言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2012'03.10.Sat
「富松くん、あとでまたお願いしてもいいかしら」
「この間おっしゃってたやつですね、大丈夫ですよ」
食堂のおばちゃんのお礼の言葉に笑顔を見せ、三年の富松作兵衛は机にやって来た。何気なくそれを見ていた尾浜の前しか席は開いておらず、一瞬躊躇したものの失礼します、とそこに座る。あまり関わることのない三年生を思わず珍しげに見ていると、富松は箸を手にしたまま口を動かせずにいた。
「あ、ごめん。何か取ってやろうとしてたわけじゃないから、食べていいよ」
「お前どんだけ食いしん坊キャラなんだよ。しんべヱ並みじゃねえか」
「そ、そういうわけじゃ」
尾浜の隣で竹谷が笑う。誤解を解こうと慌てた富松を落ち着かせ、尾浜も食事を続けた。富松もきちんと手を合わせて食べ始める。
「ねえ、さっきおばちゃんと話してたの、何?」
「え?」
「さっき言ってたじゃん。あとで、って」
「ああ、先日おばちゃんが困っていたので、鍋の取っ手を直したんです。また別のやつが壊れたそうなので、また直すことになって。用具委員で修理は得意になりましたから」
「あー、食満先輩のとこの」
「はい」
「修理委員会」
「よっ、用具委員会です!」
「あはは、ごめん!」
「お前なぁ、後輩いないからってからかうなよ」
「竹谷は世話になりすぎだよね」
「うるせー」
「あ、生物委員から預かってた虫籠も直ってます!あとで持って行きますので」
「あ、いいよいいよ。俺今から取りに行くわ、ありがとな。いやぁ自分らで直しゃいいんだろうけど、強度が違うんだよなぁ」
「ふうん」
手放しでほめる竹谷に富松は照れて顔を赤くした。間もなく食事を終えた竹谷はすぐに立ち上がり、離れたところにいた孫兵に声をかけて食堂を出ていく。活動の忙しい委員会は大変だなぁ、などと思いながら味噌汁をすすった。唇に豆腐が触れて、そのまま口腔に流し込む。豆腐と言えばの久々知兵助も、今日は委員会活動のきりがつかないとかでまだ姿を現していない。彼が来るころには味噌汁の具が少なくなっているのではないだろうか。
「あのさぁ、用具委員って忍具の修理もできる?」
「はい、程度にもよりますが、学校の練習用の手裏剣なんかも整備していますので」
「あとでおれの持って行ってもいい?食満先輩に聞いといてよ」
「わかりました!」
明るい笑顔とはきはきした笑顔に、なんとなくこちらがむず痒くなる。三年生ってこんなに純粋だったっけ?ひと学年下の去年までの姿のはずだが、現四先生はあの頃は既にあんなキャラクターをしてた。
「うーん、そりゃ孫兵がかわいく見えるよなぁ」
「何ですか?」
「こっちの話ー」
*
「こっちは終わり!しんべヱ、喜三太、平太と三人でこれを用具倉庫に片づけてきてくれ。しんべヱがいたら三人でも運べるな?」
「はーい!お腹いっぱいなので大丈夫でーす」
「よし、頼むぞ」
「「「はーい!」」」
おや、随分と「先輩」している。そんなことを思いながら、尾浜は万力鎖を手に用具委員に近づいた。足音で気づいた富松が慌てて寄ってくる。
「尾浜先輩すみません!今日食満先輩、学園長先生とお出かけなんです!」
「あー、うん。俺も途中で聞いたんだ」
「え?それなら」
「うん、でも富松で直せない?分銅が取れちゃったんだ」
「えっ……」
鎖の先と分銅を見せると、富松は困惑したように尾浜を見上げた。富松が何をためらうのかわからず首を傾げる。
「あ……あの、ぼくが武器を預かってもいいんですか……」
「ああ、そんなことか。いいよ」
はい、とつきだせば富松は慌てて手を出した。ひと回り小さい手に己の武器を渡すと、富松はごくんと喉を鳴らした。
そんなに気を張ることないのになぁ。こちらが申し訳なくなるほど緊張を見せられて尾浜は苦笑する。
「富松は真面目だなぁ」
「でも、その……食満先輩はご自分で手入れをなさるので」
「それは自分でできるからでしょー。自分でやろうにも道具もないし、こんな職人技芸おれは持ってないもん」
「でも、もしちゃんと直らなかったら」
「直るまでやってよ」
「……はぁ」
その声に力はない。どうしたものかと考えているところに、騒ぎながら一年生たちが戻ってくる。
「あー、尾浜先輩だー」
「尾浜先輩こんにちはー」
「何かご用ですか……」
「俺の武器修理してもらおうと思ったんだけど」
やっぱり食満先輩に頼むね、そう尾浜が言うより早く、一年生たちが目を輝かせる。
「これなんて言う武器ですかー!?」
「どうやって使うんですかー!?」
「触ってみてもいいですか?」
「ナメクジさんは」
「ナメクジ触った手では触るなよ」
「え〜」
「富松先輩が直すの見ててもいいですか?」
「ええっ?」
平太に袖を引かれ、富松は弾かれたように顔を上げた。万力鎖を手にしたまま驚いた顔の平太を見て、それからゆっくり尾浜を見る。どうするのだろうと黙っていると、ぐっと鎖を握った。
「わ……わかった!でもちょっと離れてろよ!」
「はーい!」
