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言い訳置き場

言い訳を書いていきます。誤字の報告などあればありがたいです。 ※唐突にみゅネタややぎゅにおの外の人のかけ算が混ざるのでご注意下さい。 日常はリンクのブログから。

2025'03.13.Thu
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2012'08.09.Thu
「冷ややっこ中だ」

「……うん、見てわかる」

お前の好物は嫌というほど知っている。竹谷はがくりと肩を落とした。はるばるキツネタケまでやってきたのだから、もう少し友人を歓迎してくれてもいいのではないだろうか。竹谷は食事中の久々知を諦め、店の奥へ向かう。

キツネタケ領のとある山中、そこに小さな豆腐屋がある。知る人ぞ知る名店で、不定期にしか開店していないながらも、開けた日はほぼ完売になるらしい。味は当然ながら、開店しているかどうかが博打で、ちょっとした運だめしとしての意味合いもあって繁盛しているようだ。

「おやっさん、こんちは」

「留守」

「芙蓉ちゃんだけか」

台所にいたのは店主の娘、芙蓉ひとりだった。娘と言っても血はつながっていないのだが、それを知るのは極わずかな人間だけだ。こんな山中で暮らしているので少々浮世離れしてはいるが、悪い子ではない。竹谷などは久々知よりもよほど人間ができていると思っている。

「用は?」

「豆腐屋に来たんだから豆腐を買いに……と言いたいところだが、別件でおやっさんに用があったんだ。帰りは?」

芙蓉はぷるぷると首を振る。少女が言葉少なにしても、聞かされていないということは言えないということだ。つまり、忍務か。

この豆腐屋の店主の正体は、キツネタケ忍者の頭である。店先でのほほんと豆腐を愛でている久々知はその部下であるはずだが、竹谷はここに来るたびに豆腐を食べている久々知しか見かけていない。実はここで忍者ではなく豆腐の試食係をやっているのかもしれないと本気で思う。

「芙蓉!」

そんなことを考えていると久々知が奥に入ってきた。真剣な表情で芙蓉に詰め寄り、手元の皿を指差す。ひと欠けしたその豆腐は、ようやくひと口目を口に運んでもらえたところだったのだろう。

「今日のはどうした」

「違う大豆」

「おやっさんが持ってきたやつか」

「そう」

「……俺が作ったときと味が違う」

「ふうん」

「……竹谷、ちょっと今から豆腐作るから、食べ比べてくれないか」

「アホか、俺ァ仕事で来てんだよ。おやっさんがいないんじゃどうしようもねーからもう帰る」

「納得できん!どうしてこんなに研究を重ねている俺が作る豆腐より、芙蓉が作る愛のない豆腐の方がうまいんだ!」

「……お前さっさと忍者やめて、豆腐屋やれよ」

「芙蓉よりうまい豆腐が作れるまでは豆腐屋になれない」

「ああ。そう」

なる気はあるのか。竹谷は呆れて、腕まくりをして支度にかかる久々知に溜息をつく。芙蓉を見ると久々知が置いた豆腐を手に取り、ひと口食べている。

「……どう作ったって同じ味」

顔をしかめているのを苦笑してみていると芙蓉が気付き、箸に豆腐を載せて差し出される。それに口を寄せてひと口で食べると、じっと芙蓉に見つめられた。

学生時代、否応なしに久々知の豆腐を食べ続けたせいで、豆腐に関しては竹谷も舌が肥えている。

「うん、うまい。芙蓉ちゃんはどんどん豆腐作りがうまくなるな」

「……ふうん」

顔をしかめたままの芙蓉は箸を置いた。

――この少女、豆腐作りの腕前は今や師匠である店主を抜くほどである。が、しかし。彼女は豆腐嫌いであった。

自分の作るものをおいしいと思えないまま褒められるのはどんな心境なのか想像ができないが、芙蓉は豆腐作りをやめようとはしなかった。

芙蓉は久々知に台所を乗っ取られたので、店先の方へ出ていく。一番暑い頃は過ぎたのだろうが、里はまだ夏真っ盛りである。比較的この山中は涼しいが、それでも暑いことに変わりはない。竹谷はこの少女が汗をかいているところを見たことがなかった。豆腐作りだけではなく、忍術の修行も受けているのではなかろうかと思うほどだ。

「兵助はずっと豆腐の話してる」

「昔からあいつはああだったよ」

「ふうん」

馬鹿なのね。

少女のつぶやきは夏の緑に吸い込まれ、竹谷はこらえきれずに声を上げて笑いだした。
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2012'08.02.Thu
「あのぉ、出席表が後ろまで回ってこなかったので1枚もらっても」

「はい?」

「だから、あの……あ、いや、なんでもないです……」

もう1番後ろに座るのはやめよう。教授の冷たい視線から逃れるべく伊作はすごすごと引き下がった。たかが5分ではあったがされど5分、遅刻した自分が悪い。例え、出席表が配られるより早く席に着いていたとしても。後ろの席に座らなくてもいいように遅刻しないようにしよう。電車が遅延しても間に合うようにもっと早く出よう。そのためにはもっと早起きを、早寝を、レポートを……

