐらいアルミンと過ごした時間になっているだろう。同じだけ、アルミンの体もそうなっている。
話をしても、触れあっても、まだ時々不安になるのはアルミンだけなのだろうか。ジャンが以前つき合っていた女性を別れた理由は知らないけれど、それはジャンのように魅力的な男でも何かのきっかけで誰かと縁が切れることもあるということだ。それは、ジャンとアルミンの別れが来ることもあり得るということだ。
もしその日が来ても、しばらくはジャンの体にアルミンと過ごした時間が残る。
箸を扱うその指先に触れられたいと思い、食事中だと自分を制する。それでも、少しの期待を押さえられない。本の続きを後にしてほしいと願うのはわがままだろうか。ここにあるアルミンの本は是非ジャンにも読んでほしいものばかりで、手に取ってくれることは嬉しいことだ。それでもまだ、欲を出す。
テーブルの下で何かが膝に触れて飛び上がる。勢いでテーブルに膝をぶつけて食器が鳴った。痛みに耐えて悶えていると、正面のジャンが笑い声をあげる。膝を撫でたジャンの足を蹴り返すが簡単に押さえつけられた。重たい足が乗せられると動かせなくて、悔しくてジャンを睨むが涼しい顔で食事を再開している。
「ジャンの馬鹿」
「飯食いながらなんて顔してんだよ」
「……どんな顔してた?」
ジャンが笑う。それはとても食事中とは思えない。耳まで熱くなって俯いて、アルミンも箸を握るが、うまく飲み込める気がしなかった。
全部見透かされてしまう。アルミンの思いは、ジャンにどれほど筒抜けなのだろう。つまらない過去への嫉妬も見抜かれているのだとしたら恥ずかしいどころではない。そんな男を選んで、ジャンは後悔しないだろうか。
アルミンの思考はいつも、ジャンの体温で遮られる。テーブルの下で触れる熱に、ただ耐えて口を開いた。
「ああ」
アルミンが声をかけたが、珍しくジャンは本に集中している。先日ジャンの部屋に新しく来たアルミラックは、先日棚が抜け落ちた古い本棚から教訓を得たものだが、今その一角をアルミンの本が占めていた。昔の教材だが気に入っているものや、単純に昔から好きな本などを少しずつ持ち込んでいる。自室が本で溢れそうだというとジャンが少しぐらいなら持ってきてもいいと言ってくれたので、その言葉に甘えていた。時々、暇を持て余したジャンがそれらを開いているのを知っている。
台所に立つアルミンからは、ソファーに座るジャンが今何を読んでいるのかは見えない。しかし文字列に向けられた静かな瞳や俯く横顔に、思わず口元を緩めた。読書は嫌いではないと言っていた。それでも、アルミンが本が好きだと知ってから、ジャンが本を読む姿を見ることが増えたのが素直に嬉しい。読んだ本について共有できることはもちろん、ジャンがアルミンに歩み寄ってくれるのが何よりも嬉しかった。
カラフルなサラダとメインの料理を皿に盛りつける。ひとり暮らしのジャンの部屋に来ることが増えて、一緒に食事をとることが増えて、どれぐらい経つだろう。一緒に買い物に行ってふたりで台所に立つこともあるし、今日のようにアルミンひとりで、またはジャンがひとりで作ることもある。ジャンの料理は大雑把ではあるが人に振る舞うには十分で、以外にも家庭的な面があるのだと思ったことはまだ記憶に新しい。
「ジャン」
「ん」
返事はするから、わかってはいるのだろう。それでも文字が自分を引きつけてやまない感覚を、アルミンは知っている。それ以上呼ばずにローテーブルを拭いて皿を並べた。
ジャンはこうして、好きになった相手に染まっていくのだろうか。
静かな食器の音を聞きながら、少しだけ頭をもたげる感情がある。アルミンと出会う前、ジャンは時間を共にした人がいた。彼女は、あるいは彼女たちは、ジャンにどんな影響を与えたのだろう。ジャンとどのように過ごしたのだろう。誰かを好きになるという経験が初めてのアルミンには、それを尋ねていいものかどうかもわからない。知りたくもあるし、知りたくないことでもある。もし比べられているのなら、自分の評価はどれほどのものなのだろうか。
周りの友人たちは恋の話に一喜一憂していたけれど、もし自分の立場ならもっと冷静でいられると思っていた。しかし実際は恋に溺れたアルミンも彼女たちと何も変わらず、テキストのない問題に己だけで立ち向かわなければならない状況に戸惑っている。手を伸ばせば温もりを与えてくれる存在になり得たことだけでもまだ信じられなかった。
テーブルの用意も済んで、アルミンはジャンの足元に座り込んだ。膝に頭を預けると、こちらを見ないままだが優しく髪を撫でられる。目を閉じてそれ受け入れ、もうしばらく待つとジャンはやっと本を閉じた。
「悪い」
「ううん。面白い?」
「ああ」
「残念だけど、続きはご飯の後で」
笑って手を引けばジャンは素直にソファーを降りて、テーブルの前に座りなおした。ふたりで手を合わせて、夕食を食べ始める。食事中のジャンは読書中の静かさとは違い、決して賑やかではないが適度な会話でアルミンを飽きさせない。仕事中にあったことやテレビで見た話、アルミンの話からまた発展させて、会話は続く。アルミンも話をすることは嫌いではないが冗談を言えるタチでもなく、知識にも偏りがあるのでジャンとの会話は新鮮だ。
ジャンの口元に視線を落とす。好き嫌いはない。甘いものは好きではないが嫌いでもない。辛いものはアルミンよりは得意。一緒に食事をするだけでいろんなことを知る。恋人と言う関係になってもなかなか都合が合わず、デートなどはできていないが、アルミンはできるだけジャンのそばにいた。
一緒に食事をした時間は、ジャンの肉体になる。もうひと月は経っただろうか。ジャンの体は、どれぐらいアルミンと過ごした時間になっているだろう。同じだけ、アルミンの体もそうなっている。
話をしても、触れあっても、まだ時々不安になるのはアルミンだけなのだろうか。ジャンが以前つき合っていた女性を別れた理由は知らないけれど、それはジャンのように魅力的な男でも何かのきっかけで誰かと縁が切れることもあるということだ。それは、ジャンとアルミンの別れが来ることもあり得るということだ。