「おっ、頼んだぞー」
「うっ……」
笑いかけると富松はうなったが、すぐに準備に取り掛かった。修理していたらしい道具のそばには使いこんだ鍋があり、これが件の依頼の物なのだろう。直したあとなのか、どこが壊れていたのかわからない。
道具を手にして集中している富松を一年生たちと一緒に眺めながら、尾浜はその真摯な瞳に懐かしくなった。ひとつずつ、何かができるようになるのは面白い。誰かの成長を見るのも、きっと楽しいことだろう。
「富松先輩すごいなー」
「しんべヱたちだってできるようになるさ」
「なれるかなぁ」
「でっ、できました!」
「おー!ありがとう!」
富松に差し出された万力鎖を受け取って、距離を取ってくるくると回してみる。力を入れても分銅は落ちることはなさそうだ。
「助かったよ。明日手ぶらで実習行くところだった」
「えっ!」
「まぁなくてもいいんだけどさ、俺の場合半分お守りだし」
「お守り?」
「暗器なんて大体お守りだよ」
「……あの、今度、使い方教えてもらってもいいですか」
「ん?いいけど、何で?」
「……何ができるのか、わからなくて」
ああ、そうか。鎖をしまいながら富松に近づき、ぐいとその頭を撫でてやる。彼は来年、委員長代理になるのだ。
「いいよ、約束ね」
「あっ、ありがとうございます!」
無垢な姿を見ながら、思わず用具委員に入ろうかしら、などと思ったのは内緒だ。彼の思いに水を差すような真似はできない。
「おれさぁ、修理委員会でもいいと思うよ」
「え?」
「作るより、修理した方が早いだろ。忍者はきっとその方がいいよ」
「……そう、ですね」
複雑そうに、それでも富松は笑顔になった。
「この間おっしゃってたやつですね、大丈夫ですよ」
食堂のおばちゃんのお礼の言葉に笑顔を見せ、三年の富松作兵衛は机にやって来た。何気なくそれを見ていた尾浜の前しか席は開いておらず、一瞬躊躇したものの失礼します、とそこに座る。あまり関わることのない三年生を思わず珍しげに見ていると、富松は箸を手にしたまま口を動かせずにいた。
「あ、ごめん。何か取ってやろうとしてたわけじゃないから、食べていいよ」
「お前どんだけ食いしん坊キャラなんだよ。しんべヱ並みじゃねえか」
「そ、そういうわけじゃ」
尾浜の隣で竹谷が笑う。誤解を解こうと慌てた富松を落ち着かせ、尾浜も食事を続けた。富松もきちんと手を合わせて食べ始める。
「ねえ、さっきおばちゃんと話してたの、何?」
「え?」
「さっき言ってたじゃん。あとで、って」
「ああ、先日おばちゃんが困っていたので、鍋の取っ手を直したんです。また別のやつが壊れたそうなので、また直すことになって。用具委員で修理は得意になりましたから」
「あー、食満先輩のとこの」
「はい」
「修理委員会」
「よっ、用具委員会です!」
「あはは、ごめん!」
「お前なぁ、後輩いないからってからかうなよ」
「竹谷は世話になりすぎだよね」
「うるせー」
「あ、生物委員から預かってた虫籠も直ってます!あとで持って行きますので」
「あ、いいよいいよ。俺今から取りに行くわ、ありがとな。いやぁ自分らで直しゃいいんだろうけど、強度が違うんだよなぁ」
「ふうん」
手放しでほめる竹谷に富松は照れて顔を赤くした。間もなく食事を終えた竹谷はすぐに立ち上がり、離れたところにいた孫兵に声をかけて食堂を出ていく。活動の忙しい委員会は大変だなぁ、などと思いながら味噌汁をすすった。唇に豆腐が触れて、そのまま口腔に流し込む。豆腐と言えばの久々知兵助も、今日は委員会活動のきりがつかないとかでまだ姿を現していない。彼が来るころには味噌汁の具が少なくなっているのではないだろうか。
「あのさぁ、用具委員って忍具の修理もできる?」
「はい、程度にもよりますが、学校の練習用の手裏剣なんかも整備していますので」
「あとでおれの持って行ってもいい?食満先輩に聞いといてよ」
「わかりました!」
明るい笑顔とはきはきした笑顔に、なんとなくこちらがむず痒くなる。三年生ってこんなに純粋だったっけ?ひと学年下の去年までの姿のはずだが、現四先生はあの頃は既にあんなキャラクターをしてた。
「うーん、そりゃ孫兵がかわいく見えるよなぁ」
「何ですか?」
「こっちの話ー」
*
「こっちは終わり!しんべヱ、喜三太、平太と三人でこれを用具倉庫に片づけてきてくれ。しんべヱがいたら三人でも運べるな?」
「はーい!お腹いっぱいなので大丈夫でーす」
「よし、頼むぞ」
「「「はーい!」」」
おや、随分と「先輩」している。そんなことを思いながら、尾浜は万力鎖を手に用具委員に近づいた。足音で気づいた富松が慌てて寄ってくる。
「尾浜先輩すみません!今日食満先輩、学園長先生とお出かけなんです!」
「あー、うん。俺も途中で聞いたんだ」
「え?それなら」
「うん、でも富松で直せない?分銅が取れちゃったんだ」
「えっ……」
鎖の先と分銅を見せると、富松は困惑したように尾浜を見上げた。富松が何をためらうのかわからず首を傾げる。
「あ……あの、ぼくが武器を預かってもいいんですか……」
