言い訳置き場
言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。
2012'06.05.Tue
この間桜が散ったばかりのような気がするが、日中はずいぶんと気温が上がり、季節は夏へと近づいている。久々知はまだ朝夕が冷えるこの時期が好きだった。部屋の戸を開け放ち、冷えた風に目を細める。昼間走り回って熱を持った体が癒されるようだ。疲労した体の火照りは嫌いではないが、冷やされる感覚が心地よい。
風に体をさらしていると音もなく蛇が部屋に侵入してきた。その赤い体には見覚えがある。
「じゅんこ」
名を呼ぶとまるで理解しているかのように、蛇は久々知の方へ這ってくる。彼女は三年生の伊賀崎孫兵の最愛のペットだ。ペットというには深すぎる愛情かもしれない。のばした手に触れたじゅんこの体は少しひやりとしていた。
「長い散歩だな。お前の捜索のせいで、おれの鍛錬相手は約束破って行っちまったよ」
足がないのに散歩とはこれ如何に、などと思いながらじゅんこの頭を指先で撫で、そのまま頭を捕まえる。じゅんこは身をよじらせたが、久々知はお構いなしに淑女を掴んだまま立ち上がった。彼女の主は今頃泣いているかもしれない。
長い尾で叩かれながら、宛もないのでとりあえず生物小屋に向かう。勘は当たったようで、小屋の前では捜索に疲れたらしい一年生たちが互いに寄りかかるようにしゃがみこみ、竹谷が水を配っているところだった。孫兵は少し離れたところで膝に顔を押し当ててうずくまっている。
「これ以上は遅くなるから、お前らはここで解散な」
「でも、じゅんこは……」
「と言うより、伊賀崎先輩が」
心配げな孫次郎に口を挟んだ三次郎は、やや大人びた感じで孫兵を見た。体を小さくしたまま身動きをしない孫兵に竹谷も苦笑するだけだ。きっと尽くせる手はすべて試した後なのだろう。まったく、罪な女だ。ちらと腕に巻き付くじゅんこを見遣るが、表情などわかるはずもない。ただ、濡れた瞳と目が合った気がするだけだ。
久々知はわざと足を擦るように、地面を鳴らしながら近づいていく。こちらを見た竹谷は眉を下げたが、すぐにじゅんこに気がついてぱっと顔を明るくした。
「孫兵!じゅんこ見つかったぞ!」
「!」
がばっと顔を上げた孫兵は、まるで知っていたかのように、広い視界から一瞬でじゅんこを見つけ出す。そうかと思った瞬間には久々知の腕にすがるようにじゅんこを抱きしめていた。ここまで自分の存在を排除されるといっそ清々しい。元より礼を期待していたわけではないので、じゅんこごと孫兵を引き剥がした。孫兵は熱い抱擁を交わし、愛をささやいている。一年生たちはほっとした後、怒ることもなくけらけら笑っていた。よい子たちだ。
「兵助!悪いな」
「探したわけじゃない。部屋で涼んでたら入ってきたんだ」
「長屋か?いっぺん探したんだけどな……よし!一年たちは解散!手ェ洗って飯食えよ!」
「「はぁ〜い!」」
素直に挨拶をした後、一年生は芋が転がるように元気よく帰っていく。竹谷は自分たちの世界に浸っている孫兵にも声をかけ、背中を押して帰らせた。その姿に呆れて久々知が溜息をついたが、竹谷は肩を揺らして笑っている。
「お人好しって言いたいんだろ」
「当たり前だ。委員会総出で甘やかして」
「まあまあ、埋め合わせはちゃんとするからさ」
「手伝い賃もつけてもらおうか」
「え?」
「どうせ、生物小屋の掃除も終わってないんだろ」
「……このお人好しィ」
「うるせえ」
にやにやする竹谷をねめつけて、久々知は手を突き出した。軽快な足取りで道具を取りに行った竹谷は箒を掴んでさっと戻ってきて、久々知にそれを押しつける。
「おれ菜園行ってくるから、小屋頼んだ!」
「全部はしないぞ」
「わかってる!」
身を翻して行ってしまう竹谷の背を追い、久々知は苦笑する。本人は損な性格だと思っていないのだろう。
「忍者にするには難アリだな」
「俺は小屋の外やるから、勘ちゃんは小屋の中な」
「いやいや、ここは兵助さんが中でしょ」
音もなく現れた尾浜が久々知の脇をつつく。特に反応もせず小屋に近づき、中を覗きこむ。大半が孫兵のペットである、毒虫たちがかすかに蠢いていた。
「意外とかわいいじゃないか」
「おれは人間の女の子がいい。そして今はそれ以上に食堂のおばちゃんに会いたい」
「おれも腹減った。外頼んだよ」
「はいはい。夕食何かな〜」
久々知はかんぬきを開けて小屋の中に入る。それぞれ個室にいる毒虫たちに視線を巡らせ、先ほど掴んだ蛇の感触を思い出した。鋭い瞳は何かを語るようで、孫兵ならそれがわかるのだろうか。
「……蛇、な」
かわいいかもしれない。口にしてもいないのに、そばのさそりに威嚇をされた。
風に体をさらしていると音もなく蛇が部屋に侵入してきた。その赤い体には見覚えがある。
「じゅんこ」
名を呼ぶとまるで理解しているかのように、蛇は久々知の方へ這ってくる。彼女は三年生の伊賀崎孫兵の最愛のペットだ。ペットというには深すぎる愛情かもしれない。のばした手に触れたじゅんこの体は少しひやりとしていた。
「長い散歩だな。お前の捜索のせいで、おれの鍛錬相手は約束破って行っちまったよ」
足がないのに散歩とはこれ如何に、などと思いながらじゅんこの頭を指先で撫で、そのまま頭を捕まえる。じゅんこは身をよじらせたが、久々知はお構いなしに淑女を掴んだまま立ち上がった。彼女の主は今頃泣いているかもしれない。
長い尾で叩かれながら、宛もないのでとりあえず生物小屋に向かう。勘は当たったようで、小屋の前では捜索に疲れたらしい一年生たちが互いに寄りかかるようにしゃがみこみ、竹谷が水を配っているところだった。孫兵は少し離れたところで膝に顔を押し当ててうずくまっている。
「これ以上は遅くなるから、お前らはここで解散な」
「でも、じゅんこは……」
「と言うより、伊賀崎先輩が」
心配げな孫次郎に口を挟んだ三次郎は、やや大人びた感じで孫兵を見た。体を小さくしたまま身動きをしない孫兵に竹谷も苦笑するだけだ。きっと尽くせる手はすべて試した後なのだろう。まったく、罪な女だ。ちらと腕に巻き付くじゅんこを見遣るが、表情などわかるはずもない。ただ、濡れた瞳と目が合った気がするだけだ。
久々知はわざと足を擦るように、地面を鳴らしながら近づいていく。こちらを見た竹谷は眉を下げたが、すぐにじゅんこに気がついてぱっと顔を明るくした。
「孫兵!じゅんこ見つかったぞ!」
「!」
がばっと顔を上げた孫兵は、まるで知っていたかのように、広い視界から一瞬でじゅんこを見つけ出す。そうかと思った瞬間には久々知の腕にすがるようにじゅんこを抱きしめていた。ここまで自分の存在を排除されるといっそ清々しい。元より礼を期待していたわけではないので、じゅんこごと孫兵を引き剥がした。孫兵は熱い抱擁を交わし、愛をささやいている。一年生たちはほっとした後、怒ることもなくけらけら笑っていた。よい子たちだ。
「兵助!悪いな」
「探したわけじゃない。部屋で涼んでたら入ってきたんだ」
「長屋か?いっぺん探したんだけどな……よし!一年たちは解散!手ェ洗って飯食えよ!」
「「はぁ〜い!」」
素直に挨拶をした後、一年生は芋が転がるように元気よく帰っていく。竹谷は自分たちの世界に浸っている孫兵にも声をかけ、背中を押して帰らせた。その姿に呆れて久々知が溜息をついたが、竹谷は肩を揺らして笑っている。
「お人好しって言いたいんだろ」
「当たり前だ。委員会総出で甘やかして」
「まあまあ、埋め合わせはちゃんとするからさ」
「手伝い賃もつけてもらおうか」
「え?」
「どうせ、生物小屋の掃除も終わってないんだろ」
「……このお人好しィ」
「うるせえ」
にやにやする竹谷をねめつけて、久々知は手を突き出した。軽快な足取りで道具を取りに行った竹谷は箒を掴んでさっと戻ってきて、久々知にそれを押しつける。