もしその日が来ても、しばらくはジャンの体にアルミンと過ごした時間が残る。
箸を扱うその指先に触れられたいと思い、食事中だと自分を制する。それでも、少しの期待を押さえられない。本の続きを後にしてほしいと願うのはわがままだろうか。ここにあるアルミンの本は是非ジャンにも読んでほしいものばかりで、手に取ってくれることは嬉しいことだ。それでもまだ、欲を出す。
テーブルの下で何かが膝に触れて飛び上がる。勢いでテーブルに膝をぶつけて食器が鳴った。痛みに耐えて悶えていると、正面のジャンが笑い声をあげる。膝を撫でたジャンの足を蹴り返すが簡単に押さえつけられた。重たい足が乗せられると動かせなくて、悔しくてジャンを睨むが涼しい顔で食事を再開している。
「ジャンの馬鹿」
「飯食いながらなんて顔してんだよ」
「……どんな顔してた?」
ジャンが笑う。それはとても食事中とは思えない。耳まで熱くなって俯いて、アルミンも箸を握るが、うまく飲み込める気がしなかった。
全部見透かされてしまう。アルミンの思いは、ジャンにどれほど筒抜けなのだろう。つまらない過去への嫉妬も見抜かれているのだとしたら恥ずかしいどころではない。そんな男を選んで、ジャンは後悔しないだろうか。
アルミンの思考はいつも、ジャンの体温で遮られる。テーブルの下で触れる熱に、ただ耐えて口を開いた。
2013'09.05.Thu
「アルミン、今日は帰るんだろ」
「ん……うー、眠い。まぶたが上がらない。ジャンがキスしてくれないと起きられない」
「何言ってんだ」
笑いながらもうとうとしていたアルミンのそばに膝をつき、髪に隠れた頬に唇を当てる。ちらりとこちらを見た目は満足していなくて、髪をかきあげて頭を抱きながら改めてキスを落とした。
ジャンの部屋で夕食を食べた後、洗い物をしている間にアルミンはソファーで丸くなってしまっていた。帰る時間まではと思い起こさずにいたが、構った方が正解だったのかもしれない。アルミンの手が首の後ろに回され、ねだられるままに何度かキスを繰り返す。
「……ほら、明日1限だろ。送るから」
「もういっかい」
「馬鹿」
甘えるアルミンの額を指で弾く。つまらなさそうに離れていったアルミンはまだ眠そうでもあり、いつもよりもずっと幼く見える。流されてしまいそうになるが、優秀な学生をそそのかすわけにはいかない。
アルミンを助手席に乗せて夜の道を走る。アルミンの家に向かうのはもう慣れた道だが、まだ家族に会ったことはなかった。恥ずかしいから、といつも少し離れたところで降ろしている。
運転中もアルミンはかくかくと振動に合わせて頭を揺らしていた。きっとまた本を読んで夜更かしでもしていたのだろう。疲れているなら無理してこなくていいといつも言ってはいるのだが、少しでも顔を見たいと言うのでつい許してしまう。ジャンも嬉しいので強くは言わないが、こうも無防備な姿を見せられるとどこまで手を出していいのか考えてしまう。
いつもの場所に車を止めた頃にはアルミンはすっかり眠ってしまっていた。頭が傾いて窓に当たっている。途中でぶつけはしなかっただろうか。
「アルミン、着いたぞ」
小さく声をかけたぐらいではアルミンは身動きもしなかった。静かな寝息をたてて眠る姿に思わず頬を緩める。お互い仕事や学校があってなかなか一緒に眠ると言うことはできない。あまり見られない様子は貴重で起こしてしまうのが惜しくなり、シートベルトを外して身を乗り出す。
力なく投げ出された手を取ると、眠っているいるせいだろうがいつもより温かい。手を離して腿を撫で、こちらに向いた首筋に顔を埋めた。コロンも何もつけていないはずだがどこか甘い匂いがして、子どものようだと笑ってしまう。それがくすぐったかったのか、アルミンが薄く目を開けた。かすれた声がジャンを呼ぶ。
「着いたぞ」
「うん……」
「起きねえと連れて帰るぞ」
「……じゃあ、ジャンと一緒に帰って、一緒に寝る」
「してえなぁ」
アルミンの手がジャンの手に重なった。甘えるように鼻を寄せられ、至近距離で目を合わせる。まだ夢心地のアルミンを前に我慢できるほどジャンはできた男ではなかった。
「ジャーン、ん」
「あー、クソ」
唇をそのまま押しつけた。重ねた指先を絡め、キスを交わすと盛り上がってきてしまう。甘い声のこぼれる唇に軽く歯を立てた。緩くほどけた唇を吸うと舌先に誘われる。
「……ジャン」
「……これ以上は……ヒッ!」
「えっ?」
視界に飛び込んだ顔にアルミンから離れた。暗い窓の外に浮かんだ顔を振り返り、アルミンも悲鳴を上げる。ふたりの様子を見てその顔は離れていったが、ジャンの心臓はばくばくとうるさいままだ。
「な、何だ今の」
「……お……おじいちゃん」
「えっ!」
「うわぁ〜見られたぁ〜」
アルミンは顔を覆って足をばたつかせたが、ジャンはそれどころではない。焦って窓の外を見るがすでに影はない。
「うー、帰りたくない」
「そういうレベルかよ……」
「家には一応言ってはいるんだ、つき合ってる人がいるって……」
「……俺、挨拶した方がいいか?」
「いいよ!恥ずかしい!」
「でもな……」
「……送ってくれてありがとう、ジャン。今日は帰る」
「ああ……」
「……好きだよジャン」
柔らかい唇が頬に触れる。はにかんでアルミンは逃げるように車を降りていったが、ジャンはシートに体を沈めて深く溜息をつく。
「……あ〜……ちゃんとするか……」
男とはいえ、夜遅くまで息子を引き留めているのだ。アルミンは気にしていないようだが、ジャンにしてみればそうも行かない。
「……はぁ、なんだこれ」
まさか男にここまで入れ込むとは思っていなかった。最後に唇が触れた頬を撫でる。
「……帰したくねぇなぁ」
「ん……うー、眠い。まぶたが上がらない。ジャンがキスしてくれないと起きられない」
「何言ってんだ」