「ああ、そんなことか。いいよ」
はい、とつきだせば富松は慌てて手を出した。ひと回り小さい手に己の武器を渡すと、富松はごくんと喉を鳴らした。
そんなに気を張ることないのになぁ。こちらが申し訳なくなるほど緊張を見せられて尾浜は苦笑する。
「富松は真面目だなぁ」
「でも、その……食満先輩はご自分で手入れをなさるので」
「それは自分でできるからでしょー。自分でやろうにも道具もないし、こんな職人技芸おれは持ってないもん」
「でも、もしちゃんと直らなかったら」
「直るまでやってよ」
「……はぁ」
その声に力はない。どうしたものかと考えているところに、騒ぎながら一年生たちが戻ってくる。
「あー、尾浜先輩だー」
「尾浜先輩こんにちはー」
「何かご用ですか……」
「俺の武器修理してもらおうと思ったんだけど」
やっぱり食満先輩に頼むね、そう尾浜が言うより早く、一年生たちが目を輝かせる。
「これなんて言う武器ですかー!?」
「どうやって使うんですかー!?」
「触ってみてもいいですか?」
「ナメクジさんは」
「ナメクジ触った手では触るなよ」
「え〜」
「富松先輩が直すの見ててもいいですか?」
「ええっ?」
平太に袖を引かれ、富松は弾かれたように顔を上げた。万力鎖を手にしたまま驚いた顔の平太を見て、それからゆっくり尾浜を見る。どうするのだろうと黙っていると、ぐっと鎖を握った。
「わ……わかった!でもちょっと離れてろよ!」
「はーい!」
「おっ、頼んだぞー」
「うっ……」
笑いかけると富松はうなったが、すぐに準備に取り掛かった。修理していたらしい道具のそばには使いこんだ鍋があり、これが件の依頼の物なのだろう。直したあとなのか、どこが壊れていたのかわからない。
道具を手にして集中している富松を一年生たちと一緒に眺めながら、尾浜はその真摯な瞳に懐かしくなった。ひとつずつ、何かができるようになるのは面白い。誰かの成長を見るのも、きっと楽しいことだろう。
「富松先輩すごいなー」
「しんべヱたちだってできるようになるさ」
「なれるかなぁ」
「でっ、できました!」
「おー!ありがとう!」
富松に差し出された万力鎖を受け取って、距離を取ってくるくると回してみる。力を入れても分銅は落ちることはなさそうだ。
「助かったよ。明日手ぶらで実習行くところだった」
「えっ!」
「まぁなくてもいいんだけどさ、俺の場合半分お守りだし」
「お守り?」
「暗器なんて大体お守りだよ」
「……あの、今度、使い方教えてもらってもいいですか」
「ん?いいけど、何で?」
「……何ができるのか、わからなくて」
ああ、そうか。鎖をしまいながら富松に近づき、ぐいとその頭を撫でてやる。彼は来年、委員長代理になるのだ。
「いいよ、約束ね」
「あっ、ありがとうございます!」
無垢な姿を見ながら、思わず用具委員に入ろうかしら、などと思ったのは内緒だ。彼の思いに水を差すような真似はできない。
「おれさぁ、修理委員会でもいいと思うよ」
「え?」
「作るより、修理した方が早いだろ。忍者はきっとその方がいいよ」
「……そう、ですね」
複雑そうに、それでも富松は笑顔になった。
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2012'03.08.Thu
「そこ、違いません?」
「え?」
左近の声に顔を上げた数馬はぽかんと口を開けた間抜け面で、どうして保健委員の先輩ってこんな人ばかりなんだろう、と思わず思う。一年は組を「あほのは組」と呼んで馬鹿にすることはあるが、もしかして全学年共通で「は組」は「あほ」なのではないだろうか。
数馬が広げている宿題の項目を指すと数馬は間抜け面のまま左近と問題を見比べて、そして左近を見て首を傾げた。思わず苛立ちながらも、左近は数馬の正面に座る。
「そもそも忍びイロハを読み間違えてます!」
「うっそだぁ。いくら何でも三年生になって忍びイロハを間違うなんて」
笑い飛ばそうとした数馬を遮り、淡々と解説してやると黙り込む。数馬は何も言わずに筆をとって間違った文の上から線を引いた。何事もなかったかのように宿題を続ける数馬に向かってわざとらしく溜息をついてやる。数馬はそれに何の反応も様子も見せず、左近が来たときと変わらず頭を抱えてうんうんと宿題を続けていた。先輩としての矜持はないのだろうか。左近は呆れて立ち上がり、薬草を片づける作業に戻る。
「左近」
「どこかわからないところでも?」
「もうすぐ二年生は合宿に行くだろ。水渇丸を作ってもって行くといいよ」
「はい?」
「先生言ってなかった?あの合宿毎年保健委員が消えるんだ」
「消え……」
「ぼくは川に落ちて流された。伊作先輩はほら穴に落ちて上れなくなったって。大体交互らしいから、左近は水に困るんじゃない?水渇丸があれば水が尽きてもしばらくはもつから」
「……ぜんっぜんありがたくないアドバイスなんですけど」
「あとで一緒に作ろうね」
「……数馬先輩って、馬鹿なんですか?」
「え、何それ辛辣」