「おれ菜園行ってくるから、小屋頼んだ!」
「全部はしないぞ」
「わかってる!」
身を翻して行ってしまう竹谷の背を追い、久々知は苦笑する。本人は損な性格だと思っていないのだろう。
「忍者にするには難アリだな」
「俺は小屋の外やるから、勘ちゃんは小屋の中な」
「いやいや、ここは兵助さんが中でしょ」
音もなく現れた尾浜が久々知の脇をつつく。特に反応もせず小屋に近づき、中を覗きこむ。大半が孫兵のペットである、毒虫たちがかすかに蠢いていた。
「意外とかわいいじゃないか」
「おれは人間の女の子がいい。そして今はそれ以上に食堂のおばちゃんに会いたい」
「おれも腹減った。外頼んだよ」
「はいはい。夕食何かな〜」
久々知はかんぬきを開けて小屋の中に入る。それぞれ個室にいる毒虫たちに視線を巡らせ、先ほど掴んだ蛇の感触を思い出した。鋭い瞳は何かを語るようで、孫兵ならそれがわかるのだろうか。
「……蛇、な」
かわいいかもしれない。口にしてもいないのに、そばのさそりに威嚇をされた。
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2012'05.11.Fri
「竹谷いるかっ!?」
「買い出し行ってまーす。どうぞ〜」
店員は七松の顔も見ず、慣れた態度でカウンターの端を案内した。七松は狭いカウンターを一瞥し、ネクタイを外しながらそこに収まる。狭く小さい立ち飲みの居酒屋だが、いつ来ても客がいないということはない。カウンターに寄りかかっていると先ほどの店員がお絞りを差し出してくる。
「すいませ〜ん、もう戻ってくると思うんで。今日のおすすめは冷や奴です」
「じゃあそれといつもの」
「はぁい。冷や奴入りまーす」
「よろこんでーッ!」
奥からの返事に常連客は肩を揺らして笑う。姿はないが、返事をしたのはこの店の「豆腐担当」だ。注文を取った不破も楽しげに笑いながら、七松にいつもの酒を出す。
「ハチ、すぐ戻ると思いますから」
「ん」
「上はどうですか?」
「いつも通りだ」
「なら長居できませんねぇ。早く帰ってくるといいんですけど」
不破は店の外に顔を向けた。営業中は開け放してあり、サラリーマンが行き交っているのが見える。
七松はこの上の階で仲間と共にバーを経営している。自分の店の静けさや雰囲気は嫌いではないが向いておらず、休憩中にはついこの狭い居酒屋へ来てしまう。――その目的は、酒ばかりではないのだが。
手酌でちびちび飲んでいると賑やかな声がと共にのれんが上がった。
「竹谷せんぱぁい!」
「はいはい、ほら着くまでって言ったろ」
「一緒に飲みましょーよぉ」
「あのな〜、俺は仕事中なの〜」
七松の待ち人が帰ってきたようだ。しかし彼を取り囲むように4人の酔っ払いがつきまとっている。竹谷はまんざらでもなさそうで、へらへら笑いながら腕にまとわりつく人間を引きはがしている。竹谷は店を見回し、七松と目があって会釈をした。軽く手を挙げて返すが、竹谷は忙しそうだ。カウンターに席の空きがないのを見て、机を出しにいく。引き連れていた4人をそこに案内し、竹谷は買ってきたものを手にカウンターに入った。
「へいお待ち」
七松の前にきたのは「豆腐担当」の久々知だった。この店のおすすめメニューは常に豆腐料理であり、それは必ず彼が作っているらしい。反対側で飲んでいたふたり連れの女性がそわそわしているのも頷ける、いわゆる「イケメン」と呼べる顔立ちだ。ただし女性の視線もそっちのけで、七松に差し出した冷や奴によだれを垂らさんばかりに緩んだ表情をしている。
「今日は材料も環境もすべてかんっぺきに整ってかつてないほど美しくかつ舌触りも風味も最高級の豆腐ができました!酔っぱらい客に出すのももったいない、しかし酔った舌でもおっと思えるほど素晴らしい弾力のこの豆腐は醤油だけでシンプルに、味わってほしいけれどいっそがばっと行ってほしいほどの素晴らしい豆腐です」
「うんそれはいいんだけどさ、あれ誰?」
「……」
「あそこの4人」
「はぁ……ハチの後輩ですよ。最近みんな二十歳になったんで、そのうちそろって来るとは言ってましたね」
「ふーん……」
「で、今日の豆腐なんですけど」
「なんか刺身くれ」
「……はい」
久々知は顔をしかめて下がっていった。カウンターから出ていった竹谷がそれぞれにグラスを渡し、自分も一緒に乾杯をしている。
「何あれ楽しそう」
「会うの久しぶりですからねえ」
不破が持ってきた皿を前に置いた。きれいに切られた刺身が並んでいるが、どうにも食欲が湧かなかった。ちまちま酒を飲みつつ様子を見ていると竹谷はカウンターと机を行き来して、忙しそうにはしているが楽しそうだ。普段店ではあまりみない無邪気な表情が、あまり面白くない。久々知の自慢の豆腐もかきこむように食べてしまい、残りの酒も胃袋に流し込む。味はほとんどわからない。
「おあいそっ」
「あいっありがとうございますっ!」
不破が小さなメモを差し出した。書かれた金額を机において、七松はカウンターを離れる。竹谷は後輩たちと盛り上がっていて、七松には気づいていない。それに恨めしげな視線を向けて、七松はのれんをくぐった。
もう日中は半袖でも過ごせそうなほどだが、夜はまだ少し冷える。七松は袖のボタンを留めながら階段を上がった。細くスタイリッシュな手すりは使ったことがない。ほとんどを自分たちの手で作ったという1階の立ち飲み屋と違い、この店はデザインから金がかかっている。仕事というよりもはや道楽とばかりに、店長の立花がそうした。経理を担当している潮江は店がお披露目されたときに言いきれなかった文句を未だにこぼす。
静かに店内に滑り込む。薄暗い店内にはふたり客がいて、ネクタイを締め直しながら会釈だけしてカウンターに入り、バックルームでベストを着る。客前でみっともない格好をするな、と中にいた潮江に小言を言われたが、気にせず軽く髪を撫でつけてカウンターに出た。
「こんばんは」
「こんばんは。七松くん今日入ってたんだ」
「ええ。ちょっとお久しぶりですか?」
「ずっとすれ違ってたみたい。久しぶりに七松くんが作る甘いカクテルもらおうかなぁ」
「苦手なこと知ってていうんだから、意地悪ですよね」
先にカウンターにいた伊作からこっそりとさっきまで飲んでいた酒を聞き、できるだけ違うものを手に取る。甘い酒は自分の舌に合わないので苦手だ。竹谷の選ぶ、きりっとした清酒が飲みたい。
常連客の好みを思いだそうとしたが結局わからず、気分で作ることにする。伊作が溜息をついたが聞こえないふりだ。伊作が静かに話をしながら間をもたせている間に、カクテルを作り上げる。
「どうぞ」
「ありがと。――あら」
ひと口飲んで、客は驚いたように七松を見た。
「何か?」
「柑橘系なんて珍しい。七松くんの甘いお酒って言ったらベリー一択なのに」
「……そうですか?」
「七松くんはいつもそうよ。でもおいしい」
「ありがとうございます」
笑ってみせると笑い返され、それ以上の追求はない。大人の世界というやつだ。
今日の仕事はラストまで。すなわち、午前3時の閉店までだ。実際のところ女性客が中心のこのバーは終電と共に客足はほぼ途絶え、最終電車を逃した酔っ払いや訳アリの客などがたまに現れる程度だ。下の立ち飲みがもう少し長く営業していれば客足もまた違うのだろうが、そこは12時で閉店する。
七松は最後の客を見送り、まだ明かりの漏れている立ち飲み屋を見下ろす。看板はしまわれていたが、先ほど聞いた後輩の声がまだ竹谷を捕まえているようだ。
「小平太、ぼくも上がるからあとはよろしく」
「おう。駅の階段で転けんなよ」
「はは……」
取り澄ました笑顔の伊作が、臀部にあざを隠していたことに誰も気がつかなかっただろう。不思議なことに仕事中にへまをすることはないが、彼の日常は不運と切っても切れないただならぬ仲だ。
「……片づけるか」