笑いながらもうとうとしていたアルミンのそばに膝をつき、髪に隠れた頬に唇を当てる。ちらりとこちらを見た目は満足していなくて、髪をかきあげて頭を抱きながら改めてキスを落とした。
ジャンの部屋で夕食を食べた後、洗い物をしている間にアルミンはソファーで丸くなってしまっていた。帰る時間まではと思い起こさずにいたが、構った方が正解だったのかもしれない。アルミンの手が首の後ろに回され、ねだられるままに何度かキスを繰り返す。
「……ほら、明日1限だろ。送るから」
「もういっかい」
「馬鹿」
甘えるアルミンの額を指で弾く。つまらなさそうに離れていったアルミンはまだ眠そうでもあり、いつもよりもずっと幼く見える。流されてしまいそうになるが、優秀な学生をそそのかすわけにはいかない。
アルミンを助手席に乗せて夜の道を走る。アルミンの家に向かうのはもう慣れた道だが、まだ家族に会ったことはなかった。恥ずかしいから、といつも少し離れたところで降ろしている。
運転中もアルミンはかくかくと振動に合わせて頭を揺らしていた。きっとまた本を読んで夜更かしでもしていたのだろう。疲れているなら無理してこなくていいといつも言ってはいるのだが、少しでも顔を見たいと言うのでつい許してしまう。ジャンも嬉しいので強くは言わないが、こうも無防備な姿を見せられるとどこまで手を出していいのか考えてしまう。
いつもの場所に車を止めた頃にはアルミンはすっかり眠ってしまっていた。頭が傾いて窓に当たっている。途中でぶつけはしなかっただろうか。
「アルミン、着いたぞ」
小さく声をかけたぐらいではアルミンは身動きもしなかった。静かな寝息をたてて眠る姿に思わず頬を緩める。お互い仕事や学校があってなかなか一緒に眠ると言うことはできない。あまり見られない様子は貴重で起こしてしまうのが惜しくなり、シートベルトを外して身を乗り出す。
力なく投げ出された手を取ると、眠っているいるせいだろうがいつもより温かい。手を離して腿を撫で、こちらに向いた首筋に顔を埋めた。コロンも何もつけていないはずだがどこか甘い匂いがして、子どものようだと笑ってしまう。それがくすぐったかったのか、アルミンが薄く目を開けた。かすれた声がジャンを呼ぶ。
「着いたぞ」
「うん……」
「起きねえと連れて帰るぞ」
「……じゃあ、ジャンと一緒に帰って、一緒に寝る」
「してえなぁ」
アルミンの手がジャンの手に重なった。甘えるように鼻を寄せられ、至近距離で目を合わせる。まだ夢心地のアルミンを前に我慢できるほどジャンはできた男ではなかった。
「ジャーン、ん」
「あー、クソ」
唇をそのまま押しつけた。重ねた指先を絡め、キスを交わすと盛り上がってきてしまう。甘い声のこぼれる唇に軽く歯を立てた。緩くほどけた唇を吸うと舌先に誘われる。
「……ジャン」
「……これ以上は……ヒッ!」
「えっ?」
視界に飛び込んだ顔にアルミンから離れた。暗い窓の外に浮かんだ顔を振り返り、アルミンも悲鳴を上げる。ふたりの様子を見てその顔は離れていったが、ジャンの心臓はばくばくとうるさいままだ。
「な、何だ今の」
「……お……おじいちゃん」
「えっ!」
「うわぁ〜見られたぁ〜」
アルミンは顔を覆って足をばたつかせたが、ジャンはそれどころではない。焦って窓の外を見るがすでに影はない。
「うー、帰りたくない」
「そういうレベルかよ……」
「家には一応言ってはいるんだ、つき合ってる人がいるって……」
「……俺、挨拶した方がいいか?」
「いいよ!恥ずかしい!」
「でもな……」
「……送ってくれてありがとう、ジャン。今日は帰る」
「ああ……」
「……好きだよジャン」
柔らかい唇が頬に触れる。はにかんでアルミンは逃げるように車を降りていったが、ジャンはシートに体を沈めて深く溜息をつく。
「……あ〜……ちゃんとするか……」
男とはいえ、夜遅くまで息子を引き留めているのだ。アルミンは気にしていないようだが、ジャンにしてみればそうも行かない。
「……はぁ、なんだこれ」
まさか男にここまで入れ込むとは思っていなかった。最後に唇が触れた頬を撫でる。
「……帰したくねぇなぁ」
2013'09.04.Wed
「あちーな、クソ」
拭っても拭っても汗をかく。誰にでもなく、ジャンは苛立って呟いた。今日は特別気温も高く、陽射しも目を開けていられないほど眩しい。
それでも今日も訓練はあるし、鬼のような教官は顔色ひとつ変えずいつもと同様に叫んでいる。この鬱陶しい戦闘服も脱ぎ捨ててしまいたいが、それすらも許されないこの訓練に一体どんな意味があるのかと思うと嫌になってくる。ましてやこの暑さの中での対人訓練はすなわち誰かに触れるということであり、立っているだけでも暑いというのに人の体温を近くに感じることは更に暑苦しく思えた。せめてライナーやベルトルトのようなむさくるしい相手を避けたいところだが、クリスタやアニのような女を相手にするのも少し考えるものがある。尤も、対人に関して言えばアニは別の意味で相手をしたくなかった。
教官の怒声が飛んだ。少し焦って振り返るが、怒られているのはコニーのようだ。この暑さでもいつもと変わらずふざけていたらしい。一体どんな五感をしているのだろう。脳に直接叩き込まれるような指導を受けているコニーの側に少し疲れた様子のアルミンを見つけ、丁度いいとばかりに近づいた。彼ならばまだ少しは見た目も涼しげで、馬鹿みたいに真面目ではあるが今の様子では真剣に取り組んでくることはないだろう。
「お前は回避か、優等生は違うな」
「はは……コニーは元気だね。僕も暑さはそんなに苦手じゃないんだけど、さすがに今日は暑いなぁ」
苦笑を浮かべてアルミンは汗を拭い、うっとうしいのか前髪をかき上げる。露わになった額にも汗が浮いていたが、今日のこの暑さで汗をかいていない者などいないだろう。教官だって涼しい顔をしているが、あの長いジャケットの下は汗だくに違いない。そんなことを思っていると地面に沈んだコニーから教官が視線を外し、慌てて見た目だけでもアルミンに構える。