「ハナっから諦めてどうするんですか。保健委員が不運だって?そんなしょうもないことより気にすることはたくさんあるでしょう。不運だってただのアクシデント、乗り越えてこそ忍者です。そもそもせっかく保健委員という立場なんだから水渇丸も持って行くに決まってるじゃないですか」
一気に言いきると数馬はまたぽかんとして左近を見た。こちらが変なことを言ったような気になるのでやめてほしい。
「えーっと……左近って、ほんとに賢いんだね……」
「先輩がアホなんじゃないですか?」
「はは……」
へらっと笑う数馬から、左近はぷいと顔をそむけた。しかしその心中で、必死で作り方を反芻する。
左近は賢いなぁ、何度でも言う数馬が実は嫌みを言っているのではないかと疑いながら、左近はどうにか彼から正しい作り方を聞き出せないかと考えを巡らせた。
「え?」
左近の声に顔を上げた数馬はぽかんと口を開けた間抜け面で、どうして保健委員の先輩ってこんな人ばかりなんだろう、と思わず思う。一年は組を「あほのは組」と呼んで馬鹿にすることはあるが、もしかして全学年共通で「は組」は「あほ」なのではないだろうか。
数馬が広げている宿題の項目を指すと数馬は間抜け面のまま左近と問題を見比べて、そして左近を見て首を傾げた。思わず苛立ちながらも、左近は数馬の正面に座る。
「そもそも忍びイロハを読み間違えてます!」
「うっそだぁ。いくら何でも三年生になって忍びイロハを間違うなんて」
笑い飛ばそうとした数馬を遮り、淡々と解説してやると黙り込む。数馬は何も言わずに筆をとって間違った文の上から線を引いた。何事もなかったかのように宿題を続ける数馬に向かってわざとらしく溜息をついてやる。数馬はそれに何の反応も様子も見せず、左近が来たときと変わらず頭を抱えてうんうんと宿題を続けていた。先輩としての矜持はないのだろうか。左近は呆れて立ち上がり、薬草を片づける作業に戻る。
「左近」
「どこかわからないところでも?」
「もうすぐ二年生は合宿に行くだろ。水渇丸を作ってもって行くといいよ」
「はい?」
「先生言ってなかった?あの合宿毎年保健委員が消えるんだ」
「消え……」
「ぼくは川に落ちて流された。伊作先輩はほら穴に落ちて上れなくなったって。大体交互らしいから、左近は水に困るんじゃない?水渇丸があれば水が尽きてもしばらくはもつから」
「……ぜんっぜんありがたくないアドバイスなんですけど」
「あとで一緒に作ろうね」
「……数馬先輩って、馬鹿なんですか?」
「え、何それ辛辣」
「ハナっから諦めてどうするんですか。保健委員が不運だって?そんなしょうもないことより気にすることはたくさんあるでしょう。不運だってただのアクシデント、乗り越えてこそ忍者です。そもそもせっかく保健委員という立場なんだから水渇丸も持って行くに決まってるじゃないですか」
一気に言いきると数馬はまたぽかんとして左近を見た。こちらが変なことを言ったような気になるのでやめてほしい。
「えーっと……左近って、ほんとに賢いんだね……」
「先輩がアホなんじゃないですか?」
「はは……」
へらっと笑う数馬から、左近はぷいと顔をそむけた。しかしその心中で、必死で作り方を反芻する。
左近は賢いなぁ、何度でも言う数馬が実は嫌みを言っているのではないかと疑いながら、左近はどうにか彼から正しい作り方を聞き出せないかと考えを巡らせた。
2012'03.08.Thu
「どうしたの?」
声をかけると藤内はびくりと肩を揺らした。彼はそのまま硬直してしまう。綾部が隣にしゃがみこんで顔を覗きこむと、目を真っ赤に泣き腫らしていた。何を泣くことがあるのかわからないが、黙ったまま頭を撫でてやる。頭巾はどこへ遣ったのか髪も振り乱し、まだ幼い体全体を使って泣いている。
かわいい後輩をずっと撫でていると、やがて弱々しい力で手を振り払われた。
「だいッ……だいじょうぶ、です」
「何が?」
「……」
「撫でたいから撫でてるだけだよ」
「ぼく、ぼくはっ」
ひくっとしゃくりあげ、藤内はそれきり声を出せずにいる。装束は汚れ、強く握った手は傷だらけだ。
「藤内」
いつもの調子で名を呼ぶと、藤内は遂にわっと大声を上げて泣き出した。両手で顔を覆い、腹から唸り声を上げて泣きじゃくる。言葉にならない悲鳴を聞いて、綾部は背を撫でてやった。ゆっくりと、あたためてやるつもりで。
「藤内。できることとできないことがあるよね。その中で、頑張ればできることとか、頑張ってもできないこととかがあって、できないといけないこともあってさ、嫌いでもやらなきゃいけなかったり、好きでもやりたくない気分のときがあったり、色々でしょう」
綾部は自分の空いた手を見つめる。この手が一番よく働くのは、穴を掘るときだろう。それでもこの手は穴を掘るためだけの手にはなれない。きっとそれと同じことだ。
「できないことがあっても死にゃしないよ。方法変えたらできることもあるんだからさ」
ぐい、と後輩を抱きよせて、外界から守るように覆ってやる。綾部の胸の中で泣き続ける彼は、綾部を疎ましく思うのだろうか。それでも熱を抱きしめ続けた。藤内は日の光にあたためられた匂いがする。