階下の楽しげな声から逃げるように店に戻った。食器の片づけをだらだらとやりながら、開封したつまみを食べつつ少しだけ飲んだ。
もう1時間もしたら帰ろうと思った頃、ドアが開く音がする。慌てて姿見を覗いて服を直した。静かな客だ。酔いつぶれた人間ではなさそうである。
何でもないふりでバックルームを出て、七松は己の目を疑った。ドアの前に立っているのは、仕事を終えたらしい竹谷だった。いつも頭に巻いているバンダナもなく、よれたTシャツもいつものよりはましである。竹谷も目を丸くして七松を見て、ふっと笑った。
「びっくりした。七松さんですよね」
「え、うん」
「やっぱかっこいーなー、バーテン。まだやってます?」
「……どうぞ」
「ははっ」
竹谷は楽しげに七松の正面の席に腰掛けた。高いスツールに座る姿は見えないが、想像して妙な気分になる。
「七松さんがネクタイきっちり締めてるの初めて見たかも」
「仕事中はきっちりするさ」
「へえ」
「どうしたんだ。こっちに来ることなんかなかったじゃないか」
「ん?いやー、さっき七松さんの顔ちらっと見たのに話はしなかったら、なんかすっきりしなくて。ちょっとつきあって下さいよ」
「……」
いつもと変わらない表情で笑う竹谷に、なんと言っていいかわからない。捕まえようとしたら逃げるくせに、まるで離さないとばかりに機嫌を取りに来る。――これほど店内の暗さに感謝したことはない。きっと自分の顔は赤いだろう。
「あれ?ダメっすか?」
「……いいよ。何飲む?」
「お任せで」
「……じゃあとびっきり、甘いやつ」
「買い出し行ってまーす。どうぞ〜」
店員は七松の顔も見ず、慣れた態度でカウンターの端を案内した。七松は狭いカウンターを一瞥し、ネクタイを外しながらそこに収まる。狭く小さい立ち飲みの居酒屋だが、いつ来ても客がいないということはない。カウンターに寄りかかっていると先ほどの店員がお絞りを差し出してくる。
「すいませ〜ん、もう戻ってくると思うんで。今日のおすすめは冷や奴です」
「じゃあそれといつもの」
「はぁい。冷や奴入りまーす」
「よろこんでーッ!」
奥からの返事に常連客は肩を揺らして笑う。姿はないが、返事をしたのはこの店の「豆腐担当」だ。注文を取った不破も楽しげに笑いながら、七松にいつもの酒を出す。
「ハチ、すぐ戻ると思いますから」
「ん」
「上はどうですか?」
「いつも通りだ」
「なら長居できませんねぇ。早く帰ってくるといいんですけど」
不破は店の外に顔を向けた。営業中は開け放してあり、サラリーマンが行き交っているのが見える。
七松はこの上の階で仲間と共にバーを経営している。自分の店の静けさや雰囲気は嫌いではないが向いておらず、休憩中にはついこの狭い居酒屋へ来てしまう。――その目的は、酒ばかりではないのだが。
手酌でちびちび飲んでいると賑やかな声がと共にのれんが上がった。
「竹谷せんぱぁい!」
「はいはい、ほら着くまでって言ったろ」
「一緒に飲みましょーよぉ」
「あのな〜、俺は仕事中なの〜」
七松の待ち人が帰ってきたようだ。しかし彼を取り囲むように4人の酔っ払いがつきまとっている。竹谷はまんざらでもなさそうで、へらへら笑いながら腕にまとわりつく人間を引きはがしている。竹谷は店を見回し、七松と目があって会釈をした。軽く手を挙げて返すが、竹谷は忙しそうだ。カウンターに席の空きがないのを見て、机を出しにいく。引き連れていた4人をそこに案内し、竹谷は買ってきたものを手にカウンターに入った。
「へいお待ち」
七松の前にきたのは「豆腐担当」の久々知だった。この店のおすすめメニューは常に豆腐料理であり、それは必ず彼が作っているらしい。反対側で飲んでいたふたり連れの女性がそわそわしているのも頷ける、いわゆる「イケメン」と呼べる顔立ちだ。ただし女性の視線もそっちのけで、七松に差し出した冷や奴によだれを垂らさんばかりに緩んだ表情をしている。
「今日は材料も環境もすべてかんっぺきに整ってかつてないほど美しくかつ舌触りも風味も最高級の豆腐ができました!酔っぱらい客に出すのももったいない、しかし酔った舌でもおっと思えるほど素晴らしい弾力のこの豆腐は醤油だけでシンプルに、味わってほしいけれどいっそがばっと行ってほしいほどの素晴らしい豆腐です」
「うんそれはいいんだけどさ、あれ誰?」
「……」
「あそこの4人」
「はぁ……ハチの後輩ですよ。最近みんな二十歳になったんで、そのうちそろって来るとは言ってましたね」
「ふーん……」
「で、今日の豆腐なんですけど」
「なんか刺身くれ」
「……はい」
久々知は顔をしかめて下がっていった。カウンターから出ていった竹谷がそれぞれにグラスを渡し、自分も一緒に乾杯をしている。
「何あれ楽しそう」
「会うの久しぶりですからねえ」
不破が持ってきた皿を前に置いた。きれいに切られた刺身が並んでいるが、どうにも食欲が湧かなかった。ちまちま酒を飲みつつ様子を見ていると竹谷はカウンターと机を行き来して、忙しそうにはしているが楽しそうだ。普段店ではあまりみない無邪気な表情が、あまり面白くない。久々知の自慢の豆腐もかきこむように食べてしまい、残りの酒も胃袋に流し込む。味はほとんどわからない。
「おあいそっ」
「あいっありがとうございますっ!」
不破が小さなメモを差し出した。書かれた金額を机において、七松はカウンターを離れる。竹谷は後輩たちと盛り上がっていて、七松には気づいていない。それに恨めしげな視線を向けて、七松はのれんをくぐった。
もう日中は半袖でも過ごせそうなほどだが、夜はまだ少し冷える。七松は袖のボタンを留めながら階段を上がった。細くスタイリッシュな手すりは使ったことがない。ほとんどを自分たちの手で作ったという1階の立ち飲み屋と違い、この店はデザインから金がかかっている。仕事というよりもはや道楽とばかりに、店長の立花がそうした。経理を担当している潮江は店がお披露目されたときに言いきれなかった文句を未だにこぼす。
静かに店内に滑り込む。薄暗い店内にはふたり客がいて、ネクタイを締め直しながら会釈だけしてカウンターに入り、バックルームでベストを着る。客前でみっともない格好をするな、と中にいた潮江に小言を言われたが、気にせず軽く髪を撫でつけてカウンターに出た。
「こんばんは」
「こんばんは。七松くん今日入ってたんだ」
「ええ。ちょっとお久しぶりですか?」
「ずっとすれ違ってたみたい。久しぶりに七松くんが作る甘いカクテルもらおうかなぁ」
「苦手なこと知ってていうんだから、意地悪ですよね」
先にカウンターにいた伊作からこっそりとさっきまで飲んでいた酒を聞き、できるだけ違うものを手に取る。甘い酒は自分の舌に合わないので苦手だ。竹谷の選ぶ、きりっとした清酒が飲みたい。
常連客の好みを思いだそうとしたが結局わからず、気分で作ることにする。伊作が溜息をついたが聞こえないふりだ。伊作が静かに話をしながら間をもたせている間に、カクテルを作り上げる。
「どうぞ」
「ありがと。――あら」
ひと口飲んで、客は驚いたように七松を見た。
「何か?」
「柑橘系なんて珍しい。七松くんの甘いお酒って言ったらベリー一択なのに」
「……そうですか?」
「七松くんはいつもそうよ。でもおいしい」
「ありがとうございます」
笑ってみせると笑い返され、それ以上の追求はない。大人の世界というやつだ。
今日の仕事はラストまで。すなわち、午前3時の閉店までだ。実際のところ女性客が中心のこのバーは終電と共に客足はほぼ途絶え、最終電車を逃した酔っ払いや訳アリの客などがたまに現れる程度だ。下の立ち飲みがもう少し長く営業していれば客足もまた違うのだろうが、そこは12時で閉店する。
七松は最後の客を見送り、まだ明かりの漏れている立ち飲み屋を見下ろす。看板はしまわれていたが、先ほど聞いた後輩の声がまだ竹谷を捕まえているようだ。
「小平太、ぼくも上がるからあとはよろしく」