「おい、俺はもうこれ以上消耗したくない。形だけつき合え」
「……色々思うところはあるが、僕も今日は辛い。賛成だ」
「よし」
ジャンより、と言うよりこの訓練兵の中で体力面は劣っていると言ってもいいアルミンは真面目にやりたくとも体力がついていかないのだろう。動きを確認するような振りで、勢いなくアルミンに向かっていく。アルミンも了解しているので、伸びてきた手を受け流して形だけの抵抗を見せた。
「ったく、このクソ暑い中で何やらせんだ」
「暑くても寒くても巨人は待ってくれないからね」
「まだ立体起動の方がましだぜ」
「そうかもね。地面からの照り返しも暑くて嫌になるよ。あまりいい思い出もない」
「思い出?」
「真夏の炎天下、家に帰ったら家族が出かけてて鍵がかかって入れなかったことがある。2時間ぐらい待ったよ」
「そりゃ災難だ」
「更に災難だったのは、いじめられっこに追いかけられていたってこと。家に逃げたのに家の前で捕まって殴られた」
「お前いじめられっこだったのか、似合うじゃねえか」
「嬉しくないよ」
掴まれた腕を引かれたがすぐに返して振り払う。その間に間合いに入りこまれて体を引いた。動きは悪くないが、それはいじめられっこだった経験からなのか、それともここに入ってから鍛えられたものだろうか。
薄い体を見れば、なるほど、確かにいじめられっこと聞けば納得できる。つい悪戯心を出して、アルミンが油断したところに手を伸ばして肩を掴んだ。その力の強さにアルミンがはっとしたときにはもう遅い。引き倒すように力を込めて、バランスを崩したアルミンの足を払った。そのまま崩れ落ちないように腕を取って、背中に回して地面に組み伏した。
「ぐっ……」
「軽いなお前」
「ずるい……」
抵抗する気力もないのか、アルミンは額をつけて溜息をついた。笑って手を離し、引っ張り起こすと額に砂がついている。うんざりした顔をするのでまだからかいたくなってしまうが、これ以上は本気で怒られそうだ。
「でもお前、体は柔らかいんじゃないか」
「ああ、うん。昔からそうだけど、ミカサにつき合ってストレッチしてたらもっと柔らかくなった」
アルミンが体を前に倒すとその手のひらが地面に着いた。べろりとめくれたジャケットの下は汗をかいていて、シャツから肌が透けて見える。これが女ならば絶景だが、アルミンは残念だが男である。男らしいとは無縁とはいえ、男は男だ。しかし思わず手を伸ばし、両手でその腰を掴む。
「ひっ!何!?」
「ほっせぇ。女みてぇだな。尻はちいせえけど」
「ちょっと、離して!」
アルミンの正面、頭側にジャンが立っているので顔を上げられないらしい。身動きがとれないのをいいことにベルトを弾くとふくらはぎの辺りを叩かれた。手を離してやるとアルミンはやっと体を起こし、頭に血が上ったせいか少し顔が赤い。
「気にしてるのに……」
拗ねたような表情はかわいく見えなくもない。額を指してやると不思議な顔で手を当てて、砂がついていることに気がついて慌てて払い落としていた。
「どうしたらジャンみたいに背が伸びるんだろう」
「とりあえず早く寝たらいいんじゃねえの。遅くまで本読んでるじゃねえか」
「その説は根拠が乏しい。僕らの中で一番寝るのが早いコニーが証拠」
「違いねえ」
「それに暑いから寝苦しくて」
「まあな、それは同感だ」
最近は夜でも気温が下がらず、ましてや男ばかりの部屋ではとても快眠と言うわけにはいかない。シャツの胸元を引いて風を送る。
「あー、早く終わんねえかな」
「暑いねえ……」
はあ、と息を吐くアルミンの横顔が思いがけず色っぽい。どきりとしたあと、暑さでおかしくなったのかと頭を振った。
*
食堂の片づけの当番だった。最後のひと仕事を終わらせると、同じく当番だった仲間がオレンジを持ってくる。あまりがあったようだ。その場でこっそり分け合って、半分を手に部屋に帰る。
今日もやはり熱帯夜と言えるほどの暑さだ。動くと暑い、といわんばかりに、疲れた訓練兵たちは既に半裸でベッドに転がっている者が多い。窓辺だけが明るくて、見るといつものようにアルミンが火の側で本を読んでいる。
近づくとジャンに気づいて顔を上げた。額に汗が浮いている。小さな蝋燭の火でも暑いだろうが、月明かりだけでは本を読めるほど明るくはない。そうまでして読みたいものか、とやや呆れながら、オレンジをひと房唇に押しつける。
「ん」
「これしかないからこっそりな」
「……ありがと」
開いた口にオレンジを押し込み、ジャンも自分の口に放り込む。さわやかな酸味はいくらか暑さを和らげるような気がした。
「……オレンジは体温は下げるんだって。少しは涼しくなるかもね」
「それも本の知識か?」
「ううん、じいちゃんが言ってた。よく暑くて眠れないってわがままを言ったから、僕をなだめる嘘かもしれないけどね」
残りを渡そうとしたが、アルミンの視線はまた本に戻っている。仕方なくまたその口まで運んでやると、無意識のように口を開けた。食べてからはっとしたようにアルミンが顔を上げる。小さな炎に照らされた頬が赤く見えた。
「早く寝ろよ」
「あ、ごめん、明るいよね」
「汗かいてるぞ。蝋燭が暑いんだろ」
「あ、うん……そうする」
アルミンはジャンから視線を外し、頬に手を当てた。暑さを忘れるほど読書に集中していたのだろうか。勉強家の気持ちは理解できねえな、思いながら立ち上がる。慌てたようにアルミンがジャンを見上げた。
「あの、オレンジ、ありがとう」
「……気まぐれだよ」
かわいく見えたのは炎の加減だろうか。それともやはり、暑さのせいかもしれない。体温を下げるはずのオレンジの効果もなくて、ベッドに横になってからしばらく、窓辺の蝋燭が気になって眠れなかった。
拭っても拭っても汗をかく。誰にでもなく、ジャンは苛立って呟いた。今日は特別気温も高く、陽射しも目を開けていられないほど眩しい。