「よう遅刻魔」

「……人が悪いみたいに言うのやめてくれる?」

「ははっ」

振り返ると小学校からの腐れ縁、食満が立っている。伊作は膨れっ面を作って見せたが、どうせいつものやり取りでお互い本気ではなかった。まさか大学まで同じになるとは思ってはいなかったが、なんだかんだと助けてくれるのでありがたい存在だ。

「今日はどうした?」

「電車の遅延〜」

「教授たち遅延届け受け取らねえからなー。訴えたろか」

「1回ぐらい大丈夫だよ」

「お前、このコマで出席表出せてないの3度目な」

「……そうだっけ」

「自分で把握しとけよ」

「とっ、とりあえずご飯食べに行こうよ!ねっ!はいはい」

食満の腕を取って伊作は歩き出す。食堂へ向かうも、途中で食満が切り替えして購買へ足を向けた。

「何?何か食べたいものでもあるの?」

「この時間に食堂に行ってお前が席を獲得できると思えねえ」

「そうね……」

伊作は己の貧相な体を振り返って苦笑した。この時間の食堂はもうトレーナーコースの学生で埋め尽くされているだろう。スポーツ医科ももやしばかりではないが、比べると差は歴然としている。同じスポーツ医科でも部活に精を出している食満とも違い、伊作はあの鍛えた男の集団には太刀打ちできなかった。とはいえ、購買も食堂よりはまし、というレベルだ。

「あっ、お弁当が残ってる!」

奇跡だ。感動しながらそれを手に取り、伊作はいそいそとレジに向かった。食満もカップ麺と弁当を手にしている。購買は基本的に丁寧にビニール袋になど入れてくれない。レジをさっと通ったらそれまでだ。食満がカップ麺にお湯を入れるのを待って中庭へ向かう。人は多いがふたり分ぐらいのスペースはあるだろう。

「こけんなよ」

「さすがにそれは」

伊作が笑い飛ばしたが、直後に前からきた学生にぶつかってその手から弁当が落ちた。何を思う間もなくそれは重力に従い、真っ逆様に落ちていく。ゆっくりした動きに思えるがそれは一瞬の出来事で、

――ぐしゃり。

側面から落ちた弁当はその衝撃で輪ゴムが飛び、……そして、「弁当」ではなくなった。

「……ですよねー!」

「俺のやるから……」

涙目の伊作に、食満は慣れたように溜息をついた。



善法寺伊作はとにかく不運であった。それは生まれる前からのお墨付きである。産気づいた母親の乗ったタクシーは渋滞に巻き込まれ、ようやくたどり着いた病院では医師に急病人が出て人手が足りていなかった。トイレで生もうか真剣に考えた、と母親は今でも口にする。どうにか無事に五体満足の健康体で生まれたものの、もらうプレゼントは大体が不良品で、一番支障があったのは使い始めた途端にタイヤが取れたベビーカーだった。おんぶ紐は切れベビーベッドの柵は外れた。そのたびに頭をぶつけて泣く伊作を見て、この子がバカになったら私のせいだ、と母親が心配していたのは幼稚園に入るまでのことだった。早い者勝ちのものでは大体勝てず、足が遅いわけではないがかけっこではほぼ転び、たまに先生に忘れられて幼稚園バスに乗り損ねた。それらはどう考えても「運がない」としか言いようがなく、母親はさっさと諦めたのだという。

「伊作がどんなときも、『痛い』以外では泣いたり拗ねたりしなかったからな」

背負った不運に逐一つき合った母親の言葉は重い。小学校に上がり、ひとりだけ連絡網が回ってこなくて忘れ物をしたときも持ってきてくれたし、縄跳びの縄が切れてもちゃんと予備を用意しておいてくれた。中学の制服が配達中に事故にあって間に合わなかったときも近所を駆け回っておさがりを探してくれたし、気合いを入れて練習をした体育祭前日の骨折が悔しくて泣いていたときもずっと慰めていてくれた。

不運話を始めれば尽きることはない。よって善法寺伊作の人生は、「不運」の一言に尽きる。



「留三郎いつもごめんね……」

「お前家から弁当持ってくると、腹壊すもんなぁ……」

「はは、夏はねぇ……」

食満は伊作の不運に根気よくつき合ってくれる友人のひとりである。見捨てられない性格なのだろう。小学校からはふたりが一緒にいるのが当たり前になっていて、たまに不運に巻き込んでしまっても食満はずっと伊作と共にいてくれた。小学校の入学式に、どろどろに汚れた姿で並んでいたのが一番古い記憶だ。あのときは確か登校途中に野良犬に追いかけられ、逃げている途中に巻き込んだのだ。