「おう。駅の階段で転けんなよ」
「はは……」
取り澄ました笑顔の伊作が、臀部にあざを隠していたことに誰も気がつかなかっただろう。不思議なことに仕事中にへまをすることはないが、彼の日常は不運と切っても切れないただならぬ仲だ。
「……片づけるか」
階下の楽しげな声から逃げるように店に戻った。食器の片づけをだらだらとやりながら、開封したつまみを食べつつ少しだけ飲んだ。
もう1時間もしたら帰ろうと思った頃、ドアが開く音がする。慌てて姿見を覗いて服を直した。静かな客だ。酔いつぶれた人間ではなさそうである。
何でもないふりでバックルームを出て、七松は己の目を疑った。ドアの前に立っているのは、仕事を終えたらしい竹谷だった。いつも頭に巻いているバンダナもなく、よれたTシャツもいつものよりはましである。竹谷も目を丸くして七松を見て、ふっと笑った。
「びっくりした。七松さんですよね」
「え、うん」
「やっぱかっこいーなー、バーテン。まだやってます?」
「……どうぞ」
「ははっ」
竹谷は楽しげに七松の正面の席に腰掛けた。高いスツールに座る姿は見えないが、想像して妙な気分になる。
「七松さんがネクタイきっちり締めてるの初めて見たかも」
「仕事中はきっちりするさ」
「へえ」
「どうしたんだ。こっちに来ることなんかなかったじゃないか」
「ん?いやー、さっき七松さんの顔ちらっと見たのに話はしなかったら、なんかすっきりしなくて。ちょっとつきあって下さいよ」
「……」
いつもと変わらない表情で笑う竹谷に、なんと言っていいかわからない。捕まえようとしたら逃げるくせに、まるで離さないとばかりに機嫌を取りに来る。――これほど店内の暗さに感謝したことはない。きっと自分の顔は赤いだろう。
「あれ?ダメっすか?」
「……いいよ。何飲む?」
「お任せで」
「……じゃあとびっきり、甘いやつ」
2012'05.03.Thu
「はい」
「……」
「何か?」
「いえ。ありがとうございま〜す」
雑渡昆奈門、の文字から目を離し、小松田は入門表を胸に抱いた。ずっと変わらない自分の仕事を終えて、保健室へ向かう雑渡の背中を見送る。
――あの人がすんなりサインをする日が来るなんて、思っても見なかったなぁ。
前世の自分が唯一サインをもらうことができなかったのが、タソガレドキ忍者隊組頭、その名も雑渡昆奈門であった。前世では包帯まみれであったあの人も、生まれ変わった今では大けがも知らず五体満足で過ごせているようだ。相も変わらず「すごい人」であることに違いはないようだが、小松田から見れば女子高生に入れ込んでいるただの変態中年である。時代が変われば生き方も変わるのだな、と思いながらも、自分は前世の記憶を抱え、昔と同じ道しか歩けない。
前世の自分は学校の事務員をしていた。生まれ変わった今でも、学校の用務員をしている。事務員ではないのは、昔と比べると生徒数や書類の種類が多すぎて、処理しきれなかったからである。へっぽこと呼ばれていた己の性格は、生まれ変わった今でも変わらない。今していることは掃除や花壇の手入れ、そして来校者のサインをもらうこと。
「小松田くん」
「はいはい、いらっしゃーい」
もう来るだろうと思っていた。高坂を振り返り、小松田は入門表を差し出す。そこにある名前を見て、やっぱりここか、と高坂は顔をしかめた。
前世の彼もまた、雑渡の部下であった。全く気配を感じさせなかった雑渡と違い、彼が学園に入ったときは必ず見つけだしてサインをもらっていた。しかしほとんどの場合、彼は中へは入ってこなかった。壁の上から中の様子をさぐっているだけの場合が多かったように思う。ひとりで来ていることもあったが、何をしていたのかは知らない。小松田の仕事はサインをもらうだけである。
サインをした高坂は雑渡を追っていった。果たして今は、何をしに来ているのだろう。
「さーて、プランター洗わなきゃ」
花壇に植えていた花の植え換えだ。授業で花壇を使うらしい。まだきれいに咲いている花を抜いてしまうのは忍びなく、プランターに植え換えることにしたのだ。
作業をしているとまたひとり、客が帰っていくようだ。
「あ、いたいた。小松田くん!」
「はぁい」
呼ばれて振り返る。立っていたのはスーツ姿の若い男だ。いわゆる「イケメン」と呼ばれるような顔立ちで、爽やかな笑顔は学園の女子生徒の憧れの的である。山田利吉。この学園の教師の息子だ。父親に話がある、と学園にやってきたのは、1時間ほど前だろうか。
「お話は済みましたか?」
「ええ、もう帰ります。出門表にサインをしに」
「それはわざわざどうも。えーっと……」
小松田は立ち上がったが、土で汚れた両手を見た。利吉が笑う。今は大学に通っていると聞いた。そこでもさぞかしもてるのだろう。
「そこの鞄にありますから、出して書いてもらっていいですか」
「わかりました」
利吉が鞄を開ける間に、小松田は慌てて手を洗う。ベルトに引っかけたタオルで手を拭い、サインを終えた利吉から出門表を受け取った。ボールペンの細い線が作る名前をじっと眺める。
「そういえば、この間の文化祭で侵入者が出たんですってね。入れちゃだめじゃないですか」
「ちゃんとサインして入った方ですよ」
「小松田くんは真面目なのかなんなのか」
「怪しいなら怪しいって言ってくれなきゃわかりません」
「ははっ」
利吉と会話をするたびに、小松田は言い表せない虚しさを覚える。姿形は昔と変わらないのに、この人には昔の記憶がない。昔はこの人よく小松田の失敗を怒ったり呆れたりしていたが、生まれ変わってからはそんな顔を見たことがなかった。人当たりのいいさわやかな笑みを絶やさず、常に優しく接してくれる。他の誰かにはこう接していたのだろうか。あんな意地悪な姿は、演技だったのかもしれない。あちらこちらへと飛び回る、とても優秀な忍者であった。
「そうだ、忘れるところだった。学園長先生が小松田くんを探してましたよ」
「また雑用ですかねぇ」
「何をおっしゃいます。小松田くんは優秀な忍者ではないですか」
「はぁ、まぁ、不思議と現代ではそうなるんですよねー」
あなたの方が優秀だったんですよ、とぼやくように言うと利吉は首を傾げた。きっと彼は前世で才能を使いきってしまったのだ。プランターの花を覗き込む彼は年相応の学生で、危険な仕事はひとつもしない。家庭教師のアルバイトをしながら、時々父親の顔を見に来るだけだ。――もう何年、それを見ているのだろう。
利吉のポケットで携帯がが鳴り、それを取り出してディスプレイを見た彼が顔をほころばせた。幸せそうな笑みを向けた相手は、将来を約束した彼女だろう。
「――利吉さん、もう1カ所、サインいただけますか?」
「かまいませんけど、何のサインですか?」
「出門表のサインです」
*
筆で書かれた「山田利吉」のサインは昔と全く同じであった。これでようやく、小松田の前世は終わった。
――必ずサインをしにくるからと、約束して飛び出していった姿は追わなかった。彼が約束をしたのは最初で最後で、小松田はずっと待っていた。小松田はほうきが握れなくなるまで、ずっと忍術学園で待っていた。いよいよ立ち上がることもままならず実家に帰るときにも、山田利吉が来たら必ず出門表にサインをもらうようにと残った者に言い聞かせた。死ぬまで、山田利吉のサインをもらわなかったことを悔いていた。――否、死んでもなお、悔いている。
利吉に筆を渡したときの困惑した顔を思い出す。それでも文句も言わずにサインをした利吉は、小松田がサインをしてほしい利吉ではなかった。しかしその人にはもらうことができないのだから仕方がない。
小松田は、自分がほんとうにほしかったものがサインではないことを知っている。
「小松田さん、裏山の件なんですが……」
用務員室に入ってきた土井が、小松田の手元を見て言葉を切った。ボールペンと筆の字が並んでいる。
「……小松田さん、あなた記憶が」
「今日でもう、忘れます」