少しずつ落ち着いてきた藤内が綾部の胸を押し、抵抗せずに離れた。恐る恐るといった体で綾部を見上げる藤内は涙で顔は汚れ、鼻水も出ている。自分の頭巾を取って顔を拭いてやろうとすると逃げられたが、無理やり布を顔に押しつけた。
「おしまい?」
「……綾部先輩は」
「何?」
「何ができませんか?」
汗と涙でよれよれの藤内を見て、思わず笑いをこぼした、途端に恥ずかしくなったらしい藤内が今度は羞恥で顔を赤くし、もういいです、と立ち上がろうとする。それを抱き込んで逃がさない。
「とりあえず今は、藤内を笑わせることができないよ!」
声をかけると藤内はびくりと肩を揺らした。彼はそのまま硬直してしまう。綾部が隣にしゃがみこんで顔を覗きこむと、目を真っ赤に泣き腫らしていた。何を泣くことがあるのかわからないが、黙ったまま頭を撫でてやる。頭巾はどこへ遣ったのか髪も振り乱し、まだ幼い体全体を使って泣いている。
かわいい後輩をずっと撫でていると、やがて弱々しい力で手を振り払われた。
「だいッ……だいじょうぶ、です」
「何が?」
「……」
「撫でたいから撫でてるだけだよ」
「ぼく、ぼくはっ」
ひくっとしゃくりあげ、藤内はそれきり声を出せずにいる。装束は汚れ、強く握った手は傷だらけだ。
「藤内」
いつもの調子で名を呼ぶと、藤内は遂にわっと大声を上げて泣き出した。両手で顔を覆い、腹から唸り声を上げて泣きじゃくる。言葉にならない悲鳴を聞いて、綾部は背を撫でてやった。ゆっくりと、あたためてやるつもりで。
「藤内。できることとできないことがあるよね。その中で、頑張ればできることとか、頑張ってもできないこととかがあって、できないといけないこともあってさ、嫌いでもやらなきゃいけなかったり、好きでもやりたくない気分のときがあったり、色々でしょう」
綾部は自分の空いた手を見つめる。この手が一番よく働くのは、穴を掘るときだろう。それでもこの手は穴を掘るためだけの手にはなれない。きっとそれと同じことだ。
「できないことがあっても死にゃしないよ。方法変えたらできることもあるんだからさ」
ぐい、と後輩を抱きよせて、外界から守るように覆ってやる。綾部の胸の中で泣き続ける彼は、綾部を疎ましく思うのだろうか。それでも熱を抱きしめ続けた。藤内は日の光にあたためられた匂いがする。
少しずつ落ち着いてきた藤内が綾部の胸を押し、抵抗せずに離れた。恐る恐るといった体で綾部を見上げる藤内は涙で顔は汚れ、鼻水も出ている。自分の頭巾を取って顔を拭いてやろうとすると逃げられたが、無理やり布を顔に押しつけた。
「おしまい?」
「……綾部先輩は」
「何?」
「何ができませんか?」
汗と涙でよれよれの藤内を見て、思わず笑いをこぼした、途端に恥ずかしくなったらしい藤内が今度は羞恥で顔を赤くし、もういいです、と立ち上がろうとする。それを抱き込んで逃がさない。
「とりあえず今は、藤内を笑わせることができないよ!」
2012'02.26.Sun
「保健委員いるか!」
荒々しく扉を開けて入ってきたのは、三年ろ組の神崎左門であった。同じうるさい生徒なら、三年生よりも一年生の方がまだましだ。おまけにこの神崎は人の話を聞かない。少なくとも左近のイメージではそうである。
神崎は決断力のある方向音痴として学園内では有名だ。その一因に、人の話を聞かないことにもあるのではないかと左近は思っている。道を教えられても何かに導かれるかのように方向転換をするなど、わざとでなければ馬鹿だ。今日の委員会の当番はもうすぐ交代だというのに、締めくくりにどうしてこんな珍獣が紛れ込んできたのだろう。もうずいぶん前から空腹で、交代次第すぐに食堂へ向かおうと思っていた。しかしこのまま負の連鎖が続けば、最悪の場合昼食を食いっぱぐれることになるだろう。
嫌々ながら、左近は神崎を見上げる。
「……何か」
「保健委員に用があるのは怪我をしたときだろう」
「ひっ!」
血まみれの肘を向けられて、左近は思わず悲鳴を上げた。よく見れば全身が汚れているが、何よりもその肘が一番ひどい。そこで転んで、と説明するのを聞かずに立ち上がり、肘を伝って血が落ちるのを見ながら医務室の外へ押し出した。廊下に残った赤い斑点にぞっとする。
「おい何をする」
「とにかく傷を洗います!」
「おお」
今初めて気づいたかのように左門は傷を見た。その傷のひどさに初めて気がついたのか、どきっとして身をすくめた。
「……これ、死ぬ?」
「死にません。とにかく井戸で傷を洗ってきて下さい!……じゃなかったッ、一緒に行きます!」
行きかけた背中を慌てて捕まえ、一緒に医務室を出た。井戸まで行くともう夕食時が近づいてきているせいか、誰の姿もない。痛い、痛いと繰り返す左門を見ていると逆に冷静になってきて、左近は淡々と水を汲んで傷を洗った。
「まったく、袖まで血がついてるじゃないですか」
「やばい、意識したらすごく痛い」
「知りません。うっわ、すごい傷」
「転んだところに木の根があったんだ」
「うわぁ……」