「どうしてぼくはこんなに不運なんだろう」

「大学受かったのなんて奇跡的だよな」

「試験時間の2時間前に着くように家を出て、着いたの10分前だったもんね……」

「冗談抜きでお祓いでも行った方がいいんじゃねえの?」

「あんまり考えたくないなぁ……」

以前心配した親戚が有名な霊媒士だと紹介してくれた人に会ったが、怪しげな壷を買わなければ死ぬと脅された。その日は母親が怒って帰ったが、数日後に霊媒士は詐欺で捕まっていた。今思えば不幸中の幸いである。

「まあ、死ぬような怪我もしたことないし、家族が危険に晒されたこともないしさ。遅刻したりお昼食べ損ねたりなんてよくあることだよ」

「伊作……ポジティブはお前のいいところだけどよ、お前が食ってるその弁当元々俺のだからな」

「あはは」

伊作は笑い飛ばし、その邪気のなさに食満も苦笑した。

――和やかなその空気を隙と見なしたのか、一羽のカラスが舞い降りる。それはさも当然とばかりに伊作の膝に止まり、食べかけの弁当を啄んだ。

「……ええ〜……」

「伊作……お前いつの間にカラスを飼い慣らしたんだよ」

「そんなことしてないよ!ヒィッ」

身動きをするとカラスに睨まれる。結局周りの好奇の目に晒されながら、伊作はカラスが満足するまで膝を貸していたのだった。



*



「ぶえっくし!……風邪かな」

自慢にもならないが風邪の対処は得意である。インフルエンザには毎年かかるし、流行る病にもまず引っかかる。三月に一度はどこかしらで風邪をもらってくるが、今日のは確実に、さっき商店街で打ち水を被ったからだ。もう伊作が柄杓の先にいることに慣れてしまった煎餅屋の店主は、笑いながらいつも通りの割れ煎餅の詰め合わせをくれた。伊作はそれを抱きかかえ、帰路を行く足を早める。

「君、そこのずぶ濡れの君」

「はい?」

どう考えても自分だろう。伊作が振り返ると、商店街の端で小さな箱を置き、占い師が座っている。こんなところに珍しい。少なくとも伊作はここで占い師を見たことがなかった。いかにも、といった黒いヴェールの下から色っぽい目が覗き、伊作を見てにこりと笑った。

「こっちにいらっしゃい」

「あの」

「お話したいだけよ。善法寺伊作くん」

「!」

名前が書いてあるようなものは身につけていない。伊作は警戒しながらゆっくり近づいてみるが、やはり知っている人だとは思えなかった。こんなに雰囲気のある女と知り合えば忘れるはずがない。

「あの……どうしてぼくの名前を?」

「あなた、不運でしょう。顔に書いてあるわ」

「えっ」

「見る人が見たら、あなたが不運だなんて丸わかりよ。どうして自分がそんなに不運なのか、知りたくない?」

「……わかるんですか?」

「どうぞ」

占い師に椅子を勧められ、伊作はためらったが結局傾いだそれに腰掛けた。

占い師の前には何もなかった。水晶もタロットも虫眼鏡も、謎のじゃらじゃらした割り箸の束もなかった。占い師は微笑んで、手相を見るでもなくまっすぐ伊作を見る。

「あなたの前世が見えます」

「前世?」

「前世のあなたは忍者でした。そうね、凄腕ってほどではないけど、それなりに実力のある忍者だったみたい」

「ハァ……」

これってやっぱり何か売りつけられるのかな。ちなみに財布はバスの中に忘れてきたので、今伊作の全財産は割れ煎餅一抱えのみである。

「有名な忍者があなたのことを気に入ってくれていたみたいね、就職もすんなりいってるわ」

「忍者も就活するんですか」

忍者ってそんなに生活感あったっけ。そんなことを思うのと同時に数年後にやってくる自分の就職活動を思ってうんざりした。一体どうすれば就活中の不運を乗り越えて就職ができるのだろう。この占い師に聞いてみようか。伊作が口を開こうとしたのを遮るように、真っ赤なネイルを塗った爪がひらめき、伊作を指さした。

「あなたが不運なのは、前世のあなたのせい」

「え?」

「前世のあなたも不運でした。とにかく不運でした。落とし穴があれば落ちるし、水に落ちれば風邪をひきました」

「わかりますっ!」

「でもそれにはわけがある」

「何ですか?」

「人を助けすぎたのね」

「え……?」

「とても優しい人でした。時には自分を犠牲にしてでも人を助けました。戦場で傷ついた人を見れば敵も味方もなく助け、それはね、そう……何というのかしら。神をも凌駕する、と言うと仰々しいわねぇ」

「神って……人助けをしたぐらいで?」

「あなたのお陰で、死ぬはずの人が死ななかった。あなたは時に、運命さえもねじ曲げたのよ」

「だ……だって、目の前に傷ついた人がいれば誰だって」

「ホントに?」

「え?」

「あなたの身近な人たちは、みんながみんな他人の不運に手を貸すかしら」

「それは……」

占い師は伊作の手を取った。すべらかな柔らかい手は優しく伊作の手を撫でる。

「もちろん、悪いことをしたとは言えないわ。ただ、あなたはその代わりに不運を背負い込んだの。幸せの数は決まってるって聞いたことはないかしら?不運も同じ。そして前世のあなたは人を助けすぎて、――自分ひとりの人生だけでは不運を消化できなかった」