「……利吉くんはきっと、君が許してくれると思ったんだろうね」
「あの人はいつも、面倒くさそうにサインをしていましたから、きっと逃げきったつもりなんです。そうはいきませんよ、ぼくは地獄の果てまで追いかけますから。――これでやり残したことはおしまいです。ぼくもきちんと、今を生きます。裏山の演習の件ですよね、関係各所への報告は済んでいます」
「ありがとう。……前世でこれほど仕事ができれば、利吉くんといい友達になれただろうに」
「友達なんて。――サインをもらうだけで、よかったんですよ」
「……」
「何か?」
「いえ。ありがとうございま〜す」
雑渡昆奈門、の文字から目を離し、小松田は入門表を胸に抱いた。ずっと変わらない自分の仕事を終えて、保健室へ向かう雑渡の背中を見送る。
――あの人がすんなりサインをする日が来るなんて、思っても見なかったなぁ。
前世の自分が唯一サインをもらうことができなかったのが、タソガレドキ忍者隊組頭、その名も雑渡昆奈門であった。前世では包帯まみれであったあの人も、生まれ変わった今では大けがも知らず五体満足で過ごせているようだ。相も変わらず「すごい人」であることに違いはないようだが、小松田から見れば女子高生に入れ込んでいるただの変態中年である。時代が変われば生き方も変わるのだな、と思いながらも、自分は前世の記憶を抱え、昔と同じ道しか歩けない。
前世の自分は学校の事務員をしていた。生まれ変わった今でも、学校の用務員をしている。事務員ではないのは、昔と比べると生徒数や書類の種類が多すぎて、処理しきれなかったからである。へっぽこと呼ばれていた己の性格は、生まれ変わった今でも変わらない。今していることは掃除や花壇の手入れ、そして来校者のサインをもらうこと。
「小松田くん」
「はいはい、いらっしゃーい」
もう来るだろうと思っていた。高坂を振り返り、小松田は入門表を差し出す。そこにある名前を見て、やっぱりここか、と高坂は顔をしかめた。
前世の彼もまた、雑渡の部下であった。全く気配を感じさせなかった雑渡と違い、彼が学園に入ったときは必ず見つけだしてサインをもらっていた。しかしほとんどの場合、彼は中へは入ってこなかった。壁の上から中の様子をさぐっているだけの場合が多かったように思う。ひとりで来ていることもあったが、何をしていたのかは知らない。小松田の仕事はサインをもらうだけである。
サインをした高坂は雑渡を追っていった。果たして今は、何をしに来ているのだろう。
「さーて、プランター洗わなきゃ」
花壇に植えていた花の植え換えだ。授業で花壇を使うらしい。まだきれいに咲いている花を抜いてしまうのは忍びなく、プランターに植え換えることにしたのだ。
作業をしているとまたひとり、客が帰っていくようだ。
「あ、いたいた。小松田くん!」
「はぁい」
呼ばれて振り返る。立っていたのはスーツ姿の若い男だ。いわゆる「イケメン」と呼ばれるような顔立ちで、爽やかな笑顔は学園の女子生徒の憧れの的である。山田利吉。この学園の教師の息子だ。父親に話がある、と学園にやってきたのは、1時間ほど前だろうか。
「お話は済みましたか?」
「ええ、もう帰ります。出門表にサインをしに」
「それはわざわざどうも。えーっと……」
小松田は立ち上がったが、土で汚れた両手を見た。利吉が笑う。今は大学に通っていると聞いた。そこでもさぞかしもてるのだろう。
「そこの鞄にありますから、出して書いてもらっていいですか」
「わかりました」
利吉が鞄を開ける間に、小松田は慌てて手を洗う。ベルトに引っかけたタオルで手を拭い、サインを終えた利吉から出門表を受け取った。ボールペンの細い線が作る名前をじっと眺める。
「そういえば、この間の文化祭で侵入者が出たんですってね。入れちゃだめじゃないですか」
「ちゃんとサインして入った方ですよ」
「小松田くんは真面目なのかなんなのか」
「怪しいなら怪しいって言ってくれなきゃわかりません」
「ははっ」
利吉と会話をするたびに、小松田は言い表せない虚しさを覚える。姿形は昔と変わらないのに、この人には昔の記憶がない。昔はこの人よく小松田の失敗を怒ったり呆れたりしていたが、生まれ変わってからはそんな顔を見たことがなかった。人当たりのいいさわやかな笑みを絶やさず、常に優しく接してくれる。他の誰かにはこう接していたのだろうか。あんな意地悪な姿は、演技だったのかもしれない。あちらこちらへと飛び回る、とても優秀な忍者であった。
「そうだ、忘れるところだった。学園長先生が小松田くんを探してましたよ」
「また雑用ですかねぇ」
「何をおっしゃいます。小松田くんは優秀な忍者ではないですか」
「はぁ、まぁ、不思議と現代ではそうなるんですよねー」
あなたの方が優秀だったんですよ、とぼやくように言うと利吉は首を傾げた。きっと彼は前世で才能を使いきってしまったのだ。プランターの花を覗き込む彼は年相応の学生で、危険な仕事はひとつもしない。家庭教師のアルバイトをしながら、時々父親の顔を見に来るだけだ。――もう何年、それを見ているのだろう。
利吉のポケットで携帯がが鳴り、それを取り出してディスプレイを見た彼が顔をほころばせた。幸せそうな笑みを向けた相手は、将来を約束した彼女だろう。
「――利吉さん、もう1カ所、サインいただけますか?」
「かまいませんけど、何のサインですか?」
「出門表のサインです」
*
筆で書かれた「山田利吉」のサインは昔と全く同じであった。これでようやく、小松田の前世は終わった。
――必ずサインをしにくるからと、約束して飛び出していった姿は追わなかった。彼が約束をしたのは最初で最後で、小松田はずっと待っていた。小松田はほうきが握れなくなるまで、ずっと忍術学園で待っていた。いよいよ立ち上がることもままならず実家に帰るときにも、山田利吉が来たら必ず出門表にサインをもらうようにと残った者に言い聞かせた。死ぬまで、山田利吉のサインをもらわなかったことを悔いていた。――否、死んでもなお、悔いている。
利吉に筆を渡したときの困惑した顔を思い出す。それでも文句も言わずにサインをした利吉は、小松田がサインをしてほしい利吉ではなかった。しかしその人にはもらうことができないのだから仕方がない。
小松田は、自分がほんとうにほしかったものがサインではないことを知っている。
「小松田さん、裏山の件なんですが……」
用務員室に入ってきた土井が、小松田の手元を見て言葉を切った。ボールペンと筆の字が並んでいる。
「……小松田さん、あなた記憶が」
「今日でもう、忘れます」
「……利吉くんはきっと、君が許してくれると思ったんだろうね」
「あの人はいつも、面倒くさそうにサインをしていましたから、きっと逃げきったつもりなんです。そうはいきませんよ、ぼくは地獄の果てまで追いかけますから。――これでやり残したことはおしまいです。ぼくもきちんと、今を生きます。裏山の演習の件ですよね、関係各所への報告は済んでいます」
「ありがとう。……前世でこれほど仕事ができれば、利吉くんといい友達になれただろうに」
「友達なんて。――サインをもらうだけで、よかったんですよ」
2012'05.03.Thu
「竹谷八左ヱ門、これ学園長先生から」
「へ?」
突き出された某大学の名前の入った封筒に竹谷は目を丸くした。その様子に、それを持ってきた土井が苦笑する。
「話は聞いてないのかい?」
「何も」
「ここを受験するように、とのことだ。話は通ってるが体裁としてオープンキャンパスへの参加と受験を」
「え、コネってことですか?」
口を挟んだ久々知に土井は肩を揺らす。参考書を手にした久々知には気の毒な話だが、ここは世間を忍ぶ『忍術学園』だ。内部なりの事情がある。
「あの、おれほんとに何も聞かされてないんですけど」
「生物委員だ。お前の代で手を広げすぎたから、他の誰にも手に負えない。いいか、留年も許されないからな。きっちり4年で教員免許を持って戻ってこいというお達しだ」