それでも今日も訓練はあるし、鬼のような教官は顔色ひとつ変えずいつもと同様に叫んでいる。この鬱陶しい戦闘服も脱ぎ捨ててしまいたいが、それすらも許されないこの訓練に一体どんな意味があるのかと思うと嫌になってくる。ましてやこの暑さの中での対人訓練はすなわち誰かに触れるということであり、立っているだけでも暑いというのに人の体温を近くに感じることは更に暑苦しく思えた。せめてライナーやベルトルトのようなむさくるしい相手を避けたいところだが、クリスタやアニのような女を相手にするのも少し考えるものがある。尤も、対人に関して言えばアニは別の意味で相手をしたくなかった。
教官の怒声が飛んだ。少し焦って振り返るが、怒られているのはコニーのようだ。この暑さでもいつもと変わらずふざけていたらしい。一体どんな五感をしているのだろう。脳に直接叩き込まれるような指導を受けているコニーの側に少し疲れた様子のアルミンを見つけ、丁度いいとばかりに近づいた。彼ならばまだ少しは見た目も涼しげで、馬鹿みたいに真面目ではあるが今の様子では真剣に取り組んでくることはないだろう。
「お前は回避か、優等生は違うな」
「はは……コニーは元気だね。僕も暑さはそんなに苦手じゃないんだけど、さすがに今日は暑いなぁ」
苦笑を浮かべてアルミンは汗を拭い、うっとうしいのか前髪をかき上げる。露わになった額にも汗が浮いていたが、今日のこの暑さで汗をかいていない者などいないだろう。教官だって涼しい顔をしているが、あの長いジャケットの下は汗だくに違いない。そんなことを思っていると地面に沈んだコニーから教官が視線を外し、慌てて見た目だけでもアルミンに構える。
「おい、俺はもうこれ以上消耗したくない。形だけつき合え」
「……色々思うところはあるが、僕も今日は辛い。賛成だ」
「よし」
ジャンより、と言うよりこの訓練兵の中で体力面は劣っていると言ってもいいアルミンは真面目にやりたくとも体力がついていかないのだろう。動きを確認するような振りで、勢いなくアルミンに向かっていく。アルミンも了解しているので、伸びてきた手を受け流して形だけの抵抗を見せた。
「ったく、このクソ暑い中で何やらせんだ」
「暑くても寒くても巨人は待ってくれないからね」
「まだ立体起動の方がましだぜ」
「そうかもね。地面からの照り返しも暑くて嫌になるよ。あまりいい思い出もない」
「思い出?」
「真夏の炎天下、家に帰ったら家族が出かけてて鍵がかかって入れなかったことがある。2時間ぐらい待ったよ」
「そりゃ災難だ」
「更に災難だったのは、いじめられっこに追いかけられていたってこと。家に逃げたのに家の前で捕まって殴られた」
「お前いじめられっこだったのか、似合うじゃねえか」
「嬉しくないよ」
掴まれた腕を引かれたがすぐに返して振り払う。その間に間合いに入りこまれて体を引いた。動きは悪くないが、それはいじめられっこだった経験からなのか、それともここに入ってから鍛えられたものだろうか。
薄い体を見れば、なるほど、確かにいじめられっこと聞けば納得できる。つい悪戯心を出して、アルミンが油断したところに手を伸ばして肩を掴んだ。その力の強さにアルミンがはっとしたときにはもう遅い。引き倒すように力を込めて、バランスを崩したアルミンの足を払った。そのまま崩れ落ちないように腕を取って、背中に回して地面に組み伏した。
「ぐっ……」
「軽いなお前」
「ずるい……」
抵抗する気力もないのか、アルミンは額をつけて溜息をついた。笑って手を離し、引っ張り起こすと額に砂がついている。うんざりした顔をするのでまだからかいたくなってしまうが、これ以上は本気で怒られそうだ。
「でもお前、体は柔らかいんじゃないか」
「ああ、うん。昔からそうだけど、ミカサにつき合ってストレッチしてたらもっと柔らかくなった」
アルミンが体を前に倒すとその手のひらが地面に着いた。べろりとめくれたジャケットの下は汗をかいていて、シャツから肌が透けて見える。これが女ならば絶景だが、アルミンは残念だが男である。男らしいとは無縁とはいえ、男は男だ。しかし思わず手を伸ばし、両手でその腰を掴む。
「ひっ!何!?」
「ほっせぇ。女みてぇだな。尻はちいせえけど」
「ちょっと、離して!」
アルミンの正面、頭側にジャンが立っているので顔を上げられないらしい。身動きがとれないのをいいことにベルトを弾くとふくらはぎの辺りを叩かれた。手を離してやるとアルミンはやっと体を起こし、頭に血が上ったせいか少し顔が赤い。
「気にしてるのに……」
拗ねたような表情はかわいく見えなくもない。額を指してやると不思議な顔で手を当てて、砂がついていることに気がついて慌てて払い落としていた。
「どうしたらジャンみたいに背が伸びるんだろう」
「とりあえず早く寝たらいいんじゃねえの。遅くまで本読んでるじゃねえか」
「その説は根拠が乏しい。僕らの中で一番寝るのが早いコニーが証拠」
「違いねえ」
「それに暑いから寝苦しくて」
「まあな、それは同感だ」
最近は夜でも気温が下がらず、ましてや男ばかりの部屋ではとても快眠と言うわけにはいかない。シャツの胸元を引いて風を送る。
「あー、早く終わんねえかな」
「暑いねえ……」
はあ、と息を吐くアルミンの横顔が思いがけず色っぽい。どきりとしたあと、暑さでおかしくなったのかと頭を振った。
*
食堂の片づけの当番だった。最後のひと仕事を終わらせると、同じく当番だった仲間がオレンジを持ってくる。あまりがあったようだ。その場でこっそり分け合って、半分を手に部屋に帰る。
今日もやはり熱帯夜と言えるほどの暑さだ。動くと暑い、といわんばかりに、疲れた訓練兵たちは既に半裸でベッドに転がっている者が多い。窓辺だけが明るくて、見るといつものようにアルミンが火の側で本を読んでいる。
近づくとジャンに気づいて顔を上げた。額に汗が浮いている。小さな蝋燭の火でも暑いだろうが、月明かりだけでは本を読めるほど明るくはない。そうまでして読みたいものか、とやや呆れながら、オレンジをひと房唇に押しつける。
「ん」
「これしかないからこっそりな」
「……ありがと」