「……そのせいで、生まれ変わったぼくも不運だってことですか」

伊作が身を乗り出すと、椅子が大きく軋む。かと思えばバキッと派手な音を立てて足が折れ、伊作はそのまま地面に倒れ込んだ。占い師はその直前には手を離している。

「信じるかどうかはあなた次第」

「……でも、それじゃあ……ぼくが幸せになるには人を助けてはいけないってことですかッてえええ!?」

顔を上げた伊作の前にいたのは、同じ黒いヴェールを被った占い師だが、その目元はどう見ても老人であった。手助けに差し出された手もしわだらけの小さな手だ。

「えっ、どういう」

「あなたは不幸なの?」

「え?」

「不運と不幸は違うのよ」



*



占い師に見送られ、伊作は再び割れ煎餅を抱えて歩いていた。頭の中ではさっき聞かされたことがぐるぐると渦巻いている。金銭も要求されなかったが、では何が目的だったのだろう。人を驚かせて喜んでいるようには見えなかった。

「不運と、不幸……」

母親に話してみようか。豪快に笑い飛ばされるかもしれないが、それでも誰かに聞いてほしかった。人を助けて不運になるなんて、その逆ならまだしも――

悲鳴が耳に飛び込んだ。考えるより早く振り返った伊作は、車道で立ち尽くす少女を見る。そこへ向かってくるトラックを見て、迷わず地面を蹴った。少女を胸に抱いて走る。響くブレーキ音も聞こえない。車道を駆け抜けて伊作は路肩につまずいて少女ごとひっくり返った。慌てて起きあがって少女を見ると、驚いて目を回しているが怪我はなさそうだ。

「大丈夫?痛いところは?」

「スリルぅ〜」

「はは、スリルどころじゃなかったよ……」

どっと脱力して伊作は座り込んだ。トラックはどうやら逃げてしまったようだ。振り返ると車道に煎餅が散らばっていて苦笑する。それでも、ここに血が広がるよりよっぽどいい。

「お兄さん怪我してますぅ」

「え?ああ……」

手の甲を派手に擦りむいている。少女が青白い顔で心配そうにしているので、笑って頭を撫でた。

「大丈夫。お兄さんはこれでも医者のたまごなんだから」

「お医者さん?」

「そうだよ。だからこんな怪我、すぐに治しちゃうから」

「よかった」

少女には笑ってみせるが、実際自分はスポーツ医科でリハビリなどが中心となる。情けない話だが、怪我の治療に関しては20年不運とつきあう中で培ったスキルだ。

「お煎餅、めちゃくちゃになっちゃいましたね」

「いいんだよ、君が無事だったんだから。気をつけるんだよ」

「はぁい。ありがとうございましたっ」

ぴょこんとお辞儀をして少女は駆けていく。何となく転ぶんじゃないかと思って見ていると案の定彼女は何もないところで転び、伊作は慌てて追いかけた。



なんだかんだで結局少女を家まで送っていると、伊作が家に着いた頃には夕食が始まっていた。伊作がリビングに入ると母親がまさにエビフライにかぶりついたところで、夕食に期待をしてテーブルを見ると大皿にはレタスが残っているだけだ。

「お帰り」

「ただいま……ぼくのエビフライあるよね?」

「……」

母親は無言でエビフライを食べている。その向かいでは父親も無言で茶をすすっていた。まさかと思い台所で冷蔵庫や電子レンジを開けてみるが、そのどこにもエビフライの姿はない。

「お母さん……」

「今日は帰ってこない予定だったお父さんが帰って来てたんだ。お前の分はお父さんが食べてしまった、諦めろ」

「普通そういうときってお母さんが我慢するとか、3人で分けるようにするとか、するでしょ!?」

「私が食べたくてエビフライにしたんだぞ。帰りが一歩遅かった伊作が悪い。――今日はどんな不運に遭った?」

そういう母親は楽しげだ。他人事だと思って。母親を睨んでみせるが堪えない。

ふと占い師の言葉を思い出す。占い師のいう通りなら、今日助けた少女が本当は死ぬ運命だった場合、自分が助けたことによって運命が変わって自分はまた不運を背負い込むことになる。それではまるで、再現がない。

父親は逃げるように、風呂、と一言残してリビングを出る。伊作が溜息をついて食卓につくと、母親が入れ替わるように立ち上がった。伊作の茶碗にご飯を盛り、夕食の支度をしてくれる。

「……お母さんは、ぼくが不幸だと思う?」

「贅沢者が何を言っている」

どん、と伊作の前に出されたのは、皿いっぱいのエビフライだった。伊作が目を丸くしていると、母親はいたずらの成功を子どものように笑った。

「お前が不幸かどうかは知らないが、私はお前がいてくれて幸せだよ」
2012'08.02.Thu
「ごめんっ!」

「いや、大丈夫……」

鞄から飛び散ったノート類を眺め、ペンケースの中身が飛び散らなかっただけましだと左近は溜息をつく。左近とぶつかってしまった女子生徒はこれが左近の日常生活だとはつゆとも思わず、丁寧に謝ってくれる。それを適当にこなしながら、左近はノートをかき集めた。