「えー!おれもう高卒でペットショップの正社にでもしてもらえりゃ十分なんですけど」
「それは学園長先生に直談判するんだな」
「うへぇ」
「先生おれは何かないんですか」
「兵助ほど力があるやつには救済の必要がないからなぁ」
「ずるい」
「戻ってきて教師やるか?」
「……」
久々知が眉をひそめ、土井は笑って肩を叩いた。不満げな生徒を残し、教師は何事もなかったかのように去っていく。
「げぇ〜、教師かぁ」
顔をしかめる竹谷を見て、尾浜が笑いながら近づいていく。勘ちゃんどう思う、としかめっ面の久々知も笑い飛ばし、いいんじゃない、とあっさり返した。
「だって竹谷はしょうがないよ、元々卒業後も学園の元で働くって約束してたんだからさ」
「でもさ〜、は〜、教師か〜。めっちゃペットショップに居残る気だったぜ」
「生物委員がんばりすぎたのがいけなかったねぇ」
「おれじゃなくてほとんど伊賀崎カンパニー様々なんだけどなぁ」
「竹谷って昔からそうだよね」
「昔って?」
「なんでもなぁい」
尾浜の言葉にそれ以上の追求はせず、竹谷は封筒を開けて資料を広げ始める。手紙のようなものもない。学園長先生捕まるかな、とぼやく竹谷を、まだ納得できないらしい久々知が睨みつけていた。
「おれ忍者の就職うまくいかなくて必死で大学受験なのに……」
「そこはほらあれ、内申点ってやつ?兵助体育ダメわ演習苦手だわ火薬委員だわ」
「火薬バカにすんな」
「まーまー、勘ちゃんも受験組だから一緒にがんばりましょうよ」
「うん……」
不満気ながらも久々知は勉強に戻った。竹谷はさっきまでやっていた課題のことは忘れ、違う問題に頭を抱えている。尾浜はその前に座り、一緒にパンフレットをのぞき込んだ。
「でもさ、竹谷半ば確信犯でしょ」
「何が?」
「生物委員で手を広げれば、確実に自分が必要不可欠になるってわかってたくせに」
「……教師は予想外だったけどな」
にやりと笑った竹谷に、同じ表情で返してやる。――はっきり聞いたことはないが、竹谷にはおそらく前世の記憶があるのではないかと思っている。そんな素振りは見せないが、態度を見ているとそう思えるのだ。そして、尾浜は昔の竹谷が同じようなことをしていたのを知っている。彼は卒業して数年で学園に戻って教師をしていた。どうしてみんな、昔のままではないのだろう。
「いいなぁ竹谷」
「……おれも、羨ましいなぁ」
尾浜の相づちの意味を、久々知は知らないのだ。
「へ?」
突き出された某大学の名前の入った封筒に竹谷は目を丸くした。その様子に、それを持ってきた土井が苦笑する。
「話は聞いてないのかい?」
「何も」
「ここを受験するように、とのことだ。話は通ってるが体裁としてオープンキャンパスへの参加と受験を」
「え、コネってことですか?」
口を挟んだ久々知に土井は肩を揺らす。参考書を手にした久々知には気の毒な話だが、ここは世間を忍ぶ『忍術学園』だ。内部なりの事情がある。
「あの、おれほんとに何も聞かされてないんですけど」
「生物委員だ。お前の代で手を広げすぎたから、他の誰にも手に負えない。いいか、留年も許されないからな。きっちり4年で教員免許を持って戻ってこいというお達しだ」
「えー!おれもう高卒でペットショップの正社にでもしてもらえりゃ十分なんですけど」
「それは学園長先生に直談判するんだな」
「うへぇ」
「先生おれは何かないんですか」
「兵助ほど力があるやつには救済の必要がないからなぁ」
「ずるい」
「戻ってきて教師やるか?」
「……」
久々知が眉をひそめ、土井は笑って肩を叩いた。不満げな生徒を残し、教師は何事もなかったかのように去っていく。
「げぇ〜、教師かぁ」
顔をしかめる竹谷を見て、尾浜が笑いながら近づいていく。勘ちゃんどう思う、としかめっ面の久々知も笑い飛ばし、いいんじゃない、とあっさり返した。
「だって竹谷はしょうがないよ、元々卒業後も学園の元で働くって約束してたんだからさ」
「でもさ〜、は〜、教師か〜。めっちゃペットショップに居残る気だったぜ」
「生物委員がんばりすぎたのがいけなかったねぇ」
「おれじゃなくてほとんど伊賀崎カンパニー様々なんだけどなぁ」
「竹谷って昔からそうだよね」
「昔って?」
「なんでもなぁい」
尾浜の言葉にそれ以上の追求はせず、竹谷は封筒を開けて資料を広げ始める。手紙のようなものもない。学園長先生捕まるかな、とぼやく竹谷を、まだ納得できないらしい久々知が睨みつけていた。
「おれ忍者の就職うまくいかなくて必死で大学受験なのに……」
「そこはほらあれ、内申点ってやつ?兵助体育ダメわ演習苦手だわ火薬委員だわ」
「火薬バカにすんな」
「まーまー、勘ちゃんも受験組だから一緒にがんばりましょうよ」
「うん……」
不満気ながらも久々知は勉強に戻った。竹谷はさっきまでやっていた課題のことは忘れ、違う問題に頭を抱えている。尾浜はその前に座り、一緒にパンフレットをのぞき込んだ。
「でもさ、竹谷半ば確信犯でしょ」
「何が?」
「生物委員で手を広げれば、確実に自分が必要不可欠になるってわかってたくせに」
「……教師は予想外だったけどな」
にやりと笑った竹谷に、同じ表情で返してやる。――はっきり聞いたことはないが、竹谷にはおそらく前世の記憶があるのではないかと思っている。そんな素振りは見せないが、態度を見ているとそう思えるのだ。そして、尾浜は昔の竹谷が同じようなことをしていたのを知っている。彼は卒業して数年で学園に戻って教師をしていた。どうしてみんな、昔のままではないのだろう。
「いいなぁ竹谷」
「……おれも、羨ましいなぁ」
尾浜の相づちの意味を、久々知は知らないのだ。
2012'04.30.Mon
「……おい、さっき来てた商人どこのやつだ」
「キリンタケです。しのぶ様のご実家ですから大丈夫かと……何か問題でも?」
竹谷が顔を引きつらせているのを見て、部下は緊張した様子を見せた。その様子に苦笑しながら、何でもない、と言ってやる。荷は確かにキリンタケから来たもので間違いない。問題は、その荷を縛っていたひもである。布を裂いたそのままのものだ。竹谷はその端を見て頭をかく。
「どうされました?」
「うーん」
部下が竹谷の手元を覗きこむと、布の端にははっきりと「豆腐」と書かれていた。部下は首を傾げる。
「豆腐……?……これは密書ですか?」
「あー、うん……何と言うか……」
「どうしたんです」
通りかかった孫兵が竹谷の手元を見て、合点がいったように頷いて離れていく。すぐに木片を持って戻ってきて、それを竹谷に渡して仕事に戻って行った。新しい種や生物たちの餌も仕入れたので、孫兵は忙しい。
「それは何ですか?」
「……豆腐の黄金比があるらしい」
「は?」
「冷や奴は必ずこの大きさ、比率でなければならんらしい。そしてそれを覚えているおれもアホだが、その黄金比が一般的だと思っているアホがキリンタケにいる」
「ああ、噂のご友人ですか。豆腐好きの……」
「ありゃそのうち豆腐と結婚するぜ。ったく、何なんだわざわざ」
竹谷は豆腐サイズの木片に布を巻きつけていく。一寸角に巻きつけるものとは違い、非常に読みにくいからやめろと何度も言っているのだが、彼は一向に相手にしない。布を巻き終えた木片をくるくる回しながら文章を読み、竹谷はぽかんと口を開ける。
「は……?」
「久々知先輩今度はどうなさったんですか?」
切りがついたのか、孫兵が竹谷の元へ戻ってくる。しかし竹谷は反応せず、何度も繰り返し手元を見ていた。
「え?え?何?あいつばかなの?」
「竹谷先輩?」
「……兵助、結婚するって……」
「へえ、おめでたいですね。どなたと?」
「ちょっとキリンタケ行ってくる!」
「……行ってらっしゃい」
飛び出していく竹谷に、孫兵は呆れて溜息をついた。止める間もなく姿を消した竹谷に部下はおろおろと孫兵を見る。