開いた口にオレンジを押し込み、ジャンも自分の口に放り込む。さわやかな酸味はいくらか暑さを和らげるような気がした。
「……オレンジは体温は下げるんだって。少しは涼しくなるかもね」
「それも本の知識か?」
「ううん、じいちゃんが言ってた。よく暑くて眠れないってわがままを言ったから、僕をなだめる嘘かもしれないけどね」
残りを渡そうとしたが、アルミンの視線はまた本に戻っている。仕方なくまたその口まで運んでやると、無意識のように口を開けた。食べてからはっとしたようにアルミンが顔を上げる。小さな炎に照らされた頬が赤く見えた。
「早く寝ろよ」
「あ、ごめん、明るいよね」
「汗かいてるぞ。蝋燭が暑いんだろ」
「あ、うん……そうする」
アルミンはジャンから視線を外し、頬に手を当てた。暑さを忘れるほど読書に集中していたのだろうか。勉強家の気持ちは理解できねえな、思いながら立ち上がる。慌てたようにアルミンがジャンを見上げた。
「あの、オレンジ、ありがとう」
「……気まぐれだよ」
かわいく見えたのは炎の加減だろうか。それともやはり、暑さのせいかもしれない。体温を下げるはずのオレンジの効果もなくて、ベッドに横になってからしばらく、窓辺の蝋燭が気になって眠れなかった。
2013'09.02.Mon
「ミカサならジャンともお似合いね!」
そんな言葉を時々聞いた。
同じアカデミーで学ぶジャンというその男を、ミカサはよく知らなかった。幼なじみのエレンの喧嘩相手であること、貴族を目指す男であること、成績は優秀であること。その程度だ。強いてもうひとつ上げるのならば、アカデミーに入って初めてミカサに声をかけてきた男でもあった。
「きれいな黒髪だな」
その言葉に自分は何と答えただろうか。適当に社交辞令として礼ぐらいは言ったかもしれない。入学まで惰性で伸ばしていたその髪は、訓練の邪魔になるので切ってしまった。次にジャンに会ったときにはもう、誉めてもらった髪は短くなっていたはずだ。
この国は壁で守られている。その外は魔物がはびこる危険な世界だ。アカデミーで生き抜く術を学んだものは外へ行くことができる。ミカサは壁外に行きたいというエレンの昔からの夢につき合って入学を決めた。それはミカサ個人の目標がないと言うことでもある。エレンは時々鬱陶しそうにしているが、ミカサは無鉄砲なエレンを止めることが自分のするべきことだと思っていた。
アカデミーに入学する者の目標は壁の外だけではない。優秀な成績をおさめ、壁の外で成果をあげた者は貴族の地位を得ることができる。貴族に必要なものは栄光と、それを受け継ぐもの。つまりは後継者だ。よって新しく貴族の位に昇格したものは同時に伴侶を探し始め、すでに貴族であるものたちもまた同様に、子を成すと同時に良縁を探し始める。
幼い頃両親をなくしたミカサは、エレンの家族として引き取られた。公から見ると兄弟という扱いである。
ミカサ自身は興味はないが、貴族になるに十分な実力を持っていた。しかしそれはミカサの望むところではなく、なるのならばエレンを主とした貴族家系でなければ困る。しかし今の実力のままならば、評価をされるのはミカサの方が先になるだろう。だからミカサは、いつかそうなるより先に、結婚しようと思っていた。いつでもエレンのサポートに回ることができる位置にいることを許してくれる者と一緒になろうと。
「ジャン!またミカサに負けたのか」
「うるせえ」
仲間にからかわれて、ジャンはからからと笑い飛ばした。しかしそのあとふっと悔しそうな顔を見せたのを、離れていたミカサは見てしまう。あれはきっと、他人には見られたくない姿だろう。
「ミカサ、どうしたの?」
「いや……行こう」
幼なじみのアルミンに促され、ミカサはきびすを返した。
ジャンは貴族を目指す男だ。それは周知の事実で、エレンと揉めるきっかけになることも多い。どちらかが悪いということはなく、ただ考え方の違いだ。それを冷静に話し合えないだけだ。
ジャンが夫であれば、彼を制してミカサがエレンについていくことは可能だろう。そんなことを考える。
「ミカサは強いな」
そう言って笑う男は、心の中で何を考えているのだろう。自分を意識していることぐらいはわかる。ミカサとジャンが噂になっていることも知っているはずだ。正面切って、ふたりがいるところで話題にされたこともある。そのときもジャンは、笑い飛ばしただけだった。貴族になれてからの話だろう、と。
だからミカサは、いつかジャンと結婚するのだと思っていた。ジャンはこのままいけば貴族になるだろう。ミカサは自分が貴族になる気はない。エレンを立てるためには自分が貴族になることを避けなければならない。ミカサにはそういう生き方しかできなかった。
「アルミン、その本はどうしたの?」
「外に行きたいという話をしていたら、ジャンが貸してくれたんだ。ジャンの家は昔は貴族だったから、古い本が多いみたい。嬉しいな、図書館の本はあらかた読んでしまったから」
親しいのかと聞くと少し困った顔をした。しかし本を抱きしめたアルミンは嬉しそうだ。勤勉なアルミンはアルミンやエレンと違い、知識欲から壁の外に憧れている。よく学ぶから教師にも好かれ、学友にも頼りにされている。ジャンも頼っている姿を時々見かけた。エレンと喧嘩している様は気に食わないが、本当はもっと冷静な気のいい男なのだろう。
初めは、その程度だった。
自主連の最中、訓練に使っていた弓の弦が切れた。まだ練習を続けるつもりだったが断念し、ミカサは片づけを始める。
「おい、どうした」
「……ジャン」
通りかかったジャンに声をかけられて振り返る。とたんにぎょっと目を見開いたジャンが、慌てたようにハンカチを出してミカサの頬を押さえた。
「何?」
「何じゃねぇよ!切れてるぞ!」
「ああ……多分今、弦が」
「切れたのか。気をつけろよ。とりあえず医務室行ってこい」
「でも」
「片づけて置いてやるから。きれいな顔してるんだから、あんまり傷つけるな」
「……ありがとう」