「何やってんだ」

「いて」

ぱこんと何かで叩かれ、振り返るとノートを手にした三郎次が立っている。失礼なクラスメイトからノートを奪い返し、左近は黙ってそれを鞄にねじ込んだ。三郎次はその態度に顔をしかめたが、大きく息を吸って左近が立ち上がるのを待つ。そのまま行ってしまいそうになる左近を三郎次は腕を引いて引き留めた。

「ごめん!」

「別に!悪いのはぼくだから!」

「俺が悪かったに決まってんだろ!」

「だからもういいって!」

「素直に聞けよ!かわいくねーな!」

「どーせかわいくないですぅ」

「お前ってほんっと……やめた。なんで謝りにきて喧嘩しなくちゃなんねぇんだ」

「……」

「悪かった」

「……アイス」

「コンビニ」

「31」

「わーったよ!帰りにな!」

「よし、許す」

ふたりのやりとりを見ていた女子生徒は立ち上がり、恐る恐るとばかりに口を開いた。

「三郎次の彼女?」

「「違います」」



川西左近の最近の悩みはこれである。三郎次とは幼稚園に通っていた頃からの腐れ縁だ。しかし中学にあがってから、何度この問いを聞いただろう。男女間の友情を成立させたくない組織でもあるのだろうか。慎ましやかに日々を送りたい左近と違い、三郎次は水泳部のエースである。謙虚だとか謙遜だとか、そんな言葉とは無縁の彼はその気がなくてもよく目立った。その三郎次が下の学年に彼女がいるのをひた隠しにしているお陰で、周囲の勘違いはなくならない。天と地がひっくり返っても、左近が三郎次に恋心を抱くことはないだろう。



「何いちゃいちゃしてたの?」

「してない!」

知っている癖にからかってくるユキを睨みつけるが、けらけらと笑われるだけだ。

「お弁当持っていくから一緒に食べようよ。左近にきてもらったら途中でお弁当ぶちまけそうだし」

「乱太郎はどうしたんだよ」

「は組の連中に取られちゃった」

「……四郎兵衛も呼んできてよ」

前科持ちの左近は何も言い返せずに顔をしかめた。ユキを待つ間に左近は自分の席に戻り、前の席の机を借りてくっつける。

「左近」

「何?」

振り返ると久作だ。英語見せろ、と荒っぽい物言いは相手を選ぶ久作らしい。ノートを取り出して広げれば、久作も自分のノートを開いて見比べている。左近も弁当を取り出しながら一緒にのぞき込んだ。