「頭はどうしちゃったんですか?」
「いつもの世話焼きですよ。別に落ち着いてるからいいんですけどね、城を守る要がぽんと軽々しく城を出てしまうのはどうかと思いますよ」
「ま、別にいいんじゃない。暇だし」
孫兵に応えたのはしのぶだった。実質的に城を動かしている、キリンタケ城主の妻である。面白い荷はないかと見に来たのだろう。
「久々知くんが結婚ねー。ハチ公にもいい人はいないのかしら」
「いると思いますか?」
「私よりいい女がいたら有り得るかもね」
しのぶは荷を見渡し、特に興味を引かれるものがなかったのか、そのまま戻って行く。孫兵は部下と顔を見合わせ、呆れた顔で首を振った。部下は意味がわからないのか、首を傾げている。
「人間というのはほんとにしょうもない生き物だね。――ねえ、じゅんこ?」
足元に這ってきた蛇に手を伸ばし、孫兵はすくい上げて肩に誘う。冷たい肌を撫で、満足げに笑った。
*
「結婚するってどういうことだよ!」
「それは私らも散々言ったんですけどねー」
竹谷は後ろでお茶をすすっているキリンタケ忍者を睨みつけた。彼らは竹谷の睨みなど気にせずに、今度の休みどうする?などと世間話をしながらも、ゆっくり立ち上がって部屋から逃げていく。竹谷は再び久々知に向き直った。
「だから文にも書いただろう。おれは芙蓉と結婚する」
昔から変わらない涼しい目元をきりっとさせ、久々知ははっきり言い切った。竹谷は唖然として久々知を見る。なあ、と久々知は隣を見た。そこに座るのは、少女と見紛うような小柄な女性だ。彼女は無言でこくりと頷く。似たもの夫婦、なんて言葉が頭をよぎり、竹谷は慌てて首を振る。
共に学んだ忍術学園を卒業したのち、久々知兵助はキリンタケ城に就職した。キリンタケを選んだ理由のひとつに、キリンタケ忍者の中に優秀な豆腐職人がいたことも含まれている。その豆腐職人の一番弟子をしていたのが、この芙蓉だ。人里離れた山奥で毎日豆腐を作り続けていた彼女は、久々知がひと口食べて感動のあまりむせび泣いたとまで噂されるほど、それはもうおいしい豆腐を作る。竹谷も食べたこともあるが、こだわり抜いて作られた久々知の豆腐よりもおいしいと感じるものであった。その彼女の腕に、久々知が惚れこむのは当然と言えよう。問題は、
「だって芙蓉ちゃんは、豆腐嫌いじゃないか!」
――本人が、豆腐嫌いであるということだ。
芙蓉は山で拾われた。過去は語らないのでどういう経緯なのかは知らないが、野生動物同然に生きていた少女を見つけたのが豆腐職人であったのだ。覚えがよかったので作る技術には何の問題はないが、芙蓉曰く「豆腐には味がない」。その発言について久々知と大喧嘩したことは、未だにキリンタケ城内では語り継がれている。
「兵助お前な、豆腐を愛せない芙蓉ちゃんを愛せるとでも言うのか!?」
「それはいずれどうにでもなる」
「うおおおお下種かお前!」
「うるさいな。本人が了承したんだからいいだろう」
「ほんとかよ、芙蓉ちゃんもそれでいいのか?こいつの主食、豆腐だぞ!?」
竹谷の問いに芙蓉は答えない。都合が悪くなると無視を決め込む辺りが久々知と似ていて複雑な気持ちになる。
「あのな竹谷、一応事情はある」
「事情?」
「おやっさんが忍者隊を引退することになった。もう最近は足腰が悪いってんで、忍務にも出ていなかったんだ」
「ああ、もう年だもんな」
「それと同時に、もう山へ登るのも辛いからと城下で豆腐屋をやることになった。芙蓉もおやっさんの世話をするために降りてくる」
「ああ」
「しかしおやっさんが城下にいるとなると、俺は目立てないいから店に頻繁に行くことができない」
「……ああ」
竹谷は聞きながら顔をしかめる。嫌な予感しかしないのだ。
「しかしそこで妻が働いているとなれば通っても何の不自然さもなく」
「アホかお前はッ」
「いて」
頭を叩いてやるが久々知はけろっとして、芙蓉がいいって言ったんだ、などという。竹谷は芙蓉に疑いの目を向けた。
「芙蓉ちゃん、ほんとにいいのか」
芙蓉は黙って頷いた。竹谷は肩を落とし、大きく息を吐く。
「いや、まあ、芙蓉ちゃんがいいって言うならいいんだけどさ……」
「私、兵助好きよ」
芙蓉が久々知を見上げた。相変わらずの無表情のまま、小さく口を開けてか細い声を紡ぎ出す。声は見た目とは裏腹に低めだ。
「兵助は私を気味が悪いとは言わないもの」
久々知は芙蓉を見なかったが、その耳がじわりと赤くなるのを見て竹谷はようやく落ち着いた。――要するに、こいつはいつまで経っても不器用なのだ。正しくそのまま伝えればいいことを素直に言えない、面倒なやつだとわかっていたはずなのに。
大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなり、竹谷は芙蓉に頭を下げる。
「こんなアホでもおれの大事な親友だ。間違ったことは絶対しない。こいつが芙蓉ちゃんを幸せにするとおれが保証するから、こいつをよろしく頼む」
「……はい」
「ああもうやめろ!お前はおれの保護者か!」
「真っ赤」
「帰れ!」
久々知に掴みかかられ、竹谷は笑いながらなだめた。からかうつもりはないが、普段冷静な久々知の動揺が面白くて仕方ない。
「まあ待て、折角来てやったんだから土産に豆腐でも寄越せ」
「勝手に来たくせに偉そうに!」
それでも久々知は立ち上がり、どすどすと足音を立てて部屋を出る。竹谷が笑って芙蓉を見たが、彼女はやはり表情を変えてはいなかった。しかし久々知が座っていた場所を見つめている。
「芙蓉ちゃんは幸せ者になるぜ」
彼女は黙って頷いた。竹谷は挨拶をし、久々知を追いかける。台所へ向かう久々知へはすぐに追いついた。
「おい、いつから好きだったんだよ」
「うるさい、黙れ」
「水くせぇな、いきなり相談もせず結婚しますなんてよ」
「だからハチハチには言いたくなかったんだ」
「三郎と一緒にすんなよ。まぁ確かに、愛想はねえが芙蓉ちゃんかわいいもんな」
「笑うよ」
「ん?」
「ちゃんと笑う」
「……へえ」
「にやにやすんな!」
「するだろ〜。兵助ののろけが聞けるとはな〜」
「ああっ、もう!」
足を止めた久々知は正面から竹谷を見る。真面目なまなざしに、竹谷も黙って視線を返した。
「おれはちゃんと芙蓉を幸せにする。誰に何と言われたって、芙蓉は誰よりも大切なおれの妻だ。……満足か」
「……ま、みんな大人になるってことだよな」
「竹谷は」
「おれァ真面目にコツコツ城勤めよ。おれが守ると決めたものはただひとつだ」
「……ばかなのは竹谷も一緒だろ」
「ま、今度酒でもやろうぜ」
「飲まないくせに。――朝作った豆腐がある。持って帰れ」
「そうするよ。城ほったらかしてきたから、孫兵に怒られちまう」
久々知は顔をしかめたが、竹谷はそれを笑い飛ばした。
「キリンタケです。しのぶ様のご実家ですから大丈夫かと……何か問題でも?」
竹谷が顔を引きつらせているのを見て、部下は緊張した様子を見せた。その様子に苦笑しながら、何でもない、と言ってやる。荷は確かにキリンタケから来たもので間違いない。問題は、その荷を縛っていたひもである。布を裂いたそのままのものだ。竹谷はその端を見て頭をかく。
「どうされました?」
「うーん」
部下が竹谷の手元を覗きこむと、布の端にははっきりと「豆腐」と書かれていた。部下は首を傾げる。
「豆腐……?……これは密書ですか?」
「あー、うん……何と言うか……」
「どうしたんです」
通りかかった孫兵が竹谷の手元を見て、合点がいったように頷いて離れていく。すぐに木片を持って戻ってきて、それを竹谷に渡して仕事に戻って行った。新しい種や生物たちの餌も仕入れたので、孫兵は忙しい。
「それは何ですか?」
「……豆腐の黄金比があるらしい」
「は?」
「冷や奴は必ずこの大きさ、比率でなければならんらしい。そしてそれを覚えているおれもアホだが、その黄金比が一般的だと思っているアホがキリンタケにいる」