肘から手首にかけての派手な擦過傷だ。これはしばらく風呂に入るのも難儀だろう。血が浮き上がらないうちに青白い顔をした左門を引っ張り、医務室に連れ帰る。普段迷子を引っ張っている同級生の三年や、委員会の先輩である四年の姿を見ているが、自分が迷子の手を引くことになるとは思わなかった。さっきまでいた医務室へ戻るだけだと言うのに逆方向へ向かいだすので、焦って腕を引く。もし自分が級友だったら、さっさと見捨てているだろう。
医務室に戻ってしまえば神崎は大人しい。借りてきた猫のような神崎を見ながら、治療の用意をする。そわそわと落ち着かない様子の左門だが、左近に治療されている間は黙ってそれを見ている。ぽかん、と口を開けて凝視してくるので、左近の方が落ち着かない。
「……はい、これでいいですよ」
「おお!」
「しばらくは入浴のとき気をつけて下さい。あとはこまめに包帯を変えて下さいね。数馬先輩にでもやってもらって下さい」
「わかった。さすが保健委員だな」
「……保健委員ですから」
本当ならもう交代の伊作が来ていてもいい時間だが遅れているようだ。どうせどこかで不運に引っかかっているのだろう。運が悪かったのだ。空腹を抱えても、もう嘆く気にもならない。
「ははっ!いいなぁ、私も委員会に二年生の後輩がいたらよかったのに」
「どういう意味ですか」
「かわいいじゃないか」
ぐしゃり、と頭を撫でられて、すぐさまそれを叩き落とす。神崎はさっきまでの青白い顔をどこへしまったのか、ひどく楽しげであった。
「ばっ……ばかにすんな!」
「左近遅くなってごめん〜、どうしたの〜?」
「わーっ!」
顔を出した伊作ものんきな顔をしているが、その手は血に濡れて、患部らしい腕を押さえている。さっきそこで転んじゃって、と言う伊作に、神崎もお揃いですね、などと言いながら包帯の巻かれた腕を見せた。
「あ、左近がやったの?包帯巻くのうまくなったねえ」
「そんなこと言ってるバヤイですかっ!まず傷口を洗ってきて下さいっ」
「いやでも、左近お腹すいたでしょ」
「怪我の治療が先ですッ」
伊作を引っ張って医務室を出る。伊作が苦笑しながらそれについていった。
「川西ィー!」
「はーい!?」
背中から声を掛けられて振り返れば、神崎がまだ医務室の前から手を振っている。
「今から食堂行くから、ランチ取っておいてやるよ!」
「ほっ、ほんとですかっ!?」
「治療のお礼だ!」
「おっ……お願いします!」
「よかったねー」
思わず顔をほころばせる左近に伊作が微笑み、はっとして頬を引き締める。しかし伊作は見ちゃったもんね、と笑った。
「保健委員も悪いもんじゃないだろ?」
「……ふん!」
――結局、食堂に辿りつけていなかった神崎と一緒におばちゃんに握り飯をねだることになるのだが、そのことを左近はまだ知らなかった。
荒々しく扉を開けて入ってきたのは、三年ろ組の神崎左門であった。同じうるさい生徒なら、三年生よりも一年生の方がまだましだ。おまけにこの神崎は人の話を聞かない。少なくとも左近のイメージではそうである。
神崎は決断力のある方向音痴として学園内では有名だ。その一因に、人の話を聞かないことにもあるのではないかと左近は思っている。道を教えられても何かに導かれるかのように方向転換をするなど、わざとでなければ馬鹿だ。今日の委員会の当番はもうすぐ交代だというのに、締めくくりにどうしてこんな珍獣が紛れ込んできたのだろう。もうずいぶん前から空腹で、交代次第すぐに食堂へ向かおうと思っていた。しかしこのまま負の連鎖が続けば、最悪の場合昼食を食いっぱぐれることになるだろう。
嫌々ながら、左近は神崎を見上げる。
「……何か」
「保健委員に用があるのは怪我をしたときだろう」
「ひっ!」
血まみれの肘を向けられて、左近は思わず悲鳴を上げた。よく見れば全身が汚れているが、何よりもその肘が一番ひどい。そこで転んで、と説明するのを聞かずに立ち上がり、肘を伝って血が落ちるのを見ながら医務室の外へ押し出した。廊下に残った赤い斑点にぞっとする。
「おい何をする」
「とにかく傷を洗います!」
「おお」
今初めて気づいたかのように左門は傷を見た。その傷のひどさに初めて気がついたのか、どきっとして身をすくめた。
「……これ、死ぬ?」
「死にません。とにかく井戸で傷を洗ってきて下さい!……じゃなかったッ、一緒に行きます!」
行きかけた背中を慌てて捕まえ、一緒に医務室を出た。井戸まで行くともう夕食時が近づいてきているせいか、誰の姿もない。痛い、痛いと繰り返す左門を見ていると逆に冷静になってきて、左近は淡々と水を汲んで傷を洗った。
「まったく、袖まで血がついてるじゃないですか」
「やばい、意識したらすごく痛い」
「知りません。うっわ、すごい傷」
「転んだところに木の根があったんだ」
「うわぁ……」
肘から手首にかけての派手な擦過傷だ。これはしばらく風呂に入るのも難儀だろう。血が浮き上がらないうちに青白い顔をした左門を引っ張り、医務室に連れ帰る。普段迷子を引っ張っている同級生の三年や、委員会の先輩である四年の姿を見ているが、自分が迷子の手を引くことになるとは思わなかった。さっきまでいた医務室へ戻るだけだと言うのに逆方向へ向かいだすので、焦って腕を引く。もし自分が級友だったら、さっさと見捨てているだろう。