「どう?」

「お前の訳大ざっぱすぎないか?」

「前これぐらいで大丈夫だったよ。会話だし」

「単語の訳おかしくないか?」

「え〜?ちゃんと調べたよ」

「今日の弁当誰?」

「お母さん。……ん?」

左近が辞書を取り出しながら顔を上げると、久作がさっさと弁当の包みを解いている。あっという間にふたが開けられ、唐揚げが消えた。

「何してんだよ!」

「ケチケチすんなよ」

「せめて一言断れよ」

「食べていい?」

「事後報告ですらないのかよ。だめに決まってるだろ、これはぼくのお弁当!ほら訳合ってる!」

「もう一個だけくれよ。辞書貸せ、これ、ほら成句乗ってる」

「唐揚げなくなるだろ!これは使い方違わない?」

「もらいっ」

「あっ!」

「あのさぁ」

「あ、お帰り」

戻ってきたユキを見て、久作は立ち上がって椅子を譲った。弁当を前にしかめっ面をしている左近を見て首を傾げる。

「今廊下であんたたちふたりがつき合ってるのかって聞かれたんだけど」

「「違います」」

「って言っといたわ。しろべーはパン買ってから来るって」

「次屋の送り迎えだな……」

「ここの訳ユキちゃんどうした?」

「ん〜?……これと同じ」

「ほらぁ!久作が違うんだって」

「え〜?三郎次捕まえてくる」

「あっ!」

最後にプチトマトを奪って久作は逃げていく。

「ぼくのお弁当が貧相に……」

「まあお似合いに見えなくはないわね」

ユキは左近の正面に座って弁当を広げた。左近も促されてしぶしぶ箸を取る。四郎兵衛は多分遅いだろう。

「女子ってどうしてすぐくっつけたがるんだろう」

「三郎次と久作で左近を取り合ってるらしいって噂も聞いたことあるわよ」

「はぁ!?」

「ま、久作なんかガード高いしね、みんな妬いてんじゃない。いただきます!」

「ぼくらをどう見たらカップルに見えるんだか」

「左近の恋愛運は悪くないんだけどなぁ」

ユキはおかずのイカリングを通して左近を見る。仏頂面を向けてやるとユキは笑って口に運んだ。

「それずっと言ってるけどあてになるの?」

「結構当たるようにはなってきたけどまだ勉強中だからね」

ユキの占いはそこそこ当たるらしい。左近はきょうみがないので、あまり興味がないので詳しく聞いたことはなかった。

「長いおつき合いをするわよ。逆に言うと、その人を逃したら一生縁がないわね」

「それは嫌だ」

「あら。男子に興味のない左近でもそう思うの」

「行き遅れに見られるのは嫌だ」

「見栄っ張り」

ユキは笑いながら焦げた卵焼きをを分けてくれる。彼氏の乱太郎は捕まらなかったようだが、彼の体を心配したクラスメイトが救出したのだろう。自分で作るのやめたら、思わず呟くと机の下で蹴られた。

「ごめん〜遅くなっちゃった」

「お帰りしろべー」

「左近、また三郎次と喧嘩してたの?」

違うクラスの四郎兵衛にまでバレている。隣の椅子を引っ張ってきて四郎兵衛も加わり、ようやく落ち着いて昼食が始まる。

「あいつが悪いんだよ!ぼくのノート借りたまま返すの忘れててさ、休み時間ずっと探してたのにどこにもいないし、見つからないまま授業始まっちゃってぼくがノート忘れたことになったんだから」

「それ何時間目?」

「3時間目」

「ぼくその前の休み時間、三郎次見たよ。一年生の教室の方にいた」

「あいつ……帰りにアイスおごらせることにしたから四郎兵衛も一緒に行こう!」

「わーい!アイス食べる!」

「……左近が恋愛するところなんて、想像つかないわね」

「こんなかわいくない女で、恋愛できるとも思ってないよ」

「泣きついてくる日が楽しみだわ」
2012'07.26.Thu
目が覚めた。伊助はその瞬間には布団から飛び出し、同室の庄左ヱ門が起きるほどの勢いで部屋の戸を開ける。

「晴れたっ!」

「……先にご飯食べるんだよ」

「うんっ」

伊助はぱぱっと着替えを済ませて布団もあげ、あっという間に部屋を飛び出していった。庄左ヱ門は目をこすりながら外を見る。朝日が照らす庭では小鳥の声がして、新しい朝を歓迎しているのは伊助だけではなかったのだと言っているようだ。

「いい天気だなぁ……」



部屋を飛び出した伊助は真っ先に食堂に来ていた。まだ時間は早く、食堂には低学年の姿はない。五年生の先輩がそろっているのを見つけ、朝食を受け取る前に机に向かう。長い実習に行っていたが、今日が帰りだったのか。

「久々知先輩!」

「伊助か、早いな。こっちはさっき着いたばかりだ」

「お帰りなさい」

委員会の先輩である久々知は少し疲れた様子ではあったが、伊助に笑顔を見せた。周りの五年生も変わらずに笑顔で、誰も怪我をしなかったようで安心する。

「こんなに早くからどうしたんだ?今日は休みだろ」

「こんな洗濯日和にゆっくり寝ていられません!」

「……ああ」

ここ数日天気が不安定で、雨が続いていた。久々知の苦笑の意味がわからず伊助は首を傾げたが、久々知は気にするなと笑う。

「忙しいんだろ。早く食べちゃいな」

「あっ、失礼します!」

くるっと体を返して朝食を貰いにいく伊助の背中に、五年生たちは思わず笑みを漏らした。



食事を終えた伊助はすぐに部屋へ戻った。ここ数日のせいで溜まってしまった洗濯物を両腕に抱える。

「庄ちゃんのもあとで持ってきてね!」

「うん……」

どうやら二度寝していたらしい庄左ヱ門は寝ぼけた声で答えた。あとで取りに来た方がいいかもしれない。伊助は苦笑しながら部屋を出た。晴れ渡る青空を笑顔で見上げる。待ちに待った、洗濯日和だ。

井戸までやって来て気合いを入れる。今日は徹底的に、思う存分洗濯をするのだ!



クラスメイトたちが億劫がる掃除や洗濯は、伊助は嫌いではなかった。きれいなことは気持ちがいい。先日の雨で汚してしまった装束もきれいに汚れを落とし、いい気分で干しに向かった。その頃になって他の一年生たちが起きてくる。長屋からの挨拶にご機嫌で応えると、彼らは誰も理由を聞かなかった。

風にはためく洗濯物を満足げに見上げ、伊助ははっとひらめいた。実習から帰った久々知は疲れているだろうから、代わりに洗濯物を預かろう。彼が不在の間、火薬委員会は大混乱であった。日頃いかに久々知が支えてくれているのかを痛感し、久々知が戻ったら今までのお礼をしようと思っていたのだ。

そうと決まれば伊助はすぐに五年長屋へ走った。久々知の部屋は知っている。土井からの伝達事項を伝えにきたことがあるその部屋を訪ねると、出てきたのは同室の尾浜の方だった。