素直にハンカチを押さえて場を離れる。医務室に行くと思っていた以上に傷は深いらしく、担当者が大慌てで治療をした。
こっぴどくしかられた後、訓練場に戻ってみるとまだジャンがそこにいる。声をかけると笑顔で弓を掲げて見せた。
「弦張っといた。使いにくければ調整する」
「ありがとう」
「……あれ、お前か?」
ジャンの視線の先を追うと、使っていた的がある。頷くとやや悔しげな顔をしたあと、お前にはかなわねえな、と笑った。
「お前らはすげえやつらだな。三人そろえば、壁の外をどこまででも行けそうだ」
「ジャンだって、とても優秀な生徒」
「まあ表面はな」
「……どういうこと?」
「最近は、もう貴族なんてのもどうでもいいんだ。元々親が強く言ってたことだしな」
「……もう、貴族にならないということ?」
「なれるならなるが、その後は知らん」
ジャンが矢を取り、直したばかりのミカサの弓を構える。その凛々しい姿と真摯な目は、貴族として兵を率いるのにふさわしい。そうなるべきだと、周りの誰もが思っているはずだ。ジャンなら兵を無駄死にさせないだろう。ジャンなら胸を張ることのできる成果をあげるだろう。ジャンなら、立派な夫に――
ジャンが放った弓は、中央を少しずれて的に当たった。震える弦の音を聞いて息を詰める。的を見つめるジャンが知らない人のように見えた。
「ちょっと張りすぎたか。いや、お前は変な癖もないし大丈夫か?まあ直すなら言ってくれ。あ、今日は休めよ!」
「ジャンは」
「んー?」
「貴族になるのだとばかり」
「……貴族になって、時々回ってくる魔物退治の順番の時だけいいとこ見せて、あとは毎日安全なところで遊んで暮らす。そういう生き方も、まあありだろうな」
それはジャンがずっと言っていたことだ。エレンとの喧嘩の原因でもある。ミカサが戸惑っている様子をジャンが笑った。
「お前、どうせ耳にタコができるぐらい聞いてんだろ?」
ジャンが語ったのは、アルミンが見たいと願う外の世界。くつくつと肩を揺らす男にただただ困惑する。こんな風に笑う男だっただろうか。
「あんなに無邪気だと、見せてやりたくなるじゃねえか」
そんなに無邪気に笑う男を、ミカサは知らない。
ジャンに何か変化が起こったことはすぐにわかった。アルミンを探すジャンと、ジャンから逃げるアルミンを見かけることが増えたのだ。アルミンに聞いても理由は教えてくれない。喧嘩をしたわけでもないようで、ミカサはさっぱり意味がわからなかった。
廊下の窓から見える中庭に、アルミンを見つけた。真っ赤になって俯いたアルミンに、木陰に隠れていた誰かが手を伸ばす。そっと触れただけでアルミンは弾かれたように顔を上げた。その口が開く。ジャン、
「ミカサ!どうした?」
「……なんでも」
エレンに呼ばれて窓に背を向ける。なぜだか脈が乱れた。それを隠して、食事に向かうエレンについていく。
「アルミン先に行くって言ってたけど、席取れてるかな」
「……さあ、また途中で先生に捕まっているかも」
「だよなー、いつもそうだもんな」
横目で見た窓の外に、もうアルミンの姿はなかった。
どうして私は、自分がジャンと結婚するのだと思っていたのだろうか。ミカサは誰にも言わず自問する。アルミンは依然ジャンから逃げていたが、距離が近づいているのは明白だった。
「好きだ」
どうしてジャンは、アルミンが好きになったんだろうか。どうして私は、隠れて告白を聞いているのだろうか。どうして私は、悲しいのだろうか。
震えるアルミンの声を最後まで聞けずに走り出した。ジャンに借りたハンカチを返せていないことが、頭から離れなかった。
そんな言葉を時々聞いた。
同じアカデミーで学ぶジャンというその男を、ミカサはよく知らなかった。幼なじみのエレンの喧嘩相手であること、貴族を目指す男であること、成績は優秀であること。その程度だ。強いてもうひとつ上げるのならば、アカデミーに入って初めてミカサに声をかけてきた男でもあった。
「きれいな黒髪だな」
その言葉に自分は何と答えただろうか。適当に社交辞令として礼ぐらいは言ったかもしれない。入学まで惰性で伸ばしていたその髪は、訓練の邪魔になるので切ってしまった。次にジャンに会ったときにはもう、誉めてもらった髪は短くなっていたはずだ。
この国は壁で守られている。その外は魔物がはびこる危険な世界だ。アカデミーで生き抜く術を学んだものは外へ行くことができる。ミカサは壁外に行きたいというエレンの昔からの夢につき合って入学を決めた。それはミカサ個人の目標がないと言うことでもある。エレンは時々鬱陶しそうにしているが、ミカサは無鉄砲なエレンを止めることが自分のするべきことだと思っていた。
アカデミーに入学する者の目標は壁の外だけではない。優秀な成績をおさめ、壁の外で成果をあげた者は貴族の地位を得ることができる。貴族に必要なものは栄光と、それを受け継ぐもの。つまりは後継者だ。よって新しく貴族の位に昇格したものは同時に伴侶を探し始め、すでに貴族であるものたちもまた同様に、子を成すと同時に良縁を探し始める。
幼い頃両親をなくしたミカサは、エレンの家族として引き取られた。公から見ると兄弟という扱いである。
ミカサ自身は興味はないが、貴族になるに十分な実力を持っていた。しかしそれはミカサの望むところではなく、なるのならばエレンを主とした貴族家系でなければ困る。しかし今の実力のままならば、評価をされるのはミカサの方が先になるだろう。だからミカサは、いつかそうなるより先に、結婚しようと思っていた。いつでもエレンのサポートに回ることができる位置にいることを許してくれる者と一緒になろうと。
「ジャン!またミカサに負けたのか」
「うるせえ」
仲間にからかわれて、ジャンはからからと笑い飛ばした。しかしそのあとふっと悔しそうな顔を見せたのを、離れていたミカサは見てしまう。あれはきっと、他人には見られたくない姿だろう。
「ミカサ、どうしたの?」
「いや……行こう」
幼なじみのアルミンに促され、ミカサはきびすを返した。