医務室に戻ってしまえば神崎は大人しい。借りてきた猫のような神崎を見ながら、治療の用意をする。そわそわと落ち着かない様子の左門だが、左近に治療されている間は黙ってそれを見ている。ぽかん、と口を開けて凝視してくるので、左近の方が落ち着かない。
「……はい、これでいいですよ」
「おお!」
「しばらくは入浴のとき気をつけて下さい。あとはこまめに包帯を変えて下さいね。数馬先輩にでもやってもらって下さい」
「わかった。さすが保健委員だな」
「……保健委員ですから」
本当ならもう交代の伊作が来ていてもいい時間だが遅れているようだ。どうせどこかで不運に引っかかっているのだろう。運が悪かったのだ。空腹を抱えても、もう嘆く気にもならない。
「ははっ!いいなぁ、私も委員会に二年生の後輩がいたらよかったのに」
「どういう意味ですか」
「かわいいじゃないか」
ぐしゃり、と頭を撫でられて、すぐさまそれを叩き落とす。神崎はさっきまでの青白い顔をどこへしまったのか、ひどく楽しげであった。
「ばっ……ばかにすんな!」
「左近遅くなってごめん〜、どうしたの〜?」
「わーっ!」
顔を出した伊作ものんきな顔をしているが、その手は血に濡れて、患部らしい腕を押さえている。さっきそこで転んじゃって、と言う伊作に、神崎もお揃いですね、などと言いながら包帯の巻かれた腕を見せた。
「あ、左近がやったの?包帯巻くのうまくなったねえ」
「そんなこと言ってるバヤイですかっ!まず傷口を洗ってきて下さいっ」
「いやでも、左近お腹すいたでしょ」
「怪我の治療が先ですッ」
伊作を引っ張って医務室を出る。伊作が苦笑しながらそれについていった。
「川西ィー!」
「はーい!?」
背中から声を掛けられて振り返れば、神崎がまだ医務室の前から手を振っている。
「今から食堂行くから、ランチ取っておいてやるよ!」
「ほっ、ほんとですかっ!?」
「治療のお礼だ!」
「おっ……お願いします!」
「よかったねー」
思わず顔をほころばせる左近に伊作が微笑み、はっとして頬を引き締める。しかし伊作は見ちゃったもんね、と笑った。
「保健委員も悪いもんじゃないだろ?」
「……ふん!」
――結局、食堂に辿りつけていなかった神崎と一緒におばちゃんに握り飯をねだることになるのだが、そのことを左近はまだ知らなかった。
2012'02.22.Wed
「陣さん、おいでってば!もう、ドア閉めちゃうよ」
左近が呼んでも黒猫はふいと尻尾を振るだけで、屋根の上から下りてこようとしなかった。寒い中、母親のつっかけで出てきた左近は足から冷えてきて、くそう、と猫を睨みつける。
「もー、ほんとに玄関閉めちゃうからね!ここ閉めたらどこからも入れないよ!」
真っ黒な猫はちら、と左近を振り返った。ようやく降りる気になったかと思いきや、更に屋根を上り尻尾の端しか見えなくなる。あの野郎、と今度こそ見捨てて家へ戻ろうとすると、ただいま、と声がかかって振り返った。背の高いスーツの男が、ぽんと左近の頭を叩く。
「どうしたんだい、寒いのに外でお出迎え?左近がそんなにお父さんのことを好きだったとは知らなかった」
「違う」
「傷つくなー」
「陣さんが屋根から下りてこないんだ」
ふうん、と屋根を見上げたのは父親だ。左近は不機嫌を隠さず、連れてきてね、と玄関へ向かう。その背中を笑いながら、父親は屋根に向かって手を伸ばした。
「陣左、おいで」
なぁん、と甘えるような鳴き声で父親を迎え、黒猫はしなやかに彼の肩へ飛び降りた。よしよし、とその獣を撫でながら、猫を連れて戻ってくる父親を左近は仏頂面で待つ。
「ただいまー」
「お帰りなさいー」
父親が部屋の奥へ叫ぶと、母親は声だけで返した。左近は鍵をかけ、すぐに玄関に上がって父親の鞄を受け取る。その肩に落ち着く黒猫を睨みつけることを忘れない。
「お前がお父さんのことが好きなのはわかったから、家の中で待っててくれない?」
「かわいいじゃない、ねえ」
父親が額を寄せると猫も擦りついていく。好きなだけどうぞ、とげとげしく言葉を残し、父親の鞄を振り回しながら左近はキッチンへ向かった。
「お母さんごめんー、陣さんやっと入って来た」
「いいのよ、ありがとう」
「すぐ手伝うから」
「お父さん!毛がつくから早く着替えなよ!」
「はいはい。陣左、お前こんなに冷たくなって」
「いちゃいちゃすんのは後!」
「はいはい。左近は怖いよねー」
「何とでもッ」
ぷい、と猫と父親からは顔をそむけ、左近は夕食の支度を手伝った。
*
「おやすみなさい」
「おやすみ」
リビングで映画を見る両親に声をかける。明日の朝は早いから、いつもより早い就寝だ。左近の足音に反応したのか、今まで父親の膝でまどろんでいた陣左が体を起こす。くああ、と大きな口であくびをしながら体を伸ばし、ゆっくり左近の方へ向かってきた。
「陣さんももう寝る?出してくれって言わないでよ」