「久々知先輩は……」

「死んでる」

「えっ」

「ほら」

開け放された室内を見ると、ぞんざいに広げられた布団に突っ伏した久々知の姿があった。着替えもしないまま眠っているようだ。

「あの、久々知先輩の制服を洗って差し上げようと思ったのですが」

「臭いよ〜?」

「大丈夫です!でもお休み中なら」

「ちょっと待ってて」

尾浜は久々知に近づき、寝ている久々知の体をひっくり返す。伊助が止める間もなく、尾浜はためらいなく久々知の服を引きはがした。襲いかかっているとも言えるような乱暴さだが、久々知が覚醒する気配はない。相当疲れているようだ。

尾浜は本体は裸で転がして、着物を手に伊助の元へ戻ってくる。一度臭いをかいでみて、しかめっ面で伊助を見た。

「ほんとにいいの?」

「はいっ!あの、よかったら尾浜先輩のも」

伊助が言い終わるよりも早く尾浜は褌一枚になった。どうやら五年生ともなると、実習の疲れは相当なものになるらしい。受け取った着物からは汗や土、そして火薬の匂いかする。



汚れた着物を抱えて井戸に戻り、伊助は洗濯を再開した。小さなほつれなども気になって、乾いたらきれいに直して返そう、などと思いながら、汚れた水を何度も換える。五年生ともなれば体が大きく、当然着物も大きい。簡単に引き受けすぎただろうか、と尾浜の分をちらりと見て考える。しかし日が高いうちに干してしまわなくては乾かない。

「伊助!」

「あ、三郎次!……先輩、なんですか?」

顔を上げると二年の池田が立っている。眉間に皺を寄せて、伊助を睨むように見ていた。その瞬間、今日は久々知が戻る前にもう一度硝煙倉の掃除をする予定にしていたことを思い出す。

「何してんだよ!タカ丸さん心配してるぞ!」

「すみませんっ!洗濯日和だったので、つい……」

いつもはいがみ合ってしまう三郎次だが、今日ばかりは自分に非がある。三郎次は更に言葉を続けようとして、伊助の手元に気がついた。伊助が握るその色は、学年の生徒ならば何年生のものかすぐわかる。

「久々知先輩、戻られてるのか」

「はい。今はお休みになられてます。あの、これ干したらすぐに行きますので!」

「……もうふたりで片づけるからいい。お前はそれをやっちゃえよ」

「いえ、気になるので行きます!」

「お前なぁ!」

「だってタカ丸さん掃除下手なんですもん!」

「はっきり言うなよ……」

顔をしかめながら好きにしろ、とぼやいて戻っていく三郎次の背中を見送り、伊助は洗濯を再開した。桶の水は濁って、制服の汚れを物語る。あの優秀な久々知がぐったりするほどの実習とは、一体どんなものなのだろう。一年生の自分には全く想像つかない。そうして経験を積んで強くなった者は、忍術学園を卒業するのだ。

ふと寂しくなって、伊助は手を止めてじっと濃紺を見る。言い表せないもの悲しさに首を振り、汚れた水を捨てた。



洗濯物を干した頃に久々知がのそりとやってきた。予備の制服をきちんと着込んではいるが、その目はまだ少し眠そうである。

「伊助、勘右衛門から聞いた。悪いな」

「いえ、いつもお世話になってるんだからこれぐらい。それに洗濯は好きですから!」

「ありがとう。正直に言うと助かる。伊助はいい子だな」

風にはためく己の制服を見て、久々知は伊助の頭を撫でた。ほめられるようなことをした覚えはないからくすぐったいが、素直に嬉しい。

「ぼく、決めました」

「ん?」

「これからタカ丸さんが実習に行った後も、疲れていたらお洗濯を手伝います!」

「……助かるだろうな」

久々知はしみじみと言葉を噛み締める。それからいたずらっぽく笑い、三郎次は?と問うてきた。伊助も同じように笑って返す。

「仕方ないから洗ってあげますよ!」
2012'06.05.Tue
「ふあぁ」

保健室に入るなり、綾部喜八郎はとてもうら若き乙女とは思えないほどの大あくびをした。それはここへきた目的を露わにする行為で、川西左近はしかめっ面を向ける。

「寝に来たなら帰って下さいよ」

「ちょっとだけだからベッド貸して〜」

「だめです!」

「誰かいるの?」

「いてもいなくても、だめなものはだめです」

「左近のけちぃ」

綾部は唇を尖らせて左近の正面に座った。左近は宿題をしているらしい。保健委員って暇なんだな、などと思いながら左近を見れば、変わらず渋い顔で綾部を見ている。

「真面目だねぇ」

「時間を無駄遣いする余裕はありませんから」

「若いときは遊ばないと〜」

「年齢の話じゃありません!」

「ふうん。真面目に忍者してる左近くんは立派ですねえ」

「邪魔しに来たなら帰ってくれますか」

「邪魔しないから寝かせて」

「……どうしても寝たいんだったら、どうぞ?」

「ん?」

左近は不意に笑みを見せ、綾部は眉を寄せる。立ち上がってカーテンの向こうを覗いてみると、そこにはベッドの土台とマットレスがあるだけだ。むき出しのマットレスは冷たく綾部を拒絶していて、綾部は眉を下げて左近の前へ戻ってくる。