ジャンは貴族を目指す男だ。それは周知の事実で、エレンと揉めるきっかけになることも多い。どちらかが悪いということはなく、ただ考え方の違いだ。それを冷静に話し合えないだけだ。
ジャンが夫であれば、彼を制してミカサがエレンについていくことは可能だろう。そんなことを考える。
「ミカサは強いな」
そう言って笑う男は、心の中で何を考えているのだろう。自分を意識していることぐらいはわかる。ミカサとジャンが噂になっていることも知っているはずだ。正面切って、ふたりがいるところで話題にされたこともある。そのときもジャンは、笑い飛ばしただけだった。貴族になれてからの話だろう、と。
だからミカサは、いつかジャンと結婚するのだと思っていた。ジャンはこのままいけば貴族になるだろう。ミカサは自分が貴族になる気はない。エレンを立てるためには自分が貴族になることを避けなければならない。ミカサにはそういう生き方しかできなかった。
「アルミン、その本はどうしたの?」
「外に行きたいという話をしていたら、ジャンが貸してくれたんだ。ジャンの家は昔は貴族だったから、古い本が多いみたい。嬉しいな、図書館の本はあらかた読んでしまったから」
親しいのかと聞くと少し困った顔をした。しかし本を抱きしめたアルミンは嬉しそうだ。勤勉なアルミンはアルミンやエレンと違い、知識欲から壁の外に憧れている。よく学ぶから教師にも好かれ、学友にも頼りにされている。ジャンも頼っている姿を時々見かけた。エレンと喧嘩している様は気に食わないが、本当はもっと冷静な気のいい男なのだろう。
初めは、その程度だった。
自主連の最中、訓練に使っていた弓の弦が切れた。まだ練習を続けるつもりだったが断念し、ミカサは片づけを始める。
「おい、どうした」
「……ジャン」
通りかかったジャンに声をかけられて振り返る。とたんにぎょっと目を見開いたジャンが、慌てたようにハンカチを出してミカサの頬を押さえた。
「何?」
「何じゃねぇよ!切れてるぞ!」
「ああ……多分今、弦が」
「切れたのか。気をつけろよ。とりあえず医務室行ってこい」
「でも」
「片づけて置いてやるから。きれいな顔してるんだから、あんまり傷つけるな」
「……ありがとう」
素直にハンカチを押さえて場を離れる。医務室に行くと思っていた以上に傷は深いらしく、担当者が大慌てで治療をした。
こっぴどくしかられた後、訓練場に戻ってみるとまだジャンがそこにいる。声をかけると笑顔で弓を掲げて見せた。
「弦張っといた。使いにくければ調整する」
「ありがとう」
「……あれ、お前か?」
ジャンの視線の先を追うと、使っていた的がある。頷くとやや悔しげな顔をしたあと、お前にはかなわねえな、と笑った。
「お前らはすげえやつらだな。三人そろえば、壁の外をどこまででも行けそうだ」
「ジャンだって、とても優秀な生徒」
「まあ表面はな」
「……どういうこと?」
「最近は、もう貴族なんてのもどうでもいいんだ。元々親が強く言ってたことだしな」
「……もう、貴族にならないということ?」
「なれるならなるが、その後は知らん」
ジャンが矢を取り、直したばかりのミカサの弓を構える。その凛々しい姿と真摯な目は、貴族として兵を率いるのにふさわしい。そうなるべきだと、周りの誰もが思っているはずだ。ジャンなら兵を無駄死にさせないだろう。ジャンなら胸を張ることのできる成果をあげるだろう。ジャンなら、立派な夫に――
ジャンが放った弓は、中央を少しずれて的に当たった。震える弦の音を聞いて息を詰める。的を見つめるジャンが知らない人のように見えた。
「ちょっと張りすぎたか。いや、お前は変な癖もないし大丈夫か?まあ直すなら言ってくれ。あ、今日は休めよ!」
「ジャンは」
「んー?」
「貴族になるのだとばかり」
「……貴族になって、時々回ってくる魔物退治の順番の時だけいいとこ見せて、あとは毎日安全なところで遊んで暮らす。そういう生き方も、まあありだろうな」
それはジャンがずっと言っていたことだ。エレンとの喧嘩の原因でもある。ミカサが戸惑っている様子をジャンが笑った。
「お前、どうせ耳にタコができるぐらい聞いてんだろ?」
ジャンが語ったのは、アルミンが見たいと願う外の世界。くつくつと肩を揺らす男にただただ困惑する。こんな風に笑う男だっただろうか。
「あんなに無邪気だと、見せてやりたくなるじゃねえか」
そんなに無邪気に笑う男を、ミカサは知らない。
ジャンに何か変化が起こったことはすぐにわかった。アルミンを探すジャンと、ジャンから逃げるアルミンを見かけることが増えたのだ。アルミンに聞いても理由は教えてくれない。喧嘩をしたわけでもないようで、ミカサはさっぱり意味がわからなかった。
廊下の窓から見える中庭に、アルミンを見つけた。真っ赤になって俯いたアルミンに、木陰に隠れていた誰かが手を伸ばす。そっと触れただけでアルミンは弾かれたように顔を上げた。その口が開く。ジャン、
「ミカサ!どうした?」
「……なんでも」
エレンに呼ばれて窓に背を向ける。なぜだか脈が乱れた。それを隠して、食事に向かうエレンについていく。
「アルミン先に行くって言ってたけど、席取れてるかな」
「……さあ、また途中で先生に捕まっているかも」
「だよなー、いつもそうだもんな」
横目で見た窓の外に、もうアルミンの姿はなかった。
どうして私は、自分がジャンと結婚するのだと思っていたのだろうか。ミカサは誰にも言わず自問する。アルミンは依然ジャンから逃げていたが、距離が近づいているのは明白だった。
「好きだ」
どうしてジャンは、アルミンが好きになったんだろうか。どうして私は、隠れて告白を聞いているのだろうか。どうして私は、悲しいのだろうか。
震えるアルミンの声を最後まで聞けずに走り出した。ジャンに借りたハンカチを返せていないことが、頭から離れなかった。
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