「ああ、噂のご友人ですか。豆腐好きの……」
「ありゃそのうち豆腐と結婚するぜ。ったく、何なんだわざわざ」
竹谷は豆腐サイズの木片に布を巻きつけていく。一寸角に巻きつけるものとは違い、非常に読みにくいからやめろと何度も言っているのだが、彼は一向に相手にしない。布を巻き終えた木片をくるくる回しながら文章を読み、竹谷はぽかんと口を開ける。
「は……?」
「久々知先輩今度はどうなさったんですか?」
切りがついたのか、孫兵が竹谷の元へ戻ってくる。しかし竹谷は反応せず、何度も繰り返し手元を見ていた。
「え?え?何?あいつばかなの?」
「竹谷先輩?」
「……兵助、結婚するって……」
「へえ、おめでたいですね。どなたと?」
「ちょっとキリンタケ行ってくる!」
「……行ってらっしゃい」
飛び出していく竹谷に、孫兵は呆れて溜息をついた。止める間もなく姿を消した竹谷に部下はおろおろと孫兵を見る。
「頭はどうしちゃったんですか?」
「いつもの世話焼きですよ。別に落ち着いてるからいいんですけどね、城を守る要がぽんと軽々しく城を出てしまうのはどうかと思いますよ」
「ま、別にいいんじゃない。暇だし」
孫兵に応えたのはしのぶだった。実質的に城を動かしている、キリンタケ城主の妻である。面白い荷はないかと見に来たのだろう。
「久々知くんが結婚ねー。ハチ公にもいい人はいないのかしら」
「いると思いますか?」
「私よりいい女がいたら有り得るかもね」
しのぶは荷を見渡し、特に興味を引かれるものがなかったのか、そのまま戻って行く。孫兵は部下と顔を見合わせ、呆れた顔で首を振った。部下は意味がわからないのか、首を傾げている。
「人間というのはほんとにしょうもない生き物だね。――ねえ、じゅんこ?」
足元に這ってきた蛇に手を伸ばし、孫兵はすくい上げて肩に誘う。冷たい肌を撫で、満足げに笑った。
*
「結婚するってどういうことだよ!」
「それは私らも散々言ったんですけどねー」
竹谷は後ろでお茶をすすっているキリンタケ忍者を睨みつけた。彼らは竹谷の睨みなど気にせずに、今度の休みどうする?などと世間話をしながらも、ゆっくり立ち上がって部屋から逃げていく。竹谷は再び久々知に向き直った。
「だから文にも書いただろう。おれは芙蓉と結婚する」
昔から変わらない涼しい目元をきりっとさせ、久々知ははっきり言い切った。竹谷は唖然として久々知を見る。なあ、と久々知は隣を見た。そこに座るのは、少女と見紛うような小柄な女性だ。彼女は無言でこくりと頷く。似たもの夫婦、なんて言葉が頭をよぎり、竹谷は慌てて首を振る。
共に学んだ忍術学園を卒業したのち、久々知兵助はキリンタケ城に就職した。キリンタケを選んだ理由のひとつに、キリンタケ忍者の中に優秀な豆腐職人がいたことも含まれている。その豆腐職人の一番弟子をしていたのが、この芙蓉だ。人里離れた山奥で毎日豆腐を作り続けていた彼女は、久々知がひと口食べて感動のあまりむせび泣いたとまで噂されるほど、それはもうおいしい豆腐を作る。竹谷も食べたこともあるが、こだわり抜いて作られた久々知の豆腐よりもおいしいと感じるものであった。その彼女の腕に、久々知が惚れこむのは当然と言えよう。問題は、
「だって芙蓉ちゃんは、豆腐嫌いじゃないか!」
――本人が、豆腐嫌いであるということだ。
芙蓉は山で拾われた。過去は語らないのでどういう経緯なのかは知らないが、野生動物同然に生きていた少女を見つけたのが豆腐職人であったのだ。覚えがよかったので作る技術には何の問題はないが、芙蓉曰く「豆腐には味がない」。その発言について久々知と大喧嘩したことは、未だにキリンタケ城内では語り継がれている。
「兵助お前な、豆腐を愛せない芙蓉ちゃんを愛せるとでも言うのか!?」
「それはいずれどうにでもなる」
「うおおおお下種かお前!」
「うるさいな。本人が了承したんだからいいだろう」
「ほんとかよ、芙蓉ちゃんもそれでいいのか?こいつの主食、豆腐だぞ!?」
竹谷の問いに芙蓉は答えない。都合が悪くなると無視を決め込む辺りが久々知と似ていて複雑な気持ちになる。
「あのな竹谷、一応事情はある」
「事情?」
「おやっさんが忍者隊を引退することになった。もう最近は足腰が悪いってんで、忍務にも出ていなかったんだ」
「ああ、もう年だもんな」
「それと同時に、もう山へ登るのも辛いからと城下で豆腐屋をやることになった。芙蓉もおやっさんの世話をするために降りてくる」
「ああ」
「しかしおやっさんが城下にいるとなると、俺は目立てないいから店に頻繁に行くことができない」
「……ああ」
竹谷は聞きながら顔をしかめる。嫌な予感しかしないのだ。
「しかしそこで妻が働いているとなれば通っても何の不自然さもなく」
「アホかお前はッ」
「いて」
頭を叩いてやるが久々知はけろっとして、芙蓉がいいって言ったんだ、などという。竹谷は芙蓉に疑いの目を向けた。
「芙蓉ちゃん、ほんとにいいのか」
芙蓉は黙って頷いた。竹谷は肩を落とし、大きく息を吐く。
「いや、まあ、芙蓉ちゃんがいいって言うならいいんだけどさ……」
「私、兵助好きよ」
芙蓉が久々知を見上げた。相変わらずの無表情のまま、小さく口を開けてか細い声を紡ぎ出す。声は見た目とは裏腹に低めだ。
「兵助は私を気味が悪いとは言わないもの」
久々知は芙蓉を見なかったが、その耳がじわりと赤くなるのを見て竹谷はようやく落ち着いた。――要するに、こいつはいつまで経っても不器用なのだ。正しくそのまま伝えればいいことを素直に言えない、面倒なやつだとわかっていたはずなのに。
大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなり、竹谷は芙蓉に頭を下げる。
「こんなアホでもおれの大事な親友だ。間違ったことは絶対しない。こいつが芙蓉ちゃんを幸せにするとおれが保証するから、こいつをよろしく頼む」
「……はい」
「ああもうやめろ!お前はおれの保護者か!」
「真っ赤」
「帰れ!」
久々知に掴みかかられ、竹谷は笑いながらなだめた。からかうつもりはないが、普段冷静な久々知の動揺が面白くて仕方ない。
「まあ待て、折角来てやったんだから土産に豆腐でも寄越せ」
「勝手に来たくせに偉そうに!」
それでも久々知は立ち上がり、どすどすと足音を立てて部屋を出る。竹谷が笑って芙蓉を見たが、彼女はやはり表情を変えてはいなかった。しかし久々知が座っていた場所を見つめている。
「芙蓉ちゃんは幸せ者になるぜ」
彼女は黙って頷いた。竹谷は挨拶をし、久々知を追いかける。台所へ向かう久々知へはすぐに追いついた。
「おい、いつから好きだったんだよ」
「うるさい、黙れ」
「水くせぇな、いきなり相談もせず結婚しますなんてよ」
「だからハチハチには言いたくなかったんだ」
「三郎と一緒にすんなよ。まぁ確かに、愛想はねえが芙蓉ちゃんかわいいもんな」
「笑うよ」
「ん?」
「ちゃんと笑う」
「……へえ」
「にやにやすんな!」
「するだろ〜。兵助ののろけが聞けるとはな〜」
「ああっ、もう!」
足を止めた久々知は正面から竹谷を見る。真面目なまなざしに、竹谷も黙って視線を返した。
「おれはちゃんと芙蓉を幸せにする。誰に何と言われたって、芙蓉は誰よりも大切なおれの妻だ。……満足か」
「……ま、みんな大人になるってことだよな」
「竹谷は」
「おれァ真面目にコツコツ城勤めよ。おれが守ると決めたものはただひとつだ」
「……ばかなのは竹谷も一緒だろ」
「ま、今度酒でもやろうぜ」
「飲まないくせに。――朝作った豆腐がある。持って帰れ」
「そうするよ。城ほったらかしてきたから、孫兵に怒られちまう」
久々知は顔をしかめたが、竹谷はそれを笑い飛ばした。
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