「ベッドどうしちゃったの」

「クリーニング中です」

「お布団……」

しょんぼりと肩を落とす綾部を、迂闊にもかわいいなどと思う。左近は気を引き締めて綾部をにらんだ。

「いいですか、保健室のベッドは病人のためのベッドです!自分の不摂生で睡眠時間が確保できなかった人のためにあるんじゃないんです!」

「自分のせいじゃないもん」

不満げに唇を突き出す綾部は甘えた声を出した。この人は黙っていればかわいいんだよな。ゆるやかに波打つ髪は印象を柔らかく見せ、アウトドア派の割には肌はきれいだ。「穴掘り小僧」などという異名がなければ誰もが見とれても不思議はないのに、この人がスコップを担ぎ、泥まみれのジャージ姿でうろついている姿を見たことがない生徒はいないだろう。簡単な言葉で言ってしまえば、非常に「残念」な美人である。

左近が綾部を無視したまま宿題を続けていると、綾部はそのまま腕を枕に突っ伏した。どこでもいいのなら他の場所で寝てほしい。声をかけようとしたとき、保健室にまた訪問者がある。行儀悪く足でドアを開けて入ってきたのは、両腕いっぱいで大きな袋を抱えた食満留三郎だった。左近は慌てて戸を開けに行く。

「シーツのクリーニングできてたぞ」

「ありがとうございます!呼んで下さったら取りに行ったのに」

「何、軽い軽い」

「お布団ですか?」

「喜八郎、残念だがシーツだけだ」

「なんだ」

すねたように唇を尖らせた綾部を笑い、食満はシーツをベッドに運ぶ。

「伊作は?」

「デートです」

「……あいつはあんだけべったりで、過去を思い出したりしないのかね」

食満はわずかに眉を寄せた。綾部もうへぇ、と舌を出す。左近はもう慣れたもので、食満に椅子を進めてお茶を入れに行く。綾部が黙って手を挙げたのも、左近がちゃんと横目で確認していたのを見て食満は肩を揺らす。

「穴掘り小僧はこんなところで何してるんだ」

「今日は穴掘り小僧は休業です。もー揉めた後は寝かせてくれなくて」

「はいはい」

お熱いことで、と冷やかしながら食満は前に座る。左近がどこかきょとんとしながら麦茶を持ってくる。

「何の話ですか?」

「立花先輩の話ぃ」

「……あっ」

左近の持つ盆が大きく傾き、食満は慌てて手を添えた。赤くなった左近を綾部は無表情で見ている。

「お前なぁ、後輩からかうな!」

「そんなつもりは全くありませんけど。左近ちゃんだってエロい彼氏いるじゃない」

「かっ……違いますっ!」

「左近、盆離せ!」

「あっ」

手に力を入れたせいで更に傾いた盆に焦って手を離す。食満が盆を机に置いて息をついた。

「誰のこと言ってんですか!彼氏なんてっ、ぼくはっ!」

「落ち着け左近!」

「どっちでもいいけどさぁ」

かっと顔を赤くした左近はグラスを掴んでお茶を飲み干す。口の端からこぼれたお茶を拭って、ぐっとグラスを握る。

「……頭冷やしてきます」

左近は静かに保健室を出ていった。しかしグラスを握ったままだ。動揺は相当なものらしい。

「綾部、お前なぁ」

「だってたまに裏山でにらみ合ってますよ」

「知らないふりをしてやれ」

「左近はどうしてあの人のこと覚えてないんでしょうね」

「別に覚えてないのは高坂のことばかりじゃないだろ」

「だってぼくも食満先輩も、覚えてるじゃないですか。一番好きだった人のこと」

「……」

「次屋が言ってましたよ。高坂さんは左近が好きだったって。左近も高坂が好きだったって」

「でも、それだけだったろ」

「さあ。私は何も覚えてませんから」

「お前だって、終わるつもりだったろうが」

「……」

「一生で一度だけでいいと、思っただろうが」

「さあ、覚えてません」



*



「それ、どうしたの?」

「……何でもないです」

左近は握りしめたグラスを恨めしげににらんだが、それが消えるはずもない。何も考えず裏山まで来てしまったが、よりにもよって今この人に会わなくてもいいだろうに。左近は少し顔を上げ、高坂を見る。スーツ姿の見た目は清潔感のある男性だ。しかしどこかバカにするような視線に、思わずこちらの目も鋭くなる。

「お仕事熱心ですね」

「情報がすべてだからね」

「何か収穫はありましたか」

高坂はただ笑って返した。

この人のことを思い出せない。好きだと思うのは、今の自分だけなのだろうか。自分は本当に、昔の自分と違うのだろうか。

恋の色が、見えてこない。
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