返事ともつかぬ鳴き声が返ってきて、左近はふう、と息を吐く。父親が一番好きなくせに、どうして寝るときは左近の部屋がいいのだろう。左近が階段を上がりだすとトットッと軽快な足音をさせて先に上がり切り、ドアの前で大人しく座って待っている。中に入れると部屋中をぐるぐると回りはじめたが、いつものことなので気にしない。明日の用意や目覚まし時計の時間を確認して、左近は豆電球だけを残してベッドに潜り込む。
「陣さん」
声をかけると部屋の隅を見ていた猫は振り返り、静かにベッドに歩み寄って来た。身軽にベッドに飛び上がり、左近の顔に近づいてくる。布団を持ち上げてやるとするりと布団の中へ入り込んだ。つややかな毛はいつの間にか冷えていて、寒くない?と聞きながら撫でてやる。左近にぴたりと体を寄せて、猫は場所を決めて落ち着いた。布団の中を覗いてみても、真っ黒な猫はその輪郭も曖昧だ。
どうも今日はうまく体が収まらないのか、猫は体を起こして何度か位置を変えた。まどろみ始めた左近の顔へ寄ってくるので、抱き寄せて小さな額に唇を当てる。ぐるぐると喉を鳴らし、ざらついた舌が顎を舐めた。
「おやすみ、陣さん」
小さな前足が腕を踏むのも気にせずに、左近は静かに目を閉じた。
左近が呼んでも黒猫はふいと尻尾を振るだけで、屋根の上から下りてこようとしなかった。寒い中、母親のつっかけで出てきた左近は足から冷えてきて、くそう、と猫を睨みつける。
「もー、ほんとに玄関閉めちゃうからね!ここ閉めたらどこからも入れないよ!」
真っ黒な猫はちら、と左近を振り返った。ようやく降りる気になったかと思いきや、更に屋根を上り尻尾の端しか見えなくなる。あの野郎、と今度こそ見捨てて家へ戻ろうとすると、ただいま、と声がかかって振り返った。背の高いスーツの男が、ぽんと左近の頭を叩く。
「どうしたんだい、寒いのに外でお出迎え?左近がそんなにお父さんのことを好きだったとは知らなかった」
「違う」
「傷つくなー」
「陣さんが屋根から下りてこないんだ」
ふうん、と屋根を見上げたのは父親だ。左近は不機嫌を隠さず、連れてきてね、と玄関へ向かう。その背中を笑いながら、父親は屋根に向かって手を伸ばした。
「陣左、おいで」
なぁん、と甘えるような鳴き声で父親を迎え、黒猫はしなやかに彼の肩へ飛び降りた。よしよし、とその獣を撫でながら、猫を連れて戻ってくる父親を左近は仏頂面で待つ。
「ただいまー」
「お帰りなさいー」
父親が部屋の奥へ叫ぶと、母親は声だけで返した。左近は鍵をかけ、すぐに玄関に上がって父親の鞄を受け取る。その肩に落ち着く黒猫を睨みつけることを忘れない。
「お前がお父さんのことが好きなのはわかったから、家の中で待っててくれない?」
「かわいいじゃない、ねえ」
父親が額を寄せると猫も擦りついていく。好きなだけどうぞ、とげとげしく言葉を残し、父親の鞄を振り回しながら左近はキッチンへ向かった。
「お母さんごめんー、陣さんやっと入って来た」
「いいのよ、ありがとう」
「すぐ手伝うから」
「お父さん!毛がつくから早く着替えなよ!」
「はいはい。陣左、お前こんなに冷たくなって」
「いちゃいちゃすんのは後!」
「はいはい。左近は怖いよねー」
「何とでもッ」
ぷい、と猫と父親からは顔をそむけ、左近は夕食の支度を手伝った。
*
「おやすみなさい」
「おやすみ」
リビングで映画を見る両親に声をかける。明日の朝は早いから、いつもより早い就寝だ。左近の足音に反応したのか、今まで父親の膝でまどろんでいた陣左が体を起こす。くああ、と大きな口であくびをしながら体を伸ばし、ゆっくり左近の方へ向かってきた。
「陣さんももう寝る?出してくれって言わないでよ」
返事ともつかぬ鳴き声が返ってきて、左近はふう、と息を吐く。父親が一番好きなくせに、どうして寝るときは左近の部屋がいいのだろう。左近が階段を上がりだすとトットッと軽快な足音をさせて先に上がり切り、ドアの前で大人しく座って待っている。中に入れると部屋中をぐるぐると回りはじめたが、いつものことなので気にしない。明日の用意や目覚まし時計の時間を確認して、左近は豆電球だけを残してベッドに潜り込む。
「陣さん」
声をかけると部屋の隅を見ていた猫は振り返り、静かにベッドに歩み寄って来た。身軽にベッドに飛び上がり、左近の顔に近づいてくる。布団を持ち上げてやるとするりと布団の中へ入り込んだ。つややかな毛はいつの間にか冷えていて、寒くない?と聞きながら撫でてやる。左近にぴたりと体を寄せて、猫は場所を決めて落ち着いた。布団の中を覗いてみても、真っ黒な猫はその輪郭も曖昧だ。
どうも今日はうまく体が収まらないのか、猫は体を起こして何度か位置を変えた。まどろみ始めた左近の顔へ寄ってくるので、抱き寄せて小さな額に唇を当てる。ぐるぐると喉を鳴らし、ざらついた舌が顎を舐めた。
「おやすみ、陣さん」
小さな前足が腕を踏むのも気にせずに、左近は静かに目を閉じた。
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